長禅寺 〜取手ゆかりの人びと〜

JR常磐線取手駅のすぐ南の高台に長禅寺がある。
長禅寺

正岡子規 慶応3年(1867年)〜明治35年(1902年)
「水戸紀行」に、取手は東京を出てからは一番繁華な町で、西洋風の家も見受けられると書かれている。
沢近嶺 天明8年(1788年)〜天保9年(1838年)
本姓は谷沢、家は取手宿内で食料雑貨を販売する商家で、屋号は油屋。代々与兵衛を称していた。20歳の時、江戸で国学者村田春海の弟子となる。後に取手宿にもどり、家業を営みながら、学問や和歌に励む。天保8年(1837年)の取手宿の大火事で、書きためていた原稿や収集した蔵書をすべて焼失。失意に沈むも、唯一の著作『春夢独談』を執筆して、翌年8月22日死去。墓は念仏院にある。江戸時代の取手が生んだ唯一孤高の学者・文化人。
沢近嶺は少年時代古田月船に俳諧を学び、生涯父とも慕って、その最後をみとった。
小川芋銭 慶応4年(1868年)〜昭和13年(1938年)
日本画家。牛久藩士の家に生まれる。独特の画風で、河童の画は特に有名。宮崎仁十郎とは兄弟同様のつきあい。仁十郎は「芋銭を囲む会」で、芋銭を取手の人びとに紹介する。仁十郎は長禅寺境内に高村光太郎の筆になる「小川芋銭先生景慕碑」をたてる。仁十郎の子の稔は、光太郎の姪の春子と結婚している。
「光太郎の姪」とあるが、「智恵子の姪」。
高村光太郎 明治16年(1883年)〜昭和31年(1956年)
高村光太郎の妻智恵子の身のまわりの看護をしたのが、姪の春子。昭和20年(1945年)、春子は光太郎の紹介で取手の宮崎稔と結婚する。稔の父仁十郎と光太郎き親しく交際しており、光太郎は何度か取手を訪ねている。「利根川の美しさは空間の美である」との名言を残している。
「取手ゆかりの人びと」
諸岡存博士の診察もうけたが、次第に狂暴の行為を始めるやうになり、自宅療養が危険なので、昭和10年2月知人の紹介で南品川のゼームズ坂病院に入院、一切を院長斎藤玉男博士の懇篤な指導に拠ることにした。又仕合なことにさきに一等看護婦になってゐた智恵子の姪のはる子さんといふ心やさしい娘さんに最後まで看護してもらふ事が出来た。
高村光太郎「智恵子の半生」
「一筆啓上火の用心お仙泣かすな馬肥やせ」で有名な本多重次も「取手ゆかりの人」だそうだ。
「私の旅日記」のトップページへ
