てぃんくの家
 
 た行 

ターメリック

 ターメリックCurcuma longaはショウガ科クルクマ(ウコン)属の多年草で、秋に白い花を咲かせます。
 根はカレーや沢庵の色付けに用いられます。
 和名はウコン(欝金)ですが、これは秋ウコンのことです。

 ウコンについてはわかりにくいので少し説明します。
 (日本と中国では、春ウコンと秋ウコンの名前が反対になっています)
 ☆春ウコン…和名はキョウオウ(姜黄)。
       学名はクルクマ・アロマティカCurcuma aromatica Salisbury。
       英名はワイルド・ターメリックWild Turmeric、漢名は欝金。
 ☆秋ウコン…和名はウコン(欝金)。
       学名はクルクマ・ロンガCurcuma longa。
       英名はターメリックTurmeric、漢名は姜黄。
 ☆紫ウコン(夏ウコン)…和名はガジュツ(莪朮)。
       学名はクルクマ・ゼドアリアCurcuma zedoaria Roscoe。
       英名はゼドアリーZedoary。漢名は莪朮。


 「仏教の法話」のお話。
 (井上宏生著「スパイス物語」(集英社文庫)より引用)

 ”カラコルム山系の崑崙(こんろん)山脈にはウコンを好きな毒竜がいて、人びとを悩ませていたという。そんな光景を見たある尊者は毒竜をこらしめようと考えた。そのため、彼は山中に花を咲かせていたウコンの根をことごとく抜き採らせていった。毒竜たちは驚き、あわてて雹(ひょう)を降らせて懸命に防戦したが、尊者の作戦は見事に的中し、ウコンの香りが山中から消えるにつれて毒竜は追いつめられ、ついには尊者に降伏したという。”


 武政三男著「スパイス百科事典」(三?(王へんに秀)書房)より引用。

 ”◎ターメリッタは、ヤコブの子がエジプトから出て行く時にシナモンとともに持出したスパイスとして知られている。また、太陽崇拝者達はサフランを神聖な花としたため、その黄色が聖色となった。しかし、需要が非常に多かったので、代用品としてターメリックが儀式用に使われたりした。
               *
 ◎ヒンズー教の花嫁と新郎は、自分達の腕をターメリックで染めたり、ターメリックで色をつけた米を結婚式に用いたりするそうである。
               *
 ◎ターメリッタは魔よけとして利用されたりする。わずかな根茎を生まれたばかりの赤ん坊の首にかけたり、赤ん坊が大きくなって歩けるようになるまで、毎日子供の頭にターメリック水を軽く注いだりする。
               *
 ◎紀元前約600年に書かれた『アッシリア植物誌』の中にも、ターメリックが着色用の植物として記載されている。
               *
 ◎紀元1〜2世紀頃のギリンアの医師で本草学者であったディオスコリデスが、ペバーやタイムとともにターメリッタについて記録し、特にターメリックについては『ショウガに似ていて、噛むと黄色くなる』と記述している。
               *
 ◎1280年マルコポーロは、中国の福建省に成育するターメリッタについて『香りも色も本当のサフランと全く同じ性質をもつ植物があるが、それはサフランとは似ても似つかないものである』と述べている。
               *
 ◎サフランの貿易は伝統的に西洋から東洋に向けて行われ、ターメリックは逆に東洋から西洋に向けて行われたものである。ヨーロッパには1759年に導入された記録がある。そして中世にはヨーロッパではインドのサフランとしてよく知られるようになり、サフランの着色代用品として利用されるようになった。
               *
 ◎中国の文献では梁書(りょうしょ)に『天監18年(519年)使いをつかわして、ウコン(ターメリック)、蘇合等を献ぜしむ』と書かれ、また唐の玄宗皇帝の時の詩人である李白(701〜762年)の『客中行』に「蘭陵の美酒、ウコン香ぐわし』と書かれ、これはターメリックを加えて作った酒のことだと訳されている。
               *
 ◎マレーシアでは、臍の緒を切る時に膏薬としてターメリックの練ったものを用いている。
               *
 ◎インドネシアでは、オーデコロンと同様にターメリッタ水を身体にすり込んだり、化粧品としてターメリックを顔に塗ったりする。
               *
 ◎日本への渡来は享保年間(1716〜1735年)で、主に薬用及び観賞用として栽培された。”


クルクマ属の植物全般の花言葉は、恋の因縁
ウコンの花言葉は、あなたの姿に酔いしれる

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大黄(だいおう)

 大黄はタデ科の多年草で、生薬の大黄はこの植物の黄色い根茎の外皮を除いて乾燥させたものです。便秘薬として有名な大黄には、瀉下作用の成分と、相反する収斂作用の成分が含まれています。
 3世紀の『李当之本草』や『呉普本草』には「将軍」という別名で登場します。500年頃の『本草集注』によると、瀉下作用の駿快さから名付けられたようです。


 李延寿撰「北史」(100巻。帝記録12巻、列伝88巻)のお話。
 (李家正文著「草根木皮の博物誌」(泰流社)より引用)

 ”『北史』に、姚僧垣(499-583)伝がある。僧の垣はあざなを法衛といい、南の呉の武康で生まれた。梁(502-557)に仕えて、太医正となった。武帝(502-549在位)が、熱病にかかった。そこで大黄を飲ませようと、「大黄は大そう軽くなって気分がよくなるものです。」といったが、帝はこれを避けて飲まなかったので、ついに危篤に陥った。垣は鎮西湖東に転職した。簡文帝(549-551在位)は、中書舎人に任じた。後に元帝(552-554在位)が心腹を患ったとき、脈をとって大黄をすすめた。この湯薬を飲んでなおったので、元帝は新鋳銭十万貫を垣に賜った。旧価の百万であった。”


 中国の民話。

 昔、生薬の大黄は「黄根(おうこん)」と呼ばれていました。
 その頃、黄という姓の医者がいました。黄家では先祖代々、黄連(おうれん)、黄耆(おうぎ)、黄精(おうせい)、黄ごん(「ごん」は、草かんむり+今)、黄根の5種類の生薬を採集しており、その医者が5種類の生薬で病気を治すようになったので、人々から五黄(ごおう)先生と呼ばれるようになりました。
 五黄先生は毎年旧暦三月になると、山の麓の村の馬駿(ばしゅん)の家に泊まり、山へ薬草採集に出かけていました。馬駿は妻と子供一人のいるお百姓でした。
 ある年、馬駿の家が火事で焼け、妻が亡くなり、馬駿親子は山の洞穴に住むようになりました。五黄先生は馬駿親子に会いに行き、薬草採りで生計を立てるようにすすめました。馬駿は五黄先生と一緒に山を歩き、五黄の採り方を覚えました。しかし、五黄先生は馬駿はせっかちなので医者には向かないと思い、治療方法は教えませんでした。馬駿は五黄先生の治療を観察し、五黄先生の留守中に内緒で病人を治療するようになりました。
 ある日、五黄先生の留守中に、下痢でやせ細った妊婦がやってきました。馬駿は下痢止めの黄連を使うべきだったのに黄根を使ってしまい、病人は症状が悪化して二日ほどで死んでしまいました。死者の家族が役所に訴えましたが、五黄先生のとりなしで、死者の家族に見舞い金を出すことで釈放してもらいました。
 反省した馬駿は薬草採りに専念し、性格も落ち付いてきました。その様子を見て、五黄先生は馬駿に治療方法を教えるようになりました。また、二度と同じ過ちを犯さないために、黄根を大黄と改め、他の生薬と区別するように注意しました。


 ””内は「GLN(GREEN & LUCKY NET)から こんにちは」より転載させていただいています。
 (http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/)

 ”ゾロアスター教の教典に記されたイランの神話に拠りますと、「人類の祖先の原人ガヨーマルトは、最高神オールマズドとその娘の大地女神スペンダルマトの結婚から生まれた。この原人は、大悪魔のアリーマンによって殺されたが、彼が死ぬ時に漏らした精液が、母親のスペンダルマトの胎内に入り、その結果、四十年後に大地から十五枚の葉を持つ一本の植物(大黄ダイオウの一種)が生え、それがやがて十五歳の人間の男と女になった。この最初の男と女は初めは互いの身体が密着して区別の付かぬ形をしていた」と云います。”

 余談ですが、ゾロアスター教の神話では、精液を受けとめたのは大地とされている文献や大天使アールマティとされている文献もあるようです。
 原人ガヨーマルトの精液が大地に浸透し、最初の人間の男女(マシュイェーとマシュヤーナクの兄妹)は絡みあった1本の木から生まれてきました。兄妹は双子を産んで食べてしまったので、善神アフラ・マズダが人間を食べない性質を兄妹に与え、人類が繁栄するようになりました。
 また、1本の木のまま成長して10個の実をつけ、世界の十種族の元(地上、水棲、胸耳、胸目、単足、有翅、森林、有毛、熊、猿)になったという伝説もあるそうです。


 大黄の近縁種にルバーブ(和名は食用大黄)があります。葉柄の部分をジャムなどにします。葉はシュウ酸を含むので食用にはしません。ルバーブの花言葉は、忠告・迅速です。

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大根(だいこん)

 大師講の晩の焼き大根のいわれを語った「跡かくしの雪」

 大師講は、11月23日の夜から24日にかけて行われる大師様をまつる行事です。大師様は、小豆粥が好物だといい、家ごとに小豆粥や団子をつくって供えます。

 昔、冬のとても寒い晩に、弘法大師は村の貧しい一人暮しのおばあさんの家に一夜の宿を頼みました。おばあさんは長旅で疲れている弘法大師を快く泊めてあげましたが、食べ物が何もありませんでした。そこで、おばあさんは不自由な足をひきずって隣家の畑へ行き、大根を盗んできて弘法大師に焼き大根をご馳走しました。そのことを知った弘法大師は、畑に残っていたおばあさんの足跡を隠すために雪を降らせました。
 その日が11月23日(旧暦)だったので、この夜に降る雪を「跡かくしの雪」と呼ぶようになりました。


 福岡県古賀市の「大根川の伝説」

 平安時代に弘法大師が諸国行脚をしていた頃のお話です。
 弘法大師が古賀の大根川の板橋を通りかかった時、橋の下で一人のおばあさんが大根洗いをしていました。弘法大師は空腹だったので、土から抜いたばかりのみずみずしい大根を1本分けてもらおうと橋の下に下りて行き、おばあさんに頼みました。しかし、おばあさんは弘法大師があまりにみすぼらしい格好をしていたので大根を分けてあげませんでした。弘法大師はもう一度大根を分けてくれるように頼みましたが、やはり、おばあさんは大根を分けてあげませんでした。それどころかおばあさんは弘法大師に川の水をかけたのでした。
 弘法大師は念仏を唱えました。すると、川の水が干上がってしまい、おばあさんは大根を洗うことが出来なくなってしまいました。それからというもの、大根洗いの頃になると大根川には水が流れなくなるようになりました。


 「親鸞上人と塩茹で大根」のお話(京都府)。

 建長5年(1253)の12月9日、親鸞上人は鳴滝(京都市右京区鳴滝)の里を訪れました。親鸞上人は以前にも竹薮とススキ野原と大根畑の広がるこの里を訪れたことがあり、気に入っていました。
 親鸞上人は景色を眺めた後、村人達を集めて念仏を唱えました。村人達は感激し、親鸞上人にお礼がしたいと思いましたが、村には大根しかありませんでした。村人達は親鸞上人に塩茹で大根を差し上げました。喜んだ親鸞上人は記念に書をしたためようとしましたが、村には筆も墨もありませんでした。親鸞上人は、大根を茹でた鍋の底からすすを取って墨をつくり、ススキの穂を筆にして、「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」の十字の名号を残しました。
 大永4年(1524)、親鸞上人をしのんで了徳寺が建てられました。このお寺は通称大根焚寺(だいこんだきてら)として親しまれ、12月9日には大根炊きの行事が行われ、参詣者にふるまわれます。また、親鸞上人の木像には塩茹での大根が供えられます。


 民話「大黒様と二股大根」

 大黒様は旅の途中でご馳走を食べすぎたために胸焼けがして困っていました。大黒様が川の近くを通りかかると、一人の娘が大根洗いをしていました。大黒様は娘に「胸焼けがするので大根を1本ください。」と頼みましたが、娘は「私は雇われの身で主人に命じられて大根洗いをしています。数が不足するといけないので差し上げられません。」と答えました。娘が大根を洗い続けていると二股に分かれた大根が出てきました。娘は、二股大根の片方をあげても数は足りると思い、二股大根を割いて片方を大黒様にあげました。大根を食べると胸焼けはおさまり、大黒様はたいへん喜びました。
 それ以来、大黒様の縁日には二股大根が供えられるようになりました。


 吉田兼好著「徒然草」第六十八段のお話。

 筑紫に、なにがしの押領使(おうりょうし)などいふやうなる者のありけるが、土大根(つちおほね。大根)を萬(よろず)にいみじき薬とて、朝ごとに二つづゝ焼きて食ひける事、年久しくなりぬ。或時、館(たち)の内に人もなかりける隙(ひま)をはかりて、敵(かたき)襲ひ来りて、囲み攻めけるに、館の内につはもの二人出で来て、命を惜しまず戦ひて、皆追ひかへしてけり。いと不思議におぼえて、「日頃こゝにものし給ふとも、見ぬ人々のかく戦ひし給ふは、いかなる人ぞ。」と問ひければ、「年来(としごろ)たのみて、朝な朝な召しつる土大根らに候。」と言ひて失せにけり。深く信を致しぬれば、かゝる徳もありけるにこそ。

(筑紫国の治安を担当する押領使という役職の者がいました。その男は大根を万病薬と信じ、長年、毎朝大根を2本ずつ焼いて食べていました。ある時、男の屋敷に人がいない時に敵が襲ってきましたが、屋敷の中に二人の武士が現れ、命を惜しまない戦いぶりで敵を追い返しました。男は不思議に思い、「日頃お見かけしませんが、このように戦ってくださったのはどのような方でしょうか。」と尋ねると、「長年頼りにして毎朝召し上がっていただいている大根でございます。」と言って消えてしまいました。深く信じていればこのような御利益もあるということでしょう。)


 「北豊島郡誌」の練馬大根のお話。

 徳川綱吉が5代将軍となる前のお話です。右馬之頭(うまのかみ)の綱吉は脚気にかかり、様々な治療を受けましたが、結果は思わしくありませんでした。そこで、陰陽師に占ってもらったところ、「城の西北、馬の字のつく地で療養すると治る」と出ました。綱吉は下練馬村(現在の練馬区北町・錦など)に殿舎を建て、そこで静養しました。綱吉が退屈しのぎに尾張(愛知県)から大根の種を入手して蒔かせると、重さ3貫(約11kg)、長さ4尺(約120cm)の大きな大根ができました。綱吉は脚気が治って城に戻ると、練馬村の名主の大木金兵衛に大根の栽培と献上を命じました。そして、品川の東海寺の澤庵禅師(たくあんぜんじ)が考案した沢庵漬(たくわん。塩と米糠を用いた大根貯蔵法)を作らせて、それを練馬の名物にしました。


花言葉は、適応力

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大豆(だいず)

 「世説新語」の「七歩(しちほ)の詩」のお話。

 三国史の英雄、魏の曹操の子の曹丕(そうひ)は弟の曹植(そうしょく)を敵視していました。曹丕は王位につくと曹植の側近達を処刑し、曹植も処刑してしまおうと考えました。曹丕は文才があるとされていた曹植に難題を出しました。
「七歩歩く間に詩をつくれ。もしできなければ法によって死罪に処す。」
 曹植は七歩歩く間に1編の詩を読みました。その中の詩句で
     豆殻は釜の下にありて燃え
     豆は釜の中に在りて泣く
     本(もと)同根より生ず
     相煎ること何ぞ太だ(はなはだ)急なる
とよみ、「豆も豆殻も同じ根から生まれた兄弟なのに、どうして私をこんなにひどく煮るのですか」と兄弟につらい仕打ちを受ける悲しさをうたいました。
 曹丕は深く恥じたようで、曹植は処刑を免れました。


 中国の民話。

 サンアーク(三阿姑、3番目のお姉さんの意味)という娘が山の麓に一人で住んでいました。サンアークの大豆畑には見事な豆がたくさんできました。
 ある日、黒牛に乗ったお爺さんがやってきて、大豆を水につけて根を生やしてもやしにして食べる方法を教えてくれました。別の日、雌山羊をひいたお婆さんがやってきて、大豆を石臼で挽いて食べる方法を教えてくれました。大豆に水を加えて挽くと豆乳が出来ました。豆乳を煮詰めて固めると豆腐が出来ました。豆腐の水をきると乾燥豆腐が出来ました。また別の日、白い馬に乗った青年がやってきて、豆を搾って油を取ることを教えてくれました。豆の油で炒め物をすると美味しいし、燃やしてみると明るく暖かくなりました。
 サンアークは、白い馬に乗った青年と結婚しました。そして二人は、黒牛に乗ったお爺さんと雌山羊をひいたお婆さんを、舅と姑として迎え、一緒に住むことにしました。黒牛に畑を耕させ、白い馬に石臼を曳かせ、山羊の乳を搾って、一家4人は幸福に暮らしました。


 キリシタン伝説(熊本県八代郡)。

 キリシタン大名、小西行長が肥後の国の領主になった時に、領内の社寺を壊させました。行長の弟の隼人は、次々と社寺を焼き払い、命令に従わない仏僧達を虐殺しました。氷川の上流にあった釈迦堂を焼き払う時に焚付けになるものが手近になかったので、隼人は大豆殻を焚付けに使って焼き払いました。それ以来、仏の祟りで周囲の畑には大豆が実らないようになりました。

 キリシタン大名、小西行長に対する神仏のたたりで作物が実らなくなる伝説は、熊本県下益郡豊野村にもあります。こちらでは、糸石にある白木阿蘇神社を焼き払う時に、キュウリ(カボチャ、えんどう豆の場合もあります)の枯れた蔓で焼いたので、それ以来、その辺りではその作物を作ると罰が当るので作らなくなったというものです。病死人が出たり、カボチャの中から白蛇が入っていたなどといわれましたが、現在では迷信とされています。


 東北地方の糸ひき納豆の起源伝説。

 ”後三年の役に、父頼義に従って安倍貞任・宗任父子征討のため陸奥へ下った八幡太郎義家が、平泉付近(岩手県)に布陣し、近在から集めた大豆を煮させているときに、にわかに敵の襲撃を受けた。せっかく煮えた大豆を捨てるのも惜しいと、藁俵につめて馬の鞍につけさせ、応戦数日、戦い終わってかの大豆を取り出させてみると、大豆は藁についていた発酵菌によって、ヌルヌルと糸をひく、「納豆」になっていたというのである。”(「事物起源辞典衣食住編」(東京堂出版)より引用)


 越後伝説「大豆の大木」。(八石平や日光寺の場所???)
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、越後の上早川に杢助という百姓がいた。妻と娘三人暮らしだったが、貧乏ながらも楽しい月日を送っていた。ところがどういう前世からの約束か、妻はある日、とつぜんこの世を去った。杢助はそれを悲しんで、厚く妻のぼだいを弔うと共に、熱心な仏教信者になって、寺参りを続けていた。
 そのうち、ある人の世話で、杢助は後妻をもらったが、後妻のイトは気の強い女で、自分に娘のサヨが生れると、何かと先妻の娘シズに辛くあたるようになってきた。だが二人の娘は仲がよく、どちらもすくすく育って、今ではりっぱな娘っ子になってきた。それでもイトは、なんとかシズを追い出して、実の娘のサヨに家を継がせたかったが、なかなか適当な口実がなかった。
 ある日、イトは二人の娘を呼んで、大豆を一升ずつ与えて、それを畑に蒔かせ、どちらかたくさん獲れた方を、家の後継者にすると申し渡した。種の大豆はたしかにどちらも同じ一升だが、サヨのは生のままで、シズのは煎ってあった。当然ながらサヨの畑は全部芽生えたが、シズの畑は芽吹かなかった。ところがシズの豆にもただ一粒だけ生の豆が混じっていたと見えて、畑からは一株だけ芽生えて、それがどんどん大きく育って、やがて空に聳えるほどになり、枝を四方に広げ、秋になると、枝いっぱいりっぱな実を結んだ。かくて、サヨの畑の豆はふつうの出来だったが、シズの畑の豆は、一本の豆の木からなんと八石の豆が獲れた。イトは目の前に積まれた、シズの豆の俵の山を見て驚くと共に、すっかり前非を悔いて熱心な仏教信者になった。
 その畑は今も「八石平」といわれ、また径四〇センチの豆の大木の一部は、真言宗日光寺に寄進されて、観音堂に保管されているとか。(『越佐伝説』)”


花言葉は、親睦

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橙(だいだい)

 「橙の木が育たぬ禁忌」

 軍記物語「陸奥話記」に身長1.8m余りで色白という記録があり、巨人といわれた安倍貞任(あべのさだとう)は、前九年の役(1051〜1062)において源頼義、義家親子の軍と戦い、厨川(くりやがわ)の柵で決戦を挑み、討ち死にしました。
 岩手県内には安倍貞任の伝承があちこちに残っていますが、なぜか遠く離れた京都の保津川添いの丹波の宇津周辺にも残っています。

 昔、宇津周辺の里に流れ着いた巨人の落武者がいました。その落武者が帝に背いた東夷だということがわかったので、村人は彼を殺して土塚に葬りました。ところが、翌朝、殺したはずの落武者が現れたので、村人はまた彼を殺して土塚に葬りなおしました。しかし、彼が再三生き返ったので、村人達は陰陽師に伺いを立てると、陰陽師はこう言いました。
「この者は既に幽界の者ですが、強すぎるので地獄でも受け入れかねてこの世に返されたのです。彼の遺骸を7つに切って東西南北に葬り、橙のとげをもってとめるときは再び生き帰ることはありません。」
 里人達が陰陽師の言葉通りにしたところ落武者は二度と生き返らなくなりましたが、その時からこの里には橙の木が育たなくなりました。
 「諸国物語」によると、この土地には、頭を葬った貞任峠を中心に、肩を埋めた肩谷、足手山、人尾峠など、貞任にまつわる7つの身体の部分がついた場所があり、それぞれに小さな地蔵堂があるそうです。


 肥前伝説「ダイダイの由来」。
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、肥前のあるところに二人の姉妹がいた。成人して、姉は財産家に嫁ぎ、妹は貧しい山番と結婚した。だから妹は生計を助けるために薪を背負って、毎日町へ売りに出かけていった。時には薪が売れ残ることもあったが、妹はそれを姉のところへ届けようとはせず、いつも海へ捨てていた。なぜかというと姉は貧しい妹が町で薪を売り歩いているのを迷惑に思っていて、たまに道で出逢っても顔をそむけて、よそよそしい素振りをしていたからであった。
 ある日、妹はいつものように売残りの薪を海に投げ終って、いざ家に帰ろうとしたとき、誰かに後から呼び止められた。思わず振り返ると、海からひとりの女が現われて、妹を海の竜宮へ案内しようといった。妹が誘われるままに女についてゆくと、女は道々、もし帰る時乙姫さまが土産のことを尋ねたら、必ず黒い猫が欲しいと答えなさいと教えた。
 妹は竜宮での楽しい日々を終り、さて帰ろうとした時、やはり乙姫さまは、土産には何が欲しいかといいだした。そこで妹はかねて教えられた通り、黒い猫がほしいといって、毛のつややかな黒猫を一匹貰い受けた。その時乙姫さまは、毎日猫に小豆を五合ずつ食べさせなさいと教えた。
 ひさし振りに妹が家に帰ってみると、とつぜん妻がいなくなって心配していた夫も、事情を聞いてすっかり喜んだ。夫婦共々黒猫を可愛がって、毎日小豆を五合ずつ食べさせていた。するとふしぎな事に、黒猫は毎日五合ずつの黄金の糞をした。お陰で妹夫婦は、たちまち大金持となった。
 そんな話を知った姉は、日頃ろくろく付合もしていなかったくせに、妹に家にやってきて、お世辞たらたら一日でよいから黒猫を貸してくれといいだした。根が優しい妹夫婦は、ふだんの姉の仕打など忘れて、心よく猫を貸し与えた。喜んで猫を借りて家へ帰った欲の深い姉は、猫が一日五合ずつの小豆を食べて五合ずつの黄金の糞をするのなら、もし一日一升ずつの小豆を食べさせたら、きっと一升ずつの黄金の糞をするだろうと、虫のよいことを考えて、それを実行した。するとかわいそうに黒猫はお腹がいっぱいになりすぎ、苦しみながら死んだ。
 報せを受けた妹はすぐ姉の家に駆けつけて、文句ひとついわずに猫の死骸を受けとって、自分の家に庭の隅にねんごろに葬ってやった。するとその跡から木が芽吹いて、たちまちのうちに大きく育ち、見るもりっぱな大きい黄金色の球果を稔らせた。いうまでもなくその実がダイダイである。”


花言葉は、温情・泰平

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タイム

 ギリシャ神話に登場する美女ヘレネの涙から生まれたという花は二つあります。一つはタイムで、もう一つはエリキャンペーンです。

 タイムは古代ギリシャの昔から、勇気と優雅の象徴とされたハーブであり、勇気を強めるための入浴剤として騎士に好まれていました。「彼はタイムの香りがする」という言葉は、当時、男性に対する最高の褒め言葉でした。
 ヨーロッパの女性達は、十字軍に参加する夫や恋人に、タイムの小枝を添えて刺繍したスカーフを贈って送り出したと言われています。

 タイムの名前の由来については様々な説があります。ギリシャ語のthymus(勇気)が語源だとする説、thuo(匂う)に関係があるとする説、thyo(生け贄)に由来するという説、thymon(防腐)が語源だとする説などがあります。

 ちなみにタイムの和名は、立麝香草(たちじゃこうそう)です。


 「4人の泥棒の酢」のお話。

 1630年、南フランスのツールーズというところでペストが大流行しました。多くの住民が熱病で倒れて死んでいきました。人々はペストを恐れ、病人のいる家や病死した人のいる家には近付きませんでした。
 ところが、家々に忍び入って病死した人の遺体を探って、宝石や貴金属を盗む4人組の泥棒があらわれました。後にその4人組の泥棒達は捕えられました。取調べの役人達は、人々が恐れて近寄らないペスト患者の遺体を泥棒達が平気で探ったわけを追求しました。泥棒達は、秘密の薬を体に塗って感染を防いでいたのだと白状しました。
 4人組の泥棒達の秘密の薬とは、殺菌性のあるセージ、タイム、ローズマリー、ラベンダーなどのハーブを、殺菌力の強い酢(ビネガー)に浸してつくったものでした。この酢の話はたちまちフランス中に広まりました。人々は泥棒達が体に塗った酢を、「4人の泥棒の酢」と呼んで、ペストの感染を防ぐ特効薬として使いました。

 その後、18世紀の前半になって、今度は南フランスのマルセーユというところでペストが大流行しました。このときにも、別の泥棒達が、「4人の泥棒の酢」を使って、ペストにかかった人々の家に侵入して荒稼ぎをしました。


花言葉は、活動・勇気

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田芋(たいも、ターンム)

 田芋(ターンム)は、田んぼで栽培される里芋の一種です。親芋に小芋がたくさんつき、繁殖力が旺盛なことから子孫繁栄の象徴とも言われ、沖縄の正月料理などに使われます。


 沖縄の金武町の田芋の伝説。

 昔、中城(なかぐすく)の小さなお寺に金武(きん)の村出身の和尚さんがいました。ある年、和尚さんは久しぶりに金武の村に戻り、田植えが終ったばかりの田んぼの畦道を散歩しました。すると、しなやかな長い茎に大きな葉っぱが一枚ずつついた植物を見つけました。和尚さんは見たこともないその植物が気になり、泥の中から掘りおこしてみると、黒っぽい芋が出てきました。和尚さんはその植物を中城の寺に持ち帰り、庭の片隅につくった小さな田んぼに植えました。
 和尚さんはしばらくその植物のことを忘れていましたが、やがて思い出して掘ってみると、芋は大きくなっており、そのまわりには小芋がいくつもついていました。和尚さんは芋の皮を剥いて煮て食べてみました。とても美味しい芋でした。稲の不作の年にその芋があれば村人達が餓死しないですむと考えた和尚さんは、村人達に芋を分け与え、栽培方法を教えました。
 この植物はやがて琉球中に広まり、田芋(ターンム)と呼ばれるようになりました。

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高黍(たかきび)

 タカキビSorghum vulgare(Sorghum bicolor?)は、イネ科モロコシ属の一年草です。
 日本では動物の飼料として用いられることが多い作物です。
 別名として、ソルガム、モロコシ、高粱(コウリャン)等があります。


 愛媛県周桑郡の民話。

 昔、ある所に老夫婦が年とってから授かった一人娘と一緒に暮らしていました。老夫婦は毎日山の畑で働き、娘は一人で機織りをしながら留守番をしていました。
 ある日、天邪鬼(あまのじゃく)が娘を騙して着物を奪い、柿の木にくくりつけて、娘に化けました。しかし、仕事から戻った老夫婦は娘でないことに気付きました。そこへ娘の泣き声が聞こえてきました。老夫婦は外へ出て、柿の木の上にくくりつけられていた娘を助け出し、天邪鬼の仕業であることを知りました。
 天邪鬼は高黍畑に逃げましたが、お爺さんは侍を雇い、天邪鬼を刀で切ってもらいました。その時に天邪鬼の血が高黍の根についたので、それ以来、高黍の根は赤くなりました。
 (天邪鬼の伝説は各地にありますが、登場する根の赤い植物は蕎麦の場合がほとんどです。)


 上記の民話の他に、伊吹島(香川県観音寺市)にもタカキビの登場する民話が伝えられているようです。下記のサイトでご覧になることができます。
 (HP「伊吹島 歴史散歩」http://www6.ocn.ne.jp/~kmiyoshi/)

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竹(たけ)

 中国の伝説「斑竹の由来」
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、中国の舜帝には二人の后がいた。一人は堯王の娘だった。もう一人は蛾皇女英という妃で、帝はどちらも深く寵愛していた。しかし天命はいかんともしがたく、帝はついに崩御して、亡骸は湘浦の南の蒼海の野に葬られた。
 二人の后は帝の崩御を痛く悲しんで、いつも湘浦の岸に立って、心ゆくまで泣いていた。するとその涙がそばの竹にかかって、斑点が出るようになった。人々はふしぎに思って、それを他に移し植えてみたが、やはり斑点がでるので、斑点ある竹のことが世に広まったといい伝えられている。(『支那台湾朝鮮神話と伝説』)”


 中国の伝説「竹の中から生れた男」
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、中国の西南はるかなところに、夜郎県と呼ばれる地方があった。ある時、土地の娘が河に入って、着物を洗いそれをすすいでいると、そこへ節が三つ付いた一本の竹が流れてきて、娘の足もとにまつわりついた。するととつぜん足もとで、子供の泣声がした。娘は驚いてその竹の棒を拾いあげてみると、泣き声は正しく竹の中からであった。そこで娘がその竹を割ってみると、中から可愛い男の子がでてきた。
 娘はその児を抱きかかえて家に帰り、大切に育てた。子供は健やかに育ち、やがて成長すると、知も勇も衆にすぐれて、後にはついに夜郎県の主、竹王となった。ところがたまたまそのころ、漢の武帝が西南地域の夷(えびす)を征伐するために、大軍をひきいてこの地方へやってきた。竹王はその勢を見て、敵対するの愚を知って、武帝の軍勢を心よく迎えた。お陰で夜郎県は荒されることもなく済み、武帝もまた竹王の明智を買って玉印綬を授け、正式に夜郎県の王にした。竹王は国をよく治めたので、竹王が死ぬと、住民たちは大きな廟を立てて祀ったが、これがこの地方の竹王神社の由来である。(『支那台湾朝鮮神話と伝説』)”


 「竹取物語(平安時代の作り物語)」のお話。

 竹取の翁が、竹の中から赤ん坊を見つけました。竹取の夫婦は、その赤ん坊をかぐや姫と名付けて育てました。かぐや姫を育てているうちに竹取の夫婦は次第に裕福になっていきました。
 かぐや姫はわずか三月で美しく成長しました。かぐや姫の評判を聞いて多くの若者がかぐや姫に求婚しました。とりわけ熱心だったのは、石作皇子(みこ)・車持(くらもち)皇子・阿部御主人(みうし)・大伴御行・石上(いそのかみ)麻呂の5人でした。かぐや姫はこの5人の求婚者達にそれぞれ、仏の御石の鉢・蓬莱(ほうらい)の玉の枝・火鼠(ひねずみ)の裘(かわごろも)・竜の首の珠・燕の子安貝を取って来るように希望し、その難問を果たした者と結婚することを約束しましたが、結局5人とも失敗に終わりました。
 かぐや姫はその後、帝の求婚も退けて、八月十五夜に、不死の薬を残して月の都に帰っていきました。


 四国・九州地方に伝わる「竹の子童子」のお話。

  桶屋(おけや)の三吉が竹薮に竹をとりにいくと、竹の中から「助けてくれ。ここから出してくれ。」という声が聞こえました。桶屋の三吉は、声の聞こえてきた竹を切ってみました。すると、中に小さな人間が居ました。竹の子童子でした。童子は、助けてくれたお礼に三吉を出世させてから天に帰って行きました。

 この話は、桶屋によって系統的に語られたらしく、人名まで共通して伝えられています。竹取とは、つまりは竹細工職人で、竹取説話は、そうした職人の文芸にふさわしかったからだと言われています。


 発明家のエジソンは、白熱電球のフィラメント(抵抗線)に竹を使って、長時間もつ電球をつくることに成功しました。エジソンは、各地の竹を調べ、ケイ酸を多く含んだ土地に育った京都の男山石清水八幡宮のマダケが特にふさわしいことを見つけました。その後数年間は竹を炭素化したフィラメントが使われましたが、じきにタングステンの細い線が使われるようになりました。


