追悼
高橋晄正先生と私
      
          村上 徹     
初出 :フッ素研究第25巻(2005年11月)

           T 知り合う以前のこと



  私が高橋晄正先生を多少とも存じあげているのは、フッ素の問題に関して情報や意見の交換をする必要があったからである。もっとはっきり言えば、柳沢文徳先生(元東京医科歯科大学医学部教授)が急逝されて、私が、例え一時にせよ、フッ素研究会の全てを背負いこむ立場にたったからである。
 高橋先生は戦後の影が色濃かった昭和30年代から、時に華々しい言動がマスコミに注目される著名な医学者であり、私は一介の地方の歯科医にすぎなかった。歯科の世界にフッ素という問題が起こらなければ、又たとい起こったとしても私がそんなものに興味がなかったなら、私は一生高橋先生とは無縁のままだったにちがいない。
 本誌が高橋先生の特集号を組むにあたっての寄稿を依頼されたものの、私には高橋先生の仕事や医師としての思想、それに基づく社会的活躍の全貌については語る能力も資格もない。ご逝去に接して、先生と私との唯一の接点であるフッ素研究というこの領域だけに限っても、かけがえのない巨大な人物を失ったという思いは痛切なものの、私の心の中では、高橋先生はすでに歴史上の存在になってしまっている医学者なのである。先生の故郷の秋田県の県立図書館では、ご生前のうちから先生の業績を収集して一つのコーナーを設けているくらいだとも聞いている。そのような、いわば偉人の死に対して通り一遍の追悼の辞を捧げて事を済ますのは、たとい10年足らずという短期間であっても、時に激しく議論を交わし、教示を受けてきた者のなすべきこととは思えない。
 そこで私は、以下に、私の衰えかけた記憶の底をほじくり返して、フッ素問題における高橋先生の存在を、私の目に映じた限りで、できるだけ正確に記すことにした。そしてそのためには、私自身のことも述べずに済ますわけにはゆかないのを感じている。追悼の言葉に私事を差し挟むのは異例かもしれないが、これは高橋晄正という巨大かつ先鋭な医学者の一側面についての私論のつもりなのである。

 もし、高橋先生のお書きになるものが誰にでも理解できる小説やエッセイのようなもので、その内容が医学や実験計画学という高度に専門的なことでなく、政治や経済というようなくだけた文体でも語れる分野のものだったなら、先生の先見性や偉大さは一般の人たちにも容易に理解できるにちがいない。先生は町の科学者を自称しておられたが、私の意見では、先生は東大医学部を退官されてからは、医学領域の専門的な研究と市民をつなぐ架け橋のような存在であり、薬物を含めた医学領域の安全性を啓蒙する絶好の教師であった。そういう意味では一種の評論家といえないことはないが、私が知る限り、日本の各領域の評論家というのはもう少し気楽な、あえていえば、どっちつかずの言説を蝶々する気楽な存在である。先生はある人たちからは深い尊敬をうけたが、一方、医師を含めて、ある専門家からは甚しく嫌われたといえる。その原因の一つは先生の批判的言説の苛烈さ、容赦のなさにあったので、その一言一言には先生の全存在ともいえる重みがかかっていた。これは、先生がつねに一種のカリスマになりかねない立場におられたということを意味しよう。
 宗教ではカリスマのご託宣は信者のよりどころであるが、フッ素問題は、科学論文の評価とそれにもとづく保健政策の是非に関する問題であって宗教ではない。科学の世界にはカリスマはあってはならない。しかし、一度これがこれが市民運動ともなると、市民運動は広く様々な人たちが関係してくるので、とかくカリスマが求められがちである。反フッ素活動も、その例外とはいえない。
 先生はそういう立場に自分が置かれるのを警戒するように、時には仲間というべき者にすら批判の矛先を向けた。批判された者は、当然嫌気がさして、フッ素研究会からも離れるという事がおこる。そればかりか、一時は、会長を引き受けた有力会員(丸橋賢氏)の人となりや言説のいい加減なのを嫌悪するあまり、先生ご自身がフッ素研究会からも遠ざかった。要するに先生は徹頭徹尾一匹狼だったのであって、組織を束ねて行動する方ではなかったのだ。天才的なジャーナリストや芸術家によくあるタイプである。
 フッ素研究会は柳沢文徳先生が創立した組織であるが、高橋先生もその最初期からのメンバーである。厄介といえばこんな厄介な人の集合体もなかったろうが、この会なくしては国際的な連帯もとれず、世界的な反フッ素活動から日本だけが取り残されるということになりかねない。そのあげく、馬鹿をみるのは国民同胞である。(アスベスト問題がそのいい例であろう。)こんな事態が黙過できるなら、はじめからフッ素など視野に入れず、国民がどうなろうと、この物質の毒性についてなどには目を瞑っておく方がスマートというものである。たとえ環境保健の領域であろうと、社会常識から一歩進んだ前衛的な啓蒙活動というのは、どうしてもこういう性質からは逃れられない。

