制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラスト、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十二年三月十一日
私も不勉強なもので、今まで假名文字の成立事情については調べもせず、よく考へもしないでゐたのだけれども、平假名と云ふもの、これも歴史的假名遣と同じく「明治政府の創作」なんださうですね。
日本人は支那から漢字や漢文を學びましたが、日本語獨自の表記は持つてをりませんでした。奈良時代に、漢字の音を借りて日本語の音韻を書表すやり方が發明されて、萬葉集で知られた爲にこれを「萬葉假名」と申します。この萬葉假名、實は奈良時代だけの書き方ではありません。草書で書かれるやうになりますが、江戸時代及び明治時代初まで、日本語の假名の表記はずつと萬葉假名です。明治政府が教育の爲に複數の書き方の中から一つの文字を選び、これを「平假名」として定めます。その時切捨てられたのが「變體假名」です。ですから、「平假名」は歴史的假名遣と同樣、「新しい」ものであるのです。
「明治政府が創作した歴史的假名遣」を「認められない」と言ふ人がゐましたけれども、さう云ふ人にとつては平假名もまた「認められない」ものである筈です。「歴史的假名遣」以前の「自由な假名遣」ならば「認める」と云ふ人は、かな文字も萬葉假名に戻したら如何でせう。もし歴史的假名遣だけを惡く言ふとしたら、その人はただ、歴史的假名遣(とその「信奉者」)に嫌がらせをしたいだけで、本氣で「明治政府の創作」なる事に怒つてゐるのではないのです。
杉岡華邨著『かなの成立と鑑賞 古筆に親しむ』(淡交社)

漢字・漢文の修得に伴い、日本語表記の方法も進み、かな文字の進歩と同時に、音訓併用による日本語表記もはじめられました。

例えば、「開中費直人」「今州里」などの用法が残されています。

飛鳥時代から白鳳時代にかけて、多くの金石文が残されています。これら六世紀末から七世紀にかけての金石文の多くは、、造像記でありますが、そこには一字一音の固有名詞が多く、法隆寺金堂薬師如来像光背銘では、漢文の語順を無視して、漢字による日本語表記も生みだされています。

その後、群馬県山ノ上の碑、『古事記』や宣命などと、我々の祖先が苦心を重ね、日本語の表記方法を発展させ、ついに八世紀後半の『万葉集』編纂において、一字一音の方法を一段と進め、音訓併用による日本語表記の方法を完成しました。

『万葉集』は、一字一音のかなと訓で、完全に日本語の表記に成功したのでありますが、一字一音のかなは、同一文字を連続して使用しておりません。例えば、「い」は、「以・伊・夷・移」、「ろ」は「呂・路・露・楼」、「は」は「波・八・半・葉・羽」のように、一文字について種類が多くあります。これらのかなを、後世万葉仮名と呼ぶようになりました。

奈良時代は、万葉仮名を楷書・行書の二体で書くのが普通でありました。公的な記録は男性の仕事で、漢文で書くのが建前であり、日常的・私的なことは、女性の世界で、万葉仮名で書いたと思われます。

生活は簡便を尊ぶのが自然で、日常的なことや私的な方面では、万葉仮名の草体化が進んでいたことでしょう。そのことは、正倉院に残されている半草体化したかなの存在によってもわかります。

奈良時代の「万葉仮名」といいましても、藤原時代の「かな」のような、和様体の優美な姿はしておらず奈良時代使用されていた、王羲之風の漢字の姿そのままで、漢字の音を借りて、かなとして使用していたので、書の姿は漢字と変りがなかったと思います。

漢字・漢文用に使用されている楷書体、行書体、草書体の文字を真名と呼び、日本語表記に使用されている楷書体、行書体の文字、および草書体が略体化され、ついには草書体の元の姿を想像することができないくらい簡略化された文字をかな(仮名)と呼びます。

かなには、前にも述べたように、「あ」に「安」「阿」「悪」、「さ」には「左」「散」「斜」「沙」「乍」のように、同音の文字に数文字があてられていました。多いものは三十数字の字があてられた例があります。奈良時代からかなの略体化がはかられ、反草体化したかな文書が正倉院に残されています。

おそらく、漢字漢文から門戸を閉ざされ草書の原字を知らない女性や、大学に行けない男性によって、原字に拘泥することなく自由奔放に書き崩していった結果、日本独自の女手(かな)を作り上げたと思われます。

