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さて、何から書いたら良いものか。あらかじめ断っておくが、フィルモグラフィーなどを参考にしているわけでなく、記憶だけを頼りに漫然と書きつづっているので、おそらく色々勘違いもあると思う。怪獣映画とそれにまつわる想い出ということで御容赦願いたい。 一番古い怪獣映画的な記憶は渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治に関する映画だった。鬼が武士に切られた自分の腕を取り返しに来るというような筋立てで、タイトルも忘れてしまっている。昔のモノクロフィルムで特撮も凄いわけがないのだけれど、鬼が館に腕を取り戻しに来るというシチュエーションが怖くて、映画館の暗闇の中で息を潜めて見ていたのを覚えている。 東宝怪獣映画との出会いは小学生の頃の『妖星ゴラス』からだったと思う。これは東宝SF映画であって怪獣映画ではないと言う向きもあるだろうが、マグマというアザラシのような怪獣が出てくるので、自分の中では怪獣映画に分類されている。 さて、怪獣ブームが盛り上がり、テレビでは『ウルトラQ』の放映が始まった。毎週テレビで怪獣が見られるのかと、これにも夢中になった。まさに自分の目は自分の身体を離れて、この不思議な時間の中に入っていった。 『フランケンシュタイン対バラゴン』も怖かった。 ゴジラ映画以外で記憶に残っているものとしては、『マタンゴ』、『ドゴラ』、『海底軍艦』、また東宝以外のものでは『ガッパ』、『ギララ』、『大魔神』シリーズ、『大怪獣ガメラ』など。 『大魔神』も好きな特撮映画だ。あの埴輪の温厚を通り越して、間抜けな武人の顔が、緑色の怒った顔になる瞬間が夢に見るくらい怖かった。時代劇であることも怪獣映画とは異なる民話的な味わいを出していた。そしてやはりのたうつような伊福部節である。 テレビでは夏になるとハマープロの『ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』といった、納涼映画大会である。これも楽しみの一つだった。 とにかく子どもの頃から怪獣、怪物が出てくる映画、テレビドラマには目がなく、ノートにやたらと怪獣の絵を書き散らしていた。だから今も怪物や怪獣を描くのが面白くて仕方がない。トレカなどでも怪物をよく描かせてもらっているが、全く良い仕事を選んだものだ。 |
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自由業は自己管理能力を問われる職業だ。サラリーマンのように就業時間が決められているわけでもない。一日24時間が就業時間であり、逆にサボろうと思えばいくらでもサボる事は出来る。3日で集中して絵を描き上げて次の〆切近くになるまで遊んで暮らす、そういうこともやろうと思えば可能だ。これの欠点は丸一日遊ぶことを繰り返していると、次の絵に取りかかることが非常に億劫になることだ。要するに遊び癖が付いてしまう。 生活を朝型に切り替えてから毎日午前中は仕事があろうがなかろうが、とにかくなるべく机の前に座って絵を描くという習慣を付けるようにした。しかし、それでは遊びにゆくことが出来ないのではないか。いや、起床時間は5時、6時である。午後まで絵を描いていても昼以降は遊びにゆこうと思えば、出かけることが出来る。ただ、5時前後に起きる生活のため、だいたい17時までには夕食を済ませて、21時前後には寝てしまうので、普通の人とはなかなかリズムが合わない。「豆腐屋のような生活ですね」と言われてしまう。現在の町の豆腐屋さんが早起きかどうか定かではないが。 哲学者のカントも5時から起きて、勉強や講義をし、この人は食事らしい食事は13時頃にお昼御飯を食べるきりで、夕食は摂らなかったそうだ。そのために夕食を食い過ぎて頭が働かない、というようなこともなく、夜も読書や著述の時間に充てることが出来た。あまりにも厳格な毎日の規律を守るために、旅行にも出かけられなかったという。