[満月の夜はスキャンダラスに]
(註)この作品は、若桜木の著作リストの(41)『誘拐犯はエイリアン?』(ポプラ社より1993年6月20日刊)の原案になったジュニア小説で、未推敲状態のものです。作家が、1つの作品を完成させるまでに、どんな妄想を展開させるか、そして、どんな風に贅肉を削ぎ落としていくのか、参考にしてみてください。
第1章 美少女は献血車が大嫌い
私の名前は、神之園直美。神之園なんて、ちょっと変わってる苗字でしょ?
私のパパが日本に渡って来て、戸籍を取得するために帰化を申請した時にね、お役所の係の人に『何でもいい』って言われて適当に苗字を考えたら、こうなったんですって。
ほんと、日本のお役所って、いい加減だと思わない?
でも、あなたはどう思うかわからないけれど、佐藤とか、田中とか、三木、福田、大平、鈴木なんてのよりは、よっぽどいいと思っているわ。
私は、なんとなく神秘的な感じがして、気に入ってるの。
あ、そうそう、あなたとお会いするのは、今日が初めてだったわね。
遅れて悪かったけれど、自己紹介するわ。
私は、東京の武蔵野市にある、聖園学院女子高校の2年生なの。
その聖園学院ってのは、一見したところ、カトリック系の学校で、すっごーく校則が厳しいわけ。
一見したところっていうのは、本当は仏教系の学校で、講堂の真ん中正面の観音開きの隠し扉の奥には、お釈迦さまのご仏壇が安置されているからなの。
あら? 観音開きだから、観音さまの方だったかしら?
とにかく、今どき仏教系の女学校だなんて、辛気くさくてダッサーイ感じがすると思わない?
毎日、朝礼の後でご仏壇に向かって、ナンマイダーの、ナンミョーホーレンソウの、ナムカラヤーの、トンチキチーン……。
こんなのを学校のセールス・ポイントにしていたら、生徒なんて、ロクなのが集まってこないわよね。
それで理事長先生は、校舎を建て直す時に、蔦の絡まった一見レンガ風の校舎だとか、ブドウの実と葉がデザインされた、黒い鋼鉄のヨーロッパ風の校門だとか、一見大理石の、実は大理石紋様のプラスチックの廊下だとか、何から何まで、カトリック系の雰囲気の学校に仕立て直してしまった、ってわけ。
ないものはただ1つ、屋根の上にデーンと立派な十字架が建っている、礼拝堂……。
それで先刻の、すっごーく校則が厳しい、って話に戻るけれど、パパは可愛い一人娘に変な虫がつくといけない、っていうんで、校則が厳しいのと礼拝堂がないのとが気に入って、私をこの聖園学院に入学させたってわけ。
パパだって元は、美人のママに一目惚れして、虫になって毎晩、ママの寝室に通いつめて、私を産ませたんだから、男の考えることなんて、勝手よね。
でね、入学させられた以上は仕方なく、校則でスカート丈まで決められた、このどうしようもない田舎っぺ風デザインの制服に身を包み、毎日学校に来て、勉強してるの。
あ、いやいや通わされているんだから、どうせロクな勉強してないんだろう、って思っているんでしょ?
ところがどっこい、理事長先生のカトリック・ムード作りが大成功して、あっちからもこっちからも馬鹿な親が娘を送り込んで、その結果としてレベルが上って、今じゃあウチの学校は都下でもちょっと名の売れた進学校なの。
数名だけど、東大にだって進学しているし、そんじょそこらのパープリン女子高と同じに考えないで欲しいわ。
え?『パープリン』の意味がよくわからないから、言葉の由来と正確な意味について説明してほしい、って?
そう深く追及されると、弱っちゃうのよね。
私って、言葉をムードと感覚で使っちゃう方だから……。
えーっと『パープリン』ってのは、頭がパーで、脳味噌の表面がプリンみたいにプルプルしているような――つまり、お脳の記憶細胞に何にも記憶されていない――子のことを言うの。
オワカリニ、ナリマシテ?
あれ? どこまで話したんだっけ?
あ、そうそう、入ってみればわかるけれど、進学校ってのは、ほんとに大変なの。
あーあ、今日も朝からびっしり6時間授業を受けて、頭が崩壊寸前状態だわ!
みんながみんな、東大やお茶の水女子大を受験するわけじゃないのに、何でこう毎日毎日、山のような宿題を出すの?
『こんな学校、やめてやるーっ!』って叫び出したくなるわ。
あなた、ちょっと私と交代して、何日かこの学校の生徒になって通ってみない?
3日もったら、あなた、大物よ。
不満をぶちまけたら、何だか興奮してきちゃったわ。
頭の中から授業性催眠願望症ウィルスがようやく駆逐されて、スーッと目が醒めてくる感じ。
「直美。何一人でブツブツ言ってんのよ?」
「わーっ、びっくりした。いきなり後から背中を叩いたりしないでよ!」
「何を言ってんの! さっきから名前を呼んでいるのに、全然、返事をしないんじゃないの!」
「あら、そうだったの?」
あ、紹介しとくわ、彼女、早川陽子。
ミス聖園学院は、私かこの陽子か、って噂されていて、近所にいくつかある男子校の生徒から付け文されるラブ・レターの数では、1、2を争っているの。
でも、ライバル意識は全然なくて、すごーくウマが合って、週に2回は私が学校に遅刻しないように、わざわざ家まで起こしに来てくれるくらいの親友なのよ。
「直美ったら、いったい、いつまでそうやって独り芝居をやってるつもり?」
「あ、ごめんごめん、何しろ初登場だから、読者の皆さんに、自己紹介をしておかなくちゃいけない、と思って――」
「え? 何よ、初登場とか、読者とかって……」
「あ、いいのいいの、全部こっちの話。さ、帰りましょ」
では、皆さん、これからしばらくの間、私、神之園直美めの、スリルと波瀾に富んだハラハラドキドキの、ロマンチック・ラブサスペンス・ミステリー・スカンジナビア風の一幕をお楽しみ下さいませ。
あれ? 何だか、昔の紙芝居みたいになってきちゃったかしら……?
