鹽竈神社 〜志和彦神社〜
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東北自動車道安達太良SAで安達太良連峰が見える。


安達太良連峰


 中央が安達太良連峰の主峰安達太良山(あだたらやま)で、別名岳(だけ)山、またその形から乳首山(ちちくびやま)等ともいう。

 安達太良連峰の最高峰は安達太良山(標高1,700m)ではなく、箕輪山(標高1,718.5m)。右に見えるのが箕輪山。

東北自動車道仙台南ICから仙台南部道路さらに仙台東部道路を行く。

仙台港北ICで国道45号に入り、塩竈へ。


 むかし、左のおほいまうちぎみいまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて、すみたまひけり。かんなづきのつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、もみぢのちぐさに見ゆるをり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜、酒のみし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。

 そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひ歩きて、人にみなよませはててよめる。

   塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ

となむよみけるは、陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈という所に似たる所なかりけり。さればなむ、かのおきな、さらにここをめでて、塩釜にいつか来にけむとよめりける。

『伊勢物語』(第八十一段)

寛文2年(1661年)、西山宗因は仙台から塩竈を訪れた。

 岩城をたちて六日にや、まだ朝霧のほどに、かの浦につきぬ。聞くならく、六十よ国の中々に詞を絶たり。河原のおとゞのむかしおもひやられて、かの朝臣の爰によらなんとながめしあまの小舟に乗て、霧のまがきのしまがへ(くカ)れなくさしめぐる。

   浦山はいづくはあれどあま小舟かゝる所の秋の夕ぐれ

   塩がまや色ある月のうす煙

   島かくすそれしも霧の籬哉


カーナビの指示に従って、鹽竈神社(HP)へ。


 鹽竈神社は表坂(男坂)という202段の石段を登るのだが、車は石段を登れない。急な坂道を登って駐車場に車を停める。

鹽竈神社


 元禄2年(1689年)5月9日(新暦6月25日)早朝、芭蕉は石段を登って鹽竈神社に詣でた。

 早朝塩がまの明神に詣。国守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽(さいてん)きらびやかに石の階(きざはし)、九仭に重り、朝日あけの玉がきをかゞやかす。かゝる道の果塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれどいと貴けれ。

文治の燈籠


 文治3年(1187年)7月10日、奥州藤原三代秀衡の三男泉三郎忠衡により寄進されたもの。

 神前に古き宝燈有。かねの戸びらの面に文治三年和泉三郎寄進と有。五百年来の俤今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠は勇義忠孝の士也。佳命今に至りて、したはずといふ事なし。誠人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふと云り。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は塩釜を訪れ、句を奉納している。

 是ヨリ塩竈への道筋に浮嶋・野田玉川・紅葉の橋、いづれも道続なり。緒絶橋は六社の御前有。塩竈六社御神一社に篭、宮作輝斗也。奥州一の大社さもあるべし。神前に鉄燈籠、形は林塔のごとく也。扉に文治三年和泉三郎寄進と有。右本社、主護より造営ありて、石搗の半也。

   ○法楽 祢宜呼にゆけば日の入夏神楽


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、鹽竈神社を訪れた。

明神は當國第一の社なり。木立古り神さび。石の階百重に疊み上げ。樓門いよやかに構へ。廻廊緩く回り。社壇目出たく輝き。切れる石の中徑は。糸して引くが如く。細かなる敷る石は。洗へる大豆に似たり。石唐銅(からかね)の燈籠數も知らず。中にも和泉三郎寄進の燈籠は。形輪塔の如く珍らし。


 寛延4年(1751年)、和知風光は『宗祇戻』の旅で塩竈で句を詠んでいる。

   塩 竈

雄島へも鴛の通ひ路千賀の浦


 明和7年(1770年)、加藤暁台は奥羽行脚の旅で鹽竈神社に句を奉納している。

忝じけないづくはあれど沖鱠暁台

 むすぶ潮に清き藻の花雨石


 安永2年(1773年)、加舎白雄は鹽竈神社を訪れた。

 しほがまの社頭にまいりつゝ、塩土老翁と現じたまひし神代のむかしをたうとみて、

   秋久にはこぶ瀬ごゝろ


「塩土老翁」(しおつちのおじ)は鹽竈神社の主祭神。

 享和2年(1802年)、常世田長翠は酒田に移住するる道筋の途中で乙二と共に鹽竈神社に参詣した。

   しほがま社頭

六月の水拝みけり釜のろく


 嘉永5年(1852年)3月18日、吉田松陰法蓮寺に登り、塩竃神社を参拝した。

十八日 朝微雨 已にして晴る。鹽竈の當別鈴木隼人を訪ふ。隼人吾れら二人を導きて法蓮寺に登る。地高敞にして松島を望むべし。寺に藩侯望む所の室あり。鹽竈明神の祠を拝す、是を陸奥一の宮と爲す。


