浦安の歴史に学ぶ

 

 

 

ディズニーをつくった町の物語

 
 

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昭和30年代から50年代にかけては工業化の時代でした。全国各地で海岸線は次々とうめたてられ、そこにはコンビナート(工場団地)がつくられていきました。ところが、浦安町はそれとまったくちがったやり方で町を発展させようとしました。そこに一体どんな理由があったのでしょうか。みんなで考えてみましょう。


もくじ
第一章 豊かだった浦安の海   第四章 なんども書きなおされた
オリエンタルランド計画
第二章 まちの決断   第五章 浦安をほこれる町に
第三章 きれいな空を残そう   おわりに

 

第一章豊かだった浦安の海

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いま、ディズニーランドやディズニーシー、ホテルが建っている舞浜地区は、江戸時代は冬になると鶴(つる)や白鳥も飛来(ひらい)していました。そこは1963年まではアシの茂った湿地帯(しっちたい)になっていました。アシは浦安の特産品(とくさんひん)である「浅草のり」を天日(てんひ)干し(ぼし)するときに用いる「ヨシズ」を作りの原料となっていました。
この湿地帯はおむすびのような形をしていたので「大三角(おおさんかく)」とよばれていて、誰でもヨシを切り出せる町有地になっていました。この大三角につながる海は江戸川が運んできた土が堆積(たいせき)して遠浅になっていて潮が引くと沖合い2キロメートルも先まで干潟(ひがた)が現れました。そこでは、ハマグリやアサリの養殖が行われていました。江戸川は上流から栄養分を運び、貝をまるまると太らせていました。そこは、まるで地中から湧き出してくるように貝がとれる豊かな海でした。その遠浅の海には秋になるとのりを養殖(ようしょく)するための網(あみ)がはられました。江戸川の栄養に富んだ水は、香りのよいのりを育ててくれていました。

 

第二章まちの決断

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江戸川の水に異変がおきはじめたのは1940年代からです。江戸川のそばにはでん粉工場や製紙(せいし)工場が建てられるようになり、そこから汚れた排水が垂(た)れ流されるようになっていきました。千葉県で上位にあったイワシやイカの漁獲量(ぎょかくりょう)も年々下がっていきました。のりの養殖網(ようしょくあみ)にも工場から流された廃油(はいゆ)が付着するようになり品質も低下していきました。
 そこに大事件が起きたのです。昭和33(1958)年のことです。新しく造られた製紙工場から流された排水によって江戸川は真っ黒にそまり、わすか一ヶ月たらずで江戸川の魚は死んでしまいました。そればかりか、育てていたの貝の70パーセントもが死んでしまいました。もちろん、浦安近海からは魚もいなくなってしまいした。
 この事件をきっかけに浦安の人たちは、このまま漁業で生活していくのがむずかしいのではないかと考えるようになりました。漁業にかわる町の産業を創(つく)らなければと考えはじめたのです。しかし、川を汚す工場はこりごりでした。浦安は1925年以降、何度も江戸川を汚す者と闘(たたか)わなければならなかった苦(にが)い歴史(れきし)があったからです。いろいろ考えて、大人も子どもを楽しめる大きな遊園地を造ることを決めました。遊園地ならば空を汚す煙(けむり)も、魚や貝のすめなくなるような汚れた廃液(はいえき)も流しません。それなら安心です。この遊園地をつくることを決めたのが昭和34(1959)年です。その翌年遊園地を造るための会社であるオリエンタルランドが京成電鉄と三井不動産とでお金を出し合い東京・上野につくられました。同じ年に浦安町は大三角をオリエンタルランドに譲渡(じょうと)し、大三角につながっている干潟の海の漁業権(ぎょぎょうけん)を放棄(ほうき)しました。浦安町は漁業やのりづくりに大切な土地と権利(けんり)を手放してまで遊園地づくりをすすめることを決めたのです。一般的には、町を発展させるために工場をつくりますが、浦安町ではきれいな海、澄んだ空を優先し遊園地づくりをつうじて町を発展させることにかけたのでした。そんなことを考える町は日本中探してもどこにもありませんでした。



 

第三章きれいな空を残そう

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こうして昭和38(1963)年から埋め立てが始まりました。昭和40年には浅瀬(あさせ)の海は埋め立てられ大きな陸地(りくち)に姿をかえていきました。それを待ちかねたように、国は浦安町に何の連絡もなく突然にその埋立地に第二国際空港をつくることを発表したのです。国は、空港をつくれば町の人たちの働くところも増えるし、町も貧乏(びんぼう)から抜け出せ裕福(ゆうふく)になるいい計画だと浦安に説明しました。
世界中探しても遊園地で町を発展させるなど聞いたことがないと考え方を変えるよう説得(せっとく)につとめました。
しかし、浦安の人たちは、この話にはなびきませんでした。それどころか、騒音(そうおん)から町を守ろう、きれいな空を子どもたちのために残そうと大反対運動が起きたのです。浦安町はお金よりもきれいな環境のほうが大切だと、このときも結論を出したのです。それで国際空港の話は二転三転して成田につくることになりました。


