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(1)黒い水
昭和33(1958)年4月、H製紙江戸川工場の新型設備が運転を始めると同時に江戸川の中央にのびた排水管から、「黒い水」がもくもくと吹き上げはじめました。これがわが国の漁民闘争史に残る大事件の始まりです。それまで排水管から噴出しているのは「白い水」でした。従来の設備と新型の設備からはきだされる水の成分に明らかに違いがあるのでした。「白い水」の成分は木の繊維でしたからあまり問題になることはありませんでした。ところが「黒い水」が噴出しはじめると江戸川には魚が死んで白い帯となって流れるようになり、やがて、魚がまったくいなくなってしまいました。新型の設備は、パルプの原料である杉や松の木などから皮を早くはぐため、酸性の強い薬品を使用するようになったのです。黒い水の正体は、この酸性の薬品に溶け出したヤニをふくむ樹液だったのです。
浦安、行徳、葛西、荒川の各漁業組合に代表は工場側に、黒い水の排水を止めるよう何度も要望しました。これに対し工場側は「魚が死んでいくのは、主に農薬やほかの工場の出す廃液が原因で、当方にはなんの原因になるものもない。黒い水のことを問題にしているが、リンゴの皮をむいておくと表面が黒くなる。そのリンゴを食べても害はない。それと同じだ」といって耳を貸そうともしませんでした。そこで漁民側は、営業許可を与えた東京都に黒い水の調査を依頼したのです。調査が行われたのが5月14日。結果は、「いけすに魚を入れ川に浮かべると、排水口から上流では、魚はほとんど死なない。ところが排水口から下流では全部死んでしまう。魚の死には黒い水が何らかの影響を与えている」というものでした。
(2)裏切られる約束
この報告を受けて漁民側のねばり強い交渉が続きます。その結果、5月29日、交渉期間中は黒い水の排水は行わないという暫定(ざんてい)合意に達しました。しかし工場側はこの約束を守らず黒い水を流し続けたのです。6月6日、漁民側から強い要請を受けた東京都の勧告(中止命令)によってようやく工場は排水を止めました。しかし、工場はこの勧告を無視して6月8日深夜、工場は再び黒い水を流し始めました。6月9日、浦安町議会では朝から黒い水対策会議が開催されていました。その会議の席上に「工場がまた黒い水を流し始めた」という情報が飛び込んできたのです。浦安町はこの暴挙を「宣戦布告」と受け取りました。即刻会議は中止。その場で議員を二班に分け、第一班は国会と東京都へ第二班は千葉県へと陳情団が結成されました。国会へ陳情に行った第一班は、監督官庁である通産省の紙業課長から「今排水を止めさせた」との報告を受け、ほっと胸をなで下ろしました。連絡を取り合っていた第二班にそのことを告げ帰途につきました。連絡を受けた第二班は、抗議するため工場に向かいます。ところが工場に来てみると、あいかわらず黒い水がもくもくと吹き上げていたのです。またしても裏切られたのです。これを知った町民の怒りはもうだれにも止められませんでした。その怒りはこれまで交渉を任せてきた議員に向けられました。あまりの怒りに議員たちは議場から一歩も外に出られなくなってしまったのです。こうした緊迫した空気の中で翌10日町民大会の開催が決議されました。
(3)工場乱入
6月10日11時、カンカンカンとひびく火の見やぐらの警鐘の乱打が黒い水阻止町民大会の開催を告げました。会場の浦安小学校付属幼稚園校庭には「毒水阻止」のむしろ旗が立ち並び、怒りに表情をかたくした町民2000人以上がつめかけ、回りの道路も人で埋めつくされたのです。大会では、黒い水の排水即刻中止と損害の補償請求の決議を行います。その後、漁師を中心に町民約800名が10台のバスに分乗し国会、東京都庁、H製紙本社に陳情にむかいました。国会での陳情に手間取った陳情団はH製紙本社に行くのを止め、帰り道にある工場に寄り、本社に渡すはずの抗議文を工場に手渡そうとしたのです。