自分の学問を貫徹するため、そこまでやるとは大したものだ。 自分と女房とは生活時間帯が半日ほどずれているので、夕食は女房にとっては昼食にあたる時間らしい。夜中にお腹が空くのか、時々お菓子を囓ったりしていることもある。たまに絵描き仲間が集まって飲もうという時は、自分には夕食というより夜食の時間になってしまうことが多い。色々とややこしいが、まあ、仕方がない。なるべく規則正しい生活を守り、心身のコンディションをよい状態に維持して、自分が納得できる絵を描きたいと思っている。 こんな事を書いていると非常に生真面目なように思われるかも知れない。本人は単に楽なやり方を選んでいるだけなのだ。〆切直前に慌てて絵を描き始め、徹夜したりするのは非常に辛い。その後2、3日は調子が悪い。毎日コツコツ絵を進めていって、いつの間にか絵が出来上がるという方が、肉体的にも精神的にも楽だ。自分には瞬発力も根性もないので、持久力でまかなっている。結局、自分にとって楽なことを選んでいったら今の生活になったというわけだ。 もちろん、そんな時間に縛られた生活では、良い絵は描けない、もっと芸術家らしい?奔放な生活をしないとイマジネーションも湧いてこない、という人もいるだろう。人には人のやり方がある。そういう生き方も面白いと思うし、否定もしない。詩人のように毎日をフワフワと気まぐれに暮らしてゆけたら楽しいだろうな、などとも思う。というより、昔はそれに近い生活をしていた。明け方までオールナイトの映画を見て始発でアパートに帰り、酒を食らって夕方まで寝たりして、これぞ自由業の醍醐味、といい気になっていたものだ。まあ、これはこれで楽しかった。我ながら変われば変わるものだと思う。 描かれた絵さえ良ければ、生活が朝型だろうが、夜型だろうが構わない。イラストレーターは出来上がった絵が全てである。本当は大層な能書きや理屈、こんな文章も必要ない。芸術家を気取ってみたり、大風呂敷を広げてみたところで、絵がダメなら何を言おうが書こうが無駄だ。 それにしても、こんな仕事をしていると、傍目には随分気楽な商売に見えるらしい。法事などで実家に帰ると、集まった親族の方から「あんたか、自由気まま、好き勝手に生きているのは」などと言われることもある。それなら自分でやってご覧なさい、と言いたくなるのをぐっとこらえる。こういう方の頭の中には恐らく一昔前の無頼派の文士か、甘やかされたアイドルタレントのようなイメージでもあるのだろう。 上京当時は仕事もなくて、一日三食、何の具もないスパゲティばかりゆでて食べていたこともある。預金口座に残った500円がキャッシュカードでは引き出せなくて、判子と通帳を持って、その500円を窓口で下ろし、ようやくその日を凌いだこともある。ある程度、仕事が入るようになって生活できたとしても、先々、何の保証もない。 日記を読んでもらえば、取り立てて抜きんでた才能もない絵描きが、如何に毎日悪戦苦闘しているか、分かっていただけるかも知れない。一応プロとして生活しているイラストレーターといえど、それほど易々と絵を描いているわけではない。もちろん長年絵を描いてきているのだから、ある程度の段取りは分かっている。描き慣れたテーマ、モチーフならそれほど苦労することもない。 それが一般の人の目からは、好きなことをやってお金をもらって、なんの気苦労も無い脳天気な連中、とでも映るらしい。イラストレーターは「楽しい」職業ではあるけれど、世の中に「楽な」商売はない。 と言って、自分にサラリーマンが務まるかというと、確かにそれは難しい。学生時代に一度だけバイトなるものをやったことがある。中元シーズンのデパートの倉庫係だった。トラックで運ばれてきた荷物を指定されたところに運ぶというような仕事だったと思う。 気楽かどうかは別にして、とにかく自分のできるやり方で、世の中を渡ってゆくしかない。イラストレーターも仙人ではなく、やはりギャラをもらって食ってゆかなければならないし、仕事上のストレスも存在する。きれい事だけではなく、こういうこともきっちり言っておかないと、フェアではないだろう。絵を描くことを必要以上に美化したり神秘めかしたりするのは性に合わない。 そうは言っても、この職業は単なる金儲け以上の、物を創り出す喜びや楽しみがあることも間違いない。夢のない世の中である、自由業に関する幻想は幻想として、壊さずにおいた方が良いのかも知れない。 |