と、まあそういうことで、自己紹介も済んだし、直美と陽子は仲良く肩を並べながら、ブドウの実と葉がデザインされている、黒い鋼鉄の中世ヨーロッパ風の校門を出て、通学駅の吉祥寺に向かって歩き始めた。
最初の内は、ごく普通の女子高校生らしく、宿題の話とか、先生の悪口とか、どうということもない話題でペチャクチャとやっていた。
が、しばらく歩いてふっと周囲に人通りが少なくなったところで、陽子はちょっと声のトーンを落とすと、まるで怪談話でも始めるように勿体をつけて、直美の耳元でささやいた。
「ねえねえ、直美。保谷のミイラ事件、怖いと思わない?」
「え? 保谷のミイラ事件って?」
直美がキョトンとして聞き返すと、陽子は田舎者を見る東京っ子のような軽蔑の眼差しになって、直美を見返した。
「やっだア! 直美、今日も新聞、見てないのオ?」
「うん、私、陽子もよく知っているように、ひどい低血圧でしょう? とにかく、朝は弱くって……で、どんな事件?」
「巡回のお巡りさんが、不審な路上駐車の車を見かけて何の気なしに中を覗き込んだら、運転席にミイラ化した死体があった、っていうのよ」
「うわア、怖ーい!」
直美は可愛い子ブリッ子風の悲鳴を上げてみせた。
なにせ直美は、ウルトラ級に朝が弱いので、朝刊を読むのは家に帰って宿題を済ませてから、夕刊と一緒にである。
しかも直美の父の救傑が、直美に輪をかけて朝に弱いので、自然と新聞を読む時間帯が一緒になり、新聞を占拠されてしまって、3日に1度はまるで新聞を読めないことがある。
救傑は、夜が勤務時間のガードマン――ではなくて、後でもっと詳しく説明するが、プロテスタント教会の牧師である。
救傑が、苗字と同じ『神之園教会』なる教会を開いて、そこの牧師におさまるしかなかったのには、実は深ーい訳があるのだが……。
陽子は直美の反応を見て、クックックッと満足そうな笑いを漏らすと、今度はレポーターよろしく、身振りまで入れて、ドキュメンタリー風に怪談話を続けた。
「でも、ミイラになったその死体には、全く外傷はなかったんですって」
「ふーん……不思議な話ねえ」
「ひょっとして、ヨーロッパの伝説の吸血鬼のドラキュラ伯爵が甦ってきて、その人を襲って全身の血液を吸い尽くしてしまったんで、死体がミイラになったんじゃあ……なーんて思わない、直美?」
「吸血鬼だなんて、怪奇映画じゃあるまいし、そんなものが本当にいるわけないじゃない。この科学文明の世の中に!」
いきなり陽子が『吸血鬼』なんて言い出したものだから、不意を突かれた直美は笑い飛ばそうとしてそれができず、頬がピクピクと引きつりそうになってしまった。
陽子に悟られないように、慌てて花粉アレルギー風のクシャミをしてごまかしておいて、直美は言った。
「それに、吸血鬼が血を吸ったって、ミイラになんかなるわけないわ」
「あら、どうして? だって、血がなくなってしまうんでしょ?」
「吸血鬼に血を吸われると、ミイラじゃなくて、同じ吸血鬼の仲間になってしまうのよ」
「どうして直美が、そんなこと知ってるの?」
陽子は、新聞を読む暇もないほどの直美が、いったい何処から、そんな知識を拾ってきたのだ、という疑いの目で、ジロジロと見返した。
そこでまた直美は、慌ててクシャミをしてから答えた。
「た、確か、百科辞典か何かで読んだことがあるのよ。ブリタニカ百科辞典だったかしら。とにかく、そんな非科学的なこと言ってると、笑われちゃうわよ」
「そうかなあ……私はいい考えだと思ったんだけどなあ……」
直美に頭から否定されて、陽子は少しがっかりした表情になった。
昼間は触っただけで引っくり返ってしまいそうに、蒼白くナヨナヨとしている直美を驚かそうとして言い出したのだろうが、どうしてそんなにもひどい低血圧なのか、陽子がもし直美の秘密を知ったら、それこそミイラ事件どころでは、なくなるだろう。
(陽子が突然、吸血鬼ドラキュラだなんて言うもんだから、ビックリ、シャックリ、大クシャミだわ……)
内心、直美は陽子の鋭い発想に驚いていた。
もっとも、顔は可愛いけれども日頃は鋭さと縁のない、ピント外れなところのある陽子の言い出したことだから、単なる偶然かもしれない。
(それにしても、保谷のミイラ事件ていうのは本当かしら? 嘘の下手な陽子の言い出したことだから、きっと本当のことよね……)
家に帰ったら、さっそく今朝の新聞を読んで確かめてみなくては、と直美は思った。
とにかくこれで吸血鬼の話に一応の決着がつき、2人は駅への道を急いだ。
さて、聖園学院から吉祥寺駅へ出る通学路の途中には『サン・ロード』なる商店街がある。
アーケードの下のカラフルな舗道の両側には、学校帰りの女子中学生や高校生でいっぱいの、服や鞄や靴といったファッション関係のブティックが所狭しと並んでいる。
直美たちも、今が盛りの女子高校生、ウィンドゥ・ショッピングぐらいしたいところだ。
ああ、それなのにそれなのに、校則が厳しくて、買物どころかウィンドウ・ショッピングすらできないのである。
もし、店の前に立ち止まり、チラッとでも中を覗いている現場を、運悪く、生活指導の教諭に見つかりでもしたら、それこそ大変!
理事長兼、学院長の須貝先生の耳に入る頃には、話に尾ひれがついた上にねじ曲って、色目を使って他の男子高の生徒を誘惑していたような話にスリ替り、問答無用で1週間の停学ぐらいは覚悟しておかなければならない、というのだから驚きだ。
だもので、直美と陽子は仕方なく、その右側に1つ外れた、東急百貨店の前の通りを通学路にしていた。
ここなら、生活指導の教諭もいないし、花の女子高校生である2人を誘惑する、ブティックや喫茶店もない。
しかし、考えることは誰しも同じで、その通りには一見して聖園学院の生徒だとわかる、紺色のブレザーに身を包んだ女の子が、ぞろぞろと兵隊の行進のように、脇目もふらずに駅へ向かって歩いていた。
三流のテレビ・タレントなら裸足になって逃げ出したくなるほどの可愛い子ちゃん揃いで聖園学院は有名なのだが、不思議なことに彼女たちは下校する時になると、急に不機嫌そうな顔つきになり、ブスーッとしながら歩くのだ。
不機嫌を絵に描いたような女の子ほど、いただけないものはない。
ではなぜ、彼女たちは不機嫌なのか?