 フィリピンの民話「マラカスとマガンダ」

 昔、神は世界をつくりました。そして地球をつくりました。ある日、鳥の王が世界を旅する途中で、羽を休めるために竹にとまりました。すると竹の中から竹を叩く音が聞こえ、「鳥の王様、どうかこの竹をつついて私を自由にして下さい。」という声がしました。王が罠かもしれないと考えていると、小さなトカゲが竹を登り始めました。おなかが空いていた鳥の王は、トカゲめがけて竹をつつきました。すると竹が割れて、中から褐色の肌をした若者が出てきました。若者は、マラカスと名乗り、自分の友達も自由にしてくれるように頼みました。鳥の王が若者の示した竹を割ると、美しい娘が出てきました。娘は、マガンダと名乗りました。
 マラカスとマガンダは最初の人間でした。彼らは、美しい地上に出してくれた鳥の王に、一緒に暮らしてもらおうとしましたが、鳥の王は、鳥の家は空だからできない、と断りました。そして、そのかわりに、人間が幸せになるようにいつも歌を歌ってやろう、と言いました。
 鳥の王は、二人を背中に乗せて、彼らの国を見せてあげました。青い海の中に緑の島がたくさんありました。それがフィリピンでした。

 タガログ語で「マラカス」は「たくましい」、「マガンダ」は「美しい」を意味するそうです。


 朝鮮の昔話「娘タエと竹」
 (山室静訳「新編世界むかし話集」より要約)

 昔、夫婦とタエという名の美しい一人娘がいました。タエが11歳の時、母親は病気で亡くなり、父親は小さいタエのために後妻をもらいました。しかし、タエの継母は、どうにかしてタエを厄介払いしたい、と考えていました。
 ある日、父親が狩りで遠出をしたので、継母は毒入りの餅をつくってタエに食べさせて、殺しました。継母はタエの死体を家の裏の畑に埋めました。すると、タエが埋められた場所に長い茎が生えてきました。ある男が継母に、その茎で笛がつくりたいと言ったので、継母は鎌で茎を切って男にあげました。男がそれを口にくわえて吹くと声が聞こえてきました。
「お父さん、お母さん、あなた達の娘のタエは新しいお母さんに殺されました。この茎は私の骨の一本です。」
 男は笛を吹いて歩き回りました。遠出から帰った父親は、笛の声を聞いて事実を知ると、継母を殺してしまいました。
 タエが埋められた場所からはいつも同じ長い茎が生えてきました。人々は娘の名をとって、その長い茎をタエ(竹)と呼ぶようになりました。


 竹は、英語ではbamboo、ドイツ語ではBambus、フランス語ではbambouと書き、いずれもマライ語のbambuから転訛(てんか)されたもので、竹林の猛火によって生じる爆発音によると言われています。

 
 竹類はめったに開花しませんが、開花の時には全竹林がいっせいに開花し、数年にわたって全栄養を使い果たし、ほとんど枯死してしまいます。竹は開花結実すると枯死する性質がありますが、、開花した場合、地下茎から細い小さい竹が発生し、これから地下茎が伸びて次代の竹になるので、、二年目から施肥・土入れを行うと5,6年で回復します。


 「花物語」には、孟宗竹・孟宗筍(もうそうだけ)の項目もあります。


花言葉は、節度・節操のある

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蛸樹(たこのき)

 タコノキはタコノキ科タコノキ属の常緑低木です。
 幹から太い気根をタコの足のように出す様子から名付けられました。


 パラオ諸島のオラカル神話のお話。
 (土方久功著「パラオの神話伝説」(三一書房)より引用)
 (PCで記述できない部分については意訳してあります)

 ”昔、ア・イミリーキのガルコロンの女(一説にはムケル古村のツラン女神ともいう)が蛸樹の実を産んだが、蛸樹の実を産んだ事を恥じて海に捨ててしまった。蛸樹の実は流れてガラルヅの西海岸オブハルに来た。その時、グルルムオンの村の者達が魚を取りに行っていた処、一人の男が魚すくいの道具ですくうと蛸樹の実が入って来た。つまらない蛸樹の実なので捨てたが、又次の者の魚すくいの道具に入った。又捨てると又三人目の者の魚すくいの道具に入った。その男はこの蛸樹の実をとって置くと、それから大変に沢山魚がとれた。それでその男はこの蛸樹の実を家に持ち帰ってグルルムオンの禿山に植えた。(一説には、この蛸樹の実を拾ったのはカイヨン、ゲヨンという二人で、クグミーユという所に植えたという)蛸樹は大きくなり、この蛸樹から大きな蛇が生れた。あまり大きな蛇なのでウルルムオンの人々は気味悪く思って呪術を施してこの蛇を追いやった。−−クレベヤン舟着きのマングロープ水道の曲りは、この時蛇が逃げた跡だといわれる。”

 この大蛇は人間を呑み込んで人間の子を生みます。それがオラカルで、神話は続きます。


 ミクロネシアのギルバート諸島の神話のお話。

 赤い皮膚を持つ巨人の首長アウリアリアが、雷のように光る目を持った女神ネイ・シツアビネと恋に落ちました。しかし、その恋は実を結ばず、彼女は病気になって死んでしまいました。やがて彼女の墓から三本の木が生えてきました。頭から生えてきたのは椰子、膝から生えてきたのはアーモンド、かかとから生えてきたのはタコノキでした。


 「ハラ(タコの木)の伝説」
 (エギル・マグネ・フセボ監修・著、新井朋子著「ALOHAハワイ語 神話編」(イカロス出版)より引用)

 ”ハラはカホラヴェ島を除いて、ハワイ全島に自生しています。
 伝説によると、ペレはニイハウ島からハワイ旅の途中に、ハラの木の枝にからまって出られなくなったことがありました。そこで弟のパアオが、ヒョウタンに海水を入れ、それをハラにかけると、枝がしぼんでペレは助かりました。自由になったペレは猛烈に怒り、そのハラの木をばらばらにして、撒き散らしました。そのためハラはハワイ中に広がったということです。”


 ミクロネシアのヤップ島の民話「パンダヌスの実と兄妹」。
 (秋野癸巨矢作「ミクロネシアの民話」(太平出版社)より要約)

 母親のミル・アルは死ぬ前に幼い息子のラウイヤと娘のコラケルに言いました。
「私が死んで土の中に埋められても、七日たったら掘り起こしておくれ。そうすれば生き返ることができるからね。これは昨夜私のところへ飛んできたアホウドリのお告げだから忘れないで。」
 アホウドリはヤップ島の人々の神様でした。ヤップの人々は、死んでも生き返ることができるように神様にお願いしていたので、アホウドリのお告げは大切なことでした。
 母親を埋葬した日は、二人は母親の墓のそばで眠りました。翌日、二人の兄妹は母親のお墓のそばに、二人が七日間すごすための小さな小屋を建てました。三日目、二人は一日中お墓の周りで遊びました。四日目、遊び飽きた二人は密林の奥で巨大なパンダヌスの木を見つけました。とても美味しい実がなっていたので、二人は母親にもあげようと思い、お墓に5、6個の実を置いて、その夜はパンダヌスの根元で眠りました。五日目、二人はパンダヌスの周りで遊び、疲れると美味しい実を食べました。六日目、二人は海を眺めながら美味しい実を食べました。
 七日目の真夜中、母親のミル・アルは墓の中で目覚め、子供達が自分を掘り起こしてくれるのをじっと待ちましたが、太陽がのぼり始めても子供達は来てくれませんでした。母親は再び永遠に目覚めることのない眠りにつきました。ラウイヤとコラケルはまだ夢中でパンダヌスの実を食べていました。そのため、一度死んだ人間は二度と生き返ることができなくなりました。

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橘(たちばな)

 古事記のお話。

 垂仁(すいにん)90年、新羅(しらぎ)の王子天日槍(あめのひぼこ)四世孫の田道間守(たじまもり)は垂仁天皇の命を受け、勇んで常世(とこよ)の国へ非時香菓(ときじくのかぐのこのみ(橘の実だと言われています))を探しに船に乗って出発しました。非時香菓はたいへん香りのよい果実で常世の国では一年中実っているということでした。
 田道間守は、非時香菓を手に入れて10年後に帰国しました。ところが、垂仁天皇は非時香菓を待ちながら前年に亡くなっていました。田道間守は、泣きながら垂仁天皇の陵前に非時香菓を献上し、帰国の報告をしました。そしてそのまま息絶えてしまいました。

 三宅連(みやけのむらじ)・糸井造(いといのみやつこ)・橘守(たちばなもり)らは、田道間守の子孫と伝えられています。


 橘は、ミカン科ミカン属の常緑低木で、日本橘(にっぽんたちばな)、大和橘(やまとたちばな)とも呼ばれます。橘の果実は、ユズに似た香りがありますが、果肉は酸味が強く食用になりません。


 中国の伝説「橘中楽(きっちゅうらく。又は、きっちゅうのらく)」(「幽怪録」より)。

 昔、巴きょう(はきょう。きょうは、工へん+おおざと)に広大な橘畑を所有している人がいました。ある年、橘の実を収穫したところ、三斗(一斗は約18リットル)入りの甕ほどもある、非常に大きな実がいくつかありました。その大きな実を割ってみると、どの実の中にも身長が一尺(約30.3cm)ほどで、眉毛も髭も真っ白な二人ずつの老人が向かい合って将棋をさして(又は、碁を打って)いました。そのうちの一人の老人が言いました。
「橘中の楽は商山(しょうざん)の四皓(しこう)に比べても劣らぬ。ただ木の根やへたが弱かったので摘まれてしまったのだ。」
 そして、老人達は白竜に変身して空高く飛んで見えなくなりました。
 商山の四皓は、秦の時代に戦乱を避けて商山に隠遁した4人の隠士のことで、4人とも眉毛も髭も真っ白だったそうです。
 この故事から、「橘中楽」とは、将棋や囲碁の楽しみを表すようになりました。


 中国の蔵(チベット)族の昔話「仙女と魔女」

 昔、遥か遠くの国に一人の王子がいました。王子は親切にしてあげた老婆から美しい仙女のツォーマ姫に会う方法を教えられました。王子は深い森の奥の橘の木になっている金色の実を持って宮殿に戻り、皮をむきました。するとツォーマ姫が現れました。王子はツォーマ姫と結婚しましたが、ツォーマ姫の侍女として雇われた娘は魔女でした。魔女はツォーマ姫を湖に突き落として、ツォーマ姫になりすましました。
 ツォーマ姫が金色の蓮の花に化身すると、魔女は蓮を焼き払いました。ツォーマ姫がクルミに化身すると、クルミの実を百姓達に与えてしまいました。しかし王子は本物のツォーマ姫を見つけ出して魔女を退治し、魔女の宮殿で楽しく暮しました。


 日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)のお話。
 (このお話には植物の橘は登場しません。)

 第十二代景行(けいこう)天皇の皇子、日本武尊は東国遠征の勅命を受け、妃の弟橘媛命を連れて旅立ちました。
 相模の国では、妃の弟橘媛命と一緒に野原で四方からの火攻めにあいましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)で草を薙ぎ倒して難を逃れました。それ以来、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ばれるようになり、その場所は焼津(やいづ)と呼ばれるようになりました。
 日本武尊は走水(はしりみず)の村から対岸の上総の国に渡ろうとしましたが、海は何日も荒れ続けていました。日本武尊は走水に滞在して海が静かになるのを待ちましたが、一向に収まる気配がなかったので、とうとう船を出しました。しかし、日本武尊の船は進むことも戻ることも出来ず、沈没しそうになりましたが、その時、弟橘媛命が海神の怒りを鎮めるために、日本武尊の身代わりになって海に身を投げました。すると、波風は静まり、日本武尊は相模の国に渡ることが出来ました。その時に船が水上を走るように進んだので走水という地名ができたそうです。


 能曲「草薙(くさなぎ)」のお話。

 比叡山の恵心僧都(えしんそうず)が天下泰平祈願のために熱田(あつた)に赴き、最勝王経(さいしょうおうきょう)を講じていると、男女二人組の花売りが現れました。女は僧都に橘の花をすすめました。二人は、日本武尊(やまとたける)と橘姫だと名を明かし、闇の中に消えていきました。
 後場、日本武尊と橘姫が現れます。日本武尊は草薙の剣の威徳を示し、最勝王経の徳をたたえます。


 『三国伝記』の伝説「橘の虫」。

 昔、播磨国に一人の僧がいました。僧の寺の庭にある橘の木は、枝振りもよく、季節にはきれいな花を咲かせて、味のよい実をたくさんつけたので、僧はその橘を大切にしていました。
 寺の隣には年とった一人暮しの尼が住んでいました。ある時、尼は重病にかかって床につき、食事もほとんど喉を通らなくなりましたが、ふと垣根越しに見た隣の寺の橘の実を見て、死ぬ前に一度食べてみたいと思いました。尼は人に頼んで僧に伝えてもらいましたが、僧は実をあげるのを断りました。尼は吝嗇(けち)な僧を恨み、「極楽へ行きたいと思っていたが、やめて、虫となってあの橘の木にとりついて枯らしてやる。」と言い続けて死んでしまいました。
 僧はそのことを知らずに相変わらず橘を大切にしていましたが、橘の実の袋の一つ一つに小さい虫が入るようになりました。その後も毎年多くの虫がつき、樹勢が弱り、虫の入った実が少ししかつかなくなったので、僧はその橘を切り倒してしまいました。


 葛洪(かっこう)著「神仙伝」のお話。

 蘇仙公(そせんこう)は早くに父を亡くし、母と二人で暮らしていました。蘇仙公が得道して数年後、仙人の仲間たちが蘇仙公を迎えにやってきました。蘇仙公は嘆く母親に箱を渡して言いました。
「来年、疫病が流行るでしょう。庭の井戸水1升と軒端の橘の木の葉1枚で一人の病人を治すことができます。何か必要な物ができた時には封じた箱を叩けば出てきます。ただし、決して箱を開いてはいけません。」
 そして、蘇仙公は雲の中に昇っていきました。
 翌年、疫病が流行すると、蘇仙公の母親は井戸水と橘の葉で病人を治療してあげました。また、不足の物があると箱を叩いて出しました。しかし、3年もたった頃、母親は箱を開けてしまいました。すると二羽の白鶴が箱の中から飛び去り、それ以後は箱を叩いても何も出てこなくなりました。
 母親が百余歳で亡くなると、村人達が葬りました。すると、東北の山を紫色の雲が覆い、蘇仙公が号泣する声が聞こえました。


 「四月のつごもり、五月のついたちのころほひ、橘の葉の濃く青きに、花のいと白う咲きたるが、雨うち降りたるつとめてなどは、世になう心あるさまにをかし。花の中より黄金の玉かと見えて、いみじうあざやかに見えたるなど、朝露にぬれたる朝ぼらけの桜に劣らず、ほととぎすのよすがとさへ思へばにや、なほさらに言ふべきにもあらず。」(「枕草子」より)


 『伊勢物語』のお話。

 昔、ある男(在原業平)がいました。宮廷の勤めが忙しかったので、妻にいつも愛情を注ぐことができず、妻はそれが不満でした。妻がそのことを男に訴えると、男は「もっと可愛がってくれる人に嫁いだらいいのでは」と言い、二人は別れ、妻は地方に嫁いでいきました。その後、男が出世して宇佐神宮へ派遣される勅使になって赴いた時、かつての妻が途中のある国の祗承(しぞう)の官人(勅使の下る時などに、まかない・饗応をする役人)の妻になっていることを聞いて、懐かしく思って招かれました。その家の宴の席で、男が女主人に酌をするように強要したので、女主人は仕方なく杯を差し出しました。男は酒の肴の橘をとって、
   五月(さつき)待つ 花橘の 香をかげば
       昔の人の 袖の香ぞする
   (五月を待って咲き出す橘の花の香りをかぐと、昔愛した人の袖の香りがする)
と詠みました。女は昔のことを思い出していたたまれなくなり、尼になって山に入りました。
 (この和歌は古今集139番にも載っています)


 北原白秋作詞の「ちゃっきり節」の最初の一節。

  唄はちゃっきりぶし、男は次郎長、
  花はたちばな、夏はたちばな、茶のかをり。
  ちゃっきりちゃっきりちゃっきりよ、
  きやァるが啼くから雨づらよ。


 橘は実さへ花さへその葉さへ
      枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木   聖武天皇(万葉集6-1009)


 京都御所紫宸殿の前庭には、「左近の桜」、「右近の橘」が植えられています。


 「花物語」の枸橘・枳殻(からたち)の項目にも橘の登場するお話があります。


残念ながら、花言葉を見つけることは出来ませんでした。

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ダチュラ

(ダチュラの和名は、朝鮮朝顔です。)
(別名には、曼荼羅華(まんだらげ)、気違いなすび等があります。)


 北米インディアン(ズーニー族)の伝説。

 昔、男の子と女の子が遊びに出かけた時に、神々が会議している所を見つけました。二人の子供は好奇心から会議場の回りをうろついて観察しました。二人は家に帰ると、母親に会議の様子を細かく報告しました。神々は二人の子供の好奇心とおしゃべりを怒り、二人をダチュラに変えてしまいました。それ以来、人々はダチュラを食べると、自分達が見たことについてしゃべり続けてしまうようになりました。


 中国の民話。

 ダチュラは、中国では「曼荼羅」とか「洋金花」と呼ばれています。

 科挙(官吏の登用試験)での進士の首席合格者を状元(じょうげん)といいました。
 皇帝は、試験に合格したばかりの状元と接見し、美青年の彼を気に入り、娘の婿にしたいと申し渡しました。当時は皇帝の命令は絶対だったので、青年は姫君と婚礼をあげました。ところが婿殿は姫君に触れようとしませんでしたので、姫君は皇后に相談しました。皇后は皇帝に伝え、皇帝は年老いた内侍に任せることにしました。その夜、酒宴が催され、内侍は婿殿の酒の中に曼荼羅の種の粉を密かに入れて飲ませました。酔った婿殿は前後不覚になって眠りました。姫君は婿殿が女性であったことを知りました。

 薬効が消えると婿殿は秘密がばれたことに気付き、姫君の前にひざまずいて説明しました。状元の夫は科挙の試験を目指していたが病床に伏してしまったので、一緒に学んでいた妻が男装して替え玉受験をしていたのでした。
 後日、皇帝は内侍に、何を酒の中に入れたのか尋ねました。内侍は本当の名前を言いませんでした。当時、曼荼羅の種はリューマチや水虫の外用薬として使われ、有毒のため内服が禁じられていたからでした。内侍は麻酔薬として使えることを知っていたのですが、死刑になることを恐れて、「酔仙桃」という薬だと答えました。


 別の中国の民話(安徽省)。

 村に、喘息を長いこと患っている老人がおり、毎年、冬になると喘息はひどくなり、寝込みました。老人は喘息にかかってからはいつも刻み煙草を吸っていました。ある日、煙草をきらしてしまいましたが、嫁がお小遣いをくれないので煙草を買うことができませんでした。手持ち無沙汰で落ち着かなくなった老人は、土手の上に落ちていた乾燥しきった朝鮮朝顔の花びらを拾って揉み、煙草の代わりに煙管(キセル)につめて吸ってみました。老人はその香りが気に入ったので、冬にも吸うために、毎日葉と花を集めて干して保存しておきました。その冬からは、老人は喘息に苦しむことはありませんでした。
 近所に住む老人が不思議に思って喘息の治療法を尋ねました。老人は
「外国製の洋金花という煙草を吸っていたらよくなったのだよ。」
と答えました。近所に住む老人は、相手がお金を持っていないことを知っていたので、老人がどこで煙草を手に入れるのか見張りました。そして、老人が土手の朝鮮朝顔を吸っていることを知り、自分も試してみたところ、喘息が治りました。その噂はすぐに広まりました。
 朝鮮朝顔の花は洋金花という生薬になりましたが、有毒なので注意が必要です。


 有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」。

 江戸時代の外科医、華岡青洲は、ダチュラを主成分とする内服全身麻酔薬「通仙散」を完成させ、日本最初の全身麻酔による乳癌摘出手術に成功しました。
 有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」には、麻酔薬を完成させるために自ら人体実験を引き受けた彼の妻と母との葛藤や日本の封建社会における家と女の関係が描かれています。失明するほどダチュラの毒性が強かったことも書かれています。


 ダイアナ・ウェルズ著矢川澄子訳「花の名物語100」(大修館書店)より引用。

 ”インドの暗殺団はこの植物の毒を使って人を殺したし、公式に罪人を処刑するのにも使われた。
 (中略)
 朝鮮朝顔の親戚にジムソンウィード(白花洋種朝鮮朝顔。別名ジェームズタウン・ウィード)がある。1676年ナサニエル・ベーコンの反乱を鎮圧するためにジェームズタウンに派遣された兵士達が、サラダ用の野菜と間違えて朝鮮朝顔の葉を食べたことからそう呼ばれるようになった。食べた兵士達は11日間酔い続け、猿のように真っ赤になり、羽根布団の羽毛を飛ばしたり、糞便を投げ合ったり、キスをし合って訳のわからないことをまくしたてていたという。自分の領土を際限なく広げるという野望にとりつかれていたベーコンは、アメリカ原住民の地をやたらに侵攻し続け、ヴァージニア州の大半を手に入れた。彼の死と共にその反乱もおさまったが、ちょうどその年の出来事だったので、兵士達が酔っ払ったことも大きく取り上げられなかった。しかし、これ以降ジェームズタウンの名はこの植物と切り離せなくなってしまった。
 朝鮮朝顔にはスコポラミンが含まれており、今日では乗り物酔いの薬として用いられている。時化の海を航海する時や、実際に空を飛ぶ時にも役に立つ。あるいは仕事で高層ビルに登る人々にも有効だ。”


 ダチュラには、全草に幻覚性のアルカロイドが含まれています。モルヒネのような直接的な鎮痛効果はありませんが、痛覚が鈍くなります。麻酔薬や喘息薬として知られていますが、猛毒なので素人は使ってはいけません。ダチュラによる食中毒は世界でも日本でもありました。

 「朝鮮朝顔」は、外国産の朝顔に似た花という意味で名付けられました。
 また、鶏の卵大の実の外側が棘でおおわれていることから、英名はソーン・アップル(棘の林檎)といいます。エンジェル・トランペット(天使のラッパ)やマッド・アップル(狂気の林檎)という呼び名もあります。

 花や香りがよいので花壇に植えられ、実の形がおもしろいので生け花にも使われます。


花言葉は、愛敬、偽りの魅力・変装

朝鮮朝顔(ちょうせんあさがお)

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煙草・莨(たばこ)

 コロンブスは1492年にサンサルバドル島やキューバ島に上陸し、土人達から芳香性の強い植物の葉をもらいました。コロンブス一行はこの葉が土人達にとって貴重な物であるとは感じていましたが、喫煙を知りませんでした。しかし船乗りの中には喫煙を覚えた者がおり、彼らは帰国後に喫煙の風習を伝えることになりました。


 タバコは最初の頃は、薬草あるいは観賞用として植えられることが多かったようです。フランス使節としてリスボンに駐在していたジアン・ニコは、タバコの葉の医薬的効果に興味を持ち、1559年自宅の庭に植え、その種子をフランス王と頭痛持ちの王妃に送りました。これがフランスに入った最初のタバコで、ニコを記念してタバコの学名はニコチアーナと命名されました。
 17世紀の初めにタバコ嫌いの宰相のリシュリーは、タバコに課税し、タバコ輸入税も課し、薬用タバコ以外の自由販売を禁じました。太陽王と呼ばれたルイ14世もタバコ嫌いでした。ルイ14世は国庫収入増加のためにタバコの栽培・製造・販売を全て政府の独占事業にしました。フランス革命の時に独占は撤廃されましたが、国庫収入が減ったためにナポレオンが専売制度を復活させました。ナポレオンは喫煙嫌いで、つねに嗅ぎタバコを愛好していました。


 イギリス人のシンボルのようなパイプタバコも16世紀末にはまだ一般的ではありませんでした。
 ウォーター・ローリーが喫煙していた時に、彼の召し使いが、主人の頭が火事だと思って水をかけたという話が伝えられています。ウォーター・ローリーはイギリスの紳士階級に喫煙を広めるのに貢献し、のちに喫煙の守り神とされました。


 トルコへは、16世紀末にパイプタバコの喫煙の風習が伝えられました。トルコのスルタン、アメッド1世はタバコ嫌いの上に、喫煙による火事が多かったので度々禁煙令を出しました。
 スルタンのムラッド4世は、1633年のコンスタンチノープルの火災を機会に、夜毎変装して禁令に違反して密かに喫煙する者を捜し出し、その者達を斬首・絞首などの極刑に処しました。その数は一生の間に25000人以上と言われています。それにもかかわらず喫煙の風習は残りました。


 中国では、最初は医薬として用いられていました。16世紀末期に明の軍隊が雲南を征服した時、この軍隊の中で喫煙をしていた者だけがマラリアにかからなかったため、喫煙はマラリアの特効薬として急速に広まり大流行しました。その後厳しい禁煙令が出ましたが効き目はありませんでした。


 カナダの民話「青い山からきたタバコ」。

 カナダの森の奥の湖の岸辺に夫婦と二人の子供が住んでいました。子供達が12歳になった時、疫病が流行り、子供達は死んでしまいました。母親も子供達の死を嘆き悲しんで死んでしまいました。一人残された父親は人々のために尽くす毎日を送って年をとり、「お爺さん」と呼ばれて人々から大切にされました。
 ある日、お爺さんは不思議な光景を見ました。青く霞んだ山から飛んできた見たこともない鳥が落ちてきて、天から降りてきた炎の柱に焼かれたのでした。お爺さんが鳥の落ちたところへ行くと、そこには青い山の小人(妖精)がいました。小人はお爺さんに小さな種を渡し、鳥の焼けた灰の中に蒔くように言いました。蒔かれた種はすぐに芽を出して大きな葉をつけ、たばこ畑ができました。小人はお爺さんに「この葉を乾燥させてパイプにつめて吸うと楽しい気分になるでしょう。」と言って、大きなパイプを渡して青い山へ飛んでいきました。
 タバコはこうしてカナダの森のインディアンに伝わりました。


 「タバコの起源」
 (C・バーランド著、松田幸雄訳「アメリカ・インディアン神話」(青土社)より引用)

 ’一緒に旅していた若い男と女が、恋に落ちた。彼らは、楽しい交わりのため、小道を離れた。彼らは結婚に合意して、喜んだ。のちに、狩りの途中、男は、彼らがはじめて結び合った場所に戻り、そこに香りのある葉をつけた綺麗な花を見つけた。彼はそれを種族の者のところへ持ち帰り、発見について語った。彼らは言った、「乾いたら、その煙を吸って、”われわれが一緒に来たところ”と呼ぼう」。種族の長老たちは、煙草を吸うと男と女があれほどすっかり仲良く幸せになるのだから、これからずっと種族間の平和と友好を促進するための会議では煙草を吸うことにしたと、明言した。’


 アメリカ原住民のパイプにまつわる神話。
 (マイケル・ジョーダン著・松浦俊輔他訳「世界の神話」(青土社)より引用)

 ”初めに、善の大精霊の一人が、森を歩いている間に疲れてきたので、火を起こし、その近くで横になって眠っている。そこへ、そのライバルの一人である悪の精霊がやってきて、善の精霊が眠っているのを見つける。悪い方は、いたずらするのにいい機会だと思い、善の精霊をそっと押して転がす。すると、やがて髪の毛に真っ赤な炎がつく。この時には、善の精霊も目を覚まし、びっくりして、髪の毛を燃やしながら、森の中を走り去っていく。その火のついた髪の毛が風に乗って運ばれて、落ちた地上に煙草が生える。
 しばらくたって、部族の大精霊は部族民をレッド・パイプストーン・ロック(パイプ用の粘土の採石場−−およそ長さ3キロ、高さ9メートルの、赤い石英の採れる切り立った崖)の側に集めると、そこで石のかけらを削りとって、それでパイプを作る。大精霊は、赤い土は我々の肉であり、パイプは我々の平和を象徴すると説明する。大精霊はパイプを吸い終えると岩の中に消える。それから、その場所は、アメリカ原住民にとって聖なる場所となる。”


 北米インディアンのクロウ族の創世神話では、太陽の子である星がたばこに変身したとされています。タバコの植え付けと収穫そのものが成人儀礼となっています。

 ユチ族の民話によると、昔、若い男女が抱き合ったところに生えた草がたばこで、以来友情を結ぶ際には、パイプでタバコを吸いあって、それを確かめ合うようになったそうです。

 ユロク族には、煙草を吸って神聖な力を得た男が、悪霊を退治して部族を救う話が伝えられています。


 C・レヴィ・ストロース著「神話の論理」第1巻「生のものと火にかけたもの」より。
 (日本嗜好品アカデミー編「煙草おもしろ意外史」(文芸春秋)より孫引き引用)

 (南米ブラジルのカリリ族の神話より)

 ”造物主がまだ人間といっしょに暮らしていた頃のこと、人間が造物主に野豚を味わわせてほしいと頼んだ。野豚はまだこの世に存在しなかったのである。そこで、大いなる祖父(造物主はこう呼ばれていた)は、十歳未満の子供だけを村に残して人々がみんな出かけた隙に、この子供達を野豚の仔に変えてしまった。村人が帰ってくると、大いなる祖父は彼らに狩りに行くよう勧める一方で、仔豚たちを一本の大きな木を伝って天に登らせた。これを見た村人達は、仔豚の跡を追って天に登り、仔豚を殺し始めた。そこで造物主は、蟻たちに命じてこの木を切り倒させたが、ヒキガエルたちが体をはってこの木を守っていた。こんにち、ヒキガエルの背中が腫れ上がっているのは、この時蟻に刺された痕である。
 蟻たちは木を引き倒すことに成功した。村人達は地上に戻れなくなったので、ベルとをつないで一本のロープを作った。しかし、ロープは短すぎて、村人達は次々に落下して骨を折ってしまった。「こんにち、我々の手足の指が多くの箇所で折れており、体が曲がるのは、我々の祖先が落下した時に負った骨折がもとになっている」という。
 村への帰途、人々は野豚の仔に変えられた子供達の肉を満喫した。そして、大いなる祖父に(子供達が連れ去られたところ、すなわち)天から降りてきて村に戻ってくれるように懇願した。「しかし、大いなる祖父はそれを聞き入れず、代わりにたばこをくれた。人々はそれをバッゼと呼んでいる。いまも時を定めてたばこをお供えするのはこのためである」という。”

 (ブラジル南西部のボロロ族の神話より)

 ”漁師たちは、魚を焼いて食べるため、水辺に居をかまえていた。一人の漁師がナイフでハッドゴという魚の腹を裂いてみると、中にたばこが入っていた。
 彼はその魚を隠し、仲間には教えずに夜の間だけこっそりと喫煙した。しかし、仲間達は匂いを嗅ぎつけて、男がたばこを吸っているところを突き止めたので、男は仲間とたばこをわけあうことにした。彼らはたばこの煙を吐き出さずに飲み込んでしまった。すると、不思議な霊がチスイコウモリの姿で現れて、「そんなふうに喫煙するんじゃない」と言った。「まず、『偉大なる祖父よ、煙を受け取ってください。そして、私に災いがふりかからないようにお守りください』と言って、吹かすんだ。さもないと、おまえたちには罰があたるぞ。なんとなれば、このたばこは私のものだからだ」。しかし彼らは従わなかったので、次の朝には彼らはほとんど盲目同然となり、カワウソに変えられてしまった。現在、カワウソがあんなに小さな目しかもっていないのは、そのためである。”


 日本に伝わる煙草の起源伝説。

 一人娘を亡くした母親は毎日娘の墓前で泣いていました。すると、いつのまにか見たこともない草が1本墓に生えてきました。その草は日毎に育ちましたが、食用にはなりませんでした。そのうち葉が枯れたので、竹の管に詰めて火をつけて吸ってみました。すると、とても不思議ないい味がして、悲しい気持ちを慰められました。それが煙草の起源だそうです。(鹿児島県喜界島)

 死んだ妻が夫の夢枕に立って、夫に、墓に生えた草の育て方から吸うまでの方法を教えました。それが煙草の起源だそうです。(奄美大島)


 中国の山西省の民話「タバコの葉となった恋人」。

 昔、青州府(山東省)に南生(ナンション)という若者と葉葉(イエイエ)という娘がおり、二人は互いに相手に一目惚れし、恋しあう仲になりました。しかし、二人は両親の反対にあって結婚を許されず、悲しんだ葉葉は病気になって死んでしまいました。南生が葉葉の死体を抱き締めて暖めると、葉葉は生き返りましたが、三日経つとまた死んでしまい、もう生き返ることはありませんでした。南生は葉葉を葬ったあとも葉葉のことを思い続けていました。
 ある日、南生が葉葉の墓へ行くと、墓の上には、茎が人の身長くらい高く、葉が人の手のひらくらいの大きさの草が生えていました。その草は秋になると薄紅色の小さなラッパ型の花を咲かせ、やがて麻の実のような種をつけました。霜が降りる頃になると草は枯れましたが、南生は恋人を偲んで枯れた草を抜いて持ち帰り、しまっておきました。そして、日が経ってぼろぼろになった葉を火にくべるといい香りがしました。
 それから人々は、その草の種を蒔いて増やし、葉をちぎって吸うようになりました。これがタバコの始まりです。