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| 朝方の生活に切り替えてから、もう何年にもなる。 5時から6時頃に起床、コーヒーを淹れてネットに入ったりして1時間ほどアイドリング、それから集中して絵を描き始める。12時を過ぎると疲れて絵を描くテンションもペースも大幅に落ちてくるので、13時頃からスポーツジムへ。プールで30分ほどゆっくりクロールで泳いでからウォーキングやジャグジーで身体を休めて帰宅、絵の続きを進める、そして夕食。食後風呂場にMDプレイヤーを持ち込んで落語を聞きながらいつの間にか浴槽で居眠り。浴後、仕事の詰まってない時は日本美術に関する本をメインにその後色んな本を読んで21時から22時頃就寝。まあ、そういう毎日である。 イラストレーターを目指して東京に出てきた頃は勿論こんな生活ではなかった。自由業のご多分に漏れず、宵っ張りの朝寝坊、いや、そんな生やさしいものではなくて、夕食後から明け方まで絵を描いて、寝る前に酒を飲み始めて仕上げにラーメンだの夜食(既に時間的には朝食なのだが)を掻き込んでバタンキュー。で、当然起きるのは昼過ぎとなる。また仕事が切羽詰まっている時は睡眠4時間、5時間で眠い目をこすりながら濃いコーヒーで無理矢理酔いの残る身体をたたき起こす。とにかく何だか酒を飲まずには眠れなくなってしまっていた。困ったのは午前中の宅急便の配達や郵便書留が滅多に受け取れなかったことである。 そういう生活が10年20年と続くとどうなるか。気が付くと学生の頃50キロほどだった体重はあっという間に70キロ、冗談抜きで自分の体重を支えるのが難儀になってきた。区の無料の健康診断を受けてみたところ、尿から糖が降りているとの結果、このままでは糖尿病にまっしぐらだ。夜食はホントに太ります。と、とにかく運動でもして痩せようとマンションの階段を上り下りしてみた。しかし膝が過剰な体重を支えきれずあえなくリタイア。ああ〜、一旦デブになった人間に付ける薬はないのであろうか。 そこでふと思いついたのが水泳である。水泳なら足に負担もかからない、全身運動だからカロリー消費量もすこぶる高い。そこでせっせとプールに通い始めた。しかし泳いだ後はけだるくてとてもじゃないが絵を描くことも難しい。まあ、泳ぎ始めた当初は平泳ぎで延々3時間とか無茶なことをやっていたこともあるんですけど。そこで思い切って生活を朝型に切り替えることにした。朝のうちにグワッと集中して絵を描いて午後から泳ぐ。もう夜型の生活が染みついている自分にそんなこと不可能じゃないかとも思ったが、人間やればやれるものですね。 70キロ近くだった体重が65キロ、60キロと徐々に落ち始め、現在は55キロ前後で落ち着いている。しかし生活を朝型に切り替えた時は自分でも仕事のペースが掴めないのと編集さんに連絡を取れないので参った。何故出版社の編集さんが捕まらないのか。それは「午前中に編集部に連絡しても誰もいない」のである。誰もいないといっては語弊があるが午前中の出版社は実動していない、その代わり明け方まで会社に泊まり込んだりされているのですが。しかしそりゃ仕方がない、肝心の作家さんイラストレーターさんの大半が午後からしか連絡が取れないのだから。つまり基本的にこの業界は夜型な訳ですね。 でも自分は現在のこの禅坊主のような朝型生活が気に入っており、これからもこの生活を続けるつもりです。 で、ダイエットに関しては長くなりそうなので、また稿を改めて。 |
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| 奈良市に在住の方ならこの「ささやきの小径(こみち)」という名前を御存知かも知れない。春日大社参道の脇道から志賀直哉旧居跡に抜ける短い散歩道である。
