善光寺〜小林一茶〜

信濃町柏原から戸倉上山田温泉に行く途中、長野の善光寺に行ってみた。
長野駅から善光寺まで参道を歩く。
参道には1丁(約109m)ごとに石碑が建っている。
建久8年(1197年)、源頼朝が善光寺を参詣した時、馬の蹄が穴に挟まってしまった為に駒を返したという。その馬蹄の凹みは現在も「駒返り橋」の左側に見ることができるそうだ。
善光寺仁王門

宝暦2年(1752年)、仁王門創建。
弘化4年(1847年)、善光寺地震で焼失。
慶応元年(1865年)、再建。
明治24年(1891年)6月2日、再び焼失。
現在の仁王門は大正7年3月30日建立のもの。
三門は保存修理工事中。
善光寺本堂

善光寺は皇極天皇元年(642年)の創建と伝えている。
仏教が宗派に分かれる以前の寺院で、無宗派。
治承3年(1179年)の炎上を始め十数回の火災に遭い、現本堂は宝永4年(1707年)落成したもの。
善光寺本堂に安置される御本尊一光三尊阿弥陀如来は白雉5年(654年)以来の秘仏。鎌倉時代に御本尊の御身代わりとして前立本尊が造られ、拝されるようになった。前立本尊は普段御宝庫に安置されていて、7年に1度の御開帳の時だけ、特別に拝むことができる。
信濃三十三観音特別霊場である。
貞亨3年(1686年)、大淀三千風は中山道から善光寺街道を行き、善光寺へ。
○即時に一軸かきちらし。揚松梯彌生坂。福島。宮越。鳥居峠本山。松本仇坂矢坂。青柳猿峠丹波島。川中島に出。むかし信玄謙信鼻々したまふ戰塲をかたり。善光寺日野屋なにがしが亭につく。先珠數とりて。其名も高き佛日の善光(よきひかり)ある御寺の境内繁々たる。
貞亨5年(1688年)8月16日、芭蕉は姥捨山から善光寺を参拝。坂城、小諸、軽井沢を経て、下旬、江戸に帰る。
明和8年(1771年)8月20日、諸九尼は川中島を経て善光寺へ。
さて善光寺に着ぬ。此ころまで、命もあやう(ふ)き程なりしに、ともかくも成なバ、くらきより闇きにたどりつべきをひとへに仏の御しるべにやと、かたじけなさ、いひつくすべうもなし。御堂の下、はるかにふかくくらき所を、念仏しめぐる。六道めぐりと申よし、うき世の事わざ、ミなわすれて信おこりぬ。
安永3年(1774年)1月7日、加舎白雄は善光寺へ参り、句を詠んでいる。
正月七日也けり、群衆の人に交りて善光寺へまいりぬ、
ありがたや三児も雪をふみきやす
常世田長翠も善光寺に詣で、句を詠んでいる。
善光寺に詣て
春の山こゝ曙の都かな
椿海老漁 長翠
寛政3年(1791年)3月26日、小林一茶は江戸を発ち、出郷してから初めて柏原に帰る。4月18日、郷里に入る前に善光寺を参詣する。
善光寺に参る。堂額ことし修造有て、仏も寂光の月新にかゞやきを添へ、蓮(はちす)は花の盛を待て、九品の露[を]あらそふ。
『寛政三年紀行』
以後、一茶は何度も善光寺を訪れ、善光寺にちなんだ句を50句以上も残しているそうだ。
本堂の東に小林一茶の句碑がある。
寛政3年(1791年)4月29日、鶴田卓池は善光寺を訪れている。
○二十九日 善光寺高サ十丈二重屋根
表十五間奥行二十五間アリ
山門仁王門経堂 知行千石
四門東定額山善光寺南南命山無量寿寺
西不捨山浄土寺北北空山雲上寺
大本願比丘尼上人也別当大寛寺一山天台四十六坊有
翁の吟 月影や四門四宗も只ひとつ
朝心木草になれと願ひけり
| 長翠
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春草の露にまぎるゝなミだかな
| 几外
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日に月に花の朝鐘満るかな
| 双烏
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寛政9年(1797年)秋、鶴田卓池は信濃行脚で再び善光寺を訪れている。
享和元年(1801年)3月28日、井上士朗は門人松兄・卓池を伴い江戸から帰る途中で善光寺を訪れた。
旅立日は二月廿八日也。行程二百里。半時仏前に坐する事なし。けふ又三月廿八日なり。善光寺の如来前に通夜して仏恩を報ず。吾祖はこゝに百日の歩みをはこび給ふとぞ。けふ祖師の忌日に逢ふて晨朝一時の御経を聞こと、是また不思議の宿善なり。
朝がすみ二重ひらかせ給ひけり
| 松兄
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月仏信のへ華のころに来て
| 卓池
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文化2年(1805年)8月、川村碩布は善光寺を訪れて句を詠んでいる。
善光寺
ひる中を小鳥のさはぐ御堂かな
『穂屋祭紀行』
文政7年(1824年)5月、川村碩布は「善光寺詣」の旅に出立。
そもそもよし(善)光寺ハ布金(諷経カ)の霊場にして、龕前のしめやかなる事承るにまさりぬ、伝燈の光り鳧鐘の響きハさらなり、悲智兼運して雲霞の老若念珠をつまくり寂黙せさるハなし、されハ此国界をはなるゝ事今日にありや、九品蓮台の生、この国界にありや
夏の夜のたゝたゝ深く成にけり
『善光寺詣』
しなの鉄道戸倉駅へ。
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