 台湾のタバコの由来伝説その1。

 むかし、台湾の馬蘭社にアルピテンという美しい娘がいました。アルピテンは近くに住むマルピルクという青年と恋仲になり、将来を約束し合いましたが、マルピルクは風邪をこじらせて死んでしまいました。アルピテンはしばらく嘆き悲しむ日々を送っていましたが、とうとう愛する人の後を追って自殺してしまいました。
 今度は、一人娘を失ったアルピテンの母親が嘆き悲しむ日々を送りました。数ヵ月後、アルピテンが母親の夢に現れて言いました。
「明日、私のお墓に新しい草が生えてきます。その葉を採って乾かし、火をつけて煙を吸ってみてください。きっと悲しみや労苦が忘れられます。」
 母親は娘の墓に生えた草を庭に移して育てました。そして、娘の言う通りにして煙を吸ってみると、心地よい気分になり、娘を失った悲しみがやわらいだ気がしました。その草がタバコでした。やがてそれが国中に広まって台湾に喫煙の習慣が始まりました。


 台湾のタバコの由来伝説その2。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”台湾のタバコの風習の起源については、次のような伝説もある。
 むかし、台湾の奇密者に大変仲のいい兄と妹がいた。二人はただ仲がよいというだけでなく、毎日の生活(くらし)が何から何までまるで夫婦同然であった。それに気づいた両親が二人をはげしく叱りつけ、口汚くののしった。兄妹はあまりに面目なく、この世に居たたまれなくなりとうとういっしょに死ぬことにした。そこでまず二本の矢を家の前に立てておいて、それを目がけて屋根の上からとび下りた。すると兄の死んだ跡からは葉に筋のあるタバコの草が生え、妹の死んだところからは筋のない丸い葉のタバコの草が生えてきたという。”


 ちなみに、日本で初めて喫煙をした女性は、豊臣秀吉の側室の淀君(よどぎみ)だそうです。


 煙草に含まれるニコチンを使った殺人事件。

 エラリー・クイーンの『Xの悲劇』では、株式仲買人が路面電車の中でポケットに忍ばせてあった高純度ニコチンを塗った針を指に刺して死にますが、ベルギーでは実際にニコチンを使った殺人事件がありました。

 1850年のベルギー。ボカルメ伯爵は無神論者で旅行好きでした。しかも夫婦そろって遊び好きだったので、借金をしてまで豪勢な生活を続けていました。義兄(妻の兄)が資産家で身体が弱かったので、彼の遺産をもらえると思っていたからです。ところが、義兄が結婚すると言い出しました。ボカルメ伯爵は遺産を相手の女性に取られる前に義兄を殺すことにし、タバコの葉の煮汁を蒸留してニコチンを取り出し、義兄の食事に混ぜて義兄を殺しました。そして臭いを消すために酢を飲ませましたが、酢とニコチンが反応して腐食性物質ができたので、不審に思った警察がボカルメ伯爵の犯罪を暴き、ボカルメ伯爵は逮捕されて死刑になりました。


花言葉は、ふれあい

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椨の木(たぶのき)

 タブノキMachilus thunbergiiは、クスノキ科タブノキ属の常緑高木です。
 別名は、イヌグス(犬楠)です。

 古代の信仰で魂の宿るとされた大樹が「霊(たま)の木」と呼ばれ、それが「たも」、「たぶ」と変化したそうです。
 タブノキの樹皮は、古来、たぶ皮と呼ばれ、線香の粘料として使われました。

 万葉集の大伴家持の歌「磯の上の都万麻を見れば根を延へて 年深からし神さびにけり」のツママは、タブノキのことだそうです。


 島根県邑智郡桜江町坂本の民話「たぶの木の話」。
 (野村純一・松谷みよ子監修「いまに語りつぐ民話集1」(作品社)より引用)

 ”昔、この江川(こうのかわ)がまだ浅かった時代に、川、広かったが渦が巻いとった。そこに木の瀬という瀬があってなあ、大きなたぶの木があって、そのたぶの木の枝を伝うて、向こうへ渡りよったっていう話がありまさあ。
 そのたぶは、耳たぶとも言うし、まあ他のたぶかどがあか知らんが、耳たぶいうたぶのあともあるでさあ。耳たぶいうなあ、あの小笠原さんと毛利さんと戦うたときに、あっこに戦死した者を埋(い)けたという説もあるでさあ。その土地が今、勝畑いうて残っとるじゃ、字名(あざな)がなあ。
 それを、橋の代わりに行き来しよったいう説もあるでさあ。たぶの木があって瀬を渡って枝がのびとったから、あの枝を渡って攻めてきたという。毛利郡がなあ、攻めてきた。そして、あそこで戦争をやって勝ったから、勝畑になった。そいでたぶの木の根元に千人の耳たぶを切って埋めたと。そいで耳たぶの木だと言う。(『さくらえの民話』)”

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ダマデノーチェ

夜香花(やこうか)

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玉葱(たまねぎ)

 インディアン(モノ族)の民話「玉葱を食べた6人の妻たち」(カリフォルニア州)

 昔、モノ族の人々が魔法を使っていた頃、モノ族に6人の美しい妻たちと、その夫たちがいました。夫たちはピューマ狩りの名人でした。
 ある日、夫たちは狩りへ、妻たちはクローバー摘みに出かけました。妻たちは山で野生の玉葱を見つけました。初めて見る食べ物でしたが、妻たちはとても気に入っておなかいっぱい食べ、夫たちの夕食にも出そうと持って帰りました。ところが、ピューマを1匹ずつ仕留めて帰ってきた夫たちは玉葱の匂いを嫌って妻達を寒い家の外へ追い出しました。
 翌日、妻たちは前日よりもたくさんの玉葱を食べました。夫たちはピューマを1匹も仕留めることができずに帰ってきました。夫達は、自分たちに玉葱のにおいがしみついてしまったからピューマが逃げてしまったのだと妻たちを責め、食物も与えずに寒い家の外へ追い出しました。妻たちは仕方なく両親の家へ行きましたが、夫たちのところへ帰れと言われて追い返されました。

 妻たちは毎晩寒さに震えて過ごし、夜が明けると山で玉葱を食べました。そんな日が6日6晩続いた次の日、妻たちは夫たちを捨てる決心をして大きな岩山の頂上へ登りました。そして、魔法のワシの羽のロープに乗って魔法の歌を歌い、大空の一番高い所へ上っていきました。夫たちは妻たちに戻ってほしいと思い、やはり魔法のワシの羽のロープに乗って魔法の歌を歌って空へ上りましたが、妻たちより魔法の力が弱かったので、ずっと下の方に留まるしかありませんでした。
 そして、彼らは空の星になりました。妻たちは、西洋人がプレアデス星団、東洋人がスバルと呼んでいる、全天を率いるように輝いている星の集まりになり、夫たちは、その下にある光の弱い牡牛座のハデス星団になりました。


 アメリカの南北戦争で活躍したユリシーズ・S・グラント将軍(後の第18代大統領)は、玉葱を高く評価していました。食品として以外にも殺菌効果や爆薬の火傷に効く(16世紀のフランスの外科医アンプロワーズ・バレが主張)と考え、「玉葱がなければ軍隊を動かさない」と政府に玉葱の補給を要求し、車3台分の玉葱を届けさせたそうです。


 シカゴの語源はインディアンの言葉で、玉葱やニンニクを表すchecagouです。シカゴ川の河岸に野生の玉葱がたくさん生えていたからだそうです。


 「花物語」のガーリックの項目の「イスラム圏に伝わる伝説」やヘロドトスの歴史(ギゼーのピラミッド)について書かれた部分にもガーリックと一緒にオニオンが登場します。
 「花物語」には葱(ねぎ)の項目もあります。


花言葉は、不死

オニオン葱(ねぎ)

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たらの木

 岩手県の民話「たらの木の言葉」

 昔、京の都に住む天皇は、真夜中に東北から吹いてくる風が黄色い粉を御殿に降りかけると苦しみ出すようになりました。物の怪(もののけ)の仕業と考えられたので、陰陽師の阿倍晴光(あべのはるみつ)が呼び出されました。晴光は「都の東北の方角にある松の木のたたりです。黄色い粉は松の木の花粉です。木を探し出して倒すべきです。」と言いました。その結果、雄鹿宿祢(おがのすくね)が花巻市高松の観音堂山の頂上にある松の大木を倒すように命じられました。
 雄鹿宿祢は木こり達を集めましたが、木こり達は大木を切るとたたりがあると恐れたので、6人しか集まりませんでした。それに、松の木はかたく、一日に30センチ程しか斧が入りませんでした。しかも翌日には木は傷一つ無く、元通りに戻ってしまうのでした。雄鹿宿祢達は夜通し松に斧を打ち込もうとしましたが、いつの間にか眠ってしまい、翌日にはまた元通りになっていました。

 ある日、雄鹿宿祢は夢をみました。たらの木が現れて雄鹿宿祢に話しかけました。「私は、この山に住むたらの木です。この山の大松の木に仕えていましたが、日本中の木々が集まる会合で大松から言い尽くせないほどの屈辱を受けました。この恨みをはらすために松の木を倒す方法を教えます。松の木が再生しないように、切り口に塩をかけ、切りくずは集めてモミぬかで焼き捨てて下さい。」
 雄鹿宿祢がたらの木の言う通りにすると、二十日で松の木を切り倒すことが出来ました。天皇の病気もよくなり、雄鹿宿祢にはたくさんの褒美が与えらることになりました。しかし雄鹿宿祢は全て断り、観音堂山のほとりにお堂を建てて松の大木の霊を慰めることにしました。


 鹿児島県の昔話「ダラの木とススキ」。
 (谷真介編・著「日づけのあるお話365日」(金の星社)より要約)

 昔、鹿児島県屋久島の尾之間(おのま)に、両親と姉と弟の四人が仲良く暮らしていました。島では元旦の朝に「水むかえ」をする慣わしがありました。女性が生のお米を泉に供えて「年の初めに水くめば、水はくまずに米(よね)をくむ。米をくむ」と唱えると、その年は水の心配もなく、稲もよく実るとされていました。
 ある年、水むかえに出かけた姉が戻ってこないので、弟が様子を見に行くと、姉は泉の向うの野原で髪を振り乱して美味しそうに馬を食べていました。顔は姉でしたが、体は銀色の鱗の生えた大蛇でした。弟は恐ろしくなって遠くへ逃げ出しました。
 数年後、弟は家が恋しくなり、ある年の正月六日に村へ戻ってきましたが、村には全く人影がありませんでした。不思議に思った弟が自分の家へ行ってみると、人間の姿の姉が懐かしそうに弟を迎えて言いました。
「お前がいなくなってから、村に悪い病が流行り、両親も村人もみんな死んでしまい、私一人しか残っていない。お茶をわかす水を汲んでくるから、この太鼓を叩いて待っていておくれ。」
 弟が太鼓を叩いて姉を待っていると、二匹の鼠が出てきて言いました。
「私達はお前の両親じゃ。姉は大蛇になってしまい、私達は食べられて死に、鼠に生まれ変わった。姉はお前を食べるために泉に牙をとぎにいった。私達が太鼓を叩いてやるから逃げなさい。」
 弟が逃げ出したことに気付いた姉は、大蛇の姿になって弟をさがし、ダラ(タラ)の木の下で休んでいる弟を見つけて近付きました。弟はダラの木に頼みました。
「ダラの木さん、助けてください。助けてくだされば、毎年正月六日にあなたをおまつりします。」
 ダラの木は棘のある葉を茂らせて弟を守ったので、大蛇は諦めて帰りました。しかし、弟は逃げる途中でまた大蛇に見つかってしまい、ススキの藪に逃げ込んで頼みました。
「ススキさん、助けてください。助けてくだされば、毎年五月の節句にあなたを軒にさしておまつりします。」
 ススキは背を伸ばして茂り、弟の姿を隠してくれたので、弟は無事に逃げることができました。
 それ以来、弟は毎年正月六日には葉のついたダラの枝を門口や床の間に供え、五月の節句にはススキを軒にさして祝うようになりました。


 鹿児島県有明町山重に伝わる昔話。
 (有岡利幸著「資料 日本植物文化誌」(八坂書房)より引用)

 ”正月二日の朝、子どもたちが初夢の自慢話をするが、一人の子どもはどうしても話さないので鬼が島へ流される。子どもは鬼につかまり、「食われる前に島を見物させて欲しい」と頼み、島見物をする。途中で千里棒と二千里棒を見つけ、鬼のすきをみて舟に乗り、千里棒で海をかき回すと千里を飛んで村の山に落ちる。鬼が二千里棒で追ってくるが、子どもはモロムギとタラの林のなかに落ちていたので気づかれず、千里先に飛んでいく。子どもの助かった正月六日にはモロムギの葉とタラを門口に立てたり、墓に供えたりするようになった。”

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多羅葉(たらよう)

 タラヨウIlex latifoliaは、モチノキ科モチノキ属の常緑高木です。
 雌雄異株です。雌株には赤い実がたくさんつきます。

 昔、インドでは紙の代わりにタラキ(多羅樹。牧野植物図鑑によると、貝多羅の樹)という木の葉の裏に傷をつけて経文を書いていたそうです。日本にも、この葉に似た木があるのでタラヨウ(多羅葉)と名づけられました。
 別名、エカキバ(絵描葉)。


 「郵便局の木」とハガキの語源。

 タラヨウの木の葉に釘や竹串などの硬いもので絵や文字を書くと、黒い線になっていつまでも残ります。そのため「葉書の木」と呼ばれるようになり、平成9年には、郵政によって「郵便の木」に指定されました。
 送料分の切手を貼れば、実際に「葉書」として通用するそうです。

 ハガキの語源はタラヨウの葉ではないそうです。
 「端書(はしがき。紙片に書いた覚書)」が「ハガキ」になったという説が正しく、「葉書」は借字だそうです。


 「死環」

 モチノキ科やモクセイ科の植物の葉を、熱したり、引っかいたりすると、葉の色が黒く変色します。細胞内のクエンニンという酸化酵素が反応するためだそうです。
 煙草や線香の火を使うと、変色部がリング状になります。中心部は酸化する前に熱で酵素が働かなくなるため変色しないそうです。その時にできるリングのことを死環というそうです。


 埼玉県の遠山記念館では、毎年7月から9月頃に剪定作業で切り落とす葉を来館の希望者に配っています。配布時期は遠山記念館のホームページに掲載されるそうです。

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ダリア

 ダリア好きのジョゼフィーヌのお話。

 ナポレオン1世の最初の皇后ジョゼフィーヌは、ダリア好きで有名でした。パリ郊外のマルメゾンの邸宅の花壇にはダリアやバラの珍しい品種やすぐれた品種がたくさん植えられていました。ジョゼフィーヌは花の見頃になると園遊会を催して、参加した大勢の紳士淑女達に自慢していました。ダリアの花はたくさん咲いていましたが、誰かにダリアの花が欲しいと望まれても1輪も人手に渡すことはしませんでした。
 ある日、侍女の一人が1輪のダリアを欲しいといいましたが、やはりジョゼフィーヌは断りました。侍女は悔しかったので、愛人の若いポーランド貴族にジョゼフィーヌの花壇のダリアの球根を持ってきてくれるように頼みました。このポーランド貴族はジョゼフィーヌ皇后の園丁ピエールにルイ金貨1枚を与えて100個の球根を手に入れることに成功しました。そしてダリアの球根は侍女の手に渡りました。
 侍女は手に入れた球根を育てて、自分の庭で見事なダリアの花を咲かせて自慢しました。その噂が耳に入ると、ジョゼフィーヌは園丁を解雇し、侍女とポーランド貴族を破門しました。この出来事以来、ジョゼフィーヌはダリアへの興味を失ってしまいました。


 ダリアは、日本へは江戸時代に渡来しました。和名は天竺牡丹(てんじくぼたん)といいます。

 ダリアの名は、植物の学名を確立させたスウェーデンの植物学者リンネの弟子のアンドレ・ダールを記念して、スペインのカバニレス神父がつけました。。


花言葉は、不安定・移り気・華麗・優雅・威厳

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タロ

 タロColocasia esculentaはサトイモ科サトイモ属に属する里芋の一種で親芋を利用します。

 ハワイではカロKaloと呼ばれており、先住ハワイ人の主食でした。現在でも神聖な食物として尊重されているようです。


 ハワイの神話のお話。

 創造神ワケアWakeaと彼の娘ホオホクカラニHo'ohoku-ka-laniの間に最初に生まれた子供は死産でした。子供の遺体を埋めた場所からカロが生えてきました。二人の間に二番目に生まれた子供はハロアHaloaと名付けられ、人類の祖先となりました。
 そのため、ハワイでは、カロと人間は兄弟であると信じられ、カロを大切にしました。


 「空を飛ぶタロイモ」
 (エギル・マグネ・フセボ監修・著、新井朋子著「ALOHAハワイ語 神話編」(イカロス出版)より引用)

 ”あるアリイ(首長)の畑に、仲よく2つの立派なタロイモが育っていました。ある日、その2つのタロイモは、誰かが「首長が明日、この2つの立派なタロイモが欲しいそうだ」と言っているのを聞きました。潰されてポイ(タロイモでつくる古代ハワイの主食)になるのを嫌がった2つのタロイモは、逃げることにしました。自分の葉を羽のようにして、離れた畑に飛んでいき、バナナの木の葉の下に隠れました。
 何日か経つと、2つのタロイモは見つかってしまいました。そこでタロイモたちは、また葉を羽ばたかせて、別に畑に飛び、今度はサトウキビの葉の下に隠れました。何日か経つと、また2つのタロイモは見つかってしまいました。親切な農夫に逃げたほうがよいと言われたタロイモたちは、今度はハワイ島の南にあるカウ(Ka'u)という所に飛んでいきました。
 長い旅でしたが、そこのアリイは新設で、彼らを食べないと約束してくれました。

 ハワイの神話や伝説を集めたWilliam Drake Westervelt(1849-1939)は、この話にはひとつの教訓があると説明しました。「人間は悪い指導者から逃げる権利がある」というものです。”


 「花物語」のクロトンの項目にもタロの登場するお話があります。

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タンギモウジア

 タンギモウジアはフィジーの国花です。タンギモウジアはフィジー固有の植物で、フィジーで3番目に大きいタベウニ島のジャングルの山奥(標高1000m近く。歩いて3時間程度。)のタンギモウジア湖の湖畔にしか咲いていないそうです。タンギモウジアの赤い花(実際には花ではなく、葉が変化した「苞」の部分)は、フィジーの観光ポスターにも使われています。
 タンギモウジアは着性植物で、大木のそばに寄り添うようにして育ち、赤と白の小さな花をたくさん咲かせます。その先端から水が滴り落ちる様子から、別名を「乙女の涙」といい、地元には幾つかの伝説があります。大体は悲恋伝説だそうですが、遊んでばかりいた少女が母親に叱られて叩かれ、こぼした血の涙から花が咲いたという伝説もあるそうです。


 昔、フィジーの王女が身分違いの戦士と恋仲になり、山の中で逢瀬を繰り返していましたが、そのことが発覚して戦士は殺されてしまいました。王女は恋人の戦士の死を知らずに山で戦士を待っていましたが、戦士が来るはずはありません。王女は戦士を待ちながら泣き続け、とうとうタンギモウジアの花になってしまいました。


 昔、フィジーに美しい娘がいました。彼女には相思相愛の若者がいましたが、彼が貧乏だったので、彼女の父親は二人の仲を許しませんでした。思いつめた娘は一人で山奥へ入っていきました。村人達は戻って来ない娘を捜索しに山奥へ行きましたが、娘の姿はどこにもなく、見たこともない小さな花が咲いていました。


 昔、あるところに相思相愛の若い男女がいました。男は貧乏でしたが、二人は一緒にいられるだけで幸福でした。ところが、女性の父親が娘を金持ちの男性と結婚させようとしたので、娘は家を飛び出して森へ逃げました。戻って来ない娘を心配した父親は村人達に娘の捜索を頼みました。娘は森の中で植物に絡みつかれた姿で眠っていました。眠っている娘は悲しい夢をみていたのでしょう、涙が頬を伝わって流れていました。そして、娘に絡みついていた植物の上に涙のしずくがこぼれ落ちたところからは赤と白の小さくて美しい花が咲き出しました。驚いた村人達が父親に報告すると、父親は娘の思いの深さに気付き、好きな男性との結婚を認めることにしました。

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タンジー

 ギリシャ神話のお話。

 オリュンポスの山の酒宴の席でネクター(神酒)をお酌する役をしていたゼウスの娘のヘーベがヘラクレスと結婚することになりました。ゼウスはお気に入りのヘーベの代わりにお酌する者を捜していました。ゼウスが何気なく下界のトロイの国を見下ろした時、金色に光り輝く美少年を見つけました。少年はトロイ王トロースの3人の王子の一人、ガニュメデスでした。
 ゼウスは大鷲に変身して、イーダ山で羊の番をしていたガニュメデスの両腕をつかんでオリュンポスに戻ってきました。驚いて泣きじゃくるガニュメデスにゼウスは優しく声をかけました。
「お前が私のためにここにいてくれるのなら永遠の若さと美しさを与えよう。」
そして、ゼウスはガニュメデスにタンジーのジュースを飲ませました。

 ゼウスの息子の伝令神ヘルメスは、悲しんでいるガニュメデスの父親のトロースのところに赴き、ガニュメデスのことを心配しないように伝えました。そしてガニュメデスを連れていった代償に、鍛治の神ヘパイストスがつくった黄金のぶどうの木や2頭の名馬など、トロイに幾つかの贈り物をしました。そして両親が悲しまないようにガニュメデスの姿をいつでも見ることができるように水瓶座をつくりました。水瓶から流れているのは神酒です。


 和名は、蓬菊(よもぎぎく)です。

 可愛らしい黄色の花の咲くハーブで、「軍人さんの金ボタン」等の愛称もあるようです。

 ヨモギキク属の古い属名は、「長い」を意味するTanaosと「癒す」を意味するAkeomaiに由来するといわれ、不死・不滅・不朽をあらわしていました。


花言葉は、あなたに挑む・敵意ある思い・婦人の美徳・抵抗

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蒲公英(たんぽぽ)

 インディアンに伝わるお話。

 南風のシャワンタゼーは怠け者で、いつも野原で寝そべってぼんやりしていました。ある日、シャワンタゼーが、ふと遠くに目をやると黄色い髪の少女がいるのが見えました。少女の髪は風に揺られてキラキラと光っていました。シャワンタゼーは一目で少女が気に入りました。シャワンタゼーは少女に声をかけることはなく、毎日嬉しそうに見つめているだけでした。
 ある朝、シャワンタゼーがいつものように草原に行くと、少女の姿はなく、少女がいた場所にはには灰色の髪をした老婆が立っていました。シャワンタゼーは、自分の兄弟の北風がやって来て、少女の髪を冷たい風で白くしてしまったことに気づきました。あの少女はもういない…そう思ってシャワンタゼーはため息をつきました。すると白髪が風にのって散り、老婆の姿も消えてしまいました。
 シャワンタゼーは毎年、黄色い髪の少女を見かけましたが、初めて会った少女を忘れられずため息をつくばかりでした。


 中国に伝わるお話。

 あるお金持ちの家に年頃の娘がいました。ある時、娘の乳房が腫れ上がって激しく痛みましたが、娘は恥ずかしがって誰にも話しませんでした。娘の身の回りの世話をしている小間使いの娘が気付いて娘の母親に、娘が病気だと告げました。すると娘の母親は結婚前の娘に恋人がいると勘違いし、娘を罵倒しました。娘は潔白を証明できず思い悩んで近くの川に身を投げてしまいました。
 その夜は明るかったので、川には猟師が娘と一緒に舟を出していました。身投げのような水音に気付いた猟師の娘は川に飛び込んで溺れかけていた娘を助けました。濡れた衣服を着替えさせる時に娘の乳房の腫れに気付いた猟師は、次の日に自分の娘を山にやって薬草を採って来させました。猟師が薬草を何度か飲ませているうちに娘の病気はよくなっていきました。そして娘は、捜しに来た両親と一緒に家に帰ることになりました。猟師は残っていた薬草を娘に持たせてあげました。
 娘は家に戻ると薬草を庭に植えて、蒲公英と名付けました。「蒲」は助けてくれた猟師の姓、「公英」は猟師の娘の名前でした。


 中国に伝わる別のお話(飯倉照平著「中国の花物語」(集英社新書)より引用)。

 ”身寄りのない蒲氏(ほし)という娘が、村中に流行している重い病気でのどや鼻が腫れた夫のために、遠くの土地にある山まで薬草をさがしに行きます。
 山にいる老人は、この公英という薬草は貴重なもので、三千年待って薬剤にするという約束を守らずに病人が服用すると、薬を採った者の命が失われるのだと言い、しかし娘の熱意に感動して、この金の花を頭につけていれば死をまぬかれる、と教えてくれます。
 娘は急いで走りながら家へ向かったので、途中で金の花を落としてしまいます。そのため持ち帰った薬草を煎じて、夫と村人に飲ませたあと、娘は息絶えて墓に葬られます。その娘の墓には、やがて同じ薬草が生えてきて、蒲公英と呼ばれることになりました。”


 中原淳一著「花詩集」(国書刊行会)P.10。
 (出典が見つからなかったので文章をそのまま引用してあります。)

 遠い昔の世のこと、天国に一人の少年がいました。或る日玩具(おもちゃ)の弓をいじっているうちに思わず放った矢が大神様のお靴に当った罪として、少年は地上に追い落とされて貧しい羊飼いになりました。ところが少年にはマフワという可愛い妹があったのです。大変美しい子で、天国の中でさえ神々のうちの女神と賞(ほ)め讃えられ神々に愛されていましたが、でもマフワには可哀想な兄さんのことが忘れられないのです。或る春の夕べ、マフワは下界をのぞくと、おおそこには夢にも忘れない兄さんが紅い上衣(うわぎ)を着て細い鞭を持ち、角笛(つのぶえ)をふきふき羊の群れを追いながら丘の坂道を上って来るのです。マフワは声をかけることが出来ない遠い兄の姿を見ると哀しさに胸せまり、思わずホロリと涙を流したのです。すると不思議にも涙の雫(しずく)は散って霧となり、虹と変わって天国と地上とをつなぐ夢のかけ橋となったのです。マフワはもう夢中で橋を駆け下りて懐しい兄さんの所へ参り、日の暮れるのを忘れて話してしまいました。神様は大変お怒りになって、掟(おきて)を破った罪としてお前は道傍(みちばた)の貧しい花になれとおっしゃいました。可哀想に美しいマフワの姿は消えて、そこには一輪のたんぽぽが咲き出(いで)ましたとさ。物言えぬ花になってもマフワはいつも牧場の陰に咲いて兄さんの姿を見つめていたいために、たんぽぽは牧場に咲くんだそうです。


 たんぽぽの名前は、花後にできる綿毛をタンポに見立てて付けられたといわれています。タンポとは綿を丸めて布や皮で包んだもので、稽古用の槍の先や、拓本を取るときに墨を付けるのに使われています。


     たんぽぽや 折々さます 蝶の夢     加賀千代女


花言葉は、田舎の託宣・思わせぶり

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チェロキーローズ

難波薔薇・難波茨(なにわいばら)

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茅・茅萱(ちがや)

 「備後国風土記」のお話。

 昔、備後の国に蘇民将来(そみんしょうらい)と巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟がいました。兄の蘇民将来は貧乏でしたが、弟の巨旦将来はお金持ちでした。
 ある時、北の海にいた武塔神(むとうのかみ)が南海の竜の娘に求婚するために出かけました。しかし、途中の備後の国で日が暮れてしまったので、巨旦将来に宿を求めましたが、断られてしまいました。武塔神が今度は蘇民将来の家へ行って宿を求めると、快く泊めてくれて粟飯でもてなされました。喜んだ武塔神は蘇民将来に、「これから災いが起こるが、お前とお前の家族は助けてやろう。お前達は腰に茅の輪をつけておきなさい。」と言いました。
 その後、村に疫病が流行し、蘇民将来と彼の家族以外は皆死んでしまいました。

 以来、疫病が流行した時には、茅の輪を腰につけて蘇民将来の子孫と称するようになり、茅の輪くぐりが行われるようになりました。
 晴明判(五芒星)や「蘇民将来子孫」などの文字を記した六角柱や八角柱の短い棒に房飾りや紐をつけた茅の輪の護符はお正月に八坂神社などにあるそうです。また、岩手の黒石寺薬師堂では、正月七日に、餅や数百本の六角柱の形をしたヌルデの木の入った蘇民袋を東西に分かれて奪い合う蘇民祭が行われるそうです。

 茅の輪くぐりの方法は、先ず正面からくぐって左回りで正面に戻り、次はくぐって右回りで正面に戻り、またくぐって左回りで正面に戻り、正面からくぐって直進してお参りし、くぐって正面に戻って終わります。


 「和漢三才絵図」にあるチガヤの説明。

 白芽は田舎処々にあり、嘉、芽を生じて地に敷き、針の如し、俗に茅針と云う。又、食ふべし。小児是を好む、夏、白花を生じ穂をなす、細実を結び、秋枯れる、根長くして白く軟くして節あり、それを夜見れば光沢あり、腐りて変じて螢となる。

 腐った後のチガヤは化学反応を起こして光るのでしょうか?


