手児奈霊堂〜高橋虫麻呂の歌碑〜

「真間の継橋」の先を右に曲がると、手児奈(てこな)霊堂がある。
手児奈(てこな)霊堂

手児奈(てこな)霊堂
奈良時代の初め、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈(てこな)の伝承を聞いて、
われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処(おくつきところ)
と詠ったものが万葉集に収録されている。
手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀(ぶんき)元年(1501年)には弘法寺(ぐほうじ)の七世日与上人が手児奈の霊を祀る霊堂として世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人々の争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽したとか、手児奈は国造(くにのみやつこ)の娘で、その美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着したところが生まれ故郷の真間の浦の海辺であったとか、さらには神に仕える巫女(みこ)であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
手児奈霊堂に『万葉集』の歌碑がある。

挽歌 詠勝鹿眞間娘子謌
勝鹿(かつしか)の真間の井見れば立ち平(なら)し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
『万葉集』(巻九)
山部赤人の歌ではなく、高橋虫麻呂のものである。
亀井院へ。
「私の旅日記」のトップページへ
