| や行 |
鴨梨(ヤーリー)
ヤーリーは中国原産の梨で、日本では岡山で生産されています。
果実が「干している鴨肉」に見えるところから名付けられました。
中国の民話「天津(てんしん)の鴨梨」
昔、渤海(ぼっかい)の岸辺の小さな村に、六十歳を過ぎた母親と十三歳になる息子の小木娃(シャオムワァ)が粗末な小屋で暮らしていました。小屋の後ろはアルカリ性土壌の大地が広がっていて農作物が育たないので、二人は漁をしながら貧しい生活を送っていました。
ある日、小木娃は小屋の後ろで山梨の木に実がなっているのを見つけて母親に見せました。二人は山梨を土地いっぱいに育てることにしましたが、アルカリ性土壌のため生育は遅く、酸っぱい実しかなりませんでした。小木娃はアルカリ性の土をいい土に入れ替えることにし、毎日籠で運んで砂浜に捨てました。母親も纏足(てんそく)の足で手伝いましたが、過労で倒れ、小木娃一人で行うことになりました。
ある日、小木娃は山梨の林で鷹に襲われていた白兎を助けました。白兎は珍しかったので、小木娃は飼うつもりで家に連れ帰りました。白兎は月の仙女の嫦娥に仕える玉兎(ぎょくと)でした。玉兎は夜明け前に帰らないと嫦娥に捨てられて苦水河(くすいが)で百年間苦しまなければならないので帰らせてほしい、と頼みました。優しい親子は白兎を帰してあげることにしました。白兎は、夜にあらゆる動物を呼び寄せられる自分の身体の毛を1本抜いて小木娃に渡し、月の宮の鴨梨の枝を折って接木をする方法を教えてから、白雲になって飛び去りました。
小木娃は玉兎の毛を使って動物達にアルカリ性の土とよい土を入れ替えさせました。そして十五夜の夜、小木娃は玉兎の毛を白雲に変え、月の宮で鴨梨の枝を折りました。すると、玉兎がやってきて雲の姿になって小木娃を乗せて下界に運んでくれました。月の宮へ出かけたのは去年の6月で、今は翌年の春でした。
小木娃は無事な姿を母親に見せるとすぐに接木の作業をしました。しばらくすると鴨梨が芽生えて生長し、小枝を伸ばしました。小木娃は小枝が出るたびに他の山梨に接木をし続け、5年ほどで見事な鴨梨の林ができました。
その後、美味しい鴨梨は滄州交河(そうしゅうこうが。河北の滄州地区)一帯で盛んに栽培されるようになりました。
益母草(やくもそう)
中国の民話。
母親と息子が二人きりで暮らしていました。母親は息子を出産した頃から体を壊していました。息子は親孝行な少年でしたので、母親が生活のために朝から晩まで糸を紡いでいる姿を見てとても心配していました。ある日、少年は薬草採りのところへ行き、母親の症状を話し、薬草を売ってくれるように頼みました。薬草採りは相手が子供なので金儲けをしようと思い、米4俵と銀10両を要求しました。少年は、払うあてはありませんでしたが、母親の病気が治ったら払うということで、翌日に薬を届けてもらうことにしました。
その後、少年は薬草採りのあとをこっそりとつけて行き、薬草採りの家のそばの大きな木に登って、薬草採りが起きるのを一睡もしないで待ちました。朝、薬草採りは誰にも見られないように注意しながら土手に上って薬草を採り、花と葉をちぎって川に捨ててから家に帰りました。薬草採りがいなくなると少年は土手に上りましたが、どの草が薬草なのかわからなかったので、川に入って薬草採りが捨てた花や葉を拾ってきました。葉は手のひらのような形をしていて、花の色はピンクや白でした。少年は同じ草を探し出して、根を掘り出して持ちかえりました。
母親は一晩中寝ないで息子の帰りを待っていたので少年に問いただしました。そこへ薬草採りが2包の生薬を持ってきて、1日に1包を煎じて飲むようにと言って帰りました。生薬は細かく刻んであったのでもとの形はわかりませんでしたが、匂いは少年の採ってきた草の根と同じでした。少年は、自分で採ってきた草の根を煎じて母親に飲ませました。母親の病気がよくなるのがわかると、少年は薬草採りに2包分のお金を渡してあとは払えないからとキャンセルしました。
少年は土手に通って薬草の根を掘って帰り、毎日煎じて母親に飲ませました。母親の病気はすっかりよくなり、畑仕事も出来るようになりました。少年は、「母」に「益」をもたらした薬草を「益母草」と名付けました。
北京の伝説「天壇の益母草」。
(金受申著・川瀬正三訳「北京の伝説」(角川選書)より要約)
昔、北京の天壇公園では益母草という薬草が栽培されていました。この草の若芽は龍鬚菜(ロンシュイツァイ)といい、野菜としても食べることができました。
昔、天壇が黄土の土地だった頃、張(チャン)という苗字の農民一家が住んでいましたが、父親が亡くなり、母親と17、8歳の娘が残されました。二人は人手もなく苦しい生活をおくっていましたが、とうとう母親は病気になってしまいました。張姑娘(チャンクーニャン。張という娘の意)は、母親の病気がよくならなかったので、北山の山奥に霊薬を探しに出かけました。
張姑娘は北山がどこにあるか知りませんでしたが、北の方角に歩いて行きました。何日か歩いたある日、張姑娘は両方から山が迫っている場所に出ました。すると、奥の方から白髭の老人が現れて言いました。
「あそこから登って、左へ七回曲がり、右へ八回曲がって進みなさい。お腹がすいたら松の実を食べ、喉が渇いたら泉の水を飲みなさい。地上天が見えれば霊薬が手に入りますよ。」
張姑娘が老人の言う通りに進んでいくと、何日かして小さい山の頂上に着きました。そこが地上天(地上の仙界)でした。二人の娘がやってきました。一人は真っ白な着物、もう一人は薄黄色の地に白い梅の花を刺繍した着物を着ていました。刺繍の着物を着た娘が張姑娘に霊薬の袋を渡し、白い着物の娘は、「霊薬の種も入っているので地面にまくように」と言いました。張姑娘はお礼を言って歩き出しましたが、振り返った時には、一羽の白い鸚鵡と一頭の梅花鹿(白いまだらのある鹿)が地上天の西の方角へ去っていくのが見えました。
張姑娘が持ち帰った霊薬を煎じて飲んだ母親の病気はよくなり、霊薬の種も芽を出して年々増えていきました。人々は張姑娘が母親の病気を治した草を益母草と名付けました。
やがて年月が過ぎ、皇帝が天壇に城を築くと、皇帝は天壇の野草を全部抜き取るように家来に命じました。しかし、自分の母親も妻も益母草の薬を飲んだことのある大臣が皇帝に言いました。
「これは龍鬚菜という野草です。陛下は龍です。もしあの草を全部抜いてしまったら陛下には鬚が生えなくなります。」
皇帝は鬚が生えないと困ると思い、天壇に益母草を残すことにしました。その時から益母草の若芽は龍鬚菜(りゅうのひげな)と呼ばれるようになりました。
(伝説では、益母草と龍鬚菜は同一の植物となっていますが、実際には別の植物です。益母草はヤクモソウですが、龍鬚菜は野生のアスパラガスを指しています。)
益母草の別名は、目弾(めはじき)といいます。子供達が、この植物の若い茎を短く切って目蓋にはりつけて目を閉じる勢いで遠くへ飛ばす遊びをしたことから名付けられました。
花言葉は、よき願い・憎悪
矢車菊(やぐるまぎく)
キク科セントウレア(ヤグルマギク)属の総称です。学名のセントウレアの名でよばれることもあります。矢車草(やぐるまそう)と呼ばれることもありますが、ユキノシタ科の植物に同名のものがあるので区別するために矢車菊と呼んだ方がいいそうです。
ドイツのお話。
プロシア(ドイツ)にナポレオンが侵攻してきた時、ルイーズ皇后は子供達を連れてベルリンから逃れて穀物畑に隠れました。皇后は畑に咲いていた矢車菊で花冠をつくって王子達を慰めました。この時の王子の一人が後のウィルヘルム皇帝で、ナポレオン3世を破り、矢車菊を皇室の紋章にしました。それで矢車菊は「カイゼル(皇帝)の花」と呼ばれるようになり、後に国花となりました。
ギリシャ神話のお話。
属名Centaureaは、ギリシャ神話の半身半馬(獣)のケンタウロス属の賢人ケイロンに由来しています。ギリシャ神話ではケイロンが矢車草の薬効を発見したことになっているそうです。
ヘラクレスはある時、猛毒のヒュドラの血が塗ってある毒矢で、誤って恩師のケイロンを射てしまいました。ヘラクレスはケイロンに手渡された矢車草で手当てをしましたがよくなりませんでした。不死身のケイロンは死ねずに苦しむばかりだったので、プロメテウスが変わりに不死身になり、ケイロンは死んで苦しみから逃れることが出来ました。
矢車草の花びらを傷口にふりかけるとケイロンが生き返ったという伝説もあるようです。
ギリシャ神話の別のお話。
学名Centaurea.cyanusのcyanusは、花の女神フローラ(クロリス)の崇拝者のチアヌス(キアヌス)に由来しているそうです。
コンスタンチノープルに住むチアヌスという少年は、毎日、花の女神フローラのために花を摘んで花輪を作り、祭壇に捧げていました。ところがある日のこと、チアヌスは、花輪にする花がみつからないので探しまわっているうちに道がわからなくなり、そのまま死んでしまいました。フローラは、若い崇拝者チアヌスの死を悼み、人々が彼のことを思い出せるように、彼が野原で摘んでいた花を「チアヌス」と名付けました。
また、フローラが少年を「チアヌス」の花に変えたという話もあります。
ドイツの民話「三位一体と呼ばれた矢車草」。
(日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より引用)
”これはオーバーファルツのケーニヒシュタインの話。
昔、人々は特に美しい矢車草を三位一体の花と呼んでいた。矢車草はこの地上で他に比べようもないほど、とてもいい香りがした。そのかぐわしさゆえに、人々が穀物畑でその花を摘み取ろうとして、実った作物を踏み倒した。
むかし、この花は話すこともできた。美しい矢車草がいった。
「聖なる三位一体よ! わたしからこのいい香りをとってください。そうすればわたしのせいで穀物を踏み倒されることもなくなるでしょう」
聖なる三位一体はいった。
「おまえには自惚れがないのだから、もう香らなくなるだろう。その代わり、われらの名前をつけてやろう」
それから人々はこの花を聖なる三位一体といっている。”
ロシアの寓話「矢車草」(クルイロフ寓話集)のお話。
茂みに花を咲かせていた矢車草が急に弱りはじめ、そよ風に訴えるように囁きました。
「早く太陽が昇って、この野原を照らしてくれたら、私もよみがえることでしょう。」
すると、カブト虫が矢車草のそばへ来て言いました。
「太陽は忙しいのですよ。太陽は立派な木々をあたため、美しく香り高い花を飾りたててくれます。お前は綺麗ではないし、香りもよくないのだから、太陽を苦しめるのはやめて、お祈りをして、しぼんでしまいなさい。」
しかし、太陽は昇り、世界を照らしました。そして、夜の間しぼんでいた矢車草も生き生きとよみがえりました。
太陽は草の葉にも杉の木にも同じような恵みを与え、喜びと幸福を残していくでしょう。それゆえに太陽の姿は誰しもの心に輝き、全てのものは太陽をほめたたえるのです。
「世界大百科事典」(株式会社日立システムアンドサービス)の記述によれば、青い花色に関しては、娘のペルセフォネを失ったデメテルが悲しみのあまり引き裂いた青い衣の断片からこの草が生じたためとする物語もあるそうです。
栽培の歴史は古く、3000年前のエジプトのツタンカーメン王の墓からも発見されています。手を触れるとばらばらに壊れてしまい、記録は写真だけですが、矢車菊の青い色は残っていたそうです。薬用として使われ、咳止め・美肌に利用されたそうです。
「矢車草」
(中原淳一著「花詩集」(国書刊行会)P.28より引用)
”昔或る所に大変我儘(わがまま)なお姫様がありました。王様のおっしゃることも、王妃様のおっしゃることもお聞きにならないで自分勝手なことばかりしていらしたのです。或る日のこといつもの様に我儘をおっしゃって体(からだ)一杯飾りちらし、野原へとお出かけになりました。丁度秋で百姓は今取り入れの一番忙しい時です。汗水流して働いていました。王女様は汚い百姓達の姿を如何にも軽蔑したように見下して見ていらっしゃるのです。ところが間もなく大雨が降り出しました。王女様は着物が濡れるのがお嫌なもので百姓達に今刈り取った稲の穂で小舎(こや)をこしらえさせ、雨宿りをなすったのです。しかし雨は一層激しくなり、雷さえも鳴り響きました。間もなく大きな音がしたと思うと小舎の真上に落雷し忽ち(たちまち)白い煙と共に小舎は消えてしまいました。姫も侍女も何処(どこ)に消えたか姿が見えません。まもなくその小舎の後から芥子(けし)と矢車草が生えて参りました。その様子が丁度お姫様に仕えている侍女の姿によく似ているので、きっと二人の記念(かたみ)の花に違いないと人々は申したといいます。”
英名は、コーンフラワーです。麦畑によく咲くことから名付けられました。