 幸か不幸か、私は、歯科医師として、フッ素は黙過できないという立場を選択した。それはふとした機会に出合った柳沢先生に親近感を感じたからである。いや感じた以上に、柳沢先生に宮本璋先生(元東京医科歯科大学医学部長・生化学者)のにおいを直感的に感じとったからというべきかもしれない。
 この直感はまちがっていなかった。学生時代に私は柳沢先生とは一面識もなかったが、まだ30歳代だった彼を新設された医歯大付属難治疾患研究所の疫学部門の教授の候補として白羽の矢をたてたのは、この大学の最有力者であった宮本璋教授その人なのであった。柳沢先生は生涯その恩義を大切にし、研究室に宮本先生の写真を掲げておられたくらいである。これらのことは、後で柳沢先生と親しくなってから懇談してわかった。それどころか、これは私が最近資料を発掘して見つけた事実であるが、宮本先生と柳沢先生は化学物質の安全性について、殆ど思想を同じくしておられたのである。この点で宮本先生は、柳沢先生の先駆者のような存在だったといえるだろう。
 柳沢先生は、フッ素の問題に取り組む前から、周知のように、中性洗剤の大量使用に強い危惧を抱いておられた。この問題が広く世間で認識されるにつれ行政も看過できず、昭和37年4月、国会は三木武夫大臣の出席を求めた科学技術振興対策特別委員会を開き、危険論者である柳沢先生と、危険性なしとするある学者を参考人として招き、長時間にわたって審議した。そこで柳沢先生はなぜ中性洗剤を危険とするかについて詳細な意見を述べたのであるが、その中に次のような発言がある。

 こういうふうな毒性の問題につきまして、東京都で中性洗剤の委員会があったわけでございます。その席上におきまして東京医科歯科大学の生化学教室の宮本璋教授は次のごとき発言をしておられます。
「ABS(村上注:中性洗剤のこと)は普通の薬物や添加物のごときと異なり、質量法則が成立しないから毒性も普通の薬物と同じように考え、同じような方法をもって判断することはできない。ABSは拡散作用を初めとして界面活性剤の物理化学的性質を考慮に入れる必要がある。ABSは健康人には何ら影響しないかもしれぬが、ロカース・ミノールスを有する人、たとえば肝臓が悪い人、衰弱した人、老人、幼児では、ABSが入れば悪い影響を及ぼし、それもABSで起こしたかどうかわからぬように生じ、また死ぬこともあり得る。その発生の確率は一万人か十万人かわからぬが、これらロカース・ミノールスを持つ人を犠牲にしてもよいというならば問題は別だ(太字・村上)」という発言をなさっております。この発言がありまして、大体問題は東京都の委員会がそのまま結論が出ないで終わったわけです。私どももこの宮本教授の発言を強く認識しております。(以下略)(第040回国会 科学技術振興対策特別委員会 第18号議事録)
 
 この太字で引用したの部分の議論は、大部分フッ素にもあてはまる。柳沢先生や高橋先生のフッ素否定論の骨格もまたここにあるといっても誤ってはいまい。ここに生殖毒の視点を加えれば、環境ホルモンの議論の核心にもつながってくる。

