- 主人
そのやうな風潮のあるのを私は否定しない。今のまゝの憲法ではよくないと私は思ふ。
だがこゝで一語しておきたいのは、「存在理由の確かでないものは抹消していい」との思想は軽薄で、同感しがたいと云ふことだ。このやうな軽薄な思想が流行するので、近代社会では、貴重なものが、その貴重さを認識しえない者たちによつて、つぎつぎに失はれて行くと云ふことを一言しておきたい。
- 客人
しかし存在理由のないものは存在しなくなるのではあるまいか。たゞその存在理由を一般人が認識しえないで、理由が無いのだと即断する危険は確かにあると思ふ。そして失はれて後に気がついた時には、どうにもならないといふこともありうる。
- 主人
そもそも社会における存在理由とは、なにを意味するのか。特定の人間なり集団が、目的意識を明らかにして人工的につくりあげたものは、その存在理由が明瞭である。まづ存在理由が明らかにしめされてから、それが生れる。株式会社とかその機関(社長、重役、職員)、のやうなものは、その存在すべき理由はいたつて簡明にわかる。国家の機関でも、裁判所なり、検察庁なり、立法機関なり、行政機関でも議会でもその設立について討論し、その職分を定めて設けたやうな制度や機関の存在理由は明瞭だ。
しかしこの社会に存在するものでも、自然成長的に現はれて来たものの存在理由は、なかなか分らない。それは一つの特定理論があつて、はじめて存在するのではない。理論よりも前に、まづ存在する事実がある。それを人々は、いろいろと分析したり解釈するにすぎない。それはおそらく無限無数の人々の経験と英知にもとづいて、成長して来たものと云ひ得る。
一例を云へば、国語(日本語)である。これはなぜ存在せねばならなかつたのか。日本語は、中国語や韓国語とまつたく別の一国語として、なぜ存在せねばならなかつたのか。その存在理由が君には分つてゐるか。
- 客人
考へたことも学んだこともないので、すぐ聞かれても分らない。地理的にも歴史的にも研究すれば、いろいろと深い複雑な理由があるのだらうが、一朝一夕の研究などでは到底その理由を究明することはできがたいのではあるまいか。
- 主人
同感だ。ところが明治の文明開化の時代に、日本の秀才知識人が外国語を学んだ。そして米英語が大変に文明進歩のために有利な言語だと云ふので、日本人も国語を米英語にしたがいい、なにもこれほど都合のいい言語があるのに、日本人だけが古い日本語を固執する必要はない、日本語にはその存在理由がない、と主張した人があつた。さすがにこの主張には反対論が有力で、問題にされなかつたが、こんな浅はかな連中がいくらもゐる。かれらは、社会的事象のなかの自然成長的存在の重みがまつたく分らないのだ。永い歴史伝統の中から生れて来た深い理由などわからない。まつたく浅薄といふほかにない。
アメリカ人が日本を占領した時にも、日本人を米語国民へ変へたがいいと云つた米人があつた。権カで無理強引にやれば、できないことでもあるまい。現に米国の黒人たちは、その教養の深浅に関せず、米語しか知らない。独裁権力で強制すれば、自然成長的な文化を打ち破ることも必ずしもできないでもないと云ひ得るだらう。
だがわれわれ日本人は、そのやうな乱暴な強制には、到底承服しがたい。抵抗せざるをえない。君も日本語が、この国際時代になぜ存在しなくてはならないのか、その理由を知らないと云つた。実は私も十分には知らない。だがこのやうな自然成長の文化には、特定少数の目的意識をもつて作られた人工的な存在よりも、さらに深い、さらに複雑精緻な存在理由が秘められてゐることを考ふべきものではあるまいか。
それをいきなり、米英語がこれこれの条件ですぐれてゐる、と五ケ条か十ケ条の条件をあげて、だから日本語は独自に存在すべき理由がない、などと断ずるのは、よほどの愚か者だ。
- 客人
天皇を中核として形成されて来た日本の国は、自然成長的な性格がいちじるしい。その特長なりその良さは、よぼど深くほり下げて研究しなくては分らない。一般人には、いきなり質されても分らないのが当り前だと云ふわけか。
- 主人
然う云ふことができるだらう。大切なのは、そのやうな深い自然成長的な文化なり制度を考へるのには、まづそれがいかなる事実として存在するか、といふことを前提にして考へなくてはならない。まづ存在するといふ事実を前提にして、それを深く見極めることなしに、いきなり抽象一般論理で「存在理由」があるかないかなどとの発想法で考へたのではならないと云ふことなのだ。そんな発想法で、国家の制度比較論などをしてゐると「国語廃止論」のやうな愚劣で浅薄な論におちいるのをさけがたい。