また、ヨーロッパでは、つぼみがボタンの形をしているので「独身者のボタン」とも呼ばれ、この花を独身者が襟元につける習慣があるそうです。
和名の「矢車菊」は、鯉のぼりの竿の先についている矢車に似ているところから名付けられました。
花言葉は、優雅・繊細な心・独身生活・デリカシー・幸福感
夜香花(やこうか)
ヤコウカCestrum nocturnumは、ナス科ケストルム(キチョウジ)属の常緑低木です。
別名は、ヤコウボク(夜香木)。
英名は、Night jessamine、Lady of the night
中国名は、夜香樹
スペイン名は、Dama de Noche(「夜の貴婦人」の意)
フィリピンの民話「ダマデノーチェ」
昔、ある所に大金持ちの男がいました。彼は大勢の友達に囲まれて、毎日ご馳走を食べてお酒を飲み、歌ったり踊ったりしてにぎやかに暮らしていました。何年かすると彼は、騒いだり着飾ったりする生活に飽きてきました。そして落ち着いた家庭生活を望み、理想通りのお嫁さんをもらいました。お嫁さんの名前はダマといい、美しく清らかな娘でした。ダマは夫を愛し、家をきれいにして、心のこもった料理をつくって夫の帰りを待ちました。ところが夫は、今度は静かな生活に飽きて、元の仲間の所へ出かけるようになり、帰りはいつも明け方になりました。ダマは涙を流すばかりでした。ダマは神様に、夫を引き止めておける力を授けてください、と祈りました。
夫は家に帰るとダマの姿を捜しましたが、ダマはどこにもいませんでした。不機嫌になった夫が寝室の扉を開けると、窓から甘い香りが漂ってきました。外には見たこともない木が生えており、星屑のような小さな花がたくさん咲いていました。夫は、その花がダマだと気付いてダマを放っておいたことを後悔しましたが、ダマは花に変わったままでした。
ダマデノーチェはフィリピンでよく知られている花です。昼間は香りもなく目立たない花ですが、夜になるとすばらしい香りを撒き散らします。「ダマデノーチェ」は「夜の貴婦人」の意味だそうです。
椰子(やし)
椰子の実(ココナツ)は飲食用、椰子の実の殻は容器、椰子の木は木材、椰子の葉はバスケットの材料などに利用されます。
椰子の実の表面には人の顔(眼と鼻と口)のような模様があります。
タヒチの椰子の起源神話。
月の女神ヒナはラケ・ヴァイヒラという王子と婚約していましたが、王子の正体が大うなぎ(うつぼ)だということを知って恐ろしくなり、マウイ神に助けを求めました。マウイは、うなぎを釣り上げ、切り身にしてパンの木の葉で包みました。そして、家に着くまではおろさないように言ってヒナに渡しました。ところがヒナは小川のほとりで休もうとして包みを地面に置いてしまいました。すると、そこから芽が出て椰子の木になりました。
ヒナは小川の持ち主の友人の神ルロアの二人の息子達と結婚して子供を産みました。ある日、椰子の実を持っていたヒナの二人の娘達を虹がさらっていき、ツアモツ諸島のアナア島に下ろしました。そのためアナア島でも椰子が実るようになりました。
メラネシアのニューヘブリデス諸島の椰子の起源神話。
タンガルアとセイマタは夫婦で、息子が一人いました。タンガルアがうなぎの化身だったので、村人は気味悪がってタンガルアを殺してしまいました。タンガルアは埋められましたが、彼の死体の両目から1本ずつ椰子の木が生えてきました。セイマタは息子にそのことを村人に話さないように言いましたが、息子は友達に話してしまいました。怒ったセイマタは椰子の木を抜いて粉々にしましたが、破片は風に乗って飛び散り、他の島にも椰子の木が生えるようになりました。
近隣のサモアにも同様の伝説があります。
ポリネシア文化センターではミュージカルとして上演されているそうです。
ハワイの神話と伝説。
マウイの兄達は釣りが上手でしたがマウイは上手ではなかったので、兄達はいつもマウイを馬鹿にしていました。ある日、マウイは兄達にカヌーを漕いでもらって釣りに出かけました。マウイは魔法の釣り針に神聖な餌をつけ、呪文を唱えて海に投げ入れました。大魚が針にかかると、マウイは兄達に絶対に後ろを振り向かずに岸までカヌーを漕いでくれるように頼みましたが、一人の兄が振り向いてしまいました。すると、その途端に釣り糸が切れて、大魚は島になってしまいました。
その島(あるいはその島のかけら)がハワイ島のヒロ湾にある椰子の茂っている「ココナツ・アイランド」になったといわれています。
パプアニューギニアの神話。
(マイケル・ジョーダン著・松浦俊輔他訳「世界の神話」(青土社)より引用)
”大地がまだ造られる前の頃、一匹の亀が原始の海の中を泳いでいる。しかし次第に疲れてきたので、海の底の砂を盛り始め、水面に突き出るまで続ける。十分な大地ができあがると、浜辺の穴の中に卵を生みつけ、このうちの二つがかえって、最初の人間ケレマ=アポとイヴィ=アポが生まれる。三つ目と四つ目の卵からはココ椰子の木が生まれ、残りの卵からは地上に生きる他の動物や植物のすべてが生まれる。”
フィリピンの伝説。
昔、一人の若者が、いくさの帰りに立ち寄った島で、一人の娘に出会い恋をしました。そして、満月の夜ごとに、こっそり船に乗って通ううち、とうとう村人に見つかって殺されてしまいました。村の広場にかかげられた若者の首を、娘は思い出の海岸にそっと埋めました。するとそこに一本の木が生えてきて、人間の頭ほどの実をつけました。娘が髪の毛のような繊維でできた皮を取り除いてみると、そこに、なつかしい若者の面影が刻み込まれていました。
インドでは、人間に愛想を尽かした神が、あたらしい人間をつくろうとして、頭までつくって投げ捨てたものがココヤシの実になったと伝えられています。この伝説から、今でもココヤシを食べない人がいるそうです。
「ピファーヨの祭り」(すずきともこ著「アンデスの祭り」(千早書房)より引用)
”ペルーのアマゾン地域にはピファーヨという小さな実が房になるヤシがある。ペルー北部にすむボラ族は、その実が赤く熟れる二月から三月の雨期にヤシの実の祭りをする。
(中略)
ピファーヨには、ボラ族のこんな言い伝えがある。
「昔々、地上に初めて生まれたボラの男が水の世界の娘と結婚した。男が娘に連れられて水の世界へ行くと、ピファーヨの木が植えてあった。それを気に入った男が神に願うと一粒の実が転がってきた。男はそれを丸呑みにして持ち帰り、種は地上で発芽して木になった。
ところが、実が盗まれたことを知り怒った水の主は、洪水をおこしてブフルキ(魚)を地上に送り、木をすべてかじらせてしまう。男は一本の根をかじっている逃げ遅れたブフルキを捕まえ、これを植えて育たなかったら殺してくれというブフルキの頼みを聞き入れてその根を植えると、また木になり実をつけた。
水の世界の主は再び怒り、今度は大蛇を送った。男はピファーヨの木を引き抜き、引きずりながら森の中を走って逃げた。そのときの蛇行の跡がアマゾンの支流の大きな川になった。男は木を立て、吹き矢で幹に棘を刺した。大蛇が来たときにはもう木は棘だらけで持って帰れなくなっていた。こうしてピファーヨは地上の世界に育つようになり、その幹は今でも棘だらけなのである」
ピファーヨの祭りは、地上にピファーヨの実をもたらしてくれた神さまとボラの男、ブフルキに感謝する祭りなのだという。”
(ピファーヨの学名等は不明です。ご存知の方は是非掲示板でお知らせください。)
島崎藤村が友人の柳田国男から椰子の実が漂着した話を聞いてつくった童謡「椰子の実」によって、ココナツは漂着果実として広く知られるようになりました。愛知県の伊良湖(いらご)岬には藤村の詩碑があります。
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷の岸を離れて 汝はそも波に幾月
旧(もと)の樹(き)は生いや茂れる 枝はなお影をやなせる
我もまた渚を枕 独り寝の浮き寝の旅ぞ
実を取りて胸にあつれば はるかなり流離の憂い
海に日の沈むを見れば 激り落つ(たぎりおつ)異郷の涙
思いやる八重の汐ゝ いずれの日にか故郷(くに)に帰らん
「花物語」には、棗椰子(なつめやし)やパーム椰子の項目もあります。
花言葉は、勝利
ヤチダモ
ヤチダモはモクセイ科トネリコ属の樹木で、北海道、本州(中部以北)に自生し、樹高25m、直径1mにも達します。
アイヌの人達は人間の役に立つものを神から与えられたもの、神そのものだと考えました。アイヌの人達は、樹木を「木の神の肉」と考え、人間の役に立った木の神は霊となって神の国へいくと考えていました。
「アイヌの神謡」
国造りの神の弟のポンオキクルミ(若いオキクルミ)が伐採道具を持って、私(ヤチダモの木の神)の所へやってきました。ポンオキクルミは私を舟にしたいらしく、「切りやすいように固い肉を引っ込めて柔らかい肉を出して欲しい。」と私に頼みましたが、私の悪口を言ったので、わざと固い肉を出して刃こぼれを起こさせました。
次に、国造りの神がやってきて「よい舟をつくって、お土産を持ってお礼に参りますので切らせてください。」と丁重に私に頼んだので、気をよくした私は柔らかい肉を出してあげました。国造りの神は約束通り、たくさんのお礼の品や言葉を私にくれましたので、私は重要な神となることができました。
と、ヤチダモの木の神が語りました。
ヤチダモと雪虫。
晩秋の北海道では「雪虫が飛ぶと、雪が降る前触れ」だそうです。雪虫は、小さな体が白い綿毛のようなロウ物質で覆われていて、ふわふわと風で雪が舞うように飛びまわり、ヤチダモを目指します。
この雪虫は、可愛らしい名前とは裏腹にトド松やヤチダモに寄生する害虫で、正式名をトドノネオオワタムシといいます。トドノネオオワタムシはアブラムシの仲間で、夏はトド松の木、冬はヤチダモの木で生活します。
「花物語」の桂(かつら)の項目にもヤチダモが登場するお話があります。
宿木・寄生木・冬青(やどりぎ)
北欧神話のお話。
女神フリッガは、息子である善の神バルドルに、四大元素(土・水・火・空気)からの危害を一切受けない魔力を与えました。そのおかげでバルドルは傷つけられることがありませんでした。そのことを面白く思わなかった悪の神ロキは、バルドルの弱点を教えてもらおうとフリッガに近付きました。そして四大元素のいずれからも育っていないヤドリギ(ミスルトー)でバルドルを傷つけられることを聞き出しました。
ロキはヤドリギの矢をつくり、盲目のホズルに持たせました。ホズルはロキに巧みに騙されて、バルドルにヤドリギの矢を投げつけてしまいました。ヤドリギの矢はバルドルの心臓を射抜き、不死身と思われたバルドルは死んでしまいました。
フリッガは息子の死に涙を流しました。こぼれ落ちた彼女の涙は、ヤドリギの白い実にかわりました。それを見た神々はフリッガを哀れに思い、バルドルを生き返らせました。フリッガは、ヤドリギの下を通る人達にキスを贈って感謝の意をあらわしました。
ロキは逃げましたが、結局つかまって罰を受けました。
この古い物語から、欧米ではクリスマスに、「ヤドリギの下のキス」といって、ヤドリギを飾ってある下では女が男に接吻の特権を与えるという風習があります。また、ヤドリギの実を、キスの度に1つずつ取り、それが無くなるとその特権は消えるという風習のところもあるそうです。
ギリシャ神話のお話
クレタ島の王ミノスの息子グラコウスは、小さい時に庭でこま回しをして遊んでいるうちに、中庭に埋めてあった蜜壺の中に落ちてしまいました。グラコウスがいなくなったことに気付いた人々があちこち探しましたが見つかりませんでした。ミノスは占師ポリュエイドスに占ってもらい、グラコウスを見つけましたが、既に死んでいました。ミノスはポリュエイドスに息子を生き返らせてくれと頼み、彼を息子の墓の中に一緒に閉じ込めました。
途方にくれているポリュエイドスに蛇が襲いかかってきました。ポリュエイドスが蛇を殺すと、仲間の蛇が現れましたが、仲間が死んでいるのを見てどこかへ行ってしまいました。やがて仲間の蛇は草を持って戻ってくると、その草で死んだ蛇の身体をさすりました。すると死んだ蛇が行き返り、2匹の蛇は一緒にどこかへ行ってしまいました。ポリュエイドスは蛇が使った草を探し出し、グラコウスの身体をその草でさすりました。こうしてグラコウスは生き返り、ポリュエイドスは墓から出ることができました。
この草が何であるかについてはいろいろ議論があります。ギョウジャニンニクやスイカズラ(忍冬)だという人もいますが、ギリシャ人はヤドリギに深い信仰心を持っていることから、ヤドリギであるという説が有力です。
「ヤドリギの自殺」
ヤドリギは雌雄異株の常緑寄生低木です。熱帯地方に多いのですが、日本にも全国に広く分布しています。