女性は身分が高くなればなるほど、御簾や几帳の奧深く閉じこめられて生活していましたので、身内の者以外に姿を見せることがない女性が、男性との交際にも、用を弁ずるにも、和歌と消息文によるほか方法はありません。

このように女性が日常生活において、和歌や消息文を書くうちに、書き崩していったのが女手(かな)です。

明治三十三年、小学校令が改正された時、前述のように万葉仮名は一字について数文字の文字が書けるようにあてられていましたのを、「いろはにほへ……」と四七文字を学校教育で取り上げることになりました(ひらがな)。その他は変体仮名として学校教育では取り上げないことになりました。

現在では「いろは」四七文字以外の変体仮名と称する文字は、美的表現のため、書芸術の世界でのみ使用されています。

私は「明治以來の近代化政策はそのまゝ繼續すべきだ」と云ふ立場ですので、「明治政府の創作」である歴史的假名遣も認めれば、「明治政府の創作」である平假名も認めます。
平成二十二年三月十一日
おもちくんとこもちくん。
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平成二十二年三月九日
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平成二十二年三月九日
大雪なう。
平成二十二年三月九日
時事ドットコム:四つの「密約」とは
時事ドットコム:「密約」問題報告書詳報
時事ドットコム:日米間の「密約」をめぐる動き
核持込みだの何だのの内容については特に問題にすべき理由を見出せない。軍隊は、一旦緩急あれば武器を持つて動くのが當り前で、その武器が核兵器であつたとしても別に問題はない。
隱してゐた事それ自體も、外交なのだから問題はない。國民を欺いてゐたとか文句を言ふ人もゐるだらうが、本當に欺かれてゐた國民が何人ゐただらう。少くとも、日本國民が、このやうな内容で欺かれなければならなかつたとしたら、その事自體が問題だ。
歴史的な文書が不用意に廢棄されてゐた事があると云ふ點では問題にしても良い。が、それは他の問題と全く無關係に問題にされるのでなければならない。「これが問題だからあれも問題」式の論法が、日本では横行し過ぎてゐる。しかし、戰後の日本人が「殘す」事を全く考へなくなつたのが・全てを捨去る事を良しとするのが「公文書の廢棄の問題」と關係があると云ふ事は、言へるのでないか。
平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

東洋のナショナリズムにおいても事情はおなじである。これもまたその道徳的魅力とその積極的な特質を、西欧から獲得したもろもろの政治的理想に負うている。近代ナショナリズムはアジアとアフリカの土壌に成長した外来植物であり、その伝播の径路は西欧式教育の拡散の足跡に直続している。もしもそれが、この西欧的理想の酵母を失って消極的な外人恐怖症的な西欧への反動に終る場合には、これもまたひとつの破壊的勢力と化すのである。わたしたちはこの現象を英印分離のときに見た。旧式の王政派の大衆は原始的なむきだしの暴力をふるいながら自己を主張し、さすがのインドのナショナリズムの教養ある指導者たちもたじろいておぞけをふるうありさまであった。しかし東洋的ナショナリズムにおける西欧的要素の強さをしめすおそらくもっともいちじるしい一例は近代トルコの場合であろう。敗北のどたん場にトルコ国民を外部からの征服から救わんがために立ちあがったケマル主義の復活は、トルコを一変して、厳密に西欧的な線で計画された近代世俗的国家に改造する結果に終ったのである。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

近代のなかで「宗教改革」から「フランス革命」にわたる期間は研究のきわめて困難な時代であって、それは、とくにカトリックの学匠たちによって、今後もますます置き去りにされる危険がじじつ存在するようにわたしは思う。過去においては、またじっさいごく最近にいたるまで、この期間は「近代史」と見なされ、そしてマコーレーやカーライルやフルードのような、一般むきの文学的歴史家の主要な研究題目であったばかりでなく、その厖大な知識と探究の才能がいまだかつて凌駕されたことのない、ランケやアクトンのような偉大な学者の主要な研究題目でもあった。しかし今日「近代史」はひとつの新しい意味を獲得した。ますます多くの歴史家が手近かな過去の研究に専念している。研究の新しい分野が歴史の領域のなかへともちこまれつつある。一方、世界が現在の世代へと移行したさいに通過した戦争と革命とはわれわれの展望を一変して、十七世紀のヨーロッパほどにも遠く――カトリック信者にとっては、おそらく、それよりもさらに遠くへおしやってしまったのである。これらの諸世紀はもはや「近代史」には属していない。それらは専門的な意味では中世ではないけれども、この諸世紀は近代ヨーロッパを中世キリスト教世界から分離する、いわば新中世時代である。

