浦安の歴史に学ぶ

 

 

 

浦安の歴史に学ぶ

 
 

浦安の自然環境を守った人たちの物語

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漁業記念碑(若潮公園にて)

浦安史のホームページへようこそ

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はじめに

このホームページは、浦安の歴史を学ぼうとする人たちに、いくつかのヒントを提供できると思います。きっと読まれる方に、歴史ってこんなにおもしろいんだ。むかしの人はこんなにも苦労したんだ、という気持ちになっていただけるでしょう。

文章の所々に、考えていただくこうもくをいくつかあげておきました。そのどれもが環境(かんきょう)問題に関するこうもくです。でも、正解を求め急ぐ必要はありません。考えるプロセスを大切にしてください。なぜならば、世の中にはこれが正しいということは少ないからです。大切なことは、自分のおかれた状況のなかで、自らが判断し、行動するという自立心と自助努力を身につけることです。

このホームページは原稿用紙にして50枚ほどの内容ですので、プリントアウトしてお読みになることをおすすめします。

郷土史研究家 前田智幸

 

もくじ
第一章 天領だった江戸時代の浦安   第六章 日本での初めての環境保護法はこうして成立した
第二章 江戸時代の浦安の暮らし   第七章 ディズニーランド誘致に浦安の明日をかけた町の努力
第三章 江戸時代に始まった浦安の養殖漁業   第八章 移民のまち浦安の精神文化
第四章 壊滅的な被害を受けた自然災害との闘い  

おわりに

 
第五章 廃棄物をめぐる浦安町民のたたかい  

 

第一章天領だった江戸時代の浦安

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天領とは徳川幕府が直接支配していた領地です。天正(てんしょう)18(1590)年、徳川家康は秀吉に命じられて江戸へ入るとすぐに、葛西から浦安にかけての地域を直接統治する天領にしました。それには重要な理由があったのです。

当時の大名はすべて軍隊組織でしたから、食料は自給自足が大原則でした。上杉謙信(うえすぎけんしん)と戦をしていたとき武田信玄(たけだしんげん)は越後(えちご:現在の新潟県)から塩を買うことを謙信に封鎖されてしまいました。塩がなければ生きていきませんが、信玄の領内である甲斐の国(かいのくに=山梨県)では、塩が極端に不足し領民が苦しみ、戦もままならなくなってしまいました。塩は米と同じように戦をするうえで重要な食料だということを、家康はこの信玄と謙信の戦で学んだのです。家康にとっては、なんとしても塩は領内で生産する必要があったのです。

東京湾(日の出より)葛西、浦安、行徳から船橋にかけての海ぞいは、鎌倉時代から塩を作って、この地域を治めていた北条氏に年貢として納めていたのです。ですから家康は、この地域に1千両ものお金を投資し、塩の増産を命ずるとともに保護したのです。そして、この塩の生産地から江戸城に最短距離で運ぶ運河を掘ることを命じたのです。運河は今も残っていて隅田川から中川(いまの荒川)までを小名木川(おなぎがわ)といい、中川から利根川(いまの江戸川)までを新川といいます。この小名木川と新川をまとめて、むかしは行徳川ともいいました。この運河はのちに民間にも開放されたのですが、作られて30年ほどは徳川家専用の運河でした。それほど塩は戦に重要な食料だったのです。

浦安地域を天領としたのひは、もう一つわけがあります。

家康が江戸に移ったころは、まだ国内のいたるところで戦が続いていました。大名は、その戦にそなえた訓練が欠かせなかったのです。とくに家康の場合、秀吉との戦を考えておく必要がありました。そうすると、大阪のように平坦で、川や掘りの多い地域での訓練は重要だったのです。その訓練の場所が行徳から浦安にかけての一帯です。家康は、この地域で頻繁に鷹狩(たかがり)をしましたが、それが実は戦に備えた訓練だったのです。狩りをしながら湿地やヤブをかきわけ、川を泳ぎ渡り、一日に30キロメートルも移動するという厳しい訓練だったのです。(参考文献:徳川實記第一巻/吉川弘文庫)

ここで考えてください。
(1)行徳川を作ったのには、もう一つ重要な目的がありました。それは何でしょう
(2)鷹狩の獲物は、どんな動物だったでしょうか。知れば、豊かだった自然が解るはず(参考資料:江戸川区史第一巻)

 

第二章江戸時代の浦安のくらし

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江戸(えど)時代には、浦安という地名はありませんでした。浦安という名前は、明治22年に当代島(とうだいじま)村、猫実(ねこざね)村、堀江村が合併し「町」になったときに、「安らかな魚浦」の願いをこめてつけられたのです。