ヤドリギは、他の植物に寄生し、寄生した植物より栄養分を取って成長する木です。日本では、落葉広葉樹のエノキ、栗、ブナ、ミズナラ、桜などに寄生します。ヤドリギは、自分でも葉緑素を持っているので炭水化物を生産できるため、寄生の程度は弱く、特に日本に生息するヤドリギは、宿主を枯らしてしまうことはありません。
しかし,熱帯産のヤドリギやヨーロッパやアメリカのヤドリギは、宿主の水分や養分をすっかり吸いとってしまうため、時々宿主の植物を枯死させてしまいます。宿主が枯れるとヤドリギも枯れてしまうので、そのことを「ヤドリギの自殺」と言うそうです。
ヨーロッパでは古代から柏の木を雷神の木として神聖視してきました。
スイスでは、柏の木に生えたヤドリギを「雷のほうき」といい、雷によって生じたと信じられていました。
ボヘミアでは、ヤドリギを火で焼くと、落雷から家を守ることができると信じられていました。
スウェーデンでは、ヤドリギを火事よけのおまじないに用いていました。
ドイツでは、「ヤドリギの枝を持って古い家にはいるとそこに住んでいた幽霊が出てきてトラブルが起こるが、持ち主が幽霊にクイズを出して返事をしろと言うと退散する」とか「ヤドリギを輪にした物を、持って古い家などに入ると、そこに住んでいる幽霊を見ることが出来るだけでなく、幽霊にものを言わせることが出来る」などという言い伝えもあるようです。
宗教的にも重要な役割をはたしているヤドリギですが、古くから薬用にも用いられていました。効能は、枝葉を鎖痛・通経・利尿・高血圧・動脈硬化・てんかん等の薬に用います。漢方では、生薬名を「桑寄生」といいます。また、実はトリモチの代用にもなるそうです。
中国の民話(安徽省)。
昔、あるお金持ちの息子がリュウマチに罹り、長年寝たきりの生活を送っていました。お金持ちは村から10km離れた南山という山に薬農がいることを聞いて、息子に飲ませる薬を処方してもらい、下働きの少年を一日置きに薬をとりに南山へ行かせました。しかし、お金持ちの息子の病気はよくなる兆しは全くみえませんでした。
その年の冬は雪が多く、貧乏な下働きの少年は薄着で震えながら薬を持ち帰るために10kmの道を往復していました。ある日、下働きの少年は村外れで古い桑の木の幹にできた穴の中から細い枝がたくさん出ているのに気付きました。その枝が自分の持ち帰る薬にそっくりだったので、少年はその枝を細かく刻んで薬のかわりに紙に包んで持ち帰ることにしました。薬を飲んでも治らないのだからそれでもいいだろうと考えたのでした。お金持ちは何も知らずに一日置きに少年の持ち帰る紙包みの中味を薬だと信じて息子に飲ませ続けました。
春がきて雪がとけた頃、お金持ちの息子は快方に向っていました。南山の薬農はその噂を聞き、冬中薬を取りに来なかったのによくなったことを不思議に思い、村へやってきました。下働きの少年は薬農に自分のしたことを白状し、薬農はお金持ちには内緒にしてあげました。そして、薬農は少年から桑の木に寄生している枝の話を聞いて試してみたところ、リュウマチの患者に効果がありました。その枝が「桑」の木に「寄生」していたので、その枝は後に桑寄生と名付けられました。
西村佑子著「魔女の薬草箱」(山と渓谷社)より引用。
”ヤドリギはもともとはちゃんとした独立した樹だったのだが、キリストを磔(はりつけ)にした十字架に使われて、そのことを恥じ、身を縮めているうちに独り立ちできず寄生するようになったという伝説があるそうだ。”
花言葉は、征服・困難に打ち勝つ
柳(やなぎ)
ギリシャ神話のお話。
オデュッセウスと部下達は、視力を失った一つ目の巨人ポリュペモスの洞窟の中に閉じ込められていました。オデュッセウスは、ポリュペモスから部下達を逃がすために、羊を3頭ずつ並べて柳の枝で縛り付け、真中の1頭の腹に部下達を一人ずつぶら下がらせました。朝になるとポリュペモスは、羊の背中を1頭ずつ触りながら牧場へ送り出しましたが、羊の腹までは触りませんでした。そのおかげで一行は無事に海岸にたどり着き、船で逃げることが出来ました。
アイルランドの神話伝説。
(このお話はギリシャ神話のミダス王のお話とよく似ています。)
マオン王は一年に一度だけ自分の髪を切る者をくじで選びました。マオン王の耳は馬の耳のように長く、その秘密を隠すために、選ばれた者は散髪が終るとすぐに殺されました。
ある時、くじで選ばれた男は貧しい寡婦の一人息子でした。寡婦はマオン王に「風と太陽に誓って息子に秘密を口外させない」と誓い、息子の命を助けてくれるように懇願しました。マオン王は寡婦の願いを聞き入れました。しかし、寡婦の息子は秘密を隠している辛さから重病になり、明日をも知れない状態になりました。息子はドルイド僧に教えられて柳の木に秘密を囁くと、病気はすっかりよくなりました。
間もなくして、竪琴ひきのクラフチニの竪琴が壊れました。クラフチニは王の秘密が囁かれた柳の木で新しい竪琴をつくりました。クラフチニが竪琴をひくと、「マオン王は馬のような耳をもっている」という声が流れました。王は秘密がばれたことを知り、頭巾をぬいで秘密を発表しました。そのため、毎年一人ずつ殺されることはなくなりました。
イングランドの民謡「苦いヤナギThe Bitter Withy」のお話。
ある日、少年のイエス・キリストはボール遊びをするために外へ出かけました。キリストは3人の高貴な生まれの子供達を遊びに誘いましたが、彼らは身分の低い子供とは遊べない、と断りました。そこで、キリストは太陽の光で川に橋を架けて、その上を渡って見せました。3人はキリストの後を追いましたが、光の橋は彼らを支えてはくれず、川に落ちて溺れ死んでしまいました。3人の子供の母親達は悲しんで聖母マリアに訴えました。
そこでマリアは息子を家に連れ帰り、膝の上に抑えつけて、手に一杯持ったヤナギの枝で息子を3度打ちました。そのためキリストは、「ああ、苦いヤナギよ、苦いヤナギよ、お前は私を痛めた。お前は一番最初に芯が腐る木になるがいい。」とヤナギの木を呪いました。それ以来、ヤナギの木は早期に腐敗して中空になるようになりました。
アイヌのお話。
天に住むカンナカムイ(雷神)の妹は退屈しのぎに沙流(さる)川と鵡(む)川の水源地の辺りに降り立ちました。ところが川下の集落には煙のたなびいている家が一軒もありませんでした。人が生活していれば火を使うはずなのに、と不思議に思ったカンナカムイの妹は様子をみることにしました。すると人々が飢饉に苦しんでいることがわかりました。カンナカムイの妹は天に助けを求めました。
天の神々は梟(ふくろう)の女神を地上に送ることにしました。梟の女神は柳の枝を杖にして、魂を背負って地上に舞い降りました。沙流川の水はきれいだけど男川で気が荒いので、女川の鵡川に柳の葉を流すことにしました。梟の女神が魂を入れた柳の葉を流すと、ススハム(柳の葉の魚)になって泳ぎ出しました。この魚が柳葉魚(ししゃも)です。柳葉魚によって飢饉は去りました。
しかし、梟の女神があまり急いで天から降りたために柳の枝の半分が風にあおられて八雲の遊楽部川に落ちてしまい、魂がないために腐りかけていました。雷神が遊楽部川の神に言いつけて急いで魂を入れさせたので、遊楽部川にも柳葉魚が泳ぐようになりました。
アイヌの柳葉魚の伝説はいくつかあるようなので追加しておきます。
昔、アイヌに病気の親と親孝行の子供がいました。子供は病気の親に魚を食べさせたいと思っていましたが魚がなかなか獲れませんでした。そこで子供は神に祈りました。すると川岸の柳の葉が川に落ちて魚になったので、子供はそれを獲って親に食べさせることが出来ました。
天上の島に、川岸に柳の木だけが生えている、ススランベツ(柳をおろす川)という名前の大きな川がありました。ある年、その柳の葉が1枚、鵡川の上の舞い落ちてしまいました。天上の神様は、天上の木の葉が地上で腐ってしまうのを可哀想に思い、その柳の葉に命を与えて柳葉魚にしました。それからは毎年、柳の葉の散る頃になると、鵡川に柳葉魚が上がってくるようになりました。
釆女(うねめ)物語。
この伝説は、万葉集第十六巻の安積采女の歌物語を題材にしています。
昔、安積の里の山ノ井に、笛の名人の小糠治郎と、その許婚の春姫が住んでいました。二人は相思相愛の仲でした。ある時、安積の里に冷害が続いたため、里人は朝廷への貢物を出すことが出来ませんでした。そのため都から奥州巡察使として葛城王(かつらぎのおおきみ。後の橘諸兄)が派遣されてきました。里人は窮状を訴えて年貢を免除してくれるように頼みましたが聞いてもらえませんでした。
その日に催された宴で、里長の娘の春姫が王に接待役を命じられました。春姫は和歌を詠んで年貢の免除を頼みました。王は春姫の機知に富んだ応対に満足し、春姫が宮廷の釆女(女官)として参内(さんだい)することを条件に年貢を3年間免除する約束をしました。
春姫を失った治郎は悲しみ、夜毎笛を吹いて愛しい春姫を思い続けていました。しかし、治郎は悲しみに耐え切れず、とうとう山ノ井の清水に身を投げてしまいました。
一方春姫は帝の寵愛を受けて華やかに暮らしてはいましたが、いつも治郎のことを思い続けていました。そして中秋の名月の宴の賑わいに紛れて逃げることにしました。春姫は猿沢池のほとりの柳の木に十二単を掛けて入水自殺を装い、安積の里へ走り出しました。春姫が死んだと思い込んだ帝はとても嘆きました。そして春姫のために祠(ほこら)をつくり、和歌を詠んで供養しました。
里に戻った春姫は治郎が死んだことを知り、治郎の跡を追って山ノ井の清水に身を投げました。里人は小さな塚を建てて釆女塚と名付けました。
「梟の神が自ら歌った謡」(「アイヌ神謡集」より)
人間達が腐れ木でつくったイサパキクニ(鮭を捕った時に頭を叩く棒)で魚の頭を叩いて殺すので、魚達は腐れ木をくわえて魚の神のもとへ帰りました。怒った魚の神は人間達に魚を出すのをやめました。人間達は反省し、毎年、鮭漁のたびに柳で美しいイサパキクニを作り、使い終わった後は祭壇に納めました。魚達は美しいイナウ(木幣)をくわえて神のもとへ帰るようになり、喜んだ魚の神が魚をたくさん出したので餓死する者がいなくなりました。
十勝の芽室に伝わるアイヌの神謡。
大神(狼)は鹿を獲って飽食すると仲間に知らせる呼び声を出します。その声を聞いて人間は「神様が呼んでいる」といって、荷縄を持って食べ残しの肉をもらいに行きました。狼仲間にしてみれば食糧を横取りされるわけですから獲物を渡さないこともありました。
私(大神)の話をお聞きなさい。
私が海岸に行って鯨を半分背負って帰る途中で、人間の男が来て「肉を一切れ欲しい」と言った。私は渡したくなかったので聞こえないふりをした。すると男は、「お前の心はわかった。これからお前が柳の木の所を通れば気分が悪くなり、榛の木(はんのき)の所を通れば体が弱り、背負った肉は溶けるようになるだろう。」
私は信じなかったが、男の言ったことは本当だった。文化神が私の心を試したと気付いた時には遅く、私は弱って死んでしまった。だから心は美しくあるべきだよ。
能曲「遊行(ゆぎょう)柳」のお話。
遊行上人(しょうにん)が奥州の白河の関を越えたところに老人が現れて、上人を古道と朽木(くちき)の柳のもとに案内しました。老人は朽木の柳が名木になったいわれを話しました。昔、西行法師が奥州行脚(あんぎゃ)の途中にここで休憩し、「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」という有名な和歌を詠んだ木であるとのことでした。老人は上人から十念を授かると消えてしまいました。
夜、上人が念仏を唱えていると、朽木の柳の精が現れて、上人に授かった十念のおかげで成仏できると喜び、柳の故事を謡い、舞を舞って見せました。やがて夜が明けると、そこには朽木だけが残っていました。
また紀元前の仏典には釈尊が柳の楊枝を噛んで歯痛を直したという記録があるそうです。バイエル社は、柳の樹皮から発見された成分を改良してアスピリンをつくりましたが、効能は当時から知られていたのでしょう。
「やなぎ」には「柳」と「楊」の二つの漢字があります。「柳」はヤナギ科の植物の総称、又は葉が細くて枝の垂れるヤナギ科の植物を指し、「楊」は葉が丸く枝が上をむいているネコヤナギやポプラなどのヤナギ科の植物を指しているそうです。
戦国策のお話「植えるのがむずかしい」
(劉向編・後藤基巳訳「戦国策(魏・哀王)」より引用)
”田需(でんじゅ)は魏王から重んじられていたが、それを見て恵施は言った。
「あなたはぜひ王のおそばの人たちによくしておきなさい。たとえば、あの楊(やなぎ)というものは、横にして植えても根づき、さかさに植えても根づき、折って植えてさえ根づきます。けれども十人に楊を植えさせ一人に抜かせれば、根づく楊はありますまい。では十人もの大勢で根づきやすいものを植えながら、しかも一人にかなわないのはなぜでしょう。植えるのがむずかしく、除くのはやさしいことだからです。さて、あなたはご自分を王に植えつけはなさったけれど、もしあなたを除こうとする者が多ければ、あなたの地位もきっと危うくなりますよ」”