答は簡単、通行人の中に学校側のスパイが潜んでいて、こっそりと彼女たちの会話を盗み聞きしているのである。
もし、万が一にも学校の品位を落とすような会話、特に芸能関係の話題を交していようものならば、即刻スパイは、自分の懐に隠し持った全生徒の顔写真の載ったエンマ帳と照合して名前を控え、その内容を理事長の須貝先生に報告するのだ。
外部の人間から見ると、ちょっと異常とも思えることだが、須貝理事長はいたって真面目で、今日の教育の荒廃の原因はテレビ、それも芸能番組の低俗さにある、と、時あるごとに教育委員会などで豪語しているのだそうだ。
理事長兼、学院長の須貝先生のフルネームは、須貝トメ。
学院長というよりは、時代劇に出てくるガラッパチの八百屋か魚屋の女将のような名前だ。
ところがどっこい、時代劇ならば、女郎屋のヤリテババア、会社ドラマならば、男など屁とも思わないハイミスの古ギツネ、ホームドラマならば、嫁をイビってイビってイビりぬく鬼の姑、というくらいに口うるさく、疑い深い。
しかも始末の悪いことに、須貝理事長は、自分の考えることがどんな場合にも絶対正しい、と固く思い込んでいるのである。
先週なども、直美のクラスメートである佐藤亜紀子と佐々木貴子が、来月の中旬に行なわれる運動会の出し物についての話をしていた。
ところが、どこでどう話が変わったのか知らないが、スパイから須貝理事長に伝わった時には、フジテレビの『オールスター芸能大運動会』に出場するアイドル・タレントの話をしていたことになっていたのだ。
その時は、幸いなことに亜紀子が運動会の実行委員長をしていたので、翌日、須貝先生の理事長室に呼ばれた時に、すぐに誤解が解けた。
だが、いつもいつも、こう上手くいくとは限らない。
そこで直美と陽子はもちろん、聖園学院の生徒は、周囲に通行人の姿のある商店街に差しかかるとプッツリと会話をやめ、いかにも不快そうな顔をしながら歩くのである。
何も話すことがなくて話さないのならばともかく、話したいのに何も話せない、というのは、おしゃべり好きの若い女の子たちにとっては、つらい。
『徒然草』にも言わく、もの言わぬは腹ふくるるわざなり。
会話がないせいか、胸と胃の辺りに何かが突っかえているような一種の息苦しさを感じながらも、2人は吉祥寺駅まで、あともう少しのところまで来た。
――と、駅前通りまでやって来た直美の足が、パッタリと停止した。
いつも最初の一瞬には、直美自身にも何が起こったのか、よくわからない。
ただ、地球の景色を司る神様が、うっかりカラー・スライドのネガとポジを間違えてしまったみたいに、周囲の色彩がクルッと入れ替ってしまうのである。
そしてそれは、ネガの状態のまま脱色剤の中につけ込まれたように、数秒でモノクロの、黒と灰色だけの世界に変わっていく。
同時に、直美の手足からスーッと力が抜けて……。
「どうかしたの? 直美」
「だ、大丈夫よ……何でもないから……」
と、直美は答えようとした。
だが、声が、砂漠を放浪した末にようやく救助された遭難者のように、かすれて上ずって言葉にならず、直美は陽子の方へ、フラフラッと崩れるように倒れかかった。
「ちょっと! ど、どうしたのよ、直美? しっかりしなさいよ!」
慌てて陽子は、直美の体を支えた。
片手では支えきれないので、鞄をコンクリートの舗道上に捨てるように置いて。
「私、駄目! 血を採られるって考えただけで、もう……」
「え? 血ですって?」
陽子は、背中と肩で直美の体重を受け止めるような格好で、周囲を見回した。
――と、いたいた、パルコの前の広場には、しっかりとそのボディーに赤十字のマークをつけた、大型バスのような献血車が。
そこでは、白衣を着た係員たちが、盛んに献血者を募っていた。
その内の何人かは、新風俗営業法の施行で新宿の歌舞伎町からあぶり出されて、仕方なく商売がえをしたものの、前の仕事の習慣が抜けきれないで、しつこく通行人を捕まえて、呼び込みをやっているように見えた。
もっとも、直美が採血の係員たちをそういうふうに感じたのは、俗に言われる『被害妄想』というヤツだろうが……。
「何よ。直美もだらしないわね。献血車って言っても、誰も追っかけてきて無理矢理に採血したり、しやしないんだから!」
「でも、駄目なものは駄目なのよ。あれこそ、現代の吸血鬼よ!」
絶対に献血車の方を見るまいとして、直美は陽子の背中にピッタリと顔を埋ずめたまま、しゃべった。
しかしその声も、強度の貧血を起こしているせいで、出来の悪い拡声器で拡大されたように、直美の頭の中でガンガンと、不協和音のおまけつきで派手にエコーした。
「本当に直美もオーバーねえ! まあ、嫌なものはしょうがないから、顔を伏せながら行くしかないわね」
陽子は付き合いきれないという顔をしながらも、直美のカバンを持ってくれ、舗道上に置いた自分の鞄を拾い上げた。
そして、それを両手に持ち、直美を後に従えると、どんどん献血車の方に向かって進んでいこうとした。
が、献血車拒絶性貧血症に陥った直美の足が、そうおいそれと、前に向かって動き出すわけがない。
直美はまたフラフラッと、バランスの悪いロボットか、ドミノ倒しのドミノのように、陽子の背中に倒れかかっていった。
「ダメ! 私、あの消毒液の匂いを嗅いだだけでも、貧血を起こしちゃうの」
慌ててUターンして直美の体を支え直した陽子は、これにはさすがに呆れるのを通り越して、観念してしまった。
「わかったわ。少し遠回りだけど、南口から入りましょ」
2人は塩取りの親子猿のように前後に繋がりながら、方向転換をしてガードの向こうの南口へ向かった。
吉祥寺駅には、東西南北の4ケ所の入口がある。
聖園学院からは、本来ならば西口から入るのが駅に一番、近いのだが、そこからだと、駅ビルの『ロンロン』を通らなくてはならない。
ロンロンはターミナル・ビルとして商売繁盛していて、地下1階、地上2階まであり、181の専門店が、所狭しと軒を並べている。
恥ずかしい話だが、直美は吉祥寺にある聖園学院に通い始めて1年以上が経ったが、1度もこのターミナル・ビルの中に入ったことがなかった。
なぜなら、そこには日曜日だろうが祭日だろうが、学校から委託を受けた生活指導のスパイが地獄の悪魔のように四六時中、目を光らせているのである。
周囲にそれらしき人間が見当たらないからといって、安心してはいけない。
何と、ブティックの店員が、店から貰う給料だけでは不足なので、アルバイトに聖園学院の生活指導スパイをやり、店の前を通りかかる生徒の名前を通報して、1人につき何百円かの報酬を須貝理事長から貰っていた、という信じ難い例さえ、過去にはあったくらいなのだ。
そんなわけで、今日も2人は入口をチラリと眺めて通るだけで、その上を走っているJR中央線のガード下をくぐった。
それから交番の前を通り、井の頭通りに出て、二股に分かれたところを、左に入っていこうとした。
――と、そこには、黒の革ジャンパーに身を包み、チューインガムを下品にクチャクチャさせながら大型バイクにまたがっている、額にソリコミを入れていかにも不良らしき雰囲気を発散している、3人の高校生らしきツッパリがいた。
不良たちは、目ざとく直美と陽子を見つけて、格好の獲物とばかりに進路を塞ぎながら、声を掛けてきた。
「おや、ちょいとそこ行く、お美しいお嬢さん。ご気分でもお悪いんですか?」
「ひとつ、俺っちがお宅までお送りしましょう」
「さ、遠慮なくお乗りになって」
心因性貧血の第1原因の献血車が視界に見えない場所までやって来たことで、どうにか気分も回復してきていたが、それでもまだ直美は、陽子の肩に手を置きながら、重症の二日酔いのようにフラフラと歩いていた。
3匹の不良は、無遠慮にその光景を眺めながら、ニヤニヤといやらしそうな笑いを口元に浮かべ、直美たち2人をバイクで完全に包囲しながら言った。
「遠慮しなくっていいんですよ。ささ、どうぞ」
