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怪獣使いと少年

 さて、何から書いたら良いものか。あらかじめ断っておくが、フィルモグラフィーなどを参考にしているわけでなく、記憶だけを頼りに漫然と書きつづっているので、おそらく色々勘違いもあると思う。怪獣映画とそれにまつわる想い出ということで御容赦願いたい。

 一番古い怪獣映画的な記憶は渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治に関する映画だった。鬼が武士に切られた自分の腕を取り返しに来るというような筋立てで、タイトルも忘れてしまっている。昔のモノクロフィルムで特撮も凄いわけがないのだけれど、鬼が館に腕を取り戻しに来るというシチュエーションが怖くて、映画館の暗闇の中で息を潜めて見ていたのを覚えている。

 東宝怪獣映画との出会いは小学生の頃の『妖星ゴラス』からだったと思う。これは東宝SF映画であって怪獣映画ではないと言う向きもあるだろうが、マグマというアザラシのような怪獣が出てくるので、自分の中では怪獣映画に分類されている。
 そして『ゴラス』の後に、『モスラ』『モスラ対ゴジラ』『キングコング対ゴジラ』『地球最大の決戦』などと続く。劇中に流れる音楽が印象的で、何とかこの旋律を吹き当てたいとハーモニカや縦笛で一生懸命再現しようとした。
 今から思えば、それはゴジラ、ラドンのテーマであり、自衛隊のマーチだったようだ。
 話は逸れるが、東宝怪獣映画に曲を提供していた伊福部昭氏の近影写真を見ると、いつもきっちりとしたスーツにボウタイで写っている。子供の頃夢中になった怪獣映画とその映画音楽の作曲者に敬意を表して…という訳ではないのだが、時々自分がスーツ姿に蝶ネクタイをしているのは、氏の影響でもある。

 さて、怪獣ブームが盛り上がり、テレビでは『ウルトラQ』の放映が始まった。毎週テレビで怪獣が見られるのかと、これにも夢中になった。まさに自分の目は自分の身体を離れて、この不思議な時間の中に入っていった。
 特にペギラの眠そうな目とガラモンの歩き方が印象的で、ガラモンの歩き方を再現するため、鏡の前に立ち、手をだらりと前に垂らして「がしゃ、がしゃ」と口で歩行音を真似しながら、その練習に余念がなかった。そうかと思うと学校の掃除時間には、友達と『サンダ対ガイラ』ごっこなんかもやっていた。どんな子供や〜。

 『フランケンシュタイン対バラゴン』も怖かった。
 そして『怪獣大戦争』あたりで何となく怪獣映画からは離れてしまった。小学校卒業という年齢的なこともあり、親が怪獣映画を観に連れていってくれなくなったこともある。シェーをするゴジラを見て「何か違うな」と思った気もする。

 ゴジラ映画以外で記憶に残っているものとしては、『マタンゴ』、『ドゴラ』、『海底軍艦』、また東宝以外のものでは『ガッパ』、『ギララ』、『大魔神』シリーズ、『大怪獣ガメラ』など。
 『海底軍艦』の轟天号もインパクトがあった。轟天号のプラモデルを作って風呂場でよく遊んだ。しかし劇中に登場したムーの守護神マンダは全然強そうじゃなくて、子供心に情けなかった。残念なのは『空の大怪獣ラドン』や東宝SF映画の名作『地球防衛軍』を見逃していることだ。子どもの頃に見ていたらどんな感想を抱いただろう。

 『大魔神』も好きな特撮映画だ。あの埴輪の温厚を通り越して、間抜けな武人の顔が、緑色の怒った顔になる瞬間が夢に見るくらい怖かった。時代劇であることも怪獣映画とは異なる民話的な味わいを出していた。そしてやはりのたうつような伊福部節である。
 で、同じ伊福部節の東映長篇動画『わんぱく王子の大蛇退治』も何となく、怪獣映画のように思っている。あのラストのやまたの大蛇とスサノオの空中戦は怪獣映画以外の何ものであろうか。

 テレビでは夏になるとハマープロの『ドラキュラ』、『フランケンシュタイン』といった、納涼映画大会である。これも楽しみの一つだった。
 あのユニバーサル映画のフランケンシュタインのメイクには、今でも感心する。スペシャルメイクなどさほど発達していなかったであろうあの時代に、あのシンプルな造形は怪物の異形さだけでなく哀しみすら漂わせている。

 とにかく子どもの頃から怪獣、怪物が出てくる映画、テレビドラマには目がなく、ノートにやたらと怪獣の絵を書き散らしていた。だから今も怪物や怪獣を描くのが面白くて仕方がない。トレカなどでも怪物をよく描かせてもらっているが、全く良い仕事を選んだものだ。
 怪獣映画の昂奮は今では実写よりも、むしろよく作り込まれたロボットアニメなどの方に見いだされるのかも知れない。願わくば日本の怪獣映画が昔日の昂奮と輝きを取り戻さんことを!

イラストレーターという職業

 自由業は自己管理能力を問われる職業だ。サラリーマンのように就業時間が決められているわけでもない。一日24時間が就業時間であり、逆にサボろうと思えばいくらでもサボる事は出来る。3日で集中して絵を描き上げて次の〆切近くになるまで遊んで暮らす、そういうこともやろうと思えば可能だ。これの欠点は丸一日遊ぶことを繰り返していると、次の絵に取りかかることが非常に億劫になることだ。要するに遊び癖が付いてしまう。

 生活を朝型に切り替えてから毎日午前中は仕事があろうがなかろうが、とにかくなるべく机の前に座って絵を描くという習慣を付けるようにした。しかし、それでは遊びにゆくことが出来ないのではないか。いや、起床時間は5時、6時である。午後まで絵を描いていても昼以降は遊びにゆこうと思えば、出かけることが出来る。ただ、5時前後に起きる生活のため、だいたい17時までには夕食を済ませて、21時前後には寝てしまうので、普通の人とはなかなかリズムが合わない。「豆腐屋のような生活ですね」と言われてしまう。現在の町の豆腐屋さんが早起きかどうか定かではないが。