 中国のミャオ族は、田植えの前に村の代表が山へ行ってチガヤを5本採ってきます。そして、チガヤを田の中の東部にさしてから、「チガヤを田にさして、今日はじめて田植えをします。今後、稲をこの草のように丈夫に成長させてください。」と祈ります。それから、苗を東から西へと植えていきます。


 五月五日の子供の日(端午の節句)には、もち米や米の粉でつくった「ちまき」を食べますが、この「ちまき」の名はチガヤの葉で巻いたことから名付けられています。


花言葉は、子供の守護神

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チコリー

 ドイツに伝わるお話。

 昔、ある村に相思相愛の恋人達がいました。戦争が始まると若者は戦場に赴き、残された娘は毎日村外れの道端に立って恋人の帰りを待ち続けました。でも、娘がどんなに待ちわびても恋人の姿は見えませんでした。恋人の死の知らせが届くと娘は道端で泣き続け、いつしかチコリーになってしまいました。チコリーの青い花の色は娘の瞳と同じ色をしていました。
 ドイツでは今でもチコリーを「道端で待ちわびる人」というそうです。

 地方によっては、娘が恋人を裏切ったために見捨てられてチコリーになったという話もあるようです。その周辺ではチコリーを「忌まわしい乙女」というそうです。


 ルーマニアの伝説。

 昔、フロリロール(花の貴婦人の意)と呼ばれる美しい娘がいました。太陽神はフロリロールの姿を見ると彼女に恋をし、地上に下りてきて彼女に自分の想いを打ち明けました。しかし、フロリロールは神と人間では身分が違いすぎると思い、太陽神の求愛を断りました。断られるとは思っていなかった太陽神は激怒し、フロリロールを青いチコリの花に変え、一日中太陽を見つめ続けるようにさせました。

 そのため、チコリーの古名には、「太陽の従属者sun follower」、「太陽の花嫁bride of sun」などがあるそうです。


 チコリーは古代エジプト、ギリシャ、ローマ時代から薬用や食用に栽培されてきました。コーヒーの代用品としても利用されました。根を乾燥させて炒り、それを粉末にしたもので、チコリーコーヒーと呼ばれています。代用品としてだけでなく、コーヒーに混ぜると刺激性を和らげてまろやかにする効果もあるそうです。


 また、チコリーの花は規則正しく開きしぽむため、花時計としても栽培されました。チコリーの花は、決まった時間に咲き、開花から約5時間後にしぼみます。
 チコリーの花は、恋人の船を待つ少女が流した涙から生まれた花だから、涙がかれてしまうので5時間しか咲かないという話も伝わっています。


花言葉は、倹約・質素・私の為に生きて・待ちぼうけ

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秩父藤(ちちぶふじ)

 チチブフジ発見の由来。
 (牧野富太郎著「植物一家言」(北隆館)より引用)

 ”かつて、私は単身、武州(埼玉県)飯能(はんのう)の地へ、植物の採集に赴いたことがあったが、今それが、昭和の何年であったのか(註1)忘れてしまった。その時、多峯主山(とうのすやま)の麓で、一のフジを見付けたので、そこで、その根付きの蔓を採集してきて、東大泉町のわが庭に植えた。そのしてこのフジは、左巻きもすれば、また右巻きもしていた。
 爾来(それ以来)、おおよそ十数年、それが、庭の林樹にまといつき、よく成長し、その蔓も、漸次大きくなった。ところが、一向に花が咲かない。しかし、もしもそれが咲いたら、必ずそれは、紫花であろうと想像していたが、あにはからんや、始めて咲いてみたら、アー驚いた、それが白花品であったのだ。花もむしろ小形でそれが新葉と共に出でて下垂せる花穂(花序)は、余り長くない。未だなお、その実を見ない。
 私はつらつらこのフジの花を望んで、砂中に珠を得た心地でいた。
 今その新学名をWisteria hannoensis makino(nova spesies)(註2)と新称し、あわせてその和名をチチブフジと命じた。
 日本で従来知られていたフジは二種であった。即ち一は普通のフジ(これは偶(たま)に白花品がある。私は先年これを安芸(広島県)の国なる八幡村で(註3)見たことがあった、その二はヤマフジである。今上のチチブフジを、これに加えれば、それで都合三種となる。

 (註1)昭和15年8月4日のことだそうです。
 (註2)この学名は正式には発表されていないそうです。
 (註3)広島県に八幡村は三ヶ所あり、いずれかは不明です。”


 「花物語」には藤(ふじ)の項目もあります。

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チトニア

 チトニアは黄色味を帯びた赤色のヒマワリに似た花を咲かせます。チトニアの名前は、ローマ神話の女神アウロラAurora(ギリシャ神話のエオスEos)に愛されたティトヌスTithonusの名前に由来します。
 和名はメキシコひまわりです。


 ローマ神話のお話(植物のチトニアは登場しません)。

 暁の女神アウロラは、ばら色の指を持ち、サフラン色の衣をまとった美しい女神で、いつも男性に愛されていました。ある時、アウロラは、愛の女神アフロディーテ(ヴィーナス)の愛人の軍神アレスと恋に陥り、一緒に一夜を過ごしました。怒ったアフロディーテは、アウロラに人間の男に恋をするように呪いをかけました。
 アウロラはトロイア王ラオメドンと妖精の間に生まれた美しい若者ティトヌスに夢中になり、黄金の馬車でティトヌスをさらって自分の宮殿に連れて行きました。そして、大神ゼウスに頼んでティトヌスが永遠に生きられるようにしてもらいました。しかしアウロラは恋人の不死を願う時に、不老を一緒に願うのを忘れていたので、やがて人間であるティトヌスは若さと美しさを失い、白髪でしわだらけの老人になってしまいました。アウロラはティトヌスと過ごすのをやめ、小さな部屋に閉じ込めて扉を閉めておきました。ティトヌスは部屋の中でかすかな声で何かを言い続けていましたが、いつの間にかセミになってしまいました。(ティトヌスを哀れに思った神々がセミに変えたというお話もあります。)


花言葉は、果報者・優美・優美な仕種

メキシコひまわり

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茶(ちゃ)

 茶の起源伝説(唐代に陸羽が著した「茶経」のお話)。

 伝説の神「神農」のお話です。
 昔、人類は植物を手当たり次第食べてしまい、病気になる人がたくさんいました。神農のお腹は透明(頭は牛だった)で、毒のある植物を食べると黒い水がわき、効能のある植物を食べると光るのが外から見えたので、神農は自分でいろいろな植物を食べて調べ、それを人類に教えていました。また、神農は人類に農耕も教えました。
 ある日、神農は白い花の咲いた木を見つけ、その若葉を食べてみました。すると、その緑色の葉は神農のお腹の中を探索し、毒の黒い水をなくしました。喜んだ神農はその葉に「査(中国語で探すの意、発音はcha)」と名付け、毒草を食べるたびに毒消しとして利用しました。
 後に、神農は黄色い花の咲いた草を食べて断腸の苦しみを味わった上に、毒消しの査も間に合わずに死んでしまいました。断腸草の毒にあたったのでした。

 その後、漢字を考えたという伝説上の人物、倉頡(そうけつ)は、「査」の代わりに「荼(茶の字の源)」の字を与えたそうです。

 また、神農が昼寝をしている時に木の葉が湯の中に落ちて湯の色が変わり、その湯を飲んでみると美味しかったので、「荼」と名付けたという話もあるようです。


 ベトナムのチャム族の民話。

 昔、仲のよい幸せな夫婦がいました。しかし、夫婦には子供ができなかったので、夫の両親は息子に後妻をもらうように諭しました。そのことを聞いた妻は泣いて家を出てしまい、夫は心労から重い病気になってしまいました。
 ある日、病床の夫は夢で神様に会いました。神様は夫に、「漢方薬を処方すれば、あなたの妻は男の子を産むことができるでしょう。」と告げました。翌朝、夫は両親に夢のことを話し、妻に薬を処方してもだめだったらあきらめるという約束をして、妻を捜しに出かけました。
 夫は妻を捜し出して家に連れ帰り、自分は薬草を探しに旅立ちました。それから4年が過ぎても戻らない夫を妻が捜しにいくと、夫は薬草の葉を探す途中で谷に落ちて死んでいたことがわかりました。妻は夫の両親の家に戻らず、夫の墓のそばで暮らすことにしました。妻は自分の畑に夫の遺品の中にあった木の種を蒔きました。成長した木の葉を摘んで煮て飲むと渋みがあり、その液体は人々を元気にしました。
 やがて妻も死に、夫の墓の隣に埋められました。後の人々はその木を茶の木と呼び、大切につくり続けるようになりました。


 ベトナムの茶の伝説(中国起源)。

 ボディ・ダルマ(ヒンドゥ教の長老。中国ではタア・マオ)は様々な苦行を行い、高い悟りを得ました。ダルマはガンジス河を離れて中国へ行き、ミン・チ帝に迎えられました。ダルマは仏教徒に「善行」と「四大真理」について詳しく話し、実践によってその教えを話しました。
 ダルマが年をとって足が弱った頃、ミン・チ帝はダルマにお経をサンスクリット語から中国語へ翻訳する苦行を願い、ダルマはその仕事を始めました。ダルマは飢餓、疲労、肉欲、厳寒、酷暑にも耐えましたが、睡眠から逃れることはできませんでした。ダルマは瞑想の途中で眠らないために、重くなる瞼を切り取って地面に投げ捨てました。聖者ダルマの瞼は一晩で芽を出して生長し、藪になり、白くて美しく香りのする花を咲かせました。これが一番最初の茶の木でした。仏陀の教えにより、ダルマは茶の葉を食べ、睡眠から解放されました。
 また、ミン・チ帝はその葉を飲み物にしました。すると、ミン・チ帝の胃痛が治りました。ミン・チ帝は、毎年最初の茶の新芽を中国皇帝のために摘むように、法令を発布しました。


 沖縄県那覇市の伝説。

 唐の王が病気になりました。その病気は人間の肝を食べないと治らない病気でした。医者の娘が王に自分の生肝を捧げたので、王の病気は治りました。王は娘に感謝し、娘の墓参りに行きました。そこで、喉の乾いた王は、娘の墓から生えた木の葉のしずくを飲みました。それはお茶の葉でした。それ以来、お茶を飲む時は拝んで飲むようになりました。


 田中耕次著「熱帯植物巡礼」(アボック社)より引用。

 ”日本では真言宗の開祖空海(774-835)が入唐して恵果に学び、806年(大同1年)帰朝した時にチャの種子を持ち帰ったのが初めとされているが、これは栽培に失敗し育たなかった。鎌倉時代になり、臨済宗の開祖、栄西(1114-1215)が二度にわたり入宋し、著『喫茶養生記』の中に宋からチャの種子を持ち帰り、博多の整福寺にて栽培に成功したことが記されている。その後京都宇治付近、静岡川根付近などに、栄西の弟子達によって移植されたのである。以後高級な飲み物として特権階級の人々に飲まれてきた。童歌に「ズイズイ ズッコロバシ ゴマミソズイ 茶壷に追われてトッピンシャン」は、将軍に献上するためのお茶壷道中を歌ったもので、お触れが出て、二、三日前から街道を掃き清め、そそうのないよう行列が通り過ぎるまで戸を閉めて家の中に子供たちを閉じ込めておき、「ヌケターラドンドコショ」、すなわち通過して遠くに行ったら緊張もとけ、子供達も外に出され、喜んでいる様子を歌ったものである。”


 茨城県の民話「お茶の由来」。
 (野村純一・松谷みよ子監修「いまに語りつぐ民話集4」(作品社)より引用)

 ”この飲みものは、娘の残した言葉のままお茶と呼んだ字は未だなかった。娘が二十の若い命を殺して生まれ変った木であるからと、「廿(本の中ではくさかんむり)の人の木」(はたちのひとのき)と重ねて一字に書いてチャと読むことにした。
 茶の木はこうして墓に生えた木であるから今でも庭に植えないものだという。(鶴尾能子著『茨城の昔話』三弥井書店)”


 福岡県の昔話「茶の実の話」。
 (「全國昔話資料集成」(岩崎美術社)より引用)

 ”昔、或る片田舎に郡代様が廻ってお出でになりまして、其処に泊りまして 茶の実が欲しいから此の村で一番の茶の実を持って来い との御沙汰でありましたから、村の者は皆心配して 此の村で一番の茶飲みと言へば誰がよからうか と言ふて、しまひに一人の村一番の茶飲み八十余りの婆さんを連れて来て、かごに入れて皆でよっしよっしとかついで郡代様の宿まで行きました。それから郡代様が 茶の実を持って来たか と言はれましたれば、早速 心配して持って来ました と言ひますと、然らば此処へ茶の実を持って来い と申しましたから、八十余りの婆さんをづっと前に連れて来まして、これが村一番の茶飲みで御座います と言ひますと、郡代は大きに腹を立て これが馬鹿者、生えるものか と叱りました。すると婆はかごからごそごそ這い出て はいごそりごそり這へまする。”


 旧ソ連は北の寒い国だったので食用野菜が少なく、輸入した茶の煎じ汁を野菜の代用として摂取していました。ミチウリン学派の一女性学者がソ連のコーカサス地方で茶の木を栽培可能にし、国民の健康に偉大な貢献をしたということでスターリン賞を受賞したそうです。

 日本では「ロシアンティー」といえば「ジャムを入れた紅茶」ですが、実はロシアではこのような飲み方はしないし、そういうメニューもないそうです。ロシアで飲まれるお茶はグルジア共和国やアゼルバイジャン共和国などから輸入されるオレンジペコという茶葉です。オレンジペコの「オレンジ」はオランダのオランジナソー宮殿に由来し、「ペコ」は、お茶の新芽が白い産毛で覆われていることから中国語で羽毛を意味する言葉に由来しているそうです。


      茶の花に 隠れんぼする 雀かな    小林一茶

      茶の花や 石をめぐりて 路を取    与謝蕪村

      茶の花に 暖かき日の しまひかな   高浜虚子

      茶の花も 崖も静かに こぼれゐる   水原秋桜子

      芭蕉忌や 茶の花折って 奉る     夏目漱石


 個々の種類のお茶についての伝説をここに列挙してしまうと読みにくくなるので、左記のリンクをクリックして読んで下さい。


花言葉は、純愛・追憶

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チャイブ

 チャイブAllium schoenoprasumはユリ科ネギ属の葉菜または根菜です。

 和名は、エゾネギ、セイヨウアサツキ。

 チャイブは1本だけでは育たず、株になって群生するので、英名ではチャイブズChivesと複数形で呼ばれることの方が多くなっています。


 中国の民話。
 (ココロ・カンパニー著「ハーブ・バイブル」(丸善メイツ)より引用)
 ”中国の一部の地域に伝わる民話に、チャイブズが出てくる貧しい村の話があります。村人たちは誰も真面目で朝早くから夜遅くまで一生懸命働きましたが、暮らしはよくなるどころかその日の食べ物にも困る気の毒な有り様でした。どんなに心をこめて畑を耕しても、そこには生えるのは食べることのできない雑草ばかり。悲観した村人たちは、はるか遠くの高い山の頂きに住む仙人を訪ねて、どうすればいいのか知恵を借りようと思い立ちます。
 村人たちが協議の末、使者として送り出したのは村一番の長老で物知りのお爺さんと、まだヨチヨチ歩きの女の子の二人。人々の声援に送られて二人は山へと向かいますが、なにしろ年寄りと幼子ですから何日歩いても山の麓にすら到達できません。山頂からじっと二人の様子を見守っていた仙人は自分の方から出かけ、幼子に紫色の花束を、長老にはひとつかみの球根を渡し、村へと帰らせます。しっかりと両手に抱えた二人は村の近くまで来て安心したのか手から花と球根をポトポト落としながら歩きます。すると二人が歩いたその跡はたちまちチャイブズの花が咲き乱れる畑となり、それ以来その村は’チャイブズの村’として有名になったそうです。”


花言葉は、祈願

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茶(君山銀針)

 君山銀針にまつわる伝説と言い伝え。
 (劉艾(りゅうあい)著「やさしい中国茶の本」(メディア・ポート)より引用)

 ”はるか昔、紀元前21〜20世紀のことです。当時の皇帝、舜(しゅん)が、皇后の娥皇と妃の女英を連れて洞庭湖に遊覧に来た際、娥皇と女英は美しい景色に目を奪われてしまいました。そして、さらに南下していっていった舜の戻りを、ここで待つことにしました。ところが、何年経っても舜は戻らず、二人はついにこの地で亡くなってしまいます。この二人が生前に種をまいたという言い伝えがあります。”

 ”後唐の二代目の皇帝、李嗣源(りしげん)が、初めて君山茶を飲んだとき、湯気とともに白鶴が茶杯から現れ三礼をし、空に飛び立ちました。しばらくたつと、茶杯の茶葉が針のように垂直に立ち、上下に浮いていた様がとても美しく見えたので、理由を臣下に尋ねます。臣下が「これは君山の白鶴泉(現在の柳毅井)の水で、黄嶺毛(現在の君山銀針)を淹れたからです」と答えました。納得した李嗣源はすぐに君山銀針を献上茶として指定したということです。”

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茶(恵明茶)

 中国の恵明茶のお話。

 浙江省雲和県の赤木山の金香崗という低い丘にある石乳洞という名の奥深い洞穴の前には浣香泉という泉があり、冷たく清らかで香りのよい名水が一年中涸れることなく湧き続けています。
 昔、両親を早くに亡くし、夫にも先立たれた藍二(ランアル)と呼ばれる農婦が3歳になる娘の山明(サンミン)と一緒に浣香泉のすぐ南の小屋で貧しい生活をおくっていました。ある日、藍二は木の枝を切り落としている時に、松の木に寄りかかったまま身動きしない和尚を見つけて小屋へ運び、泉の水を飲ませました。和尚はすぐに動けるようになり、小屋の裏に何かの種を蒔いて毎日水をやるようになりました。不思議なことに和尚は食事をとらずに毎日泉の水で薬草を煎じて飲むだけでしたが、すっかり健康になりました。そして三百日も経った頃には、和尚の蒔いた種は小さな木になっていました。
 ある時、山明が突然熱を出して苦しみ、寝床で暴れまわり、薬草も効果がありませんでした。和尚は小屋の裏に行き、鉈で自分の左の手のひらを傷つけて、流れる血を種から育てた木の根にかけました。すると、緑色の葉が白くなりました。和尚が白い葉を煮て山明に飲ませると、山明はすぐに回復しました。しかし、今度は和尚の左手の傷がひどく腫れてきました。和尚は峨嵋山で50年の修行を積んだ大僧侶で、三百日間名泉の水を飲んで羅漢になれたことを感謝し、藍二に雲と霧で育てた雲霧茶の作り方を伝授して座化(ざげ。座ったまま成仏すること。)しました。

 雲霧茶のおかげで健康を取り戻した人々は寺を建てて和尚をまつりました。寺の門には「此心難報?(おんなへん+審)恩恵、留株白茶照山明(私の感謝の心はあなたの恩に報いきれません。白茶の株を残して山を明るく照らそうと思います。)」という和尚の遺言が貼られています。人々は生前の和尚の言葉から、それぞれの句の末尾を合わせた恵明が和尚の名前だと考え、寺に恵明寺と名付けました。そして和尚の残した雲霧茶も恵明茶と呼ばれるようになりました。

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茶(侯魁茶)

 中国の山東の侯魁茶(ホウクイツァ)のお話。

 昔、山東の済南府に陳(ツェン)氏という女将が経営する小さな茶舗がありました。陳氏は夫に早くに先立たれ、魯義(ルーイ)という息子と二人で暮らしていました。ある日、陳氏は魯義に、安徽へ行って、安徽の池州、太平一帯で採れる銘茶を購入してくるように頼みました。魯義は陳氏がかき集めた二百両の銀貨を持って安徽への道を急ぎましたが、途中で強盗に襲われ、有り金をすっかり奪われてしまいました。魯義は途方に暮れ、帯を木にかけて首をつろうとしました。そこへ道を得て既に昇天している光仁寺の妙真(ミョウズン)大師が通りかかり、「東南の善人が助けてくれるでしょう」と言い残して消えていきました。
 魯義が飢えをこらえて南東の方角へ何日も歩き続け、ま蟻嶺の頂上に着くと、一人の小僧が待っており、魯義を妙明(ミョウミン)和尚のいる光仁寺へ案内しました。妙明和尚は夢で妙真大師のお告げを受けて小僧を迎えに行かせたのでした。和尚は魯義に銀貨二百両を貸してくれました。

 魯義は再び安徽に向かいましたが、その日の夕方に暴風雨に見舞われてしまい、道端の茶店に泊めてもらおうと門を叩きました。しかし、その家は母一人娘一人だったので泊めてもらえず、魯義は一晩軒下で雨をしのぐことにしました。真夜中、家の中から夜通し、未亡人の田(ティエン)氏と16歳になる娘の侯魁(ホウタイ)の泣き声が聞こえてきました。地主の四男が侯魁を見初めて結婚を迫っていたからでした。
 翌朝、雨はまだ降り続いていました。侯魁は震えている魯義を家の中に入れてあげ、田氏も茶や菓子を出してもてなし、食事もご馳走しました。ところが、魯義が二人に感謝して茶店を出ようとする時に田氏が急病になってしまいました。魯義は茶店に残って、医者を呼んだり、薬を買ったりして二百両を使い果たしてしまいましたが、田氏の病気はまだ治りませんでした。魯義は光仁寺へ行き、更に二百両を借りて田氏の看病をし、田氏の病気は快方に向かいました。
 侯魁は、大金をはたいて看病してくれた魯義のために、一線天という絶壁にある望雲(ワンユン)針仙(チェンシェン)茶を採りに行くことにしました。それは、光仁寺の妙真大師が侯魁の父親の侯忠(ホウツォン)の善行に感心して侯忠に夢のお告げで教えた仙茶でした。しかし、そのことを知った地主は、借金のかたとして侯忠のつくった仙茶を全て奪った上に、侯忠を雨中に茶を採りに行かせたために、侯忠は崖から落ちて死んでしまったのでした。

 魯義が茶店を出て家に帰る日、侯魁は魯義に二包みのお茶を渡しました。魯義は途中で光仁寺に寄り、四百両の銀貨が二包みのお茶になってしまったことを報告しました。和尚は魯義の持っていたお茶の包みを開けて驚いて言いました。
「これは銘茶です。近いうちに必ずあなたの役に立つことでしょう。」
 そして、和尚は望雲針仙茶を何枚かつまんで壺に入れて熱湯を注ぎました。すると、壺から一筋の煙が立ち上がり、煙の中に侯魁の姿が現れて、魯義を見つめて涙を流しましたが、煙が消えると侯魁の姿も消えてしまいました。実は侯魁はもうこの世にはいませんでした。魯義と別れた直後に再び地主の四男に結婚を迫られ、一線天に登って崖から飛び降りたのでした。和尚からそのことを聞いた魯義はショックで倒れ、数日間、寺で看病を受けました。

 体調の回復した魯義が和尚に礼を言って帰ろうとした時、朝廷からの告示が寺に回ってきました。「皇女が不思議な病にかかって危篤の状態です。もし皇女の病気を治せる者がいれば、その者を皇女の婿にします。」という内容でした。魯義は和尚の教えに従って皇宮に入り、皇女に望雲針仙茶を飲ませました。皇帝は皇女が元気になったのを見て喜び、魯義を皇女の婿にしました。
 その後、魯義は自分の母親の陳氏の他に侯魁の母親の田氏も皇宮に迎えました。そして光仁寺の増築を行い、四百両の銀貨の恩に報いました。
 それ以来、望雲針仙茶は侯魁茶と呼ばれるようになったそうです。

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茶(西湖龍井)

 西湖龍井(さいころんじん)茶のお話。
 (劉艾(りゅうあい)著「やさしい中国茶の本」(メディア・ポート)より引用)

 ”時は清(しん)の時代にさかのぼります。乾隆帝(けんりゅうてい)が、西南部を視察に訪れた際、杭州龍井地区の獅峰山へも足を運びます。ちょうど、茶摘みの時期にあたり、何人かの若い娘たちが茶を摘んでいました。それがとても楽しそうに見え、乾隆も自ら茶摘みを始めます。そこへ、都からの使いがやってきて、乾隆の母が倒れたことを伝えるのです。乾隆は慌てて茶葉をポケットにいれ、都に帰ります。幸いにして母は、消化不良がもとで食欲が低下し、貧血で倒れただけのことでした。
 乾隆が見舞った際、彼からとてもさわやかな香りがすることに気が付いた母は、何を持っているのかと尋ねます。乾隆はポケットに入っていた茶葉を手渡しました。摘んでから何日も経っていたのに、とてもよい香りがすることに驚き、乾隆は官女たちにその葉でお茶を淹れさせました。それを母に飲ませたところ、胃もたれがなくなり食欲が出てきたのです。乾隆は、その茶を母専用の献上品として指定し、毎年新茶を都へ送るよう命じました。
 それ以来、西湖龍井は庶民には手の届かないお茶として知られるようになりました。かつて乾隆帝が献上茶として指定した茶樹は、現在も18株残っており、この木から採れる龍井茶は、毎年100gあたり数十万円の値で取り引きされているそうです。”

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茶(信陽毛尖)

 中国の河南省信陽の銘茶、毛尖(モウジェン)のお話。

 昔、役人と地主が共謀して山林を奪い取り、村人達に強制労働をさせた時期がありました。村人達は早朝から夜遅くまで満足な食事も与えられずに働かされ、多くの人々が難病にかかって次々に死んでいきました。春姑(ツウング)という娘が病気の人々を救おうとしてあちこち歩きまわって方法を探していると、彩雲山で出会った老人が自分の親から聞いた木の話をしてくれました。
「太古、神農氏が見つけた木は、葉を煎じた湯を飲めば万病が治るということだ。その木は、南西に向かって99の山を越え、99の川を渡った所で見つけられるという話だった。」
 春姑は81日間かけて、99の山を越え、99の川を渡りましたが、自分も難病にかかってしまい、川のそばで倒れてしまいました。少したった頃、上流から流れてきた1枚の葉が春姑の口の中に入ってきました。すると、不思議なことに春姑は元気になりました。その葉こそ神農氏の見つけた木の葉に違いありません。春姑は川沿いに山頂に登り、その木を見つけ、種を一粒採りました。そして、あまりの嬉しさに歌い出しました。
 春姑の歌声を聞いて神農氏が現れ、その木の名前が山茶樹で、種を採ってから十日以内に蒔かないと種が死んでしまう、と教えれくれました。十日で帰れるはずもなく、種が無駄になってしまうと思い、春姑は涙が止まりませんでした。その様子を見た神農氏は春姑を画眉(トラツグミ。スズメ科の小鳥。)の姿に変えて言いました。
「早く飛んで帰って茶の種を蒔きなさい。芽が出た時に、笑わずに悲しく泣けば元の姿に戻れますよ。」

 画眉は急いで99の山を越え、99の川を渡り、故郷の彩雲山の近くまで来ましたが、みんなを助けられる嬉しさに思わず歌を口ずさもうとして口を開けてしまい、種を石の隙間に落としてしまいました。しかし、画眉はあきらめませんでした。画眉は朝顔で小さな籠をつくって麓から土を運んで石の隙間に埋め、朝顔で小さな桶をつくって泉の水を運んで土にかけました。すると、みるみるうちに1本の新芽が出てきました。画眉は神農氏の忠告を忘れて笑い出してしまい、石ころになってしまいました。
 芽は風に吹かれるたびに生長し、すぐに立派な樹木になりました。ある日、山頂に大雨が降り、茶樹の枝から雨の雫が画眉の石ころに落ちました。すると、そこから1本の朝顔が生えてきて、ヒマワリよりも大きな花を咲かせました。朝顔の花からは金色の鳥の卵がいくつも現れ、卵の殻を破って画眉が飛び出してきました。画眉は茶樹の葉を1枚ずつくわえて村へ飛んで行き、病人達の口に入れて元気を取り戻させました。
 村人達は茶樹に病気を治す効果があることを知り、画眉に変身した春姑に感謝し、画眉をかわいがりました。画眉も茶樹の虫を取ったり、茶樹のないところに茶の種を蒔いて人々に喜ばれました。

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茶(水仙茶)

 水仙茶は、水仙種という烏龍茶の一種の苗木で作られたお茶だそうです。


 水仙茶の伝説。
 (左能典代著「茶と語る」(NTT出版)より引用)

 ”武夷近くの建陽県の、とあるところで泉州(福建省)からやって来た男が竹を切っていたとき、祝仙洞で人間の丈ほどの高さの木に咲いている白い花を見つけた。花は上品で清らかな香りをいつまでも漂わせていた。葉は茶に似ていた。彼はその葉を持ち帰り、お茶をつくってみた。口の中がさっぱりするお茶ができた。男はこのお茶に「祝仙(ツウシェン)茶」と名を与えた。発見した地名を茶名にしたのである。ところが「祝」と「水」が建陽省では同じ発音だった。それでいつのころからか「祝」が「水」に代わり、「水仙茶」とよばれるようになったと聞く。水仙は福建省の省花である。”

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茶(松羅茶)

 中国の松羅茶(ソンロツァ)は香りがよく、薬用効果もあるお茶だそうです。


 安徽の松羅茶のお話。

 安徽省休寧県に松羅(しょうら。糸状の地衣類。)の密生した山があり、松羅山と呼ばれていました。明の洪武年間(1368-98)、松羅山には、ろう(ごんべん+良)福寺という寺がありました。ろう福寺の門の両側には以前から石獅子の代わりに大きな水甕(かめ)が置かれており、甕の中には浮草が生え、甕の水は翡翠のような緑色をしていました。
 ある年、遠方から訪れた一人の参拝客が和尚に水甕を売ってくれるように頼み、和尚は黄金300両で売ることにし、水甕は参拝客が三日後に取りに来ることになりました。和尚は寺中の僧侶を集めて甕の水を捨ててきれいに磨いて、盗まれないように寺の奥に隠しておきました。ところが、三日後に現れた参拝客は磨かれた水甕を見て「霊気がなくなっていて役に立ちません。」と言い、商談は流れてしまいました。がっかりしている和尚がかわいそうになった参拝客は、「霊気はまだ水甕の水を捨てた門前にあります。そこに茶樹を植えれば素晴らしいお茶ができるでしょう。」と和尚に教えました。
 門前に茶の苗木が植えられ、立派な茶園ができると、和尚はとても喜び、松羅茶と名付け、ろう福寺の特産品として代々伝わるようになりました。

 200年後、明の万暦年間(1573-1619)、休寧一帯に疫病が流行り、多くの人々がろう福寺を訪れて菩薩の加護を祈りました。ろう福寺の住職は松羅茶を一包みずつ渡し、処方を授けました。
 すると、症状の軽い者は茶を湯に入れて飲んだだけで2、3日で治り、重い者も、茶に生姜、食塩、粳(うるち)を混ぜて狐色になるまで炒めた後、それを煮るか磨って飲めば2、3日で治りました。
 それ以来、松羅茶は名声を得て、広く知られるようになりました。

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茶(大紅袍)

 大紅袍(だいこうほう)は、中国福建省武夷山に自生する岩茶の一種です。推定樹齢約千年とされる茶樹が4本(3本+副樹1本)しかないので、生産量は年間2kgに満たなく、その殆どが国と県に納められ、国賓への接待などに使われるそうです。その茶樹は兵士が監視しているそうです。豊作の時にはオークションに出されることもあるそうです(20gで約250万円だとか…)が、一般に出回っているのはその茶樹から繁殖した茶樹からつくられたものだそうです。


 「大紅袍」の由来伝説。

 武夷山にある天心寺の和尚が難病に苦しむ人達(県長だったり、皇后だったり色々です)に、山に自生するお茶を飲ませたところ、病気が治りました。彼らは感謝して爵位を与え、紅袍(大臣が着る紅色の上着)を茶樹にかけたので、その茶樹を大紅袍と呼ぶようになりました。

 また、茶葉が紅色を帯びているところから天心寺の和尚が名付けたという話もあるそうです。

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茶(鉄観音)

 鉄観音茶の由来伝説(1)

 清朝の乾隆帝(1735〜95)の時代、中国福建省安渓松林頭に魏欽(ぎきん)という信心深い茶農がいました。魏欽は近くの山の頂上にある奉山寺の観音様に毎朝お茶をお供えしていました。ある日、魏欽は寺の裏山で一株の茶樹を見つけて持ち帰り、それを栽培しました。そのお茶の樹からは味も香りもよいお茶ができたので、挿し木をして増やしました。観音様に賜ったお茶なので、また、村に鉄鋼山があったので、そのお茶は「鉄観音」と名付けられました。


 鉄観音茶の由来伝説(2)

 清朝の乾隆帝(1736〜96)の時代、安渓曉陽南岩山に王士琅という農夫がいました。王士琅が一株の茶の樹を見つけて、お茶をつくったところ、とてもかおりのよいお茶ができました。そのお茶の噂が乾隆帝の耳に入り、王士琅はお茶を乾隆帝に献上することになりました。乾隆帝はそのお茶の味に感動し、観音様のような優しい香りがするということから「鉄観音」と名付けました。

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茶(杜仲茶)

「花物語」の杜仲(とちゅう)の項目の杜仲茶のお話を参照してください。

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茶(白鶏冠)

 白鶏冠(はっけいかん。パイジーグゥアン)は「武夷山四大岩茶(大紅袍、鉄羅漢、水金亀、白鶏冠)」のひとつです。
 葉が鶏冠のように見え、葉の周りが白く縁取られているところから名づけられたそうです。


 白鶏冠伝説(その1)

 昔、福建省の武夷山の僧がお茶畑の手入れをしていると鶏のけたたましい鳴き声が聞こえてきました。僧が声の聞こえた方へ行ってみると、鷹がひよこ(鶏の雛)に襲い掛かっており、母鶏が必死に雛を守ろうとしていました。母鶏は鷹を追い払うことはできましたが、力つきて死んでしまいました。母鶏を可哀想に思った僧は母鶏を茶畑に葬りました。すると、翌年、母鶏を埋めた場所から鶏冠によく似た葉を持つ茶の木が生えてきました。


 白鶏冠伝説(その2)

 明代のこと、ある地方の府知事が家族とともに赴任先に向う途中、武夷山に泊まりました。その時、府知事の子供が病気になり、お腹が膨れ上がり、どんな薬を飲んでも効果がありませんでした。ところが、寺の僧侶が差し出した白鶏冠を病気の子供に飲ませたところ、子供の病気は治りました。府知事は喜び、僧侶に白鶏冠の茶葉をもらって皇帝に献上しました。皇帝は僧侶に代価を払って、毎年お茶を献上するように命じました。それは清代まで続いたそうです。陳宗懋著「中国茶経」のお話だそうです。

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茶(碧螺春)

 碧螺春(ピールーチュン、またはヘキラシュン)は中国では有名な高級緑茶です。江蘇省無錫の太湖に突き出た半島の「東洞庭山」(東山)と太湖に浮かぶ「西洞庭山」で栽培されています。


 清代に書かれた「野史大観」や「隋見録」のお話。

 洞庭山の東山碧螺峰に数本の野性のお茶の木が生えており、地元の農民達はそのお茶を飲んでいました。地元の人達はそのお茶を「嚇殺人香(人を殺すほどいい香り)」と呼んでいましたが、この地に立ち寄った清の康熙帝が、山の名前をとって「碧螺春」と名付けました。碧螺春の名前の由来としては、これが定説だそうです。


 太湖の碧螺春の伝説。
 (引田春海訳「中国の愛の民話I漢民族編」(叢文社)より要約)

 昔、西洞庭山に碧螺(ビロ)という歌の上手な美しい娘が住んでいました。ある年の春、太湖の悪龍が碧螺を自分の妻として差し出すように要求しましたが、人々は拒否し、碧螺を隠しました。すると、悪龍は大波や大風を起こして大湖周辺の住民を苦しめるようになりました。
 東洞庭山に住む阿祥(アシャン)という若者が悪龍に敢然と立ち向かい、七日七晩の死闘の末に悪龍を倒しましたが、阿祥自身も重症を負ってしまいました。阿祥は好意を寄せていた碧螺に看病されて嬉しく思いましたが、容態は悪いままでした。
 ある日、碧螺は悪龍の死んだ場所に小さなお茶の木が生えているのに気付きました。碧螺は阿祥にそのお茶を飲ませようと思い、毎朝早起きして、お茶の新芽を1枚ずつ口に含んで暖めて寒さから守りました。お茶の木から若葉が出てくると、碧螺は口で1枚ずつ摘み取り、つくったお茶を阿祥に飲ませました。すると、阿祥の具合がよくなってきました。阿祥は毎日、碧螺が口で摘んだお茶を飲んで元気になっていきましたが、お茶の葉に生命力を吸い取られた碧螺は過労で死んでしまいました。
 人々は碧螺をお茶の木のそばに埋め、碧螺を悼んで、そのお茶を碧螺春と名付けました。

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茶(不知春)

 「不知春」(プチチュンorプチシュン)は武夷岩茶の一つで、伝統的な烏龍茶だそうです。


 中国茶器・中国茶販売「アジアのお茶時間」http://www.ochajikan.com/index.htmlによると、

 ”伝説によると、あるとき、茶を愛し、詩を吟ずる書生が、武夷山の美しさと茶の素晴らしさをうわさに聞き、はるばるやってきたが、そのとき、大紅袍をはじめとする、名のある茶樹の品種はすでに茶摘みの季節を過ぎてしまっていた。がっかりして彷徨っていたが、巨大な岩塊のあるところに来たとき、どこからともなくフシギな甘い香りがただよってきた。その方向へ行ってみると、薄暗く涼しい岩窟があり、そこに一本の大茶樹が茂り、いままさに新しい芽をのばそうとしていた。書生は「この樹は、他の茶樹と違って、春を過ぎてから、芽吹くのだな。まさに『不知春!』」と感嘆したという。これが茶名の由来です。”

 と記されており、春を過ぎてから新芽の出る品種ということです。
 ところが、ネットで調べてみると…

 ”岩茶の中でも際立った早摘み茶で、早春に摘み取られる「春を知らないお茶」”

 ”生育場所が一年中冬のように厳しいので「春を知らないお茶」”

 などと表現がばらばらでした。
 どれが正解なのかはわかりませんので、伝説を紹介するだけにとどめておきます。

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茶(鳳凰単叢)

 鳳凰単叢(ほうほうたんそう)は、中国広東省を代表する青茶で、フルーツの香りがします。烏龍茶の一種である水仙種の茶樹から採る単叢茶(1本の樹から採った茶葉だけでつくるお茶)です。


