本庄宿田村本陣門 〜戸谷双烏〜

本庄市中央1丁目に本庄新八景「旧本庄警察署と田村本陣の門」があった。
旧本庄警察署と田村本陣の門

明治の洋風建築物として全国的にもその例は少なく、県指定文化財となっている旧本庄警察署。明治16年の建築。現在では歴史民俗資料館としてよみがえった。皇女和宮が御降嫁の際にくぐったといわれる田村本陣の門がその前にある。
文久元年(1861年)11月11日、皇女和宮は田村本陣に宿泊している。
田村本陣の門

本庄市指定文化財
田村本陣門
この門は本庄宿の北本陣といわれた田村本陣の正門です。
本陣とは宿場を往来する大名や幕府役人などの公用旅館のことです。田村本陣があったのは現在の中央1丁目6の区域で、寛永19年(1642年)から宿泊記録が残されています。
本庄市教育委員会
本庄宿は江戸から数えて10番目の宿場。
延享2年(1745年)4月6日、横井也有は尾張公のお供をして江戸を下る。7日、熊谷寺には立ち寄らず、本庄に泊まる。
七日
熊谷寺に直実が像などあるよし、みちのあハ(わ)たゞしくて立よらず。
熊谷もはては坊主やけしの花
今夜は本庄に泊る。
明和3年(1766年)10月18日、建部凉袋は本庄宿へ。
本庄のうまやにて玉宇(いへ)がりやどる。こゝも四日五日ありしとおぼゆ。こゝより便り求めて、信野なる友がきへ、いと寒けくもなれば、ことしもえまかるまじきよしを聞こえやりぬ。
文化9年(1812年)11月19日、小林一茶は本庄宿の本陣に泊まっている。
十九 晴 本庄 本陳(陣)泊
『七番日記』(文化9年11月)
当時の本庄宿本陣は内田・田村の両家。
文化14年(1817年)6月28日、一茶は上尾から本庄きくやに泊まる。
[廿]八 晴 本庄 きくや
『七番日記』(文化14年6月)
「きくや」は菊屋伊右衛門。脇本陣である。
天保14年(1843年)、中山道最大の宿場町に発展した。
旧本庄警察署

現在は歴史民俗資料館。
歴史民俗資料館に戸谷双烏の説明が書いてあった。
戸谷双烏(1774〜1849)
本庄宿泉町にあった小間物、呉服太物をあつかう豪商「中屋」の三代目にあたります。本名は戸谷半兵衛光寿といい、双烏は彼の俳号です。中屋は江戸室町や京都にも店をだすほどの全国的なレベルの商人でしたが、慈善事業や文学的才能も大いに発揮しました。
双烏の祖父半兵衛光盛は、神流川に土橋と渡し舟をもうけ、双烏もまた常夜燈を建立しました。これは有名な英泉本庄宿の絵にも描かれています。また天明の飢饉のときには、職のない人々がふえたので、救済のため蔵を造り、手間賃をはらいました。これを「天明の飢饉蔵」といいます。
英泉本庄宿の絵

右に常夜燈が見える。
文化12年(1815年)夏、神流川の両岸に常夜燈を建立した。現在、武州側の常夜燈は上里町の大光寺にある。
双烏の今ひとつの顔は、みずからが俳人であり、多くの芸術家にも援助したことです。たとえば、俳句の世界で常世田長翠という人がいました。彼が中央俳壇から座を退くと、双烏邸にあった小蓑庵に8年間滞在させています。そして、北関東の俳壇に大きな影響を与えることになりました。
寛政6年(1794年)、常世田長翠は春秋庵を倉田葛三に譲り、戸谷双烏のもとで、享和2年(1802年)まで小蓑庵を営む。
小蓑庵元日
秩父根の松見るまでを宿の春
小蓑庵
をりをりにみゆる四月の峯の松
小蓑庵
草の戸や木葉掻さへ三月越し
本庄宿の旅籠「小倉屋」の主人小倉紅於は久米逸淵門の俳人で、邸宅「小倉山房」に本庄宿を往来する文人墨客を招いていた。
安養院に「小倉家の墓碑群」があり、本庄市指定文化財になっている。
本庄宿の鎮守は金讃神社。
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