第2章  ディスコで乙女は正餐会


 私って、そんなに魅力がないのかしら?
 それともあの人、陽子がふっと口を滑らせたみたいに、女嫌い?
 だって、可憐なる美少女の私が、こんなに想っているのをハッキリ顔に出しているのに、名前も教えずに平然と行ってしまうんだもの……。
 それにしても、知的なハンサムぶりといい、ボクサーばりの引き締まった体躯のタフネスぶりといい、私の理想のボーイフレンドにピッタリだったわ。
 でもねェ、学校も、どこに住んでいるのかも判らないし……もしかしたら、これっきり2度と会えないかもしれない……。
 あー、バカバカ、直美の大バカ。私って、何てドジなのかしら!
 せっかく家まで送ってもらったのに、それっきりで真っ正直に帰してしまうなんて。
 一生に1度のチャンスだったかもしれない、っていうのに、ミスミスそれを逃がしてしまった私は、ウルトラ級の大バカよ。
 そうだわ! 今から自転車で追いかければ、まだ間に合うかも――。
 でも、無理よね、あの人と別れてから、30分近くも経っちゃったもの。
 井の頭線が事故ででもストップしていない限り、もう電車に乗って、どこか私の知らない遠くへ帰ってしまったはずだから。
 哀れ、乙女の初恋は夢となりぬ……か。
 私、身の上が身の上で<まともな恋愛や結婚なんかできっこない>って先入観が深く潜在意識に刻み込まれているもんだから、ついつい男性に対して諦めが良くなっちゃうのよね。
 ま、いいや、新聞でも読んで気を紛らせよう、っと。
 えーと、新聞、新聞……と、あ、ここにあったわ。
 ははあ、この綺麗な畳み具合から判断すると、今日はまだ、誰も読んでないわね。
 全くパパったら、どうしようもない朝寝坊なんだから!
 さてまず、例によって、三面記事の社会面を最初に広げて、と……ふんふん、なになに『怪奇ミイラ事件』と……。
 えーっ? これ、今日、学校の帰りに陽子が言ってたやつじゃん。
 なーるほど、これね……うーむ、ひょっとしてひょっとするぞ、この事件――。
「パパ! パパ! どこにいるの?」
 風呂場にも食堂にも姿が見えないとすると、あんにゃろ、まだ礼拝堂でノホホンと寝てやがんなー。
 読者の皆さんには、礼拝堂まで走りながら説明するわね。
 私のパパはね、前にも言ったと思うけれど、プロテスタントの『神之園キリスト教会』の牧師さんをやってるの。
 そいでもって、夜しか営業しない、ってんだから面白いでしょ?
 何でか、って言うとねェ……。
 しょうがない! いつかはバレるんだから、気前よく教えちゃうわ。
 実は、私のパパは……吸血鬼なの。
 で、昼間が苦手で、夜しか生活できないの。
 どう、驚いた?
 ついでに言うと、ママや私も……なの。
 あ、もうとっくに見当がついていた?
 十字架を見るたびに貧血を起こしていたから?
 あっ、そうか! こいつはウッカリしていたわねえ!
 ところで、話を元に戻すけれど、ママは元からの吸血鬼じゃないの。
 これも前に言ったと思うけれど、パパは、普通の人間だった、当時はまだ女子大生のママに、一目惚れしちゃったのよね。
 それで毎晩、通い詰めているうちに、挙句の果てには血を吸って、自分と同じ吸血鬼にしちゃったの。
 だから正確に言うと、私は元人間と吸血鬼のハーフ、ってわけね。
 吸血鬼っていえば、当然その商売は血を吸う、これしかないわ。
 適度に血を吸われれば、その人間は、吸血鬼の牙から分泌される毒液の影響で、同じ吸血鬼になるんだけど、もし、吸い過ぎちゃったら……?
 陽子には、あんな風にハッキリ自信を持って否定したけれども、本当はそんなに自信があったわけじゃないの。
 ミイラになっちゃう可能性も、あるかもね。
 そこのところは生粋の吸血鬼のパパに聞かないとわからないから、早く捜し出さないと……。
 フーッ、やっと着いたわ、礼拝堂に。
 と、いたいた、思ったとおり、祭壇の裏側に寝ているじゃないの!