鹽竈神社は陸奥国一宮である。

右宮左宮


左が右宮、右が左宮。

 右宮に経津主神(ふつぬしのかみ)、左宮に武甕槌神(たけみかづちのかみ)が祀られている。

 経津主神は茨城県の鹿島神宮の主祭神、武甕槌神は千葉県の香取神宮の主祭神。

 明治26年(1893年)7月29日、子規も石段を登って鹽竈神社に詣でた。

 取りあへず鹽竈神社に詣づ。數百級の石階幾千株の老杉足もとひやひやとして已に此世ならぬ心地す。

炎天や木の影ひえる石だゝみ

『はて知らずの記』

 明治39年11月14日、河東碧梧桐は塩釜神社に詣でた。

 塩釜に来て、牛石、お釜、塩釜の三神社に詣った。牛石神社は、塩釜の神が塩を焼いて下民に施された時の牛が化石したという由来である。お釜神社には塩を焼いたという大きな丸い釜が四つある。塩釜神社では東京を出て以来最古の宮居に詣ったと思うて神前にぬかずいた。


 昭和11年(1936年)6月25日には、種田山頭火も塩釜神社を参拝している。

 塩釜神社参拝、境内神さびて、おのづから頭下がる、多羅葉樹(たらようじゅ)の姿

『旅日記』

別宮


主祭神の塩土老翁(しおつちのおじ)が祀られている。

三本殿二拝殿という全国でも類例がほとんどない社殿構成。

冬の空に飛行機雲。


蝋梅(ろうばい)がわずかに咲いていた。


蝋梅(蘭梅)

 蝋梅は江戸時代の初期清人のもたらせるものなりと云ふ。林子平、長崎に遊学の際れを奇として持帰り旧社家藤塚知明に贈る。知明金華亭に植え、知明歿後此処に移植せるものなり。

由緒ある蝋梅である。

鹽竈神社の隣に志和彦神社がある。


志和彦神社参道


参道の左手に「芭蕉翁奧の細道碑」があった。


 塩竈の浦に入相の鐘を聞く五月雨の空いささかはれて夕月夜幽かに籬が島もほど近しあまの小舟こぎつれて肴わかつ声々につな手かなしもとよみけん心も知られていとゞ哀れなりその夜盲法師の琵琶をならして奧淨瑠璃といふものを語る平家にもあらず舞にもあらずひなびたる調子うちあげて枕近うかしましけれどさすがに辺土の遺風忘れざるものかと殊勝に覺えらる

 早朝塩竈の明神に詣ず國守再興せられて宮柱ふとしく彩椽きらびやかに石の階九仭に重なり朝日あけの玉垣をかゞやかすかゝる道の果塵土の境まで神靈あらたにましますこそわが國の風俗なれといと貴けれ神前に古き寶燈ありかねの扉の面に文治三年和泉三郎寄進とあり五百年來の俤今目の前にうかびてそゞろに珍らしかれは勇義忠孝の士なり佳名今に至りて慕はずといふ事なしまことに人よく道を勤め義を守るべし名もまたこれにしたがふと云へり 日すでに午に近し船をかりて松島に渡るその間二里余雄島の磯につく

昭和36年(1961)5月8日、塩竈観光協会建立。

志和彦神社


 志和彦神社はもと仙台市岩切冠川(かむりがわ)(七北田川(ななきたがわ))の畔に鎮座、明治7年12月24日に鹽竈神社の別宮に遷し祀られた。現在地に遷宮したのは昭和13年9月。

 『宗祇戻』(風光撰)に「十府の菅 此辺志波彦の神社有旧跡也」とある。

志和彦神社から塩釜港が見える。


 社頭に立ちて見渡す鹽竈の景色山低うして海平かに家屋鱗の如く並び人馬蟻の如く往來す。


 塩釜港は昭和30年代に埋め立てが行われ、子規が訪れたころより海岸線は700mほど遠ざかったそうだ。

御文庫(旧鐘楼)


室町時代の造営と言われ、一番古い建築物だそうだ。

末の松山へ。

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