白隠禅師坐禅和讃 解説

作成日:2005/1/27 - 最終更新日:2014/4/21

原文と意訳

原文 意訳
(題名)『坐禅和讃』 (現代語解釈)『坐禅をたたえる詩』『坐禅によって培われる禅定を賛嘆し、以って苦しみを除く和語のお経』
衆生本来仏なり。水と氷のごとくにて。水をはなれて氷なく。衆生の外に仏なし。
(しゅじょうほんらいほとけなり。みずとこおりのごとくにて。みずをはなれてこおりなく。しゅじょうのほかにほとけなし)
私たちは、皆生まれながらに、仏さまと同じ心を持ち合わせています。それはあたかも、「水」と「氷」の関係のようです。
氷は、水が固まってできたものであり、もとは同一のものです。水蒸気や雲も、水が変化したものです。水、氷、蒸気は、それぞれ形が違いますが、全て同じものであります。一般に「さとり」と呼ばれ、何か超人的な能力と思われがちな心も、また、凡人と思っている私たちの心も、本当は同一の「仏心(ぶっしん)」なのです。その「仏心」は、遠く離れた天国にあるわけではなく、水と氷のように、私たち自身の肉体と、その心を離れて存在するものではありません。
衆生近きを知らずして。遠く求むるはかなさよ。たとえば水の中に居て。渇を叫ぶがごとくなり。
(しゅじょうちかきをしらずして。とおくもとむるはかなさよ。たとえばみずのなかにいて。かつをさけぶがごとくなり)
ところが私たちは、誰でも「仏心」を持っている、ということを信じないために、選ばれた聖人のみに「仏心」が宿っていて、凡人には、さとる資格がないものだ、と思っているのです。または、厳しい修行を行った末に、ようやく外部から「仏心」が降臨してくるものだ、と思っているのです。
それは例えて言うならば、水の中にいて、のどが渇いた、と叫んでいる(周りは全て仏心であるのに、仏心を信じず、得ようともしない)ようなものであります。
長者の家の子となりて。貧里に迷うに異ならず。六趣輪廻の因縁は。己が愚痴の闇路なり。
(ちょうじゃのいえのことなりて。ひんりにまようにことならず。ろくしゅりんねのいんねんは。おのれがぐちのやみじなり。)
また、金銀財宝がつまった蔵のある家に、その子供として生まれていながら、その蔵があることを知らずに乞食をしている(仏心という宝を、生まれながらに持っていることを、知らずにいる)ようなものです。
人間は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上(じごく・がき・ちくしょう・しゅら・にんげん・てんじょう)、という6つの世界(六趣(ろくしゅ)または六道(ろくどう))を生まれ変わる、とされ、それは「輪廻転生(りんねてんしょう)」と言われています。悪行の結果として、地獄・餓鬼・畜生の3つの悪趣(あくしゅ)に生まれ、善行の結果として、修羅・人間・天上の3つの善趣(ぜんしゅ)に生まれる、とされています。そして、苦しみからの解脱は、3つの善趣に転生すること、と考えています。しかし、そのような考えは、私たちが愚かで、仏心を信じないがために、そう考えるのです。もともと釈尊の教えでは、私たちの苦しみには、必ず原因があり、その原因を無くせば苦しみは消滅する、という考え方です。その教えを知らないから、私たちは輪廻転生に、救いを求めているのです。
闇路に闇路を踏そえて。いつか生死を離るべき。夫れ摩訶衍の禅定は。称歎するに余りあり。
(やみじにやみじをふみそえて。いつかしょうじをはなるべき。それまかえんのぜんじょうは。しょうたんするにあまりあり。)
それは、暗い夜道を、灯りも点けずに歩いていくようなものです。暗い夜道を歩いていっても、目的地に辿り着くのは難しく、これでは、苦しみから抜け出すどころか、さらに苦しみの迷路に入り込んでしまいます。
大乗仏教(だいじょうぶっきょう)と呼ばれる、現在の日本仏教の教えの中に、「六波羅蜜(ろくはらみつ)」という6つの実践徳行があります。すなわち、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(ふせ・じかい・にんにく・しょうじん・ぜんじょう・ちえ)、という、仏教徒としての大切な行いのことです。その中でも「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」は、最も重要であります。
布施や持戒の諸波羅蜜。念仏懺悔修行等。其の品多き諸善行。皆この中に帰するなり。
(ふせやじかいのしょはらみつ。ねんぶつさんげしゅぎょうとう。そのしなおおきしょぜんぎょう。みなこのうちにきするなり。)
なぜ「禅定波羅蜜」が重要なのでしょうか? その理由は、布施・持戒・忍辱・精進・智慧の各実践行の他にも、仏教徒のつとめる行いとして、「念仏を行う」「日々反省をする(自分の過失を認め、叱責を甘受し、悔い改めること)」「毎日の生活の中でするべき勤めをする」といった、功徳(くどく)を積むためのいろいろな行いがありますが、これらの実践には、すべて「禅定」が必要不可欠だからです。
一座の功をなす人も。積みし無量の罪ほろぶ。悪趣いずくに有ぬべき。浄土即ち遠からず。
(いちざのこうをなすひとも。つみ むりょうのつみほろぶ。あくしゅいずくにありぬべき。じょうどすなわちとおからず。)
例えば、たった一度の坐禅経験でも、その坐禅が真剣な坐禅であったならば、その功徳はいくつもの悪行を消し去るに値します。なぜかと言えば、正しい坐禅は、強大な禅定力(ぜんじょうりき)を養うことができるからです。
果たして、3つの悪趣など、どこに存在するのでしょうか? 西方十万億仏国土(さいほうじゅうまんおくぶっこくど)の彼方に、阿弥陀如来(あみだにょらい)の住む極楽浄土(ごくらくじょうど)がある、と言われていますが、そんな気の遠くなるような世界に行けるとでもいうのでしょうか? ひとたび坐禅をするならば、それは私たちの妄想に過ぎないことが解るはずです。なぜなら、坐禅をしている間は、心は静寂であります。静寂な心の中が、極楽浄土そのものだからです。禅定力があれば、どんなに汚れた世の中にいても、この場所がそのまま清浄なる世界であることに気付き、阿弥陀如来と自分とが一体であることに気付くからです。
辱なくも此の法を。一たび耳にふるる時。讃歎随喜する人は。福を得ること限りなし。
(かたじけなくもこののりを。ひとたびみみにふるるとき。さんたんずいきするひとは。ふくをうることかぎりなし。)
幸いにも私たちは、釈尊(しゃくそん)の世から伝えられている、さまざまな説法を、「お経」という形で読むことができます。お経を読んだり聞いたりした時に、もしもあなたが「有り難いなあ」「うれしいなあ」と思ったとすれば、それは釈尊の感じた幸福感と、全く同じものなのです。