 まるで、酔っ払って紛れ込んだ浮浪者みたいな格好で――。
「やっぱりここね。いったい、いつまで寝てんのよ!」
 いつもだったら午後の1時には起きて、礼拝堂の掃除とかしているんだけれど、最近は甘えていて、だらしないのよ。
 こんな時間帯に来る信者さんは滅多にいない、って貧乏教会のせいもあるけれど……。
「うーむ、良く寝たぞ。ああ、直美か。おはようさん。どうも私は、低血圧のせいで朝に弱くていかんな……」
「パパ! 何を言ってんのよ。おはよう、じゃないわよ。朝どころか、もう夕方よ。ところで、これ、パパの仕業じゃないでしょうね?」
 私は新聞を、パパに渡してあげた。
「どれどれ、フーン……ジャイアンツは良く負けるな。これは、私のせいじゃないぞ。中畑と原がイカンのだ」
「え? どこ見てんの? パパ、スポーツ欄じゃなくって、社会面よ」
「あ、悪い。ふむふむ、何! 怪奇ミイラ事件……?」
 パパの寝呆けていた目が、パッチリと大きく見開いて、画面に吸い寄せられた。
「ねえ、それ、ひょっとして、パパが血を吸い取り過ぎちゃったのが原因じゃないの?」
「ば、馬鹿を言いなさい! 私に血を吸われた者は、最悪の場合でも、私と同じ吸血鬼になるんじゃ。ミイラになど、なったりはせん」
「どんなに沢山の血を吸っても?」
「ああ。どんなに沢山の血を吸われても、だ。しかも、永年の研究の結果、1回に吸う血液量が400CC未満の場合には吸血鬼にはならず、ただ深い昏睡状態に陥るだけ、ということが判っておる」
「ふーん……本当……?」
「本当も本当じゃ。正体がバレて、また吸血鬼狩りなどをやられてはかなわんのでな、最近では絶対に同族を増やさないように用心し、なるべく人工血液で我慢するようにしておる。その私が何で――」
「わかったわ、パパが犯人じゃないってことは。犯人でなければ、それでいいの」
 私としては、やっぱり身内からは、犯罪者を出したくないもの。
 エ? 何? 血を吸うこと自体が犯罪ですって?
 まあ、堅いことは言いっこなしよ、ネ?


 直美の家の夕食は、いつも7時と決っている。
 家族が3人と下宿人が1人の、合計4人しかいないので、食堂は表にある教会に比べ、そんなに大きくはない。
 しかし、救傑の趣味で、食堂には世界各国から集めた、かなり豪華な木彫を施したテーブル、椅子、シャンデリアがあり、初めて見た人間は、フランス料理のレストランにいるような錯覚に陥ってしまいそうになる。
 5年前に家族でヨーロッパに旅行したときに買った、フランス製の四角いテーブルと肘掛けのついた椅子には、直美と、パパの救傑と、ママの智恵子が座っている。
 3人の頭上には、スイスで求めた、銀を細工したシャンデリアが輝いていて、狭い食堂を華麗に照らし出している。
 吸血鬼とはいえ、一応、人間なみに昼間の生活に耐えられるようにと、人間らしき食事も摂ることになっている。
 今晩のメニューの1つは、直美の大好物のトマト・シチューだった。
 どんよりとしたトマトの赤い色が視覚に訴えて、吸血鬼である直美の食欲をそそるのである。
 育ち盛りの直美は、全料理をシチューの中にブチ込んで、犬の餌のようにして食べてしまい、お茶がわりの人工血液を、一気に飲み干した。
「ご馳走さま。でもやっぱり、血は生に限るわね」
 いつものことながら、直美は人工血液に物足りなさを感じていた。
 ミルク抜きのカフェ・オーレ、砂糖抜きのチョコレート、ワサビとショウユ抜きのお刺身、といった感じなのである。
 すると、それを聞きつけた智恵子は、大きなため息をつき、いかにも悲しそうな顔をしながら言った。
「お前もやっぱり、お父さんの血を引いているんだねえ。毎晩、新鮮な生き血を味わわないと、我慢できないなんて……」
「それはママ、仕方ないわよ。だってほら、昔から諺にも言うじゃない? カエルの子はカエルって」
「わかっているけれど……でも、私がいくら一生懸命にこうやって、美味しいお料理をこしらえても……」
 もう40歳になったというのに、悲しそうに視線を伏せた時の智恵子の表情は、まるで喪服の未亡人のようで、同性の直美が見ても、胸の芯が疼くほどに色っぽい。
 直美は、自分の目元から鼻にかけての辺りが、美人のママの智恵子にそっくりだ、と言われるのが自慢なのである。
 しかし、いくら悲しそうにされても、下宿人が同席していない時には似たような愚痴をこぼすのが智恵子の常なので、直美はもう、慣れっこになってしまっていた。
 要するに、救傑や直美と違って、智恵子は生粋の吸血鬼ではないので、本物の生き血のダイナミックな味がわからないのだ。
 犠牲者の喉元に突き立てた牙の先端から、ツーッ……と生き血が舌の上を伝って自分の喉へと流れ込んでくる時、心臓は嬉しげに躍動し、全身の細胞は、エクスタシーにも似た快感を訴えて声にならない歓喜の叫びを上げるのである。
 もっとも、まだ処女の直美には、エクスタシーがどんなものやら、まるでわからない。
 生き血を吸った時の形容し難い快感から、ひょっとしてこんな感じではないだろうか、と乙女の想像をたくましくするばかりだった。
 どころで、人工血液の話に戻るが、救傑が日曜学校とか聖書研究会とか、信者の悩みを聞くといった牧師の仕事のない時に、礼拝堂の地下の研究室で製造していた。
 永年にわたる救傑の苦心の研究の結果、色も匂いも味も人工とは思えない、かなり本物の血液に近くなっていた。
 もっとも、コーヒー専門店の最高級コーヒーと、賞味期限がとうの昔に切れてしまった最廉価のインスタント・コーヒーの味を<近い>と言うのならば、であるが。
 さて、人工血液の最大のメリットは、味つけに各種ビタミンやら、強壮剤やらを惜しげもなく添加した結果、これを飲用していると、古来から吸血鬼には致命的とされた、昼間の太陽光線も十字架も、極度の貧血を起こす程度で耐えられるようになった、という点だった。
 ところがその分、夜間には絶大な威力を発揮した吸血鬼の超能力が若干マイナスされる傾向にあり、救傑によれば、この欠点をカバーするためには、なお数十年の研究改良の余地がある、ということだから、世の中そうそう、美味い話ばかりではない。
 こと、夜間の活力源となると、やはり本物の吸血鬼には『独身男女のフレッシュな生き血』が一番、と聞いた。
 成長期にある直美は、それを補うために、毎晩ディスコに通っているのだった。
 ディスコに行くと、小遣い銭欲しさに自分の血液を売りたい人間や、ひょっとすると採血した血液の横流しで儲けようとしている赤十字や血液銀行の人間が、客を捜しに現われるのか、だって?