 ここですこし余談になる。
私は宮本先生には、学生時代に深い御恩を頂いた。
ふつう歯学部の学生は宮本先生には殆ど接する機会がない。歯学部生化学の荒谷真平教授の計らいで宮本先生の特別講義を聴く機会はもうけられていたが、それも1〜2回程度であり、試験もなかった。学生は先生の漫談のような講義に腹を抱えて笑っていればそれですんだのである。
 私はそうではなかった。そのきっかけは、60年安保騒動の擾乱にあった。樺美智子氏が死亡したあの夜の大騒動のことである。医歯大では医歯両学部とも学生は医学連に属し、医学連は全学連に属していた。当時私は歯学部の3年生であり、この3年生が全ての学生活動の中核をになっていた。(4年生になると臨床に進むため、学生活動から離れるのである)。
 私の政治思想的な心情はここでは語らないが、私は学生や労働者の大デモを冷眼で見ていた。要するに左翼の学生ではなかったのだ。当時、ノンポリ・ラディカルという言葉はなかったが、学資に苦しむあまり一種アナーキーな心情を抱いていた私は、そんな立場に近かったろう。しかし、私が親しくしていた友人は、殆どが反代々木系の活発な左翼だった。当時のマスコミ用語でいえば、全学連反主流派、つまり、唐牛健太郎や現評論家の西部邁氏が指導していた"ブント"である。医歯大のブントの連中はみなある程度裕福な家の子であり、私のように食うことで苦闘している学生は一人もいなかった。
 
 その夜、ブントが指揮するデモ隊に警官が激しく襲いかかったらしい。多数のけが人と逮捕者が出、東大の女子学生が一人死亡した。私はデモには行かず、アルバイト先から夜になって大学に戻り、学生ホールで学祭の準備の雑用をしていた。確か夜10時頃だったと記憶しているが、いきなりドヤドヤと血だらけ泥だらけになった学生がホールに駆け込んできて、狭いホールは忽ち溢れるようになった。みな恐ろしく興奮している。
 誰それが怪我して運ばれた、誰それが逮捕されたと、今までに経験したことのない混乱ぶりである。満足な身なりの者は、その時デモに行かずにホールにいた数人の友人と私だけだった。
 時間がたつにつれ、これは放っておけないということがわかってきた。デモに学生をかり出した自治会の委員長ら幹部がのきなみ行方不明になってしまったからである。そのうち死者が出たという噂が流れた。医歯大のデモ隊は東大のすぐ後に続いていたらしい。ある男が泣きながら、丸茂(医学部3年生)さんが死んだようになって救急車でどこかに運ばれたという事実を告げた。搬送先はどうも虎の門病院らしい。

 その後の私の記憶は、すっぽりと抜けている。気がつくと私は電話機にかじりついていた。呼び出したのは宮本先生である。先生はもうおやすみになっておられた。深夜学生から呼び出された先生はいささか不機嫌そうなお声をしておられたが、私は勇を奮って氏名を名乗り、私以外にしかるべき学生がいないので、歯学部の学生ながら先生のご助力におすがりしたいというような事を喋った。事態が判明すると、先生からはたちまちテキパキした返事がもどってきた。虎の門病院ならMがいる。直ちに彼の家に連絡しろ。事務室が閉まっていたって、学生ホールに同窓会の名簿があるだろ。都内の警察を学生をふりわけてなるべく多く回らせろ。必要なら、ぼくの名前を使っても一向に構わない。あ、それからな、今後何時でもいい。事態がわかったら逐一連絡しろ。

 幸い医歯大の学生から死者はでなかったが、丸茂君は脳底骨折で重体だった。警察の留置場に留め置かれたある学生は、隙を見て逃げだしてきたと興奮して喋っていた。私は夜明けまでに何回か宮本先生に電話した。
 我々は残った自治会の学生と相談して、翌日から全学ストを決行した。とにかく行方不明者を救出しなければならない。そのうえ地方の大学の医学部からは続々と学生が集まって、医歯大にねぐらを求めてきた。私は医歯大学生救援対策部長にされ、その後3日間一睡もしなかった。臨時に自治会の委員長代行になった2年生のH君は、とうとう3日目になって卒倒した。(このH君もいまはある大学の名誉教授である)。
 