記録をみると、江戸時代の浦安について、つぎのように書かれています。

路地(ろじ-猫実にて)-猫実村は民家70から80戸、多くは漁師の家で、ところどころに農家も混じっています。村の東南には屋根をカヤでふいた豊受神社(とようけじんじゃ)があり、そこに大きな石でできた鳥居(とりい)があります。村のいたるところに地引き網が乾かしてあります。境川をながめると、ところどころに入り江が作ってあり、そこに魚舟(さかなぶね)がつながれています。漁をしたくなったときは、漁師の家に行って頼むと浜で地引網を引かせてくれます-

これは文政5(1808)年に村尾嘉陵(むらおがりょう)という人が、浦安に観光旅行に来たとき日記にしたためた描写です。(参考文献:江戸近郊道しるべ/平凡社)この当時の人たちは半農半漁、観光客がくれば地引網を引かせて現金収入を得ていたようです。

また、行徳川が民間に開放されると、江戸時代の終わりごろには、日本橋と行徳との間をほぼ一時間に一隻の割りで定期船が運行されるようになっていたと考えられます。これによって、浦安の漁師はどこよりも安く、しかも安定的に当時日本橋にあった魚市場に魚や貝類を売りに行けるようになっていたのです。現在でも築地(つきじ)魚市場に浦安の仲買人が多いのは、江戸時代に日本橋にあった魚河岸(うおがし)と強く結びついていたからだと考えられます。

ところが塩の方は、記録を見ると寛永(かんえい)6(1629)年に当代島村が塩年貢を納めたという記録がありますが、それ以降塩年貢をおさめたという記録は出てきません。

そこで考えてください
(1) 行徳の塩づくりは明治まで続いたのに、浦安の塩づくりはなぜ消えてしまったのでしょう
(2) 江戸時代の中期に明石の塩が安く流通するまでは、塩は重要な軍事物資だったから、日本の各地で作られていました。それはどんな製法だったでしょう。(浦安中央図書館のレファレンス室で聞くとわかります)

 

第三章江戸時代に始まった浦安の養殖漁業

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かって浦安は、千葉県下の魚浦のなかで一番の海苔(のり)の生産地でした。また、イワシやイカ、アサリ、ハマグリなどの水あげ高も昭和30年代までは、やはり千葉県でトップだったのです。

浦安の養殖の歴史は古く、海苔の養殖は江戸時代にはすでに始まっていました。そのころの方法は、浅瀬に木や竹の枝を、田に稲の苗を植えるように立て、そこに海苔の種を植えつける方法でした。今のように網をはり、そこに海苔の種を植えつける方法が開発されたのは明治に入ってからなのです。

漁業記念碑(若潮公園にて)豊かだった江戸湾(東京湾)も江戸時代の中期になると、魚や貝類の乱獲が問題になりはじめます。新しい漁の方法や漁具がつぎつぎと開発されていくのですが魚や貝の水あげ高が伸びなくなっていったのです。そして、漁村と漁村との間で魚場のめぐってのいさかいが多発するようになっていきました。

天明(てんめい)2(1782)年、浦安の村々(当代島村、猫実村、堀江村)や行徳村と船橋村との間で起きた三番瀬の漁業をめぐる問題は、ついに代官所に持ち込まれる大問題に発展したのです。船橋村は、三番瀬は船橋村の地先漁場であり、他の村々の入りあい漁業権はないとして、船橋代官所に訴えたのです。その判決は、訴えの主張を認めた「船橋村の専用漁場である」という現実を無視したものでした。当時は一度出たお上(おかみ)の採決に異議を申し立てることは許されておりませんでした。それでも、浦安の村々では、不当な裁きを正そうとする動き起きたのです。中には自分の命にかえてまでも正そうとする者も出てきました。猫実村の長兵衛(ちょうべい)は、村の代官所を相手にしていても聞き入れられないと思い、死を覚悟し妻や子を花蔵院(けぞいん)の和尚にたくし、江戸城に登城する中老(ちゅうろう)田沼主殿頭意次(たぬまもんどのかみおきつぐ)の籠(かご)をめがけて直訴したのです。この運動で長兵衛のほかに猫実(ねこざね)村の善三郎(ぜんざぶろう)、長三郎(ちょうざぶろう)が命をおとすことになりました。それでも、訴えが認められたのは天明8年になってからのことです。

三義人の碑(花蔵院にて)いのちを捨てて村を救ったこの話は「三義人」(さんぎじん=三人の正義をつらぬいた人の意味)として今に語りつがれています。また、村を救ったこの三人をいつまでも忘れないため、花蔵院に「公訴貝猟願成塔碑(こうそかいりょうがんせいのとうひ=訴えた貝をとる漁の願いがかなったことを記念して建てた石碑の意味)」建てられ、いまも花が絶えません。魚場を守ることは、まさに命がけだったのです。