 とんでもない!
 仮りにそんな人間がいたとしても、そういう鮮度の低い血液を飲んだりしたら、夜間は不死身の吸血鬼と言えども、悪性の下痢を起こしかねない。
 血の気の余っている若者を見つけて、ナンパされるような振りをして逆にナンパし、隙を見て手早く血を吸ってしまうのである。
 今晩も、直美は自分の部屋に篭ると、アイ・ラインをくっきりと引いて外出用のお化粧をし、パンティーが見えそうなほど短い、超ミニのスカートをはき、乳房のラインが想像できるくらい大胆に襟元の開いたブラウスを着込んだ。
 三面鏡の中に写った直美は、昼間の弱々しい清純な女子高校生からは想像もつかない、小悪魔のような男心を刺激する魅力を持った美少女に変身していった。
 たとえ聖園学院の生活指導のスパイとウッカリ出会って、しげしげと見詰められたとしても、絶対に本人とは、わからないだろう。
 蛇足がてらに付け加えると、吸血鬼は古来、影が薄くて、鏡にはその姿が写らないということになっており、ヨーロッパで吸血鬼狩りが行なわれた時には、一般人の中に紛れ込んだ吸血鬼を見つけ出すために、鏡が発見道具の1つとして用いられたものだった。
 それがちゃんと人間なみに写るようになったのは、この吸血鬼狩りでイヤというほど痛い目に遭った救傑が、日本に渡って来てから研究開発した、人工血液の偉大なる成果の1つである。
 さて、すっかり変わってしまった自分を鏡の中に映し出し、直美は悦に入っていた。
 と、そこへ父親の救傑がノックもなしに入ってきた。
「んもうッ! パパ、歳頃の娘の部屋に入る時は、ノックぐらいしなさいよ!」
 救傑は、毎度のことながら、化粧で別人のようになってしまった我が娘をしげしげと見ていたが、飽きもせずに、いつもと全く同じ注意をした。
「直美。間違っても、同じ人間の血を1週間以内に吸うんじゃないぞ。そうすると、気づかずに400CCのリミットを越えてしまい、その人間は吸血鬼になって、我々は一族の秘密を守るために、仲間に入れて苦労しなければならなくなるからな」
 直美は心配性の父親を明るく笑い飛ばした。
「大丈夫。私は、パパみたいなドジは踏まないわ。パパはそうやって、うっかりママを吸血鬼にしちゃって、秘密を守るために仕方なく結婚して、私を産ませたのよね」
「あ、ああ、その通りだ」
「でもそれは表向きの口実で、パパは本当は、美人のママに一目でぞっこん参っちゃって、他の人間の手がつかない内に急いで吸血鬼にしちゃって、パパと結婚するしか、相手がいないようにしてしまったんでしょ?」
「う、いや……その……」
 救傑は急にしどろもどろになって、吸血鬼にも似合わず、赤くなったり蒼くなったり。
「パパも昔は、意外に純情だったのね。でも、ママは生まれながらの吸血鬼と違うから、パパのお仕込みにもかかわらず、あんまり血を吸うのが好きじゃないみたいだけれど……」
 最近、特に夜の外出に関して、世間の一般的な父親なみに厳しくなった救傑に対して、直美はいつもこの話をすることにしていた。
 そうすると救傑は、年甲斐もなく照れてしまい、話を早々に打ち切って、コソコソと退散していくのだった。
 そのうろたえてどこか間の抜けた後姿を見て、直美は思わずクスッと笑いかけたが、ぐずぐずしているとディスコが閉まってしまうので、急いでポシェット一つを持って、身軽に夜の街へと出発していった。


 さてここは、風俗営業法改正で大きなダメージを被った、新宿は歌舞伎町である。
 しかし、規制が厳しくなったとはいえ、まだ時刻は9時を回ったばかり。
 新法施行直後は、9時というと早くも閑古鳥が鳴いている有様だったが、喉元過ぎれば熱さも何とやら。
 旧法当時ほどまではいかないが、直美のように着飾ったハイティーンの男女や、もしかすると中学生ではないか、と思われるローティーンの女の子が、所狭しと歩いていた。
 直美は、コマ劇場近くのディスコ『ダイヤモンド・ホース』に、いかにも常連顔をして入っていくと、ミラー・ボールが毒々しくきらびやかな光を放っている奥のステージに上がって、踊り始めた。
 聖園学院の地味な制服から一変して、アイドル歌手の初ステージのように派手なコスチュームに着替えてきた直美は、その美貌で周囲の若者たちの視線を独占した。
 何度もしつこく説明するようだが、太陽が沈んだ後の吸血鬼というのは、人間の想像を絶する超能力者である。
 目は深闇の中でも何百メートルを見通し、耳は集音マイクのように、地下鉄工事の騒音の中で針1本が落ちたほどの些細な音でも、確実に聞き分ける。