それにもかかわらず、この期間はもはや「近代史」に属していないとはいえ、近代ヨーロッパと近代世界がそれから出現した時代であるという理由で、その期間はなおその重要性を保持している。それは国民国家の創造、近代科学の創造ならびに近代の自国語の文学の開花をみたところの時代である。とりわけそれは西欧文化がその起源である西ヨーロッパの中心部からアメリカへ、さらに世界へと膨脹したのをみた時代である。さらにそれはキリスト教徒にとっては特別の、また悲劇的な興味をそそるものをもっている。なぜならばそれはキリスト教世界の分裂をみた時代であったからである。この時代にカトリックとプロテスタントの両世界はそれらの現在の形態をとったし、またこの時代に西欧文化はわれわれの時代においてやっと完成された世俗化の過程を経過しはじめたからである。もしわれわれがこの時代を理解しないならば、われわれはヨーロッパ文化をぜんぜん理解せず、あるいはアメリカ文化をも理解するとはいいえないのである。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

実証主義者の疑問にもかかわらず、ひとつの文化は、ひとつの国家におとらず、ひとつの社会学的現実である。……。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

しかし新しい分野へのキリスト教のこの進出は、キリスト教国そのものの内部におけるひとつの後退現象をともなっている。そこでは伝統的に、文化的にキリスト教的だった旧型の社会が、全体主義的国家の勃興と社会、文化のおもいきった世俗化によって破壊されるか、威嚇されるにいたった。共産主義ロシアと過去におけるナチス・ドイツの白昼公然の迫害は、一時的現象なのかもしれない。しかし文化の世俗化の大勢はたえまなく進行し、また世界にひろがり、たとえばT・S・エリオットがかれの『キリスト教的社会の理念』において描いたような積極的なキリスト教文化の理想にたちかえるきざしは少しもみえないのである。いたるところにキリスト教徒は「正教会」であれ、「ローマ・カトリック」であれ、「プロテスタント」であれ、無縁の、もしくは敵意にみちた世界のなかにはめこまれ、自意識を強いられる少数党に化する傾向がある。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

かくしてわれわれは二つのはっきり区別されるイデオロギー的複合体――「西欧民主主義」と「東方ソヴェト共産主義」をもち、それらが世界を二分する勢いを示している。両者いずれも起源においてヨーロッパ産、むしろ西ヨーロッパ的といえるわけだが、しかしそのいずれも中心はヨーロッパにあるのではない。一方がユーラシア(欧亜)的だとすれば、他方は、いわばユーラメリカ(欧米)的なのだ。両者いずれも古来の四大世界文明の基礎をなした宗教的イデオロギーと対比してみたうえでは、たしかに世俗的イデオロギーである。それでいながら、そのいずれも全面的に世俗的ではないのだ。「西欧民主主義」はその傾向からいえば、しだいに宗教の同盟者、保護者をもって自任する勢いを示しつつあり、そのかたわら「ソヴェト共産主義」は額面の反宗教的性格にもかかわらず、いつもその成功をたぶんに擬似宗教的魅力に負うているのである。このことはとくにアジアにおいて妥当する。アジアでは「共産主義」はひとつの新しい宗教的もしくは社会的救済方法の衣装をおびて登場し、人びとが共産主義の権威と訓練をば、いっきょに無条件降伏と帰順によって受諾することを条件とするかぎりにおいて、人びとを圧制と苦難から解放することを約束する。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

