勧成院〜碑巡り〜

東大阪市豊浦町の国道308号沿いに勧成院という寺がある。
国道308号とは言っても、今はハイキングコースになっている。
勧成院に古い芭蕉の句碑があった。

菊の香にくらがり登る節句かな
出典は『菊の香』(風国編)。
勧成院と松尾芭蕉句碑
勧成院は、山号を梅龍山という日蓮宗の寺院です。室町時代の永正2年(1505年)に摂津国三島郡上牧(高槻市)の本澄寺の寺中として建立されましたが、明治27年(1894年)現在の地に移築されました。この地は、もと法華宗の善導庵という寺院がありましたが、同6年に廃寺となり、その跡へ移されたものです。
境内に入って右側に、寛政11年(1799年)12月12日に豊浦村の俳人中村耒耜(らいし)が建てた「菊の香にくらがり登る節句かな」の句碑があります。この句は、元禄7年(1694年)9月9日重陽、菊の節句に松尾芭蕉が伊賀上野から大阪へ向かう途中に詠んだものです。同年10月12日に大阪で芭蕉は亡くなりました。この碑は、もとは暗峠の街道筋にありましたが、山津波のため行方不明となっていたのを、大正2年(1823年)に発見され、ここへ移されました。境内には、文政8年(1825年)俳諧堂社中によって建碑された中村耒耜の句碑もあります。
また寺には、大正3年生駒トンネル開さくにともなう犠牲者63人の氏名を列記した過去帳が残され、当時の難工事をしのばせます。
東大阪市教育委員会
中村耒耜の句碑

流るれば細き音あり山清水
文政8年(1825年)6月、俳偕堂社中建立。
耒耜は豊浦村の中村四端。二柳の門人。俳偕堂を主宰。
国道308号を上る。
歴史街道

暗越・奈良街道(国道308号)は河内平野を横切り生駒山の暗峠(標高452メートル)越えで難波と大和を最短距離で結ぶ古道です。
日下の直越えの道とともに古代から利用され、近世には伊勢参りで賑わい、峠道には宿屋や茶店もありました。井原西鶴の『世間胸算用』にも登場します。
近鉄奈良線の開通(大正3年)などで様変わりし、今はハイキングコースとして親しまれています。
再建された松尾芭蕉の句碑があった。

菊の香にくらがり登る節句かな
江戸時代の俳人であり、紀行本『奥の細道』の著者として有名な松尾芭蕉は、(1644〜1694)は伊賀国で生まれ、生涯を旅に過ごしました。
元禄7年(1694年)、病をおして伊賀を発った芭蕉は、旧暦9月9日の重陽の節句(菊の節句)に奈良から大坂に向かって暗峠を越えました。 その時詠まれたのが「菊の香に くらがり登る 節句かな」の句です。この暗峠越えが芭蕉最後の旅となり、大坂に入って間もなく、10月12日に亡くなりました。
その後、芭蕉の百年遠忌を契機に、蕉風復古の気運が高まり、寛政11年(1799年)地元豊浦村の中村耒耜(らいし)によって、暗峠の街道筋に「菊の香に ……」の句碑が建てられましたが、山津波により倒され、いつしか行方がわからなくなっていました。
このままでは芭蕉の旧跡が忘れ去られるとの想いから、明治23年、俳句同人六郷社の有志によって、自然石の表面に大坂の豪商平瀬露香の筆により再建したのが、この句碑です。
いっぽう、行方不明になっていた元の句碑はその後村人らによって発見され、3つに折れていた細長い石材を接合して大正2年(1913年)に西方の日蓮宗勧成院境内に移設されました。これが現在市の文化財として指定されている松尾芭蕉句碑です。
このような経緯により、暗峠奈良街道の近接する場所に芭蕉の同じ句を刻んだ石碑が残されることになりました。
東大阪市
耒耜の句
人の気の欲なき時そかきつはた
遠く見るものゝひとつぞ残る雪
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