馬込文士村〜大田区立龍子記念館〜

京浜東北線大森駅西口から天祖神社の脇の坂道を上り、闇坂(くらやみざか)、臼田坂(うすだざか)を過ぎ、右近坂(うこんざか)を下る。
馬込文士村の南の外れに大田区立龍子記念館がある。
展示されていた絵画を一枚だけ撮ってみた。
刺青

解説が書いてあった。
刺青
入門した画学生の一人が、真夏を迎えて長袖のシャツをきちんと着ているので不審に堪えなかったが、ある時ちらりと見せた二の腕には多彩のホリモノ、おやおやと思ったその瞬間の発想が、この作品につながるものでしたが、その時の自分の発想は、目前に見たものとは正反対に動いて、ひた隠しに隠そうとしたものとはあべこべに、モデルも女性に置きかえ、刺青を思い切って露わに表現したものです。
昭和23年(1948年)
川端茅舎の短冊が展示されていた。

茅舎は川端龍子の14歳下の異母弟。
洋画家をめざしたが身体が弱く、俳句に転向。脊椎カリエスを患って42歳で死去。
大田区立龍子記念館の前に川端龍子の邸宅「御形荘庭園」があった。
「御形荘」母屋

母屋は戦後に再建されたもの
川端龍子画伯 画室と御形荘庭園(抜粋)
近代日本画の巨匠川端龍子画伯は、大正9年新井宿子母沢(現在地)に居宅と画室を新築して、新井宿善慶寺前の旧宅からこちらに移り住みました。当時この辺りは人家もまばらで、あちこちに蓮田が点在するのどかな田園が続き、春には路傍に可憐な母子草(おぎょう)の花が乱れ咲くところから、邸宅は「御形荘」と命名されました。
終戦間近の昭和20年8月13日、B29の爆撃により邸内の母屋や古い画室は失われましたが、この画室だけは奇跡的に難を免れて、今日も画伯在りし日の偲ぶ姿をとどめております。
なお、前庭の石造十三重の塔は、京都の橋本関雪邸内の白砂村荘からここに移されたもので、鎌倉時代の造立になる様式を伝えるこの古塔は御形荘庭園の眺めに荘重な趣を添えております。
平成5年6月
大田区立龍子記念館
蹲(つくばい)があった。

蹲(つくばい)は茶庭などに据える手水(ちょうず)鉢。
母屋の脇に侘助(わびすけ)が咲いていた。

侘助(わびすけ)はツバキ科の花。茶花として愛好されるそうだ。
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