実家が奈良で、関西に帰るたびにこの小径を辿る。 そういう体験は侮れないもので、メディアワークスの「青の聖騎士伝説」という本の口絵のために森の絵を描いていた時、ずっと頭の中にささやきの小径が浮かんでいた。 さて、ささやきの小径から森の中に入ると、異様にうねった幹を持つ樹をよく見かける。 そういえば奈良公園のあちこちで藤を目にする。何故か。 しかし、こういう藤棚までしつらえられたものより、野生の藤の方が興趣は深い。 |
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![]() 最近愛用しているのが上のレンブラントの透明水彩ハーフパン木箱セットである。 「こんなものに12万もかけてどうする、今使っているチューブ入りのウィンザーニュートンの透明水彩で十分じゃないか」 レンブラントの木箱セットを皮切りに今度は画材の木箱セットというものに取り付かれたようで、ダーウェントの色鉛筆の木箱セット、カランダッシュの水彩色鉛筆の木箱セット、チューブ入り水彩絵の具の木箱セットという具合に仕事部屋が木箱セットだらけになってゆくのであった。
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室町幕府は関東にあったのだ、と長い間思い込んでいた。 ところが以前女房と一緒に京都の町をブラブラと歩いていたら、「室町通り」とかいう標識が目に付いた。 室町幕府がきっかけというわけではないが、数年前から寝る前に、日本美術や日本史に関する本を読むことにしている。一日に10ページ前後、原始時代から始めて江戸時代まで読み進めたら、また原始時代に戻って読み直す、それを何度も繰り返す。細かいことは覚えられないが、ざっとした流れは頭の中に入ってきたと思う。やはり室町幕府は京都にあったらしいですよ。 奈良に帰った時は興福寺や春日大社、東大寺を散歩がてらブラブラ歩く、寺や神社の生活感の無さが心地よい。法隆寺、唐招提寺、薬師寺、有名な神社仏閣の数々も電車を利用しなければならないものの、そう遠いところにあるわけでもない。そんな寺社にも実際に足を運んでみた。 まあ、単なる物好きと言えば物好きだが、知らないことが分かってくるということは楽しいものだ。お陰で落語に出てくる言葉などもよく分かるようになってきた。清水寺へ詣でて音羽(おとわ)の滝と横の茶店もしっかり見てきたので「はてなの茶碗」というネタ(導入部、清水寺の茶店が舞台となっている)が100パーセント楽しめる。 日本史、美術史をざっと通読してみると、後醍醐天皇が捨てがたい印象を残す南北朝時代、文化的には桃山時代あたりが面白い。特に桃山時代は織田信長、豊臣秀吉の天下統一によって戦乱に明け暮れた戦国時代にようやく終止符が打たれて、一種バブリーで浮かれた開放感が横溢しており、とても楽しそうなのだ。花見だ、歌舞伎だ、と民衆文化が一気に花開いた感があり、まさに「桃山」という名前に相応(ふさわ)しい。 これが江戸時代に突入するとがんじがらめの身分制度による徳川支配が始まって、何となく息苦しくてなってくる。どうもこの時、お上には逆らっても無駄、というようなアキラメが叩き込まれた気がしてならない。この時代に発達した浮世絵も人物の顔や色使いが今ひとつ好きになれないでいる。海外で収集されジャポニズムを巻き起こしたほどの浮世絵だから、もっとピンと来るものがあっても良いはずなのだが、それほど来ないものは仕方がない。北斎も芳年も上手いとは思うのだけれど…この辺り自分は版画より肉筆画の方が好きなのだろう。だから尾形光琳の肉筆画は好きである。 驚くべきは平安時代の源氏物語絵巻などの絵巻群で、あの屋根を取っ払った吹き抜け屋台の俯瞰描写はどう考えても奇妙で、唐突ですよ。一体誰が最初に思いついたんだろう。更に男絵、女絵といった呼び方があり、絵巻中の引目鈎鼻(ひきめかぎはな)のパターン化された容貌は女絵だったようで、いわば「少女漫画」というような絵のジャンルの成立を思わせる。女性による小説類は言うに及ばず日記文学の隆盛など、この時代は女流の時代だったようだ。これまた一つの不思議。 日記文学と言えば、自分の日記も含めてネット上で今日も更新されてゆく夥しい数の日記群も、新たなる日記文学の幕開けなのだろうか、などとふと思う。 それはそれとして、こういう日本美術に対する趣味が直ぐに自分の描く絵に影響を与えるものでもなかろうが、いつかは仏像だの十二神将だのをテーマにした絵でも描いてみたい、と密かに思ったりしている訳です。 |