 その翌日だったのか、数日たってからのことだったのか今ではよく思い出せない。とにかく事態が一区切りついた所で私は宮本先生の教授室に伺い、報告とお礼を申し上げた。なにしろ宮本先生は医歯大きっての大先生である。教授だって先生の前では緊張するという話が伝わっている。先生の部屋は滅多に学生が近寄れる場所ではない。
 先生はジロジロと私を眺めておられたが、
「キミがあの夜電話してきた学生かい」
と仰った。先生は生粋の江戸っ子で、出自が古い医家である。
「そうです。丸茂君は脳底骨折で、どうなるかわかりませんが、まだ生きています。警察から追われているらしい自治会の委員長は、神経が高ぶっていますので、私が下宿にかくまっています。」
「そうか。そいつはご苦労。脳底骨折とは重傷だが、まだ生きているならおそらく助かるだろう。ところでな、ぼくはキミに感心したんだよ。話がとても要領がよかった。ナニ、歯学部の学生だって。どうりで顔を知らないわけだ。」
そして横にいた秘書役の女性に向かって、
「キミ、この学生の顔と名前をよく覚えておいてくれ給え。ホラ、ぼくはすぐ人の名前を忘れてしまうだろ。この学生の名前は忘れては困る。ぼくが、ホラあの学生といったら、歯学部の村上君ですかという具合にな。」
 
 これが宮本先生に私が直接お目にかかった端緒である。
昭和37年卒の私以前に歯学部を卒業した者がどれほどの数なのかしらないが、私ほど先生に可愛がられた学生もいないであろう。もっとくわしく言えば、苦学にあえぐ学生の私がこの大学で師と仰ぎ、尊敬できた教授は、宮本先生の他には誰もいないようになってしまったのである。宮本先生は江戸っ子一流の諧謔で、平素から、歯学部で威張っている教授諸公など頭から小馬鹿にしておられ、気安い者の前では医科歯科大学をウマシカ大学と言うことすらあった。当然歯学部の教授の間では人気がなかった。私はますます孤独になった。
 もう少し余談を続ける。
私には由木徹という医学部の親友がいたが、卒業して一年たってから彼の自殺に遭遇した。由木の父上は日本で有名な牧師で、賛美歌「聖しこの夜」の訳詩者として知られている。私は由木にはあらゆる話ができた。由木もあらゆる話を私にした。一見恵まれた家庭の子に見えた彼も、人知れず深刻な悩みに直面していたのだ。
 彼の自殺で私は人生そのものを放棄したくなった。私の心の暗部を理解できる人間は、もう誰もいなくなってしまったのだ。私はその苦衷をしばしば先生に手紙で訴えた。先生は何も仰らずに、
     
               寒ざれの孤高の笛は冴えしめよ

という一句をしたため、私にくださった。
 この一句は私のその後の私の人生を支える磁針になった。孤高か孤低かわからないが、独りたらざるをえぬ人間がこの世にはいるのだ。どうやら私はそういう種類の人間らしい。そうした生き方の結果がどう出ようと、そういう人間は、そういう生き方を崩しては生きられない。モーツアルトの音楽が心にしみるのは、どうやら彼がそういう人間だったかららしい。私は人に理解を求めるという考えを捨てた。人に理解されるのを求めることより、理解し愛することの方がはるかに大切なのだ。
 私が柳沢先生に嗅ぎつけた宮本先生のにおいとは、こういう人心の機微を知る人物だけが発散する芳香のようなものだったのだろうか。
 平成2年の柳沢先生のご逝去以来、高橋先生と私との間に生じた知的に濃密な交友関係の背後にはざっとこんな事情が控えていたのだが、上記のような事を私は高橋先生には話さなかった。高橋先生からは、こういうにおいはしなかった。