言葉だけは丁寧だが、どう好意的に見ても、本当に家まで送ってくれそうにない。
直美と陽子は急いで引き返し、ガード下の交番に助けを求めに行こうとした。
が、直前に通った時に、定時の巡回パトロールにでも出かけたのか、誰も警察官がいなかったのを思い出した。
そして直美は、多分それが、所属の暴走族グループのシンボル・マークなのだろう、不良たちの革ジャンパーの袖に、ドクロを組み合わせた奇怪な十字架が描かれているのを見て、金縛りに遭ったように、体の自由が効かなくなってしまった。
熱帯の風土病の初期症状のように、ガタガタ震える唇を何とか必死の思いで開け、直美はこう断わるのが、精一杯だった。
「け、結構です。じ、自分で歩いて帰れますから……」
陽子はというと、つい数分前までは、献血車に怯えていた直美をあれほど小馬鹿にしていたというのに、相手が男、それも見るからに頭のイカレたような暴走族グループとあっては、勝手が違うのだろう。
今度は逆に直美の背後に回り、背中に掴まって、狼に睨まれた1匹の小羊のようにワナワナと震え出した。
口の中で舌が引きつってしまったのか、陽子は言葉を出すことさえできない。
すると、不良たちはいよいよ調子に乗りだした。
「何だあ? せっかく俺っちが、ご親切様にも家まで送ってってやるってのに、人の好意を無にすんのかよ!」
「乗れって言ったら、素直に乗りやがれ!」
次々にドスの効いた声を浴びせられて、怖ろしさのあまり直美と陽子は、デパートのマネキン人形のように、その場に硬直してしまった。
2匹のか弱い小羊と、それを取り囲む凶暴きわまりない3匹の狼の周囲では、まるでここだけが別次元の世界のように、ショッピング客がチラリと眺めながらも、川のように淀みなく流れていた。
何が起きているのかは一見してわかるはずなのに、牙を剥き出しにし、獲物を前にして舌なめずりをしている狼に係わり合うのが怖いと見えて、誰1人として恐怖に怯える純情な小羊を助けようとする者はない。
それどころか、警察に通報に走ってくれる人間さえもいない。
まさしく、非情な大都会の空白の谷間である。
「ほら、鞄をこっちによこしな」
「あとは俺っちが、ダッコして乗っけてやるからよ」
狼たちは久々に可愛い獲物を得た上に、誰1人として自分たちを妨げる者が現われないので、最初はしごく御満悦の様子だった。
しかし、直美と陽子が互いの肩に顔を埋めて、ガタガタと震えながらも必死で鞄を取られまいと抵抗を続けていると、3匹の飢えた狼たちの顔つきは、じらされて次第に険しさを増していった。
「おとなしくしていれば、いい気になりやがって! 俺たちをナメるんじゃねえよ! 泣く子も黙る『吉祥寺ドクロ組』を知らねえのか?」
「乗れと言ったら、素直に乗るんだよ!」
3匹の餓狼は、鞄を奪うことをやめると、苛立ったように直美の腕を両側から掴み、グイッと大型バイクに引き上げようとした。
「イヤです! 離して!」
強い男の力で引っぱられ、依然として半金縛り状態の直美は、ズルズルと引き寄せられ、抵抗しようという意志も虚しく、荷物のようにバイクの後部座席に乗せられそうになった。
まさに、絶体絶命のピンチ!
直美の脳裏には、バイクで町外れの公園か無人の河原に連れていかれてからの、考えるだけで身の毛もよだつ、狼たちが自分と陽子に加えようとしているおぞましい行為の光景が、まだ見ぬ裏ビデオのシーンのように、次々と浮かんできた。
(誰か助けて! 誰か……)
そう心の中で叫ぶのだが、依然として通行人は係わり合いを恐れ、見て見ぬ振りをするだけで、誰も直美たちを助けてくれようとはしない。
(ああ、もう駄目だわ……)
最後の力を振り絞って抵抗しようとしたとたん、またしても、狼たちの袖のドクロの十字架が目に入ってしまい、直美は体中の力がスーッと抜けて、貧血状態に陥った。
急速に薄れていく直美の意識の中では、白馬にまたがったハンサムな王子様が、魔物に捕えられた自分のピンチを救うために、破邪の宝剣を手にしてお城から駆けつけてくれた、という有り得ない非現実的幻想さえ涌いてこようとしていた。
――と、その時だった。
「イタタタタ。や、野郎、何しやがるんだ!」
突然、どこからともなく現れた1人の青年に腕をねじ上げられ、直美の手を掴んでいた2匹の狼は、ヒキガエルの発情のような悲鳴を上げた。
と同時に、狼に掴まれていた手が離れ、直美は意識朦朧となりながらも、抵抗しようと力を入れていた反動で、後で震えていた陽子にぶつかり、そのまま2人とも将棋倒しになってひっくり返ってしまった。
「イッターイ!」
「あ、ごめん!」
スカートの裾がまくれてしまい、2人は大慌てで裾を引っぱって、チラリと見えてしまった、太腿の肌を隠した。
狼たちから助けてはくれなくても、周囲の人ごみの中に聖園学院の生活指導のスパイが混っているということは、十二分に考えられる。
卑劣にもそういうスパイは、人前で膝から上の皮膚を見せてはいけない、という校則を2人がやむを得ず破ってしまったことを、情況説明を全く抜きにして、点数かせぎに須貝理事長に報告しないとも限らないのだ。
いつもビクビクしている悲しさ、2人がチラリと無関係な心配をしている間に、救いに現われたその青年は、両手に掴んでいた2匹の狼の腕を更にねじ上げてから、バイクの方へ突き離していた。
狼たちは頭から突っ込んでいって、ラグビーのタックルのように自分たちのバイクに激突し、もろともに引っくり返った。
「こ、この野郎!」
仲間がアッサリとやられてしまうのを傍で見ていた残りの1匹の狼は、狂犬の雄叫びのようなオクターブの狂った大声を出すと、青年に向かって飛びかかっていった。
「あ、危ない!」
青年が殴り倒される光景を想像し、直美は思わず叫んで、目を閉じかけた。
狼の放ったパンチが、まともに青年の顔面を捕えたように見えたのだ。
しかし、青年は、まるで世界ランキング・ボクサーのような巧みなダッキングで、軽く寸前でそのパンチをかわしてしまった。
「こ、この野郎、シャレた真似しやがって!」
顔面を茹でダコのように真っ赤にして、続けて左右のパンチをふるう狼の拳を、ヒョイヒョイと軽快に左右にステップして空を切らせながら、悠然と青年は言った。
「君たち。彼女たちは『結構です』って言っているんだ。小さな親切も、押し売りをしちゃあ、イヤミってもんだぜ。だから女の子にもてずに、いつまでも暴走族なんかやっていることになるんだ」
西部劇全盛時代の活劇に登場してくる、流れ者のヒーローばりの格好の良さだ、と直美はウットリとなった。
が、このセリフが、狼たちの怒りの炎に油を注いだような格好になった。
「この野郎、人をコケにしやがって!」
「やっちまえ!」
バイクと一緒に倒れた最初の2人も起き上がって、荷台からヌンチャクやチェーンを取り出すと、周囲の人目も構わず、決死の形相で青年に殴りかかった。
「うわァ、ひどい! 卑劣!」
いくら青年が西部劇のヒーローばりのタフガイでも、1対3で、しかも素手で、武器を相手に太刀打ちできるとは思えない。
直美は、青年が朱に染まって殴り倒される場面を見たくなくて、思わず視線をそらした。
するとどうしたわけか、角度の関係でビルの窓に反射したまぶしい西陽の光と一緒に、吉祥寺カトリック教会の十字架のシルエットが、直美の網膜にまともに飛び込んできたのだ。
それでまた激しい貧血を起こし、直美の周囲でビルやら道路やら通行人やらが、青年と狼たちも含めて、メリー・ゴー・ラウンドのように、グルグルと駆け足で回転し始めた。
「うわっ、た、助けて!」
直美は恐怖のあまり、きつく目を閉じ、両手で耳を押え、自ら逃避用に作り出した暗闇の中で<何とか時間が止まってくれますように>と念じた。
しかし、それにもかかわらず、耳を押えている直美の震える手は、油汗で濡れてきて、全身を巡る血液が足りなくなり、それをカバーしようとして、激しい動悸で息が荒くなった。
(ああ、もう駄目! それにしても、あの素敵な男性は、どうなったのかしら……?)