 直美は、ディスコの騒々しいBGMに陶酔しているかのように、リズミカルに、かつセクシーに肢体をくねらせながら、どこか店内に自分に目をつけてナンパしようとしている若者がいないかどうか、物色し始めた。
 と、いたいた、早くもそれらしい会話が、直美の地獄耳の中に飛び込んできた。
「おい、あれいいな。フリーらしいぜ」
 ステージの傍に設置してある、無料の飲み物や果物が置かれているテーブル脇にいた、2人組の大学生らしい男たちが、直美の体の線を上から下へ、下から上へと、舐めるように何度もイヤらしい目つきで見ながら、ささやき合った。
「なかなか、いいプロポーションしてるじゃん。お前、目をつけるのが早いな。よし、俺たちでいただいちまおうぜ」
 2人は手に持っていたウィスキー・グラスを置くと、ステージの中央で踊っている直美に近づいてきた。
「ねえ、彼女。ここを出て、俺たちとドライブとシャレこまない?」
 直美は最初に声をかけてきた、頭をリーゼントにしている男の顔をチラッと見たが、その誘いには乗らずに、無言で踊り続けた。
 吸血鬼たる直美がナンパされるのには、一大鉄則があった。
 24時間以内にSEX体験を持った男は、駄目である。
 まだ処女の直美の自尊心が傷つけられるから……ではない。
 男はSEXすることによって血液が薄くなってしまい、吸ったとしても、水割りの脱脂ミルクのように不味い血しか味わえないからだ。
 それならば、濃縮人工血液の方が数倍も――味はともかく、手間がかからないだけ――マシである。
 鋭敏化した直美の超能力の鼻が、その男の前夜の数ラウンドに及ぶ濃厚なSEX体験を即座に嗅ぎ分けたのだった。
 リーゼントの男は完璧に無視されたとわかると、腹立たしそうに舌打ちをした。
 が、もう1人の、髪の毛を茶色に染めてチリチリにパンチ・パーマをかけた男は、あきらめずに強引に直美の腕を引っぱって、耳元に口を近づけ、甘くささやいた。
「な、ドライブしようぜ。俺とだったらいいだろ?」
 少しばかり性急に腕を掴まれた直美は、一瞬ムカッとなってパンチ・パーマの男の顔を睨んだが、その男の体臭は清潔だったので、踊りを止めて答えた。
「そうねエ。いいわ。先刻の人はイヤだけれど、あなたとだったら……」
 絶世の美少女の直美から『あなたとだったら……』なんて言われたパンチ・パーマの男は、天にも昇るようなだらしない顔つきになって、飛び上がった。
「よーし。じゃ、決まりだ!」
 面白くないのは、最初に声を掛けてきた、リーゼントの男である。
 いつものナンパだったら自分の方が絶対に上手だ、という自負があるのだろう、今日に限っては相棒に取られてしまい、このままではメンツが丸つぶれで収まらない、といった険悪な雰囲気になってきた。
「おいおい、この子はよオ、俺が最初に目をつけたんだぜ。それに、こんな可愛い子はお前にはもったいないぜ」
「も、もったいないだとオ!」
「ああ。お前だって、自分の顔を鏡で見たことぐらいあんだろ? さ、わかったら、あっさりと俺に譲りな」
 リーゼントの男は強引に直美の腕を掴んで、自分の方に引き寄せようとした。
 しかし、いつも相棒にカワイコちゃんを先取りされているので、パンチ・パーマの男としては10年に1度のチャンスを逃してなるか、と必死の形相である。
「う、うるせえ! いつもお前ばかりいい目を見やがって。昨日だって、ここで引っかけた女とホテルにしけ込んだくせに!」
「何を言ってやがるんでえ! モテない男の僻みか? よこせと言ったら、つべこべ言わずに、素直によこせよ!」
 今日に限って無残に振られてしまったリーゼントの男と、日頃から女には縁のなかったらしいパンチ・パーマの男の間には、直美を奪い合って、パチパチと目に見えない激しい火花が散り、今にもステージの上で乱闘が始まりそうになった。
 直美にとってはどうでもいいことなので、しばらく2人の好きなようにさせて、横でこの様子を眺めていた。
 しかし、顔だけでなく、腕っぷしでも数段、優っているのだろう、次第にリーゼントの男の方が有利な形勢になってきた。
 で、これはまずい、と、直美は中に割って入った。
「もう、喧嘩なんかよしてちょうだい! 私、あきらめの悪い男は嫌いよ。私は<この人の方がいい>って言ったら、この人の方がいいんだから!」
 直美はパンチ・パーマの男の腕にすがると、いかにも憎らしげな表情を作ってリーゼントの男を横目で睨み、そのまま2人でステージを下りていこうとした。
 リーゼントの男は、周囲からも嘲笑の視線を一身に浴びて、無念そうな顔をして見ていた。