 哲学者のカントも5時から起きて、勉強や講義をし、この人は食事らしい食事は13時頃にお昼御飯を食べるきりで、夕食は摂らなかったそうだ。そのために夕食を食い過ぎて頭が働かない、というようなこともなく、夜も読書や著述の時間に充てることが出来た。あまりにも厳格な毎日の規律を守るために、旅行にも出かけられなかったという。自分の学問を貫徹するため、そこまでやるとは大したものだ。

 自分と女房とは生活時間帯が半日ほどずれているので、夕食は女房にとっては昼食にあたる時間らしい。夜中にお腹が空くのか、時々お菓子を囓ったりしていることもある。たまに絵描き仲間が集まって飲もうという時は、自分には夕食というより夜食の時間になってしまうことが多い。色々とややこしいが、まあ、仕方がない。なるべく規則正しい生活を守り、心身のコンディションをよい状態に維持して、自分が納得できる絵を描きたいと思っている。

 こんな事を書いていると非常に生真面目なように思われるかも知れない。本人は単に楽なやり方を選んでいるだけなのだ。〆切直前に慌てて絵を描き始め、徹夜したりするのは非常に辛い。その後2、3日は調子が悪い。毎日コツコツ絵を進めていって、いつの間にか絵が出来上がるという方が、肉体的にも精神的にも楽だ。自分には瞬発力も根性もないので、持久力でまかなっている。結局、自分にとって楽なことを選んでいったら今の生活になったというわけだ。

 もちろん、そんな時間に縛られた生活では、良い絵は描けない、もっと芸術家らしい?奔放な生活をしないとイマジネーションも湧いてこない、という人もいるだろう。人には人のやり方がある。そういう生き方も面白いと思うし、否定もしない。詩人のように毎日をフワフワと気まぐれに暮らしてゆけたら楽しいだろうな、などとも思う。というより、昔はそれに近い生活をしていた。明け方までオールナイトの映画を見て始発でアパートに帰り、酒を食らって夕方まで寝たりして、これぞ自由業の醍醐味、といい気になっていたものだ。まあ、これはこれで楽しかった。我ながら変われば変わるものだと思う。

 描かれた絵さえ良ければ、生活が朝型だろうが、夜型だろうが構わない。イラストレーターは出来上がった絵が全てである。本当は大層な能書きや理屈、こんな文章も必要ない。芸術家を気取ってみたり、大風呂敷を広げてみたところで、絵がダメなら何を言おうが書こうが無駄だ。

 それにしても、こんな仕事をしていると、傍目には随分気楽な商売に見えるらしい。法事などで実家に帰ると、集まった親族の方から「あんたか、自由気まま、好き勝手に生きているのは」などと言われることもある。それなら自分でやってご覧なさい、と言いたくなるのをぐっとこらえる。こういう方の頭の中には恐らく一昔前の無頼派の文士か、甘やかされたアイドルタレントのようなイメージでもあるのだろう。

 上京当時は仕事もなくて、一日三食、何の具もないスパゲティばかりゆでて食べていたこともある。預金口座に残った500円がキャッシュカードでは引き出せなくて、判子と通帳を持って、その500円を窓口で下ろし、ようやくその日を凌いだこともある。ある程度、仕事が入るようになって生活できたとしても、先々、何の保証もない。

 日記を読んでもらえば、取り立てて抜きんでた才能もない絵描きが、如何に毎日悪戦苦闘しているか、分かっていただけるかも知れない。一応プロとして生活しているイラストレーターといえど、それほど易々と絵を描いているわけではない。もちろん長年絵を描いてきているのだから、ある程度の段取りは分かっている。描き慣れたテーマ、モチーフならそれほど苦労することもない。
 しかしそういったルーティンワークに陥った絵はマンネリをもたらす危険もある。また絵のモチーフによって、どうすればうまく描けるのか悩むこともある。それやこれやを含めて、プロといえども試行錯誤の連続なのである。

 それが一般の人の目からは、好きなことをやってお金をもらって、なんの気苦労も無い脳天気な連中、とでも映るらしい。イラストレーターは「楽しい」職業ではあるけれど、世の中に「楽な」商売はない。

 と言って、自分にサラリーマンが務まるかというと、確かにそれは難しい。学生時代に一度だけバイトなるものをやったことがある。中元シーズンのデパートの倉庫係だった。トラックで運ばれてきた荷物を指定されたところに運ぶというような仕事だったと思う。
 トラックが四六時中やってくるわけではなく、暇な時もかなりある。そういう手すきの時間に文庫本を読んでいたら、係りの社員に咎められた。世に三日坊主という言葉はあるけれど、2日で止めた。
 現在の仕事は自分の時間を自分のやりたい方法で配分することが出来る。時間を自分でどう使おうが、要するに〆切にさえ間に合わせればよいのだ(それがなかなか難しかったりするのだが)。手すきの時間に本を読むのもゲームをやるのも自由である。

 気楽かどうかは別にして、とにかく自分のできるやり方で、世の中を渡ってゆくしかない。イラストレーターも仙人ではなく、やはりギャラをもらって食ってゆかなければならないし、仕事上のストレスも存在する。きれい事だけではなく、こういうこともきっちり言っておかないと、フェアではないだろう。絵を描くことを必要以上に美化したり神秘めかしたりするのは性に合わない。

 そうは言っても、この職業は単なる金儲け以上の、物を創り出す喜びや楽しみがあることも間違いない。夢のない世の中である、自由業に関する幻想は幻想として、壊さずにおいた方が良いのかも知れない。

早起きは三文の得か?
 朝方の生活に切り替えてから、もう何年にもなる。
 5時から6時頃に起床、コーヒーを淹れてネットに入ったりして1時間ほどアイドリング、それから集中して絵を描き始める。12時を過ぎると疲れて絵を描くテンションもペースも大幅に落ちてくるので、13時頃からスポーツジムへ。プールで30分ほどゆっくりクロールで泳いでからウォーキングやジャグジーで身体を休めて帰宅、絵の続きを進める、そして夕食。食後風呂場にMDプレイヤーを持ち込んで落語を聞きながらいつの間にか浴槽で居眠り。浴後、仕事の詰まってない時は日本美術に関する本をメインにその後色んな本を読んで21時から22時頃就寝。まあ、そういう毎日である。