考えまいとすればするほど、頭の中を色々なことが、疾風怒涛の走馬灯のように駆け巡る。
その回転が速くなると、それにつれて地球も今までの自転を無視して四方八方に回転を始め、直美は路上に座り込んでいるのでさえ、耐え難くなってきた。
遂に直美は貧血の頂点に到達し、気が遠くなったが、そうするとかえって全身の力がスーッと抜けていく感じがして、呼吸は逆に少し楽になってきた。
すると先刻の幻覚の続きで、暗黒の霧に閉ざされていた深い闇の彼方から、白馬にまたがった王子様が、剣を右手に颯爽と風を切りながら、やって来るではないか!
馬上の王子様は、もちろんあの、スリムでハンサムな青年である。
(あら、ここは……?)
直美が慌ててキョロキョロと周囲を見回すと、そこは陽も射さないほど鬱蒼と木の茂った森で、直美はその一本の大木の幹に、身動きできないほど、がんじがらめに太い鉄の鎖で縛りつけられているのだった。
「助けて! 助けて下さい、王子様!」
思わず叫ぼうとした直美は、自分の頭上を見て、もう少しで失神してしまいそうなショックを受けた。
そこには、直美を見張っている奇怪な3匹の魔物の姿が、大蛇のように枝が曲がりくねっている、血の色をしたコブコブだらけの樹上にあったのだ。
1匹は茶色のヒキガエル、1匹は緑色の大トカゲ、1匹は紫色の大サンショウウオで、いずれも体重100キロ以上はあろうという、巨大で醜悪な体躯をしている。
直美は、高すぎて声にならない叫びを上げ、思わず魔物たちから視線をそらせた。
この幻覚の世界では、直美は村の平和を守るために魔の山の大魔王に生け贄として捧げられ、今夜、この奇怪な手下の魔物たちに連れられていって、大魔王の正餐の食卓に供されることになっているのだった。
誰も説明してくれる者はいなかったが、なぜか、わかったのである。
直美は太い鎖で縛りつけられているのも忘れ、必死に逃げようとしたが、もがけばもがくほど体に固く鎖が食い込んできて、胸や腹部を容赦なくキリキリと、万力のように締めつけた。
それならば、せめて手足や指先を動かして何とかしようと思うのだが、かえって自分の呼吸が荒くなるばかりで、一向に埒があかない。
自力で逃げることを観念した直美は、恐る恐るまた、魔物たちの様子を見た。
魔物たちの目にはよほど直美が美味そうに見えるらしく、3匹のピンク色の舌から流れ出したヘドロのように臭い唾液が、直美のショート・カットの髪の毛まであと数センチというところに細長い糸を引いて垂れてきた。
「大魔王様の所まで連れていかずに、ここで俺たちが食ってしまおうか?」
「ふふふ、それがいい! 今年は村の者たちは、けしからんことに、生け贄の娘を連れて参りませんでした、と嘘の報告をすればいいのだからな」
「そいつは妙案! 食おう! 食おう!」
3匹の魔物たちは樹上から降りてくると、腐臭に似た悪臭を放つ体液のジトジトと慘み出しているイボイボだらけの手で、直美を食べるために鎖をほどき始めた。
恐ろしさのあまり、直美は自分の鼓膜が破れそうなほどの金切り声を上げて、白馬の王子様を呼んだ。
「王子様、助けて! 助けて下さい!」
すると、直美の声がどうにか届いて、王子様はサッと白馬の方向を転じ、疾風のように駆けつけてきた。
「姫、そちらでしたか? この深い霧で、道に迷ってしまい、魔物どもが姫をどちらにさらっていったのかと、先刻より懸命に捜しておりました」
王子様は、3匹の魔物がいるのにも平気で、頭にかぶっていた鳥の羽のついた帽子を取ると、うやうやしく直美にお辞儀をしながら答えた。
「そんなノンビリしたことやっていないで、早く私を、悪い魔物たちから助けて下さい」
先刻まで叫ぼうとしても全く声が出なかったのも忘れ、直美は、まだ名前も知らない王子様に向かって懸命に訴えた。
「承知しました。こうして私が来ましたからには、こんなケチな小悪魔どもに、いつまでも姫の身柄を自由にはさせておきません。ご安心を」
「何がご安心を、だ、このキザ野郎!」
「貴様もこの娘を一緒に食っちまうぞ!」
「やっちまえ!」
魔物たちは鎖を半分ほどいたところで直美を放り出し、大口からダラダラとだらしなく唾液を滴らせながら、王子様に襲いかかっていった。
「ははは。お前たちのような小悪魔が、破邪の宝剣を持つこの私を倒そうなどとは、10年早いわい!」
王子様は身軽にバック・ステップして魔物たちの一斉攻撃をかわすと、サッと宝剣を横に一閃させた。
すると、3匹の魔物の首が、胴を離れて、ダルマ落としのように宙に吹っ飛んだ。
魔物退治と言うよりは、まるでゲームでも見物しているようである。
「すっごーい……!」
思わず自分がまだ半ば縛られた状態なのも忘れ、直美は感嘆の叫びを発して両手を叩いた。
「いかがなもので、姫?」
王子様は自分の手柄を自慢するように、血の痕跡も留めていない破邪の宝剣を誇らしげに宙にかざしてみせ、直美を縛っている鋼鉄の鎖の残りを、まるで藁ヒモのように断ち切った。
「ああ、素晴しいわ、私の王子様!」
が、ホッとしたのも束の間、斬られて飛んだ3つの首が空中で1つにまとまって融合し、1匹の大きな魔物に変身したのである。
その魔物は、真っ黒で巨大な月の輪熊の胴体をし、黒と黄色のまだら紋様の虎の頭とコブラの尻尾を持った、この世で最強の野獣を寄せ集めたような不気味なものだった。
「やや、これはどうしたことだ! 見事に仕止めたと思ったのだが。うーむ、さすがは魔の山の化け物め……」
長いことずっと鎖できつく縛られていて、全身の筋肉が麻痺していたのが、ようやく体の自由が効くようになって、直美は素早く立ち上がり、すがるように王子様の傍に駆け寄った。
「大丈夫ですか、王子様? こんな恐ろしい魔物を相手に……」
「何の、姫、ご安心を! このような忌わしい魔物は、この破邪の宝剣でひとひねりに退治して見せましょう」
王子様は自信ありげに答えるが早いか、直美を自分の背後に隠して剣を片手上段に構えると、猛然と魔物に向かって突進していった。
自分のために戦ってくれている王子様の勇姿を見て、直美は改めて、胸がキューンと熱く締めつけられるのを感じた。
その時、頭上に生い茂っている木々の間からかすかに漏れてきた陽光に反射して、キラキラとまばゆい輝きを放った王子様の宝剣が、深々と魔物の腹部を貫いた、と直美には見えた。
が、その瞬間、魔物の姿はパッと宙に溶けるように消えてしまい、王子様の宝剣は虚しく空を切った。
「やっ! どこへ消えた?」
王子様は、足下に生えている丈の高いトゲだらけの邪魔な雑草を宝剣で断ち切りながら、油断なく周囲を見渡した。
直美も手伝って、必死で魔物の行方を捜した。
と、急に直美の背後から魚の腐ったような生臭い風が吹いてきた。
身の危険を感じた直美がハッと振り返ると、そこにはさきほどの魔物が両手を高々とかざし、直美を人質にするべく、今にも襲いかかってきそうになっていた。
身の丈が3メートル以上もあろうかと思われる魔物に、真上から巨大な目で睨まれた直美は、足がすくんで、その場に硬直してしまった。