 鳳凰単叢(ほうほうたんそう)の伝説。

 南宋末期の頃、皇帝一向が潮州に南下した時、喉の乾いた皇帝のために家臣は飲み物を探し回りました。家臣は広東省の鳳凰山で葉の茂っている茶樹を見つけたので、その茶葉を製茶してみました。すると、とてもよい香りがしたので、家臣は皇帝にそのお茶を差し出しました。皇帝はそのお茶がとても気に入り、「宋種」という名前を賜りました。
 宋種単叢と呼ばれたお茶は、現在では鳳凰単叢と呼ばれることの方が多くなりました。

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茶(茉莉花茶)

 茉莉花茶(まつりかちゃ)のお話。
 (劉艾(りゅうあい)著「やさしい中国茶の本」(メディア・ポート)より引用)

 ”1000年頃のお話です。中国北部で、茶館を営んでいた陳古秋という人が、南部へ茶葉を仕入れに行きました。古秋は、泊まった宿である少女に出会います。彼女は父親を亡くしたばかりで、お金もなく、棺すら買えないと言います。古秋はかわいそうに思い、その少女に父親の葬式をあげるようにとお金を渡しました。
 それから三年後、古秋はまた同じ宿に泊まります。すると宿の主人が三年前の少女からあるものを預かっていると言い、古秋に小さな包みを手渡しました。仕入れを終え、家に戻った古秋は、しばらくその包みのことを忘れていました。
 ある日、茶好きな親友が古秋のもとを訪れました。一緒に茶談義をしていたところ、ふと、古秋はあの包みを思い出します。取り出してきて開けてみると、そこには茶葉が入っていました。早速淹れてみることにしました。
 お湯を注いでしばらくして、蓋を開けてみると強い香りを感じ、湯気とともに、手に茉莉花(ジャスミンの花)を握った少女の姿が現れ、古秋にお辞儀をし、また湯気となり空気中に散っていきました。これには親友も感嘆し「でもなぜジャスミンの花を持っていたのだろう」と言いました。古秋も不思議に思い、もう一度淹れてみると、また同じ光景が出現しました。
 古秋は、何日も考え込みました。そんなある日、妻が淹れた茶に、木の葉が舞って入りました。これを見て「ひょっとしたら、あの少女は私に、この茶に茉莉花を入れるように暗示したのでは」と考えます。
 実際に、少女からのお礼のお茶に、茉莉花を入れてみたところ、少女の姿が消えたあとも強い香りが残っていました。そこで、古秋は長年研究をして茉莉花茶をつくりだしたのです。茉莉花茶は、世に出るとたちまち人気を呼び、古秋は「茉莉花仙」と呼ばれるようになりました。”

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チャボアザミ

 学名は、Carlina acaulis。別名は、カーリン・シスルCarline thistle。


 チュートン族の伝説。

 戦争中に、カール大帝(シャルルマーニュ)の軍隊内に疾病が発生しました。病気で兵力を失うことを懸念したカール大帝は神に祈って援助を求めました。すると、カール大帝の前に一人の天使が現れ、「矢が落ちた場所に疫病を治す薬草がある」と言い、矢を射るべき場所を教えました(そういう夢をみたという記述の書籍もあります)。カール大帝が射た矢はチャボアザミの一種Carlina vulgarisの上に落ちました。そこで、チャボアザミを煎じて病気の兵士達に与えると、疫病はすぐに治りました。
 この伝説に基づいて人々はチャボアザミの解毒効果を信じ、お守りのようにも使われるようになりました。


「花物語」には、薊(あざみ)の項目もあります。

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チャンパ

金香木・金厚朴(きんこうぼく)

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チューリップ

 チューリップの語源は、トルコ語のツルバン(頭巾・ターバン)で、オーストリアの大使がコンスタンティノープルでこの花を見て名前を聞いたところ、通訳がトルコ人のターバンを引き合いに説明したのが起こりといわれています。しかし、当時のトルコでは、チューリップは「ラレーラ」と呼ばれていたそうです。つまり、間違った名がヨーロッパに伝わり、それが世界に広まってしまった。と言うのが通説です。


 東インド会社で潤うオランダで大人気のチューリップは、法外な高値で取引され、盗難騒ぎまで起きます。この時代は歴史上でも「チューリップ狂時代」と呼ばれています。


 ギリシャ神話のお話。

 ギリシアのアドリア地方に住んでいたチューリップと呼ばれる美しい娘を、秋の神ヴェルツゥヌが見初めました。ベルツゥヌは執拗にチューリップを追いかけ、何度も愛を囁きましたが、なびいてはもらえませんでした。ある日ヴェルツゥヌは、、野の花を摘みに出ていたチューリップを見つけ、追いつめました。逃げ場を失ったチューリップは、貞操の神ディアナ(アルテミス)に救いを求め、春の花に変えてもらいました。これがチューリップの花だと言われています。


 オランダのお話

 城下町に住む美しい少女が3人の騎士に見初められ、それぞれから、家宝である王冠、剣、金塊を贈られました。少女は3人からのプロポーズを断りきれず、花の女神フローラに祈って、花に変えてもらいました。絞りの花は王冠、葉は剣、球根は黄金(金塊)をあらわし、人々は、その花をチューリップと呼ぶようになりました。そして少女の純潔のあかしに花はつぼみの形をしています。


 ペルシャの伝説では、失恋した若い男が、自殺しようとして砂漠へ迷い出た時に流した涙がチューリップになったといわれているそうです。


 イングランドの童話「チューリップ畑」。

 昔、一人のお婆さんが庭付きの小さな家に住んでいました。お婆さんは庭に美しいチューリップをたくさん植えてチューリップ畑にしました。近くに住んでいる妖精達はそのチューリップ畑がとても気に入ったので、毎日自分達の赤ん坊を連れて行き、チューリップのベッドに寝かせて子守歌を歌いました。そして、赤ん坊が眠ると近くの野原で夜明けまで踊り明かしました。朝の光がさし始めると妖精達はチューリップ畑に戻って赤ん坊にキスしたり抱きしめたりしました。妖精達に愛されたチューリップは他の花よりも長く咲き続け、妖精達に息を吹きかけられてバラの花のような香りを漂わせました。お婆さんはチューリップをとても大切に育てました。
 やがて、お婆さんが亡くなり、息子が相続しました。息子はチューリップを全部抜いてパセリ畑にしました。怒った妖精達はパセリを全部枯らし、その畑に何を植えても育たないようにしてしまいました。しかし、妖精達はお月様のお祝いのある満月の夜以外の日には、毎晩、お婆さんの墓参りをして哀悼の歌を歌いました。妖精達以外に老女の墓参りをする者はいませんでしたが、老女の墓には雑草は全く生えず、毎年綺麗な花が咲き出しました。花は老女の身体が土にかえるまで咲き続けました。


 花言葉は、チューリップ一般では、思いやり・魅惑・名声等です。

 また、花色別の花言葉もあります。

 赤  愛の告白・操を立てる
 白  失恋
 黄  かなわぬ恋・望みなき愛・むなしい愛
 紫  永遠の愛情
 緑  美しい瞳
 絞り 美しい瞳・美しい容姿

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チューリップの木

百合木(ゆりのき)

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丁子(ちょうじ)

クローブ

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朝鮮朝顔(ちょうせんあさがお)

ダチュラ

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朝鮮人参(ちょうせんにんじん)

 朝鮮人参は根が薬用や強壮に使われることから別名を薬用人参(やくようにんじん)といいます。また、江戸幕府が栽培したので御種人参(おたねにんじん)とも呼ばれます。朝鮮半島では高麗人参と呼ばれています。

 中国や朝鮮では、朝鮮人参は不老不死の薬として珍重されてきました。朝鮮人参は年を経たものほど薬効が高いといわれ、また、その根の形が幼児の姿に似ていることから、千年、三千年を経た朝鮮人参は人間の子供になるとか、人参の精は子供や若い娘、老人などの姿で現れると信じられてきました。


 朝鮮の民話。

 昔、母親が重い病に倒れました。困っていた父親に、旅のお坊さんは「母親を救うには子供を煮てそのスープを飲ませるしかありません。」と言いました。父親は仕方なく子供を煮て、そのスープを母親に飲ませました。すると母親はすぐに元気になりました。その上、子供もまた無事に戻ってきました。不思議に思った父親が鍋の蓋をあけてみると、中には子供の形をした朝鮮人参が入っていました。


 中国の民話。

 お寺の小僧が山で赤い腹掛けの子供と友達になりました。そのことを知った和尚は、その子が朝鮮人参に違いないと思い、小僧に、その子の頭に赤い糸を結わえてくるように命じました。和尚は小僧が結びつけた赤い糸をたぐっていき、子供くらい大きな朝鮮人参を掘り出しました。和尚は朝鮮人参を煮て食べようとしましたが、急用ができてでかけることになりました。小僧はせっかく仲良くなった自分の友達を和尚に食べられたくなかったので、和尚の留守中に朝鮮人参を全部食べてしまいました。そして、残りのスープを土間にこぼしました。すると、寺は小僧をのせたまま天に昇り、寺のなくなった跡には湖ができました。


 中国の別の民話。

 昔、若い猟師の兄弟がいました。冬も間近のある日、兄弟は山へ狩りに出かけました。兄弟は連日たくさんの獲物を仕留めましたが、突然猛吹雪になってしまいました。雪は二日二晩降り続いて山道をすっかりおおってしまい、兄弟は春まで下山できなくなりました。
 兄弟は腐ってもろくなった大木の根元をくりぬいて、中で火をたいて暖をとったり、獣の肉を焼いて食べたりしました。ある日、兄弟は指の太さほどの蔓を見つけたので蔓をたぐって地面を掘ってみました。すると、腕の太さほどの根が出てきました。その根は何本かに分かれて伸び、人間のような格好をしており、食べてみると甘味がありました。その根を食べると力が湧いてきましたが、たくさん食べると鼻血が出るので少しずつ食べることにしました。
 やがて春になって雪がとけると、兄弟は獲物を持って元気に山を下りて村へ帰りました。村人達は兄弟が凍死か飢え死にしたものと思っていたので驚きました。兄弟は村人達に自分達が食べていた根を見せました。根が人間の形をしていたので、その植物は人参(レンセン)と呼ばれるようになりました。日本で朝鮮人参と呼んでいる植物のことです。日本で人参(ニンジン)と呼ばれている野菜は、中国では胡蘿葡(フーローボ)または紅蘿葡(ホンローボ)といいます。


 中国の満族の民話「薬用人参と松」(『満族民間故事選』)
 (石川鶴矢子著「石の羊と黄河の神」(筑摩書房)より要約)

 昔から薬用人参と松の木はとても仲よしでした。松は枝葉を茂らせて、人参が日にさらされないように守り、人参は土を柔らかくして、松が根を好きなだけ伸ばせるようにしました。
 歳月が流れ、地上に人間が住むようになりました。人間は松の木を切り倒して家や車をつくるので、身の危険を感じた松は人参に相談しました。人参は言いました。
「興安嶺(こうあんれい。黒龍江省の西部にある)に引っ越した方がいいでしょう。私のことは野原の草達が太陽から守ってくれるでしょう。私を忘れないでいてさえくれればいいのです。」
 松は興安嶺に移り、そこで繁殖して子孫を増やしました。
 歳月が流れ、その辺りを治めていた王が薬用人参を気に入るようになりました。王は領民達に薬用人参を貢がせ、大きな人参を貢いだ者には褒美を与えましたが、小さな人参しか貢げなかった者には、罰としてアキレス腱を切ったり、投獄したりしました。人々は必死になって人参を探しました。身の危険を感じた人参は興安嶺の山奥に引っ越すことにしました。
 松は、人参が来れば人間も来るに違いない、と思い、人参が来ることを心の中では喜んでいませんでした。それから間もなく、人間が人参を探しに興安嶺の山奥に入ってきました。松は、人参がいなくなれば静かに暮らせるに違いない、と思い、人間達に人参のいる場所を教えました。人間達はたくさんの人参を掘って大喜びでしたが、包むものがなかったので、松の幹の皮をはがして包みました。それ以来、人間は山で人参を掘り当てると松の幹の皮で包むようになったので、松にも災難がふりかかるようになりました。


 中国吉林省の漫江村の人参採集の習俗と伝説。
 (丘桓興著「中国の民族をたずねて」(中国広告社)より引用。

 ”夜間にさえずる「棒槌雀(バンツゥイチュエ)」という鳥がいる。棒槌は人参の俗称で、採集者の道案内をすることからこの名称がつけられたという。この鳥は人参の実が好きで、まだ食べない前は「王敢哥哥(ワンガンゴーゴー。兄さん)」とよく通る声で鳴くが、実を食べてしまうと、声がにごって「ワンガンガーガー」と聞こえる。そのにごった声を聞いたとき、反対方向に進めば人参を探し当てられるという。(昔、地主の作男で、王敢という若者がいた。ある日、彼は宝の人参を手に入れたが、地主に奪い取られ、殺されてしまった。王敢は鳥に変身して飛び去った。嘆き悲しんだいいなずけは、これも鳥に変身して「王敢哥哥」と鳴きながら若者を探しに飛んでいった、という伝説がある)”


 朝鮮の伝説その1。
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、朝鮮の原昌というところに喜詰(きとつ)という男がいた。山人参を採ろうといろいろ苦労していたが、金をむだにするばかりで、空しく何年かが過ぎていった。
 そもそも人参を採りに行くには、その前にひとつの定まった儀式をとり行う必要があった。夏から秋へかけて、人参が十分育った頃合を見計って山へ入るのであるが、その前にまず豚を殺し、それに酒を添えて山の神に捧げる慣わしである。するとその晩夢を見るから、その指図に従って翌日山へ入るのである。もしその晩夢を見ない場合には、夢を見るまで何度でも山の神に貢ぎ物をして、あくまで夢の指図を待たねばならない。
 ところで、喜詰は今まで何回も山の神に貢いでいたのだが、肝心のその夢をいちども見たことがなかった。彼はついに立腹して、山に登り、山の神に向って「もし山の神に真心があるなら、私の話をよく聞いてくれ。私は今まで何度も至誠をつくして、山の神を祀ってきたのに、なぜ私の気持ちを察してくれないのか」と、さんざん山の神を口説いた末、杖で神木を心ゆくまで打ち据えて山を降りた。
 するとその晩、夢の白髪の老人が現われて、「自分は長年山に住んでいる山の神だが、お前のように気の強い者は見たことがない。今日の仕打ちはまことに無礼千万だが、その勇気が気に入ったから、お前にも一つ、人参を授けてやることにしよう。明日、河山嶺の麓までやってこい」といって姿を消した。喜詰は喜んで、翌日そこまでゆくと、果してそこには大きな人参三本と、小さい株がたくさん生えていた。喜詰はその足で、すぐ山の神に詣でて、心から無礼を詫び、暑く礼を述べて帰ってきた。(『支那台湾朝鮮神話と伝説』)”


 朝鮮の伝説その2。
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”やはり朝鮮の原昌に、崔という男がいて、長い間人参探しをしていて、ついに家を失った。ある日崔は郡守を訪ねて、私は長年人参探しをやっていて、ついに家産を失った。それなのに山の神はずいぶんわからず屋で、私のいうことをひとつも聞いてくれない。だから私のいうことを聞いてくれるよう、郡守から山の神に命令を出して下さいと、大真面目で談じ込んだ。
 さすがの郡守も、これには困った。たとえ私は郡守でも、まさか山の神さまには命令は出せないと答えたが、崔はなおも、たとえ神さまでもこの郡に鎮座する以上、郡守の命令を守らないという法はないと、強弁した。そこで郡守は仕方なく崔を連れて山に登り、山の神のところの神木を削って、墨痕も鮮やかに「もしこれ以上崔のいうことを聞いてもらえないなら、即刻この郡から立退いてもらいたい」と書いて下山した。
 その晩、崔はついに夢を見た。夢に美しい天女が、羅衣をまとって現われて「わたしは雲洞の仙女で、長くそこにいるが、今日のような掲示を見たのは初めてです。今日まで長い間、人参が採れなかったことは、まことに気の毒でした。明日、雲洞の洞口まで来て下さい」そういうと天女は、衣を翻して消え去った。翌日崔は山へ入って、見事な人参をたくさん手に入れたということである。(『支那台湾朝鮮神話と伝説』)”

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長之助草(ちょうのすけそう)

 チョウノスケソウDryas Octpelala var. asiaticはバラ科チョウノスケソウ属の落葉小低木です。


 チョウノスケソウの名前のお話。

 1860年、須川長之助は、開港直後の箱館(1869年に函館に改名)で、ロシアの植物学者マキシモヴィッチの助手となりました。師のマキシモヴィッチが外国人であったために行動を制限されていたので、須川長之助が単身で日本全国の植物の採取に従事しました。
 その後、帰国したマキシモヴィッチは植物研究を続け、富山県の立山で須川長之助が1889年に発見した植物に「ドリアス・チョウノスキー・マキシム」というラテン語名をつけて学会で発表するつもりでした。しかし、その前にマキシモヴィッチは亡くなってしまいました。現在の学名は、後に著名な植物学者のリンネが命名したものです。(ドリアスは「森の精」、オクトペタラは「8枚の花びら」の意)
 チョウノスケソウという和名は、牧野富太郎博士が命名しました。

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月見草(つきみそう)

 新潟県の民話「月見草の嫁」。
 (水沢謙一著『越後の昔話』(日本放送出版会)より要約)

 昔、一人暮しの若い馬子(まご。馬方。)がいました。馬子は毎朝早起きして山へ行き、馬子歌を上手に歌いながら草刈りや馬の世話をし、お客を馬に乗せて生活していました。ある夕方、馬子が仕事を終えて家に戻ると、一人の娘がやってきて「どうか今晩一晩泊めて下さい。」と言いました。馬子は一人暮しでろくな食事も出せそうもなかったので断ろうとしましたが、娘は夕食の支度や掃除をしてくれました。そして、「一人暮しは不自由でしょう。私をお嫁さんにして下さい。」と言いました。馬子も娘が気に入ったので、二人はその晩から夫婦になって仲良く暮らし始めました。
 ある朝、馬子は刈ってきた草を馬小屋へ投げ込むと、その草の中に月見草のきれいな花が1本混じっているのに気付きました。馬子は月見草の花を見せようと思って妻を呼びましたが、返事がありませんでした。妻は流しの所に倒れていました。馬子が妻のそばへ行くと、妻はか細い声で言いました。
「私は毎朝あなたの馬子歌を聞くのが好きでした。あなたのように素敵な声で歌う人のお嫁さんになりたいとずっと思っていて、その願いはかないました。でも、私はあなたが今朝刈ってきた月見草の花の精なのです。私の命はもうおしまいです。」
そしてお嫁さんは死んでしまいました。


 月見草には白い花が咲きます。
 太宰治の「富嶽百景」の「富士には、月見草がよく似合う」は有名ですが、この「月見草」は待宵草(マツヨイグサ)を指しています。
 中原淳一の「花詩集」にある月見草のお話の月見草も待宵草のことを指しているのかもしれません。

 中原淳一著「花詩集」(国書刊行会)P.32。
 (出典が見つからなかったので文章をそのまま引用してあります。)

 ”昔信州に姉と弟の二人きりの哀れな姉弟が住んでいました。父も母もない二人にとってこの世の中は決して住みよいものではありませんでした。殊に(ことに)生活の楽でないこの高原の地方ではか弱い女と小さい子供は何かにつけて苛められがちでした。でも姉さんは自分はどんなになってもよい、弟だけはきっと一人前の者にしてあげようと決心したのです。そして弟に知らせずその村きっての強慾な地主の許に一生働く約束をして、弟が都に出て修行をする費用を借りたのです。弟は何年か経ってのち見事仕官の道を得て故郷に錦を飾ったのです。しかしもうその時は姉は居ませんでした。長い苦しさが重なって死んでしまい、高原の片隅の誰省みる者のいない丘のふもとに形ばかりの冷たい墓と化していたのです。そしてその墓のそばには一輪だけ黄色い花が人待ち顔にしょんぼりと咲いていました。弟はきっとこれは姉さんが自分が帰って来た時に寂しく思わない様にと花になって待っていてくれたのだと思い、その高原はその黄色い花を摘み取ることを禁じたと申します。その花の名は、月見草。”


 南海ホークスで活躍した野村克也は、昭和50年に600号本塁打を達成した後で、「長嶋、王が太陽に向かって咲くヒマワリなら、俺はひっそり野に咲く月見草だ。」と言ったそうです。


 岩崎宏美はファーストアルバム『あおぞら』の中にある「月見草」(阿久悠作詞・筒美京平作曲)という歌をよくコンサートでマイクなしで歌っていたそうです。


花言葉は、うつろな愛・移り気な人・自由な心・美人・物いわぬ恋

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月夜茸(つきよたけ)

 ツキヨタケはキシメジ科ツキヨタケ属の毒キノコで、日本では誤食による中毒が最も多いキノコです。椎茸、ムキタケ、平茸などと間違われます。中毒症状は、嘔吐・下痢・腹痛などで、数日間続き、死に至ることもあるそうです。
 ツキヨタケの特徴としては、柄の付け根に黒紫色のしみがあること、ひだが暗闇でぼんやりと光ることなどがあります。

 「今昔物語」では「わたり」の名で登場します。


 今昔物語(巻第18―18)のお話。
 「金峯山(きんぷせん)の別当、毒茸を食ひて酔はざりし語」

 今は昔、金峯山の別当の老僧がおりました。昔は金峯山の別当は修行を積んだ最年長の僧に決まっていましたが、近年はそうとは限りません。最年長の老僧が別当の時、次席の僧は最年長の僧が死ねば自分が別当になれると思っていましたが、別当は80数歳なのに健康で、70歳の自分の方が別当になれずに先に死んでしまうこともあると考えると何ともやりきれない思いでした。次席の僧は別当を打ち殺したいと思いましたが、すぐにばれてしまうに違いないので、毒殺することにしました。
 三宝(仏・法・僧)に見抜かれるのも恐いけれど、他に方法もないので、食べると中毒して必ず死ぬという「わたり」という毒キノコを美味しそうに料理して「平茸」と偽って別当に食べさせることにしました。秋頃になって、次席の僧は一人で山に入ってたくさんのわたりを持ち帰り、夕方自分の部屋で誰にも見せずに切って鍋に入れ、美味しそうな煎物をつくりました。そして翌朝、まだ早いうちに別当に人を遣わして「すぐにいらしてください」と伝えさせたので、別当は間もなく杖をついてやってきました。
 次席の僧が「昨日すばらしい平茸をいただいたので煎物を召しあがっていただこうと思ってお招きいたしました。お年を召すとこのような美味しいものが食べたくなるそうですから。」と言うと、別当はうなずいて、美味しそうによく食べました。次席の僧は別に用意した普通の平茸を食べました。別当が食べ終って湯を飲んでいるので、次席の僧は別当が中毒するのを期待して待っていましたが、そのような気配はまったく見られませんでした。次席の僧が不思議に思っていると、別当が歯のない口で微笑んで、「数年来、私はこんなに美味しく調理されたわたりを食べたことがありません。」と言いました。次席の僧は、別当がわたりだと知っていたことに気付き、恥ずかしくて無言のまま自分の部屋へ戻りました。別当も自分の部屋へ戻りました。
  以前から別当はわたりを食べていましたが、中毒しない体質だったのです。次席の僧はそのことを知らずに計画を実行して失敗しました。このように毒キノコを食べても中毒しない人もいるのです。このことは、その山にいた僧が語ったのを聞き伝えて、このように語り伝えられました。

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柘植・黄楊(つげ)

 葦屋処女の伝説(「高橋虫麻呂歌集」及び「万葉集」の大伴家持の長歌と短歌より)。

 昔、摂津国の葦屋に菟原処女(うなひをとめ)という美しい娘がいました。血沼壮士(ちぬをとこ)と菟原壮士(うなひをとこ)という二人の男がこの娘を妻にしようと求婚し、処女をめぐって争いました。処女は悩んだ末に、海に身を投げて死んでしまいました。後の人々は彼女を哀れに思い、彼女の墓をつくり、彼女が生前に愛用していたツゲの櫛を墓の横にさしました。すると、その櫛が根付いてツゲの木が生い茂るようになりました。


 愛知県一宮市毛受(めんじょ)の民話「おつげの木」。
 (野村純一・松谷みよ子監修「いまに語りつぐ民話集1」(作品社)より引用)

 ”中島郡大和村(現一宮市)大字毛受に、むかし、おつげという者がいて、ふだんから歯痛に苦しんでいたが、とうとう食事が出来ぬようになり、飢え死にしてしまった。
 死ぬ前に
「私が死んだら、きっと世の中の、歯痛に悩む人々を助けよう、もし治ったら、米糠(こめぬか)を持って、礼参りにきておくれ」そう言って、息が絶えた。
 村人は、おつげを大切にほうむってやり、また、その名にちなんで、黄楊の木を植え墓じるしとした。
 それがいま、見上げるような大木として残り、これにお祈りすると歯痛にききめがあるというので、今でも参詣する人が絶えない。(福井祥男著『愛知県伝説集』)”


 「花物語」には、犬柘植・犬黄楊(いぬつげ)の項目もあります。


花言葉は、克己・堅固・堅忍・禁欲主義・淡白・冷静

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躑躅(つつじ)

 漢名は躑躅とされていますが、本来の漢名は「羊躑躅(ようてきちょく)」で、羊がこの植物を食べて躑躅(足踏み)して死んだことから(又は、羊が有毒なこの植物に近寄るのを躑躅するから)名付けられたとされています。この有毒植物は黄レンゲツツジだといわれています。


 高瀬豊吉著「薬草の由来伝説と薬効」(加島書店)より引用。

 ”ツツジの花、ことに白ツツジの花は食べられるが、レンゲツツジなどは有毒で、漢名「羊躑躅(ようてきちょく)」の名も、これを食えば苦しみ足をかがめるという意から名づけたという。その名の出所は、昔、母羊にはぐれた哀れな一匹の仔羊が、終日母羊をさがしもとめて歩いた。そのうちに赤い夕日は傾いて辺りは暗くなって月さえ昇りはじめた。仔羊は足はだんだん痛んでくるし、辺りは暗くなるので、眼に涙をいっぱいためながら、疲れた足を引きずってとぼとぼと這うように、それでも恋しい母を捜して歩いていた。折りしも月の光を通して真白いツツジが、あたかも母羊のように見えたので、仔羊は飛び立つ思いでこれに近づいてひざを躑躅(しゃが)んで、桃色の蕾を母羊の乳房と思いしゃぶったという故事から蕾を持つツツジを躑躅あるいは羊躑躅と呼ぶようになったのだという。”


 東京都の民話「新島の蛇とツツジ」

 昔々、箱根の芦ノ湖のほとりに猟師が妻と一人娘と一緒に暮らしていました。ある年、不漁続きで食べ物にも困るようになりました。猟師は、水神様に「魚が獲れないと家族全員飢え死にしてしまいます。一人娘を差し上げてもかまいませんから、魚が獲れるようにして下さい。」と、お願いしてしました。すると、また魚が獲れるようになり、水神の化身の大蛇が現れて娘を要求しました。追いつめられた娘は白い鳩に変わり、伊豆七島の新島まで飛んでいきました。大蛇が追って来たので、鳩は差地山(さしじやま)のツツジの茂みに飛び込んた時に目を突いてしまい、飛ぶことができなくなりました。
 大蛇が鳩を飲み込もうとした時、新島に住む三島明神の御子の大三王子が現れて、大蛇を剣で3つに断ち切りました。大蛇の頭は八丈島へ、尾は大島へ飛んでいきました。子の時から3つの島には蛇が住むようになりました。頭が落ちた八丈島の蛇はよくかみつき、尾が落ちた大島の蛇はよく巻きつくようになりましたが、胴が残った新島の蛇はそれほど害がありませんでした。また、差地山のツツジは、白い鳩が目を突いた時から木は茂っても花は咲かなくなりました。


 長野県上田市の伝説「つつじの乙女」

 昔、太郎山の麓の山口の村に美しい娘が住んでいました。娘は、秋祭りの夜に松代から山をいくつか越えて遊びに来た若者に恋をしました。若者も娘に好意を持ちましたが、二人の住む場所が離れていたので会う機会はありませんでした。つのる想いに娘は毎晩家を抜け出して若者の家へ走って行くようになりました。娘は両手に餅米を握って走って行きましたが、若者の家に着いた時には餅米は餅になっていました。二人は餅を食べながら幸せな一時を過ごしました。しかし、若者は睡眠不足になり、娘をうとましく思うようになりました。そして、娘が山口から険しい山道を走って来ることに疑いを抱き、娘が魔物ではないかと思い込みました。若者は険しい崖で隠れて娘を待ち伏せし、崖から突き落としてしまいました。
 翌年の春から、その辺りには血のように鮮やかな赤い色のつつじが咲くようになりました。


 群馬県館林市の「つつじが岡公園」にまつわる伝説。

 昔、お辻という美しい女性が館林城主の榊原康政の側室にいました。康政の寵愛を一身に集めたお辻は正室から妬まれ、嫌がらせや虐待をされました。その仕打ちに耐えかねたお辻は、仕えていたお松と一緒に城沼に身を投げてしまいました。お辻をあわれんだ里人達は、お辻の霊を慰めるために「おつじ」と音の似ている「つつじ」を沼の南岸の龍燈の松のそばに植えました。
 善長寺には、お辻とお松の供養塔があります。


 群馬県館林市のつつじが岡にまつわる民話。

 昔、館林城主には美しい奥方がいました。ある日、奥方は大勢の家来や腰元を連れて、城沼という周囲一里(約4km)の沼で船遊びをしました。ところが、突然、船が全く動かなくなってしまいました。段々と日は傾いてくるのに船は動きません。船上の人々は相談し、沼の主の竜神の求める人に水中に沈んでもらうことにしました。各々の持ち物を水中に入れてみると、他の人の持ち物は沈まないのに、奥方の持ち物だけが水中に沈みました。奥方が水中に身を沈めると、船は動き出し、岸に着きました。城主はそのことを聞くととても嘆き悲しみ、奥方の霊を弔うために、つつじ姫という奥方の名にちなんで、沼の岸辺にたくさんのツツジを植えました。これが今のつつじが岡だそうです。


 山形県長井市の「白つつじ公園」にまつわる伝説。

 昔、花作村に鈴木七兵衛という豪農がいました。七兵衛は凶作で苦しむ村人達を救うために屋敷内に築山を築いて琉球つつじの植栽を始め、作業に携わった村人達に米を支給しました。つつじは毎年雪のように白い花を咲かせ、「七兵衛つつじ」として親しまれるようになりました。米倉を管理する米沢藩の役人は白いつつじに感動して、その地を花作村と命名したとも言われています。
 長井では、鈴木七兵衛からつつじを寄付してもらい、当時樹齢百年にもなっていた30本のつつじを移植しました。これが白つつじ公園の始まりです。


 中国の朝鮮族の民話(飯倉照平著「中国の花物語」(集英社新書)より引用)。

 ”むかし、国王が、毎年、春が来るたびに、一人の娘を選び、天を祭る犠牲としていた時代のことです。ある年のこと、若者と妹が二人だけで暮らしている家に、国王の白羽の矢が立てられました。思いがけない災難をのがれるために、山に逃げこんだ兄妹は、一人の白髪の老人に出会い、無敵の白い馬と宝の剣をさずかります。
 それをたずさえた兄妹は、村人たちに助けられて国王の城に攻めこみます。国王は、いち早く脱出していましたが、城に入った兄妹と村人たちは、食糧などの戦利品を手に入れて、村にもどります。しかし、その夜、疲れて眠りこんだすきに、兄妹は国王のよこした兵士に捕えられ、妹はその場で殺されます。牢屋に入れられた若者は、国王への服従を迫られますが、強く拒否しました。
 処刑は、見せしめのために村人たちの前で執行されることになりました。山を越えて村へ連行される途中で、若者の手足は傷つき、山のあちこちが流れる血で赤く染まりました。村へつく前に若者は息が絶えていました。若者の血がついたあとに、やがて紫がかった赤い花が咲きました。それが朝鮮語でチンダルレと呼ばれるツツジの花でした。
 別の類話では、兄妹ではなく恋人同士が山へ逃げて、山ごと国王に焼きはらわれてチンダルレの花になった、とあります。チンダルレは、朝鮮半島の代表的な花で、物語や歌曲にしばしば取りあげられています。”


「花物語」には、五月・皐月・杜鵑花(さつき)・ムラサキヤシオ(ミヤマツツジ)の項目もあります。


花言葉は、節制・愛の喜び・情熱・伝奇

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椿・山茶(つばき)

 フランスの小デュマの小説「椿姫」

 美貌の高級娼婦マルグリットは、一月のうち25日間は白い椿、5日間は赤い椿を胸に飾って社交界に出ていたので「椿姫」と呼ばれていました。マルグリットは、ある日、純真な青年アルマンと出会い、恋に落ちました。そして、汚れた生活から抜け出そうと真剣に考えるようになりました。
 しかし、アルマンの将来と一家の名誉を案じたアルマンの父親から、「息子のことを思うなら身をひいて欲しい」と懇願され、アルマンを裏切ったふりをしてアルマンを遠ざけ、もとの生活に戻っていきました。アルマンはマルグリットが心がわりしたものと思いこみ、彼女を侮辱して旅に出ました。
 アルマンが事の真相を知って戻ってきた時には、マルグリットは、既にこの世を去っていました。

 この小説は、作者自信によって劇化され、1852年に上演されて成功を収めました。

 
 ベルディ作曲のオペラ「椿姫」

 話の筋は戯曲とほぼ同じですが、マルグリットはビオレッタ、アルマンはアルフレッドと名前が変わっています。初演は1853年ですが、不適切な配役と歌手の練習不足のために不評でした。
 このオペラは、旋律の美しさと物語の通俗性とによって広く知られており、中でも合唱による「乾杯の歌」、ビオレッタのアリア「ああ、そはかの人か」、アルフレッドのアリア「プロバンスの海と陸」などが有名です。