 ――と、ちょうどそこへ、頭をチリチリの赤毛にした1人の不良少女が出現し、血相を変えて直美に食ってかかった。
「ちょいと! 私の彼に何しようってのさ? ちょっとばかし顔が可愛いからって、調子に乗るんじゃないよ!」
「えーっ? あなたの彼氏ですって?」
 直美は少し唖然として、少女を見返した。
 ソバカスだらけの顔を、厚化粧と濃いアイ・シャドウで隠しているが、お世辞にも可愛いとは言いかねる。
 多分、ずっと以前にこのパンチ・パーマをかけたモテない男に引っかけられ、ディスコ近くの安ホテルのベッドで、お互い異性にモテないことを慰め合ったことがある少女だろう。
 見たところ、直美とそう年齢の差はなく、同じ高校2年か、年上でもせいぜい高校3年だろうと思われた。
 チャラチャラと裾の広がったラメ入りのワンピースを着、せいぜい可愛い子ブリッ子しているが、ピエロのように毒々しい厚化粧と、まるでバランスがとれていない。
(ウルサいのが出てきたわねエ……)
 と思いつつ、直美は軽くあしらって通り過ぎようとしたが、少女はそうはさせじと前に回ってもの凄い剣幕でまくし立てた。
「何か言ったらどうだい。バカにするんじゃないよ。あたいを誰だと思ってんだい! 歌舞伎町のディスコ・クィーンの『ジャッキー』様を知らなきゃア、新宿は歩けないってんだヨ!」
 直美は中学1年の頃から<獲物を求めて>毎夜のように歌舞伎町に来ていて、既に足掛け5年になるが、ディスコ・クィーンのジャッキーなどという名前は、初耳だった。
 髪を赤く脱色し、ハーフっぽい<通り名>を名乗ってはいるが、低い鼻と厚い唇、髪の生え際が黒くなりかけているのを見れば、純東洋系の血統なことは、一目瞭然である。
「へーえ、ディスコ・クイーンのジャッキーさんねえ……」
「どうだい、驚いたかい? あたいはね、ここに来て3年になろうってんだ。そのあたいを差し置いて男を引っかけようなんざ、10年早いんだよ」
 ガンガンと耳をつんざくディスコ・サウンドの中で、興奮してハアハアゼエゼエ言いながら、少女は肩を怒らせて叫び続けていた。
 無軌道な生活と運動不足で、心肺機能が低下して息が続かないのだろう。
 直美が平然と微笑して黙っていると、少女は遂にカッとなって、ヘア・バンドに隠してあったカミソリを取り出すや、わめきながら掴みかかってきた。
「こいつ! 痛い目を見たいってのか!」
 人の目もあるし、適当に応対していればどうせこのイカレ少女も諦める、と軽く見ていた直美も、自分の身に降りかかってきた火の粉は、避けなければならない。
 勢い良く突進してきたのを、軽くサイド・ステップしてかわしながら、足払いを掛け、同時にドンと少女の肩を突いた。
 前にも書いたように、日没後の吸血鬼というのは、ウルトラ級の超能力者なのである。
 直美は小手先で軽く突いたつもりだったが、少女は悲鳴を上げながら、ゴム・ボールのように宙をスッ飛んでいった。
 そして、果物や飲み物の置かれているテーブルの中に裏返しになりながら突っ込んでしまい、頭から浴びたウイスキーやカクテルで、全身ズブ濡れになった。
 ガンガンと鼓膜を破るように鳴り続けているサウンドのせいか、周囲の人間の半分以上はこの異変に気がつかず、相変らずステージで四肢をくねらせて、熱狂的に踊っている。
「おわかり? その程度の腕で、カミソリを振り回して私にイチャモンつけようなんて、一〇年早いんだよ」
「お、お、覚えてろ!」
 少女は捨て科白を吐くと、アルコールが目にしみるのか、泣きわめきながら逃げるようにして外に走り出ていった。
 この様子をずっと横で見ていたパンチ・パーマとリーゼントの男は、感心したように改めてしげしげと直美を見た。
「スッゲエや……ねえ、彼女、可愛い顔しているわりに、強いんだねえ……!」
「うっふふふ。こう見えても私、女子プロレスのスカウトから声を掛けられたこともあるくらいなのよ」
「道理で……!」
 直美はニッと笑ってみせると、パンチ・パーマの男の腕に自分の腕を絡ませ、周囲に見せつけるように仲良くディスコを出ていった。
 リーゼントの男は直美の凄腕にビックリしてしまい、とうとうパンチ・パーマの男から直美を奪い返すことを諦めて、腕を組んで去っていく2人に呆然と力なく手を振るだけだった。


 歌舞伎町から少し離れた、小便臭い裏通りに路上駐車してあったパーマの男の車は、ミーハー好みの『BMW』だった。
 ポケットからキイを取り出しながら、男はいかにも得意そうにBMWのボディを示した。
「これが俺の車さ。格好いいだろう?」
「ええ。私、前からこんな車に乗ってみたいと思っていたの」