こうした、いさかいが江戸湾のいたる所で発生するようになっていったのです。そこで文化13(1816)年江戸湾に面した魚浦の代表が幕府の立会いのもとで、話し合い、各魚浦の漁場、採る魚貝の種類、漁の方法、漁具や網目の大きさなどを取り決めました。これが「漁具三八職(ぎょぐ38しょく)」といわれる江戸湾の漁業協定書です。一職とは四ヶ月間のことで、一つの漁の期間のことをさします。ですから、三八職とは、38種類の漁のことです。そして、東京湾内の漁業権が決まったのはこのときです。

村の収入を増やすために、貝の水あげ高を多くすることは、浦安にとっては江戸時代からもっとも重要な課題だったのです。ただとるだけではなく、育ててとる方法を開発しようとする動きは明治時代に始まりました。猫実の田中徳次郎(たなかとくじろう)は、葛西や深川の漁師たちといっしょに越中島(えっしゅうじま)沖でアサリやハマグリの稚貝の養殖に取り組みますがうまくいきませんでした。そこで明治20年、田中は浦安沖で再び養殖に挑戦、成功し、えまっか沖(いまの日の出地区あたり)に10万坪にもおよぶアサリやハマグリの稚貝の養殖場を作ったのです。こうして、浦安の育ててとる養殖漁業は海苔の養殖とあわせては明治末には普及していたのです。

ここで考えてください。
(1) アサリやハマグリの水あげ高は、昭和20年以降次第に少なくなっていきました。どんな理由が考えられますか
(2) 東京湾では江戸時代には早くも魚や貝の乱獲が問題になりました。そこにどんな背景があったのでしょう

 

第四章壊滅的(かいめつてき)な被害を受けた自然災害との闘い

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浦安の歴史は、自然災害との闘いの歴史でもあります。過去800年間、ほぼ50年に一回の割りで村が全滅するような被害を受けつづけてきました。

大正6(1917)年、9月30日に浦安をおそった台風による高波は2メートルをこえました。荒れ狂う暴風雨の中で、濁流(だくりゅう)は高波に追われて屋根に逃れた人を乗せたまま押し流していきました。真っ暗やみの中に、いたるところで聞こえる「助けて〜」という声を荒れ狂う風はすぐに消していきました。翌10月1日、町は悲惨をきわめました。死者44名、こわれたり流されたりした住宅は1800戸。床上浸水をふくめ住宅の8割が被害を受けました。堤防も3340メートルにわたってズタズタに切りさかれました。田畑は、塩水をかぶり全滅、漁に必要な網や舟、海苔(のり)づくりに必要だった作業場やヨシズなどのほとんどを失ったのです。この台風は、人々の生きる上での必要なもののすべてを押し流していきました。

若草幼稚園水が引いていくと若草幼稚園近くで、水死した男の子が見つかりました。この子は、母親にねだって、梨を買ってもらい、おはぎと梨を皿にもって月の出るのを楽しみにしていたそうです。その晩は満月の日で、一年で潮位がもっとも高くなる日だったのです。その満潮時におそった高波は、男の子を飲み込んでいったのでした。この子の胸にはお母さんに買ってもらった梨が両手でだきかかえられていました。それがいっそう人々の涙をさそったのでした。今は、梨は手軽に買えますが、当時はみんな貧しく、何か特別のことがないと、果物など買ってもらえなかった時代の話です。しおかぜ緑道にて

フラワー通り商店街あまりのひどさに村人が集団で村を捨てたことが何度もあります。江戸川区にある堀江という町名は、水害の被害をのがれて堀江の人が移り住んだことに由来(ゆらい)しています。また、元町の道幅が狭いのにはそれなりの理由があります。海面すれすれのデルタ地帯(河口に川が運んできた土が堆積してうまれた土地)である浦安には、命を守って住める場所は、狭く限られていました。そこに道をけずり、のきとのきをくっつけて、助け合って住まないと命さえも守れなかったのです。

浦安が水難から開放されたのは、昭和30年に消防本部のうらをディズニーランドの方向にのびる旧の堤防が完成した、約40年後のことです。これまでの浦安で町づくり計画といえば防災計画だったと言っていいでしょう。それは、人々の生命や財産を守ろうとした必死の努力の跡なのです。

そこで考えてください。
現在、浦安では、各家庭に非常時に使う、サバイバルグッズや非常食を入れたリックサックが配布されています。それも過去に苦い経験があったからです。何があったのでしょう。

 

第五章廃棄物をめぐる住民のたたかい

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浦安の歴史は、水難とのたたかいである、と同時に自然環境を破壊する者との闘いの歴史でもあります。この章と次の章では、それを取り上げています。