じっさい、西欧の民主的思想が東洋に浸透したのは、東洋ナショナリズム運動を通じてであるといってもけっして過言ではないのである。かくして東洋ナショナリズムは見たところは反ヨーロッパ的でありながら、事実はヨーロッパ思想の分布の主役を演じているのである。もちろんすでに十九世紀に自由・民主的思想は、東洋的世界、とりわけインドと日本と近東地方への影響を開始していた。しかしその思想は選ばれた少数の人びとにかぎられ、またきわめて優秀な少数の改宗者を作り出したとはいえ、一般大衆の少なからぬ反感をひきおこした。新思想が広汎な民衆の支持をえてそれが革命的な一勢力になったのは、その思想の戦闘的な国家主義的な形態においてのみであった。しかし革命的な一勢力としては、この形態の思想は西欧の「帝国主義」に対する以上に、東洋の旧秩序に対して効果的であることが実証された。回教国の主権カリフェイトを破壊し、また世界最古の政治体制であったシナの王制を破壊したのは国家主義者の一群であった。そうしてこの一事は近代史の最大の逆説の一つであった。というのは、これらの制度はいずれもつねに西欧の影響力にたいするアジアの抵抗の主要な防塁と見なされていたからである。またトルコの国家主義者たちが回教国王の主権を破壊しつつあったとき、インドの回教徒たちは皮肉にも、その主権をまもらんがため大英帝国を相手に厖大な戦陣をととのえつつあったのである。

こういうしだいで東洋ナショナリズムというものはけっして、一見想像されるように伝統的な東洋文化をまもろうとするひとつの反動運動ではない。むしろ逆にそれは東洋の諸民族による西欧文化の採用と、その所有化を意味するのである。それは概して世俗主義的で反伝統的な新しい生き方を代表する。共産主義国家はこのもっとも極端な一例である。それはもともとヴィクトリア朝時代のロンドンに発生し、二十世紀のロシアにおいて枝葉の細目にいたるまで発展せしめられたひとつのイデオロギーの基礎のうえに全社会機構を再建することを。意識的な目標としているからである。しかしこの同じ西洋化の傾向は、共産主義的イデオロギーに少しも感染していない純粋のナショナリズム国家にも見られるのである。かくしてトルコにおける新体制はトルコ国家と文化の組織的な世俗化――国教としての回教の全廃、ヨーロッパの原型にもとづく新法規の輸入、アラビア文字にかわるラテン式アルファベットの代用などに特徴づけられている。

平成二十二年三月九日
クリストファ・ドーソン著、深瀬基寛訳『革命の世界史』(筑摩書房)

西洋の物質主義に対抗して東洋の精神性を理想化すること、これはナショナリズム運動の早期の局面の特徴であり、いまだにサルダール・パニッカルのような元老級の政治家によって代表されているのだが、この傾向はすでに、過去の神聖な伝統になんらの敬意も示さない歴史的批判の精神によってとりかえられようとしている。

このことは特にシナの場合に該当する。ここでは孔子と古典的伝統にたいする反逆がすでに「共産主義」の到来のひさしい以前から起っており、それが胡適のような国民主義の知的指導者と共産主義者の指導者とをむすぶ唯一の共通点といってもいいのである。現在共産主義者によって古典なみにあつかわれている著名な作家、魯迅(一八八一−一九三六)は、疑いもなく伝統主義と国家主義とその他あらゆる形の正統主義のもっとも猛烈な排撃者である。しかしかれがはたして旧式の儒教的正統主義よりも共産主義的正統主義により同情的であったかどうか、わたしははなはだ疑わしいと思うのである。かれは精神的にはマルクスよりもスウィフトに近い。かれはシナの歴史を四千年の食人主義の歴史と見ている。儒教の伝統は「仁と義」を云々した。しかしかれは行と行とのあいだを読んでそこに食人の記録以外のなにものをも見いださなかった。今日の全体主義的国家は単語を訂正した。しかしそれは単語以外のなにものを変えたというのか。あいもかわらぬ食人的過程が新調のスローガンのもとで続行されているのである。

社会的批判が底をついてここまで来れば、もう逆もどりは不可能である。古い文明がこんなに乱暴にその伝統の根からひきちぎられれば、いくら活を入れてももはやどうにもならない。どんな秩序がそのあとがまに坐るにしても、それが西洋型の民主的国家主義にしろ全体主義国家にしろ、ともかくそれは抜本的に新しいものとなるであろう。しかしいずれにもせよ、すでにわれわれ西欧世界の世俗化文明において経験しているように、そこには精神的空白が残る。このことはすでに魯迅の場合に明瞭に認められるとわたしは考える。かれの不満は政治的もしくは経済的というよりも精神的不満である。もっともかれは宗教的な問題をそこに意識的に感知しているわけではないのだが。この点において魯迅は一九二三年の呉稚暉のような作家とはいちじるしくちがっている。後者は真の唯物主義者であって、かれはこの世界を「二足の動物が現在この場で役者をつとめる巨大なひとつの舞台」と見る。「人生におけるかれらの主な関心事は食うこと、子供を産むこと、友だちをもてなすことである。善もなければ悪もない、神もなければ悪魔もない。形而上の亡霊や宗教の神性のごときものは人間界にあぶれ込んだ外来の侵入者である。」