 イラストレーターを目指して東京に出てきた頃は勿論こんな生活ではなかった。自由業のご多分に漏れず、宵っ張りの朝寝坊、いや、そんな生やさしいものではなくて、夕食後から明け方まで絵を描いて、寝る前に酒を飲み始めて仕上げにラーメンだの夜食(既に時間的には朝食なのだが)を掻き込んでバタンキュー。で、当然起きるのは昼過ぎとなる。また仕事が切羽詰まっている時は睡眠4時間、5時間で眠い目をこすりながら濃いコーヒーで無理矢理酔いの残る身体をたたき起こす。とにかく何だか酒を飲まずには眠れなくなってしまっていた。困ったのは午前中の宅急便の配達や郵便書留が滅多に受け取れなかったことである。

 そういう生活が10年20年と続くとどうなるか。気が付くと学生の頃50キロほどだった体重はあっという間に70キロ、冗談抜きで自分の体重を支えるのが難儀になってきた。区の無料の健康診断を受けてみたところ、尿から糖が降りているとの結果、このままでは糖尿病にまっしぐらだ。夜食はホントに太ります。と、とにかく運動でもして痩せようとマンションの階段を上り下りしてみた。しかし膝が過剰な体重を支えきれずあえなくリタイア。ああ〜、一旦デブになった人間に付ける薬はないのであろうか。

 そこでふと思いついたのが水泳である。水泳なら足に負担もかからない、全身運動だからカロリー消費量もすこぶる高い。そこでせっせとプールに通い始めた。しかし泳いだ後はけだるくてとてもじゃないが絵を描くことも難しい。まあ、泳ぎ始めた当初は平泳ぎで延々3時間とか無茶なことをやっていたこともあるんですけど。そこで思い切って生活を朝型に切り替えることにした。朝のうちにグワッと集中して絵を描いて午後から泳ぐ。もう夜型の生活が染みついている自分にそんなこと不可能じゃないかとも思ったが、人間やればやれるものですね。

 70キロ近くだった体重が65キロ、60キロと徐々に落ち始め、現在は55キロ前後で落ち着いている。しかし生活を朝型に切り替えた時は自分でも仕事のペースが掴めないのと編集さんに連絡を取れないので参った。何故出版社の編集さんが捕まらないのか。それは「午前中に編集部に連絡しても誰もいない」のである。誰もいないといっては語弊があるが午前中の出版社は実動していない、その代わり明け方まで会社に泊まり込んだりされているのですが。しかしそりゃ仕方がない、肝心の作家さんイラストレーターさんの大半が午後からしか連絡が取れないのだから。つまり基本的にこの業界は夜型な訳ですね。

 でも自分は現在のこの禅坊主のような朝型生活が気に入っており、これからもこの生活を続けるつもりです。
 で、ダイエットに関しては長くなりそうなので、また稿を改めて。
ささやきの小径
 奈良市に在住の方ならこの「ささやきの小径(こみち)」という名前を御存知かも知れない。春日大社参道の脇道から志賀直哉旧居跡に抜ける短い散歩道である。

 実家が奈良で、関西に帰るたびにこの小径を辿る。
 初めて足を踏み入れた時はコロー(19世紀フランスのバルビゾン派画家)の風景画の中にさ迷い込んだのか、と思った。
 小さな道の両脇から馬酔木がアーチを作り、めくるめくような木漏れ日がこぼれている。
 時折目の前をさっと鹿が横切ってゆく。
 早春に訪れると鶯がまだ下手くそな歌の練習を聞かせてくれる。
 この辺りを散策していて樹や森を描くのが好きになった。

 そういう体験は侮れないもので、メディアワークスの「青の聖騎士伝説」という本の口絵のために森の絵を描いていた時、ずっと頭の中にささやきの小径が浮かんでいた。
 描き上げて、ほっと距離を置いて見直すと、絵の中から森の大気まで感じられるような良い絵になった(と思う)。
 改めて写真集とかの資料だけではなく、実感のようなものが大切なのだな、と気付かされた。

 さて、ささやきの小径から森の中に入ると、異様にうねった幹を持つ樹をよく見かける。
 蔓というには太すぎるうねった触手を他の木々に巻き付けている。何だ、これは。
 何だか分からないけど、凄く絵になるのである。
 春になって、うねる樹が花を付けた時、ようやくそれが何か分かった。
 野生の藤だったのだ。

 そういえば奈良公園のあちこちで藤を目にする。何故か。
 平城京という都は奈良時代に圧倒的な権勢を誇った藤原不比等が作ったようなものだったらしい、だから「藤原」の姓の一部でもある藤が非常に大事にされたという。
 藤原氏の氏社でもある春日大社の境内には「砂ずりの藤」なる名代の藤も大切に守られている。

 しかし、こういう藤棚までしつらえられたものより、野生の藤の方が興趣は深い。
 わざわざアイルランドまで足を運ばずとも、日本にも幻想的な風景があり、ファンタジーを描くことは出来るのである。

画材の話(天の巻)
 

 最近愛用しているのが上のレンブラントの透明水彩ハーフパン木箱セットである。
 銀座の伊東屋で見かけてショーウィンドウから立ち去れなくなった。12万円という値札に腕組みをして煩悶すること小一時間。

 「こんなものに12万もかけてどうする、今使っているチューブ入りのウィンザーニュートンの透明水彩で十分じゃないか」
 「あ、あのですね、あなた、そうおっしゃいますが、プロだからこそ道具には拘るべきではないのでしょうか」
 「昔から弘法筆を選ばずという言葉もあるしな」
 「そうは言ってもですね、毎日使うものですし、もうこの歳になったらそれくらいの贅沢はですね、何というか大人の遊び心とでも申しましょうか、それに画材は必要経費として落ちるわけですし」
 「う〜ん、しかし」
 「それにほら、この飴色の光沢といい木目と言い、何とも言えない雰囲気を醸し出しているじゃありませんか」
 「う、まあ、それは…」
 「ほ〜らほら、これで気持ちよく描くことが出来るなら、12万なんてあなた、安い安い、安い〜安い〜」
 物欲に負けて買ってしまったが、まあ、元は十分取れたと思う。
 木とか革製の箱に弱くて、一時は革鞄に取り付かれてクローゼットは色んな革鞄で一杯になっている。