浦安が東京のごみ処分場にされそうになった事件は3回あります。

一つは昭和4年に起きました。

東京市麹町(こうじまち)区にあった豊国肥料という会社が、東京市から出る人糞(じんぷん)を浦安に運んで、それを機械乾燥させ肥料にする工場を建てようとした事件です。むろん、日本中探してもそんな工場などあろうはずがありません。計画が知れると浦安では当然反対運動が起きました。ところが、千葉県は、町民の意向を無視して「工場建設の許可」を与えてしまったのです。「営業許可」の申請は、浦安町を窓口にして行われましたので、町では「絶対に許可しないように」というそえ書をつけて千葉県に提出しました。ところが、このときも町民の強い要望をまったく無視して「営業許可」まで与えてしまったのです。さあ大変です。そんなものが出来れば、人糞をためておく大きな貯蔵池も同時に作られます。台風がきて高波をかぶれば浦安は「ウンチのまち」になってしまいます。そうすると伝染病も心配です。ウンチで育った海苔やアサリなどだれも買ってくれません。

何が何でも止めさせなければなりません。浦安町は町民を裏切った千葉県を相手にすることを止め、国に直接働きかけることにします。ほとんどの町民が署名したウンチ乾燥工場建設中止の要望書を国会に提出しました。堀江配水ポンプ場ところが、ここでも要望書がたらい回しにされ、一向に中止になりません。町民はさらに怒り、町民一揆(ちょうみんいっき)寸前になったのです。今度は、国を頼ることも止めます。そして地主と交渉し町が工場予定地をすべて買い取ったのです。

その土地が、現在の堀江の排水ポンプ場があるところです。

次の事件は昭和14年に起きました。

大正時代の始め頃から、堀江の先の海に面して養魚池が作られていました。この池の持ち主が富岡という人だったので、いつしか「富岡池」と呼ばれるようになっていました。池ではうなぎやボラなどが養殖されていました。幅300メートル、奥行き500メートルの大きな池でした。昭和14年、経営にゆきづまった富岡氏はこの池を手放そうとします。その話しを東京市が、かぎつけ買い取ってしまったのです。東京はこの池に人糞を流し込み、自然乾燥させ、それを近在の農家に売る計画を立てたのです。さあ、また大変なことになりました。「東京ン奴ら、浦安をまたウンチの町にしようとしている」。町中が、怒りのうずになりました。町をあげての強力な反対運動に、いったんは中止の決定をしたものの、糞尿処理に手を焼いていた東京市はひそかに計画の続行を決めたのです。そんなある日、計画中止の知らせに大喜びしている町民の前を東京市のトラックが通り過ぎようとしました。そのとき、東京市の車だと気づいた漁師の一人が両手を広げトラックを止めました。中には3人の東京市の職員が乗っていました。彼らの目的は肥ため建設のための調査で、計画中止の指示は担当の係りの所には届いていなかったのです。それを聞いて、回りにいた町民は大激怒(だいげきど)。あまりの剣幕に東京市の職員は車を捨てて逃げて行きました。そのトラックを寄ってたかって境川に投げ込んでしまったのです。東野グラウンドそれでもおさまらない漁師たちは、池の事務所に乱入し中をメチャメチャにこわしてしまったのです。あまりにも強い反対運動にやっと東京市は計画を断念し、このときも浦安町は東京からこの池を買い上げたのでした。

その場所は、中央郵便局から総合福祉センター、東野球場にかけての一帯です。

この事件で漁師数名が逮捕され、全員に罰金刑が言い渡されました。罰金は漁業組合が代わりに支払いましたが、当時の田中常平(たなかつねへい)町長は、体をはって町を守った者に前科がついたことをいつも気にされていました。そして、戸籍係に口ぐせのように「早く前科を消せ」と言い続けたのでした。

次の事件は昭和39年に起きました。

昭和39年、東京都は、浦安がディズニーランドの建設を決めている所から1キロメートルもはなれていない所に「夢の島=ごみの埋め立て場」を作ろうとしたのです。ごみの大半を引き受けてきた江東区に「これ以上ほかの区民の犠牲にされるのはがまんできない」という住民運動が起きたため東京都としてもそれを無視することができなくなりました。また、埋め立て地も満杯になるので早急に新しい埋め立て処分場を作らなければならなくなっていたのです。そこで、目をつけたのが、いまのディズニーランドから直線で1キロメートルほどしか離れていない葛西沖です。

またまた、東京のごみの犠牲にされようとしている浦安に強い反対運動がわきおこりました。「東京都も広く海に面しているのに、なにも他県の住民が迷惑をこうむるような端(はし)に持ってこなくてもいいではないか。世界の文化都市を自認する東京が、他県の住民に対して憲法に保障されている安全で健康な暮らしをする権利をおびやかすような行為をするのは許せない」というように。

しかし、深刻な事情をかかえている東京都もなかなか計画を中止しようとせず、いったんは中止の約束をしながらすぐに撤回(てっかい)してしまいました。この姿勢に怒った浦安町は東京都に「このまま計画を継続しようとするのならば、町民は大挙(たいきょ)して都庁に押しかけ、二重三重のバリケートを作っても、それを阻止することになるだろう」と警告しました。