むろんこれは極端な一例である。アジアとアフリカの社会には、まえに触れたインドの村落のように、いまだに革命的変化の影響をこうむらない厖大な地域がある。そのうえ回教諸国の事情もちがっている。そのちがいは宗教と政治とのかたい結びつき、しばしば国民的情操を圧倒する純粋な汎回教的忠誠心の存在、産業的、技術的変化における一般の後進的性格からおこっている。

しかし新しい勢力が自由に発展する場所においては、またアジア人、アフリカ人が近代世界のコスモポリタン文明に平等の分けまえにあずかる程度に比例して、そこには旧来の宗教文化の伝統的な解答では満足しきれない、新しい宗教的要求が生ずるであろう。

そこには古代世界にあったような思想の自由市場が生じ、信条のいかんを問わず、近代的人間の精神的要求を満足させることのできるその使徒から自由に聴聞することができるであろう。その問答が古代世界にあったような哲学的、形而上学的論議になるというのではない。現代は形而上学的時代ではない。西洋におけると同じく東洋においても、人びとは本質や存在よりも存続や共存により多くの関心をもつであろう。それにしてもなおかれらは精神的養分をもとめるであろう。挫折感と困惑の感情が一般化し、なにか共同の目的と共同の希望をもとめる要求がおこるであろう。ある程度までは新しい政治的、国民的な運動がこれを供給する。しかし永久に、万人のためということはできない。人類のより深い精神的要求はわれわれがジョージ・オーウェルの完全に非人間化された文明という悪夢的選択をうけいれないかぎりは、どこまでも残らざるをえないのである。


平成二十二年三月八日
おもちくんとこもちくん。
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平成二十二年三月七日
アニリール セルカンvsグッドデザイン賞審査委員長(元)の同門対決がwktk!
覚え書き@kazuhi.to: アニリール・セルカン氏の東大博士号、取消しに
平成二十二年三月七日
いわき市の不動産なら -いわき土地建物-
不動産情報誌『すまいるくん』
平成二十二年三月七日
こもちかぎのて君の写真集

平成二十二年三月六日
Opera最新版に脆弱性、修正パッチなどは現時点で未提供 -INTERNET Watch
こんなシェアの低いウェブブラウザをピンポイントで狙つた攻撃なんてやるメリットないと思ふが……。
平成二十二年三月六日
MyDefragは、世間での評價が大變高いが、そんなに良いものだらうか。畫面が見辛いは、實行中に表示→統計を選ぶと中斷できなくなるは、非道い出來だ。
システム最適化のツールは、システムを高速化出來る事よりも、安全に實行出來る事の方が遙かに重要。
平成二十二年三月六日
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平成二十二年三月六日
こもちくんとすまいるくん。
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平成二十二年三月四日
食パンくんとおもちくん。
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平成二十二年三月四日
徴兵制導入検討 - Google 検索
時事ドットコム:自民が「徴兵制」検討?=幹事長、即座に否定談話
自民、徴兵制検討を示唆 5月めど、改憲案修正へ - 47NEWS(よんななニュース)
昨日徴兵制に關する福田さんの發言を紹介したら、またえらくタイミング良くこんな話題が出て來る。
三十年前の福田さんの批判――當時の時事問題に關するものだけれども、いまだに通用してしまふ。日本人の國防に關する甘い考へ方は、戰後、ずつと變つてゐない。それを福田さんは的確に指摘してゐる。
福田さんの考へ方・物の見方のは長持ちしてゐる。だから福田さんは偉い人だと私は思ふ。
平成二十二年三月四日
ひとのウェブサイトの誤字 - 朴の木はひとり佇む
さんくすです。