- 客人
抽象的な政治学理論や法理論で「天皇の存在理由があるか、ないか」などと議論しても、それは浅はかで愚劣な話になる。まづ歴史事実として厳存する天皇史、国史を見て、その事実の中からいかなる史的な意味を発見するか、それが大切だと云ふのが貴見だと思はれる。それでは、天皇史についての貴見を承ることにしたい。
この「対話―皇室の精神史」は、日本の常識的な經濟人である「客人」と、「日本の君主制」なる著作がある「主人」との對話と云ふ設定で書かれたもの。
筆者・葦津珍彦は、戰後の神道界の思想的指導者であり、言はば宗教人であつた。しかし、雜誌「思想」における天皇論爭の際には、編緝者が豫期した「神憑り」的な文章ではなく、論理的で説得的な論文を寄せ、左翼知識人・進歩派を驚かせた。
茲では、その天皇に關する所説を展開する前の段階の議論で、傳統的・歴史的な事實について論ずる時の斯くあるべき態度とはどのやうなものか、を考察してゐる。そして、具體的な事例として、日本語について述べてゐる。
日本語は、何らかの理由で歴史上に存在するやうになつた。しかし、なぜ存在しなければならなかつたのか、どのやうな風にして日本人に受容れられ、長い間使はれて來たか、と、いざ問はれても、完全な答を出す事は不可能である。
さうなると、日本語は、「存在するもの」として、取敢ずは認めなければならないだらう。そして、我々日本人がその日本語を、「存在するもの」として認め、使ひ續けて來た事實も、事實として、認めなければならないであらう。
さう云ふ歴史的事實としての日本語に對して、簡單な理念に基いてその存在を否定するやうな事があつたとする。既に事實として日本語を受容れてゐる我々日本人にとつて、そのやうな行爲はどのやうに感じられるか。
例へば、「英語の方が優れてゐる、日本人は日本語を使ふのを止めて英語を使へ」と命令されたとする。そして、「英語の方が優れてゐる所以」を列擧されたとする。その列擧された理由が、それなりに理に適つてゐるやうに見えるものだつたとする。そして、「さあ、日本語を使ふのを止めろ」と説得されたとする。しかし、それでも、「それは到底、承服し難い事ではないか」、と筆者は考へる。
その、「承服し難い」と云ふ感情は、理窟では無いやうに思はれるかも知れないが、しかし、歴史的事實に基いた自然な感情である。筆者は、その「自然な感情」が「ある」事を前提に、歴史的事實としての天皇の存在について、議論を進める。
未發見の合理性が歴史的事實に「あるかも知れない」事は、何んな人間も否定出來ない。さう云ふ否定出來ない合理性の存在を、安易に否定しない態度は、寧ろ合理的な態度であると言へる。だから傳統的な感情は必要である。
憲法は作られた規範だが、假名遣はさうではない。天皇もさうではない。「作られた」からには、憲法には目的がある。
この邊りの事を取違へて、憲法について論ずる時にその目的を考慮せず、假名遣や天皇を論ずる時にその目的を考へ、疑つて見せる人が矢鱈と多い。
歴史的事實である假名遣も天皇も、目的が初めにあつた譯ではない。だが、長い間、假名遣も天皇も、存在して來た。ならば、それらには、やはり存在すべき理由があつた筈である。一方の憲法は、事實ではなく飽くまで構築された理論であり理念である。その理論であり理念である憲法は、今後も「あり續ける」爲には、理論的な強化なり何なりが必要である。或は、歴史的事實へと轉化させる必要がある。その爲には、憲法改正なり、「現行憲法無效論」なりが必要である。ただ、既成事實と言張つて、「憲法の精神」なるものを聲高に主張して、反對者を抑壓する、と云ふやり方で憲法を扱つてゐて良いものではない。
一方で、歴史に對する理性的な態度を取るべきだ、と云ふ立場から言へば、今のやうに、假名遣や漢字を、便宜主義と云ふ「條件」で「存在すべきでない」と極附け、非難して、やつつけで作り直して、濟ましてゐるのは、よろしくない、と云ふ事になる。
「対話 皇室の精神史」は、『天皇 日本人の精神史』(神社新報社)に收録され、のち、『葦津珍彦選集』(一)に再録された。
以下は『天皇 日本人の精神史』について。