この強い住民運動に東京都は計画の見直しを迫られることになったのです。

考えてください
(1)明治時代までは、糞尿やかまどの灰、台所の生ごみまで農家が買ってくれました。ごみという考え方もありませんでした。ごみという考え方がうまれたのはいつごろでしょう。また、それにはどんな背景があったのでしょう。
(2) 世界のごみ焼却場の約65%は日本にあります。わが国では「ごみは燃やすもの」が常識ですが、世界の常識はどうなっているのでしょう

 

第六章日本での初めての環境保護法はこうして成立した

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(1)黒い水

境川(境橋にて)昭和33(1958)年4月、H製紙江戸川工場の新型設備が運転を始めると同時に江戸川の中央にのびた排水管から、「黒い水」がもくもくと吹き上げはじめました。これがわが国の漁民闘争史に残る大事件の始まりです。それまで排水管から噴出しているのは「白い水」でした。従来の設備と新型の設備からはきだされる水の成分に明らかに違いがあるのでした。「白い水」の成分は木の繊維でしたからあまり問題になることはありませんでした。ところが「黒い水」が噴出しはじめると江戸川には魚が死んで白い帯となって流れるようになり、やがて、魚がまったくいなくなってしまいました。新型の設備は、パルプの原料である杉や松の木などから皮を早くはぐため、酸性の強い薬品を使用するようになったのです。黒い水の正体は、この酸性の薬品に溶け出したヤニをふくむ樹液だったのです。

浦安、行徳、葛西、荒川の各漁業組合に代表は工場側に、黒い水の排水を止めるよう何度も要望しました。これに対し工場側は「魚が死んでいくのは、主に農薬やほかの工場の出す廃液が原因で、当方にはなんの原因になるものもない。黒い水のことを問題にしているが、リンゴの皮をむいておくと表面が黒くなる。そのリンゴを食べても害はない。それと同じだ」といって耳を貸そうともしませんでした。そこで漁民側は、営業許可を与えた東京都に黒い水の調査を依頼したのです。調査が行われたのが5月14日。結果は、「いけすに魚を入れ川に浮かべると、排水口から上流では、魚はほとんど死なない。ところが排水口から下流では全部死んでしまう。魚の死には黒い水が何らかの影響を与えている」というものでした。

(2)裏切られる約束

この報告を受けて漁民側のねばり強い交渉が続きます。その結果、5月29日、交渉期間中は黒い水の排水は行わないという暫定(ざんてい)合意に達しました。しかし工場側はこの約束を守らず黒い水を流し続けたのです。6月6日、漁民側から強い要請を受けた東京都の勧告(中止命令)によってようやく工場は排水を止めました。しかし、工場はこの勧告を無視して6月8日深夜、工場は再び黒い水を流し始めました。6月9日、浦安町議会では朝から黒い水対策会議が開催されていました。その会議の席上に「工場がまた黒い水を流し始めた」という情報が飛び込んできたのです。浦安町はこの暴挙を「宣戦布告」と受け取りました。即刻会議は中止。その場で議員を二班に分け、第一班は国会と東京都へ第二班は千葉県へと陳情団が結成されました。国会へ陳情に行った第一班は、監督官庁である通産省の紙業課長から「今排水を止めさせた」との報告を受け、ほっと胸をなで下ろしました。連絡を取り合っていた第二班にそのことを告げ帰途につきました。連絡を受けた第二班は、抗議するため工場に向かいます。ところが工場に来てみると、あいかわらず黒い水がもくもくと吹き上げていたのです。またしても裏切られたのです。これを知った町民の怒りはもうだれにも止められませんでした。その怒りはこれまで交渉を任せてきた議員に向けられました。あまりの怒りに議員たちは議場から一歩も外に出られなくなってしまったのです。こうした緊迫した空気の中で翌10日町民大会の開催が決議されました。

(3)工場乱入

境川西水門(葛西より)6月10日11時、カンカンカンとひびく火の見やぐらの警鐘の乱打が黒い水阻止町民大会の開催を告げました。会場の浦安小学校付属幼稚園校庭には「毒水阻止」のむしろ旗が立ち並び、怒りに表情をかたくした町民2000人以上がつめかけ、回りの道路も人で埋めつくされたのです。大会では、黒い水の排水即刻中止と損害の補償請求の決議を行います。その後、漁師を中心に町民約800名が10台のバスに分乗し国会、東京都庁、H製紙本社に陳情にむかいました。国会での陳情に手間取った陳情団はH製紙本社に行くのを止め、帰り道にある工場に寄り、本社に渡すはずの抗議文を工場に手渡そうとしたのです。