 「椿姫」のお話から、フランスでは、椿には「罪を犯す女」や「贅沢でお洒落な商売女」を指すようになりました。
 日本でも、花が首からポトリと落ちる様子を、縁起が悪いと嫌う人がいます。


 青森県夏泊半島椿山椿神社の縁起

 椿山の港の住んでいた美しい娘が、毎年この港へ来る他国の船頭と恋仲になりました。娘は、その船頭が国へ帰る時に、「都の女は椿の油を髪にぬってつややかにすると聞きました。北国には椿の木はありません。今度来るときには、お土産に椿の実を持ってきて下さい。」と頼みました。
 しかし船頭は、次の年も、さらにその次の年も娘のことを気にかけながらも椿山の港へ行きませんでしたし、便りも出しませんでした。そのため娘は恋焦がれたあげくに絶望して海に入って死んでしまいました。港の人達は、横峰というところに娘を葬り、墓の印に木を植えて弔いました。
 3年後、船頭はこの港へ娘への土産の椿の実を持ってやってきました。そして、娘が死んだことを知ると嘆き、娘の墓の周りに土産の椿の実をまいて、血の涙を流して泣きました。
 その椿の実が芽を出し、やがて椿の林となり、見事な花が咲きました。ところが、港の人がその椿の枝を折ると、清らかな女が現れて、それを制止しました。そのことがあったので港の人々は娘の霊を神に祭りました。

 現在は、神の祠は、横峰から別のところに移されています。
 かたわらに椿神社の祭神をしるした立て札があります。猿田彦命(さるたひこのみこと)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)が祭られており、横峰嘉兵衛の女房玉女に毎夜神がのりうつり、「椿大明神と称えよ」とのお告げがあったので、椿神社と称えた、と記されているそうです。


 「小那姫(こなひめ)の椿」(島根県能義郡広瀬町)

 富田城(とだじょう。現)の城主、堀尾吉晴(ほりおよしはる)の娘の小那姫は、城下でも評判の美しさでしたが、五年前の春に風邪で寝込んで以来病弱になってしまいました。典医(てんい。殿様に仕える医者)の田代もどうすることもできず、吉晴は神社や寺院に願掛けし、茶断ちや塩断ちをして祈りましたが、全く効果はありませんでした。
 小那姫の気分がよい日が四、五日続いたので、小那姫はばあやと月見に出かけることを許されました。月が傾きかけた頃、小那姫は青銅の鏡をばあやに渡し、両親に届けてくれるように頼みました。そして二十原(はたちばら)の池の方に歩いていき、杖を土手に突き刺して言いました。
「私と同じように病で苦しむ者がなくなるように神様にお願いしましょう。この杖から芽が出たら私の願いが通じたと思ってください。」
そして小那姫の姿は見えなくなりました。
 翌春、杖は芽を出し、冬には真っ赤な椿の花を咲かせました。年々椿の木は大きくなりましたが、花は落ちずに枝についたまま萎み、実はかたくて割ることができませんでした。村人達は小那姫を偲び、椿の木の近くに祠をたててまつりました。それが二十原神社で、病に苦しむ者にご利益がありました。
 現在、小那姫が身を投げた池は田んぼになっており、二十原神社も建て直されたものであり、境内の椿も植えかえられたものです。広瀬町のホームページの観光情報にも掲載されていません。


 キリシタン伝説。

 天草・島原の乱が終わって間もない頃、天草の畑で老夫婦が麦の種を蒔いていました。そこへ一人の美少年が通りかかりました。彼は次のように言いました。「私は役人に追われています。もし役人達がここに来て私のことを尋ねたら、麦蒔きをしている時にここを通って西の崖へ行ったと、本当の事を言ってください。」
 老夫婦は不思議に思いましたが、役人がやってくると、彼の言う通りにしました。そして老夫婦が畑を振り返ると、今まで種を蒔いていたはずの麦畑に麦の穂が伸びていました。役人達は「麦の種を蒔くのは秋のことではないか。もうここにはいないだろう。」と言って去っていきました。ところが役人達がいなくなると畑は元に戻り、少年の足跡も残っていました。
 老夫婦が崖のほうを見ると、少年が南蛮船に乗って去っていくのが見えました。老夫婦は、その少年が天草四郎に違いないと思いました。その後、天草四郎のいた崖に山椿の木が生え、赤い花が咲くようになりました。

 (この話の麦の部分はヨーロッパ各地にも伝わっています。逃げているのは幼いイエス・キリストを連れてエジプトへ避難しようとしている聖家族です。)


 千葉県の民話「八万八千歳の椿」

 昔々、上総と下総のあたりを治めていた神様の猿田彦命(さるだひこのみこと)が椿の木を植えました。椿は成長し、八万八千年経った時には天まで届くような大木になっていました。ところが、この椿の枝の陰に悪神が住みついて悪事を働くようになりました。いくさ神の香取の神様と鹿島の神様は悪神征伐に出かけました。悪神は負けそうになると、椿を引きぬいて海に投げ、その上に乗って逃げていきました。椿を抜いたあとの穴は、水がたまって「椿の湖(つばきのうみ)」と呼ばれる大きな湖になりました。江戸時代に入ってからは干拓が行われ、干潟八万石(ひがたはちまんごく)と言われる米の産地になりました。


 福井県の民話「八百比丘尼(やおびくにorはっぴゃくびくに)」

 昔、若狭の国の加斗村(かとむら、現在の福井県小浜(おばま)市)に高橋権太夫(ごんだゆう)と呼ばれる長者がいました。ある時、権太夫は三日三晩船に乗って遠い島へ行きました。島には立派な御殿があり、王様が出迎えてくれました。権太夫は歓待を受けて楽しく過ごしていましたが、人魚の肉のご馳走を食べさせられそうになり、日本に帰ることにしました。王様は人魚の肉を箱に詰めて「これは不老長寿の薬です。」と言ってお土産にくれました。
 日本に戻った権太夫は、お土産の箱を棚の上にのせたまま忘れてしまいました。ところが、権太夫の一人娘が箱の中の肉を食べてしまい、それ以来、娘は何年経っても娘の姿のまま老いなくなったのでした。娘は尼になって旅に出、白玉椿の枝を手に持って各地を歴訪しながら仏の教えを説きました。そして、世の中の移り変わりを見ているうちに、生まれ故郷の若狭で入定(にゅうじょう)することに決めました。入定とは、身体を清め、食事をとらず、お経を唱え続けながら御仏のそばにいく修行のひとつでした。
 尼は小浜の岩屋に閉じこもる前に、入り口に1本の白い椿を植えました。尼は近所の人々に「毎年春になって、この白い椿が咲いた時には私がまだ生きていると思ってください。」と告げて岩屋に入りました。白い椿の花は長い間毎年咲き続けました。尼が入定したのが800歳の時だったので、人々は八百比丘尼と呼ぶようになりました。


 新潟県の民話「玉屋の椿」

 昔、越後の国の鯨波(くじらなみ、現在の新潟県柏崎市)に玉屋の徳兵衛という商人が住んでいました。働き者の徳兵衛は大金持ちになりましたが、徳兵衛は土蔵の金銀が盗まれるのではないかと気が気ではありませんでした。昼は働き、夜は見まわりの生活に疲れた徳兵衛は、裏の竹やぶに生えている椿の根元に金銀を埋めて隠しました。
 その後、徳兵衛は身体をこわして山中温泉に湯治に出かけました。半月程経ったある日、湯治客が「越後鯨波 玉屋の椿 枝はしろがね 葉はこがね」と歌っているのを聞いた徳兵衛は、あわてて鯨波に帰りました。竹やぶの椿は、しろがねの枝に、こがねの葉をつけて輝いていました。椿の木に金銀の精を吸い取られたと思った徳兵衛は倒れて床につき、息を引き取りました。しかし、徳兵衛の妻には椿は普通の椿にしか見えませんでしたし、根元に徳兵衛が埋めたという金銀もありませんでした。
 現在では、玉屋のあったあたりは深い海の底になっているそうです。


 海石榴市の地名起源説話。
 (椿は古くは「海石榴」と書いて「つばき」とよんでいました)
 
 景行天皇即位一二年、天皇が豊後国の石窟に住む逆賊土蜘蛛討伐した時のお話です。天皇は来田見邑(くたみのむら)に留まり、海石榴の樹を採って椎(つち)を作って兵器にしました。そして猛攻を加え、山を穿(うが)ち、草をはらい、土蜘蛛を襲って稲葉川の上で破り、悉く徒党を殺しました。流血は兵士達のくるぶしまで浸しました。そのために、その椎を作った場所を海石榴市と呼ぶようになりました。また、流血のあった場所を血田と呼ぶようになりました。
(初出は「日本書紀」巻七・景行天皇紀ですが、「豊後国風土記」にも同様の記述があります)

 海石榴は中国での名前であり、その後は山茶の字が当てられました。「椿」は「春を代表する木」という意味が込められた国字です。出処は万葉集の歌だとされています。
     巨勢山の つらつら椿 つらつらに
         見つつ思(しの)はな 巨勢の春野を   坂門人足


 椿は、日本では数少ない鳥媒花の一つです。
 「日本書紀」には、天武天皇に白い椿が献上されたという記述もあります。

 中世においては、朝廷の正月卯の日に椿の木を悪鬼を払う卯杖卯槌(うじょううつい)として用いました。椿が春の到来を占う大切な木であったからだと思われています。

 愛媛県松山市の伊予豆比古命(いよつひこのみこと)神社では、旧暦正月七日から九日にかけて椿祭を行い、椿市が立ちます。

 福島県では、椿の実を用いた子供のおはじき遊びの一種「つばきぱり」というのがあったそうです。

 白椿の生け花には、昔から花一輪葉三枚半の「一輪生(いけ)」といういけ方があるそうです。三枚半の葉というのは、葉の一部が虫食い葉や破れ葉になっているのを表し、いけ方の技巧が求められています。

 椿が西洋に知られたのは、イギリスの医師ジェームズ・カニンガムが、1700年頃中国に滞在し、採集した植物の図を本国へ送った中に椿の図があったのが最初です。実物は1739年にイエズス会の宣教師カメリによって伝えられました。彼の名前は学名にもなっており、西洋では、椿と山茶花(さざんか)をいっしょにしてカメリアと呼んでいます。


 侘助椿にまつわるお話については、「花物語」の侘助(わびすけ)の項目を参照してください。


椿(赤)の花言葉は、控え目な美点
椿(白)の花言葉は、申し分のない魅力

侘助(わびすけ)

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坪菫・壺菫(つぼすみれ)

 坪菫は庭に生える菫の意味です。坪は「坪庭(四面を囲まれた庭)」を表しています。別名は、如意菫(にょいすみれ)といいます。如意はお坊さんの持ち物で、葉の形が似ているところから名付けられたそうです。


 壺の碑(いしぶみ)と千引(千曳)明神の伝説。

 青森県のお話です。(壺の碑というものは宮城県にもあります)
 坂上田村麻呂は蝦夷征伐の時に、弓筈(ゆはず。弓の両端の弦をかけるところ)で「日本中央(ひのもとちゅうおう)」と石に刻んだという記述が「東遊記」や「袖中抄(しょうちゅうしょう)」残っています。この石は千引明神の床下にあるということでしたが、そこからは発見されませんでした。
 上北郡東北町の石文(いしぶみ)集落付近で「日本中央」の文字が掘ってある石が発見されましたが、坂上田村麻呂はその土地を訪れていないとされており、真贋を始めとしていろいろな意見があるようです。
 壺の碑は様々な都の歌人達にも知られており、歌に詠まれてもいます。

   みちのくの奥ゆかしくぞおぼゆるは 壺のいしぶみとそとの浜風   西行法師(山家集)

 千曳付近の奥州路に壺の碑がありました。その里の小壺(さつほ)という娘はとても美しく、その瞳は菫のように紫に輝いていました。小壺は碑の上に現れる若者と恋仲になりました。天帝が地上の守りになるように田村麻呂に命じて残させたのが碑の若者でした。天帝は碑の若者の恋を許さず、天から火矢を打ち、若者を燃やしてしまいました。若者の燃えかすは雨にとけて碑の中に消えました。それ以来、碑から声が聞こえたり、炎に焼かれる若者の姿が見えたりという怪異が起こるようになりました。
 路を通る人がいなくなるのを心配した村人達は巫女(いたこ)の教えに従って、大勢で石を引いて捨てることにしましたが、石は少しも動きませんでした。ところが、小壺が協力すると石は少しずつ動き出し、山の麓に移して埋めることができました。その上には小壺の願いで社が建てられ、千人の人に引かれたので千引明神と名付けられました。小壺はそこに堂守として仕えました。
 小壺が死んだ翌年、そのあたりに見たことのない菫が一面に花を咲かせました。その菫の葉や花には壺の形がくっきりと浮き出ていました。村人達は小壺の霊が菫になって碑を守ろうとしているのだと思い、その花を壺すみれと呼ぶようになりました。千引の宮がなくなったあとも春になると壺すみれの花は咲き続けているそうです。


 「花物語」には、菫(すみれ)・パンジー(三色すみれ)の項目もあります。


花言葉は、誠実な愛

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露草(つゆくさ)

 ツユクサの属名Commelinaの由来のお話(学名はCommelina communis)

 ツユクサは、二つに折れた帽子のような形の苞(ほう)の中から花柄を伸ばして青い花を咲かせます。その様子からツユクサの別名に帽子花というのがあります。ツユクサの花には3枚の花びらがあります。上にある2枚はうちわ型で青い色をしていますが、下にある1枚は目立たない白色で、幅も長さも小型になっています。
 オランダには、コムメリンという苗字の植物学者が3人いましたが、その中の一人、J・G・コムメリンには目立った業績がありませんでした。植物学者のリンネは、そのことをツユクサの花びらに見たてて命名したそうです。

 いたずらっ子が、友達にあだ名をつけるように命名されてしまったのですね。
 J・G・コムメリンさんは悲しまなかったのでしょうか…。それとも、少し知られるようになって喜んだのでしょうか…。

 ツユクサの汁で染めるとすぐに褪色するので、友禅染めの下書きに利用されます。その汁をとるために臼でついたので、ツキクサという別名もあります。転じて月草とも書かれます。色が褪めやすいことは、枕詞「月草の」が「移ろう」にかかることにも現れています。ツユクサの青い色素はアントシアニンの一種で、学名にちなんでコンメリニンと名付けられました。


 戦前の言い伝え。

 天明時代(1781〜1788)頃、山田村字木川郷に住んでいた一人の老人が草津川を流れてきた草が珍しかったので持ち帰りました。老人がその草を畑に植えると、咲いた花が村の人々に気に入られ、村中で栽培されるようになりました。その花が、友禅染めの下絵描き用の色素を探していた人の目に偶然とまり、下絵用の青花液として使われるようになりました。


 滋賀県草津市の伝説「青花の紙」。

 昔、琵琶湖の南の木川(きのかわ)という村に、きよという娘が病気の母親と住んでいました。きよは病気の母に白米の粥をたくさん食べさせてあげたいと思っていましたが、朝早くから夜遅くまで働いても、暮らしは貧しいままでした。
 ある夜、きよの夢に観音様が現れて言いました。
「朝早く草津川の一本松に行きなさい。木の箱にお米が入っているので、その日に食べる分だけのお米を持って帰りなさい。」
翌朝、きよが一本松に行ってみると、観音様のお告げの通り、お米の入った木箱が置いてありました。きよは観音様に感謝し、両手にひとすくいのお米を持って帰りました。
 それから毎朝きよは一本松に出かけていきましたが、一月ほど経った頃、つい魔がさして何日分かまとめて袋に入れて帰りました。すると、翌朝は木箱にはお米でなく黒い粒が入っていました。きよは自分の欲を恥じ、観音様に謝って許しをこい、心を入れかえてよく働き、困っている人をすすんで助けるようになりました。
 すると、ある夜、きよの夢に再び観音様が現れて言いました。
「黒い粒は花の種です。畑にまきなさい。夏に青い花が咲くので、花びらの汁を和紙にしみこませなさい。きっと役に立つでしょう。」
きよは観音様のお告げ通りにし、たくさんの青花の紙をつくりました。秋になると、京の友禅問屋の人が友禅染の下絵用に青花の紙を高い値で買ってくれたので、きよは母親のために薬も買えるようになりました。また、村人達も、きよから種をもらって青花を育てるようになりました。
 青花はオオボウシバナという野生の露草の一種です。


  地の果てに 地の塩ありて 螢艸(ほたるぐさ) 山本健吉

 長崎県出身の山本健吉が、長崎県の島原の乱の戦場だった原城跡に咲く露草を詠んだ句です。原城文化センターに句碑があります。


 ちなみに、露草色は#3333FFだそうです。


花言葉は、小夜曲・尊敬・わずかな楽しみ

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蔓梅擬(つるうめもどき)

 「ツルウメモドキになった暴れ者の風の神が語った話」(アイヌの神謡、十勝芽室)

 私は裸になって木の枝にぶら下がって身体を揺すりました。すると、身体の中から激しい風が吹き出して木々や草花を次々となぎ倒していったので、村人達は泣き叫びました。私はその様子を見て満足しましたが、身体を揺すり続けていました。そこへヨモギの弓矢を持った一人の男がやってきて、「火の神に頼まれて来た。」と言って私の回りを回りました。突然、ヨモギの矢が私の両目に刺さり、私は気を失いました。
 私が気付くと、男は言いました。
「お前は酷いやり方で神のいる村や人間の村を壊してしまった。お前のした悪いことを知らせるためにこのように少しずつ苦しめるのた。」
 私は頼みました。
「自分は神なのに悪い心を持ち、今苦しんで死ぬが、これではあまりに情けありません。せめて人間の役に立つようにツルウメモドキにして下さい。」
こうして私はツルウメモドキになりました。


 アイヌの昔話「女神のお守り」
 (萱野茂著「アイヌの昔話ひとつぶのサッチポロ」(平凡社)より要約)

 嫁入りが近付くと娘達は母や祖母に教えてもらいながらラウンクッというお守り紐を編みます。このお守り紐は、ツルウメモドキの皮をはいでよった細い糸を8本編みで約4mの長さに編みます。そして、片方の端に輪を作り、もう片方の端は先端の10cmくらいを二つに分け、それぞれにひし形の黒布をつけます。色糸や色布は使用してはならない規則でした。
 下の天を司る神の娘が、上の天を司る神の息子のところに嫁入りすることになりました。ところが、下の天を司る神の娘は母の教えを守らずに、色糸を使って七色のお守り紐を編み上げました。娘は七色のお守り紐は素肌につけて嫁入りしました。しかし、七色のお守り紐を見た夫は病気になってしまい、娘は両親に連れ戻され、罰として大地の下の湿地の国へ追いやられました。
 神々は、七色のお守り紐に魂を与えて人間の住む大地に投げ、虹に変えました。神々は湿地へ追放された娘を哀れみ、虹の橋がかかった時だけその橋を渡って神の国の両親に会えるようにしてやりました。虹の橋を渡る娘が落とす涙は大粒の雨になって地上に降りました。
 だからお守りの紐を編む時は色糸を使ってはいけません。


蔓梅擬の花言葉は、真実・大器晩成

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蔓(つる)どくだみ

 何首烏(かしゅう)はドクダミに似た葉をもつタデ科のツルドクダミの根塊のことです。ドクダミのようなにおいはありません。
 ツルドクダミの蔓茎は夜交藤(やこうとう)と呼ばれ、不眠に効果があるそうです。


 中国の民話。

 唐の時代、ある山の麓の村に何田児(かでんじ)という人が住んでいました。何田児は生来病弱であったため、58歳になっても独身でした。
 ある日、何田児は小高い山へ登ったところ、気分がよくなったので、翌日からは毎日山へ登るようになりました。何田児が山の草の上に寝転がっている時、2本の藤蔓のような蔓が目に映りました。2本の蔓は3尺以上も離れていましたが、枝葉を絡ませ合って一つのように見えました。その植物は紫色で、2枚の葉が相対していて長く、黄白の花をつけていました。何田児は2本の植物を持ち帰ろうと思って根を掘り出しました。その根はこぶし大の大きさがありました。
 その植物を持ち帰った夜、何田児は不思議な夢をみました。仙人が現れて、何田児にその植物を食べるように言ったのです。何田児は根を粉にして毎食前に飲みつづけました。すると、何田児は次第に元気になり、毎日その植物の根を採集するようになりました。
 そうして1年も経つうちに、何田児の身体は丈夫になり、頭髪は黒くなり、肌のつやもよく、若々しい容貌になりました。何田児は妻を娶り、60歳をすぎて息子に恵まれました。何田児も息子も160歳以上で亡くなりました。何田児の孫も130歳になっても黒髪だったので、彼は「何首烏」と呼ばれました。「何」は姓、「首」は頭、「烏」は黒を意味しています。そして、いつしかその植物の根塊が何首烏と呼ばれるようになりました。


 別の中国(朝鮮族)の民話(安徽省)。

 あるところに82歳になるお金持ちの老人がいました。老人は一人息子を亡くして嘆き悲しんでいました。
 ある日、薬草採りの老人が金持ちの老人を訪ねて来て言いました。
「後継ぎがほしいのなら、20歳くらいの女性と結婚しなさい。そうすれば子宝に恵まれるようによい薬を届けてあげますよ。白髪も黒くなる薬ですよ。」
 お金持ちの老人は半信半疑でしたが、田畑の一部を売って大金をつくり、若いお嫁さんをもらいました。薬草採りの老人は毎日薬を届けてくれました。その薬を飲み続けていると、49日ほどでお嫁さんは身ごもり、やがて元気な男の子が生まれました。
 息子が生まれて100日ほど経った頃、お金持ちの老人は薬草採りの老人の家へお礼に向かいました。多くの贈り物を揃えて行列をつくって薬草採りの村へ行きましたが、薬草採りは亡くなっていました。お金持ちの老人は薬草採りの恩に報いるために、届けてもらった薬草に「何首烏」という薬草採りの老人の名前をつけました。


 さらに別の中国(朝鮮族)の民話(安徽省)。

 あるところに不眠に悩む一人の老人がいました。老人は身体中が痛んで夜もよく眠れないので昼間も元気がありませんでした。
 7月15日の夜、老人は眠れないので花壇を散歩していました。すると、ツルドクダミの蔓が木に巻き付いているのに気付きました。内側の蔓は右から左へ、外側の蔓は左から右へ巻いており、互いにしっかりと巻き付いていました。ところが、翌朝に見たときには、2本の蔓はほどけて同じ方向を向いていました。老人は毎日蔓を観察しましたが、やはり夜は巻き合い、昼はほどけていました。
 老人は、ツルドクダミも動物のように交配するのだろうか、ツルドクダミの塊根は貴重な薬だが蔓や葉も薬になるのではないだろうか、と考えました。老人はツルドクダミの葉を摘んで揉んでから茶碗に入れて湯を注ぎ、その湯を飲んでみました。その夜、老人はぐっすりと眠ることができました。老人は喜び、孫娘にツルドクダミの葉を摘ませ、干して保存して不眠症の老人達に分けてあげ、感謝されました。
 老人はツルドクダミの雄株と雌株が夜交配していたところから、その植物を夜交藤と名付けました。

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蔓日々草(つるにちにちそう)

 別名には、つるぎきょう、ビンカマジョール、ヴィンカ、ビンカ、ペリウィンクルなどがあります。


 思想家のジャン・ジャック・ルソーの自叙伝「告白」より。

 ある日、ルソーは自分の恋するド・ワレン夫人と散歩していました。途中で夫人は「ツルニチニチソウがまだ咲いているわ。」と言ったので、強度の近視だったルソーはしゃがんでその花を見ました。それから30年の間、ルソーはこの花を見ることはありませんでした。
 花好きのルソーは、植物採集のための登山の途中で偶然にツルニチニチソウの花を見つけました。すると、30年前の楽しい恋の思い出の日々が思い出されました。
 ツルニチニチソウの花言葉は、このお話から生まれました。


 実際に聴いたことはないのですが、輸入版のヨゼフ・シュトラウス(1827-1870)の『管弦楽作品集第21集』には、ポルカ・マズルカ「ツルニチニチソウ」という曲が入っているそうです。


花言葉は、幼馴染み・朋友・楽しき思い出・優しい追憶

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デージー

 ギリシャ神話のお話。

 森のニンフ、ベリジスには、愛を誓い合った恋人エフィジウスがいました。ある日、ベリジスとエフィジウスが楽しそうに踊っているところを、果樹園の神ベルタムナスが通りかかりました。ベルタムナスは、ベリジスが気に入って追いかけ回しました。ベリジスは、逃げ続けましたが、このままでは逃げられないと思い、デージーの花に姿を変えてしまいました。


 ギリシャ神話の別のお話。

 愛の神エロスとプシュケの物語は有名です。その有名な物語は花物語では取り上げません。ここに載せたのは、それよりも以前に出来あがったと思われるエロスとプシュケの物語です。(ローマ神話では、エロスはキューピッドの名で登場します)

 エロスが恋の橋渡しの仕事に飽きてきたのに気付いた母親のアフロディーテは、エロスにも恋をさせようと思い、エロスを地上に下ろしてやりました。エロスはプシュケに出会い、二人はたちまち恋に落ちました。楽しい月日が流れましたが、やがてエロスは人間との生活が重荷になり、天に戻ることにしました。エロスは星をひとつ落としてもらい、プシュケと楽しく過ごした牧場に置きました。星はデージーに変わり、牧場中に広がりました。エロスはプシュケとの愛の証にデージーの花を咲かせたのでした。


 ヒナギクのキリスト教伝説(麓次郎著「季節の花事典」(八坂書房)より引用)

 ”(チロル地方の伝説)聖母マリアが幼児キリストを抱いてエジプトに逃れねばならなくなった時、悲しみのあまり、たくさんの涙を流した。それがヒナギクになったというので、チロル地方ではこの花を「マリアの小さい花」と呼んでいるという。

 (ドイツの古い伝説その1)聖母マリアがある冬、幼児キリストに白いリンネルの花を作って与えた。キリストはそれを野原にまき散らしたので、夏になると白いヒナギクがあちこちに咲くようになった。

 (ドイツの古い伝説その2)幼児キリストが三歳の時、聖母マリアはキリストのために花輪を作って与えようとしたが、クリスマスの頃だったので、どこにも花が見つからなかった。そこで造花で花輪を作ったが、その時、指に傷をつけたので、その血からヒナギクが生まれた。”


 古い物語。

 昔、カレドニアのモルヴェンにマルヒナという未亡人がいました。彼女は、夫のオニカーが戦死してまもなく愛児までも亡くしてしまい、泣き悲しんでいました。その様子を見て、近所に住む少女が、オニカーをたたえる歌と、死んだマルヒナの愛児のために「ひなぎくの歌」を歌い、彼女を慰めました。この時からモルヴェンの少女達は、ひなぎくの花をみどり児(緑は新芽の意味。新芽のように生まれたばかりの子のこと)に捧げる習わしとなりました。
 (ケルト人は、生まれてすぐに神に召された赤ん坊は、両親を慰めるために新しい花を地上に投げるとも考えていたそうです。)


 アンデルセン童話「ヒナギク」のお話。

 草の中に1本の小さなヒナギクが生えていました。ヒナギクは太陽が自分を照らし、風が自分にキスしてくれるだけで満ち足りていました。ヒバリが下りてきて、「なんて小さくて可愛い花だろう」と歌ってくれた時には、ヒナギクはとても幸福でした。大きくてきれいなチューリップの花が切り取られた時には、ヒナギクは見向きもされず、自分が小さくてみずぼらしい花でよかったと思いました。
 ところが、ヒナギクを幸福な気分にしてくれたヒバリは男の子に捕まって、鳥かごに入れられてしまいました。ヒナギクはヒバリを助けてあげたいと思いましたがどうすることもできませんでした。男の子はヒナギクを芝生ごと切り取って鳥かごの中に入れましたが、水は入れませんでした。ヒバリは渇きに苦しみながら死んでしまいました。ヒナギクも悲しみで病気になりました。
 翌朝、男の子がやってきて、ヒバリが死んでいるのに気付いて泣き出しました。そして、ヒバリをきれいな箱に入れてお墓に葬り、ヒナギクと芝を捨てました。ヒナギクは誰よりもヒバリのことを思いやっていましたが、誰一人ヒナギクのことを思い出してくれる者はありませんでした。


 デージーは、日の光が射すと花を開き、日が沈むと花を閉じます。かつてデイズ・アイ(太陽の目)と呼ばれていたところから、デージーという名前がつきました。花の芯を太陽に、花弁を太陽の光に見立てた名前です。


 デージーはイタリアの国花です。


花言葉 乙女の無邪気、無意識

雛菊(ひなぎく)

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ディル(イノンド)

 ディルAnethum graveolensはセリ科イノンド属の一年草のハーブです。

 英名のディルDillは、古いスカンジナビア語のdella(「静める」の意)に由来すると言われています。古くから消化器官の鎮静作用が認められていたそうです。

 和名はイノンド(伊乃牟止)です。イノンドは江戸時代に蕃語として呼ばれた名で、学名のAnethum(アネーツム)のなまりとされています。


 中世には、ディルには不思議な魔力が宿っていると考えられ、魔女に対する武器として利用されていたそうです。
 また、媚薬や惚れ薬としても使用されていました。

 また、ヨーロッパには「魔女のほうき」に使われたという伝説も残っているそうです。


 「ディルっぽくなる(原題Bedillt)」
 (フローチャー美和子訳著「封印されたグリム童話」(三修社)より引用)

 ”昔、魔女の姉妹がいて、彼女たちのメードを魔女にしてやろうとしました。けれどメードは毎朝身を清め、神の恵みをお祈りしていたので、魔力が効きませんでした。そのため、二人の悪い姉妹は(二人は同じ家に住んでいませんでした)話し合い、一人が朝たいへん早くメードを起こして、庭を通ってもう一人のほうに使いに行かせることにしました。
 それで一人が早朝に、急いでパンをあちらから取ってきなさいと言いつけたので、メードは身を清めることができませんでした。そしてそのまま庭を通り抜けたとき、ディル(あの、庭によく生えているハーブです)を撫でると、ディルについていたきれいな朝露のしずくがぽとりと落ち、それで彼女は身を清めることができました。そしてメードがもう一人の魔女の家に着くと、そのまま次の答えといっしょに送り返されました。
「パンはディルっぽくなるおそれがあるので、持たせません。」

 (解説)ディルは地中海沿岸に生息しているハーブです。その強い香りが丁子(クローブ)と同じように、魔女よけとして古くから使われていて、いろいろな民族伝説に登場します。とりわけ、昔、パンを焼くかまが村に一つしかなかった頃(共同で使用していました)、女たちがパンを焼きにかまに行くとき、ディルをいっしょに持っていくと、パン生地が魔女の魔法にかからないと言われていました。
 ですから、「ディルっぽくなる」とは、人間にとっては魔よけの意味になりますが、魔女にしたら、魔法のかけられない、また悪影響のあるおそれもある、悪い意味となります。”


花言葉は、保護・抵抗できない・なだめる・幸運

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定家葛・白花藤(ていかかずら)

 『定家葛』(能の曲名「定家」の古名)

 定家の時雨の歌や式子内親王の「忍ぶ恋」の歌などにもとづいて構想したものかどうかは不明です。

 定家が建てたといわれる時雨の亭(ちん)で旅の僧が時雨の通り過ぎるのを待っていました。そこへ里の女が現れて、旅僧を式子内親王の墓に連れて行き、定家との恋について語りました。
 後白川帝の第三皇女である式子内親王は、歌人の藤原定家と密かに契りを結んでいました。やがて式子内親王は加茂の斎宮となり、出家して死んでしまいました。それから40年後に定家も亡くなりましたが、式子内親王の墓は、定家の執念による葛にまといつかれていました。里の女は、じつは式子内親王の霊でした。式子内親王の霊は旅僧に、死後も解けぬ苦しみを物語りました。
 僧が読経をすると定家葛はまとわりつくのをやめました。式子内親王の霊はとても喜び、お礼に舞いを舞い、夜明けと共にお墓の中に姿を消しました。


 テイカカズラの古名は、マサキノカズラです。定家の墓から生えてきたマサキノカズラが、式子内親王の墓を覆い隠すようになったので、テイカカズラと呼ばれるようになったそうです。


 テイカカズラは、花物語「日陰蔓(ヒカゲノカズラ)」にも出てきます。

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梯姑・梯梧(でいこ・でいご)

 デイコは沖縄県の県花です。サンスクリット語ではマンダーラ(曼陀羅)とかパーリジャータ(波利闍多)などと呼ばれます。
 また、アメリカデイコは、海紅豆(カイコウズ)、エリスリナなどとも呼ばれます。


 インドの伝説。

 ヒンズー教の創世神話の「乳海攪拌」のお話(「花物語」の行儀芝(ぎょうぎしば)の項目にあります。)で、乳海の中から出現したものの中に「聖樹パーリジャータ」と呼ばれているものがデイコです。
 インドラ神は、乳海から出現した美しいパーリジャータ(デイコ)の木を持ち帰り、自分の庭に植えておきました。それをクリシュナ(ヴィシュヌの第八番目の化身)が盗んで、地上にもたらしました。クリシュナの二人の妻、ルクミニー(ラクシュミの化身)とサティヤバーマーはパーリジャータの木を自分のものにしたいと思って争いました。しかし、サティヤバーマーは既にインドヤコウボクを自分のものにしていたので、パーリジャータを諦めてルクミニーに譲りました。こうして、パーリジャータはルクミニーの木となりました。
 ヒンズー教では、この木は神聖なものとされ、花はシヴァ神に捧げられ、材はホーマ(護摩)をたくのに用いられます。


