に我は来にしを
『万葉集』(第20巻)那賀郡(なかのこほり)の上丁(かみつよほろ)大舎人部(おほとねりべの)千文(ちふみ)
「霰ふり」は鹿島に懸かる枕詞。
朱塗りの楼門

寛永11年(1634年)、水戸初代藩主徳川頼房公奉納。
楼門の裏に芭蕉の句碑があった。

名月や鶴脛高き遠干潟
安政3年(1856年)10月、建立。鹿島神宮大宮司香樹山人暦外書。
下段に香樹山人暦外の句も刻まれているそうだ。
寄る波の光にたつや霜の鶴
『諸国翁墳記』に「常陸国鹿島三笠山碑圖 蕉翁句并四十五人句 彫刻 暦外書 下サ香取郡小見川 須田氏 飯田 東 氏」とある。
拝殿

元和5年(1619年)、二代将軍徳川秀忠公奉納。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は鹿島神宮を訪れ、句を奉納している。
御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。
奥宮(おくのみや)

慶長10年(1605年)、徳川家康公奉納。
芭蕉の句碑

此松の実生せし代や神の秋
貞亨4年(1687年)8月、芭蕉が鹿島神宮の「神前」で詠んだ句。
「実生え」は実生(みしょう)のこと。種子から発芽し、生育した植物。
明和3年(1766年)4月に建てられたものらしい。
柿麿と虎杖の句碑があった。

月花に和らぎし夜や常陸帯 柿麿
鶯や神楽拍子になれて鳴く 虎杖
安政2年(1856年)春、建立。
境内は雨で暗い。
柿麿は知らないが、虎杖は戸倉の俳人宮本虎杖のことだろうか。
そこで、鹿島神宮に問い合わせてみた。
柿麿、虎杖は江戸時代末頃の俳人で、親子と言われているそうだ。
虎杖は神宮近くの豪商で高安佐七という人で、鹿島神宮の御神前の石畳を奉納した。元は牛堀(現在は潮来市)の出身で、鹿島近辺の俳人であり、この周辺では有名であったようだ。
句碑は虎杖と兄の2名で建てたようで、句は親子、建立は兄弟と言われていて、混同しがちということだ。
宮本虎杖のことではなかった。
須田柿麿は牛堀の人。本名源之丞。別号柿丸。
安政4年(1858年)3月、須田柿麿の喜寿を記念して芭蕉の句碑が建立された。
要石(かなめいし)にも「枯枝に鴉のとまりけり穐の暮」の芭蕉句碑がある。
道がぬかるんでいるので、私は引き返す。

文化14年(1817年)5月26日、小林一茶は鹿島神宮を訪れた。
一茶は奥宮の前にある芭蕉の句碑を見ているはずだが、句碑には触れていない。
鹿島
大なへ(ゐ)にびくともせぬや松の花
『八番日記』(文政4年9月)
要石の下には大鯰(おおなまず)がいると言われていて、要石が地震を起こす地底の大鯰の頭を押さえているから、鹿島地方では大きな地震がないと伝えられているそうだ。
「松の花」は春の季語。新しい枝の頂部に2〜3個の雌花が、その下方に多くの雄花がついて花粉を散らす。
文政4年(1821年)は、一茶59歳。
一茶が再び鹿島神宮を訪れたというわけではない。
安政5年(1858年)3月26日、赤松宗旦は鹿嶋大神宮へ参詣している。
廿六日曇ル
健蔵を召連朝とく立て
鹿嶋大神宮へ参詣。
大船津の河岸より神宮迄
十六丁、石橋を渡りて神領
なり。夫より坂を登りて程なく
鹿島の町なり。
鳥居を入りて一丁斗
鹿島大神宮本社
香取より鹿島へまゐる舟の路物思はずあらむゆたに榜ぎつつ
『海阪』(浅春舟行)
昭和6年2月26日、与謝野晶子は筑波山から鹿島神宮を参拝。
飯沼観音へ。
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