鞍馬寺〜與謝野晶子〜

叡山電鉄鞍馬線鞍馬駅から鞍馬寺へ。
鞍馬弘教総本山である。
仁王門

明治24年(1891年)、焼失。
明治44年(1911年)、再建。
昭和32年(1957年)、山門駅から多宝塔駅までケーブルカー開通。
山門駅に與謝野晶子の歌碑があった。

あゝ皐月ふらんすの野は火の色す君もコクリコわれもコクリコ
明治45年5月5日、晶子は新橋駅から渡仏の旅に出る。19日、パリ着。パリで詠まれた歌である。
與謝野晶子先生歌碑
あゝ皐月ふらんすの野は火の色す君もコクリコわれもコクリコ
(鞍馬寺蔵「百首屏風より写す コクリコはひなげしのこと)
山上の霊宝殿(鞍馬山博物館)2階の與謝野記念室には、先代貫主の和歌の師、與謝野寛・晶子両先生の歌ごころを偲び、後学の資とならんことを願って、歌稿や遺品類を収蔵、展示しています。
また霊宝殿付近には、晶子先生の書斎「冬柏亭」や両先生の歌碑もあります。
多宝塔

昭和34年(1959年)、再建。
石段を登る。

本殿金堂

昭和46年(1971年)、再建。
霊宝殿に向かうと、與謝野晶子の歌碑があった。

何となく君にまたるゝこゝちしていでし花野の夕月夜かな
晶子の歌碑と並んで與謝野寛の歌碑があった。

遮那王がせくらべ石を山に見てわが心なほ明日を待つかな
遮那王は義経の稚児名。
晶子の書斎「冬柏亭」

冬柏亭(与謝野晶子先生書斎)
与謝野家は、昭和2年に当時の東京市外荻窪村(杉並区荻窪2ノ119)へその居を移した。広い屋敷の中には「采花荘」と呼ぶ日本屋と「遙青書屋」という大きな洋館があった。
この2つの建物の間に「冬柏亭」と呼ばれる書斎が、晶子先生の五十の賀のお祝い(昭和4年12月)に、お弟子さんから贈られた。それが完成したのは昭和5年3月である。
晶子先生の没後、昭和18年10月に冬柏亭は門下生の岩野喜久代氏によって、大磯にある氏の住居へ写された。
それが岩野氏のご好意から、さらに鞍馬山に移築されたのは昭和51年4月のことで、同門の信楽香雲先代管長とのご縁によるものである。
(寄贈された関係資料は、霊宝殿に収納展示されています)

奥の院に向かうと、人は少ない。
義経公背比べ石

遮那王と名のって10年あまり鞍馬山で修行をしていた牛若丸が山をあとに奥州平泉の藤原秀衡の許に下るときなごりを惜しんで背を比べた石といわれる。波乱に富んだ義経公の生涯は、この石に始まるといえよう。
遮那王が背くらべ石を山に見てわがこころなほ明日を待つかな
義経堂

歴史には文治5年(1189年)4月、奥州衣川の合戦にて自害したと伝えるが、義経公の御霊はこの山におわし遮那王尊として護法魔王尊の破邪顕正のお働きを助けておられるという。
この義経堂には遮那王尊をおまつりする。
木の根道

木の根道は、硬い地質のため杉の根が地中に入り難く、地表を這っている珍しい姿です。木の根は、樹木を育て生命を支える大切な働きをしています。できるだけ踏まないよう、やさしく接して下さい。
奥の院魔王殿

650万年前に金星から地球に降り立ったという魔王尊を祀っているそうだ。
貴船神社へ。
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