平林寺 〜業平塚〜

国道254号(川越街道)新座警察署交差点を南に入ると、平林寺がある。
平林寺

金鳳山平林寺は臨済宗妙心寺派の寺院。
文化14年(1817年)8月18日、国学者高田与清は平林寺に詣でている。
十八日、生々・直躬うちつれて、金鳳山平林寺にまうづ。塔頭聯芳軒のあるじ道阿老師は、くちおもしろき歌人なり。こゝに明の獨立禪師の碑文(いしぶみ)あり。享保三年四月に、その門人玄泰がえらびしなり。平林寺は埼玉郡岩槻の平林寺村にありけるを、元禄といふとしのころ、こゝに引うつされしとぞ。伽藍堂塔むねをならべて、またなき法(のり)の庭のさまいとたふとし。
三(山)門

石川丈山筆の「凌霄閣」の額を掲げている。
仏殿

鐘楼

寛政6年(1794年)9月7日、鈴木道彦は巣兆、宗讃を伴って江戸を立ち白子に泊まる。翌8日、平林寺を通って毛呂の碩布を訪ねた。
水清らかに流るゝに、咲かせば山吹よ、藤も、杜若(かきつばた)には廣すぎたり。
ひたひたと秋葉報ず平林寺
『そゞろごと』
文化5年(1808年)5月25日、小林一茶は草津に向かう途中で平林寺を通る。
野火留の里は昔男の我もこもれりとありし所と聞くに、そのあたりに思はれてなつかしく、此辺西瓜を作る。
瓜むいて芒の風に吹かれけり
往還より南に平林寺といふ大寺有。
平林寺境内林の中に野火止塚(九十九塚)があった。

野火止塚(九十九塚)
この野火止塚は和名抄に見る火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものか、定かではないが、野火の見張台であったとする説が有力である。それはこの種の塚が古くからこの平野の各所にあって、その名残りを留めていた事でも判る。
業平塚もあった。

業平塚(在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。)
江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく「むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚」とあるが、この歌碑は今はない。
むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、この野は盗人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草の
つまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
『伊勢物語』(第十二段)
文明18年(1486年)、道興准后は野火止塚を見ている。
此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、
わか草の妻も籠らぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚
佐久間柳居は野火留で句を詠んでいる。
元文5年(1740年)、横井也有は野火留を訪ねて、「業平塚」を見ている。
又の日、野火留といふ所を尋侍り。こゝハ『伊勢物語』に、けふはなやきそとよみし跡なれバ、里の名もかくよび侍とか。業平塚とて、さびしきしるし今も残れり。うたのこゝろをしらば、枯草に吸がらなすてそとたはむれて、
こもるかと問へば枯野のきりぎりす
『武蔵野紀行』
加舎白雄は野火止で句を詠んでいる。
文化14年(1817年)8月18日、高田与清は「野火留の塚」を見ている。
あさ篠原の細道をおくふかくわけいれば、野火留の塚あり。廻國雜記に見えて、ふるくよりかたりつぎたる也。九十九塚・業平塚などいふは伊勢物語によりてしひごとまうけしなるべけれど、これもむげにちかき世のしわざにもあるまじくや。
正岡子規、高濱虚子も折々に平林寺で吟行会を催していたそうだ。
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