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泳ぎ始めて7年くらいになるだろうか。 早朝から絵を描き続けて、午後を過ぎてくると、何やら頭がモヤモヤ、苛々としてくる。 というわけでジムに出かける。 初めのうちは公営プールで我流の平泳ぎを延々泳ぎ続けていた。この頃はリラクセーションより体重を減らすのが目的だった。しかし公営プールは夏は異常に混み合う。隣のコースで泳いでいた鯨のような体型のおばさまの平泳ぎキックを腕に食らってから、公営プールに見切りを付けて池袋にあるスポーツクラブのスイミングレッスンの受講生となった。ここでクロールを基礎から習い始め、レッスンのカリキュラム半ばにクラブのメンバーとなり、プライベートレッスンを受けて何とかクイックターンをマスターするところまで漕ぎ着けた。子供の頃からクロールは泳げるようになりたかったのだ。 プライベートレッスンの一番最初、女性インストラクターさんに「普通のクロールが良いですか?それとも長く泳げる泳ぎが良いですか?」とか尋ねられた。泳いで痩せようと言うのだから長時間の有酸素運動で脂肪を燃焼させるのが一番だ、ためらいなく「長く泳げる方法を」と応えた。 一般的なクロールは大体6ビートが基本で、両腕をひと掻きする間にキックを6回打つ。これを2回で済ますのが2ビート泳法だ。2ビートのクロールを水中で見ていれば、ちょうど陸上を歩くようなテンポとタイミングでキックを打っているのが分かるはずだ。スピードは出ないがキックを抑えた分疲れが少ない。泳ぐと言うより水中を寝ころんで散歩しているような感じだ。 プールで泳いでいると、「いつも楽そうに、気持ちよさそうに泳いでますね」と時々声をかけられることがある。その通り、とても楽で気持ちも良い。何メートル泳ぐというのでなくて、30分と時間を決めている、疲れてきたなと思ったら楽なペースに落してさぼればよい。60分泳いでいた時もあったが、手を抜いて泳いでも翌日に疲れが残ることが多かったので、今は30分以上は連続して泳がないようにしている。無理は禁物である。 しかし何事も思い切ってやり始めてみるものだ。知識を増やして色々なことが分かってくるのも楽しいが、出来ないことが出来るようになるのも嬉しい。将来は何か楽器を演奏できるようになりたいと願っている。小学生の頃好きだったドリトル先生のように。 さて、この雑文を終えるにあたり、クラブで自分を根気強く指導してくれた石田インストラクターに一言お礼を述べておく。 貴女が教えてくれた2ビートのクロールで、今日も私は泳いでいる。 |
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アニメージュ文庫に「作画汗まみれ」という本がある。その中に著者のアニメーター大塚康夫氏が「石にかじりついてでも、人より多く枚数を描くことしか、人よりうまくなる方法はない」という先輩のちらっと漏らした言葉を聞いて「実行してみよう」と決心する下りがある。 そこを読んでいて、自分は「う〜ん、そりゃそうだけど、なかなか出来る事じゃないよな」と思った。後年、そんなことを本当に実行している男に出会った。ウソみたいに絵が上手かった。 男の名前は寺田克也という。 彼の絵に対する好き嫌いは別れるところかも知れない。しかし、絵を描くことの情熱と努力には頭が下がる。 けれども私は、諦めない。 遅まきながら自分も「石にかじりついてでも、人より多く描こう」と決心した。天才でもない自分にはそれしか上手くなる方法はない。なかなか上手くはならないが、今からでも遅くはないだろう。 本当は石にかじりついてはいけないのかも知れない。そういう熱い情熱は長続きしない。 |