朝鮮の民話「孝行娘と天からの使者」
昔、あるところにヨニという名の美しい娘が意地悪な継母と一緒に暮らしていました。ある冬の日、継母はヨニに山の青菜を採ってくるように言いました。ヨニは山に行き、雪をかき分けて青菜を探しましたが1本もありませんでした。困ったヨニは夜明かしできる場所を探すうちに、山奥で大きな岩穴を見つけました。ヨニがその石門にさわると門が開きました。中は別世界でした。そこは暖かく、花が咲き、小鳥が歌っていました。一人の少年が青菜を摘んでヨニに差し出して言いました。
「私の名前は楊の葉です。今度私を訪ねて来るときは石門の外で、『枝垂れ楊、楊の葉よ、ヨニが来たから門を開けておくれ』と言って下さい。」
それから楊の葉はヨニに白と赤と青の瓶を渡して言いました。
「白い瓶の薬を骨になった人の上にまけば骨に肉がつきます。次に赤い瓶の薬をまけば血が巡ります。最後に青い瓶の薬をまけば生き返ります。」
ヨニが青菜を摘んできたのを見て驚いた継母は、翌日もヨニを青菜摘みに行かせましたが、ヨニはまた青菜を摘んで戻ってきました。不思議に思った継母はヨニを青菜摘みに行かせて、そのあとをつけて行きました。そして、ヨニが「枝垂れ楊、楊の葉よ、ヨニが来たから門を開けておくれ」と言って少年に迎えられて門の中に入り、青菜を持って出てくるのを見てしまいました。
翌日、継母は少年を訪ねて行き、石門の外で「枝垂れ楊、楊の葉よ、ヨニが来たから門を開けておくれ」と言いました。そして、ヨニを迎えに出てきた少年を殺して死体を焼いてしまいました。それから継母は家に戻ってヨニに青菜を摘んでくるように言いました。
ヨニは石門の外で「枝垂れ楊、楊の葉よ、ヨニが来たから門を開けておくれ」と言いましたが返事がありません。ヨニが自分で石門を押して中に入ってみると、楊の葉が骨になって倒れていました。ヨニは楊の葉のくれた白い瓶の薬をまきました。骨の上に肉がついて生前と同じ身体になりました。次に赤い瓶の薬をまくと、楊の葉の身体に血が巡りました。最後に青い瓶の薬をまくと楊の葉は生き返りました。楊の葉はヨニの手をとって言いました。
「私は天上で雨を降らせる仙官でしたが、上帝の命令であなたを助けるために地上に降りてきました。あなたは私の花嫁になるのです。」
二人は虹に乗って天に昇っていきました。
蒲松齢著「聊斎志異」(巻4)のお話「楊柳(やなぎ)と飛蝗(バッタ)」。
明代の末、山東省の中央部にバッタが発生し、沂(ぎ)州に集まってきたので、沂州の知事は蝗害(こうがい)を心配していました。ある時、知事は役所の私室で夢をみました。高い冠をかぶって緑色の服を着た男が知事を尋ねてきて、知事に蝗害を防ぐ策を授けました。
「明日、西南の道を腹の大きな牝のロバに乗った婦人が通ります。それはバッタの神なので、泣きついて頼めば害を免れることが出来るでしょう。」
翌日、知事はその婦人を丁寧に迎え、沂州が蝗害にあわないように懇願しました。婦人は「私の秘密を話した男には災いを受けさせましょう。田んぼの稲をいためなければいいのだから。」と言い、出された盃を3杯受け取ると姿を消しました。
やがて、バッタの大群が飛んできましたが、田んぼの稲には降りずに、楊柳に集中し、楊柳の葉は全てなくなってしまいました。夢の男は楊柳の神で、人民のことを心配した知事に感動して、自分が犠牲になって沂州を救ったのでした。
兵庫県の民話「味噌長者と柳の木」
昔、兵庫の宿(しゅく。神戸市兵庫区)の町外れに1本の大きな柳の木がありました。その柳の木の下にみすぼらしい格好の夫婦がほったて小屋をたてて住み着きました。夫婦はわらじを売って貧乏暮らしを何年も続けました。ある年の大晦日の日、一人のお坊さんが泊めてほしいと頼んだので、ご馳走も余分の布団もない小屋に泊めてあげました。夫婦は、ありったけのたきぎで火を燃やし、いも粥を出しました。翌朝、お坊さんは二人にお礼を言うと、小屋の軒下の古いカメの周りを回って念仏を唱えてどこかへ行きました。いつの間にかカメには味噌が詰まっており、しゃもじが添えてありました。香ばしい味噌は、いくらすくっても尽きることがありませんでした。二人は毎日味噌を売って暮らすようになり、やがて立派な店と屋敷を建て、味噌長者と呼ばれるようになりました。
兵庫駅の東側の東柳原が、昔、味噌長者のいた柳の木のあった所だと言われています。この地方では、味噌を売る店では味噌長者にあやかるために、しゃもじの看板をかかげる習慣があったそうです。
花言葉は、わが胸の悲しみ・愛の悲しみ・自由・従順・素直
山芋(やまいも・やまのいも)
オセアニア伝説「ヤマノイモと鳶の喧嘩」
(近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)
”むかし、オセアニア地方のある所に、あるヤマノイモが生えていた。いつも自分の身の上を託(かこ)って、自分たちは年がら年中、暗いところに埋められていて、ちっとも陽の目を見ないばかりか、一歩も歩くことはむろんのこと、身動きさえ許されない。それに比べると空飛ぶ鳶はどうか。大きな強い翼で思う存分大空を駆け廻り、思うままに振舞うことができるではないか。思えば神さまはずい分不公平である。
それでもまだ、そう嘆いている中はよかったが、ついには鳶が羨ましくなり、はては憎らしくさえなってきて、さんざん鳶の悪口を喚き散らした。それを聞いた鳶は怒って、何をヤマノイモの分際で生意気なと、怒りに任せてヤマノイモを地中から引き抜くと空中高くへ舞上った。
しかしヤマノイモは至って銜(くわ)えにくい上、芋がしきりにもがくので、思わず地上へ落としてしまった。ところが地に落ちたヤマノイモは二つに割れて、それがそれぞれ根づいて、二様の芋となった。この二つの芋はもともと同じ根から生まれたのだが、一つは甘い芋に、他は苦い芋となった。だからヤマノイモには今日でも、甘いのと苦いのがあるのだといわれている。(『新大陸の神話』)”
漢方では山薬(さんやく)と呼ばれ、滋養・強壮に用いられます。
中国の民話(河南省)。
昔、隣り合う2つの国が戦いを始めました。弱い国は強国に破れ、ほとんどの土地を強国に占領されてしまいましたが、弱国の中の数千人の最強の部隊は投降を拒んで西側の大きな山に逃げました。強国はその部隊を攻めようとしましたが、守りやすく攻めにくい土地であったため、兵糧(ひょうろう)攻めにして山上軍の投降を待つことにしました。
ところが、山上軍は全く投降してくる気配がありません。8ヶ月もすると、強国軍は山上軍に餓死者がたくさん出た頃だと思い、戦わずして勝利を得た喜びを連日祝い続けました。そんなある夜、山上軍は一気に強国軍を襲いました。強国軍の将軍は逃亡し、混乱した強国軍の兵士達は次々に山上軍に倒されていきました。そして、弱国は失った土地を取り戻して平和な国に戻りました。
山上軍が兵糧攻めに対抗することができたのはある植物のおかげでした。その植物は山のあちこちに生えており、夏には白や薄緑色の花を咲かせ、地下には長い棒状の根茎を持っていました。兵士達はその植物の根茎を食べ、馬達はその植物の藤状の葉を食べて飢えをしのぎ、反撃の機会を狙っていたのでした。彼らは、山の中で最も困難な時期に遭遇したという意味でその植物を「山遇」と名付けました。しかし、後に健脾や止瀉の効果があることがわかり、「山薬」と呼ばれるようになりました。
『和漢三才図会』には、「ヤマノイモは渓(たに)の辺りに端を出し、時どきは風水に感応して鰻に変化する。半分鰻に変わっているのを見た人は往々にある。」という記述があります。また、松浦静山著『甲子夜話(かつしやわ)』(巻71)にも、「ヤマノイモの根が岸下に出て流れに浸ったところが半分ほど鰻に変化していた。」という記述があるそうです。
末広恭雄著「魚と伝説」(新潮社)より孫引き引用・要約。
”「俳優茶話」のお話。
甚六という役者が遠州(静岡県)の島田の在で興行して、しばらくそこへ滞在していました。ある日、甚六は筏(いかだ)乗りの三吉から、「大井川の川上で、山芋が半分鰻になり、その鰻になった部分が岩の間から大井川に体を乗り出して泳いでいる。」という話を聞きました。甚六がその場所へ行ってみると、本当に山芋が半分鰻になって泳いでいました。甚六は早速、江戸にいる家元の三九郎という興行師に手紙を書き、鰻になりかかった山芋を岩ごと掘り出し、飛脚を使って江戸に届けさせました。手紙を受け取った三九郎は見世物にしようと待ち構えていましたが、送られて来た荷物は単なる山芋でした。
「醒酔笑(自堕落)」のお話。
ある寺に仏教を深く修めて、檀家からも尊敬されている住職がいました。ところが、この住職は鰻が大好物だったので、時々、密かに鰻を買い求めて料理して食べていました。ある日、住職が大きな鰻をまな板にのせて切ろうとしている時に突然、檀家の人が訪れて来ました。住職は驚きましたが、次のように言いました。
「世界みな不思議を以って建立す。『山の芋が鰻になる』と人が言うのは虚説であろうと疑っておりましたが、これを御覧ください。山芋汁を食べようと思って取り寄せておいたところ、みるみるうちにこうなってしまいました。」
鰻は7、8年を川や沼で過ごしてから、遥か南の赤道付近の深海で産卵する習性があるために、アリストテレスは自著に「鰻は泥より生ず」と書き、日本では「山芋変じて鰻となる」と言われたようです。”
「花物語」には、長芋(ながいも)の項目もあります。
ヤマノイモの花言葉は、気長
山鳴らし(やまならし)
ヤマナラシPopulus tremula var. sieboldiiは、ヤナギ科ハコヤナギ属の落葉高木です。
風が吹くと葉が揺れてぶつかりあって音をたてます。山にこの木が多いと、山全体が鳴っているように感じるところから、ヤマナラシと名付けられました。
別名は、ハコヤナギ(箱柳)です。
材が柔らかく、箱材・マッチの軸木・パルプ材等に使われたことから名付けられました。。
ドイツの民話「ヤマナラシがいつもゆれているわけ」。
(日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より引用)
”あるとき、キリストが病人を治しながら山や谷を旅していて、ある森を通っていた。木々はキリストに気がつくと、地面まで深くお辞儀をした。ただヨーロッパヤマナラシだけは、まっすぐ立ったままだった。そのときキリストがいった。
「おまえはこれから永遠に枝という枝を動かし、おだやかな風の中でもおまえの葉は安らぐことがないだろう」
それからというもの、ヤマナラシは安らぐことがなく、いまにいたるまでいつでも葉がさやさやと動いている。”
ドイツの民話「ヤマナラシとハシバミ」。
(日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より引用)
”聖家族がエジプトへの逃避行の途中に、ヤマナラシの木に援助と保護を求めたが、ヤマナラシはヘロデの民を恐れて断ったという。そのとき、マリア様はいった。
「おまえはそうやってこの世の終わりまで震えて、怖がって祈っていなさい」
そのあと聖家族はハシバミの木の下に隠れた。そこで、ハシバミは稲妻のときも安全で、愛らしい実をつけれうのだ。”
山吹(やまぶき)
越生町の山吹伝説
太田道灌(どうかん)が武蔵野に鷹狩りに出かけた時、にわか雨が降ってきました。道灌は近くにあった粗末な家で、雨具を貸してほしいと頼みました。家の中から出てきた少女は何も語らずに山吹を一枝差し出しました。意味がわからなかった道灌は怒って雨の中を帰りました。
少女は蓑ひとつない貧しさを、後拾遺集に醍醐天皇の皇子・中務卿兼明親王が詠んだ「七重八重 花は咲けども 山吹の 実の(蓑)ひとつだに なきぞかなしき」という和歌にたくして詫びようとしたのでした。そのことを人から教えられた道灌は、自分が風流を解さなかったことを恥じ入り、それからは武道だけでなく和歌の道にも励むようになりました。
山吹伝説は埼玉県の越生町のものが有名ですが、他にも各地に残っています。東京都豊島区高田、東京都荒川区町屋、神奈川県横浜市六浦などにもあります。高田では、少女の名は紅皿(べにざら)といい、後に江戸城に呼んで和歌を詠みあったという話や道灌の死後に尼となったという話が伝えられています。紅皿の碑も残っているそうです。
昭和8年、埼玉県の越生町の山吹の里では、八高線開通の記念行事として越生の歌をつくることにしました。依頼を受けた野口雨情は「山吹の里」と「越生小唄」をつくりました。
「山吹の里」
一、八重に七重に山吹の 花は咲いても実はならぬ あの歌は オヤ あの歌は