 私はもう少し自分のことを語っておく必要を感じる。

 話が少しさかのぼる。
私が高橋晄正先生のお名前をはじめて耳にしたのは、インターン問題や60年安保をめぐっての医学生の意識がそろそろ先鋭になり出した昭和33年の終わり頃だったと思う。そうだとすれば、私は医歯大歯学部の専門過程の1年生だったということになる。60年安保の2年ほど前のことになる。
 その時期の我々つまり医歯大の学生は、千葉大学に委託されていた2年間の進学過程を終了してお茶の水の本校に移り、屍体解剖という今まで未経験の濃密な実習に直面するとともに、ラテン語やドイツ語の医学用語をいっぱし口にする、プライドと希望と不安とがないまぜになった精神の微妙な時期にいるのがふつうであるが、私の場合はちがっていた。希望や不安などという若者らしい感情は、すでにどこかにケシ飛んでいた。父の脳卒中罹患とともに親からの送金が途絶え、私は何とかして金を稼ぎ、学生、しかもインターンの一年間がないだけに医学部の学生より一段とこぜわしい歯学部の学生として糊口をしのいでゆかなければならなかったのである。とにかく毎日が実生活との戦闘であった。これに負けてくたばれば、歯科医師になるのを諦めて退学するより手だてがなかったのだ。
 空襲による被災、戦後の焼け跡闇市は、9歳の子供だった私の心にもまだ傷となって残っていたが、最早戦後じゃないと言われる頃になって、私は再度人生の修羅場に放り出されたのである。
 
 歯科医師になるのは私の第一志望ではなかったが、その第一志望は親が承知しなかった。
私の父は貧しい職人の長男で、検定合格の歯科医師であった。父は18歳の時にはすでに国家が行う歯科医師の検定試験に合格していたのだが、壮丁に達しないため免許が下りず、ある私立歯科医専の教師の書生のようなことをして時間を稼いでいたらしい。「俺は18で合格したがな、17で合格した奴がいる。この男のお蔭で俺は日本一じゃなかった。」というのが父の口癖だったが、それでも18歳で合格したことは当時のニュースにはなったらしい。父はその新聞記事を大切にしていたらしいが、戦争で何もかも失ってからは、そんなことは二度と口にしなくなった。
 そんな父の目には、日本に一つしかない国立の高等歯科医学専門学校(医歯大の前身)は非常にまぶしい存在に映じたらしい。兄がどうしても歯医者はいやだとここの受験を逃げきると、父は今度は何とかして4歳下の私を医歯大に入れたがった。私は私で、第一志望のフランス文学がだめなら何処でもよかったのだ。幾ら理科や数学が不得意でも、受験程度ならなんとかなる。だから受験は、二期校の医歯大の他はどこも受けなかった。私にとって医歯大というのはそんな存在にすぎなかったが、さて、この大学を母校として3年もなじんできては、今さら退学することは全く考えられない。親交が深まりだした友人たちと分かれるのは、考えただけでも辛かった。それに比べれば自殺する方がはるかに簡単に思えたが、私が自殺したところで、後に残る病父や母や弟らがそれで救われるわけではない。私は家族の役にたつため、歯をくいしばった。(こうやって自分で自分を縛る事が後にどんな後遺症を残すか、若い私には想像できなかった。)
 
 父は一銭五厘で二度も戦争にかり出され、敗戦で復員してみれば家は焼け、11歳になる一人娘は空襲で殺されていた。父は淋病にかかっていたらしく、母がそれを嫌悪して両親は激しく諍った。
 父はやがて焼け跡に配給の家を建て、歯科医院を再開することになるのだが、生活が落ち着けば落ち着くほど心が荒れるのをどうにもできず、酒と女に深入りするようになった。そんな事態は、また容赦なく、家族を(父自身をも)苦しめた。そのあげくの発作であった。

 私の生活にはどこにも救いがなかった。もし多少とも救いがあったとすれば、友人たちが私が人生の修羅場にいるらしいのをうすうす知っていてくれているということだけだった。高橋先生のお名前をきいたのは、丁度こんな時だった。
 