が、王子様も即座に気がついて、サッと直美と魔物の間に割って入ると、牛若丸のように身軽にジャンプするや、再び剣で切りつけた。
しかし、またしても虚しく剣は空を切り、魔物は吸血コウモリかムササビのように宙に舞って逃げた。
その時、直美の脳裏に閃いたことがあった。
「王子様。魔物の目を狙って下さい! あの魔物の急所は、目だと思います!」
「ああ、私もそう思っていたところだ」
王子様は答えた時には、暗黒の霧に包まれた上空からあざ笑うように見下している魔物の目に素早く狙いを定めて、宝剣を投げつけていた。
王子様の放った宝剣は一直線に飛んでいき、見事に魔物の右目を貫いた。
魔物は苦しみの絶叫を上げると、塩酸でも掛けられたように、シューッ……と音を立てて異臭だけを残し、完全に消え去った。
同時に、周囲には小鳥のさえずりが聞こえ始め、爽やかな風が流れてきて、魔物の異臭を消し去り、森に静けさと明るさが甦った。
危機は去ったのだ。
王子様は直美の体を抱き締めると、勝利を喜び合った。
「私のナオミ姫!」
「私の王子様!」
2人は微笑を交し、愛の口づけをしようと……。
そこで直美は、自分の体が激しく揺さぶられるのを感じ、一瞬にして小鳥のさえずりも、緑の木々も、視界から消えてしまった。
だが、幻覚の続きだろうか、ハンサムな王子様だけは消えずに傍にいて、心配そうに直美の顔を覗き込んでいた。
「ああ……王子様」
直美は、まだはっきりとは夢から現実に引き戻されてしまったことを意識しないで、王子様に向かって甘くささやきかけた。
「何をネボケたこと言ってんのよ! 直美、大丈夫?」
と、王子様の隣からヌーッと顔を出してきたのは、忘れようとしても忘れられない、王子様と直美の仲を引き裂こうとしている、嫉妬深い魔女の早川陽子だった。
「あっ? 魔女!」
「何が魔女よ! 王子様だの、魔女だのって、しっかりしてよ、もう! 暴走族の不良は、みーんな、いなくなっちゃったわよ」
「え……?」
直美は目をパチパチさせて慌てて周囲を見回し、ようやく事情を悟って、急いで体を起こそうとした。
が、まだ貧血から完全に回復していないせいで、コンクリートのはずの舗道がフニャフニャとコンニャクを敷き詰めたような感触がしてよろめき、直美は再び路上に座り込んでしまいそうになった。
「おっと、大丈夫かい?」
直美はとっさに出された青年の腕で、しっかりと支えられた。握られた部分の肌が、赤外線でも照射されたように熱くなる……。
「立てるかい? それにしても、危ないところだったね」
「ええ……」
直美は、照れ隠しに、制服についた塵を急いで払おうとしたが、ホッとした反動もあってか、嬉しさのあまり、何だか涙が出てきてしまった。
「だが、もう安心だ。暴走族の連中は、僕が軽く何発か撫でてやったら、尻尾を巻いて逃げていったよ」
「そうだったんですか……」
直美が幻覚の中で見ていた王子様の勇ましい魔物退治の光景は、このハンサムな青年が暴走族の3人組をやっつける様子を、半失神状態に陥りながら眺めていて生まれてきたものだろう。
直美は少しでも可憐に見えるように、青年の言葉にコクンと小さく乙女チックにうなづくと、こぼれる寸前になっていた涙を、そっとハンカチで拭おうとした。
だが、その余裕はなかった。
「そうなのよ! 凄かったんだから。直美は気を失なっていたから、わからなかっただろうけれど、私なんか、目の前で見ていたから、すっごーく感動しちゃったんだから!」
と、陽子が、直美の流しかけたセンチメンタルな乙女の感動の涙を吹き飛ばすように、テレビの三面記事のレポーターよろしく、身振り手振りでその情況を解説し始めたのだ。
陽子もよほど興奮しているのだろう、周囲の目も気にせずに、青年の使ったという足払いや、一本背負いのポーズまで真似して見せた。
「陽子! 陽子ったら! いい加減に――」
「うるさいわねえ、最後まで話させなさいよ。でも、そこからがこの人の、いいところなの。気を失なった3人にエイッと活を入れると、アッサリ逃がしてあげちゃったのよオ」
そこまで一気にしゃべると、陽子は、肝心の時になるとすぐに貧血を起こす直美のことなど、構っていられない、というように青年の方に向き直り、機械じかけの人形のようにぎこちなく、ペコンとお辞儀をした。
「言い忘れてましたけれど、危ないところを助けていただいて、本当にどうもありがとうございました」
青年も、サマにならない陽子の一本背負いのパントマイムを、ニヤニヤしながら見ていたが、2人の美少女の視線が自分に集中すると、急に真顔に戻って答えた。
「いやあ。礼には及ばないよ。それにしても、君たちみたいな美人だと、色々と大変なことがあるね」
「あ、あらァ、美人だなんて、そんなお世辞を――」
「いやいや、お世辞ぬきに、2人ともすごく可愛いよ。とにかくこれからは、あんな物騒な連中の集まりそうな所は避けて、なるべく通らない方がいいな。それじゃ――」
青年は言い終えると、早足に立ち去っていこうとした。
それを見た直美は、慌てて呼び止めた。
「あ、待って下さい! もし、お忙しくなかったら、送っていって下さいませんか? 私、まだ貧血で、足元がフラフラしていて……」
昔から『色男、金と力はなかりけり』と言われている。
乙女心にグッとくるようなハンサムな青年は、金もなければ腕っぷしも弱い、というのが通り相場なのである。
そこへもってきて、金のことは果たしてどうだかわからないが、スマートでハンサムな上に、一流ボクサーなみにタフガイの青年が出現したものだから、こんないい男を逃してなるものか、という意識が、ボーイフレンド募集中の直美の胸の中にとっさに芽生えたとしても、無理からぬところだろう。
すると、青年は足を止めて振り返り、二枚目役者のように優しい口調で言った。
「送っていってもいいけれど、そんなに簡単に他人を信用するもんじゃないよ。僕だって、いつ送り狼になるかもしれないんだから」
そして、青年は微笑むと、そのまま行ってしまいそうになった。
が、広い東京のこと、ここで逃してしまったら最後、いつどこで再会できるかわかったものではない。
貧血のことなど何処かへ消し飛んでしまったような勢いで、直美は青年の上着の袖を掴むと、哀願するように言った。
「いえ、あなたがそんな人でないことは、一目見ればわかります。私の家は電車ですぐの所ですから、お暇でしたら、ぜひ……」
青年は、とうとう苦笑して、足を止めた。
「わかった。わかった。それじゃ、暇ではないんだけれど、忙しいってほどでもないし、美女のせっかくのお申し出だから、お宅までお送りするとしますか」
その言葉を聞いて、やっと直美は安心して袖から手を離した。
青年と一緒に帰れるとわかると、陽子の頬にも輝きが増して、薔薇のような顔色になった。
「直美。良かったわねエ」
が、俄かにそこで2人の心に、雷を含んだ黒雲が迫ってきたような不安が、同時に襲いかかってきた。
もちろん、言わずと知れた、聖園学院の生活指導のスパイのことである。