 レンブラントの木箱セットを皮切りに今度は画材の木箱セットというものに取り付かれたようで、ダーウェントの色鉛筆の木箱セット、カランダッシュの水彩色鉛筆の木箱セット、チューブ入り水彩絵の具の木箱セットという具合に仕事部屋が木箱セットだらけになってゆくのであった。

 左はレンブラントの透明水彩木箱セットと双璧をなす、ファーバーカステル社のシリアルナンバー付き限定品という御大層なパステル・色鉛筆・水彩色鉛筆の合体木箱セット。

 だが、ほとんど使われた形跡はない。どうやらパステルは性に合わないらしい…未だに元は取れていない…

 右はelcoとかいう商品名のドイツ製のセーブル筆、お世辞にも持ちやすいとは言えない。

 「でも、ほ〜らほら、旦那さん、このずんぐりとしたシルエット、ナチュラルな木目、まったりとしたお尻のラインと金色の処理、これで気持ちよく絵が描けるなら…」

日本美術入門

 室町幕府は関東にあったのだ、と長い間思い込んでいた。

 ところが以前女房と一緒に京都の町をブラブラと歩いていたら、「室町通り」とかいう標識が目に付いた。
 え、じゃ室町時代の室町幕府って京都にあったの?
 そりゃそうだ、よく考えたら足利義満の別荘も金閣寺だ、室町幕府が関東にあったなら将軍がぶらっと遊びに行くには遠すぎる、修学旅行じゃあないんだから。
 なまじ鎌倉幕府が関東にあったものだから、何となく室町幕府もその延長で関東にあるような気がしていたという事らしい。知らないということは恐ろしい。

 室町幕府がきっかけというわけではないが、数年前から寝る前に、日本美術や日本史に関する本を読むことにしている。一日に10ページ前後、原始時代から始めて江戸時代まで読み進めたら、また原始時代に戻って読み直す、それを何度も繰り返す。細かいことは覚えられないが、ざっとした流れは頭の中に入ってきたと思う。やはり室町幕府は京都にあったらしいですよ。

 奈良に帰った時は興福寺や春日大社、東大寺を散歩がてらブラブラ歩く、寺や神社の生活感の無さが心地よい。法隆寺、唐招提寺、薬師寺、有名な神社仏閣の数々も電車を利用しなければならないものの、そう遠いところにあるわけでもない。そんな寺社にも実際に足を運んでみた。

 まあ、単なる物好きと言えば物好きだが、知らないことが分かってくるということは楽しいものだ。お陰で落語に出てくる言葉などもよく分かるようになってきた。清水寺へ詣でて音羽(おとわ)の滝と横の茶店もしっかり見てきたので「はてなの茶碗」というネタ(導入部、清水寺の茶店が舞台となっている)が100パーセント楽しめる。

 日本史、美術史をざっと通読してみると、後醍醐天皇が捨てがたい印象を残す南北朝時代、文化的には桃山時代あたりが面白い。特に桃山時代は織田信長、豊臣秀吉の天下統一によって戦乱に明け暮れた戦国時代にようやく終止符が打たれて、一種バブリーで浮かれた開放感が横溢しており、とても楽しそうなのだ。花見だ、歌舞伎だ、と民衆文化が一気に花開いた感があり、まさに「桃山」という名前に相応(ふさわ)しい。

 これが江戸時代に突入するとがんじがらめの身分制度による徳川支配が始まって、何となく息苦しくてなってくる。どうもこの時、お上には逆らっても無駄、というようなアキラメが叩き込まれた気がしてならない。この時代に発達した浮世絵も人物の顔や色使いが今ひとつ好きになれないでいる。海外で収集されジャポニズムを巻き起こしたほどの浮世絵だから、もっとピンと来るものがあっても良いはずなのだが、それほど来ないものは仕方がない。北斎も芳年も上手いとは思うのだけれど…この辺り自分は版画より肉筆画の方が好きなのだろう。だから尾形光琳の肉筆画は好きである。

 驚くべきは平安時代の源氏物語絵巻などの絵巻群で、あの屋根を取っ払った吹き抜け屋台の俯瞰描写はどう考えても奇妙で、唐突ですよ。一体誰が最初に思いついたんだろう。更に男絵、女絵といった呼び方があり、絵巻中の引目鈎鼻(ひきめかぎはな)のパターン化された容貌は女絵だったようで、いわば「少女漫画」というような絵のジャンルの成立を思わせる。女性による小説類は言うに及ばず日記文学の隆盛など、この時代は女流の時代だったようだ。これまた一つの不思議。

 日記文学と言えば、自分の日記も含めてネット上で今日も更新されてゆく夥しい数の日記群も、新たなる日記文学の幕開けなのだろうか、などとふと思う。
 そんな大袈裟な、あんた。

 それはそれとして、こういう日本美術に対する趣味が直ぐに自分の描く絵に影響を与えるものでもなかろうが、いつかは仏像だの十二神将だのをテーマにした絵でも描いてみたい、と密かに思ったりしている訳です。

およぐひと

 泳ぎ始めて7年くらいになるだろうか。
 一年365日のうち300日以上は泳いでいると思う。我ながら良く続くものだ、もう生活の一部になってしまっている。
 ほとんど毎日泳いでいます、というと偉いですね、とか冷やかされる。偉いんだかどうだか、泳がないとどうも調子が悪いのだからしょうがない。

 早朝から絵を描き続けて、午後を過ぎてくると、何やら頭がモヤモヤ、苛々としてくる。
 ソフトを立ち上げすぎたりして不安定になったパソコンみたいなものだ。システムエラーが頻発してフリーズする。
 そうなると、リセットをかけて再起動させるしかない。
 それが自分の場合泳ぎに行くことになる。