ところが工場側は、町民たちのバスが着くと扉を閉め、面会しようともしませんでした。これを見て「話しあえネエのか」と怒った漁民は扉をこじ開け、工場になだれ込んでいったのです。しかし、そこには300名の機動隊員が待ちかまえていました。それを目にして漁師たちは、さらに怒りました。「なぜ、海を殺した工場の味方をするんだ」と。そして機動隊員300名と町民400名の大乱闘になってしまったのです。このとき数名の漁師が身柄を拘束されました。一時間ほどで乱闘はおさまりましたが、この人数では手におえないと判断した機動隊の隊長は応援を要請。また浦安にも仲間が機動隊員と衝突しているという知らせがはいりました。こうして応援にかけつけた機動隊員700名、仲間を助けるため江戸川を船でのぼってきた町民が約200名。機動隊員1000名と浦安町民1000名のにらみあいになってしまったのです。拘束された仲間を取り戻すまでは帰れないと、いつまでも工場敷地内から退去しない町民に対し9時40分、機動隊は強制退去の手段に出たのです。「かかれ」という号令がひびくと同時に2台の装甲車が町民の群れに突っ込んできました。これが引き金となって、浦安町民1000名と機動隊員1000名の大乱闘になってしまいました。乱闘が終わったのは深夜の11時過ぎ。帰りのバスの中はシーンとしていました。機動隊と衝突したことがショックで誰も口を開こうとはしませんでした。

(4)広がる支援の輪

この黒い水によって、浦安では養殖場の貝の80パーセントが死んでしまったのです。魚ももまったくいなくなってしまいました。そのため漁師の収入は半分以下に落ち込みました。それは漁師だけではありません。町民のほとんどは、何らかのかたちで漁業に関係していましたから、町全体が失業状態になり3軒に1軒が税金を納めることが出来なくなってしまったのです。このため、中学に通っている多くの男の子は、学校を休学し、少なくなった収入を補うため父親の漁を手伝うか、自転車にアサリをつんで東京や埼玉まで売り歩かなければならなくなったのです。

この事件は国会でも早々に取り上げられました。6月13日の調査委員会。工場、東京都、千葉県の責任者が次々と証言台に立ちました。

ここで、魚や貝が死んだのは、農薬やほかの工場から排水される廃液の複合汚染が原因であると主張する工場側の意見と、黒い水が原因であると主張する東京都や千葉県の意見とが鋭く対立してしまったのです。その中、最後に意見を求められ証言台に立った船山卯三郎(ふなやまうさぶろう)浦安町漁業協同組合理事の言葉に会場はシーンと静まりかえりました。彼は言葉を確かめるようにゆっくりと話し始めました。

堀江ドック「私どもは、小学校しか出ていない漁民のかたまりでございます。工場側の方程式のような説明は理解できないのでございます。ただ、黒い水が流れ、川の魚が死に、育ててきた貝が死に、海に魚がいなくなったのです。海が死んでいったのでございます。この動かざる事実において決起したのでございます。白い水も、黒い水も、これが無害であると証明されないかぎり、私どもは、これを流すことを絶対に認めないのでございます」

この事件は新聞でも大きく報じられました。どの新聞も、大騒動を起こした浦安町民の暴力もいけないが、毒をふくんだ排水をタレ流し、漁民の生活を苦しめる工場のやり方は、それ以上の暴力だと言える、と浦安に同情的な記事でした。このニュースは同じように工場排水に苦しめられている漁民に衝撃となって走りました。そして、それは浦安の漁民を支援し、法の不備を正そうとする漁民の全国運動に広がっていったのです。また、この事件は広く国民に、自然環境は国民の共有財産である、ということを気づかせたのでした。

政府のすぐ足元で起きた町民蜂起(ほうき)という衝撃的な事件は、漁民の連帯を生み世論を動かし、工業最優先の政策の壁をやぶったのです。こうして、この年(昭和33年)の12月、わが国初めての環境保護法が成立しました。わが国の環境政策を考えるとき、浦安町民の犠牲と努力を決して忘れてはなりません。

気になったら調べてみませんか
この環境保護法は「水質2法」といわれる法律です。どんな内容の法律でしょうか

 

第七章ディズニーランド誘致に浦安の明日をかけた町の努力

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(1)雲行きがあやしくなってきたディズニー計画

昭和35年5月3日、浦安町議会は、まちを大きく変える重要な決定をしました。この決定にあたって、当時議員の1人だった大塚一郎さんは「我々が下そうとしている議決が、百年、二百年後の孫やその次の世代の人たちに本当に幸せをもたらしているだろうか。そう考えると、いく晩も眠れない日が続いた」とふりかえられました。それほど重要な決定だったのです。

江川橋にて工業化の進行につれて年々汚れがひどくなっていく海を目にした浦安は「漁業のまち」から大きくカジを切ったのです。

その決定とは、一部漁業権を放棄し大三角(おおさんかく)を埋め立て、そこに大人も楽しめる遊園地を作り、あわせて学園都市を作るという決定でした。そのマスタープランができたのが昭和39年。ちょうど東京とのごみ戦争のさなかです。それからは、このプランにもとづいて埋め立てがすすめられていきました。昭和40年代になって海の汚れはますますひどくなっていきました。漁師の間には、もう漁業を続けていくのは難しいのではないかという悲観的な見方が広がっていきました。それが現実になる日が来たのです。昭和46年8月、漁民は漁業権の全面放棄を前提とした千葉県との交渉のテーブルに着いたのです。こうして昭和48年「漁業のまち浦安」の800年の歴史に自ら幕を下ろしたのです。それは同時に町が失業するということを意味していたのです。新しいまちづくりは、何が何でも成功させなければなりませんでした。