こんな風に、人もうらやむようなハンサムな青年と親しげに話している現場を、チラリとでも嫉妬深い女スパイに目撃されたら……。
最低でも10日間の停学処分は、免れない。
「いけない! 早くしないと――」
「うん、電車に乗り遅れちゃうわ!」
「すいません、走って下さい!」
心因性貧血のことなどどこへやら、直美たち2人は、どっちが送ってもらうんだかわからないような脱兎の勢いで、青年の手を引いて吉祥寺駅の改札口を目ざして走り出した。
井の頭線の各駅停車に乗って、3人は四駅めの富士見ヶ丘で電車を降りた。
富士見ヶ丘駅は、改札口を出て階段を一度下り、右に曲ってもう一度上がると南口、反対の左に曲って上がると北口に出る、という構造になっている。
この周辺は、高級住宅地と言われる杉並区では<田舎>の部類に入る地域だ。
それというのも、目立つものといえば、北口の踏切の際に三井銀行の小さな支店があるだけ、という貧弱な町造りのせいなのである。
当然のことながら、ゲーム・センターやパチンコ店などはなく、駅周辺で聞こえるものと言ったら、商店街の安っぽい宣伝放送だけだ。
直美は生まれた時から住んでいるので、足掛け17年になるが、新宿、渋谷、吉祥寺のように駅ビルがあったり、デパートが立ち並んだりしている騒々しい繁華街よりは、この静かでどことなく心休まる、富士見ヶ丘の町が好きだった。
本来、花のセブンティーンだったら逆の志向なのだろうが、通っている学校が厳格な生活指導で悪名高い聖園学院なので、富士見ヶ丘のノンビリした空気が、直美にとって精神安定剤の役割を果たしているのかもしれない。
直美たち3人は、青年を真ん中にして南口から出ると、見渡しただけで目の中に入る車の数は一〇台以内という、東京都内とは思えない交通量の少ない一本道を、南に向かってどんどん歩きだした。
「へえ。不思議なものだな。世界有数の大都会の東京にも、こんな田舎……失礼、こんな静かな所があるなんて」
左に直美、右に陽子、という両手に花、それも飛びきり可愛い美少女という花に挟まれた、人もうらやむような状態で、道すがら感心したように周囲の様子を眺めながら、青年は実感を込めて言った。
が、すぐに<しまった>という顔になって、慌てて今の発言を訂正した。
「おっと、別に君たち2人が<田舎娘>みたいだ、というわけじゃアなくって、そのう……何て言うか……」
「いいんです。だって、本当にこの富士見ヶ丘は田舎なんですもの。でも、そこが私、好きなんです」
直美は、青年を庇うように言った。
が、口に出してしまってから『好き』というのを、青年に向かって愛の告白をしたような気がして、直美の頭へと熱い血が、マグマの奔流のように心臓から駆け昇ってきた。
青年もそれを敏感に察してか、とまどったように、視線を関係のない方向にそらした。
だいたい、今も昔も年頃の女の子は、1歩でも家から出ると、気分だけは誰からも注目されるアイドル・タレントそのものに変身してしまうのだ。
そして、外見はもちろん、言葉使いまで着飾って『主食はチーズケーキで、おかずはフルーツなんですの』というような顔をしているのである。
それでいて、自分の家ではセンベイやタクアンをバリバリかじるような生活をしていて、横道を一歩入ると大根を作っている畑のあるような<東京の田舎>に住んでいても『自分だけは特別で、良家のご令嬢なのよ』という印象を、周囲を通り過ぎる男の子たちに植えつけたい、と強く願っている。
聖園学院に通ってくる女子学生は、学校が一見カトリック風の仏教系学校、というのにふさわしく、大半がそういう一見、旧華族風の、実は土地成金の農家か商家の娘という、エセご令嬢だった。
直美は年頃の女の子の1人として、そんな風に自分のクラスメートたちが、世の男性の関心を引こうと、必要以上に格好をつけることに対して、少しばかり憤慨していた。
『私たち、実は聖園学院の生徒なのヨ』
とわざわざ名乗らなくても、吉祥寺をよく通りかかる人ならば、そのダサくて格好ばかりつけた制服を、誰でも知っている。
先刻の会話のやり取りで、青年が変に自分に対して気を遣ってごまかしてみせたのを、いつもの直美だったら、
(また、私たちが聖園学院の生徒だと思って、妙な気の回し方をしちゃって……!)
と、カーッときたまま口をつぐんでしまって、黙り込んでいたところだろう。
が、今日に限ってはその『カーッ』が、違った『カーッ』になっていた。
ミーハーに見られるのが大嫌いな直美も、フロイト風に、潜在意識のレベルにまで深層心理を掘り下げれば、実はハンサムな男性には弱い、当たり前の恋する乙女なのである。
加えて、自分の軽率な発言が相手の多感な乙女心を傷つけてしまったのではないか、と心配をする青年の思いやりが、直美のハートを完全にキャッチしてしまったのだった。
当然のごとく、直美は自分に勝るとも劣らず可愛い陽子に対して、顔にこそ出さないが猛烈なライバル意識を燃やし始めていた。
一刻も早く、分岐点となるガソリン・スタンドの前の十字路で陽子とおさらばし、この素敵な青年と2人きりになり、初恋戦争で陽子より1歩でもリードしたい、という願望が、直美の頭の中でムクムクと、真夏の入道雲のように大きく広がっていった。
そんな直美のライバル意識を知ってか知らずしてか、陽子も陽子で、学校のスパイが乗り合わせている心配があるので、電車に乗っている時には<借りられてきた猫>のようにおとなしくしていたが、駅の改札口から出てというもの、青年の関心を直美に向けさせまいと、どうでも良いことをあれこれ尋ねて、かなり積極的に青年にアタックしていた。
その甲斐あって、両手に花の格好になってはいるのだが、青年はしばらく前から、顔を向けているのは陽子の方だけ、というアンバランスな状態にさせられていた。
「あのオ、失礼ですが、まだ、お名前を伺っていなかったんですけれど……?」
「いやあ、名乗るほどの者じゃないよ」
口元に苦味ばしったニヒルな微笑を浮かべて、青年はアッサリと言った。
「そんな薄情なこと言わないで、お願いします。教えて下さらないと、気になって気になって、夜も眠れなくなりそうで……」
「そんな大袈裟なことは、言いっこなしだよ。僕はただ、君たち2人が危ないところだったから助けた、ただそれだけさ」
「そんなア。意外に冷たいんですね、あなたって人は。それとも、ひょっとして、女嫌いなのかしら?」
しかし、青年は少し困ったように苦笑するだけで、誘導尋問にも何も答えない。
が、陽子は、青年が自分の作戦に全く乗ってこないのにもメゲることなく、それからも盛んにオクターブのどこか狂った猫なで声を使って、迫っていった。
面白くないのは、それをずっと横で見せられている、直美である。
自分の突発性貧血が因で捕まえた青年なのに、うかうかしている間に陽子に独占されてしまい<トンビに油揚げをさらわれた>ような気分になってきた。
(陽子ったら、もう! 本当に図々しいんだから! 陽子がこんなに強心臓だなんて、今の今まで思ってもみなかったわ……)