二、雨は篠つく武蔵野の 賤の乙女も山吹の 花が咲く オヤ 花が咲く
三、見ればなつかしその頃の 賤の乙女も山吹の しのばれる オヤ しのばれる
四、太田道灌山吹の 里というのは越生町 見においで オヤ 見においで
「越生小唄」
一、歌にゆかしいあの山吹の あの山吹の 里よ武蔵の ありゃ 越生町
*オヤ 七重一重に越生の山吹 黄金に咲きます いとしやこの花
ソレ ヤッチャラホイノサ ヤッチャラセ
二、月は啼きやせぬ高取山で 高取山で 啼くは夜明けの アリャ ホトトギス *
三、越辺川原の蛍でさへも 蛍でさへも 石と寝やせぬ アリャ 草と寝る *
四、東山見りゃ松の木ばかり 松の木ばかり たより待てよと アリャ なぞかしら *
五、西に西山あの空あたり あの空あたり 今日も日暮れか アリャ 夕焼ける *
六、越生名物生絹と団扇 生絹と団扇 誰が着るやら アリャ つかふやら *
七、山といふ山つつじが咲くに つつじが咲くに なぜか私に アリャ 花咲かぬ *
八、春の山々木の芽に蕨 木の芽に蕨 秋にゃ茸狩り アリャ 栗拾い *
九、夏の三滝どんどと落ちて どんどと落ちて 肌に涼しい アリャ 霧となる *
十、梅に名高い新月ヶ瀬よ 新月ヶ瀬よ 小雪降るのに アリャ 花が咲く *
落語「道灌」のお話。
御隠居さんから道灌とヤマブキの話を聞いた男は、自分もその方法で傘を借りに来る友達を追い返そうとしました。男に促された友達は、「七重八重、花は咲けども、やまぶしの、みそひとだると、なべとかましき…」などと詠み、「都々逸(どどいつ)か?」と男に聞きました。男は、ここぞとばかりに「てめえは歌道(かどう)が暗いな?」と言って男を恥じ入らせようとしましたが、友達は「かどう」と聞いて本来の用件を思い出しました。「角(かど)が暗いから、提灯(ちょうちん)を借りにきたんだよ。」
井手の山吹の伝説(「京都民俗志」より)。
昔、愛し合っている男女がいました。奈良に住む男は井堤(いで)の里に住む女のもとへ通っていました。しかし二人は親に認めてもらえず、別れなければなりませんでした。二人は最後の記念に、お互いの顔を映した鏡を埋め、「再会できたなら鏡を掘り出そう」と約束して別れました。
すると、鏡を埋めたところから山吹が芽生え、黄色い花が咲きました。そこで人々は山吹を面影草(おもかげぐさ)と呼びました。また、山吹は鏡草(かがみぐさ)とも呼ばれました。
この伝説は「忘衣(わすれごろも)物語」にも記されていますが、こちらには「井手の里」という地名は出てきません。
山吹御前のお話(植物の山吹は出てきません)。
平家物語には、「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の便女をぐせられたり。山吹はいたはりあて、都にとどまりぬ。」という一節があります。木曾義仲の愛妾として巴御前は有名ですが、山吹御前は病気になって京に留められたことになっています。
愛媛県伊予郡中山町の佐礼谷日浦には、山吹という小さな集落があり、その中に山吹神社があります。山吹神社傳説によると、山吹御前のその後が書かれています。
木曾義仲が追われる身になると、義仲の妻山吹御前は瀬戸の海路を逃げ、上灘に上陸しました。家来達は、途中で力尽きて死んだ山吹御前の遺体を現在の佐礼谷日浦まで運んで葬り、周辺に住みつきました。
山吹御前の墓は、山吹神社の数十メートル下方にあります。人家の庭先にある小さな石の五輪の塔です。
「山吹色」は、大判・小判のことを指す隠語でもあります。時代劇に登場する「山吹色の菓子」とは、菓子箱に詰めた賄賂用の大判・小判のことです。
花言葉は、崇高・待ちかねる
山葡萄(やまぶどう)
アイヌの人々はコウライテンナンショウ(サトイモ科)の球根を食べますが、この球根には毒があります。秋深くなってから球根の毒の部分を除いて、焼いたりふかしたりして食べたそうです。そして、テンナンショウで中毒をおこした場合は、ヤマブドウを解毒に使いました。それはアイヌに以下のような伝説があったからです。
アイヌの伝説。
昔、ヤマブドウとテンナンショウが争い、ヤマブドウがテンナンショウを刀で切って勝ちました。勝ったヤマブドウは威張って木の上に登り、負けたテンナンショウは恥じて土にもぐりました。そのため、よく成長したテンナンショウにはヤマブドウに切られた傷跡が残っており、そういうテンナンショウを食べてはいけないのです。
また、アイヌの人々はマスのお刺身を食べる時にもヤマブドウを調味料として利用していました。未熟なヤマブドウの果汁と海水と山椒の葉を混ぜ合わせて使ったそうです。
山葡萄の 黒く沁みとほる 実を食(は)みて
ひとのあはれに 遠そくがごと 斎藤茂吉
「花物語」には葡萄(ぶどう)の項目もあります。
山法師(やまぼうし)
別名に山桑(やまぐわ)がありますが、山野に自生するクワ科クワ属のクワも同様に山桑(やまぐわ)と呼ばれています。
ハナミズキ(アメリカヤマボウシ)と同じ仲間なのでよく似ています。ハナミズキは主に出葉前に咲き、ヤマボウシは出葉後に咲くそうです。
花びらのように見えるのは苞です。本当の花は小さく、苞の中心部に球状に集まって咲きます。果実は秋に熟すと食べられるそうです。
菊地正著「とんとんむかし十二か月」(東京新聞出版局)より引用。
”谷野村の小さな沢には、大久保長安さまゆかりの、よち女という婦人が住まっていたということじゃ。たいそう美ぼうで、こころねも美しく、歌人でもあったという。
慶長十九年(一六一四)に、大久保家が断絶となったあとは、お女中衆にも暇を出し、老女と二人だけで、つつましく暮らしておった。
それでも、八王子代官所の役人が見回りにきて、厳しく取り締まっていった。
あるとき、下役人が、「罪人にかかわる者が、庭に花を植え、たのしむなどは、もってのほか」と咎(とが)めた。
よち女は、「これは、花にはちがいございませんが、山法師といって、お山で修行をなさる法師でございます」といって、そっと笑った。
下役人は、のぞいて見て、「なるほど」と、うなずいた。
その後、よち女は、駿河台の大久保家に保護されたそうじゃ。
里の衆は、その後、よち女のいた沢を、与地沢(よちざわ)と呼ぶようになった。”
朝鳥に 花ちりばめぬ 山法師 水原秋桜子
花言葉は、友情
山茂樫(やまもがし)
葉や果実などがややホルトノキ (別名モガシ) に似るので, ヤマモガシというそうです。(ホルトノキは、ポルトガルの木の意味で、オリーブにあてられた名前でしたが、昔、ホルトノキの実をオリーブと混同してホルトノキと呼ぶようになりました。)
オーストラリアの民話「あこがれの花」。
昔、クルビという名の美しい娘がいました。クルビは岩ワラビーの赤い毛皮でマントを縫い、ガング・ガングみみずくの赤い冠毛でマントに縫いとりをして着ていました。一族の誰もが素晴らしいマントを着たクルビを褒め称えました。
クルビには心に決めた青年がいました。青年もクルビが好きでしたが、まだ成人の儀式をすませてなかったのでクルビに近づくことはできませんでした。それでも、クルビは毎晩丘の上に立って青年が猟から戻るのを見ていましたし、青年も赤いマントを着た恋人を遠くから見ていました。
ある時、一族の猟区に他の種族が侵入してきたため、男達は猟ではなく侵入者討伐の戦争に出かけました。クルビは展望台で戦士達の帰りを待っていましたが、クルビが待っていた青年は戻って来ませんでした。クルビは七日七夜待ちましたが、やはり青年は戻らず、クルビの一族は宿営地を移動してしまいました。
生きる希望を失ったクルビは赤いマントを着たまま岩の間に落ちていきました。その後まもなく、その場所に花びらの多い大きな花の咲く立派な灌木が生えてきました。その花は赤く、クルビの毛皮のマントのように輝いていました。それはヤマモガシの花で、クルビと青年を結ぶ、あこがれの花、愛の花でした。
山百合(やまゆり)
岩手県の民話「33の山百合の花」
昔々、遠野の町の近くの川べりに、朱塗りのお膳を持った可愛らしい女の子が二人座って休んでいました。声をかけてきた若者に二人は、「山口の孫左衛門の所を出て、気仙(けせん)の稲子沢(いなこざわ)へ行くところです。」と答えました。二人は座敷わらしでした。その後、座敷わらしが出ていった山口の家では、家中の者が毒キノコにあたって死に絶えました。
その頃、稲子沢の与治右衛門(よじえもん)という名の農民の夢に一人の老人が現れて、「山を越えて川を渡り、野原を行くと、古い館の跡がある。そこに33の花をつけた山百合が咲いているので、その根元を掘るとよいことがありますよ。」と言いました。与治右衛門は小馬を連れて、種山(たねやま)を越え、北上川を船で渡り、雪の降る野原を小馬に乗って進みました。疲れきった小馬が動かなくなったので降りてみると、そこには夢のお告げ通り、季節外れにもかかわらず、山百合が33の花をつけて咲いていました。与治右衛門が山百合の根元を掘ってみると、黄金の入った臺が7つ出てきました。そこは胆沢郡百岡(いさわぐんももおか)の生城寺館(しょうじょうじだて)という古い館の跡でした。こうして与治右衛門は長者になりました。
それから長い年月が経ったある雪の朝、稲子沢の館には子供はいないはずなのに、館から小さなわらぐつの跡が遠くへ続いていました。座敷わらしの出ていった稲子沢は、まもなく落ちぶれてしまいました。
新潟県の民話「山百合の赤い花」。
(大東文化大学民俗学研究会『新潟の昔話 長谷屋の昔語り』(桜楓社)より要約)
昔、あるところに、馬を飼い、田畑を耕して暮らしている青年がいました。青年は毎朝早く山に草刈りに出かけ、いい声で歌いながら草刈りをしていました。
ある晩、きれいな娘が青年の家に来て、一晩泊めてくれるように頼みました。青年は娘をもてなすことができそうもなかったので断わりましたが、娘は「私がご飯を炊いたり料理をしたりします」と言うので、結局泊めてやることにしました。
娘は毎朝早起きして食事の支度をしていましたが、とうとう青年の嫁になりました。嫁は働き者で、青年はしあわせでした。
ある日、青年が馬小屋で馬に草をやっていると、草の中からきれいな山百合の花が一本出てきました。青年は山百合の花を嫁に見せようと思い、嫁を呼びましたが返事がありませんでした。青年が嫁を捜しに家に入ると、嫁が座敷の真ん中で倒れているのを見つけました。嫁は青年に言いました。
「私は山百合の花です。あなたが毎日山で草刈りをしながら歌っているのを聞いて、あなたと一緒に暮らしたいと思っていました。その思いがかなって今まで一緒に暮らしていましたが、今日あなたに刈られてしまったので私はもう死んでしまいます。今までありがとうございました。」
百合の花は萎れて枯れてしまいました。
(この民話は新潟県の民話「月見草の嫁」と同じモチーフです。)
アイヌの伝説(近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)。
”十勝のある酋長が夕暮れ時雪に包まれて暮れ行く四方(よも)の山々の雪景色を窓越しに眺めていた。その時どこから来たのかこつぜんと、雪雲の中から白ずくめのまるで雪女のような女が現れたが、その姿はいつかふと消えた。
翌朝早く、酋長はあわただしく戸をたたく村人たちに起こされた。村人がいうには、酋長の家の屋根に白羽の矢が立っているというのであった。むかしから屋根に白羽の矢が立つと、村に厄災が起きるとの言い伝えがあったから、村はたちまち大騒ぎとなった。ことに酋長は昨夜見たふしぎな白衣の女のことを思い出すと、身も心も凍る思いであった。やがて酋長は、それが雪神の仕業だと悟った。このままでは村にどんな厄介が起きるかも知れない。酋長の立場では、村を救うためには親としてはまことに忍びがたいが、雪神に捧げる犠牲には、自分の愛娘を供するほかないと決意した。
いよいよ生けにえを捧げる日がきた。娘は、泣いて見送る村人たちに別れを告げると、ただひとり悄然と雪の原を行った。ところがこの娘にはかねてから二世を誓った恋人がいたのだが、とつぜんその場に現れて、娘をさらうと、いきなり雪を蹴って逃げ去った。
だが村人たちの追跡はいよいよ急で、か弱い女連れではとても逃げおおせるものではないと悟った若者は腰のマキリ(小刀)で娘の胸を刺すと、返すやいばで自分の咽喉を突いて、二人は抱き合ったままその場に倒れた。鮮血は見る見る雪の原を赤く染めて、四方に広がっていった。村人が後でその場にいってみると、雪の原に白羽の矢が一本立っていて、そばには山百合の白い花が、ぽつんと一花咲いていた。それを見た村人たちは、若い二人が天国で結ばれて、その魂が花になってこの世に咲いたものだと噂したという。しかし北海道には本来のヤマユリは生えていない。(『アイヌ伝説と其の情話』)”
花物語には、百合(ゆり)の項目もあります。
花言葉は、人生の楽しみ・荘厳・威厳