 調子を合わせて答えはしたが、直美にとっては車の格好など全く気にならない。
 サンダーバードだろうと、ブルーバードだろうと、ブルドーザーだろうと、2人きりの『動く密室』になる可能性のある車なら、何でもOKである。
 要は、それを運転する男の血液が美味いかどうか、だった。
「そんでさ、どっちへドライブする?」
「どこでもいいわ、あなたの好きな所で」
「よーし、そんじゃ一発、多摩湖あたりまで吸っ飛ばすとすっか!」
「OK。じゃ、多摩湖ね」
 ウィンクしながら、直美はBMWの助手席に乗り込んだ。
 パーマの男は誇らしげに大きな音を立ててドアを閉めると、エンジンをかけて青梅街道を西へ向けて車を走らせていった。
 さすがにこの時間帯だと、事故や道路工事に遭遇しない限り、渋滞も見られない。
 しばらく走った時、対向車線を、都心方向にサイレンを鳴らして疾走していく数台のパトカーとすれ違い、直美はふっと気になって、男に尋ねた。
「あなた、あの人と一緒にウイスキー飲んでたでしょ? 大丈夫?」
「平気平気。このくらいのアルコールは、窓を開けときゃ、風で吹き飛んじまうよ」
「それならいいけれど……」
 直美としては、男が検問に引っかかって酒酔い運転で検挙されたりして血を吸い損なったら、元も子もないのである。
 また新宿か渋谷に戻って、1からやり直さなくてはならない。
 いや、検問ならともかく、衝突事故でも起こされたら、それすらもできなくなってしまう。
 それにしても、全開になった窓から心地よい夜の風が入ってきて、外を眺めている直美の髪をからかうようにかき乱した。
 ほのかな湿気を含んだ夜の微風は、地球上に吸血鬼一族が誕生して以来、良き遊び友達なのである。
(直美。今日の直美は、とっても可愛いよ)
(あら、そうオ?)
(誰かいい人でも、できたのかなア……)
(残念。大外れ、と言いたいところだけど、当たらずと言えども遠からず――)
(へーっ、それじゃあ……?)
(うん、せっかく素敵な人を見つけたのに、私の魅力不足で、逃げられちゃったのよ……)
 直美は、風の精との応答に見立てて、乙女チックに、昼間のハンサムで爽やかな青年のことを回想し始めた。
 夜のドライブも、あの素敵な青年とだったら……。
 ところが、直美のロマンチックな夢気分をぶち壊すように、横の男がハンドルを握りながら、何とか直美の気を引こうとして、あれこれと下らない話をしてきた。
「君さあ、ディスコって、よく来んの?」
「ええ、時々ね……」
 血は美味そうだが、声に品がなくて、ため息が漏れてしまう。
 これだったら、動物園に侵入して、ゴリラの血でも吸った方がマシかもしれない。
 1度、その案も検討してみよう……。
「俺なんかさあ、もう、毎日だぜ。去年、カンニングがバレて大学を中退してから、暇なんだよね。でさあ、毎晩のように踊り狂っているってわけ」
『うるさいわねえ! そんな話はどうでもいいから、真っすぐ前を向いて運転しててよ!』
 と言い返したいところだったが、これもディナーの前の出来損じのオードブルと思い、直美は話に相槌を打ってやった。
「へーえ。大学って、カンニングがバレると、退学にされちゃうの?」
「そうなんだ。俺の行ってた大学、やったらと厳しくってさあ……」
「ふーん」
 それにしても、昼間のあの青年なら、自分の恥をさらすような話題を得意げに持ち出すこともないだろう。
 話が下らなくなればなるほど、直美には横の男が単なる食料の塊に見えてきて、食欲を刺激され、舌下腺から溢れ出してくる唾液で、喉元がグビグビと鳴り始めるのだった。
 幸い、エンジン音でかき消されているが、静寂の中でだったら、生身の人間の耳にも聞こえてしまうだろう。
「まあいいや、そんなこと。そりゃそうとさあ、君の家は、どこにあるの? 杉並? 世田谷?それとも文京区辺り? 俺は、青山のマンションに住んでいるんだけんどね」
 直美は、早く血を吸いたくて喉元が疼いてくるのを堪えるのに、懸命だった。
 吸血鬼は、口の中の唾液の量が増すのと同時に、吸血牙、俗に言う犬歯が、平常時の3倍から4倍の大きさに成長するのである。
 血を吸う以前にそんなところを見られてしまったら、正体を悟られて獲物に逃げられることになりかねない。
「へーえ、青山にマンションを持っているなんて、格好いいじゃない!」
「だろ? 赤坂も六本木も、俺の家の庭みたいなもんさ」
 大嘘ばっかり、と直美は男の間抜けさ加減を胸の中で嘲笑して、食欲を一時的に紛らせることにした。
 なぜなら、この車は『埼玉ナンバー』なのだから。
