清見寺〜句碑橋〜
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 静岡市清水区興津清見寺町の東海道本線沿いに清見寺(HP)という寺がある。


臨済宗妙心寺派の寺である。

清見寺総門


 天武天皇の白鳳年間に清見関が設けられ、清見関の鎮護として建立された仏堂が清見寺の始めと伝えられている。

 寛元4年(1020年)、菅原孝標女は父の任果てて上京。清見が関を行く。

 清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海までくぎぬきしたり。けぶりあふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし。

『更級日記』

 文正元年(1466年)、宗祇が関東に下向する途中、駿府に義忠を訪ねた。宗長は義忠の仰せで宗祇を清見が関に案内したそうだ。

雪舟も清見寺を訪れ、後年富士・三保・清見寺の景色を画いているそうだ。

 文亀2年(1502年)8月11日、宗長は清見が関へ。

 道のほど、たれもかれももの悲しくてありし山ぢのうがりしも、なきみわらひみかたらひて、清見が関に十一日につきぬ。夜もすがら磯の月をみて、宗長

   もろともに今夜清見が関ならばおもふに月も袖ぬらすらん


 明和8年(1771年)4月20日、諸九尼は清見が関を過ぎる。

廿日 清見が関を過るに、岩こす波の、白き絹を打きするやうにミゆと有、ふるき文の言葉、げにとおもひ出られて、あかず詠侍る。


清見寺山門


明治22年(1889年)、東海道本線が境内を通過。

雪舟も清見寺を訪れ、後年富士・三保・清見寺の景色を画いているそうだ。

   きくの日清見寺に詣て

雪舟が筆の走りか菊の露


 徳川家康が今川氏の人質として駿府にいた頃、清見寺住職太原和尚に教育を受けていたそうだ。

 天正18年(1590年)4月、豊臣秀吉は清見寺に滞在、伊豆韮山城攻めに清見寺の鐘を陣中で使用したと言われている。

清見寺仏殿


天保15年(1844年)、落成。

 貞亨4年(1687年)4月26日、大淀三千風は薩垂峠を過ぎ、清見寺へ。

同卯月廿六日吹上の松。薩垂峠を過。清見寺にのぼる。三國一の風景。言翰のをよぶ所にあらず。されども獨つぶやく。


森川許六は清見寺を訪れ、句を詠んでいる。

   七月十五日到清見寺

盆棚やむかひは冨士よ清見寺
   許六

『旅舘日記』(許六編)

 元文2年(1737年)6月、白井鳥酔と多少庵秋瓜は沼津から清見寺を訪れている。

   清見寺

     折から掃除日とて
     寺僧のあまたおり立ければ

箒とる坊さま涼し清見潟(寺)
   秋瓜

清見とは松の葉越の鰹ぶね
   西奴


清見寺大方丈


文政8年(1825年)、改築。

十一面観世音菩薩坐像を安置する。

大野伴睦の句碑


秋晴や三保の松原一文字   萬木

大方丈の前に「臥龍梅」がある。

家康公御手植えの松と言われている。

龍臥して法の教えを聞くほどに梅花開く身となりにけり

与謝野晶子が臥龍梅を詠んだ歌である。

昭和12年(1937年)1月11日、与謝野晶子は清見寺を訪れている。

臥龍梅の下に歌碑があったが、半ば生け垣に埋もれていた。

清見寺書院


慶応3年(1967年)、落成。

清見寺中庭


昭和11年(1936年)、国の名勝に指定された。

句碑橋


芭蕉の句碑「西東あハれさおなし秋の風」が石橋になっている。

出典は『笈日記』

 貞亨3年(1686年)8月、去来は妹千子と『伊勢紀行』の旅をした。その跋文に添えて贈った句。

 清見寺の五百羅漢石像は島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている。

 興津の清見寺だ。そこには古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり坐ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。 誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た、岡見が居た、清之助が居た、ここに市川が居た、菅も居た、と数えることが出来た。 連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆とを取出し、頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。 磯子、涼子それから勝子の面影をすら見つけた。

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