文脈が分らなくてアレだけど、クラシック音樂趣味がスノッブに陷りやすい性質があるといふ指摘だらうか。「場合」といふのは、何について言つてゐるのだらう。

單にさう云ふ「場合がある」と云ふだけの話です。傾向の話ではないです。
藝術が大好きな、センスの良い人が、或時「音樂も好きなんです」なんて告白する。實に好ましい事です。
けれども、人を不快にさせるだけの爲に惡口を言ひ捲つてゐるやうな人が、「私はスノッブではない」「趣味はクラシック」と、これ見よがしに言觸らしてゐたりしたら、何うだらう――と。
平成二十二年三月四日
ちなみに私は繪も音樂もさつぱりわかりません。
平成二十二年三月四日
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平成二十二年三月三日
食パンくんらしい。
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平成二十二年三月三日
『福田恆存 世相を斬る』(サンケイ出版)第三部 日本人の国防意識「田久保忠衛 日本の安全保障」
福田

それは大問題ですけれど、私はさっきも言ったように、その国民の意識をどうしたら直せるのか。それは一つは敗戦――まあそう言うと語弊があるかもしれないけれど、たった一度戦争に負けたくらいで戦争が悪いと観念しちゃうなんて情けない――いいも悪いもないんですよ、戦争というのは。誰もしたくないですよ、戦争は。私は、ほんとうを言えば、徴兵制度にすべきだと思うんですが、もしそうなっても、自分の息子が徴兵されそうになったら何とかうまいことやってのがれさせるように一工夫くらいしますよ。

日本人の意識というのは母親の意識と同じで、そういう二元論的考え方ができないんですね。自分の子供は戦争にやりたくない。だから戦争反対、国防もいらないとなっちゃう。国家としてはやはり国防は必要なんだ、国防は一所懸命やらなきゃいかん、しかし、自分の子供はお百度踏んでも何とかうまくひっぱられないように、戦争に行っても生きて早く帰ってこられるようにと祈る……、この二つの顔がないということですね。

だから、さっきのキッシンジャーじゃないけれども、極端にぐるぐる変わる。平和か戦争か、いつも一元論でいくからですよ。国内の平和を守るためには戦争しなきゃならない時もくるかもしれないという用意が全然ないし、戦争のことを言うと、あいつは戦争が好きなんで、他国を攻めることばっかり考えてるということになっちゃう。

平成二十二年三月三日
【情報セキュリティセミナー】 高木浩光氏「Winnyは適法に使えない」 -INTERNET Watch
Winny2はファイル共有機能を切つて掲示板機能だけ使ふ事が出來るんぢやなかつたつけ。その時でも違法になるのかな。
大規模BBSに対応したWinny 2のベータ版が公開
逆だつた。

「47@download.2ch」氏によると、Winny 2では起動直後にはBBS網に接続されていないという。このため、起動後に左側のBBSのスレッド一覧からスレッドを表示しない限り、BBS網に接続しない状態でファイル共有だけを行なうことも可能となっている。

平成二十二年三月三日
Opera 10.50は改惡が大量にあつて何うしやうもないが、Ctrl-Fを以前のヴァージョンと同じ擧動に戻す方法は無いものだらうか。ページ内檢索をしようとして勝手にぐぐられるのは本當に腹立たしい。F3を押しても直前の檢索語で檢索しないし。使ひ勝手が大きく損なはれた。Opera 10.50は、從來のヴァージョンを使込んでゐればゐるほど、使ひづらく感じるやうに作られてゐる。
Opera社の人は「これこそ本當に使ひ易い仕樣なのだ」と言張るかも知れないが、從來のユーザを切捨てる爲にわざと操作性を變へて來たものとしか思はれない。俺は、折角築き上げたものを一擧に廢棄し、全部無駄にしてしまふ、今の風潮を憎んでゐる。Opera社も、さう云ふ風潮を當り前の事と思つてゐる現代の企業である。