ヤムイモ
ヤムイモは、ヤマノイモ科ヤマノイモ属に属し、塊茎芋を食用にする蔓性多年性植物の総称です。
ソロモン諸島・マライタ島に伝わるヤムイモの起源神話。
ある離島に住む兄弟がカツオ釣りをしていると、カツオの群れを見つけました。兄弟は早速その群れを追っていきましたが、いくら釣り針を投げてもカツオは食いつきませんでした。兄弟はカツオの群れを追っているうちに浅瀬に出ました。釣り針が海底の植物に引っかかって取れなくなったので、末っ子が潜って海底の植物ごと針をとってきました。それはヤムイモでした。カツオの群れは毎日同じ浅瀬に向かい、兄弟は毎日ヤムイモを持って帰りました。カヌー小屋に残って見張りをしていた兄はヤムイモを焼いて皮をむいて食べてみました。美味しかったので他の兄弟達にも食べさせました。
飢饉に苦しむ本島の首長はヤムイモのことを聞いて、離島の人々に頼んで分けてもらいました。それから本島でもヤムイモを畑に植えるようになりました。それがヤムイモに関する儀礼の起源ともなりました。
アボリジニの神話より。
(松山利夫著「ユーカリの森に生きる」(日本放送出版会)より引用)
”この世のはじまりのとき、ヤムイモは人のように森を歩きまわっていた。あるとき、創世時代の精霊マラワルウォルが鳥に姿をかえて、ヤムイモに話しかけた。『お前はヤムイモなんだから、そんなに歩きまわらずに土に入れ』。そういわれてヤムイモはあちこちの森の土の中に入りこむことになった。
それをジャングルに住んだ悪霊が掘りだしていた。彼らがくりかえし掘りだすのをみて、精霊は再び鳥に姿をかえると、『そのヤムイモはお前たちのものではない』といって、掘りとったイモを土に埋めもどし、彼らを追い払ってしまった。”
ヤロウ
→アキレア
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乙女神社(京都府中郡峰山町)の羽衣伝説「三右衛門(さんねも)と天女」。
昔、丹後の比治(ひじ)の里に三右衛門という若い狩人が住んでいました。ある夏の朝、三右衛門は比治山の頂上付近にある大きな美しい池で8人の天女達が羽衣を岸辺の木に掛けて水浴びをしているのに気付きました。三右衛門は羽衣を1枚とって家に持ち帰り、大黒柱に穴をあけて、その中に隠しました。羽衣がなくて天に戻れなくなった天女は三右衛門と結婚し、3人の娘が生まれました。
天女は農業、養蚕、機織り、酒造り等が上手で里人達に教えたので、三右衛門の家だけでなく比治の里全体が裕福になりました。でも、天女は天が恋しかったので、三右衛門の留守中に娘達に「お父様は毎日どこを拝んでいるの?」と尋ね、大黒柱の中から羽衣を見つけ出して空へ舞い上がりました。天女は急いで戻ってきた三右衛門に「七日七日に会いましょう」と言い残して天に戻りましたが、その様子を見ていた天邪鬼(あまのじゃく)が「七月七日に会いましょう」と伝えたので、三右衛門は1年に一度しか会えないと悲しみました。
三右衛門は天女のことを思い出しながら、天女が残していった夕顔(ゆうごう)の種を庭に蒔きました。すると、夕顔の蔓が天に向かってどんどん伸び始めたので、三右衛門は夕顔の蔓を登って天に行き、妻の天女と会うことが出来ました。三右衛門は天女と一緒に天で暮らしたかったので、天帝にお願いしました。天帝は、三右衛門が「天の川に橋を架けること」と「橋が架かるまでは天女のことを思い出してはいけない」という約束が守れたら許すことにしました。
三右衛門はせっせと橋をつくりましたが、完成する前に天女のことを思い出してしまいました。すると、その途端に天の川が洪水を起こし、三右衛門は橋と一緒に地上へ流されてしまいました。その後、毎年七月七日の夜になると、天女がきらめく星になって三右衛門と3人の娘達に会いに来るようになりました。
比治の里人達は三右衛門と天女の間に生まれた三女をまつるために社を建て、乙女神社と名付けました。乙女神社にお参りすると美しい女の子が授かると伝えられています。
夕顔瀬の伝説。
1062年9月、前九年の役での安倍貞任の軍と源頼義、義家親子の軍との攻防戦はすさまじいものでした。劣勢だった貞任の軍は、貞任の兄の井殿の立案で、敵の目をあざむくために夕顔の実に顔を書いた勾当(こうとう)人形を柵内に並べ立てて、多勢の武者がいるように見せかけました。貞任の兄は盲目で勾当と呼ばれる身であったために、夕顔の実の偽装人形は勾当人形と呼ばれていたのでした。
しかし、柵が燃えて館は北上の流れに焼け落ちてしまい、勾当人形の残骸は次々と下流に流されて瀬を埋め尽くしました。そのために、後世、この場所は夕顔瀬と呼ばれるようになりました。そして、この場所にかけられた橋を夕顔瀬橋と呼ぶようになりました。
栃木県の民話「夕顔を植えない村」(下都賀(しもつが)郡)。
鳥居忠英(とりいただてる)という殿様が近江(現在の滋賀県)の水口(みなくち)から壬生(みぶ。現在の下都賀郡壬生町)の城に移ってきました。忠英は領内を見回り、土地がやせているために作物のできが悪いことを知りました。そこで忠英はやせた土地でも育つ夕顔を植えさせて干瓢をつくらせようと考えました。
しかし、農民達はつくりたがりませんでした。それには理由がありました。かつて豊臣秀吉が小田原城を攻め、北条氏は降伏しました。その時、北条氏と一緒に戦った壬生の領主の壬生義男も切腹しました。義男を慕っていた壬生の領民達は悲しみ、秀吉を憎みました。そして、秀吉の旗印の千なり瓢箪だけでなく、瓢箪のように蔓になる作物も作らなくなったのでした。
忠英は領民達の気持ちをくんで、祭主となって浮かばれない祖先の霊をしずめるまつりを盛大に行わせました。農民達は忠英の領民を思いやる気持ちを受け入れ、干瓢をつくることにしました。干瓢を他国に売るようになり、壬生の農民達の暮らしは豊かになりました。干瓢は栃木県の特産物となっています。
枕草子より。
「夕顔は花のかたちも朝顔に似て、いひつづけたるに、いとをかしかりぬべき花の姿に、実のありさまこそ、いとくちおしけれ」
花言葉は、夜
(この花言葉はヒルガオ科ヨルガオ属の夜顔と同じです。夜顔のことを俗にユウガオとも呼ぶので混同されたものではないかと思います。ちなみに夕顔はウリ科ユウガオ属の植物です。)
油柑(ゆかん)
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雪下・虎耳草(ゆきのした)
ユキノシタSaxifragaはユキノシタ科ユキノシタ属の常緑多年草です。
瀧井康勝著「366日相生花の本」(三五館)によると、「王子様の羽」、「ロンドンの誇り」、「聖パトリックのキャベツ」、「可愛い娘」、「放浪する水夫」、「リバプールの愛」、「リーズの喜び」、「雨傘草」、「石を砕くもの」、「ヘソ草」、「類なき美しさ」等の別名があるそうです。
A・M・コーツ著、白幡洋三郎・白幡節子訳「花の西洋史草花篇」(八坂書房)より引用。
”ヒカゲユキノシタ、ウムブローサ種(Saxifraga umbrosa)の英語名は、ロンドンの誇り(London Pride)とか類なき美しさ(None-so-Pretty)。
(中略)
ロンドン・プライドは地中海原産の花であるが、アイルランドのキラーニーの近辺で生えているのが見つかっている。なぜそれがこの地方に生えるようになったかについての言い伝えがある。故郷スペインを懐かしがっているブレザール修道僧を慰めようとして、この花がまるで奇蹟のようにこの地に咲いた。この僧はスペインの修道院で何ヶ月も過ごしていた頃にいつも見ていた花をもう一度ひと目見たいと思ったということである。その姿にふさわしくないが、この植物についた別の名前は宗教的な匂いのする聖パトリックのキャベツ(St. Patrick's Cabbage)である。
(中略)
十九世紀のロシアではユキノシタは、行く先を迷っている霊を墓から解き放つ力があると信じられていた。ツルゲーネフの『あるスポーツマンの手帳』にはその話が出る。「それはコートを着て長いスカートをはいており、歩いている間ずっと、うめき声を挙げて、地面にある何かを探しているという話です。祖父のトロフィミッチも一度それに出会ったことがあり、その時祖父はその者に尋ねました。『イワン・イワニッチ、あなたは地面に一体何を探しているのですか』と。するとその人は、『私はユキノシタを探しているのです』と答えたそうで、まったく抑揚のない声で『ユキノシタ』と言ったそうです。『しかしイワン・イワニッチ、ユキノシタであなたは何をするつもりなのですか』と祖父はまた尋ねました。その人は答えて『墓石が重く私の上にのしかかっているんですよトロフィミッチ。私はそれをどけて外に出たいのです』と。」”
花言葉は、愛情・好感・軽口・無駄・切実な愛・片意地
譲葉(ゆずりは)
ユズリハDaphniphyllum macropodumは、ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木です。
新葉と旧葉の入れ代わるさまがよく目立つので「譲葉」といわれ、おめでたい木として葉を正月の飾りにします。
俳諧では、新年の季語です。
枕草子(第三十八段 花の木ならぬは)より。
「ゆづりの葉の、いみじうふさやかにつやめき、茎はいと赤くきらきらしく見えたるこそ、あやしけれど、をかし。なべての月には、見えぬものの、師走のつごもりのみ時めきた、亡き人の食ひ物に敷く物にやと、あはれなるに、また、齢を延ぶる歯固めの具にも、もて使ひためるは、いかになる世にか、「紅葉せむ世や」と言ひたるも、頼もし。 」
鹿児島県の昔話「えんずいは切るな」(『全国昔話資料集成』(岩崎美術社)より要約)
正月のお餅を搗く時には、えんずいは(ゆずりは)で祝います。
両親と兄弟がいましたが、両親は出先で鬼に食べられてしまいました。鬼は母親の服を着て、兄弟が留守番している家に行きました。弟が本当のお母さんでないことを見破ると、鬼は正体を現しました。兄弟は逃げ、えんずいはの木に登りました。鬼もえんずいはの木に登ろうとしましたが、油を足になすってうまく登れませんでした。兄弟が「えんずいは切るな。正月を祝おう」と言いました。すると、えんずいはは切れなくなり、鬼は諦めてどこかへ行ってしまい、兄弟は助かりました。
(有島英子編「手無し娘 鹿児島の昔話」(桜楓社)にも類似のお話があります。)
しずかなる 冬木の中の ゆずり葉の
にほう厚葉に 紅のかなしさ 斉藤茂吉
餅のこな 楪(ゆずりは)につき 目出度けれ 高浜虚子
花言葉は、若返り
百合(ゆり)
西欧のキリスト教伝説。
アダムの妻のイヴは、蛇にだまされて禁断の果実を食べてしまい、エデンの園を追い出されました。楽園を去る時に、懐妊を知ってイヴの流した涙が地上に落ちて白いユリの花にになりました。これが地上で咲いた最初の白百合だともいわれています。
ローマ神話のお話。
ギリシャ神話に登場する最大の英雄ヘラクレス(ヘルクレス)の誕生の時のお話です。
浮気者のゼウス(ジュピター)は、王女アルクメーネの美貌に魅せられて、彼女の夫の留守中に、彼女の夫に変身して彼女の寝室に入り込むことに成功しました。アルクメーネは、ゼウスが夫の姿に変身している事に全く気付きませんでした。ゼウスは、三日間太陽を昇らせないようにして、アルクメーネとともに過ごしました。こうして生まれたのがヘラクレスです。
ゼウスは、まだ赤ん坊である息子のヘラクレスに聖なる乳を飲ませて不死身にしようと思い、嫉妬深い妻のヘラ(ジュノー)に眠り薬を飲ませて眠らせた後、ヘルクレスの唇を彼女の乳房に押しつけて聖なる乳を飲ませました。ヘラは眠りながらも違和感を感じてヘラクレスを手で払いのけました。
その時に、乳首から出た乳が天に昇り、天の川になり、ヘルクレスの口から溢れ出た乳が地上に滴り落ちて固まり、白いユリの花になりました。
ギリシャ神話のお話。
(熊井明子著「香りの花手帳」(千早書房)より引用)
”ギリシャ神話によれば、百合はもともとはサフラン色で、自分の美しさに自信を持っていた。ところが海の泡から生まれたアフロディテが完全に美しい姿で現れたので、百合はおののき青ざめて、遂に真白になってしまったという。”
西欧の伝説「キリストと赤い百合」。
(C・M・スキナー著、垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用)
”ユリは、キリストが死の前夜にゲッセマネの園を散歩したそのときに、堕落してしまった。というのは、かの園に咲いていた他のすべての花は、キリストが通りかかると同情と悲しみのあまりうなだれたのに、ユリだけは、暗闇の中で光り輝やきながら、自らの美しさを誇ってこう言った。