 というわけでジムに出かける。
 身体を鍛えてトライアスロンに出ようというわけではないので、ゆっくり、本当にゆっくり、リラックスしてクロールで30分泳ぎ続ける。泳いでいる最中にどうしたらよいか分からなかった描きかけの絵の解決法を思いつくこともある。
 泳ぎ終えるとウォーキングやマッサージプールでクールダウン、ロッカールームで着替える頃には身も心もリフレッシュされる。確かに疲れはするが、それは心地よい疲労感だ。自分にとって水泳は最良のリラクセーションでありセルフコントロールの方法である。

 初めのうちは公営プールで我流の平泳ぎを延々泳ぎ続けていた。この頃はリラクセーションより体重を減らすのが目的だった。しかし公営プールは夏は異常に混み合う。隣のコースで泳いでいた鯨のような体型のおばさまの平泳ぎキックを腕に食らってから、公営プールに見切りを付けて池袋にあるスポーツクラブのスイミングレッスンの受講生となった。ここでクロールを基礎から習い始め、レッスンのカリキュラム半ばにクラブのメンバーとなり、プライベートレッスンを受けて何とかクイックターンをマスターするところまで漕ぎ着けた。子供の頃からクロールは泳げるようになりたかったのだ。

 プライベートレッスンの一番最初、女性インストラクターさんに「普通のクロールが良いですか?それとも長く泳げる泳ぎが良いですか?」とか尋ねられた。泳いで痩せようと言うのだから長時間の有酸素運動で脂肪を燃焼させるのが一番だ、ためらいなく「長く泳げる方法を」と応えた。
 そのイントラさんは学生時代は長距離の選手だったということで、2ビートのクロールを教えてくれた。

 一般的なクロールは大体6ビートが基本で、両腕をひと掻きする間にキックを6回打つ。これを2回で済ますのが2ビート泳法だ。2ビートのクロールを水中で見ていれば、ちょうど陸上を歩くようなテンポとタイミングでキックを打っているのが分かるはずだ。スピードは出ないがキックを抑えた分疲れが少ない。泳ぐと言うより水中を寝ころんで散歩しているような感じだ。

 プールで泳いでいると、「いつも楽そうに、気持ちよさそうに泳いでますね」と時々声をかけられることがある。その通り、とても楽で気持ちも良い。何メートル泳ぐというのでなくて、30分と時間を決めている、疲れてきたなと思ったら楽なペースに落してさぼればよい。60分泳いでいた時もあったが、手を抜いて泳いでも翌日に疲れが残ることが多かったので、今は30分以上は連続して泳がないようにしている。無理は禁物である。

 しかし何事も思い切ってやり始めてみるものだ。知識を増やして色々なことが分かってくるのも楽しいが、出来ないことが出来るようになるのも嬉しい。将来は何か楽器を演奏できるようになりたいと願っている。小学生の頃好きだったドリトル先生のように。

 さて、この雑文を終えるにあたり、クラブで自分を根気強く指導してくれた石田インストラクターに一言お礼を述べておく。
 有り難う。
 ここを覗きに来ている方には誰のことだか訳が分からないだろうし、御本人もここを見ているはずもないが改めて感謝する。少し富田靖子に似た顔立ちで、背泳ぎのレッスン半ばに残念ながら結婚してクラブをお辞めになった。眼前で披露してくれたバタフライはあたかもしなやかな魚のようであった。

 貴女が教えてくれた2ビートのクロールで、今日も私は泳いでいる。

不可能を可能にする、たったひとつの冴えたやり方

 アニメージュ文庫に「作画汗まみれ」という本がある。その中に著者のアニメーター大塚康夫氏が「石にかじりついてでも、人より多く枚数を描くことしか、人よりうまくなる方法はない」という先輩のちらっと漏らした言葉を聞いて「実行してみよう」と決心する下りがある。

 そこを読んでいて、自分は「う〜ん、そりゃそうだけど、なかなか出来る事じゃないよな」と思った。後年、そんなことを本当に実行している男に出会った。ウソみたいに絵が上手かった。

 男の名前は寺田克也という。
 寺田さんの家に遊びに行った時に「落書き」と称する、大量の絵を見せられた。どれもこれも舌を巻くほど上手い、そのデッサン力と質感描写には完全に圧倒されてしまった。何より彼は「俺は誰よりも上手くなる」と豪語して憚らない。その言葉の裏に恐ろしいほどの修練と迫力を感じさせる。
 下書きもなしにいきなり描き進めてゆくという絵は、魔術としか思えない。しかしこの魔術には種がない。徹底した修練のなせる技だ。

 彼の絵に対する好き嫌いは別れるところかも知れない。しかし、絵を描くことの情熱と努力には頭が下がる。
 彼から学んだことはPAINTERやPHOTOSHOPの枝葉末節なテクニックなどではなく「悩んだり考えたりしている暇があったら、さっさと描け。描いて描いて描きまくれ」ということだ。
 自分も絵に関しては、それなりの研鑽を積んできたつもりだが、彼に比べれば、まだまだ中途半端だったと言わざるを得ない。

 けれども私は、諦めない。
 25メートル泳がぬうちに息を上げていた自分が、毎日練習を積むことによって、今は1キロ泳ぎ終えて、さほど息も弾まない。
 毎日の練習が、初め不可能と思えたことを可能にする。
 そして毎日の練習を習慣にしてしまえば、そのうち努力すら必要ではなくなってくる。
 ただ、今までの経験から言って、漫然と練習を積んでいるだけでは上手くはならない、上手くなろうという意志と工夫を持たぬと上達はない。

 遅まきながら自分も「石にかじりついてでも、人より多く描こう」と決心した。天才でもない自分にはそれしか上手くなる方法はない。なかなか上手くはならないが、今からでも遅くはないだろう。