ところが現実は、まちづくりの中心に置いていたディズニーランド計画がまったく進まなくなってしまったのです。それにはいくつか理由がありますが、もっとも大きかったのは、ディズニーランドを経営することになるはずのオリエンタルランド社に問題があったのです。オリエンタルランド社の親会社である三井不動産は一千億円以上のお金を使って巨大な遊園地を作っても成功しないと思っていたのです。そのため、子会社のオリエンタルランド社は計画を進められなくなってしまいました。そのことは平成11年に連載された日本経済新聞「私の履歴書」の中でオリエンタルランド相談役、高橋正知氏がくわしく話されています。

(2)ミッキーをむかえにゆこう

さあ、町も困りました。東洋最大の遊園地を作るという約束で、海苔づくりに欠かせないヨシの自生地であり、ハマグリやアサリの養殖場である大三角をタダ同然(一坪700円)の価格でオリエンタルランド社に売り渡したのに、それが出来なければ町民との約束をやぶることになります。そこで、当時の熊川好生(くまがわよしお)町長(後に市長)はじめ町の代表は、アメリカに行き、ウォルトディズニープロダクション(WDP)の首脳に会い、直接話を聞くことにしたのです。こうして昭和53年2月7日午前9時40分、ロスアンゼルスに向けて羽田を飛び立ちました。それは不安と期待が入り交じる旅立ちでした。熊川町長の胸のポケットには、川上紀一千葉県知事からWDPのドン・テイタム会長にあてた「私は450万人の県民を代表し、貴社の浦安進出を心から歓迎するとともに、この計画が一日も早く実現し、成功することを念願するものであります」という招待状が納められていました。

ドン・テイタム会長は、自分たちの生活の場をあけ、ディスにーランドができるのを心待ちにしている町民の代表が直接招待状を持ってきてくれたことをたいへん喜びました。そして代表団を前にこう話しはじめました。

「私たちの会社には世界中から進出の要請が来ています。私たちが長年かけて蓄積してきたノウハウ(やり方)はどれだけのお金を積んでも買えるものではありません。そのノウハウを日本に提供することをここにお約束します」と約束したのです。さらに言葉を続けて「いろいろな困難もありますがディズニーの名において、このプロジェクト(計画)を必ず成功させます。そして、浦安を世界の観光都市にしてみせます。そのことは、あなた方にとっても誇れることになるはずです」と、ディズニーの成功ばかりではなく、浦安を世界の観光都市にすることまで、直接浦安町民に向かって約束したのです。

ドン・テイタム会長もよほどうれしかったのでしょう。熊川町長が手渡した招待状が額に入れて長い間、会長のオフィスにかけてあったそうです。

その後、建設は急ピッチですすめられていきました。ディズニーランドのオープンに合わせるかのように昭和56年、浦安町は浦安市へと衣替えをしました。そして、1800億円を投じた巨大なプロジェクトは昭和58年4月ついに完成しました。

オリエンタルランド社はこれまでの市民の協力に感謝を込めて、昭和58年4月15日のグランドオープンを前にした13日と14日、全市民をディズニーランドに招待したのでした。

考えてください
工業化の進展ともない東京湾の海辺のほとんどが工場や倉庫で埋め尽くされていきました。しかし、都心から10キロメートルしか離れていない浦安が、なぜ他のまちと違って遊園地を受け入れ、工場を受け入れなかったのでしょう

 

第八章移民のまち浦安の精神文化

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豊受神社浦安の元町(猫実、堀江、当代島の旧市街地)には、多くの神社やお寺があります。そのことは自然災害の脅威におびえつつも、自然のめくみの感謝しながら暮らして来た、きわめて信仰心の厚い人たちによって、このまちが形作られてきたことの現れです。

代表的な神社に豊受神社(とようけじんじゃ)と清瀧神社(せいりゅうじんじゃ)があります。豊受神社にまつられている神はトヨウケノオオカミという「稲に宿る精霊」であり、清瀧神社にまつられている神はオオワタヅミノミコトという「海をつかさどる神」です。そのことは、このまちは、稲作技術を持った「土の民」と漁の技術を持った「海の民」によって、形作られてきたことを示しています。清龍神社

浦安の地に人が住みついたのが、いまから800年ほど前だと語り伝えられていますが、浦安の歴史は、新たな土地での「土の民」と「海の民」との融合から始まったのです。それは平家が滅亡し坂東武士(ばんどうぶし)である源氏が勢力を伸ばしてきた鎌倉時代前期のことだと考えられます。