いわんや自ら回向して。直に自性を証すれば。自性即ち無性にて。すでに戯論を離れたり。
(いわんやみずからえこうして。じきにじしょうをしょうすれば。じしょうすなわちむしょうにて。すでにけろんをはなれたり。)
ましてや、自ら率先して読経をして、その功徳を、世の中一切全てのものに与えたい、と願うなら、その慈悲心こそが仏心に他ならないのです。私たちには、真実の清浄な心が備わっていたのだ、と確信するはずです。その真実の心に、聖人・凡人の区別があるのでしょうか? このような区別や、善悪などの差別を超越した、ただ1つの仏心があるのみです。
その仏心は、形なく、得ることも、失うこともない、老若男女の別もない、生まれたままの純粋な心、捉えようにも捉えようのない、無心の心であります。そう自覚して得られた仏心は、他人には説明のしようがない、説明など不要な仏心であります。
因果一如の門ひらけ。無二無三の道直し。無相の相を相として。行くも帰るも余所ならず。
(いんがいちにょのもんひらけ。むにむさんのみちなおし。むそうのそうをそうとして。ゆくもかえるもよそならず。)
善い行いには、善い結果が得られます。悪い行いには、悪い結果が待っています。苦しみに直面した時、その苦しみには必ず原因があります。釈尊の言われた原因と結果の関係は、それぞれを縁(えん)によって結びつけています。種をまき、実を収穫するまでには、そこに、土壌・水・日光などの善い縁がなくてはなりません。私たちは、ともすれば結果ばかりを追ってしまいますが、因(いん) → 縁 → 果(か) という一連のプロセスが大切なことは、もうお解りかと思います。では、原因と結果の道理からは逃れられないのでしょうか? そうではありません。因果(いんが)の道理そのものは、大切な教えですが、これにとらわれている間は「迷い」であり「苦しみ」であります。それは、因と果とを、区別して考えているからです。区別するということは、つまり迷っているということです。禅定を養うことによって、このような区別から離れるのです。因/果、苦しみ/幸せ、と区別して考えている心は、私たちの心に他ならず、それは仏心にも違いないのです。禅定により区別を離れるならば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体です。区別や差別を離れて、平等の入口を開けるならば、その先には、一本の真実の道が、まっすぐ延びているのみです。2つ、3つと分かれる迷い道など存在しないのです。
では、迷いを断ち切り、禅定力を養うためには、どうしたらよいのかを考えてみましょう。1つめは、「目で見えるものの、姿・形にとらわれないようにする」ということです。この世に永遠のものはなく、形あるものは全て、常に変化しています。永遠不変のものはない、と考えることにより、煩悩・執着(ぼんのう・しゅうじゃく)から離れることができるのです。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるのです。そうすれば、私たちの心は、どんな場合でも乱れることがないのです。とらわれを離れた心は、平安な心であり、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような安心感があるのです。
無念の念を念として。謡うも舞うも法の声。三昧無礙の空ひろく。四智円明の月さえん。
(むねんのねんをねんとして。うたうもまうものりのこえ。ざんまいむげのそらひろく。しちえんみょうのつきさえん。)
2つめは、「心で感じたこと、一念一念を悪く考えないようにする」ということです。私たちの脳は、絶えず思考をしています。一瞬ごとの思考、すなわち一念の積み重ねによって、記憶・学習をしています。しかし、もしも悪い念が積み重なったとしたら、そうして造られた記憶・学習は、悪い結果を招くことは明らかです。そう考えると、たとえ僅か一念でも、苦しみの原因になり、積もった念、すなわち、出来上がった記憶は、苦しみの結果となるわけです。一念に振り回されないことです。少なくとも、自分の記憶と、他人の記憶は、全く異なるものであり、他人が自分と同じ事を考え、行動するなどとは考えないことです。そのように毎日努めるならば、他人の言動に一喜一憂することなく、仮に苦言を聞いたとしても、大切なアドバイスだったと、肯定できるはずです。見るもの、聞くもの、全てが新鮮な法話であり、立ち居振る舞い、どれをとっても、仏祖の行いと変わらないのです。
このようにして養った禅定力を用いて、精神を統一してみましょう。身体中の感覚(眼で見る・耳で聴く・鼻で嗅ぐ・舌で味わう・皮膚で感じる・心で認識する)はそのままに、心を集注して、意識を乱れないようにするのです。それは一切のとらわれを離れた、自由自在の境地です。雲一つ無い青空が広がっているかのように、煩悩の無い、晴れやかな心になっているでしょう。 さらに、仏心から出てくる4つの智慧を信じることです。それは、【1】真実を見つめて、清い心を持つ(大円鏡智(だいえんきょうち))、【2】我見(がけん)・差別を捨てて、慈悲の心を持つ(平等性智(びょうどうしょうち))、【3】道徳行を無心でする(成所作智(じょうしょさち))、【4】物事を正しく判断して、不安を取り除く努力をする(妙観察智(みょうかんさっち))、これら4つの行いを、自分・他者の区別無く、行おうとすることです。この4つの智慧は、迷いの暗闇を明るくする光です。4つの智慧が相結ぶ時、あたかも中秋の名月のように、智慧の光は冴えわたり、たとえどんな困難に遭っても、真実の道を明るく照らし現してくれることでしょう。
此の時何をか求むべき。寂滅現前するゆえに。当処即ち蓮華国。此の身即ち仏なり。
(このときなにをかもとむべき。じゃくめつげんぜんするゆえに。とうしょすなわちれんげこく。このみすなわちほとけなり。)
(『坐禅和讃』おわり)
ここまでくれば、もう迷うことはありません。真実を、遠く離れたところに求める必要はありません。求めるどころか、おのずから目の前に広がっているのです。苦しみは消滅し、無念無相の世界が、静かなる大海のように広がっているのです。
私たちの日常そのものが浄土であり、日々が好日にして、幸せな毎日です。眼で見ること、耳で聞き取ること、身体で感じること、その全てが、仏祖と何ら変わらない生活であり、この自分自身こそが「仏心」そのものなのです。
(『坐禅和讃』おわり)