 本当は石にかじりついてはいけないのかも知れない。そういう熱い情熱は長続きしない。
 毎日淡々と、習慣として続けてゆくのが得策だろう。私は習慣の力を信じている。
 冷たく持続する、醒めた情熱で、少しでも多く描きながら、自分の絵を掴み上げてゆくことにしよう。

グルメ

 人並み程度においしい物は好きである。しかし蟹がおいしいから北海道へグルメツアーに行こうとか、そういう発想や根性はあまりない。まあ面倒臭いということに尽きる。グルメな友人や先輩においしい店を教えて貰って時々食べに行く、今はその程度で満足している。

 高校生くらいの時、夏休みに大阪の親戚の子供2人が2、3日遊びに来たことがある。まあ、都会の子供が田舎に来たのだから、喜びそうなもてなしをしてあげようと、早朝からクワガタムシやカブトムシを一緒に取りに行ったりして遊んであげた。

 子供達が大阪に帰ってから、その親御さんから電話が架かってきた。そちらで何を食べさせたのか、と尋ねるのである。
 聞けば子供等がうちで食べさせたような、あの料理を食べさせろと言って聞かないのだそうな。なにやら、余程おいしかったらしい。
 しかしうちの母親は、普通のウィンナーだかフランクフルトだかと一緒に野菜を塩胡椒で炒めたような、素朴きわまりない食べ物を出しただけで、特別凝った料理を作ったわけでもない。

 話しているうちに理由は次のようなことに落ち着いた。
 早朝、朝御飯もそこそこに朝露に濡れそぼつ山道を辿る、そして夢中になってクワガタがいそうな木を蹴ったりして歩く。随分疲れたことだろう。
 お腹がぺこぺこになったところで家に戻り、バルコニーで昼食である。30年も昔の田舎のことで空気もうまい、天気は良い。よほどひどい料理を出されぬ限り不味いはずがない。夏休みの楽しい思い出もミックスされて、その増幅されたおいしさが忘れられなかったのだろう。

 まさに空腹は最上のソースであるという箴言(しんげん)の見本のようであった。
 基本的にはそれで十分で、とても清々(すがすが)しい大切なことなのだと思う。

 人間とは天の邪鬼なもので、常人には到達し得ないような深遠なグルメの講釈を聞かされると、もう分かった分かった、フォアグラがどうした、キャビアがどうした、コンビニのおにぎりで十分おいしいじゃないか、などとつい反発したくなる。

 しかしその一方で、きちんとした日本料理屋でおいしい刺身を食べて、その味を知っていると、スーパーのパック入り刺身にげんなりする。
 また精進料理などを食べた時、生臭ものを使わず限られた食材でいかに旨いものを作るか、という坊主の涙ぐましい努力にも感心する。で、仏法の修行の方はちゃんとしていたのだろうか、などと気にもなるが、旨いものを食いたいという人間の執念には並々ならぬものを感じる。

 まあ、グルメの達人になろうという志があるわけでなし、普段はそれなりの料理を食べていて、時々おいしいレストランや料理屋で味を楽しむ。自分のような庶民はそれで十分なのだろう。

画材の話(鳴門秘帖篇)

 長年使っているアルシュというフランスの水彩紙の裏表が未だに分からずに困っている。
 アルシュには紙の隅の方にArchesという透かし文字が入っている、当然ちゃんと読める方が表のはずだ。そのはずなのだが、そちらはどうも描きにくいのである。

 この辺り絵を描いている方でないと理解しにくいとは思うが、表のはずの紙の表面はあまりにも凸凹が均質すぎる。ケント紙の裏面と近い感触なのである。また、強度も弱いし、発色も今ひとつの感が強い。

 アルシュを使っているイラストレーターの友人は多い、尋ねてみるとみんな透かしがキチンと読める方に描いている。「当たり前だよね」と揃って自信ありげである。ますます困惑する。

 そんな話をしていると、ある漫画家さんに「そりゃぁ米田さん、そういう時は『アルシュはやっぱり裏に限るねぇ』と言っとけば良いんですよ」というアドバイスを受けた。なかなか秀逸なアドバイスだと思うが、それではやはり自分はずっと裏に描いてきて、未だに裏に描き続けているということなのだろうか。

 ただ、何かの画材の本で、たまに透かしの文字が裏に読める方が紙の表という場合もある、というような記事を読んだ記憶もあり、もしかしてそういう特殊なケースなのかとも思っているのである。

 裏にせよ表にせよ、長年そちらの方で描き慣れているので今更変えることもないとは思うが、どなたか本当のところを御存知の方はおられぬだろうか。

画材の話(地の巻)

 画材に関して一貫して使い続けているのは透明水彩とガッシュである、それにパソコン(マッキントッシュ)が加わる。最近気になっているのは水彩色鉛筆。しかしこれも買ってはみたものの、なかなか出番がない。面白そうな絵が描けるような気がするのだが。

 不透明絵の具で厚塗りするような場合はガッシュやリキテックスより、本当は油彩が一番描きやすい。色の豊富さ、ぼかしたり、全く違う色相の色を馴染ませるなど、アクリル絵の具では苦労することが油彩では払拭される。ガッシュのように粉っぽくもならない。水彩の仕上げだけ油彩で出来ないかとも考えるのだが、乾きの遅さや扱いの面倒さを考えると、やはり難しい。油分も紙の裏まで通ってしまうだろう。
 パステルは独特の色合いが美しい、しかし定着力に不安が残るので今ひとつ使うのがためらわれる。

 技術、腕さえあれば画材は何でも良いという考え方もある。しかし人によって画材との相性というものはあるようで、自分もエアブラシ、アクリル絵の具、パソコンのお絵かきソフト(PAINTER)など色々探っては来たが、結局、今のところ水彩で落ち着いている。

 とは言え画材を替えることによって、絵がもっと良くなるという可能性もある。だから使ったことのない画材も仕事を離れた絵では、試したりもしている。いずれにせよ画材にはそれぞれ固有の持ち味というものがあり、絵の印象は画材によっても大きく変わる。気を配るべきであろう。