 先生のお名前をもち出してきた医学部の友人によれば、これからは、医学が、高橋先生らが中心になって研究している数学を中心にして、新しいものになるらしいということだった。こんな話を聞かされても、私にはわけが分からない。推計学という勉強はそれまでにもやらされてきたが、もともと数学が嫌いな私は、唯々、不向きな勉強をやらされたという記憶しか残っていない。これが新時代を切り開く医学の方法なのであれば、私はおそらくそんなものには向いていない。さいわい歯学部の友人からは、そんな話は一度も聞いたことがない。歯医者でよかった。私はそう思っていた。毎月のようにふりかかる恐るべき回数の試験を最低点でいいから唯一度でパスするだけ(再試を受ける贅沢はできなかった)の勉強しかしていない私は、医師たるべき教養のどこかに深刻な欠落があったのにちがいない。
 
 昭和37年にやっとの思いで卒業して歯科医師になり、地元の群馬大学医学部口腔外科の研究生になって日本口腔科学会に入ると、そこでは、思ってもみなかったことに、フッ素論争が起こっていた。口腔科学会という学会は、全国の医学部の口腔外科学講座が中心となって組織された学会で、その上部組織は日本医師会であり、日歯ではない。従って、口腔外科に無関係な歯科医の多くは、この学会は医学会であって歯科医の学会ではないと思っていたらしかったが、会員の多くは歯科医師であって、医師の会員は少ないという妙な性格をもっていた(口腔外科は医師が担当すべきか歯科医師でもいいのか、教授選考のたびにいまだに揉めている所以である)。
 
 さて、そこでのフッ素論争であるが、これはいうまでもなく、鹿児島大の副島侃二教授と、京大の美濃口玄教授の例の論争である。京都の山科上水道でフッ素化実験を実施していた美濃口側では、助教授の小野氏が、主任教授を援護してしきりに陣太鼓を打ち鳴らしていたという記憶があるが、昭和39年に副島氏が急死すると、この論争はぱたりと止んだ。歯科の世界では、副島氏以外にフッ素の危険性などに批判の声をあげる者は一人もいなかったのである。今にして思えば、副島氏の先見性は驚嘆すべきものがある。生命科学の根底をなす哲学のうえでは思想的に貧弱な歯学にもこれだけの先覚者がいたという事実は、後進の我々には大いに誇りえることである。
 しかし、不思議なのは小野氏であった。あれだけ美濃口教授を応援して副島氏に噛みついていたのに、美濃口氏の後任者として京大の口腔外科学教授に就任すると、まるで手のひらをかえすようにあっさりとフッ素と絶縁したらしく見えたのである。宝塚斑状歯事件で、市民や衛生学者らから美濃口氏が突き上げを食らった顛末を、彼が逐一見聞したためかどうかはわからない。とにかくこの件については、私が知る限り、小野氏は何も書き残していないのでこれ以上は何も言えないのだが、この論争を外野席から眺めて、目にふれる文献だけを読んでいた若い私には、ただ呆気にとられたような印象だけが残ったのだ。しかし、その小野氏も業半ばにして急逝したらしく、鹿児島大と京大の論争は完全に昔語りとなった。

 京都山科の水道フッ素化実験は中止され、その後の三重県朝日町の実験も、各地で公害騒ぎが起こると、ろくろく成果も確かめないで短年で中止となったのは衆知のとおりである。
 フッ素化がいいものであり、虫歯予防に効果があるのなら、WHOをはじめ口腔衛生学者らこれを推進する側は、本腰をすえて社会の説得に乗り出すべきではないか。そして批判者・反対者とは、とことんデータを出しあって物理学や化学の世界では当たり前の科学論争を展開して、第三者の判断を仰ぐべき義務と責任がある。所詮、虫歯の予防は、行政権力を背景にする公衆衛生的な施策とはなじまないのかもしれない。あくまで個人衛生でゆくより方法がなさそうだ。フッ素にはどうもすっきりしないところがあるようだ。私はそんなふうに思った。当時は高度成長のただなかで、虫歯は共働きの家庭の児童や低所得層を中心に蔓延し、朝から夜まで、私はクタクタになるほど働かなければならなかったが、そんなふうに思っていた。
 