白隠禅師坐禅和讃 概説

『白隠禅師坐禅和讃(はくいんぜんじざぜんわさん)』は、その経名にあるとおり、江戸時代の臨済宗の僧・白隠慧鶴禅師が作られた和文のお経です。その中心に説かれているのは、坐禅に代表される「禅定(ぜんじょう)」と呼ばれる実践行です。禅定とは「無神経・無感覚にならず、外界の刺激を受けていながら、精神を統一し、雑念を抑え、静かに思慮すること」です。

布施をするにも、戒律を守るにも、称名(しょうみょう)を唱えるにも、全ては「心のあり方」が問題になります。心が落ち着いていればこそ「正しい判断」や「正しい行い」ができるのであり「何事にも徹する」ことができるのです。禅定は、そのための基本となります。

静かに坐って禅定を慮(おもんぱか)る「坐禅」は、インドに於いて古くから行われてきた一種の瞑想方法であります。精神統一のための修行として、手軽にできることもあり、現在では仏教圏以外の国でも坐禅は行われています。

私たちの日常は、誘惑・苦難・不安にあふれています。これらは、正しい判断を狂わす原因となります。これらに打ち克つことができたなら、どんなに安心できるでしょうか。『白隠禅師坐禅和讃』は、そのためのヒントを提示してくれています。

──「奇なる哉、奇なる哉、一切衆生悉く如来の智慧徳相を具有す。但、妄想執着を以ての故に証得せず。」

(きなるかな、きなるかな、いっさいしゅじょうことごとくにょらいのちえとくそうをぐゆうす。ただ、もうぞうしゅうじゃくをもってのゆえにしょうとくせず。)

( なんて素晴らしいことだろうか、世界中すべてのものには、真実の心=仏心が、もともと備わっているではないか。しかし、妄想や煩悩、欲や差別が邪魔をして、私たちは仏心に気付かずにいるのだ。)

お釈迦様は、坐禅によりおさとりを得ました。その瞬間、この言葉を連呼されたと伝えられています。同じように、坐禅和讃の第1句には「衆生本来、仏なり」とあります。お釈迦様も白隠禅師も、私たちが仏であると明言しています。私たちがさとれないのは「仏心」を信じないためであり、禅定力が弱いためであります。お釈迦様が超人ではなく、私たちも凡人ではない、ということを信じて、仏教の実践行につとめましょう。

■参考文献

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