平成二十二年三月二日
That's you! - 黄色いガードレールの上で

ところで、文語文ってどうやって学習すればいいのですか。

漢文を勉強して下さい。
文語の苑なんてのがあるけれども、餘りおすすめしない。おっさんが作つてゐるのでセンスが良くない。Operaで閲覽できないし。
平成二十二年三月二日
一昔前「自虐史觀」と云ふ言葉が流行つて、「右翼」が「左翼」を罵るのに愛用した(とされる)けれども、同時に「左翼」は「右翼」に言返すのに「自尊史觀」と云ふ言ひ方をして、實際、その方が「實態」に良く合つてゐるから「左翼」は大變滿足した。逆に「右翼」は、言つても「左翼」が凹まないものだから、最近は「自虐」と言はなくなつた。
現在は「右翼」「左翼」の對立は、「右翼」「左翼」の定義が崩潰して、無意味になつてゐる。實際、「天皇陛下萬歳を叫んでゐる右翼」なんて殆ど存在しないし「マルクス萬歳を叫んでゐる左翼」も殆ど存在しない。自分は右翼である・左翼であると言つてゐる人も、「アンチ左翼だから右翼」或は「アンチ右翼だから左翼」と思つてゐるに過ぎない。ただ、言へる事は、どつちも、自分逹を高みに置いて、他人を見下して、非難を浴びせる・嘲笑を浴びせる、と云ふのを、當り前のやうにやつてゐる、と云ふ點で、「同じ穴の狢」であつたりする。「左翼」が好き放題に「日本軍の過去の所業」を非難するのも、「俺は昔の日本軍とは無關係の存在である」と心から思つてゐるからで、「我が日本軍」を虐げてゐる積りは全く無い。「左翼」は「自尊」の考へ方で何でも物を言つてゐるのであり、そこで「自虐」ととんちんかんな非難をされたから安心してますます「右翼」を見下すやうになつた。
「アンチ左翼としての右翼」「アンチ右翼としての左翼」の兩方に共通するのは、どちらも政治主義者だと云ふ事で、兔に角政治の話をするのが好きで好きでしやうがないマニアだと云ふ事。マニアだから政治の話しかしないし、自分の好きな政治の事を少しでも否定されるとかんかんになつて怒る。「政治主義者」と云ふただそれだけの批判――と言ふより事實の指摘――であつても、そんな事を言ふ奴は人間ではないみたいな事を言つて、批判者を攻撃し出す。これは、「右翼」も「左翼」も變らない。逆に言へば、政治の話を出來るなら、「右翼」と「左翼」は手を結ぶ事が出來るので、實は彼等の「右」「左」の立場の違ひは相對的なものでしかないと云ふ事が判る。
「自分を高みに置いて、自分と違ふ人間を見下す」と云ふのが「右翼」「左翼」の人々の常で、だから彼等は自分逹と異質な人間を排除しようとするのだが、それは即座に差別的な發想に繋がる。「右翼」も「左翼」も關係ない、皆政治主義者だと指摘したが、「反米」の思想は最う右も左もないのであつて、政治主義者の間では當り前のやうに「親米か、反米か」の議題設定が行はれ、右も左も關係なく場當り的に自己の立場が設定されて、あゝだ斯うだと果てしのない議論が展開される事になる。が、その時、「反米=アンチ・アメリカ」の立場の人は常にアメリカ人を見下したやうな物の言ひ方をし、差別的な態度を取る。一方、「中國」や韓國、或は臺灣に對する態度でも、「アンチ」の立場を取る人々は多いのであつて、さうした人々が議論に於て差別的な言ひ方をして外國人を嘲るのは屡々見かける光景である。何れにしても、差別的な考へ方が政治主義者の人々の間には滲透してゐるのであつて、これこそ私には深刻な問題だと思はれるのだが、彼等は遊びで政治を論じてゐるから深刻に考へない。「右翼」の「タカ派」(この邊をごつちやにしてしまふ邊が今の日本人の價値觀が出たら目な證據)が差別に無頓着なのは論ずるまでも無い事だが、「左翼」の人々も平然と差別を行ひ、自分の氣に入らない人間を貶めては快を貪つてゐる。
私は政治主義を全く信じないが、茲十年許り、ウェブで政治主義者の人々の言動を見て來て、つくづく「政治主義者は本當に嫌だなあ」と思ふやうになつた。政治それ自體は大變重要なものだが、度を越して「それだけが重要」だと思つては行けない。八百屋が「野菜を扱ふ商賣だけが重要だ」等と思ひ込んで魚屋を馬鹿にしたら笑ひ話だが、政治家でもない、素人の、「たかが政治マニア」が「政治だけが重要」と思ひ込んで威張つて政治の話をしてゐるのだから何うしやうもない。私は、素人には素人なりの役割と言ふものがあつて、八百屋さんにも魚屋さんにも、或は政治家さんにも、それなりの敬意を表しつゝ、感想を述べる自由があると信じてゐるが、八百屋や魚屋は下らない、政治家だけが立派である、等と――しかし政治マニアの人々が恐ろしいのは、素人なのに平氣でプロの政治家を嘲る事。もちろん政治家を素人が批判する事は許されるが、それにはそれなりの用意が必要だ。それをすつ飛ばして、安易に嘲笑するのだから、素人は怖いもの知らずだが、さうした安易な發言が出來てしまふのも、彼等素人が「教育」を受けたからに外ならない。皮相な教育が彼等政治主義者をつけ上がらせたものである。跳ね返りの御調子者を演ずるのなら結構だが、演じてゐる意識もない、素の御調子者が、政治主義者には非常に多い。
平成二十二年三月二日
「Opera 10.50」正式版公開、新エンジン搭載で高速化 -INTERNET Watch
メニューのCheck for Updatesではまだアップデートできない。
入れてみたが正直言つて何處も良くなつてゐない。全部惡くなつた。Operaは7以降、ヴァージョンアップして良くなつた事は一度もない。メニューバーは勝手に消すは、ページ内檢索はGoogle檢索になるは、何で使ひ勝手を變更するんだらう。變更しないのは良い事なのに、變更するのは良い事だと確信してゐる開發者がゐるのだ。そして、「使ひ勝手は、改善されたのだから、良くなつた」と言張つて押附けて來る。知らない人には「良い」ものでも、變更されたと感ずる人にとつては「惡くなつた」事になる。人によつて感じ方は變るのであつて、それは「新規ユーザ」か「既存ユーザ」かで綺麗に分かれる。ところが開發者にはそれが解らない。新規ユーザになら「改善されたインタフェイス」を與へていい。けれども、既存ユーザに「これは改善されたインタフェイスなのだから、使ひなさい。使ひたくなければ、自分で戻しなさい」等と言ふのは、をかしい。それを「をかしくない」と思つてゐるのだから話にならない。
日本人は昔から「改善されたのだ」と言はれれば、何んな改變であつても受容れてしまふ習性を持つてゐる。
なんで新しいタブを開くとうねうね動く。氣持ち惡い。
Opera社は、ヴァージョンアップする度に別のプログラムになるものを、何で「同じOperaである」と言張るのだらう。毎囘別の名前を名乘るのならば納得するが、「これらは全部同じプログラムである」と言ふのはをかしい。
それから、新たにOperaのユーザになる人へ。今「良い」と感じたインタフェイスは、次のヴァージョンで破棄され、全く別のインタフェイスに取替へられる。「改善される」ものと期待してゐると裏切られるので要注意。
と言ふか、何うせPC向けのOperaはOpera社にとつて本命ではなく、モバイル版の爲のテスト版に過ぎないから、インタフェイスを弄つたり色々機能を附けてためして見てゐるわけだ。開發版なのだから安定しないのは當り前。開發者の「御遊び」に附合へる心の廣いユーザでないととてもPC版のOperaなんて使つてゐられない。