「そうね、教えてあげてもいいけど、まだ秘密にしときましょ」
「そんなこと言わずにさあ、電話番号だけでもいいからさあ」
「電話番号教えたら、それで電話帳を片っ端から調べて、住所まで捜し当てちゃうつもりなんでしょ?」
「あっ、バレたか!」
「わかるわよ、そのくらい。こう見えても私、モテるんですからね」
 遂に食欲に負けて少しずつ唇の外まで伸び始めた牙を何とか隠しながら、直美がチラッと横目で見やると、男はハンドルを握りながら、ミニ・スカートから出た直美の長くて引き締った脚を一生懸命に盗み見ていた。
「危ないじゃない! ちゃんと前を見て運転してよ!」
「あ、ごめん! あんまり君の脚線美がセクシーなんで、つい――」
 男は急いで視線を前方に戻す振りをするが、1分と経たない内にまた、直美の足元へと戻ってくる。
 実はこれも、女吸血鬼の基本作戦の1つで、顔をしげしげと見詰められると、牙が伸び始めていることをいつ見抜かれないとも限らないので、視線を顔からそらさせるために、直美は獲物を猟りに外出する時には、下着が見えるか見えないか、ぎりぎりの超ミニ・スカートをはくことにしていた。
 頭の中味よりも下半身が充実しているような男は、即座にこの作戦に引っかかり、生きながらスパイスの効いたレア・ステーキになったように、更に直美の食欲を刺激する。
「ところで、電話番号のことだけど、どうしようかな。今夜のドライブ次第では、教えてもいいけれど……」
 唾を呑み下しながら、色っぽい仕草で直美が誘い水をかけると、男はだらしなく目尻を下げ、今にもヨダレをこぼしそうになった。
「ほ、本当かよ?」
「ええ、本当よ。だから、私に素敵な夜を味わわせて、ね?」
 直美の甘い誘いに、男はいよいよ8時20分に目尻を下げると、荒くなった息遣いをごまかすようにアクセルを大きく踏み込み、スピードを上げた。
 早くこの可愛い獲物を裸にして食べてしまいたい、という欲望が、尻尾に火をつけられた発情猫のように、頭の中をグルグルと駆け巡っているのだろう。
(とんでもない! 獲物を食べるのはお前じゃなくて、私の方なんですからね! お前みたいに不細工な男は、私のように可憐な吸血鬼の王女様に血を吸ってもらえるだけ、名誉だと思うことだよ)
 と、直美はいよいよ鋭く尖り始めた牙の先をそっと舌で湿らせながら、こっそり心の中でつぶやいた。


 2人を乗せたBMWは既に23区を離れ、直美の通っている聖園学院のある武蔵野市も通り過ぎて、保谷市までやって来ていた。
 直美の住んでいる富士見ヶ丘も田舎だが、保谷市周辺はそれとは比較にならない大田舎で、夜の10時過ぎともなれば、コウモリが飛ぶほどである。
 車で女の子を誘い出して連れ込むのには、絶好の場所かもしれない。
 青梅街道から外れ、畑や雑木林の間を縫って走っている細い道をくねくねと曲ると、男は辺りに人影の全くない、学校らしい建物の裏にBMWを停車させた。
 街灯の光も、繁茂している枝に遮られて、ほとんど路面まで届いていない。
「あら、どうしたの、こんな寂しい所で?」
「うん、ちょっと調子に乗ってスピードを出しすぎちまったら、エンジンが、オーバー・ヒートしちゃって」
 男はサマにならない言い訳をすると、キイをひねってエンジンを止め、直美の肩に手を回してきた。
「ねえ、彼女……」
「あら、エンジンの様子を見なくてもいいの?」
 軽く男の手を押し戻すポーズをしたりして、直美は一応、カマトトぶって見せた。
「じらすなよ、わかってるくせに!」
 男は、ニッと歯ぐきまで剥き出した下品な笑いをしながら口を近づけてきて、吐く息も荒く、直美の唇を求めようとした。
「な、な、いいだろ?」
「待ってよ、せっかちな人ねエ……」
 直美は、ちょっとためらった振りをして、顔を背けた。
 この時にできるだけ大きく首を斜めに背けて、首筋から胸元にかけての白い肌が男の目の前にクッキリと浮き上がるように見せて、そちらに関心を引き寄せるのが、伸びた吸血牙に気づかせない、1つのポイントである。
 唇へのキスを拒まれた男は、まんまと誘いに乗って直美を抱き締め、首筋から胸元へと接吻の雨を降らせながら、自由になる方の手でブラウスの上から性急に直美の胸の膨らみをまさぐってきた。
 風邪の初期症状のようなゾクゾクッとした悪寒が、直美の背筋を走った。
 だが、これもディナーを味わう前の必要なセレモニーだと思って、直美は我慢することにしていた。
 しかし、グズグズしていると、男はほとんど例外なく、ブラウスの上からでは満足できずに、胸との隙間から手を入れてきて、直接に乳房の柔らかさを確かめようとする。