 「島唄」は、沖縄県の県花のデイゴの花が咲く頃に始まり、デイゴの花が散る頃に終わった沖縄の戦争を題材にした唄で、平和への祈りが込められています。
 THE BOOMの「島唄」は、地球の裏側のアルゼンチンでも「SHIMAUTA」の題名で日本語の原曲のまま発売されてヒットしたそうです。
 ちなみに、歌詞にある「ウージ」とは「サトウキビ」のことだそうです。

     島唄(作詞・作曲:宮沢和史、唄:THE BOOM)

     でいごの花が咲き 風を呼び 嵐が来た
     でいごが咲き乱れ 風を呼び 嵐が来た
     くり返す悲しみは 島渡る波のよう
     ウージの森であなたと出会い
     ウージの下で千代にさよなら
     島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
     島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙

     でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ
     ささやかな幸せは うたかたの波の花
     ウージの森で歌った友よ
     ウージの下で八千代の別れ
     島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
     島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を

     海よ 宇宙よ 神よ いのちよ このまま永遠に夕凪を
     島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
     島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の涙

     島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ
     島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を


アメリカデイコの花言葉は、夢・童心

行儀芝(ぎょうぎしば)

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デルフィニウム(飛燕草)

 デルフィニウムは、キンポウゲ科デルフィニウム(ヒエンソウ)属に属します。学名のデルフィニウムは「イルカに似た」という意味です。
 和名は、ヒエンソウ(飛燕草)、またはチドリソウ(千鳥草)です。


 西欧の伝説。

 ギリシャの海辺のエリシタンという所に、オルトープス(オルニトプス)という若者が住んでいました。オルトープスは釣りが大好きで、毎日釣りを楽しんでいました。
 ところがある日、オルトープスは釣りの最中に誤って海に落ちてしまいました。オルトープスが海の中でもがいていると、イルカの群れがやってきて助けてくれました。その日以来、オルトープスとイルカ達は心が通じ合うようになり、毎日海辺で遊ぶようになりました。
 エリシタンの漁師達はイルカのせいで漁獲量が少なくなるのが気に入らず、イルカ達を一網打尽にする計画を立てました。そのことに気付いたオルトープスは、イルカ達をエリシタンの海辺から遠ざけました。漁師達はオルトープスがイルカ達を逃がしたことを知ってかんかんに怒り、彼を殺して、遺体を海に投げ捨ててしまいました。
 イルカ達は冷たくなったオルトープスの身体を浜辺に運んで、神々に祈りを捧げました。神々は、オルトープスとイルカ達の友情に感心し、オルトープスをイルカの姿に似たデルフィニウムの花に変えました。


「花物語」には、ラークスパー(大飛燕草)の項目もあります。


デルフィニウムの花言葉は、移り気・気まぐれ

飛燕草(ひえんそう)

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テロペア

ワラタ

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天南星(てんなんしょう)

 テンナンショウArisaema serratum (Thunb.) Schottは、サトイモ科テンナンショウ属の植物です。

 英名では、Cobra lily、Jack-in-the-Pulpit。

 和名は、漢名の「天南星」を音読みにしたものです。赤熟した実をナンテンの実に見たてて、字の配列を変えて天南としたそうです。

 天南星の地下茎は有毒ですが、漢方薬にもなります。


 中国の民話。

 ある村に、働くことが大嫌いで、楽にお金を稼げる仕事をしたいと考えている若者がいました。若者は薬草で病気を治してお金を稼ぐのが一番楽だと考えました。でも、若者は薬草や病気の治療について何も知らなかったのです。若者は何日も考えて、突然、村を出て消息を断ちました。そして、半年ほど過ぎた頃、若者は人に頼んで、自分が天南で死んだという嘘の知らせを家族に届けてもらいました。
 それから2年後、若者は髭を生やして道士の格好をして、薬草かごを背負って村に戻ってきました。道士姿の若者が「天南で医学を学び、薬草で病人を治療していました。」と言うので、病人が訪ねて来るようになりました。しかし、若者は3年前と同様に薬草の知識はなかったので、病人は偶然治ることもあれば、治らないこともありました。ある時、若者は毒草を使って治療をして、患者を死なせてしまいました。若者は3年の刑を言い渡されて、投獄されました。
 それから1年後、ある医者が、若者の使った毒草がある種の病気に有効だと言ったので、若者は釈放されました。若者はその医者のもとで、その毒草の採集に専念しました。医者はその薬草を生姜汁に漬けておいて薬として使いました。医者が若者に薬草の採集場所を尋ねると、若者は「天南」と答えました。医者が天南の場所を尋ねると、若者は「天南星の出る方角です」と答えました。天南星の出る方角で採れるので、その毒草は「天南星」と名付けられました。


 テンナンショウ属の受粉のお話。
 (ウィキペディアフリー百科事典より引用)

 ”ムサシアブミなど一部を除き、多くは雌雄異株であるが、栄養状態によって性転換することが知られている。春に咲く花にはサトイモ科の特徴である肉穂花序と仏炎苞を持つが、仏炎苞の形状が特徴的で様々なものがあり、森の木陰に咲く紫色の仏炎苞は不気味な印象を与えるものもある。この仏炎苞は肉穂花序をぐるりと一周してラッパ状になるものが多い。肉穂花序の上部は様々な形の付属体となり、付属体の下端はスカート状になって仏炎苞の内面との間に狭い隙間を形成する。花序の花がつく部分では仏炎苞との間に隙間があって、付属体の下部に上をふさがれた部屋を形成している。この花にはキノコバエ科やノミバエ科などの小昆虫が誘引され、付属体と仏炎苞の間の隙間を通過して花の周囲の部屋に閉じ込められる。雄花ではこの部屋の下部に雄しべから出た花粉が溜まっており、閉じ込められた小昆虫は花粉まみれになる。雄花の仏縁苞の合わせ目の下端には小さな孔状の隙間があって、花粉をつけた小昆虫はここから脱出する。雌花ではこの穴がないため、閉じ込められた小昆虫は外に出られず、いずれ死亡する。この雌花に閉じ込められた小昆虫の中に花粉を体につけて雄花を脱出してきたものがいたときに受粉が成立する。”


花言葉は、壮大な美

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天人花・桃金嬢(てんにんか)

 天人花・桃金嬢(てんにんか)は、銀梅花(ぎんばいか)・マートル・ミルトスのことだそうです。訳者によって名前が統一されていないために混乱してしまいました。こちらの呼び名も支持されているようなので、「花物語」の銀梅花の項目と合わせてご覧下さい。


 ギリシャ神話。

 三美神Three Graces(カリテス、カリス達)はゼウスとエウリュノメの間に生まれた姉妹で、それぞれ、エウプロシュネ(歓喜)、タレイア(花のさかり)、アグライア(光輝)と呼ばれています。三美神は人生を彩る女神達で、アポロンの従者でもあり、ハルモニアの花嫁衣装を織ったとも言われています。
 カリテスの持ち物は、バラと天人花とサイコロだとされています。


 「牧人の恋の物語、ダフニスとクロエ」より。

 ピレタス老人が正午頃に庭の畑に行くと、ザクロや桃金嬢(てんにんか)の木陰に子供が見え隠れしていました。その子供は裸体で、つかまえようとするピレタスに木の実をぶつけながら身軽に逃げ歩きました。美しい子供に魅了されたピレタスは「キスをさせろ」と迫りましたが、子供は冷笑しました。子供の正体はキューピッドでした。キューピッドは、「かつてピレタスにアマリリスを取り持ち、今はダフニスとクロエの世話を焼いている。二人を牧場で会わせてからピレタスの所に来て花や木を楽しんで育てている。人間の中で私の姿を見ることが出来たお前は幸福者だ。」と言うと、桃金嬢やバラの茂みを伝って去っていきました。


 北欧神話のお話と伝承。

 女神フレイアは、夫の太陽を表す神であるオッド(オスル、オズル、オーズ等とも記述されます)をとても愛していました。二人は天上の都アスガルドで暮らし、二人の子供達も生まれましたが、ある時、オッドはフレイアとの結婚生活に飽きて旅に出てしまいました。フレイアはオッドの帰りを涙を流して待ち続けました。フレイアが流した涙は岩に染み込んで金になりました。(北欧では金のことを「フレイアの涙」と呼ぶそうです。)フレイアはオッドを捜しに出かけ、世界中を回りました。フレイアが世界中のあちこちで涙を流したため、各地で金が採れるようになりました。
 そして、とうとうフレイアは南の国で、天人花の花園に座っていたオッドを見つけることができました。オッドはフレイアの姿を見ると、またフレイアを愛するようになり、二人でアスガルドに帰りました。フレイアとオッドが戻ってきたので、大地には春が来て花が咲きました。


 アルハンブラ宮殿には、「天人花(アラヤネス)のパティオ(中庭)」があります。大理石とアーチで囲まれた回廊で、中央に池があり、両側には天人花が植えられています。


 TBS系全国ネットで放映された「ドラキュラが狙ってる」のエンディング・テーマは「天人花」(作詞:檜垣千恵美、作曲:ヤン・リー)でした。


 天人花(銀梅花、ミルトス、マートル)はフトモモ科の常緑低木で、アフロディーテ(ヴィーナス)の聖花(神木)のひとつ(他は、バラ、花梨、ケシ)です。でも、他にも天人花と呼ばれる植物があります。

 ミソハギ科の落葉樹のバナバは、フィリピンに古くから伝承される薬用植物で、「天人花」、「女王も手の届かない神木」とも呼ばれています。フィリピンでは葉を煎じて健康維持のお茶として飲みます。フィリピン政府植物産業局はバナバを医薬用植物として指定しているそうです。

 また、昔、ドイツビールに使われていたというテンニンカは熱帯産のクワ科の植物だそうです。


桃金嬢の花言葉は、愛

銀梅花(ぎんばいか)

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唐辛子(とうがらし)

 ユダヤの民話「トウガラシのチャンピオン」。
 (ピンハス・サデー編・秦剛平訳「ユダヤの民話・下」(青土社)より引用要約)

 ある日、王は、キリスト教徒とイスラム教徒とユダヤ教徒の指導者達を集めて言いました。
「勝ち抜き戦をするのでお前達の優勝者をよこしなさい。勝者には賞金を与えよう。」
 イスラム教徒とキリスト教徒はたくましい大男を出すことができましたが、ユダヤ教徒達にはふさわしい者がいなかったので困ってしまいました。すると、痩せた小柄な男が、「勝てば賞金が入りますし、私の命以外に失うものはありません。」と言って立候補しました。
 勝ち抜き戦は、世界一辛いトウガラシを食べても『アイ(辛いhotの意)』などと叫ばない者が勝利者となるというものでした。イスラム教徒はトウガラシを噛み始めるとすぐにすぐに「アイ」と叫んで退場させられました。キリスト教徒もトウガラシを噛むと、あまりの辛さに口から出そうとして「アイ」と叫んでしまいました。
 ユダヤ教徒はトウガラシを噛みながら歌いました。
     私の名前はバルジライ
     オー・ミー、オー・マイ
     私は売るよ町1番のパイ
     あなたも買って(パイ)くれた
     私は救いのない(ナイ)
     高い所の(ハイ)神を信じる
 王はユダヤ教徒を優勝者に決定し、賞金を与えました。王はユダヤ教徒が口にした歌のどの1行も「アイ」で終るのに気付いていませんでした。


 インドの民話「トウガラシ姫」。
 (日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より要約)

 昔、森にブルブル(美しい声で鳴く鳥。ふつうはナイチンゲール)のつがいが住んでいました。ブルブルの妻はあるジン(魔人)の庭に入り、きれいな緑のトウガラシを食べ、その下にエメラルド・グリーンの卵を産んで去って行きました。ジンは12年間の眠りから覚め、起きている12年間が始まりました。ジンはお気に入りの緑のトウガラシを食べられてしまってがっかりしましたが、卵から出てきたトウガラシ姫をとても気に入って可愛がりました。12年後、ジンはトウガラシ姫を人間の王と結婚させ、また眠りにつきました。
 若い王はトウガラシ姫を心から愛しましたが、王宮の女達はトウガラシ姫を妬みました。トウガラシ姫は王宮の女達の策略によって、王によって国を追放され、殺されてしまいました。その後、王は事の真相を知り、トウガラシ姫を生き返らせて、宮殿に連れ帰ろうとしましたが、トウガラシ姫は誰も自分を苦しめない場所に住みたいと言いました。そこへ12年の眠りから覚めたジンが現て、二人のために誰にも知られない宮殿をつくり、自分もそこに住んで二人の幸福を見守りました。


 ザーサイのお話。
 (武政三男著「スパイス百科事典」三?(王へんに秀)書房より引用)

 ”中国の漬物でザーサイがあるが、このザーサイは、最初に作られた時、今日のようにレッドペバー(赤唐辛子)を使った辛い漬けものではなく普通の塩漬けだった。それが、ある年に四川省から上海に到着した船荷のザーサイが腐敗寸前になっていて(原因は、瓶のひび割れ等で外気が入った)売りものにならないため、仕方なくレッドペバーの粉末とサンショウの実を加えて漬け直した。これが大変好評で、その翌年からは今までのような辛味の無いザーサイでは通用せず、最初からレッドペバーの粉末を加えて漬け込む現在のような特殊な漬けものとなったといわれている。”


     とり入るゝ 夕の色や 唐辛子     高浜虚子


花言葉は、旧友・辛辣・雅味

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唐烏瓜(とうからすうり)

 トウカラスウリTrichosanthes kirilowii Maxim.の別名はシナカラスウリ(支那烏瓜)です。
 漢方では、根は瓜楼根(瓜呂根。かろこん。実際には「楼」は木へんではなく草かんむりです)、果実は瓜楼実、種子は瓜楼仁と呼ばれ、薬効が異なります。


 中国の民話。

 昔、江南地方に洞穴のたくさんある山がありました。その山は老樹が立ち並んで葉を茂らせており、いつも霧がたちこめていたので、人々は仙人が住んでいると噂していました。
 ある日の昼下がり、その山へよく柴刈りに行く木こりは仕事を終えて帰る途中、喉が乾いたので泉を探しました。木こりはある洞窟の前で泉を見つけて喉を潤すと眠くなってうとうととしてきました。すると、向い側の木の方から話声が聞こえてきました。見てみると、白髭の老人と黒髭の老人がいました。
「私達の洞穴に金の瓜が二つ実ったぞ。大丈夫だ、盗まれたりはしない。七月七日の午の刻にここに立って『天の門開け、地の門開け、あるじが金の瓜を採りに来たぞ』と大声で叫ぶ奴がいない限りはな。」
 木こりは七月七日の午の刻にその洞穴の前に立ち、「天の門開け、地の門開け、あるじが金の瓜を採りに来たぞ」と叫び、金の瓜を家に持ち帰りました。しかし、その瓜は金色ではなく普通の瓜でした。がっかりした木こりは瓜を土間へ放り出しておきました。
 数日後、木こりが例の洞穴の近くで休んでいると、また仙人達の話声が聞こえてきました。
「金よりも尊い金の瓜は盗まれてしまった。皮が橙色になるまで乾かしておけば肺病にも効くし熱さましにもなるのに。」
 木こりは家に戻ると二つの瓜を探しましたが、瓜は腐りかけていました。木こりは種を取り出して乾かして保存し、翌年の春に庭にまきました。そして夏に瓜が実ると、木こりは瓜を乾かして、咳や痰で苦しんでいる人達にあげたそうです。

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冬瓜(とうがん)

 トウガンBenincasa hispidaは、ウリ科トウガン属のつる性一年草です。
 英名は、wax gourd、Chinese watermelonなどです。

 別名に、トウガ、カモウリなどがあります。
 元々の名称がトウガ(冬瓜)でしたが、訛ってトウガンになりました。カモウリについては、『本草和名』に「白冬瓜、和名加毛宇利(かもうり)」という記述が残っています。

 漢方では、種子は冬瓜子(とうがし)、白瓜子(はくかし)、冬瓜仁(とうがにん)などと呼ばれ、利尿剤などとして用いられるそうです。


 「冬瓜の事蹟」
 (チャンヴェトキーン編・本多守訳「ヴェトナムの少数民族の神話 チャム族の口承文芸」(明石書店)より要約)

 昔、年とってからやっと息子を授かった夫婦がいました。息子は立派な若者に成長しましたが、親孝行することばかりを考えていて、なかなか結婚しようとしませんでした。
 ある夜、若者は道に迷った娘を見つけ、家に一晩泊めてあげることにしました。ところが、若者は家に戻ると病に倒れてしまい、よくなるまで娘が毎日看病しました。若者の両親は娘を気に入り、息子と結婚させました。二人の間には男の子が生まれました。
 幸福な日々が続いていましたが、ある時、両親は息子の妻が機織りしている部屋をのぞき、彼女が魔物であることを知りました。両親と息子は相談し、呪術師を招きました。呪術師が家の周りと門に護符を貼ったので、妻は家に入ることができませんでした。妻は「家においてもらえないなら子供を連れて行きたい」と懇願しましたが、三人が子供を手離さなかったので、妻は一人で去って行きました。
 その後、子供は何も食べずに泣きじゃくり、一週間後に死んでしまいました。三人は子供の亡骸を家の前の田に埋めました。その翌朝、子供の墓の上に奇妙な植物が生えていました。植物は広がって生長し、黄色い蕾をつけました。そして、花が枯れると実をつけました。その実を調理して食べると美味しかったので、熟れた実から種を採ってまきました。
 後に人々はこの実に冬瓜という名前をつけました。冬瓜が熟れた頃、人々は摘んで帰り、摘んだばかりの額のところに石灰を取って十字を書きました。そうすれば、冬瓜は魔除けされ、魔物にとられる心配がなくなり、腐敗せずに長持ちするようになる、と考えられたからです。


 奄美の昔話「冬瓜の縦切り」。
 (長田須磨著「奄美の生活とむかし話」(小峰書店)より要約)

 天から舞い降りてきた天女が、ある男と暮らしていました。月日がたって生まれ故郷が恋しくなった天女は天に戻りましたが、今度は地上においてきた男が恋しくなり、男を天上に呼び寄せました。天では、姑が無理難題をだして婿を困らせましたが、いつも天女の計らいで切り抜けることができました。
 ある日、姑は冬瓜を持ってきて婿に、それを縦に切るように言いました。そばで見ていた妻は、横に切るように手振りで教えましたが、婿は一度くらいは姑のいうことを聞いてやろうと思って冬瓜を縦に切りました。すると、冬瓜はたちまち船に変わり、婿を乗せて下界へ流されてしまいました。
 それで、奄美では、冬瓜を切る時には縦に切らないのです。

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道灌草(どうかんそう)

 ドウカンソウVaccaria pyramidataはナデシコ科ドウカンソウ属の一年草で、別名をヴァッカリアといいます。
 生薬の王不留行(おうふるぎょう)はドウカンソウの成熟種子を乾燥したものです。


 ドウカンソウは、江戸の道灌山の薬草園で栽培されていたそうです。

 道灌山は、一名を城山ともいいます。南は日暮里(にっぽり)、北は平塚に接しています。太田道灌が江戸城にいた頃の出張(でばり)の砦城の跡とも、また関道観坊(せきのどうかんぼう)という者の屋敷の地とも言い伝えられています。この地には薬草が多く、薬草狩りの人々がたくさん訪れます。また、秋の頃には松虫や鈴虫の声が素晴らしく、虫聴きの人々がたくさん訪れます。(「江戸名所図会」より)


 中国の民話(河南省)。

 ある村に、村人達から嫌われ、「引き留めて世間話をしない」、「引き留めてご馳走しない」、「引き留めて泊めない」という3つの「引き留めない」をさす三不留(サンブリュウ)にされていたお婆さんがいました。そのお婆さんは王不留(ワンブリュウ)というあだ名で呼ばれていました。王婆さんは働くのが大嫌いだったので、薬草を採って暮らしをたてることにしましたが、村人達は誰も王婆さんの薬草を買ってはくれませんでした。そこで、王婆さんは遠くの土地へ行って薬草を売り歩くことにしました。
 王婆さんは、お金持ちの家の嫁が難産で困っているのを知ると、薬草を持って駆けつけました。嫁はお産を促すという薬を何種類も飲んでいましたが全く効果がなかったのですが、藁にもすがる思いで王婆さんの煎じた薬草を飲みました。すると、しばらくして赤ん坊が生まれました。その上、産後、出の悪かった母乳も王婆さんの薬を飲むと出るようになったので、お金持ちはとても感謝し、あちこちで王婆さんのことをほめました。
 ある医者が王婆さんの噂を聞いて訪ねてきました。王婆さんは例の薬草について詳しく話してあげました。医者がその薬草で治療してみると、その薬草は本当によく聞きました。
 お金持ちからお金をたくさんもらった王婆さんは身なりを整えて故郷の村に戻りました。王婆さんが他所の村で病気を治したことを知った村人達は、もう王婆さんを三不留にはしませんでした。そして、王婆さんのあだ名の王不留に、素晴らしいという意味の「行(シン)」の字を添えて王不留行(ワンブリュウシン)と呼ぶようになりました。
 しかし、それからまもなくして王婆さんが死んでしまったので、例の薬草が手に入らなくなり、人々は困りました。ところが、以前に王婆さんを訪ねた医者がその薬草を治療に使っていることがわかりました。村人に問い詰められて医者は王婆さんの秘方を盗んだことを認めて謝りました。王婆さんには後継ぎがいなかったので、人々は医者を許し、医者が王不留行の弟子で薬を伝授してもらったということにし、その薬草を王不留行と名付けました。

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当帰(とうき)

 中国のお話。

 貴重な薬草が生えているけれども毒蛇や猛獣が多いので誰も入らない山がありました。その山の麓には小さな村がありました。村の若者が集まった時、一人の若者が「山へ薬草を採りに行く」とみんなの前で宣言しました。しかし若者は母親に反対され、その後許婚と結婚したので、山へ行く気になりませんでした。しかし数ヶ月後に村の若者の集まりがあり、新婚の若者は宣言を実行しないことで嘘つき呼ばわりされました。翌日、若者は「3年待ってくれ。3年経っても帰らなかったら他の人と結婚してくれ。」と言い残して山へ向かいました。

 嫁は心配のあまり婦人病を患いました。3年経っても若者は帰って来ませんでした。姑は嫁の身体を案じ、嫌がる嫁を他家へ嫁がせようとしました。嫁は実家に戻ってしばらくしてから仕方なく再婚しました。しかし若者はその数日後に帰って来ました。若者は一目だけ彼女に会いに行きました。若者は「山で見つけた貴重な生薬を売って、お前に服を買ってやりたかった。生薬をあげるから売って暮らしに役立ててくれ。」と言って立ち去りました。

 身体の弱い嫁は生きて悲しい思いをしたくないと思い、若者の持ってきた薬草の根を手当たり次第に食べて中毒死しようとしました。ところが嫁は中毒しないばかりか婦人病も回復して元気になりました。人々はその薬草を栽培し、「帰るべき夫が帰らなかったために仕方なく再婚した女性」のことを忘れないために、当帰と名付けました。


 似ているけれど少し違う話もあります。

 昔、婦人病を患ってやつれた婦人がいました。彼女の夫は浮気して家に寄り付かなくなりました。彼女が人から聞いた薬草を試したところ、病気がすっかり回復し、以前よりも美しくなりました。噂でそのことを聞いた夫は彼女のもとに戻ってきました。彼女が使った薬草は、「当に(まさに)帰る」という意味で当帰と名付けられました。


 婦人薬として有名な生薬の当帰は、この植物の根を乾燥させたものです。当帰は、体を温めて婦人のホルモン分泌を調整する作用があります。また、葉にも体を温める作用があるので浴湯料としても用いられます。その他、当帰の成熟果実と焼酎から当帰酒がつくられます。


 「三国志」のお話。

 太史慈(たいしじ)は東莱郡黄県出身で、元は後漢の地方役人でしたが、青州の役人との諍いのために故郷を離れて流浪していました。その後、同郷の劉ように仕えましたが、年が若かったので重用してもらえませんでした。主君は孫策と争って破れましたが、太史慈は孫策に技量を認められて配下になり、呉の猛将として活躍し、絶大な信頼を得ました。
 太史慈の出自と名声を知る曹操は太史慈を帰順させようと思い、贈り物の箱を届けさせました。太史慈が箱を開けてみると、そこには『当帰』という薬草が入っていました。太史慈には「当に帰すべし」という誘いのメッセージだということが一目でわかりましたが、太史慈は「意味不明」だと言って無視し、孫策との主従関係を貫きました。(最後は現職のまま病死しましたが、「三国志演義」では戦死した事になっています。)


 四川省の民間伝承「姜維とその母のお話」。

 幼い時に父を亡くした姜維はとても親孝行な子供でした。姜維は魏の天水郡の出身で、天水関を守備する無名の武官でしたが、蜀に移り、孔明のもとで才能を開花させ、将軍の位に就きました。魏は姜維の母親を脅して、姜維に帰って来るようにという手紙を書かせようとしましたが、姜維の母親は息子の身を心配して、小袋にいれた「当帰」という薬草だけを息子に送りました。姜維は「当に帰るべし」というメッセージに対し、「帰れない」という手紙を書こうとしましたが、それでは魏にいる母の身が危険だと考え、遠志という薬草の包みを届けさせました。包みを開けた母親は、遠志から「志は遠くにあり(魏には帰りません)」といメッセージを読み取り、息子が蜀で立派にやっていることを知り、魏の人々のいやがらせも気にならなくなりました。


 属名Angelicaは、「天使」を意味するギリシャ語Angelicosやラテン語Angelusに由来しています。


 ヨーロッパ当帰(アンジェリカ)にまつわるお話は、花物語「アンジェリカ」に載せてあります。

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唐胡麻(とうごま)

 トウゴマRicinus communisはトウダイグサ科トウゴマ(リキヌス)属の植物で、別名をヒマ(蓖麻)といいます。種から採れるヒマシ油(蓖麻子油)は下剤等の医療用に用いられます。


 旧約聖書列王記ヨナ書のお話。

 主は預言者ヨナにニネベ(チグリス川上流にあるイスラエルの敵国のアッシリアの町)で宣教するように命じましたが、ヨナはタルシシュ(現在のスペイン。ニネベの反対側にある)に船で逃げようとしました。主が嵐を起こしたので、船の乗組員達は海を静めるために嵐の原因であるヨナを海に投げ込み、ヨナは大魚に飲み込まれました。
 三日後、ヨナは大魚から陸地に吐き出され、ニネベへ向いました。ヨナは、ニネベが40日後に滅びることを告げ、悔い改めるように迫りました。ニネベの市民や王や大臣が悪の道から立ち直る努力をしている様子を御覧になった主は、ニネベの滅亡を取りやめました。
 ヨナは預言が実行されなかったので面目がつぶれて不機嫌になりました。主はヨナの仮小屋のわきに1本のトウゴマを植えて日陰をつくり、ヨナの機嫌を直しました。ヨナはとても喜びましたが、主は今度はトウゴマを虫に食べさせて枯らし、ヨナに焼け付くような東風が当るようにしました。「死んだ方がましだ」と神をのろい叫ぶヨナに神は言いました。
「あなたは自分で植え育てたわけでもなく、一夜で生え、一夜で滅びたトウゴマを惜しんでいます。まして、私は十二万人以上の人間と多くの家畜のいるニネベの町を惜しまずにいられるでしょうか。」

 (トウゴマでなくヒョウタン説をとっている訳書もありますが、最近はトウゴマに傾いているそうです。)


 「ゲオルギー・マルコフ暗殺事件」
 (田中真知著「へんな毒すごい毒」(技術評論社)より引用)

 ”1978年9月7日の夕刻、ロンドンにあるBBCの放送局に向かっていたブルガリア人作家ゲオルギー・マルコフは、国立劇場のそばを歩いていたとき、右の太ももにちくりと鋭い痛みを覚えた。思わず、ふりむくと、見知らぬ男がつきだしたコウモリ傘の先端が、彼の足に触れたらしかった。痛みはすぐに消え、マルコフはそのまま放送局に着き、仕事を終えた。痛みのことなど、すでに忘れかけていた。
 ところが、翌日の明け方、彼は激しく発熱し、起きあがれなくなった。症状は急激に悪化し、病院に運び込まれたときには、すでに白血球が異常に増殖して、敗血症に陥っていた。そして、手の施しようのないまま、四日後にマルコフは息を引き取った。
 死因には不審な点が多く、遺体を調べた結果、マルコフの大腿部から直径1.5ミリメートルの金属の球が発見された。驚くべくことに、この金属球には小穴が空いており、その内部からは毒物が検出されたのだった。分析によると、それはトウダイグサ科の植物であるトウゴマの種子からとれる猛毒タンバク質「リシン」であったのだ。(ヒマシ油を絞ったその絞りかすにリシンが含まれています)
 マルコフは、ブルガリア共産党幹部の腐敗ぶりを糾弾したことから、国を追われた人物だった。しかし、亡命先のイギリスでもなお、ラジオ放送などを通じて故国の党幹部への批判をしていた。マルコフの死は、その活動を苦々しく思った党幹部が放った刺客によるものと噂された。”


トウゴマの花言葉は、いつもそばに

蓖麻(ひま)

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満天星・灯台躑躅(どうだんつつじ)

 牧野植物図鑑によると、ドウダンツツジは灯台ツツジの意味だそうです。枝が分岐している形が昔の室内照明具の結灯台の脚に似ているところからトウダイとなり、それが転訛したそうです。
 和名は枝の形から名付けられましたが、漢名の「満天星」は花の状態から名付けられました。


 漢名「満天星」の伝説。
 (木村陽二郎監修・植物文化研究会編「花と樹の事典」(柏書房)より)

 昔、太上老君が仙宮で霊薬を練っていた時に、誤って玉盤の霊水をこぼしてしまいました。こぼれた霊水は、この木に散らばって落ちました。そして、その霊水がかたまって壺状の玉になり、あたかも満天の星のように輝いた、と言われています。

 (太上老君といえば「封神演義」に登場するあのお方…ですよね。)


 満天星の 紅葉垣なり 暮れのこる    (遠藤 はつ)

 どうだんに まじりて咲ける つつじかな (山口青邨)

 満天星に 隠りし母を いつ見むや    (石田波郷)


「花物語」には、瓔珞躑躅(ようらくつつじ)の項目もあります。



花言葉は、節制

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玉蜀黍(とうもろこし)

 マヤ神話のお話(キチェ族に伝わる叙事詩『ポポル・ヴフ』より)。
 (高平鳴海&女神探求会著「Truth In Fantasy XXXV 女神」(新紀元社)より引用)

 ”初めの世界には、果てしなく広がる空と静かな海だけがありました。
 そして、海には緑と青に輝く羽毛の蛇神グクマッツが、空には3体からなる稲妻の神フラカンがいました。ふたりは互いに相談し、夜明けとともに世界を造ることにします。
 彼らがひと声かけると水の中から大地が現れ、その大地はたちまち植物で覆われました。
 次に彼らは、祈りを捧げることで神々に活力を与える存在を造ろうとしたのです。最初にできたのは獣でしたが、これは心を持っていないので、神々を崇めることはできませんでした。次に泥から人間を造ったのですが、これはすぐに壊れてしまいます。3度目は木とイグサでまた人間を造りました。木の人間は世界にはびこったものの、情を持っておらず、やはり神に祈りを捧げようとはしません。
 神々はこれに怒り、無意味に増えた木の人間たちを滅ぼすことにしました。
(中略)
 こうして木の人間は死に絶え、わずかに残った者が木の上まで逃げて猿になったといわれています。
 きれいになった地上に、神々は再び人間を創造しました。今度の材料は、神々の食料であるトウモロコシです。これを予言者の老婆神シャムネカが粉に挽き、練って人間を造りました。これが今の人間となったのです。このように人間はトウモロコシで造られたため、神々に捧げる生け贄に最適なのだと神話は伝えています。”


 中国の壮(チワン)族の民話「金色の種」。

 昔、壮族の祖先はある山里に住み、とても貧しい暮らしをしていました。毎日、狩猟や魚採りをしても、おなかいっぱい食べることは出来ませんでしたし、山奥の虎や狼は人々を傷つけました。人々は万重山の悪い王者の持っている一粒の金色の種を蒔きさえすれば豊かな生活ができると信じていましたが、誰も種を手に入れることは出来ませんでした。
 その山里にハーラという優秀な狩人がいました。ハーラは毎日たくさんの獲物をとりましたが、帰り道で出会った空腹の人達に獲物をみんなあげてしまうので、ハーラの妻子は空腹のことがよくありました。ハーラはみんなが貧しい暮らしをしなくてすむように金色の種を探す旅に出ました。しかし、3年探し続けても万重山は見つかりませんでした。
 ある日、ハーラは大蛇に襲われていた白うさぎを助けて、不思議な山に迷い込みました。それは万重山でした。ハーラは次々と襲ってくる3匹の門番の毒蛇を射殺しながら進み、とうとう山の王者の砦に着きました。王者は手下の虎や狼や蛇の王に命じてハーラを殺そうとしました。ハーラは王者の手下達を全て倒しましたが、洞窟に捕えられてしまいました。すると、ハーラの助けた白うさぎがやってきました。白うさぎは王者の娘でした。娘は、「自分の婿になってここに住んでくれれば父は金色の種をくれるでしょう」、と言いましたが、ハーラは断わり、自力で洞窟を抜け出して、金色の種を手に入れて山里に帰りました。
 大地に蒔かれた金色の種はすぐに芽を出し、太い棒のような実をたくさんつけました。それ以来、人々は豊かな生活をおくれるようになりました。この金色の種から実ったのが、左江地区の人々が主食にしているトウモロコシだと言い伝えられています。