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人並み程度においしい物は好きである。しかし蟹がおいしいから北海道へグルメツアーに行こうとか、そういう発想や根性はあまりない。まあ面倒臭いということに尽きる。グルメな友人や先輩においしい店を教えて貰って時々食べに行く、今はその程度で満足している。 高校生くらいの時、夏休みに大阪の親戚の子供2人が2、3日遊びに来たことがある。まあ、都会の子供が田舎に来たのだから、喜びそうなもてなしをしてあげようと、早朝からクワガタムシやカブトムシを一緒に取りに行ったりして遊んであげた。 子供達が大阪に帰ってから、その親御さんから電話が架かってきた。そちらで何を食べさせたのか、と尋ねるのである。 話しているうちに理由は次のようなことに落ち着いた。 まさに空腹は最上のソースであるという箴言(しんげん)の見本のようであった。 人間とは天の邪鬼なもので、常人には到達し得ないような深遠なグルメの講釈を聞かされると、もう分かった分かった、フォアグラがどうした、キャビアがどうした、コンビニのおにぎりで十分おいしいじゃないか、などとつい反発したくなる。 しかしその一方で、きちんとした日本料理屋でおいしい刺身を食べて、その味を知っていると、スーパーのパック入り刺身にげんなりする。 まあ、グルメの達人になろうという志があるわけでなし、普段はそれなりの料理を食べていて、時々おいしいレストランや料理屋で味を楽しむ。自分のような庶民はそれで十分なのだろう。 |
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長年使っているアルシュというフランスの水彩紙の裏表が未だに分からずに困っている。 この辺り絵を描いている方でないと理解しにくいとは思うが、表のはずの紙の表面はあまりにも凸凹が均質すぎる。ケント紙の裏面と近い感触なのである。また、強度も弱いし、発色も今ひとつの感が強い。 アルシュを使っているイラストレーターの友人は多い、尋ねてみるとみんな透かしがキチンと読める方に描いている。「当たり前だよね」と揃って自信ありげである。ますます困惑する。 そんな話をしていると、ある漫画家さんに「そりゃぁ米田さん、そういう時は『アルシュはやっぱり裏に限るねぇ』と言っとけば良いんですよ」というアドバイスを受けた。なかなか秀逸なアドバイスだと思うが、それではやはり自分はずっと裏に描いてきて、未だに裏に描き続けているということなのだろうか。 ただ、何かの画材の本で、たまに透かしの文字が裏に読める方が紙の表という場合もある、というような記事を読んだ記憶もあり、もしかしてそういう特殊なケースなのかとも思っているのである。 裏にせよ表にせよ、長年そちらの方で描き慣れているので今更変えることもないとは思うが、どなたか本当のところを御存知の方はおられぬだろうか。 |
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画材に関して一貫して使い続けているのは透明水彩とガッシュである、それにパソコン(マッキントッシュ)が加わる。最近気になっているのは水彩色鉛筆。しかしこれも買ってはみたものの、なかなか出番がない。面白そうな絵が描けるような気がするのだが。 不透明絵の具で厚塗りするような場合はガッシュやリキテックスより、本当は油彩が一番描きやすい。色の豊富さ、ぼかしたり、全く違う色相の色を馴染ませるなど、アクリル絵の具では苦労することが油彩では払拭される。ガッシュのように粉っぽくもならない。水彩の仕上げだけ油彩で出来ないかとも考えるのだが、乾きの遅さや扱いの面倒さを考えると、やはり難しい。油分も紙の裏まで通ってしまうだろう。 技術、腕さえあれば画材は何でも良いという考え方もある。しかし人によって画材との相性というものはあるようで、自分もエアブラシ、アクリル絵の具、パソコンのお絵かきソフト(PAINTER)など色々探っては来たが、結局、今のところ水彩で落ち着いている。 