 一時はパソコンで絵を描くのが面白くてむやみにパソコンを使っていた。しかし最近はCGで完成原稿まで仕上げることは少なくなってきた。
 一番の問題はモニター上で見ているRGBでのデータと、上がってきた印刷物との落差に苦労することが多かったことだ。マックのモニターが全て液晶ディスプレイになって、このあたりの問題は解決したのだろうか。透過光と反射光の違いがあるので、どうしてもモニターで見たままと言うわけにはゆくまいが。

 CGでイラストをお描きの伊藤ヨウコウさんに話を伺うと、データ入稿は信用できない、CGのデータは全てピクトロで出力したものを印刷原稿として渡していると言う。確かにデータを直接持ち込むより、プリントアウトしたものを印刷に回す方が落差は少ないだろう。

 しかし寺田さんも所有しているピクトログラフィなる高性能プリンタは、100万円くらいしたはずだ。伊藤ヨウコウさんは「貰った」という。
 誰か私にもピクトロを下さい。

 もう一つはポスターなどに使うようなサイズの大きな絵の場合、データが膨大になり過ぎる。途中経過を保存するだけでも時間がかかってイライラさせられる。

 そしてこれは全く感覚的なことなのだけれど、「原画」がないというのが少し寂しいのである。グループ展を開催して、額装された仲間の絵を見て回った時「やっぱり原画があるのって良いな」と率直に思った。そういうこだわりが抜けきれないところはアナログ人間なのだろう。だから原画を紛失された時のショックは大きい。原画だけはなくさぬようにくれぐれも速やかに御返却下さい、と仕事先の皆様には改めてお願いしておく。

 ラフ段階で絵の構図や人物のコスチューム、デザインを練り上げてゆくのはパソコンの方が圧倒的にやりやすい。ギャラリーで解説したようにラフや下書きの一歩手前まではほとんどパソコンでやってしまう。
 SF大会の会場で、この話をしたら「普通の人の使い方と逆ですね」と言われた。
 紙(アナログ)でラフからペン入れまで持ってゆき、それをスキャナーで取り込んでパソコンで仕上げてゆく、というのが通常のパターンらしい。

 特殊効果や特別な質感が必要な場合、そういう効果を優先するときはパソコンで最後まで描き上げる事もある。また色使いに迷ったときのシミュレートにも重宝している。
 まあ、あまり保守的になりすぎるのも詰まらない。便利な道具は道具として、パソコンという画材も上手に使って行きたいと思っている。


 この雑文のアップ後、しばらくして、寺田さんからメールが届いた。

 まずピクトロの値段。100万円どころではなく、当時の定価で300万円以上したそうだ。
 そして買ったピクトロは先日知り合いに10万円で譲った、もしこのHPがもっと早く作られていたら、米田さんに譲ったのに、ということだった。
 世の中なんて、そんなものかも知れない…

 ただ、寺田さんの話では、廉価なインクジェット方式プリンターの性能が上がったので、そちらの方がピクトロよりきれいという。確かに最近の2万くらいのプリンタでも、6色のインクを使っている。それに比べて、大手の通常印刷は4色。こう書けば賢明な読者には、もうお分かりだろう。
 通常の商業印刷より、家庭でのプリントアウトの方が綺麗という奇妙な逆転現象が起きている。
 印刷会社の出してきた色校より、データに添えた家庭用プリンタでの出力見本の方が綺麗だったので、出力見本のように出して欲しいというと、「無理です」という応えが返ってきたことがある。

 また、絵の発注時に仕事先から「CGでのデータ入校の場合はCMYKでお願いします」と言われることや、そういう注意書きを添えられることが多い。しかし寺田さんは全ての原稿データをRGBで渡しているという。製版のひとの腕に任せて、あとは色校で合わせていく。アナログの場合でも原稿の色調がそのまま綺麗に出ることはない。データ入稿での多少の色の転びなどはあまり気にしない、ということだ。
 最近は、エプソンのB0(紙のサイズ、B1の倍?)まで出力できるプリンターで、大判のプリントを吐き出させて楽しんでいるそうな。

 以上、寺田さんからの情報を、脚注として補足させて戴いた、有り難う、猿王殿。

プラナリアを切り刻んでいた頃
 

 中学、高校は大阪の星光学院という男子校に通っていた。
 「染色体の二重螺旋構造の発見を、タッチの差で外国の研究チームに先んじられて、ノーベル賞を取り損なった」
 そういうことを言う初老の生物学の先生がいた。我々生徒は「ホンマかいな」と心の中で突っ込む。
 そしてその泉谷(いずみたに)先生は、
 「色んな国の生物の授業を見て回ったが、星光学院の生物の授業は世界一だ」と断言する。
 これも「ホンマかいな」である。

 しかし泉谷先生は学生の頃、先生から言われた「よく遊び、よく学べ」という言葉を真に受けて、いや、実践しようと決めて、昼間は散々遊び、夜は深夜に及ぶまで勉学に励み、毎日4時間ほどしか眠らぬ生活を続けたという。
 英語の勉強のために三省堂のコンサイス英和辞典だかを一冊丸暗記したというから、やはりただ者ではなさそうだ。
 生体組織の染色色素「メチレンブルー」を何故か「メチレンブリュー」と発音されるのが印象的だった。

 泉谷先生の生物の授業が「世界一」かどうかは分からないが、毎週一度、2時間ぶっ通しの枠で、実験の授業があった。4、5人のチームに別れて顕微鏡をしかめっ面で交代に覗く。生物の教科書に載っている実験はほとんどやらされた。

 例えばプラナリアという非常に再生力の強い小さな扁形動物がいる。泉谷先生と有志の生徒が授業のためにわざわざ川で捕獲してきた、そのプラナリアをカミソリで様々な角度に切り刻み、小さな飼料を与えて恒温室というか保温庫に入れておく。(驚くべし、巨大な冷蔵庫のような、そういう設備があったのである)そして何日か後に切り口に出来てきた再生芽を観察する。

 その他、ペーパークロマトグラフィーがどうのとか、ユスリカの唾液腺染色体地図とかいうものまで作らされた。勿論ユスリカの唾液腺染色体だかを実際に顕微鏡で観察しながら描き込んでゆくのである。
 苦労したのは実験レポートで、実験後必ず提出させられる。これが採点されて次の授業で返されるのだが、教科書を参考に引き写したような内容では全く良い点数は取れなかった。

