ある出版人の死

                          森山光人氏を悼む

                                              村上 徹

     (日本フッ素研究会副会長   医学博士 村上歯科医院院長)

  森山さんとは不思議なご縁だったと思います。
そもそも彼と知り合ったのは、私がアメリカ化学学会の機関誌であるケミカル・アンド・エンジニャリング・ニュースという雑誌(1988年)に載った特報論文の翻訳を柳沢文徳先生(東京医科歯科大学名誉教授)にお見せしたところ、折角だから是非出版するようにと言われ、数日後、あとは森山に任せたから、いずれ連絡があるだろう、と言われたのが最初です。その森山なる人物がどんな仕事をしている人かなどについて、先生は何もおっしゃってはくれません。 出版社の方だろうとは話の前後から推測はつきましたが、その会社がどういう社で、先生とどういう関係にあるのか等は何も言われなかったのです。第一、当時私は柳沢先生とは知り合ったばかりなので、いかに先生が私の母校である東京医科歯科大学の有名教授だったとはいえ、先生とは出身も専攻も違い、私が学生だった時には、先生は別の大学におられたのですから全く接触はありませんでした。

 そのうちに森山さんから時々電話を頂くようになりました。まず、本のタイトルを決めてくれと言われ、序に装丁も考えてくれと言われました。ふつうですと、その前に顔を合わせてよく相談し、出版の条件その他について契約めいたものを交わすのが順序だろうと思われましたが、そんなことは一切おかまいなしといった雲行きです。本の値段をいくらにするのか、どのくらいの部数を刷るのかなども一切不明です。やがて「プリニウスの迷信」というが本が誕生しました。1989年7月のことです。

  今考えてみると、これは森山さんにはいささか迷惑をおかけしたのではなかったでしょうか。しかし、森山さんは柳沢先生とはごく親しい間柄だったようで、いきなり拉致されるようにしてフッ素研究会に加わった格好の私などが口を差し挟む余地はなさそうでした。一方、長年フッ素の毒性について私財を投じてまで警告を発し続けてきた柳沢先生にしてみれば、この本は何としてでも出版したかったのでしょう。なにしろアメリカ化学学会という全米最大の学術団体が、その機関誌に正面きって水道フッ素化に疑問をなげかけたのですから、これは衛生学者としての先生の正統性を証明する上からいっても極めて有力なエビデンスとなったはずです。フッ素化を否定するなどまともな学者のやることではないという巧妙なプロパガンダがアメリカの当局から世界中に流されていた事実など、この頃は誰も予想すらできなかったのです。この本が出版されてから半年後に柳沢先生はさっさと他界されてしまいました。ある日、先生の病床によばれてゆくと、とにかくフッ素研究会の後はよろしく頼むと言われ、その数日後に、先生はたちまちお亡くなりになってしまったのです。今でもこの時の途方にくれた気持ちを思い出すと、なんとも言葉に詰まります。

  さて、そんな次第でフッ素研究会と、フッ素研究という雑誌が私に手渡されました。それと同時に、先生のご遺言による100万円という大金が、ご遺族からフッ素研究会に寄付されました。その結果わかったことですが、先生はこの研究会の主催と雑誌の発行に夥しい私財を投じておられたのです。それを思うと、先生のご遺志はなんとしても継続させねばならない、私は途方にくれながらも覚悟を固めました。この雑誌の版元で編集者でもあるのが森山さんでした。その後今日まで十数年、フッ素研究会にかかわる雑誌や本の発行を通じて、森山さんとの交友が続きました。

 これはよくない癖かもしれないのですが、私には、人とのつきあい方にある習慣があります。それはあまりベタベタした濃密な交際はしないという方針です。お互いに中年になってからのお付き合いですから、とても学生同志のような交際はできかねます。そのうえ私は、相手の学歴や経歴、人脈などのプライバシーについては、よほどの必要がなければ立ち入るのがいやな口です。森山さんもそういうお人のようにお見受けしました。一度、何かの用向きで会社の方に伺いたいと申しますと、わざわざお出で頂く程のところでもございませんのでと、婉曲に断られました。ですから、彼の年齢や出身地、出身大学などは、没後奥様からお知らせ頂くまでは何も知らずにきました。しかし、著者対編集者という長い付き合いの間に、森山さんは、国語に関しては相当学殖のある方だなということがわかってきました。私は家業の歯科医師がいやで思春期のころ文学者になりたいと切実に願ったことがありますが、親爺やお袋が許してくれず、ずるずるこの道に入ったものですが、かつて文学青年であった私には、森山さんの言葉に対するセンスが一通りのものでないことがウスウスわかってきました。

