史跡
逆井の渡し跡
〜逆井橋〜
首都高7号小松川線の下に旧中川に架かる逆井
(さかさい)
橋がある。
旧中川
文化14年(1817年)8月27日、国学者高田与清は「中川」のことを書いている。
○逆堰
(さかさゐ)
の渡は東葛西と西葛西との境にて、河の名を中川といふ。太井と隅田との中を流るればなるべし。網うち釣たれし人、舟にも岸にもおほかり。おのれしのびにあみだぶつとてひつゝ過るに、いをはすくわれぬべくや。
『相馬日記』
亀小橋が見える。亀小橋の向こうには中川新橋がある。
逆井橋
江戸から成田、佐倉方面へ向かう「佐倉往還」の逆井の渡し跡である。
昔時は、現在の千葉街道を「佐倉往還」とも云った。成田、佐倉方面へ向う道筋であったのである。
さて此の佐倉往還(千葉街道)は、江戸時代もっとも重要な交通機関の1つの道路であるが、江戸末期にはどんな様相を呈していたか、祖父達はこう云って居た。
先づ逆井の渡船を小松川へ上ると、逆井宿場がある。古びた家並で、春日屋、奈良屋なんて古い屋号の家が建ち並び、活気ある宿場町であったと云う。
『小松菜の里
−東京の野菜風土記
』
八代将軍吉宗も逆井の渡しで西小松川の新町に上がり、
鷹狩り
をした。
八代将軍吉宗が小松川地区へ最初に鷹狩りに来られたのは享保2年(1717)の12月とされる。将軍御一行は本所竪川から逆井の渡し(名所百景の1つとして安藤広重に描かれている)で西小松川の新町に上がった。
『小松菜の里
−東京の野菜風土記
』
史跡
逆井の渡し跡(図面の箇所)
江戸時代、幕府は江戸防衛上から近郷の川には容易に橋を架けなかったので、中川を渡るには常に渡船によって越えねばならなかった。逆井の渡しは、江戸から亀戸村(現亀戸7丁目)を経て、下総
(しもうさ)
の佐倉へ通ずる街道の中川に設けられていた渡し場である。この渡しについて『新編武蔵風土記稿』に「中川、村の西を流る。幅40間許、対岸は亀戸村なり。ここに渡船場あり。元逆井村にありし渡しなるを以て、今も逆井の渡しとよべり。船2艘あり、一は亀戸村持、一は当村持」と記されている。
またこの付近は風景に勝れ、広重の絵にも描かれて有名であった。
江戸川区教育委員会
図面
『新編武蔵風土記稿』は江戸幕府によって編纂された地誌。文化7年(1810年)から11年にかけて作成、全巻が完成後も訂正作業が行われ、天保元年(1830年)幕府に献上された。
逆井橋の南に、もみじ大橋、さくら大橋。
その南には船堀橋がある。
旧中川に架かる橋は多い。
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