 生物の先生は3人いたが、泉谷先生は京大出身、もう一人かなり老齢の田中という東大出身の先生がいて、おかしいのはその2人の先生が何となく張り合っていたことだ。
 まあ、それはそれとして自分たちの何学年か下の生徒達から、生物と化学の実験授業には白衣着用が採用になった。生物教室にゾロゾロと向かう白衣に身を包んだ豆博士達の姿は見ていて、おかしくも、好ましいものだった。

 後日、結婚してから何かの話のついでに、そういえば高校の生物の授業で、こういう実験やったよな、とか言うと女房は、
 「そんなことはやったことない。大体実験なんて、そんなにやらなかった」という。
 教科書の内容を読むだけで、それで終わりのことが多かったという。何やら顕微鏡をのぞき込んでいた記憶はあるというのだが。普通の高校はそういうものらしい。そういうことから考えると、もしかして星光学院の生物の授業は本当に世界一だったのかも知れない。

 泉谷先生は戦争中の学徒動員の際、「学生の本分は勉強にある」と抵抗し、留置所にぶち込まれたそうである。そういう気骨のある人が日本にも居たということは記憶に止めておきたい。

 星光学院はキリスト教系の学校で、夏の制服の胸元には、涼しげな紺色で「SalesianSchool(サレジアンスクール)」とかいう文字の縫い取りがあった。校舎の玄関にはサレジオ会の創設者ドン・ボスコというイタリア人のレリーフが飾られていた。当時は何のことだか分からなかったが、このオジサンがカトリックの司祭であり教育家であったらしく、サレジオ会は世界各国に教育施設を設立しているそうだ。
 そしてたまにイタリアからの宣教師というのか使節団の御一行様がやってきて、校庭で行われる全校上げての朝礼に立ち会うこともあった。

 毎朝、教室で行われる通常の朝礼では全員起立して、十字を切った後、「天にまします我らの父よ」から始まる主祷文を唱える。それからおもむろに詰め襟のような神父服を着た校長先生の訓話が各教室のスピーカーから流れてくる。講堂では時々ミサが行われていた。
 そんなわけで自分は無宗教ではあるが、キリスト教にはさほど抵抗感はない。そして学内の雰囲気は修道院のように堅苦しいわけではなく、朝夕の祈りを除けば、普通の進学校だったと思う。

 高校の時には美術部の部員だったが、
「静物画を描くのに、何か瓶はありませんか」と訊くと、顧問の泉谷先生が、
「よし、校長室で借りてこい」という。
 何故か校長室には酒の空瓶が並んでいた。

 生徒の方も、陰に回れば気に入らぬ先生のことを「何や、あの先公(せんこう)は〜」と、悪態をついていた。そうは言っても他の学校に比べれば可愛いものだったろう。星光学院の生徒は大人しかったせいか、他校の不良生徒から良くカツアゲ(恐喝の隠語)に会っていたようだ。

 とにかく私学だけあって、生物教室、音楽教室、英語のLL教室など、設備だけはやたらと充実しており、校舎の廊下や階段、トイレも掃除のおばちゃんたちによって、いつも綺麗に掃き清められていた。

 そして、何とか高校を卒業して、めでたく京都芸大に合格した自分は愕然とすることになる。小綺麗な星光学院に比べると、まさにカオスのような乱雑さが支配した、設備も「何もない」とんでもない大学だったのだ。この京都芸大での奮闘については、いずれ項を改めて書くことにしよう。

父のミステリー、或いは死に方上手

 数年前に父が死んだ。83歳だった。
 実家のリビングに父が使っていた本棚があり、その中に1冊だけ何故かブックカバーのかかった新書本があった。
 人に見られたくない本なのだろうか。
 気になった。
 本を手にしてパラパラとページをめくるうちに、鉛筆で線を引いてある一節にぶつかった。
 そこを読んで、晩年の父の謎が氷解した。

 働き盛りの頃、身体を壊して勤めていた銀行を退社した、と母から聞いている。だから人一倍健康には気を使っていた。青竹踏み運動をし、自分で漬け込んだニンニク酒を盃に1杯、毎晩欠かさず飲んでいた。食事にも気を付けて努めて野菜を摂るようにしていた。

 その父が晩年、急に脂っこい物ばかり食べ始めた。それが自分には不思議であった。たまに実家に帰ると、最近父がお昼にウナギの蒲焼きだのこってりした物を買ってきて、二人前もぺろりと平らげる、と母は困り顔だった。

 そして脳梗塞で入院、リハビリを始めたものの、梗塞が再発、病院のベッドで寝たきりとなった。そして心筋梗塞を併発し、苦しんだ上に苦しんで死んでいった。医者の説明によると高脂血症のため血液もドロドロになっていたという。やはり脂肪分を摂りすぎていたのだろう。

 実は、脳梗塞で倒れる何年か前に、胆嚢を患って入院している。その時母はガンを疑い、覚悟を決めていたらしい。しかしガンではなかったようで無事退院した。

 高齢での入院。ヒタヒタ押し寄せる死を身近に感じたかも知れない。
 自分の推測では、それくらいにリビングで見つけた本を買って読んだのではないかと思う。

 本は岩波新書のベストセラー『大往生』だった。
 頭から読んでゆくうちに、こういう一節にぶち当たる。
 「老人ホームで栄養のバランスなんて意味がありません。好きなものが好きなだけ食べられるバイキングが喜ばれるんです」
 そこに鉛筆の傍線は引かれていた。

 父はあれだけ身体に気を使いながら、最後の最後で「好きなものを好きなだけ食べる」という選択をした。誰に強いられたわけでなく、自分で選んだのだから、それで良かったのだと思う。
 節制し続けたからといって、死ぬまで健康でいられる、楽に死ねるという保証はどこにもない。

 ただ、自分は父とは違う選択をしたい。取りあえず今は、そう思っている。