  しかし、森山さんと私との関係は、あくまでフッ素研究誌の論文の著者と編集者としての関係なのですから、私が文学青年あがりであり、日夏耿之介について単行本を書いたことがあるなどということは言うべきではなかったでありましょう。この判断は今でもそれでよかったと思っていますが、急に彼を失い、しかも彼が飯田の出身だったとわかると、にわかに痛恨の思いがわきあがってまいります。私が若年の頃から読みふけった日夏耿之介は飯田の人で、私にはぜひ一度飯田を尋ねてみたいという思いが心の底にわだかまっているのです。東京教育大学で国文学を専攻した彼が、郷里の大詩人でありながら、今では誰も読む者がない日夏について知識がないはずがありません。何とも残念でなりません。

  私がフッ素研究誌に書いてきた記事や論文の量は、十数年ともなると膨大なものになります。特に私が3年の日時をかけて完訳した「フッ素化:この巨大なる矛盾」という論文は、原書が450ページもあるウォルドボット先生らの博大な本のまるごとの翻訳で、しかも詳しい注釈をつけたものなのですから、版組みも大変だったでしょうし、校正だって、そうなまやさしいものではありませんでした。

  先にも申しましたが、私の本業は開業の歯科医師です。毎日患者さんを診るのが仕事です。従って、執筆や校正は、どうしてもその余暇にということになります。患者さんがとぎれる五分十分の時間を細切れに使い、あとは休日や休診日を使うよりしようがないのです。森山さんは、こういう立場の私を十分に理解して下さって、編集者として大変な手数を惜しむことなくかけて下さいました。

  1例をあげますと、この本の中に「長野県の鬼無里村」でおこった一酸化炭素中毒に関する記述があります。原文は「in the village of Kinasa, Nagano Prefecture」ですから、「長野県のキナサ村」でよいわけですが、校正の時に、森山さんは、そこに(鬼無里村)という漢字をあてがってきました。そこで改めて訊ねると、長野県にはそういう名前の村があるのだそうです。そこで有り難くこの訂正を採用させて頂きましたが、こんなことが再三ならずありました。後日談ですが、この時から、この変な名称の村が気にかかって、ある年に白馬村にドライヴした機会に、遠回りをして、この村を訪ねたことがあります。とんでもない不便な山の中の村で、狭い道端に車を止めて、森山さんはこの村と何か関係があるのだろうかと想像をめぐらせた次第でしたが、この事は森山さんにはついに話さずに今日まできてしまいました。

   E・ギボンの「ローマ衰亡史」の訳者である中野好夫氏は「翻訳ほど楽なものはない。考えることはみんな著者に任せて、ただヨコのものをタテにすればいいのだ」とうそぶいておられ、文芸春秋の名編集長だった池島信平氏によると、吉田健一氏の翻訳ぶりは、寝ころんで英語やフランス語の本を見てるうちに、ぺらぺら日本語が口から出てくるのでまことに簡単で効率がよいのだそうですが、これはいうまでもなく彼らの大才あっての話で、私のような鈍骨とはもとより比較にはなりません。私の場合は、ジタバタ血へどを吐くような思いで訳文を作り、ああでもないこうでもないと推敲を重ね、最後に森山さんの意見を聞いて決定稿ができたものです。家の者は、なんでこんなにまでしなければいけないのかと不審がりますが、こうでもしなければ、柳沢先生に面目がたたないといった思いがしていたことは事実としても,そればかりではありません。私という本人には結構このような生活が性に合っていたのでしょう。もう私のどこを叩いても、こんな情熱は湧いてきません。

  フッ素研究での私の仲間は、内外をとわず、もう大半が物故してしまいました。そして森山さんまでが亡くなってみると、この方面での私の仕事は、もう、全部終わったという思いが強くいたします。
  一昨年(2002年)の夏に、森山さんから私の本を出したいと言われ、あれこれまとめて「フッ素信仰はこのままでよいのか−反対論の学術的基盤−」という本を出して頂きましたが、私の本などそんなに売れるわけがありませんから、損をかけねばよいがと案じているうちに悲報に接した次第です。
  いままで改めて彼の尽力にお礼を申し上げたり、かつ他のことで懇談したりという機会は滅多にありませんでしたが、去年(2003年)の秋、フッ素研究会総会がはねた後で、30分くらい彼と私との共通の持病である喘息についてあれこれ話をしたのが最後となりました。

   森山さん、追っつけ私もそちらにまいります。
極楽では喘息もありますまいから、お酒でも沢山飲んで、今度はゆっくりと文学の話でもするとしましょう。それまでのお別れです。森山さん、有り難うございました。
                            合掌

  (初出 森山光人を送る 2004年2月29日発行)

              ホームページに戻る