とは言え画材を替えることによって、絵がもっと良くなるという可能性もある。だから使ったことのない画材も仕事を離れた絵では、試したりもしている。いずれにせよ画材にはそれぞれ固有の持ち味というものがあり、絵の印象は画材によっても大きく変わる。気を配るべきであろう。 一時はパソコンで絵を描くのが面白くてむやみにパソコンを使っていた。しかし最近はCGで完成原稿まで仕上げることは少なくなってきた。 CGでイラストをお描きの伊藤ヨウコウさんに話を伺うと、データ入稿は信用できない、CGのデータは全てピクトロで出力したものを印刷原稿として渡していると言う。確かにデータを直接持ち込むより、プリントアウトしたものを印刷に回す方が落差は少ないだろう。 しかし寺田さんも所有しているピクトログラフィなる高性能プリンタは、100万円くらいしたはずだ。伊藤ヨウコウさんは「貰った」という。 もう一つはポスターなどに使うようなサイズの大きな絵の場合、データが膨大になり過ぎる。途中経過を保存するだけでも時間がかかってイライラさせられる。 そしてこれは全く感覚的なことなのだけれど、「原画」がないというのが少し寂しいのである。グループ展を開催して、額装された仲間の絵を見て回った時「やっぱり原画があるのって良いな」と率直に思った。そういうこだわりが抜けきれないところはアナログ人間なのだろう。だから原画を紛失された時のショックは大きい。原画だけはなくさぬようにくれぐれも速やかに御返却下さい、と仕事先の皆様には改めてお願いしておく。 ラフ段階で絵の構図や人物のコスチューム、デザインを練り上げてゆくのはパソコンの方が圧倒的にやりやすい。ギャラリーで解説したようにラフや下書きの一歩手前まではほとんどパソコンでやってしまう。 特殊効果や特別な質感が必要な場合、そういう効果を優先するときはパソコンで最後まで描き上げる事もある。また色使いに迷ったときのシミュレートにも重宝している。 この雑文のアップ後、しばらくして、寺田さんからメールが届いた。 まずピクトロの値段。100万円どころではなく、当時の定価で300万円以上したそうだ。 ただ、寺田さんの話では、廉価なインクジェット方式プリンターの性能が上がったので、そちらの方がピクトロよりきれいという。確かに最近の2万くらいのプリンタでも、6色のインクを使っている。それに比べて、大手の通常印刷は4色。こう書けば賢明な読者には、もうお分かりだろう。 また、絵の発注時に仕事先から「CGでのデータ入校の場合はCMYKでお願いします」と言われることや、そういう注意書きを添えられることが多い。しかし寺田さんは全ての原稿データをRGBで渡しているという。製版のひとの腕に任せて、あとは色校で合わせていく。アナログの場合でも原稿の色調がそのまま綺麗に出ることはない。データ入稿での多少の色の転びなどはあまり気にしない、ということだ。 以上、寺田さんからの情報を、脚注として補足させて戴いた、有り難う、猿王殿。 |
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中学、高校は大阪の星光学院という男子校に通っていた。 しかし泉谷先生は学生の頃、先生から言われた「よく遊び、よく学べ」という言葉を真に受けて、いや、実践しようと決めて、昼間は散々遊び、夜は深夜に及ぶまで勉学に励み、毎日4時間ほどしか眠らぬ生活を続けたという。 泉谷先生の生物の授業が「世界一」かどうかは分からないが、毎週一度、2時間ぶっ通しの枠で、実験の授業があった。4、5人のチームに別れて顕微鏡をしかめっ面で交代に覗く。生物の教科書に載っている実験はほとんどやらされた。 例えばプラナリアという非常に再生力の強い小さな扁形動物がいる。泉谷先生と有志の生徒が授業のためにわざわざ川で捕獲してきた、そのプラナリアをカミソリで様々な角度に切り刻み、小さな飼料を与えて恒温室というか保温庫に入れておく。(驚くべし、巨大な冷蔵庫のような、そういう設備があったのである)そして何日か後に切り口に出来てきた再生芽を観察する。 