平成二十二年三月一日
中村さんへ。クリーチャーのまとめサイト、大變有難いのだけれども、なぜKirokuroなんかのイラストを扱つてゐるのか理解出來ない。あゝ云ふ誰にでも描き手の精神の醜惡さが看て取れる非道いイラストを平氣で採上げられる感性が解らない。さつさと削除して下さい。
そもそもあんな氣持の惡い繪を描いて平氣で公開出來る人間も何うかしてゐるのだけれども。
平成二十二年三月一日
『福田恆存 世相を斬る』(サンケイ出版)第二部 アメリカの対日政策「林三郎 カーター大統領の道義外交」
福田
ええ。今までは数年間、高度成長を続けてきました。これから、良くいえば安定成長、悪くいえば低成長、下手すれば破局への道を歩み出したところでしょう。そのときでも、というより、このときこそ、国防にどれだけ必要かという問題に直面しなければならないわけですね。だから、GNPの何パーセントになったり、あるいは国民総所得の何パーセントになったりということは、そのときどきに結果として出てくることで、目標として考えるべきことじゃありませんよ。
平成二十二年三月一日
20100301Kumonoue01.gif
平成二十二年三月一日
身近な日本人にろくな奴がゐないとか、同じ日本人から連日嫌がらせを受けてゐるとか、さう云ふ事はあるけれども、しかしそんな理由で俺は日本を嫌ひになりはしない。
皆さうだらう。

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