「私は他の姉妹たちよりもはるかに美しいのですから、あの方が通りかかるとき、背をしゃんと伸ばしてあの方を見つめます。そうして、私の優しい姿とかぐわしい香りに慰めをえていただきましょう。」この花を見たキリストは、一瞬その前に立ち止まったから、たぶんその美しさに心動かされたのであろう。けれど月明かりがさす中で、キリストの視線が注がれたとたん、ユリは、自らの高慢とキリストの謙遜とを引きくらぺ、また、他のすべての花がキリストの前に頭を垂れているのを見て、恥ずかしさにうちのめされた。そして、恥じらいのために顔一面に広がった朱色がいまだにユリの花を染めているのである。こういう理由によってそれは『赤いユリ(レッド・リリー)』と呼ばれるようになり、その夜以来、頭を上げることは二度となく、うつむいたままなのである。”
フランスの伝説「フランス国花由来」。
(近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)
”五世紀ころのフランスは、各地に小王国が割拠していて、隣国との争いに明け暮れていた。フランク人の一小国ツールネーもその一つであった。その所領はライン河の下流地方で、今のベルギーあたりであった。七世紀になって、その国に王子クロビスClovisが生まれ、長じて国王になると、次々と遠近の国々を征服して、後に社会的にも政治的にも、ヨーロッパ世界の母体となった統一国家フランク王国を建設した。
このクロビス朝は、初め三匹の黒い蛙の図柄が、王朝の紋章だったのであるが、ある時さる隠者のところへ天使が現われて、青地に三つの金の百合の花を浮き出した旗を手渡し、王妃に届けるようにといって立去った。王妃は間もなくそれを受け取り王に献上した。ところがそれからというもの、クロビスがその旗を風になびかせて戦場に臨むとその旗の行くところ全戦全勝して、クロビスの版図はいよいよ広まり、ここに強大なフランク王国がつくられた。そこで王はこのめでたい百合の花を王室の正式な紋章と定めた。後に、百合の花が、フランスの国花にされているのも、この故事によるということである。”
アイヌの伝説「大雪山の麓に咲く恋の紅百合」。
(近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より要約)
昔、石狩のある部落の酋長に、女神のように美しい娘がいました。若い男達は娘の周りに集まって愛を語りましたが、特に熱心だったのは、ムビヤンとキビインの二人でした。二人はどちらも熊祭の宵に自分の胸の内を娘に打ち明けていましたが、どちらも立派な若者で、娘はどちらを選ぶべきか日夜悩んでいました。
その頃、村に巨熊が現れ、家畜ばかりか村人までもが犠牲になりました。ムビヤンとキビインはどちらも熊を仕留める名手として知られていたので、娘は、先に熊を仕留めたものと結婚する約束をしました。
二人の若者達は、トリカブト毒の塗ってある矢と弓を持って山へ入って行きました。最初に熊を見つけたのはムビヤンでした。ムビヤンの矢は熊の足を掠めただけで、怒った熊はムビヤンに襲い掛かりました。ムビヤンは腰のマキリ(小刀)で応戦して熊を仕留めましたが、自分も熊に引き裂かれて、熊と一緒に緑の草を朱に染めて倒れました。
ムビヤンの悲鳴を聞いてその場に駆けつけたキビインは、その光景を見て、すぐに村へ知らせに走りました。村人達は松明を持って山の中へ入って行きました。娘もその行列に加わっていました。現場に着いてムビヤンの痛ましい姿を見た娘は、遺体に取りすがって泣き、男のマキリで自分の胸を突いて息絶えました。
翌年からその草原に、燃えるように赤い百合の花が咲いて、大雪山の麓を彩るようになりました。村人達は、昨年死んだ若い二人の魂が花となってこの世で咲いたのだろうと噂し合いました。(『エゾ哀話集』)”
ドイツの民話。
昔、ハルツの山ろくにアリスという美しい娘が母親と二人で住んでいました。ある日の事、ラウエンブルグ公が乗馬をしている時に道端にいたアリスを見初め、無理やり自分のお城に連れて行こうとしました。するとアリスの姿が消えて、そのあとにユリが生えてきました。そしてアリスの清らかさは後々まで伝えられました。
アリスがラウエンブルグ公の城の城壁から投身自殺し、その場所から白ユリが生え、「ラウエンブルグの夜のユリ」として語り継がれた、というお話もあります。
聖書や賛美歌では、白ユリは聖母の花であり、復活祭の祭壇には欠かせない花です。キリストのユリについての言葉には、「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。ソロモンの栄華の極みも、その装いはこの花一つにも及ばなかった。」(マタイによる福音書)というのがあります。
聖母マリアが昇天した時、その復活を疑った人が彼女の墓を掘り返してみると、棺の中には美しいユリの花とバラの花がたくさん詰まっていたというキリスト教の伝説もあります。
コーカサス地方に伝わるお話。
プリニイとタマラは相思相愛の中でした。しかし、タマラは他の青年と結婚させられることになり、その苦痛に耐えられず、山に住む老師に助けを求めました。老師はタマラを1輪のユリの花に変えました。悲嘆にくれるプリニイを哀れに思った神は、ユリの花にいつでも水をあげられるように彼を雨雲に変えました。
その後、日照続きの時には、この地方の娘達はタマラの歌を歌いながら野原にユリの花をまくようになりました。そして、雨雲が現れて涙の雨が降ってくるのを待つのでした。
中国の民話。
昔、海賊の一団が海辺の漁村を襲い、女子供を船に乗せて孤島へ連れ去りました。海賊達はまた出かけていきましたが、嵐に遭って孤島には戻って来ませんでした。孤島に残された者達は食べ物を探して島中歩き回りました。そしてニンニクに似た野草の根をみつけました。煮ると甘味があり、飢えをしのぎ元気でいることが出来ました。
翌年、偶然島にやってきた薬草採りの人達のおかげで、さらわれて来た者達は皆もとの漁村に帰ることが出来ました。薬草採り達は、彼らが孤島で食べていた根を持ち帰って栽培しました。ためしに使ってみたところ薬効があることがわかりました。孤島でこの根の恩恵を受けた人が「合わせて百人」だったので、この植物は「百合」と呼ばれるようになりました。
スペインでは、魔法で動物にされた人間を元通りにする花だと言われています。
「ピーターパン」には、インディアンの酋長の娘タイガーリリー(おにゆり)が登場します。
百合は、茎が細いのに花が大きくて風に揺れるので、昔はユレといったのがユリに変わったそうです。「立てば芍薬(しゃくやく)、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉があるように、百合は、美少女の歩く姿に例えられます。
「花物語」には、笹百合(ささゆり)・黒百合(くろゆり)・姥百合(うばゆり)・山百合(やまゆり)・瓔珞百合(ようらくゆり)・鳴子百合(なるこゆり)・ガーンジー・リリー・鄙百合(ひなゆり、カマッシア)の項目もあります。
花言葉は、威厳・純潔・無垢等
百合木(ゆりのき)
ユリノキは、モクレン科ユリノキ属の落葉高木で、5〜6月頃、枝先にチューリップに似た帯緑黄色の花をつけます。葉は、半纏に似た特殊な形をしています。
ユリノキLiriodendron tulipifera L.の学名は、「ユリLirion」と「樹木dendron」、「チューリップに似た花が咲くtulipifera」、「植物学者のリンネのイニシャルL.」で構成されています。
ユリノキという和名は、大正天皇がまだ皇太子であった明治23年、小石川植物園を見学した折に、学名を聞いて命名されたそうです。
別名、半纏木(はんてんぼく)。
英名は、チューリップ・ツリーtulip-tree、Yellow Poplar、Whitewood等。
ファンタジー「チューリップの木の花かご」。
(毛藤勤治著「ユリノキという木 魅せられた樹の植物誌」(アボック社)より要約)
百年以上昔のことです。アメリカのペンシルベニア州にランカスターという小さな町があり、その町外れに、ロバートとテニーの夫婦が、10歳になる息子のリッキーと雇い人のカール爺やとともに、養蜂で暮らしていました。
ところが、ランカスターは年々住人が増えて町が大きくなり、住宅や工場が立ち並ぶようになり、蜜蜂が集めてくる蜜の量は減る一方でした。
ある日、ロバートは亡き父の友人のデックからチューリップの木がたくさん生えている森の話を聞き、息子のリッキーとともに蜂の巣箱を積んで出かけました。チューリップの木の森に放した蜜蜂は半分くらいが花の中でおぼれてしまいましたが、一つの巣箱の蜜蜂だけは全部巣に戻ってきました。その巣箱の蜜蜂の集めた蜜はランカスターで集める花蜜よりはるかに素晴らしいものでした。二人はその巣箱の蜜蜂を増やすことにし、テニーとカールを呼び寄せて丸太小屋を建てました。新築祝いの日、リッキーは小枝付きのチューリップの木の花をたくさんかかえてきました。それ以来、ロバート家では毎年、新築祝いの日には、チューリップの木の大きな花籠をテーブルの中心に置いてお祝いするようになりました。
ロバート達は、チューリップの木の花蜜を上手に集め、病気にも強い蜜蜂の群れづくりを研究しました。やがて、彼らの蜜蜂とチューリップの木の花蜜は評判になり、遠くの養蜂家や蜂蜜屋も買い付けに来るようになりました。
現在、ペンシルベニア州をはじめ、アパラチア山脈をとりまく広大な地域に飼われている蜜蜂は、ロバートとリッキーが生涯かけて改良したものだといわれています。
日本で最初に植えられたユリノキは新宿御苑と小石川植物園にあります。
花を見たい方は5月初旬にお散歩してください。
花ひとつに小さじ1杯分くらいの蜜が入っているそうです。
花言葉は、見事な美しさ・幸福・田園の幸福Rural happiness、あなたは私を幸福にするのを遅らせている(仏)
瑤草(ようそう)
「朝雲暮雨」と「巫山の夢」のお話。
中国古代の伝説上の王三皇の一人、炎帝神農には3人の娘がいました。女娃(じょあ)、瑤姫(ようき)、もう一人の名前は不明ですが、今回は瑤姫のお話です。
昔、瑤姫は若くして亡くなったため、異性に愛されることもありませんでした。瑤姫は可憐な黄色い花を咲かせてネナシカズラによく似た実を結ぶ瑤草に姿を変えました。その草の実を食べた者は異性に愛されると言われました。瑤姫を哀れに思った天帝は、瑤姫を四川省の巫山の雲雨の神に封じました。
時は流れて戦国時代末期、楚の懐王が高唐の地で昼寝をしていると、夢枕に瑤姫が現われ、情熱的に契りを交しました。瑤姫が別れ際に「私は巫山の南のに住み、朝には雲となって山にかかり、暮れには雨となって裾野に降り注ぎます。」と言ったことから、彼女が巫山の女神であることに気付いた懐王は、彼女の霊を慰めるために朝雲廟を建てました。
後に、懐王の子である襄王(じょうおう)も高唐の地でみた夢の中で瑤姫と契りを交しました。
この父子2代に渡る不思議な夢のお話は襄王の宮廷詩人宋玉によって「高唐賦」、「女神賦」に記されました。
この故事から「朝雲暮雨」は男女の深い契りを表し、「巫山の夢」は男女の秘め事のたとえとなっています。
☆書籍によっては「か瑤草(か=木へん+果)」となっていますが、この植物についてはこの伝説以外知らないので、情報をご存知の方は是非掲示板に書き込んで下さいますようお願い致します。
瓔珞躑躅(ようらくつつじ)
ヨウラクツツジは、ツツジ科ドウダンツツジ属の落葉低木です。
「天子ヶ岳の伝説」(静岡県富士宮市)。
昔、都が京都にあった頃のお話です。
遥か東国の空に連日一筋の煙が立ちのぼりました。天子が占い師に占わせると、「煙は天子の姫の婿になる者が立てている」と出ました。天子とお妃様はお姫様を遠くに嫁にやりたくありませんでしたが、お姫様は神の思し召しに従って東国に旅立ちました。
富士山の西の麓の辺りから立ちのぼっていた煙は、炭焼きの藤二郎(とうじろう。松五郎となっている話もあります)が炭を焼いている煙でした。藤二郎は貧しい身なりをしていましたが、たくましく立派な若者でした。お姫様は藤二郎を一目で好きになり、占いのことを話し、結婚の約束にと、絹の袋に入った金を渡しました。
藤二郎はお姫様を連れて近所を案内して回りました。池のほとりの岩に鳥がとまったのを見た藤二郎はお姫様にもらった金の袋を投げつけました。金が水底へ沈んでしまったのを見たお姫様は「もったいない」と言いましたが、藤二郎は「あんなものは炭焼き小屋の近くの谷川にいくらでもある」と言いました。それは本当でした。藤二郎は谷川の底の金を売って長者になり、お姫様と結婚しました。
二人はしばらく幸福な日々を過ごしましたが、冬になると、東国の寒さになれないお姫様は病気になって死んでしまいました。藤二郎は悲しみ、お姫様の遺言通り、お姫様を都の見える山頂に葬りました。その時、お姫様が髪に挿していた瓔珞(珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具)も一緒に埋めました。