その他、ペーパークロマトグラフィーがどうのとか、ユスリカの唾液腺染色体地図とかいうものまで作らされた。勿論ユスリカの唾液腺染色体だかを実際に顕微鏡で観察しながら描き込んでゆくのである。 生物の先生は3人いたが、泉谷先生は京大出身、もう一人かなり老齢の田中という東大出身の先生がいて、おかしいのはその2人の先生が何となく張り合っていたことだ。 後日、結婚してから何かの話のついでに、そういえば高校の生物の授業で、こういう実験やったよな、とか言うと女房は、 泉谷先生は戦争中の学徒動員の際、「学生の本分は勉強にある」と抵抗し、留置所にぶち込まれたそうである。そういう気骨のある人が日本にも居たということは記憶に止めておきたい。 星光学院はキリスト教系の学校で、夏の制服の胸元には、涼しげな紺色で「SalesianSchool(サレジアンスクール)」とかいう文字の縫い取りがあった。校舎の玄関にはサレジオ会の創設者ドン・ボスコというイタリア人のレリーフが飾られていた。当時は何のことだか分からなかったが、このオジサンがカトリックの司祭であり教育家であったらしく、サレジオ会は世界各国に教育施設を設立しているそうだ。 毎朝、教室で行われる通常の朝礼では全員起立して、十字を切った後、「天にまします我らの父よ」から始まる主祷文を唱える。それからおもむろに詰め襟のような神父服を着た校長先生の訓話が各教室のスピーカーから流れてくる。講堂では時々ミサが行われていた。 高校の時には美術部の部員だったが、 生徒の方も、陰に回れば気に入らぬ先生のことを「何や、あの先公(せんこう)は〜」と、悪態をついていた。そうは言っても他の学校に比べれば可愛いものだったろう。星光学院の生徒は大人しかったせいか、他校の不良生徒から良くカツアゲ(恐喝の隠語)に会っていたようだ。 とにかく私学だけあって、生物教室、音楽教室、英語のLL教室など、設備だけはやたらと充実しており、校舎の廊下や階段、トイレも掃除のおばちゃんたちによって、いつも綺麗に掃き清められていた。 そして、何とか高校を卒業して、めでたく京都芸大に合格した自分は愕然とすることになる。小綺麗な星光学院に比べると、まさにカオスのような乱雑さが支配した、設備も「何もない」とんでもない大学だったのだ。この京都芸大での奮闘については、いずれ項を改めて書くことにしよう。 |
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数年前に父が死んだ。83歳だった。 働き盛りの頃、身体を壊して勤めていた銀行を退社した、と母から聞いている。だから人一倍健康には気を使っていた。青竹踏み運動をし、自分で漬け込んだニンニク酒を盃に1杯、毎晩欠かさず飲んでいた。食事にも気を付けて努めて野菜を摂るようにしていた。 その父が晩年、急に脂っこい物ばかり食べ始めた。それが自分には不思議であった。たまに実家に帰ると、最近父がお昼にウナギの蒲焼きだのこってりした物を買ってきて、二人前もぺろりと平らげる、と母は困り顔だった。 そして脳梗塞で入院、リハビリを始めたものの、梗塞が再発、病院のベッドで寝たきりとなった。そして心筋梗塞を併発し、苦しんだ上に苦しんで死んでいった。医者の説明によると高脂血症のため血液もドロドロになっていたという。やはり脂肪分を摂りすぎていたのだろう。 実は、脳梗塞で倒れる何年か前に、胆嚢を患って入院している。その時母はガンを疑い、覚悟を決めていたらしい。しかしガンではなかったようで無事退院した。 高齢での入院。ヒタヒタ押し寄せる死を身近に感じたかも知れない。 本は岩波新書のベストセラー『大往生』だった。 父はあれだけ身体に気を使いながら、最後の最後で「好きなものを好きなだけ食べる」という選択をした。誰に強いられたわけでなく、自分で選んだのだから、それで良かったのだと思う。 ただ、自分は父とは違う選択をしたい。取りあえず今は、そう思っている。 |
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