そんな直美の嫉妬心を気にする気配は、今の陽子には微塵もなく――と言うよりは自分のことだけで精一杯なのだろう、執拗なほどに青年に付きまとっていた。
「高校生ですか? それとも大学生? まさか、予備校生なんてこと、ありませんよね?」
「いいじゃないか、そんなこと、どうでも」
青年は相変らず、自分の正体に関係あることは、何1つ明かそうとしない。
「じゃ、決めたわ。どこか、エリートの都立高校生。受験が大変で、女のことなんか構っていられない。そうでしょう? そのくらいは教えてくれたっていいじゃない?」
「それならまあ、そういうことにしておこうか……」
「ああ、良かった。やっぱり高校生なのね。じゃ、高校名だけでも、教えて下さい」
青年は遂に、『いくら美少女とはいえ、君も本当にしつこい女だな』と言いたげな顔になったが、邪険に応対するのは女性に対して根本的に失礼だと思っているらしく、すぐにそれを口元のニヒルな表情の下に押し隠した。
「まあ、いいじゃないか。何度も言ってるけど、僕のことなんか聞いたって、1円の得にもならないよ」
やがて前方に坂が現われ、上に赤茶色をしたレンガのアパートがゲタバキ式にくっついているガソリン・スタンドの前にやって来た。
ここが、直美の家と陽子の家との別れ道である。
そこで陽子は、一大決心をしたように青年の前に立って言った。
「あのオ、彼女の家はこの坂のすぐ上なんですが、私の家はこっちの方なんです。彼女も貧血の具合は良くなったみたいだし、畑なんかが続いていて私の家の方がずーっと寂しい所にあるし、できましたら、私の家に寄っていって下さいませんか?」
直美は呆れて、最後の手段に出た陽子の顔を見詰めていたが、度肝を抜かれてしまって、
『この、裏切り者!』
と本心では叫びたいのに、自分は何も言うことができず、青年が陽子の誘いに何と答えるのかただ気にして傍観しているばかりだった。
しかし、その心配もすぐに安心に変わった。
「いや、いくら寂しい所だからって、こんな真っ昼間から痴漢も出やしないだろう。それより は、大丈夫なように見えても、この人の貧血の方が気になるから……じゃ、さよなら」
あまりにもアッサリと振られてしまった陽子は、それ以上は返す言葉もなく、いかにも名残り惜しそうな様子で、何度も振り返りながら、左に曲っていった。
直美と青年の2人は、しばらくその後姿を見ていたが、陽子はやはり思いを断ち切れない様子で、30メートルほど行ったところで振り返って、未練がましく立ち止まった。
が、直美が改めて追い払うように大きく手を振って、青年に見えないようにアカンベーをすると、陽子もやっと諦めがついたらしく、住宅街に1つポツンとある銭湯の前の角を曲って、姿を消していった。
それを見届けた直美は、いつも誰もいない無用心な交番を右手に見て、心臓を破りそうに急な勾配の坂道を2人して登りながら、青年に話しかけた。
「別に彼女は、悪気があって、あんなにしつこくしたんじゃないんです」
姿が見えなくなってみると、直美は急に陽子のことが可哀想に思えてきて、弁解してやりたい気持になった。
「何しろ私たち、他校生と交際禁止、っていう無茶苦茶な女子高に行ってるでしょう? たまに知り合う男性ときたら、先刻の暴走族みたいに、お金を払っても願い下げにしたいようなのばっかりで……」
「いいんだよ。そんなことは、わかっているから」
青年も、陽子の気持をちゃんと察していたらしく、直美はホッとなった。
となれば唯一の邪魔者もいなくなったことだし、これからゆっくり青年にモーションをかけていこう、と直美は一大決心を固めた。
何しろ今まで、誰1人として異性らしい異性と本気で交際した経験がないので、どういう話題を持ち出したらいいものか、陽子のように妙なハシャギ方をせず、とにかく慎重に話を切り出すしかない。
となると、青年と知り合うきっかけになった、自分の心因性貧血のことだろう。
「私って、重症の低血圧なものだから、毎朝、親しい友達に交代で起こしに来てもらっているんです。彼女も、その1人で――」
「ははあ。なるほど、それが原因で、よく貧血も起こすのかい?」
「そうなんです。それも、学校の帰りに、ほとんど毎日のように……」
坂を登り切った直美は、フーッと大きく息を吐き出しながら言った。
それを見た青年は、即座に直美の鞄を持ってくれた。
別に催促したわけでもないのだが……。
立ち止まった2人の右手の方には、直美の出身校である富士見ヶ丘中学校の周囲に張られた、緑色のフェンスが見えてきた。
校庭では中学生がスポーツ・クラブの活動をしているのか、かん高い歓声が、春の風に乗ってかすかに2人の所まで聞こえてくる。
直美は昼間は体が弱いので、いつも家の窓から眺めているしかなく、彼らが健康的にスポーツをしているのを、とてもうらやましく思ったものだった。
2人が中学校の前までやって来ると、その向かい側には、古めかしく薄汚れた、大きな建物があった。
明治時代に建てられたようなレンガ造りの洋館で、庭の木が鬱蒼と枝を広げ、表の道路にまで張り出している。
ちょっと辛気くさく見えるかなあ、と気にしながら、直美は紹介した。
「ここが、私の家なんです」
「へえ、学校の向かい側にあるのか。それにしても、何だか教会みたいな建物だなあ……」
「ええ、教会なんです、プロテスタントの」
しかし、教会といっても、どこにも十字架らしき物はない。
青年は訝しげに尋ねた。
「それにしちゃあ、十字架が見えないようだけれど?」
「うち特有の教義で、十字架はないんです。十字架って、あれは裏切り者のユダが、わずかばかりのお金でローマの司政官にイエス様を売って処刑させたことの、象徴でしょう? おかしいと思いません?」
直美が牧師をしている父の救傑の受け売りで説明すると、青年は感心したように、大きくうなづいた。
「なるほど、そういう考えもあるのか……」
青年はシゲシゲと教会を見ていたが、直美の方に向き直ると鞄を返し、右手を軽く上にあげてサヨナラの挨拶をした。
「じゃ、僕はこれで失礼するよ」
直美はとっさに、
『危ないところを助けていただいたのを両親に話しますから、せめて応接間に上がってコーヒーぐらい飲んでいって下さい』
と、言おうと思った。
だが、先ほど陽子が与えた<おしゃべり女>のような印象を自分も与えてしまって嫌われてはという警戒の気持が同時に働いて、自己規制してしまった。
それで直美は、ただ鞄を受け取ると、つとめて上品に頭を下げた。
「今日は、本当にどうも、ありがとうございました。最後に、せめてあなたのお名前だけでも、聞かせて下さい」
が、青年は、清潔さの象徴のような白い歯をわずかに見せて笑いながら、それも拒否した。
「はははは。先刻も、もう1人の可愛い彼女に聞かれたけれど、本当に名乗るほどの者じゃないんだよ。それじゃ――」
「はい、それじゃあ……」
直美は、半ばウットリとしながら、そして半ば無念のやるせないため息をつきながら、やって来た富士見ヶ丘駅の方角へと、スクリーンの中のヒーローのようにクールに去っていく青年の姿を見送った。