翌春、お姫様の墓の近くに1本のツツジが芽を出し、瓔珞のように美しい花がたれさがって咲きました。ツツジは年々増え、やがて山頂一面に広がりました。里の人々はそのツツジをヨウラクツツジと呼ぶようになり、天子の姫が眠る山を天子ヶ岳と名付けました。
「花物語」には、満天星・灯台躑躅(どうだんつつじ) の項目もあります。
瓔珞百合(ようらくゆり)
ユリ科フリチラリア(バイモ)属で、学名は、Fritillaria imperialisです。学名のimperialisは「帝王の」という意味で、この属の中で最も美しいことを表しています。また、Fritillariaは、本属にメレアグリスFritillaria meleagrisのようなチェックの模様の入る種が多いことから、ラテン語のfritillus(チェッカー盤)に由来します。
和名はヨウラクユリで、は珠玉や貴金属に糸を通して作った装身具で仏具の飾りにする瓔珞(ようらく)に似ているところから名付けられました。
英名は、帝王の冠Crown Imperialです。
C・M・スキナー著、垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用。
「このヨウラクユリは、かつてはペルシアの女王であったが、その美しさが仇となって夫である王を嫉妬させることとなった。ある時、王は疑いと怒りの余り、王妃を宮殿から追い払ってしまった。何らやましいところのない王妃は野原をさまよい歩きながら、このいわれのない不当なしうちをいつまでも嘆き悲しんでいるうち、その体は縮んで植物ほどの大きさとなり、最後には、神の慈悲により、立ち止まって休んだ場所に根付き、ヨウラクユリの姿に変わった。それで今でもこの花には、かつて人間であった時に身につけていた何がしかの威厳と気高さが備わっているのである。」
A・M・コーツ著、白幡洋三郎・白幡節子訳「花の西洋史草花篇」(八坂書房)によると、ペルシアの王妃の疑いがはれ、二人が再び結ばれる、となっているお話もあるそうです。
キリスト教の伝説。
フリチラリアはかつては白色で、ゲッセマネの花園に咲いていました。十字架に向かうキリストを見送る花達は悲しみに沈んでうつむいていましたが、フリチラリアだけは自分の美しさでキリストを慰めようと思い、キリストの姿をじっと見つめ続けていました。ところが、キリストがフリチラリアを見た途端、フリチラリアは自分の思いあがりを恥じてうつむきました。そして、キリストが十字架にかけられた後は、花色を変え、いつも頭を垂れて泣いているようになりました。この花に白色がないのはそのためです。
ギリシャ神話(石井由紀著「伝説の花たち」(山と渓谷社)より引用)。
「自分で作ったヨシの籠を売り歩いていた孤児のフリチエールは、金持ちの青年メレアグリスの目にとまり、召使いとなった。与えられた仕事はニワトリの番。アフリカから取り寄せたという珍しい鳥だ。自分の幸せを天の神々に感謝しつつ、その仕事にいそしむ毎日が続いた。
ある日、野原でニワトリ達を遊ばせていると突然嵐が襲い、ニワトリがちりぢりになってしまった。フリチエールは雨にぬれながら探し回ったが、殆どが戻らなかった。これがもとで高熱を発し、ついに死んだ少年を神々はあわれみ、フリチラリアの花に変えた。この花に網目模様があるのは、少年が好んで編んだヨシの籠の名残である。」
最初に、フリチラリア属にはメレアグリスのようなチェックの模様の入る種が多いと書きましたが、学名のメレアグリスMeleagrisはギリシャ語でホロホロ鳥を意味するメレアグリデスが語源だそうです。余談ですが、ギリシャ神話には、このホロホロ鳥のお話もあります。
カリュドン王オイネウスの子メレアグロスMeleagrosは、猪狩りの時に、叔父と諍いを起こして叔父を殺してしまいました。そのことを怒ったメレアグロスの母親が、大切にしまっておいたメレアグロスの命の木片を燃やしてしまったために、メレアグロスは死んでしまいました。
メレアグリデスMeleagrides(メレアグロスの妹達)は兄の死を深く嘆き悲しみました。その様子を見たアルテミスはメレアグリデスを哀れに思い、メレアグリデスをホロホロ鳥の姿に変えました。
「花物語」には百合の項目もあります。
花言葉は、王の威厳・人を喜ばせる
芳草(よしくさ)
栃木県の民話「芳ひめの草」。
(谷真介編・著「日づけのあるお話365日」(金の星社)より要約・加筆)
弘和2年(1382年)4月13日の夕暮れのことです。
南北朝時代の下野の領主であった小山義政(おやまよしまさ)の正室の芳姫と芳姫に仕える腰元(身の回りの世話をする女の人)の二人は、栃木県の山あいにある星野の里の道を夫のいる粕尾城(現粟野町中粕尾)に向って急いでいました。(義政は鎌倉公方足利氏満に叛き、粕尾城に籠りましたが、戦に負けて明石河原で自刃)
そこへ三左衛門と名乗る百姓が声をかけ、「夜の山道は危険なので自分の家に泊まりなさい。翌朝案内しましょう」と言いました。三左衛門には二人の身分がわかっているようでした。二人は三左衛門の好意を受け、大根の水たきや粟の雑炊でもてなされました。乾飯(ほしいい)ばかり食べていた二人にとっては心のこもったご馳走に思えました。芳姫は懐から小さな包みを取り出して三左衛門にお礼に渡しました。中には砂金が入っていました。
三左衛門は、二人が大切そうに持っている袋には砂金がたくさん入っているのだと思い、砂金がほしくなって、翌日二人を案内するふりをして草むらに誘い込んで殺しました。けれども、袋に入っていたのは乾飯でした。
それ以来、三左衛門の家の囲炉裏の鍵に白蛇がからまって、三左衛門を睨みつけるようになりました。罪を悔いた三左衛門は、村人達に話して、二人の霊をまつって毎日念仏をとなえました。すると、白蛇は現れなくなりました。
やがて、二人のお墓の周りに見たこともない草が生えてきました。茎を切ると、血のような赤い液が出るので、村人達はその草を「芳草」、「芳ひめの草」とよんで、大切にしたという話です。
(芳姫と腰元のお話の部分は他の文献でも確認できますが、「芳草」についてはこの文献でしか見ることができませんでしたので、植物を特定することができませんでした。)
淀木瓜(よどぼけ)
木瓜(ぼけ)の原種には、草木瓜(くさぼけ)、唐木瓜(からぼけ)、淀木瓜(よどぼけ)、緋木瓜(ひぼけ)、白木瓜(しろぼけ)の5種類があります。そのうち草木瓜だけが日本原産で、残りの木瓜は中国原産です。
中国の民話(安徽省)。
7人の息子を持つ老人がいました。老人の7人目の息子は10代の時に体が麻痺する病気にかかり、知恵遅れで筋骨も萎え、いざり歩くようになりました。そのため、その息子は家族や近所の人達から「木瓜(ムーゴア、頭の働きがにぶいこと)」と呼ばれました。
老人の家ではたくさんの梨の木を栽培していました。その中の何本かの梨の木には、外見は普通なのにまずくて舌触りの悪い実がなりました。老人たちはそのまずい梨を「木梨(ムーリー)」と呼んでいました。豚も木梨を食べなかったので、木梨は全部肥料に使われていました。
ある年、木瓜は梨の木の下に座って梨畑の見張りをしていました。木瓜は風で落ちた木梨を拾って食べました。家族の人達は味も分からない木瓜を笑い、冬には木梨を煮て木瓜に食べさせました。
数ヶ月経つと、不思議なことに木瓜は立って歩けるようになりました。5年も歩けなかった木瓜が歩けるようになったので、医者は家族にどんな薬を与えたのか尋ねました。家族の話を聞いた医者は、木梨が薬に違いないと思い、木梨をもらって帰りました。医者は木梨酒をつくって足の不自由な患者達に与えました。飲み続けた患者達は立って歩けるようになったり、杖なしで歩けるようになったりしました。医者は大金を払って木梨を買い取り、木梨酒をつくって筋骨の病気の治療をしました。
木梨は知恵遅れの木瓜のいざりを治したことによって薬効が明らかになったので、「木瓜」という名前で呼ばれるようになりました。この木瓜が淀木瓜です。
「花物語」には、木瓜(ぼけ)の項目もあります。
蓬(よもぎ)
日本の民話「食わず女房」と端午の節句。
昔、大変けちな男がいました。男は飯を食わぬ嫁が欲しいと思っていましたが、ある日、美しい娘が訪ねて来て「飯を食わぬので嫁にしてくれ」と言いました。男は喜んで嫁にしました。嫁は何も食べずによく働きましたが、不思議なことに米びつの米がどんどん減っていきました。そこで男は仕事に出るふりをして屋根裏に隠れて嫁の様子を見ていました。すると嫁は米を取り出して大釜で炊きあげ、握り飯をこしらえました。そして、髪をほどいて頭の上にある大きな口へ握り飯を投げ入れて食べ始めました。夕方、男はなにくわぬ顔で帰ると嫁に暇(いとま)を出しました。
正体のばれた嫁(山姥or鬼)は、男を桶に押し込めて山に連れ去りましたが、途中で男は運良く脱出して、菖蒲と蓬の茂みに隠れました。逃げられたと気付いた嫁は正体をあらわして追いかけてきましたが、菖蒲とヨモギには近づくことが出来ずに退散しました。
この日がちょうど5月5日だったので、それ以来、端午の節句には菖蒲とヨモギを軒にさすようになりました。
「弘法大師と草餅」
岩手県江刺市米里から上閉伊遠野の間に五輪峠があります。弘法大師が五輪峠の茶店のお婆さんに「草餅をください。」と頼みましたが、お婆さんは「看板用の石餅しかありません。」と断りました。弘法大師はその場を立ち去りましたが、それ以来、お婆さんのつくった草餅は石のように固くなり、売り物にならなくなりました。この峠には草餅色をした石がたくさんあり、お婆さんが石になった草餅を捨てたものだといわれているそうです。
高瀬豊吉著「薬草の由来伝説と薬効」(加島書店)より引用。
”古来三月三日の上巳(じょうし)の節句に、艾葉を餅のなかに入れた艾餅を食べて寿命を延ばし、妖邪を払う慣わしがある。その起源は昔、周の幽王が身持が放埓(ほうらつ)のため、群臣が憂い悩んでいた折柄、たまたま三月上巳、曲水の宴に艾餅を献上した者があった。王はその味を賞美し、宗廟にお供えしたところ、国は大いに治まって太平になったという故事から、このならわしが行われるようになった。”
故事成語「麻中の蓬(まちゅうのよもぎ)」(荀子)
「曲がった蓬も麻の中に生えると、支えがなくても真っ直ぐになる。」
普通なら曲がって育つ蓬も、真っ直ぐな麻の中で育てば真っ直ぐに成長する。すなわち、どんな悪人でも善人達と交わることで正しくなるという教えです。
「花物語」には、ニガヨモギ(ワームウッド)・マグワート(オウシュウヨモギ)・河原蓬(かわらよもぎ)の項目もあります。
また、ツルウメモドキの項目や苛草・刺草(いらくさ)の項目にもヨモギの登場するお話があります。
花言葉は、静穏・幸福・平和
鎧草(よろいぐさ)
ヨロイグサはセリ科の植物で、葉の刻みが重なり合う様子が鎧に似ていることから名付けられたそうです。アンジェリカとも呼ばれます。
根は漢方では白し(びゃくし。「し」は「草かんむり+止」)と呼ばれます。
中国の民話。
昔、30歳を過ぎた年頃の秀才がひどい頭痛に見舞われました。数人の医師を呼んで薬を飲みましたが効き目がありませんでした。秀才は友人から湖北省の巫山(ふざん)に頭痛の治療を得意とする医師がいることを聞き、その医者のもとへ出かけました。
医師の家に行くと、医師は秀才に言いました。
「完全に治るまでは私の家にいて私の薬を飲むだけで、治療に関する質問をしてはいけません。そして、完全に治ったらすぐに帰ると約束してください。」
秀才は医師の出した条件を承諾しました。
医師のくれた丸薬はとてもよく効き、頭痛はまもなく治りました。しかし、秀才は丸薬の正体を知りたかったので、頭痛が続いているふりをして医師の家に留まっていました。そして、医師が留守の日に薬草乾燥場を調べ、その薬の正体が、野山でよく見かける、葉が紫色で、白色の中にかすかに黄色が点在する小さな花を咲かせる雑草の根であることを知りました。秀才は帰って来た医師に頭痛が治ったことを告げました。
翌朝、医師は秀才に言いました。
「あなたは薬の正体を知りましたね。私ももう隠したりはしません。この丸薬は私の家に代々伝えられている秘薬で、強い痛み止めの効果がありますが、名前が伝わっていません。薬の名前を知らないことを知られたくなかったのではじめに条件を出したのです。あなたにお願いがあります。どうかこの薬に名前をつけてください。」
秀才は、香気のある白い最初の根という意味をこめ、「香白し(こうびゃくし)」と名付けました。
現在では単に白しと呼ばれています。
「花物語」には、アンジェリカの項目もあります。