ところが工場側は、町民たちのバスが着くと扉を閉め、面会しようともしませんでした。これを見て「話しあえネエのか」と怒った漁民は扉をこじ開け、工場になだれ込んでいったのです。しかし、そこには300名の機動隊員が待ちかまえていました。それを目にして漁師たちは、さらに怒りました。「なぜ、海を殺した工場の味方をするんだ」と。そして機動隊員300名と町民400名の大乱闘になってしまったのです。このとき数名の漁師が身柄を拘束されました。一時間ほどで乱闘はおさまりましたが、この人数では手におえないと判断した機動隊の隊長は応援を要請。また浦安にも仲間が機動隊員と衝突しているという知らせがはいりました。こうして応援にかけつけた機動隊員700名、仲間を助けるため江戸川を船でのぼってきた町民が約200名。機動隊員1000名と浦安町民1000名のにらみあいになってしまったのです。拘束された仲間を取り戻すまでは帰れないと、いつまでも工場敷地内から退去しない町民に対し9時40分、機動隊は強制退去の手段に出たのです。「かかれ」という号令がひびくと同時に2台の装甲車が町民の群れに突っ込んできました。これが引き金となって、浦安町民1000名と機動隊員1000名の大乱闘になってしまいました。乱闘が終わったのは深夜の11時過ぎ。帰りのバスの中はシーンとしていました。機動隊と衝突したことがショックで誰も口を開こうとはしませんでした。
(4)広がる支援の輪
この黒い水によって、浦安では養殖場の貝の80パーセントが死んでしまったのです。魚ももまったくいなくなってしまいました。そのため漁師の収入は半分以下に落ち込みました。それは漁師だけではありません。町民のほとんどは、何らかのかたちで漁業に関係していましたから、町全体が失業状態になり3軒に1軒が税金を納めることが出来なくなってしまったのです。このため、中学に通っている多くの男の子は、学校を休学し、少なくなった収入を補うため父親の漁を手伝うか、自転車にアサリをつんで東京や埼玉まで売り歩かなければならなくなったのです。
この事件は国会でも早々に取り上げられました。6月13日の調査委員会。工場、東京都、千葉県の責任者が次々と証言台に立ちました。
ここで、魚や貝が死んだのは、農薬やほかの工場から排水される廃液の複合汚染が原因であると主張する工場側の意見と、黒い水が原因であると主張する東京都や千葉県の意見とが鋭く対立してしまったのです。その中、最後に意見を求められ証言台に立った船山卯三郎(ふなやまうさぶろう)浦安町漁業協同組合理事の言葉に会場はシーンと静まりかえりました。彼は言葉を確かめるようにゆっくりと話し始めました。
「私どもは、小学校しか出ていない漁民のかたまりでございます。工場側の方程式のような説明は理解できないのでございます。ただ、黒い水が流れ、川の魚が死に、育ててきた貝が死に、海に魚がいなくなったのです。海が死んでいったのでございます。この動かざる事実において決起したのでございます。白い水も、黒い水も、これが無害であると証明されないかぎり、私どもは、これを流すことを絶対に認めないのでございます」
この事件は新聞でも大きく報じられました。どの新聞も、大騒動を起こした浦安町民の暴力もいけないが、毒をふくんだ排水をタレ流し、漁民の生活を苦しめる工場のやり方は、それ以上の暴力だと言える、と浦安に同情的な記事でした。このニュースは同じように工場排水に苦しめられている漁民に衝撃となって走りました。そして、それは浦安の漁民を支援し、法の不備を正そうとする漁民の全国運動に広がっていったのです。また、この事件は広く国民に、自然環境は国民の共有財産である、ということを気づかせたのでした。
政府のすぐ足元で起きた町民蜂起(ほうき)という衝撃的な事件は、漁民の連帯を生み世論を動かし、工業最優先の政策の壁をやぶったのです。こうして、この年(昭和33年)の12月、わが国初めての環境保護法が成立しました。わが国の環境政策を考えるとき、浦安町民の犠牲と努力を決して忘れてはなりません。
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この環境保護法は「水質2法」といわれる法律です。どんな内容の法律でしょうか
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