 しかし、そのうちに歯科医師会の中に奇妙な風が流れてきた。歯科医師会の力を結集して「う蝕予防法」を作ろうというという主張が聞こえ出したのである。
 県レベルの歯会理事を経験した歯科医にはお判りだと思うが、県レベルの歯会役員は、全国をいくつかの地区にわけて、それぞれに連絡協議会という仕組みを作っている。私の場合は群馬県だから、関東地区歯科医師会役員連絡協議会というのに属することになっている。俗にいう関ブロ役協である。ここで歯科医師会が当面するテーマについて協議しかつ議決し、喫緊なものは関東地区の声としてさらに全国の会長会議や日歯代議員会にあげて、日歯の運動目標にしようというのである。
 私は昭和51年に、初めて群馬県歯会の理事になった。その年に群馬県歯が関ブロ役協の担当県となり、新人ながら私はある部会の座長となった。
 「う蝕予防法」の制定を提案してきたのは神奈川県歯会であった。この県歯会の会長のK氏は論客として歯科界では全国的に有名であった。「う蝕予防法」の制定を求める提案は訳なく全体会議で議決された。
 今にして思えば、神奈川県歯会がこんな口火をきったのも当然だった。神奈川歯大の飯塚喜一氏が手をまわしていたにちがいないのである。氏の教室には日F会議(全国むし歯予防フッ素推進会議)の事務局がおかれていた。氏が新潟大の堀井氏や境氏と遜色ない熱烈なフッ素主義者であることは周知である。全国的な水道フッ素化にとりかかるには、とにかく歯科医師会を巻き込まなければ話にならない。口腔衛生学者や予防歯科学者らが何をどう主張しようと、それだけではそれを国策にするには力不足だ。「う蝕予防法」制定の主張には水道フッ素化というどぎつい主張は巧みに隠されていたが、これらの教室の関係者を中心にして、虫歯を予防するために水道にフッ素を添加しよう(水道フッ素化)という主張は徐々に歯科の世界に広まりだした。少し前、雨後の筍のように新設された各地の歯科大から続々と卒業生が開業しだし、歯科医の数は激増の気配をみせていた。

 この頃、私は水道フッ素化に関して、非常に重要な論文に遭遇した。山田文夫、押田茂実、赤石 英3氏共著の「新薬の臨床試験と上水道フッ素化をめぐる法医学的諸問題」(歯界展望・第48巻・ 第1号・ 昭和51年7月)である。赤石 英氏は当時の東北大学医学部法医学教室の主任教授であり、あとの2名は助教授および講師らしかった。
 私はこの短い論文を読んでその文体の格調の高さと論理の緻密さに圧倒的された。歯科の雑誌でこれだけの名文に接したことは、空前絶後である。この論文に比べれば、フッ素推進者が主張する文章などまるでたわごとではないか。私ははっきりと決心した。フッ素主義者には同調できない。水道フッ素化は公害の元凶になるおそれがある。
 
 ここでまた少し余談になるのを許していただきたい。
その後、この論文の共著者である押田茂実氏や山田文夫氏と、ふとしたことから何度か文通した。押田氏はある有名な私立大医学部の法医学教授になっておられ、山田氏は宮城県で歯科医をされていた。ご両所の話によると、当時の赤石氏は、フッ素化の推進運動にある危機感を抱いておられたらしい。そこであえてこの論文を法医学者には場違いな歯科の雑誌に投稿し、同主旨の発表を口腔衛生学会でもなさったらしい。赤石氏はあくまであえて歯科界に一石を投じ、真摯な議論が起こることを期待されていたらしい。
 ところが、フッ素推進派からの反応は思ってもみなかった悪罵、嘲笑、いやがらせというような、きわめて下品な質の低いものばかりで驚いたという。「あの世界の人たちは一体なんなのでしょうね」と赤石氏は後々まで苦笑しては訝っておられたという。後に柳沢先生や高橋先生や私などが直面することになる歯科界のフッ素を推進する人たちの医師という職種にあるまじきヤクザまがいの低質の言動は、すでにこの頃から著明だったのである。
 赤石氏はさらにフッ素批判の二の矢をつがえるつもりでもおられたらしいが、押田氏の話では「その後高橋氏らが強く反対の声をお上げになったので、私たちの役は終わった」と、この問題とは手を切ったのだそうである。仙台市で内科医院を開業されている加藤純二博士は、東北大学で直接赤石教授の講義を受けた教え子であるが、博士によれば、赤石教授は、東北大学で非常な尊敬を受けていた学者だったという。
 