浦安の元町の開放的で人情味のある気質は「移民のまち」だからこそ育ち、受け継がれてきた精神文化なのです。そして、そのことが作家山本周五郎(やまもとしゅうごろう)や山口瞳(やまぐちひとみ)を引き付けてやまなかったのです。

また、度重なる大災害は相互扶助(そうごふじょ)の精神を同じように育ててきました。これは、人のために自らが役割を果たすという強い義務感です。一例を紹介しますと、大正12(1923)年9月1日の関東大震災の時に浦安には東京方面から2184名の人たちが避難してきました。この罹災者(りさいしゃ)に浦安町は炊き出しを行い、仮設テントを提供し、小学校を増築して支援したのです。貧乏のどん底であえいでいた、人口わずか1万1000人の町が自分たちの生活を犠牲にしてまで支援したのです。

浦安の昭和43年の人口は約2万人。それまでは微増しているに過ぎませんでした。大きな変化が現れ始めるのは昭和44年に地下鉄東西線が開通してからです。その後、平成2年にJR京葉線が全面開通し多くの人たちが移り住んできました。そして平成7年の調査によると人口は約13万人。まさに浦安は移民のまちなのです。そして、これを可能にしたのはこのまちに根づき受け継がれてきた開放的で人情味豊かな精神文化があったからにほかなりません。

しおかぜ緑道にてしかし、現在の浦安は、水と油のように2つの層に分かれています。一つは元町に住み、開放的でしかも義務感の強い人たちの層です。もう一つは、新たに移り住んできた、自分のライフスタイルを大切にし権利を主張する人たちの層です。

浦安に根差した精神文化は、この異なった価値観を受け入れ、そして新たなの風土、あるいは共通の価値観をつくり上げていくに違いありません。それにはもう少し時間が必要だと思われます。

しかし、浦安に住む以上忘れてはならないのは、このまちは自然環境を守ろうとする人たちによって作られてきたという事実です。

おわりに

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浦安の歴史は自然災害とのたたかいの歴史でもあります。たびたびおそわれる災害に町の財政も困窮(こんきゅう)をきわめました。一例を紹介しますと、堤防が決壊するのが分かっていながら、土のうをつむのに必要な麻袋を買うわずかな支出の予算でさえ組めなかったのです。そのため、人が、土のうがわりに堤防の上に座りスクラムを組んで防がなければならないこともありました。

また、浦安の歴史は自然環境をこわそうとするものとの闘いの歴史でもあります。ここでは紹介しませんでしたが、これ以外に、「水中のまち」になるかと思われた地盤沈下問題や第2国際空港建設や成田新幹線建設計画にともなって予想される騒音問題などがあります。次々と起きるそれらの問題を浦安の人は団結し、時には国を頼るのを止め、あるいは国の方針を正そうとしてまでも環境を守ろうとして来たのです。

まちの歴史を調べていくと、今のまちのかたちは決して自然にそうなったのではなく、名も忘れ去られた人たちの努力の結果だということに気づきます。さらに目をこらせば、自然に畏敬(いけい)の念を持ち、その自然の恵みに感謝しながら生きてきた人たちに共通して深いところに流れ、受け継がれてきた品性を感じます。すると、環境を破壊しようとする者への直接的な行動も、それは、神の怒りだったのではないかとさえ思えます。

 

長文を最後までおつきあいくださいまして、ありがとうございます。

あなたの感想をお聞かせ下さい。ご要望の多いものについては追加していきたいと考えています。ただし、文の所々にあげた「考えてください・調べてみませんか」の答え教えて、の質問にはお答えしません。

資料

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本の紹介

「いのちがけの陳情書/前田智幸著(三省堂書店)」1700円(税別)

この本は、私が7年の調査期間と50名以上の方々の証言を元に環境破壊と闘って来た浦安の歴史をまとめたドキュメントです。読者の方々からは、「浦安にこんな困難な時代があったとは知らなかった」「この本を読んで始めて浦安の市民になった気がする」「おじいちゃんをえらいと思えるようになった」など多くの声がよせられています。浦安の歴史に、あるいは環境問題の原点に関心をお持ちの方は三省堂新浦安店で販売していますし、お近くの書店から取り寄せることもできます。また、浦安の各図書館にも置いてありますので一読ください。

いのちがけの陳情書

なお読者の方々からご指摘をいただいた個所やその後の調査で誤りがあった個所がありますので、その部分をここで訂正させていただきます。

ページ

17

3

当代島村の善三郎

猫実村の善三郎

208〜217

藤尾実太郎

藤生実太郎

215

15

太田弁護士

矢島弁護士

241

7

宇田川一彦校長

宇田一彦校長

244

14

榊原知雄議会議長

橘原知雄議会議長

263

5

板垣敬一

板倉敬一

プロフィール

1964年生まれ

1946年生まれ

 

 

 

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