英   泉
 烏川で釜を洗う女と水遊びする子供の風景画
城下町高崎の玄関口。岩鼻陣屋が置かれ、日光例幣使道に
近いことからそれなりに位置的に重要な宿場。経済的には利
根川水路・烏川の最後の河岸として高崎以降の地の産物の
集散地として倉賀野河岸だ栄えた。高崎へは一里余の位置
にありいわば玄関口であった。町並み9町16間。
12・倉賀野宿(天保十四年)
日本橋から二十五里二町四十間
現代の宿駅 JR高崎線倉賀野駅
人口  2032人
家数   297軒
旅籠    32軒
本陣     1軒
脇本陣    2軒


倉賀野追分
 (倉賀野側より)
陸橋を下り800mほど進むと逆Y字の分岐点に出る。ここが倉賀野追分 中山道と日光例幣使道の分かれ目。右手前に閻魔堂 分岐する真中に常夜灯と道標が建つ。道標には「従是右江戸道 左日光道」とあり、文化10年(1814)建立の常夜灯の側面にも「右中山道」「左日光道」と彫られ、朱色に色づけされている。また基台には寄進者の名があり、江戸相撲の雷電、歌舞伎の団十郎の名もある。
常夜灯・中山道

一寸一服
日光例幣使道
日光東照宮は初め東照社と呼ばれていた。正保2年(1645)朝廷から宮号(ぐうごう)を賜り、このことを伝えるため勅使が京都から日光へ派遣された。以後この例にならいご神前に金の御幣を奉るため奉幣使が遣わされた。これに当たった公卿を日光れ幣使と呼びその通った道が例幣使道。50〜80人の規模で宿泊のため大名も本陣を譲るほどの権威を持った。朝廷の権威を広く民に知らしめるとともに、文化面で街道沿いに京文化が伝わった。正保4年の第1回から慶応3年(1867)最後の年まで一度の中止もなく221年間継続された。
常夜灯・日光道


倉賀野河岸跡付近
追分の<下町>信号と<中町>の間に昔は太鼓橋があった。当時少しの増水で流出するのを見かねて、宿場の飯盛女達が200両を寄進して享保3年(1803)完成。橋には寄進した女の名が刻まれていたとのこと。二度、三度行きつ戻りつ捜すもそれらしい箇所は見付からなかった。
<中町>を左折し烏川に架かる共栄橋の左手前を河原に下りたところに倉賀野河岸跡碑 永禄4年、住人10名が最初の舟問屋を開設。慶安中頃(1648〜52)は隆盛を極め76軒の業者があった。米麦、煙草、織物、木材などを江戸に運び、帰りは塩、砂糖、油、干魚などを運んだ。天明の頃浅間山の噴火により大量の火山灰が流れ込み運行が困難になり衰退し、明治17年鉄道の開設に伴いその役割を終えた。

河岸跡碑

本陣跡

本陣前付近
<中町>信号を渡ったすぐ左のスーパー丸幸の駐車場が勅使河原本陣跡 小さな碑が立つ。
小金沢医院前に人馬継立所跡碑。左民家の須賀邸が須賀庄兵衛脇本陣跡 道路の向かいが須賀喜太郎脇本陣跡 ここは昔の面影を残す門と白壁の2階建。隣の須賀医院の駐車場前に高札場がある。

須賀喜太郎脇本陣

高札場

倉賀野神社

正面に琴を弾く彫刻
<上町>信号を左折すると、倉賀野の総鎮守倉賀野神社 由緒「第10代崇神天皇の御世、皇子豊城入彦命が東方平定に向かいこの寺の境内に斎場を設け松の木を植えられた。父より授かった亀形の石を御魂代(みたましろ)として祭祀されたことが由来。亀石はクニタマさまと呼ばれ今に伝わる。旧社名は飯玉神社、倉賀野及び近郊7ケ村の総鎮守。明治43年近隣の社寺を合併し現名に改名。」
境内には合併されたもと横町の三光寺稲荷(太鼓橋建設の飯盛女の信仰が厚かった)、通称冠稲荷の常夜灯と玉垣もある。
本殿は前橋、川曲の諏訪神社に移されている。本殿は元治2年(1865)上棟、丸彫り彫刻の鳥獣は見ごたえがある。拝殿正面に琴を弾く彫刻がある。これは「飯玉縁起」によるもの。光仁天皇(771〜780)の御世、群馬郡の地頭群馬太夫満行には8人の子がいた。末子の八郎満胤は芸能弓馬の道に勝れ帝から目代の職を賜るようになった。ところが兄達は八郎を夜討ちにして、烏啄池の岩屋に押し込めた。3年後八郎は龍王の智徳を受けて大蛇となり、兄達ととその妻子眷属まで食い殺した。その害は国中の人々まで及ぶようになったので、帝はこれを憂い年に一人の生贄を許した。やがて小幡権守宗岡が贄番に当たる年、16歳の娘海津姫との別れを共々に嘆き悲しんだ。郡からやってきた奥州への勅使宮内判官宗光はこれを知り、海津姫と共に岩屋に入った。頭を振り尾を叩く大蛇に向かい、一心に観世音菩薩を唱名し琴を弾いた。これによって大蛇は黄色の涙を流して悔い改め神明となって衆生を利益せんと空に飛んだ。烏川の辺りに「吾が名は飯玉」と託宣し消え失せた。これを見た倉賀野の住人高木左衛門定国に命じて、勅使宗光が建てさせたのが「飯玉大明神」であるという。
本殿の裏側には、良寛を世に知らしめた地元の歌人飯塚久敏碑がある。文化7年(1810)この地に生まれ、国学者橘守部に学び、若くして名声を博した。良寛の非凡さに着目し、没後12年に32歳の若さで伝記「橘物語」を出した。

飯玉縁起説明

飯塚久敏碑

安楽時・板碑
安楽寺 珍しい将棋の駒形をした2基の異形板碑がある。板仏、平仏、板石塔婆とも呼ばれる変形の石仏。板碑は鎌倉時代中から室町時代にかけて多く作られた。この板碑は風化により一部の文字が剥落し正確な年代は不明だが南北朝時代(1300年代)は下らないと推定されている。一説には天平時代(729〜49)とも。県下にはこのような板碑は9基現存するだけ。ここは高さが138cm幅65cmと大きい。
この辺りから道は整備され広い、また若い松が200mほどの区間植えられているのは、ここらが昔の松並木
道路沿いには自動車関係の会社が多い。

現代の松並木
中山道膝比べ 新町 高崎