 高橋先生がフッ素問題に興味をもたれたきっかけがどんなものだったのかは、先生ご自身がくわしく記されているので、ここにくりかえさない(フッ素とむし歯−反フッ素宣言−三一書房、1978年)。そのうちに新潟にフッ素論争が勃発した。その経過は谷美津枝氏らが編纂した「新潟県における上水道フッ素添加・集団フッ素洗口の軌跡資料」(食生活改善普及会・1989)にくわしくしるされている。谷氏は昭和53年5月の歯界展望(第51巻第6号)に「消費者運動の原点」と題して、フッ素化と集団フッ素洗口に反対する主旨の論文を寄稿している。この流れが群馬県にまで及んできたのである。
 
 群馬県に渋川市という小さな都市がある。
ここに石田覚也氏という神奈川歯大の飯塚教室の出身者である歯科医師がいる。当時彼は渋川市歯科医師会の理事であり、群馬県歯科医師会の公衆衛生委員会委員であった。彼は渋川市歯会の会長らを言いくるめ、渋川市の公的事業として小中学における集団的フッ素洗口を推進しようと図っていた。当然のように、父兄や擁護教諭の反対運動が生起した。私の医院には少なからず渋川市からの患者さんがいる。私は何度も渋川の患者さんから、フッ素てなんですかというような質問を受けるようになった。
 推進派は飯塚喜一氏や小泉信雄氏(群馬県予防課職員、新潟大堀井教室出身)を呼んで気勢をあげ、反対派はまず最初に高橋先生を呼び、その後、柳沢先生をお呼びした。この柳沢講演を私は聴きに行き、そこではじめて先生に会った。それらの一連の経過は、「群馬県渋川市におけるフッ素洗口問題の経過報告」と題して報告してある(フッ素研究・第9号・昭和63年)。
 柳沢先生の講演会では私は一般聴衆に混じって後ろの席にいた。ところが周囲に妙な連中が何人もいたのである。彼らは講師の一言一言に顔色を変え、「チクショウ、あの馬鹿、こんなウソをいいやがる」と口々に罵るのである。後でわかったことだが、彼らはみんな歯科医師で推進派が動員してきた連中らしかった。講演後の質疑応答では、何人もが、かなきり声をあげ、柳沢先生を激しく非難した。先生は憮然としていた。この光景を見て、私はフッ素問題の本質が一眦のうちに理解できたように思った。こういう風潮は歯科界の内部でかたをつけなければならない。討論にはそれなりの礼儀がなければならない。
 医歯大卒後、私は群馬大学の医学部口腔外科から生理学教室に移り、そこで学位を取得し、ほぼ10年在籍していた。そこで常に接触したのは、医師や医学生である。こういう低質な連中は、医学部のなかには絶対にいない。開業医仲間の歯科医の友人にはいいやつもいるが、中にはとんでもなく低質な連中もいる。歯科医は医師より一段と低く見られるのが普通であるが、それはこんなところにも一因があるのではないか。私はそんな風潮に我慢がならなかった。
 その後私は一年間かかって「フッ素信仰はこのままでいいのか」という論文を群馬県歯科医師会雑誌に掲載したのだが、この論文を書くため、私は余暇の全てをつぎ込んだ。私をここまで駆動したのは、医師である高橋先生や柳沢先生に軽蔑される前に、こんな連中は、同業である私という歯科医の手で論破してしまえという気持ちがつよく働いたからである。
 私はこれをきっかけに私は柳沢先生と親しくなりフッ素研究会に加わったのだが、高橋先生とはまだ知り合うまでにいたってはいない。この頃高橋先生は訳あってフッ素研究会とは離れていたのであるが、私はそんな事情は知らなかった。(未完)


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