寛永寺〜旧上野桜木町〜

旧町名由来案内
下町みちしるべ
旧上野桜木町
上野桜木町は、上野公園北側の寛永寺寺域と上野台の東北麓(現在の根岸1丁目1番西側および2、3番の大部分)に二分されていた。前者は、上野花園町から独立した区域であり、後者は、谷中村の飛地であった。起立年代は、明治7年から同11年2月の間と推察する。
町名のいわれは、桜の木が多くあったことに由来する。
町内にある寛永寺は、寛永2年(1625年)徳川3代将軍家光のとき建てられた。家光は、江戸城の艮(ウシトラ)の鬼門を鎮護するため、川越喜多院の天海僧正に命じて建てさせたものである。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の徳川将軍の霊廟がある。
寛永2年(1625年)、3代将軍徳川家光の時に創立。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
東叡山寛永寺は江戸三十三観音第6番札所である。
榎本其角は東叡山で3句を詠んでいる。
遊二東叡山一 三句
小坊主や松にかくれて山櫻
八ッ過の山のさくらや一沈み
人は人を戀の姿やはなに鳥
其角は4代将軍徳川家綱の大法事を東叡山で参拝。
厳有院殿の大法事を東叡山に拝ミ奉ル
五月雨の雲も休むか法の聲
延宝8年5月8日(1680年)、徳川家綱死没。諡号は厳有院。戒名は厳有院殿贈正一位大相國公。
東叡山院
僧正の青きひとへや若楓
大島蓼太も東叡山で句に詠んでいる。
明和8年(1771年)5月5日、諸九尼は東叡山に詣でている。
東叡山にまうでぬ。御寺のけつこういふもさらなり、木立物ふり茂りたる中に、瓦葺るもの所々にきらきらしくみえつゝ、深山路に分のぼる心地す。
文化元年(1804年)2月26日、小林一茶は布川の俳友古田月船と東叡山に登った。
廿六日 晴 月船と登東叡山
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棒突も餅をうりけり山桜
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御山はどこ上つても花の咲
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「棒突」は六尺棒を突きながら社寺の境内などを警固して回る人。
慶応4年(1868年)5月15日(陽暦7月4日)、彰義隊の戦いで根本中堂をはじめ主要な堂宇は焼失。この時、新政府軍を指揮したのは大村益二郎である。
根本中堂

明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもの。
明治27年7月、正岡子規は上野公園を散策。
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