 

第四章なんども書きなおされたオリエンタルランド計画

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第二羽田空港の騒動(そうどう)がおさまってまもなく、遊園地のおおまかな内容がオリエンタルランドから発表されました。会社の名前でも分かるように(オリエント=東洋)東洋的な大型遊園地を森の中につくり、その周りにはいくつものホテルや大きい駐車場を配置するという内容でした。外側の海辺には日本各地の特産品を売る店を並べ、遊園地のとなりには、当時はみんなが欲しかったトランジスターラジオをつくる工場やキャラメル工場をたてて見学できるようにすることも含まれていました。
しかし、この内容では大人の人たちを楽しませることができないと考えて、次の計画が発表されました。昭和48(1973)年のことです。その内容は、ゴルフコースやテニスコート、アスレチックジム、プールなどが中心の内容に変わっていました。これは大人を呼ぶことができますが子どもたちには人気がありそうにもありません。
また、オリエンタルランドは考え直すことになりました。いろいろ考え、家族がみんな楽しめる遊園地はディズニーランドしかないと結論をだしたのです。
昭和49(1974)年のことです。


 

第五章浦安をほこれる町に

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すぐにウオルトディズニー・プロダクション(ディズニー運営会社)に、日本にティニーランドをつくることができないか聞いてみました。それで昭和49年の12月にディズニー運営会社の幹部(かんぶ)(学校でいえば校長先生と教頭先生)が日本に調査にやってきました。そして、浦安のほかにも、大阪や富士山のふもとを見て回りました。このときはディズニーランドを浦安につくることが決まっていたわけではありません。浦安の埋立地を見に来たディズニー運営会社の幹部に浦安町は「もし浦安に決定されたならば、町をあげて協力します」と伝えました。
ディズニー運営会社は、東京に近いことや羽田空港、成田空港からくるにも便利なことから浦安にディズニーランドをつくることをきめたのです。昭和50(1975)年のことです。
その後、2年たっても計画はなにも進まなくなってしまいました。ディズニーランドを造ろうとすれば1000億円以上もかかることが分かってからです。オリエンタルランドはディズニーランドを早くつくろうという意見とそんなに大金を使って大きな遊園地を造っても成功しないという意見に分かれてしまったのです。
浦安町も困ってしまいました。大型の遊園地を造るという約束で大三角をほとんどただ同然でオリエンタルランドに譲渡(じょうと)したのです。それができなければ町を発展させるという計画は泡と消えてしまうことになるからです。このまま放置(ほうち)できないと考えたのです。そこで、町の代表が直接ディズニー運営会社に「早く来て欲しい」とお願いに行くことにしたのです。昭和53(1978)年2月に浦安町の代表はアメリカのディズニー運営会社を訪問しました。
 そのとき千葉県知事からあずかってきた「浦安町にディズニーランドをつくるならば千葉県民をあげて協力します」という親書をディズニー運営会社の首脳に渡しました。首脳たちは千葉県と浦安町の全面的な協力に、ディズニー側も「全面的に協力して東京ディズニーランドを成功させる」と約束したのです。もう一つディズニー側は浦安町民に約束したことがあります。それは、さびれた漁師町をアジアで一番の観光都市にするという約束です。そして、「このことはあなた方にとっても誇(ほこ)れることになるはずです」と伝えたのです。自分たちの大切な生活の場を提供してまでディズニーランドをつくろうとしている町民の願いが感動をともなってディズニー側の心を動かしたのでした。
 このことがあってからディズニーランド実現に向けて動き出しました。千葉県も浦安町もディズニーランド実現に協力をおしみませんでした。浦安の中央を南北に走る道路である大三角線(おおさんかくせん)は地下鉄「浦安駅」から「ディズニーランド」に最短(さいたん)距離(きょり)で結ぶためにつくられた道路です。
こうして浦安町民が町をあげて協力したディズニーランドは昭和58(1983)年4月にオープンしました。
その1年前の昭和57年に浦安町は浦安市に衣替(ころもが)えをしました。オープン後の話はいろんな本に書かれていますので、話しはこれでおしまいです。



おわりに

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ディズニーランド誘致(ゆうち)には、美しい水辺で、きれいな空の下で、笑顔がたえない街(まち)をつくりたいという多くの人たちの願いが込められているのです。ディズニーランド計画は昭和34(1959)年にスターとしました。そのとき浦安は全国に6400ある市町村の中でもっとも貧しい町の一つでした。いまは豊かさでは五本の指の中に入る都市になりました。これは偶然(ぐうぜん)にそうなったのではありません。多くの人たちが努力した結果であるということを私たち市民は忘れてはなりません。


 

 

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