 その前に、獲物の料理に移らなくてはならない。
 直美は、アアン……などと、はしたない声を発し、適当に感じている演技をしながら、吸血鬼の鋭い牙を思い切り剥き出すや、自分の胸元にキス・マークをつけようと熱中している男の首筋に、一気に突き立てた。
 吸血牙の先端から頚動脈に流れ込んだ毒の作用で、一瞬、男の上体はビクッと麻痺したように硬直し、小刻みに痙攣し始めた。
 もうこうなったら、男には何の意識もなく、翌朝になって車の中で目を覚ました時には、毒の後遺症で、直美をドライブに誘った記憶すらも、喪くしているはずなのである。
 ディスコでウイスキーを飲みすぎて、無謀にも、前後不覚に酔ったまま車を運転して帰ろうとした、ぐらいにしか思わない。
 倒れてこないように両手で男の体を支えながら、直美は本能を剥き出しにし、男の頚動脈から溢れ出てくる鮮血を吸った。
 最初の一口で、脳天に落雷の洗礼を受けたような何万ボルト級の電気ショックが、脊髄を通って手足の指先まで走り抜けた。
 二口、三口と生温かい血液を飲むにつれ、その電気ショックが思わずうめき声を発したいほどの強烈な快感に変化していく。
 全身の皮膚感覚を司っている全神経細胞がエクスタシーの囚となってよじれ、のたうち、直美は、体中の血液が100度近くまで熱せられて沸騰し、激しく逆流し始めたような錯覚に捕えられるのだった。
 だが、飲み過ぎに御用心!
 こんな不細工な男が吸血鬼一族に加わるような事態になったら、吸血鬼の由緒ある歴史の一大汚点となりかねない。
 直美は、ほどほどにして、牙を男の喉元から引き抜いた。
 あとにはポツリと2つ、ブヨに刺されたような紅色の跡が残っている。
 が、この跡も、男が意識を取り戻す頃には消えてしまっているから、吸血鬼に襲われたことを示す証拠は、何も残らない。
 吸血鬼映画などで、被害者の首に翌朝も傷が残っている場面が描かれているのは、400CCの許容限界をオーバーして飲んでしまった場合だけである。
 牙毒が、人間本来の備えている抗体の抵抗力を上回ってしまうのが原因で発疹が消えなくなるわけで、これも救傑の長年の研究の結果、解明された現象だった。
「ふーっ。ご馳走さま。まあまあの味だったわ。中の上、ってところかしらね」
 直美はハンカチを出して口元を拭った。
 一昼夜以上SEX体験のない男の生き血を吸えば、必ずエクスタシーは味わえる。
 しかし、その昇り詰めていく絶頂感の高さが、相手の男の体質や血液型によって、若干の差が出てくるのである。
「もう少し吸いたいけれど、これ以上、吸うと、あんたも吸血鬼になっちゃうものね。下手をして吸血鬼になんかになられたら、パパみたいに責任を取って結婚、なんていうのは、私は真っ平だから、バイバイね!」
 食欲を満たしてくれた感謝の印しに、昏睡状態に陥った男に向かって悪戯っぽく投げキッスをすると、直美はBMWのドアを開けて外に出た。
 ちょうど煌々たる満月が、頭上から白々と無人の舗道を照らしていた。
 直美はふっと足を止めて空を見上げ、満月に話しかけた。
(お月さん。お月さんだったら、あの素敵な人と私の結婚に、賛成してくれる?)
 直美が昼間の青年に思いを馳せながら尋ねると、月面の様々な海の翳りが、ちょうど微笑している顔のように見えた。
(そうじゃなあ、直美ちゃんだったら、きっとお似合いじゃろうよ)
(嬉しい! お月さん、ありがとう。ああ、もう1度、王子様みたいなあの人と、巡り会えたなら……)
 そしてそれが周囲に誰も人のいない夜の道だったりしたら、直美はためらわず青年の首根っこに飛びついて、500CCでも800CCでも、一気に血を吸ってしまうだろう。
 当然、青年の体内に流れ込む牙毒は許容リミットを越えて、抗体が牙毒を分解して体外に排泄することができなくなり、青年は直美と同じ吸血鬼になってしまう。
 そうなったら、直美は喜んで責任を取って、青年と結婚するつもりだった。
 そして、白夜で有名な、冬にはその逆で、何カ月も太陽が地平線から昇らない北欧の国へと、甘い甘いハネムーンに……。
(ああ! 何が何でもあの時、強引にあの人を帰さないで、他人目なんか気にしないで血を吸ってしまうことができたら……)
 残念ながら、昼間の太陽の下では吸血鬼は瀕死の病人も同然で、血を吸いたくても、牙が全く伸びてくれないのである。
 しかし、そんな乙女の願いが届いたのだろうか、月の光はいっそう輝きを増し、直美に希望を捨てないように、励ましの微笑を送ってきたかのようだった。