長楽寺 〜加舎白雄の句碑〜
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戸倉上山田温泉から長野自動車道姨捨SAに向かう。

途中でJR篠ノ井線姨捨駅から坂を下ると、長楽寺がある。


作者未詳の句碑があった。


信濃では月と佛とおらが蕎麦

一茶の句に「そば時や月の信濃の善光寺」がある。

月見堂


西行も姨捨山の月を詠んでいる。

あらはさぬ我が心をぞうむべき月やはうとき姨捨の山

『新勅撰和歌集』

 明和5年(1768年)、宮本虎杖加舎白雄を姨捨山に案内したそうだ。

  登姨捨山

 さきの月よりもさらしなの郡に杖をとゞめつゝ、今宵清光祈りしかい有りて、さやかに打向ふたれば、見ぬ世のおもかげをむねにおもひて、

   姨捨や月をむかしの鏡なる

「美濃路」

 明和6年(1769年)8月15日、加舎白雄は長楽寺に「芭蕉翁面影塚」を建立。

月見堂の下に「芭蕉翁面影塚」がある。


芭蕉翁面影塚

おもかげや姨ひとりなく月の友

翌年秋、『おもかげ集』を刊行。

 明和8年(1771年)1月1日、白雄は姨捨山上で初日を迎える。

天鶏羽うつて万鶏うたふの此暁、践(ふみ)約せしみたり、沓ふみしめて山にのぼる田毎の日こそ恋しけれ。その田毎の日影恋しきが故也。山は姥すてしところにて、何れを年の始の姿といふべくもあらねど、雪のむらぎへなるに、日のかはらかに光りあひたる、ものなつかしき旦(あした)なりけり。

春いまだ田毎の雪間雪間かな


寛政3年(1791年)9月13日、加舎白雄没す。

寛政12年(1800年)、宮本虎杖は長楽寺に加舎白雄の句碑を建立。

夏草に埋もれるようにして、白雄の句碑があった。


白雄居士之遺趾

姨捨や月をむかしのかゞミなる   白雄

宮本虎杖の句碑もあった。


くもるとは人の上なりけふの月   乕杖庵梨翁

弟子の嵐窓が建立。

月今宵見捨る草もなかりけり   嵐窓

嵐窓は埴科郡新田村(現:千曲市新田)の人、平井竜左衛門季光。

 安政6年(1859年)、嵐窓は長野県小県郡丸子町の文殊堂に芭蕉の句碑を建立。

 文化2年(1805年)8月、川村碩布は姨捨山に登り、「芭蕉翁面影塚」や白雄の句碑を見ている。

更級川は山の頂より落てしろく姨石は蔦のはさまに痩てあはれ深しはせを塚しらを塚袂をしほるにあかすさて此登り居る石は高き事五丈有餘にしてあはや落なはと魂きゆる斗

姨石の高きわすれて月や月や


野ふせりと一夜なりけり山の月
長吉

さはる事ありて例の姨すてに登らず却て若との原にすてられければ

独して照らるる月の庵かな
虎杖

かく聞えたるはけふの興になりて昨夜わらしを共にせさるのうらみをあかなふにたる

『穂屋祭紀行』

碩布の自撰句集『布鬼圃』に「穂家露」として収録されている。

長楽寺に碩布の句碑がある。


姨石の高きわすれて月や月や

大島蓼太も姨捨を句に詠んでいる。

姨捨によろぼひたりて女郎花


 長楽寺観音堂に文化7年(1810年)の俳額と弘化2年(1845年)の俳額がある。

 文化7年(1810年)の俳額には三世雪中庵大島蓼太や四世雪中庵大島完来の句が奉納されているそうだ

奉納

文化庚午雁来三五日

月を出てつきに野山に入夜哉
   雪中庵 蓼太

いにしへの月夜むかしの野山かな
   雪中庵 完来

天明7年(1787年)9月7日、蓼太没。

駐車場に秋明菊(しゅうめいぎく)が咲いていた。


秋明菊はキク科ではなく、キンポウゲ科。

長野自動車道姨捨SAへ。

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