鹿島神宮〜要石〜
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東関東自動車道潮来ICから国道51号で鹿島神宮(HP)へ。


朱塗りの楼門


新年おめでとうございます

 貞亨3年(1686年)、大淀三千風は行徳から香取神宮を右に見て、鹿島神宮を訪れた。

 行徳・白井・大森、木颪のなみにゆられ、右は下總香取の神、常陸の湖水にながれこし、志田の浮島、浮洲の宮、旅のとまりは鹿島なる、大舶着にぞあかりける。


奥宮


3年前は雨のため奥宮で引き返した。

今日は御手洗(みたらし)へ。


古来神職並に参拝者の潔斎の池である。

池の水は清く美しく澄み四時滾々と流れ出てどのような干魃にも絶えることのない霊泉で神代の昔御祭神が天曲弓(あめのまがゆみ)で掘られたとも宮造りの折一夜にして湧出したとも伝えられ大人子供によらず水位が乳を越えないという伝説により七不思議の一つに数えられている。大昔は当神宮の参道がこの御手洗を起点としてこの池で身を清めてから参拝するので御手洗の名が今に残るのである。

松露庵雪丈の句碑があった。


涼しさやむかしなからの水の音

 安政5年(1858年)3月26日、赤松宗旦は御神水を訪れ雪丈の句碑を見ている。

  又一丁斗り行て
 元の宮
  是より坂をおりて
 御神水
 涼しさやむかしなからの
 水の音   松露庵 雪丈

赤松宗旦『銚子日記』

次に要石へ。


 要石の下には大鯰(おおなまず)がいると言われていて、要石が地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえているから、鹿島地方では大きな地震がないと伝えられているそうだ。

 『水戸黄門仁徳録』に「7日7夜、掘っても掘っても掘りきれず」と書かれ、地震押えの伝説と相俟って著名である。

 元禄9年(1696年)、天野桃隣は要石を句に詠んでいる。

 ○長閑成御代の姿やかなめ石


 宝暦3年(1753年)、横田柳几は要石を句に詠んでいる。

一日境内をめくる。此神は武甕槌尊にして春日明神と一躰分身にましますよし。されはこそ宮ゐの俊を三笠山といふ。御手洗の靈泉・要石・末なし川・高間原その類ひ算るにいとまあらすと筆をさし置ぬ。とりわけ有難きものは

   陽炎は目にこそゆるけ要石


 明和8年(1771年)5月26日、諸九尼は鹿島神宮を訪れ、要石を見ている。

御宮の後に古き松一本あり、太さは幾囲ともしれず牛もかくれぬべし。その奥に要石あり、水晶ともいふなる、もろ人の撫さすりて通るゆへ(ゑ)にや、色黒く艶付て、ぬり桶をすへ(ゑ)たらんやうにみえけり。


 嘉永5年(1852年)1月6日、吉田松陰は鹿島神宮を参拝。

六日 晴。北條時之助・吉川仲之助を訪ふ。二人は皆鹿島の祠官なり。鹿島社を拝して行くこと里許、鰐川に至り、航行すること一里餘、潮来に至る。


要石の右手に芭蕉の句碑があった。


枯枝に鴉のとまりけり穐の暮

出典は『阿羅野』(巻之四)。

延宝8年(1680年)、芭蕉37歳の句。

 文政6年(1823年)9月、帆津倉(現・行方市三和)の俳人洞海舎李尺が句碑建立。

 『諸国翁墳記』に「はせを塚 常州鹿島社内 同国帆津倉 洞海舎李尺建立」とある。

李尺は河野新太郎。恒丸門。夏目成美に師事。

赤松宗旦は要石を訪れ芭蕉の句碑も見ている。

 もとの坂を登りて三四丁
 南の方行て
 要石

丸石也地上一尺斗出て上少しくぼミ有

 碑

枯枝に鴉のとまりけり秋の暮

赤松宗旦『銚子日記』

 明治39年(1906年)9月1日、河東碧梧桐は鹿島神宮に詣でて御手洗と要石を見ている。

 鹿島神社に詣でて、七不思議の中の御手洗と要石を見る。御手洗は大人でも子供でも水が乳まで立つといい、要石は掘っても掘っても根が知れぬそうである。


根本寺へ。

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