 中国の昔話「まぬけ地主とりこうな小作」

 昔、小作人が地主から畑を借りました。地主は「作物が実ったら私は上の部分、お前は下の部分を取ろう。」と言いました。小作人は里芋を植えたので、地主には里芋の葉だけあげました。
 翌年も小作人は地主から畑を借りました。地主は「今年は芋は植えるな。作物が実ったら私は一番上の部分、お前には茎をやろう。」と言いました。小作人はサトウキビを植え、茎を絞って砂糖をつくりました。地主にはサトウキビの花穂だけあげました。
 また次の年も小作人は地主から畑を借りました。地主は「作物が実ったら、私は一番上と一番下、それに茎を全部もらう。お前には葉と残りの部分をやろう。」と言いました。小作人はとうもろこしを植え、実を収穫しました。地主には残りの部分をあげました。地主は怒りで口もきけませんでした。

 花物語「蕪」にも同じモチーフのグリム童話があります。


 アメリカ・インディアンに伝わるお話。

 一人暮しの男が髪の毛の長い見知らぬ女がいるのを見つけました。男は女が気に入ったので「一緒に暮らして欲しい」と言いましたが、女はそれについては答えず、男に火を教え、草に火をつけてあたり一面を焼き焦がしました。それから女は男に、「私の髪の毛を持って地面を引きずり回せばとうもろこしができます。」といいました。男はそんなことはしたくなかったのですが、仕方なく女の言う通りにすると、引きずり回したあたりから本当にとうもろこしが生えてきました。
 インディアン達は、とうもろこしの茎に髪の毛が出ているのを見ると、その女のことを思い出すようになりました。


 グァテマラの民話「トウモロコシの精」

 神々は、人間が神々に感謝しなくなったので、トウモロコシの精を大岩の下に隠してしまいました。一番困ったのは鳥たちでした。ある日、1羽の鳥が空腹に耐えられず、1匹のアリを食べようとしました。アリは命乞いをし、「明日トウモロコシを食べさせてあげましょう。」と約束しました。鳥たちは半信半疑でしたが、翌日、岩の周りにはトウモロコシの実が山のようにありました。アリたちは大岩の下から一粒一粒運び出したのでした。アリは、トウモロコシを蒔いて育てられるように人間にも分け与えました。
 神々はアリたちに罰を与え、アリたちの身体に糸を結んで巣から離れられないようにしましたが、アリたちは自力で糸を切って脱出しました。その時に糸でしめつけられた腰のくびれはいつまでも残ってしまいました。


 ジプシーの昔話「月はなぜ太ったりやせたりするか」

 山の麓の小さな村にジプシーの薪(たきぎ)取りが住んでいました。ある晩、薪取りが自分の小屋に戻ると、中で一人の見知らぬ老人が薪取りのとうもろこしのスープを飲んでいました。薪取りが「どろぼう。金を払え。」と言うと、老人は「今は持ち合わせがありませんが、春になったら払います。」と答えました。しかし薪取りは許しませんでした。
 老人は、太陽と月と星の主人でした。老人は「月を食うがよい。月を食い尽くすまでお前は帰れないのだ。」と言って、薪取りを月に飛ばしました。薪取りは一生懸命月を食べましたが、しばらくすると月はまた大きくなってしまいます。とうもろこしのスープを惜しんだ薪取りは一生月だけを食べ続けることになりました。


とうもろこし全般の花言葉は、財宝・豊富・同意

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戸隠升麻(とがくししょうま)

 トガクシショウマは、メギ科トガクシショウマ属Ranzania japonicaの植物で一属一種の日本固有種です。長野県の戸隠山で最初に発見されたことから名付けられました。別名は戸隠草です。俗に破門草というそうです。


 「破門草」のお話。

 東大植物学教室に通っていた矢田部良吉教授は採集したトガクシショウマに学名をつけることにし、同一種が他国で発表されていないか鑑定してもらうためにロシアの植物学者のマキシモヴィッチに送りました。ところが、鑑定の結論が出る前に、教室に出入りしていた英国留学中の植物学者の伊藤篤太郎がPodophyllum japonica Itoとして発表し、その後、新属をたてるべきだとして、「本草綱目啓蒙」を著わした小野蘭山にちなんでRanzania japonica Itoとして発表しました。それから3年後、矢田部良吉教授はYatabea japonica Maxim.として発表しましたが、既にRanzania japonicaという学名がつけられていたために無効になりました。
 その後、矢田部良吉教授が伊藤篤太郎に植物学教室への出入りを禁止したため、トガクシショウマは俗に「破門草」という隠れた名前を持つことになりました。

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木賊・砥草(とくさ)

 和名の砥草は、地上茎がケイ酸を多量に含み、溝があってざらついているので、木材・金属・骨・爪などの研磨に用いる砥石になる草の意味で名付けられました。
 地上部を乾燥させたものを木賊(もくぞく)と呼び、古来から腸出血・痔出血などの収斂剤や利尿剤として利用されていました。トクサは薬用成分があることから、昔はトクサ刈りで生計を立てる人もいたそうです。


 『枕草子』にも、「木賊といふものは、風にふかれたらむ音こそいかならむと思ひやられてをかしけれ」という記述があります。


 謡曲「木賊(別名、木賊刈)」(世阿弥作)のお話。

 昔、信濃国の中仙道沿いの小県郡(ちいさがたごおり)小諸村(こもろむら)に夫婦と幼い男の子の若松が住んでいました。ある夕暮れ時、若松は誰かにさらわれてしまい、全く行方がわからなくなりました。その後、子供を捜し疲れた妻が病気で亡くなり、男は一人寂しく木賊刈りで生計をたてながら、往来の旅人に息子の消息を尋ねる毎日を過ごしていました。
 20年後、男は老人となりましたが、息子に会える日が来ると信じて木賊刈りの仕事に精を出していました。そんなある日、男は二十歳過ぎ位の孤児の青年を連れた僧に出会い、和歌について語り合い、僧を自宅に泊めました。男は僧に酒をすすめ、息子が好きだった小謡曲舞(こうたいくせまい)を舞いました。やがて、話し合ううちに、僧の連れている青年が若松であることがわかり、父子は名乗り合い、涙の再会を果たしました。

 この「木賊」という謡曲は、和歌集『夫木抄』(冷泉為相と藤原長清が勅撰集に漏れた秀歌を編纂したもの)の中にある源仲正の和歌をもとにして創作されました。和歌は、この地方特産で、園原の枕詞でもある木賊で磨かれたように見える月の出を詠んでいます。

   木賊刈る その原山の 木の間より みがかれいずる 秋の夜の月


 世阿弥元清著の能楽論書「風姿花伝」(岩波文庫)より。

 江戸時代初期、ある能役者は、木賊を刈る真似が得意なのを誇りにしていました。ところが、ある時、観客の一人が片隅で自分を見て笑っているのに気付いて理由を尋ねたところ、彼は木賊刈りを本職としている人で、「あなたの手つきでは木賊は刈れません。」と申し訳なさそうに答えました。役者は、その木賊刈りの職人に弟子入りして芸を磨いて名を高めました。


 日本の説話。

 昔、豊後の国に仲のよい夫婦が住んでいました。二人は可愛い子供も授かり、とても幸福に暮らしていましたが、ある日、二人は些細なことから言い争いをしました。夫は声を荒らげて妻に「出ていけ」と叫びました。妻は謝りましたが、夫は許しませんでした。妻は家を出て行くことになりましたが、子供の姿を見ると歩みも進まず、袂(たもと)を噛みながら一句詠みました。

     すれすれの中に花咲く木賊かな

 それを聞いた夫は自分の行為を恥じて、妻を呼び戻して謝りました。それからは夫婦仲はさらによくなり、立派な家庭を築きました。


花言葉は、非凡

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毒人参(どくにんじん)

ヘムロック

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毒麦(どくむぎ)

 ドクムギLolium temulentumはイネ科ドクムギ属の植物です。

 テムレンtemulenという有毒アルカロイドを含んでおり、ドクムギを食べると、頭痛・眩暈・悪心・嘔吐などをおこして死ぬこともあるそうです。
 ドクムギの混入した飼料を食べた家畜も中毒を起こしますが、廣部千恵子著・横山匡写真「新聖書植物図鑑」によると、その毒はドクムギ自体の毒ではなく、ドクムギにつくEmdoconidium temulentumという糸状菌の毒であるとも言われているそうです。


 「毒麦のたとえ」(聖書『マタイによる福音書』より)

 イエスは他のたとえを話しました。
「天国は、畑によい種を撒いた人のようです。人々の就寝中に敵が来て、畑の中に毒麦の種を撒いていきました。麦の芽が出ると、毒麦も現れました。召使達が主人に『畑に撒いたのはよい麦の種だったのにどうして毒麦も生えてきたのでしょう?』と尋ねると、主人は『敵がしたことです』と答えました。召使達が『では、私達が毒麦を抜きましょうか?』と尋ねると、主人は『毒麦を抜く時によい麦を一緒に抜いてしまうといけないので、収穫の時までそのままにしておこう。収穫の時に刈る者達に、まず毒麦を抜き集めて焼き払うために束ねるようにしてもらおう。それから麦を集めて倉庫へ入れてもらおう』と答えました。」
 人々を去らせた後、イエスの弟子達がイエスに毒麦のたとえの説明を求めると、イエスは答えました。
「畑は世界であり、よい種を撒くのは人の子です。よい種は御国の子達で、毒麦は悪者の子達です。そして毒麦をまいた敵とは悪魔です。収穫とは世の終りの事で、刈る者は天使達です。世の終りには毒麦が集めて焼かれるようになるでしょう。つまり、天使達はつまづきとなるものや不法行為を行う者達を集めて燃える火の中に投げ入れるでしょう。その時、義人達は父の国で太陽のように輝くでしょう。耳のある人は聞きなさい。」

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とげ

 トルコの昔話「カラスととげ」

 昔、一羽のカラスがいました。カラスは自分の足に刺さったとげをお婆さんに取ってもらい、そのとげをお婆さんに預けておきました。カラスがとげを取りに来ると、とげをなくしてしまったお婆さんは代わりにランプをあげました。カラスは次のお婆さんのところへ行ってランプを預けておきました。カラスがランプを取りに来ると、ランプを壊してしまったお婆さんは代わりに雌牛をあげました。カラスはその次のお婆さんのところへ行って雌牛を預けておきました。カラスが雌牛を取りに来ると、雌牛をお客に食べさせてしまったお婆さんは代わりにお嫁さんをあげました。
 カラスがお嫁さんをもらって山へ行くと、羊飼いがきれいな音色のする笛を吹いていました。カラスは羊飼いの笛とお嫁さんを交換しました。笛を手に入れたカラスは大喜びで吹き始めました。

 (花物語「薔薇(ばら)」にも、薔薇のとげについてのお話があります)


花言葉は、厳格

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時計草(とけいそう)

 時計草の花は日本では時計に見たてられていますが、海外ではキリストの受難(the Passion)を象徴しており、パッションフラワーと呼ばれます。。
 果物時計草の実がパッションフルーツです。


 C・M・スキナー著、垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用。

 ”スペインの古い伝説では、十字架にはい登り受難者キリストの手足を打ち抜いた釘の跡をふさいだのはトケイソウ(英名は受難の花の意味)であった。初期の神父たちは、その蕾に聖餐用のパンを、その半開きの花に東方の星を、満開の花には五つの聖痕、釘、槌、槍、懲らしめの柱、茨の冠を、その葉に槍の穂先と銀貨三十杖を、そしてそのつるにイエスに巻きつく紐を見た。十字架の上にこれが生えていたことをエルサレムの人々は憶えていなかったが、アシジの聖フランチェスコが飢えて幻想を見た時に啓示されたのである。それは目の前で、聖フラソチェスコが拝んでいたポヴァティ[フランチェスコ派の三大美徳の一つ、清貧が人格化したもので、老婆の姿をしている]が姿を変じて花咲くトケイソウとなったのである。”


 パッションフラワーのお話。

 1610年頃、南米を旅行中のイエズス会のスペイン宣教師達がこの花を見て、かつてアッシジのフランチェスコが夢に見たと伝えられる十字架上の花と信じ、キリストが十字架にかかった時の姿に例え、パッションフラワー(キリスト受難の花)の名でヨーロッパに紹介しました。
 三裂した雌しべの柱頭は十字架上のキリスト、柱頭の膨らみは釘の頭、子房は十字架(または葦の棒につけて差し出された酸っぱい葡萄酒をしみ込ませた海綿)、雄しべの5つのやくは十字架上で負った5ヶ所の傷、ひげ状の副花冠はイバラの冠(または後光)、5枚のがくと5枚の花びらは刑場でキリストを見取った10人の使徒(一二使徒のうち、主を拒んだペテロと主を売ったユダを除く)、掌状の葉はキリストを刺した槍の穂先(または迫害者の手)、長い巻きひげはキリストを打ったむちに例えられました。
 スペイン宣教師達は、この花が南米にあるのは原住民のインディアンがキリスト教に改宗する天啓だと信じて布教し、短期間のうちに成果をあげました。


時計草全般の花言葉は、宗教・信仰・宗教的情熱・聖なる愛・信心・篤信
時計草(うつむいた花)の花言葉は、迷信
時計草(咲きたての花)の花言葉は、信仰

パッションフラワー

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橡・栃・七葉樹(とちのき)

 「曲栃(まがりとち)の流され栃」(岩手県上閉伊郡大槌町金沢)

 昔、金沢の長谷(ながや)に曲栃という旧家があり、滝明神という氏神をまつっていました。その境内には栃の巨木があり、大槌浜の漁師達がその木を船材に使いたいと望んだので、曲栃の主人はそれを承諾しました。ところが、その神木はいくら切っても翌日には元通りになってしまうのでした。曲栃の家には美しい一人娘がいましたが、娘は栃の木が好きだったので、毎晩切りくずを幹に戻して栃の木が切られるのを防いでいたのでした。
 漁師達が困っているところに旅の乞食が通りかかり、木を焼き切りにするように教えてくれたので、その通りにすると栃を切ることが出来ました。漁師達は木を金沢川に流して海に運び出すつもりでしたが、下流の壺桐ヶ淵まで来ると、木は淵の底深く沈んでしまいました。それを見た人々は、流され栃が淵の主になったと考えました。
 娘は木が金沢川に流されるのを見て半狂乱になり、壺桐ヶ淵に身を投げて死んでしまいました。


 故事成語「朝三暮四」のお話(「列子」黄帝篇、「荘子」斉物論篇)。

 中国の春秋時代、宋の国に狙公(そこう。猿回し)がいました。狙公はたくさんの猿を飼っていましたが、急に貧乏になったので、猿達に与える餌のトチの実を減らすことにしました。でも、急に減らしたら猿達が怒ると思い、だまして言いくるめる方法を考えて実行しました。
 狙公は猿達を集めて、「朝は3つで、暮れは4つのトチの実をやろう」と言いました。すると、猿達が皆怒り出したので、今度は、「では、朝は4つで、暮れは3つにしよう」と言いました。猿達はそれを聞いて喜びました。狙公は、朝に暮れよりも多くのトチの実与えることによって、1日に与えるトチの実の数が7個に減ったことへの不満を猿達に忘れさせることに成功しました。

 朝三暮四の意味としては次の3つがあります。
(1)表面的な相違や目先の利害にとらわれて、結果が同じになることに気付かない事。
(2)人を上手い言葉でだますこと。
(3)命をつなぐだけの生活。


 安楽庵策伝原著・龍川清訳「醒睡笑」(教育社新書)より引用。

 ”あわてふためいて、前後も忘れてしまうことを、「とち目になって尋ねた」とか「とち目になって走り歩いた」とかいうのは、どういうわけだろうか。それは、昔ある者が木から落ち、目を突き破って悲しんでいたので、人びとが哀れに思い、見舞いの品を贈った。そのために、前よりも金持ちになった。うつけ者がこれを見て、うらやましくなり、わざと山へ行って無理に落ちたら、思いがけずも大きな岩に頭を打ち、頭が割れてしまい、目の玉がぬけだしてしまった。さぐってみて、目玉がないので肝をつぶし、はいまわって目玉をさがしたところ、ちょうどとちの実が手にさわったので、それを目玉と思って目に押し入れた。本当の目玉でないものを入れたので、とち目になってしまった。あまり痛がって泣き悲しんでいたので、「栃ほどの涙を流す」ともいうようになったそうだ。”


 西洋トチノキ(ホース・チェスナッツ)の伝説。
 (C・M・スキナー著垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用)

 ”ホース・チェスナッツの原産地はトルコで、一人のイスラム教の聖者によって創造されたのである。
 その聖者の名をアキャズリというが、この隠遁者は自分の肉を火あぶりにしたいと願って、大地に1本の棒をつきさして身体を支えて火にかけた。それほどまでの聖なる心に打たれて、天はその棒から大地の中へと根を生ぜしめ、それが大きくなって今日知っているホース・チェスナッツになったのである。”
 (スキナーの著作には原典が記されてなく、詳細は不明です。)


花言葉は、ぜいたく

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杜仲(とちゅう)

 杜仲は一科一属一種(トチュウ科トチュウ属)の落葉高木で、漢方では樹皮を用います。
 中国最古の薬学書「神農本草経」には、「精気を増し、筋骨を堅くし、志を強くし、陰下癢湿、小便余歴を除く。久しく服用すれば身を軽くし、老いに耐える」と書かれています。


 杜仲の名前の由来伝説の一つ。

 李時珍著「本草綱目」によると、昔、杜仲という名の人がいつも、ある木の樹皮を煎じて飲んでいました。すると、活力がみなぎってきて、杜仲はやがて仙人になりました。仙人となった杜仲は霞を食べ、秘薬(樹皮)を摂り、雲に乗って空を自由に飛び、美女との出会いを楽しんだりもしました。
 その秘薬が杜仲と呼ばれるようになりました。


 中国の民話「杜仲の名前の由来」(山東省)のお話。

 中国の南方の山々の中にある杜家冲という部落に、樹齢が二千年にもなる大樹が生えていました。付近に住んでいる巫女が万病を治せる木だと言っていたので、多くの病人が木の下でお参りし、線香の灰と削り取った樹皮を持ち帰りました。そして、その樹皮と灰を煎じて飲むと病気が治るのでした。
 軟骨病の病人もその樹皮を煎じて飲んだところ、すっかりよくなり、歩くことができるようになりました。人々はその木を「神樹」と呼んでいましたが、周辺には神樹と同じ種類の木がたくさん生えていました。ある人がそれらの樹皮を試してみたところ、神樹の樹皮と同じ効果がありました。
 杜家冲の木の持ち主の杜という姓の強欲な金持ちは、樹皮の薬効を知ると、樹皮を削る人達からお金を取り、ますますお金持ちになりました。この樹皮は杜家冲の人達が薬効を発見したので「杜冲(ドゥツォン)」と名付けられましたが、後の人々が「にすい」を「にんべん」に変え、「杜仲(ドゥジョン)」と呼ばれるようになりました。


 杜仲茶のお話。

 昭和50年代、長野県では桑に代わる推奨作物を探していました。そこで中国の杜仲が候補に上がりましたが、杜仲の樹皮は収穫から再生まで時間がかかる上に、杜仲の木の幹の部分は薬事法で一般販売が禁止されていました。そこで、薬事法に触れないで販売できる杜仲の葉をお茶にすることが考えられました。
 そこで、富山医科薬科大学の和漢薬研究グループの難波教授に依頼し、動物実験をした結果、降圧、利尿等の作用があることがわかりました。杜仲の葉は苗を植えてから2年位で収穫でき、その後も毎年収穫できます。長野県は県の推奨作物として杜仲栽培を農家にすすめました。
 日本人の発案による杜仲茶は現在では外国でも販売されるようになりました。

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トトラ

 トトラはカヤツリグサ科の多年生草本で、高さは3、4mにもなります。アンデス地方の海岸砂漠地帯から高山帯にかけての湿地に自生しており、古代から食用、住居や舟の材料として利用されてきました。ティティカカ湖のトトラは有名です。


 ボリビアの「トトラの伝説」。

 トゥヌパ(ティティカカ湖周辺地域の神力を持つ伝説的人物。この地域においては最高神ウィラコチャと同一視されることもある)は布袋にいれたパンを土地の子供達に分け与えながら幸福そうにゆっくりと歩いていました。
 ところが、奇跡の力を持つトゥヌパをうとましく思っている者達が、トゥヌパを待ち伏せして落とし穴へ突き落としました。彼らはトゥヌパを人気のない所まで引きずって行き、大岩に縛りつけて鞭で何度も打ちすえ、その場所へ置き去りにしました。トゥヌパは気を失っていましたが、目を閉じた顔は微笑んでいるように見えました。
 暗くなると、鳥の群れがトゥヌパの頭上を飛び回り、用心深くトゥヌパに近付いてきました。鳥達はさえずりながらトゥヌパを縛っている紐をくちばしでつつき続けました。紐は少しずつほどけていき、夜明け頃になってようやくトゥヌパは岩から離れることができました。トゥヌパは微笑みながら聖なるティティカカ湖の岸辺へ行き、マントを湖水にさらし、マントの上に立ちました。そして、その状態のままコパカバーナ(湖のコパカバーナ半島にある村)の方へ消えていきました。
 トゥヌパが水面を切って進んだ道には、その時からトトラが育つようになりました。トトラは茎に甘味があって食用になり、また多くの病気を治す薬にもなりました。

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トネリコ

 北欧神話のお話。

 オーディンとヴィリとヴェーの兄弟が海岸を歩いていると、トネリコとニレの木が流れてきました。それを見たオーディンが人間をつくることを提案し、弟達も賛成しました。トネリコの木からは男がつくられ、ニレの木からは女がつくられました。オーディンは命と魂を与え、ヴィリは動くための力と知恵を与え、ヴェーは見たり聞いたりする力と言葉を与えました。男はアスク、女はエムブラと呼ばれ、アスガルドを治めることになりました。


 ギリシャ神話のお話。

 メリアMeliaeと呼ばれるトネリコの木のニンフ達は美しい女性の姿をしています。メリア達は、ウラノス(天空)とガイア(大地)の末っ子のクロノスがウラノスの性器を切り取った時に落ちた血から生まれたと言われています。


 イソップ物語のお話。

 木こりが森へ行き、木々に「斧の柄が欲しいのですが頂けないでしょうか」と丁寧に頼みました。すると立派な木々は、トネリコの若木を選んで木こりに与えました。木こりはトネリコの木で斧の柄をつくると、立派な木々を倒し始めました。立派な木々はこの時初めて斧の使い道に気付き、トネリコの命を犠牲にしたことを悔いました。


花言葉は、高潔・荘厳・思慮分別

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ドリアン

 フィリピン(ミンダナオ島)の民話「愛の果物、ドリヤン」

 昔、バギオ国の王様は、バゴボ族の老酋長のバガニでした。バガニは若い頃は女性を愛したことがありませんでしたが、173歳になって、海上生活者達の国王クデラートの末娘のマダヤオ・バイホンという美しい娘に一目惚れしました。クデラートはマダヤオ・バイホンを権勢のあるバガニの嫁にやりました。しかしマダヤオ・バイホンは十回以上も家出して父親の国に戻ってしまい、その度にクデラートは平身低頭して娘をバガニのもとへ帰しました。

 マダヤオ・バイホンがまた家出してしまったので、妻に愛してもらいたい一心でバガニは、アポ山の麓の洞穴に住む仙人のマティガンを訪ねました。マティガンはバガニに、黒いタボンという鳥の卵と白水牛の乳と見せかけの木の花蜜を私の所に持ってくれば願いはかなう、と言いました。バガニは苦労して3つの品物を集めてマティガンの所へ行きました。マティガンは、お妃の心を射とめて祝宴を開く時に自分を招待してほしいと言い、バガニも承知しました。マティガンは卵に穴をあけて乳と蜜を流し込み、魔法の杖でかき混ぜて、ふたをしました。マティガンはその卵をバガニに渡し、庭の真ん中に植えるように言いました。
 翌日、卵を植えた場所には果物の木が生えて、実をたくさんつけていました。実が1個落ちて割れて、美味しそうな甘い香りを漂わせていたのでバガニは半分食べてみました。するとバガニは若返ってハンサムな王子になりました。バガニがマダヤオ・バイホンに残りの半分を食べさせると、彼女はバガニと恋に落ちました。

 盛大な祝宴が催されましたが、バガニはマティガンを招待するのを忘れていました。怒ったマティガンは、果物の皮をとげで覆い、甘い香りをいやなにおいに変えてしまいました。でも、味だけは「ゆで卵のような舌触り、クリームのような甘さ、独特の蜜の味」のままにしておきました。その果物は、マレー語で「とげの多い」という意味で「ドリアン」と呼ばれるようになりました。

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鳥兜(とりかぶと)

 ギリシャ神話のお話。

 ケルベロスは、冥界の青銅の門を守る番犬です。ケルベロスには3つの首と蛇の尾があります。そして、首の周りには多数の蛇の頭がうごめいています。(蛇のたてがみと50の頭の姿で描かれることもあります。)
 ケルベロスは、渡し守カロンの船に乗って冥界にやってきた死者を尻尾を振って歓迎しますが、生者や冥界を出ようとする者には容赦なく襲いかかります。策略を使って門を通った者達もいないわけではありません。オルフェウスは竪琴(リラ)を奏でてケルベロスを魅了し、プシュケとトロイアの王子アイネイアスは、はちみつ入りのケーキを渡して、通してもらいました。
 英雄ヘラクレスの偉業の一つに、このケルベロスの捕獲があります。ヘラクレスは、素手でケルベロスを捕らえて地上へ連れ出しました。冥界から連れ出され、初めて見る太陽の光に驚いて、ケルベロスは吠えました。その時に滴り落ちたケルベロスの唾液が、地上に落ちて猛毒を持つトリカブトになりました。


 ギリシャ神話の別のお話。

 テセウスはアテネの王アイゲウスの息子でしたが、二人は長い間会っていませんでした。テセウスは身分を隠したままアイゲウスに面会し、数々の手柄を披露して褒賞を要求しました。しかし、アイゲウスの妃におさまっていた魔女メディアは、テセウスが王子である事を見抜きました。メディアは自分の権限が弱くなることを恐れてテセウスを殺そうと思い、テセウスに毒の入った杯を勧めました。しかし、企みに気付いたテセウスはメディアが先に杯に口をつけることを要求しました。アイゲウスもメディアの企みに気付きました。状況が不利だと悟ったメディアは杯を床に叩きつけて出ていきました。杯の中身が散った大理石の床は音と煙を出して変色しました。この時にメディアが使った毒薬はトリカブトを用いてつくられたものでした。


 トリカブトは猛毒ゆえに、地獄の女王ヘカテに捧げられた花だそうです。


 鳥兜という名前は、花の形が舞楽で楽人のかぶる冠、(鳥兜)に似ていることから付けられました。。兜菊・兜花等の呼び名もあります。イギリスでは、修道士の頭巾monkshood・狼の毒wolfsbane等と呼ばれています。 


 トリカブトには、アコニチンという毒成分が全草(特に根)に含まれています。中毒すると、口から体中にわたってしびれ、息ができなくなります。昔は、アイヌの人々が、トリカブトの塊根の汁を矢尻に塗って熊や鯨を獲るのに用いました。この塊根を乾燥させたものが、漢方の「附子(ぶし)」「烏頭(うず)」です。神経痛やリューマチの鎮痛薬になります。


 アイヌの伝説「トリカブトの起源」。
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、北海道に、モリという部落があった。湖一つへだてた隣村との争いが絶えず、村人たちは困っていた。そこで、村の長老たちは、集まって相談し、和睦交渉のため使者を送ることにした。幸いこの村には、優れた腕と冴えた智性をもった若者がいたので、白羽の矢は、その若者に立てられたが、誰ひとりそれに異義を唱える者はいなかった。若者もまた衆望をにない栄えある使者となることは、身の光栄と考えて若い血を燃やしていた。ところがここにただひとり、それを喜ばない者がいた。それはほかでもない村の酋長の娘であった。なぜかというと、その若者こそ娘にとっては生命に換えがたい恋人だったからである。だから娘は若者が使者になることに反対した。
 だが、事が事だけに娘の承知不承知に関係なく、事は運ばれて若者の晴れの船出がやってきた。いよいよ舟は岸を離れて、櫓の音も高らかに湖面を滑るように出ていった。その櫓の音は娘の胸を鋭くえぐって、もう我慢ができなかった。さては恥も外聞もなく、我を忘れて恋人の名を呼びつづけて半狂乱の態であった。酋長は眼の前に娘のこの狂態を見て、ついに堪りかねて血涙を振り払い、一人娘の首を切り捨てた。鮮血は四辺にとび散って大地に浸み込んだが、その跡から生え出たのが、濃い紫の美しい花、トリカブトであった。”


 「トリカブトの歌」
 (更科源蔵著「アイヌ民話集」(みやま書房)日高静内町ペラリ・其浦コモシライ老伝承より要約)

 毎日、川上や川下に向かって歌っていました。
     ハント ワッカ ハント、ハント ワッカ ハント、
     さわったものは跳ね飛ばし、さわったものはねじり伏せ
 ある日、川下から大勢の人声が聞こえました。私は彼らが自分を掘りに来た人達かもしれないと思って胸をときめかせましたが、彼らは私が役に立ちそうもないと言って山奥へ行ってしまいました。私は悔し涙を流しました。
 それからも毎日、私は歌い続けました。すると、ある日、サマイクルを従えたオキクルミがやってきて言いました。
「尊い神様がおられます。私達がこの尊い神様に頼めば、私達ほど猟のできる者はいないでしょう。さわったものは跳ね飛ばし、さわったものはねじり伏せる神様、どうか私達と一緒においで下さい。祭壇の神様も火の神様も歓迎するでしょう。」
 それからオキクルミもサマイクルも多くの獲物を獲り、豊かな生活ができるようになりました。
 と、トリカブトの神が物語りました。

 矢毒用に使われていたトリカブトは北海道だけでも30種類以上あり、獲物を跳ね飛ばすように倒すもの(オクブシ)と、獲物をねじり伏せるように倒すもの(テリハブシ)が最も強い毒とされていたそうです。

 余談ですが、このトリカブトからとった毒は附子(付子。ぶす)と呼ばれており、傷口から入ると脳の呼吸中枢が麻痺し、感情や思考が停止して無表情になります。その無表情の状態を「ブス」と呼び、転じて、不美人のことを「ブス」と呼ぶようになったそうです。


 アイヌの叙事詩「トリカブト姫」のお話。
 (稲田浩二編「アイヌの昔話」(ちくま学芸文庫)より要約)

 私(トリカブト姫)の兄は下(しも)の天を支配する神です。兄は私を大切に育ててくれました。私が成長すると、兄は、私にはカントリ神という許婚者がいることを教えてくれたので、私は毎日カントリ神の事を考えながら暮らしました。
 ある日、私はアイヌの国に興味を持ち、アイヌの国土に飛び降り、アイヌの国の神造りの城に入りました。寝台の上には人が寝ていました。私は兄に気付かれないうちに兄の城に戻りましたが、それから毎日、カントリ神でなく、アイヌの神造りの城の寝台で寝ていた人のことばかり考えるようになりました。そのため、カントリ神が私と結婚するために来た時、私は彼を受け入れませんでした。
 その夜、アイヌの神造りの城の寝台で寝ていた人が、私をさらって自分の城に連れていき、私と結ばれました。そこへ私の兄が現れましたが、私と寝ていた彼アイヌラックルは言いました。
「神のわが兄上、イモンカオヤンクルよ、お待ちください。あなたの妹は許婚者がありながら私の家に入り、私を侮辱したのです。私は女を殺してもよかったが、神の兄上のことを考え、女を自分のものにしました。カントリ神には罰金として宝物を差し出しましょう。トリカブト姫がアイヌの国へ天降ったなら、トリカブトの草が広まり、アイヌ達はその地で狩りを営み、神をまつることでしょう。」
 兄が宝物を持ち帰ると、アイヌラックルは私に言いました。
「あなたが悪いわけではありません。私は好きになった姫はあなただけでしたが、あなたには既に許婚者がいたので、あなたの気を迷わせて私の家に来させたのです。」
 私はアイヌの国土にトリカブトの種をまきました。そして、私を大切に育ててくれた兄に、私の手作りの上出来の刺繍を届けました。
 こうして私はアイヌラックルの重い神に嫁いだのです。


花言葉は、人嫌い・敵意

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泥の木(どろのき)

 ドロノキはヤナギ科ハコヤナギ属の植物で、泥柳(ドロヤナギ)とも呼ばれています。この木は材質が泥のように柔らかいために「泥の木」の名があるそうです。

 アイヌのお話(神謡より)。

 「花物語」の姥百合(うばゆり)の項目にあるトキット・カムイ(このはずく)の伝説と同じ題材を扱っていますが、こちらはドロノキが強調されています。

 オタスツというところに生まれた女の子(私)は、まもなく母親が死んでしまったので祖母に育てられていました。ある日、祖母が私を連れて山へウバユリ掘りに出かけました。私はドロノキの枝につるした揺りかごに入れられました。私が泣くと、祖母は揺りかごを揺すってあやしながらウバユリを掘り続けました。ところが、心の悪いドロノキが私の半分を鳥に変えてしまいました。私が大声で泣くと、
  フチ トットー ばあちゃん 母ちゃん
  フチ トツトー ばあちゃん 母ちゃん
と、聞こえたので、祖母は驚いてやって来ましたが、私を見つけることができませんでした。祖母は泣いて泣いて、とうとう木の下で死んでしまいました。私はドロノキのために、すっかり鳥の姿に変えられてしまいました。

 
 アイヌの別のお話(神謡より)。

 「花物語」の楡(にれ)の項目にあるお話と同じ題材を扱っています。

 国造りの神は一番最初に地上にドロノキを生やしました。人々は火を作ろうとして一生懸命に木と木をこすり合わせましたが、煙ばかり出て火は起きませんでした。それどころか、木屑からは泡瘡神、火きり臼からは化物、火きり木からは怪鳥が生まれてきました。そのため、ドロノキは人間から嫌われるようになりました。

 ドロノキはアイヌ語で「ヤイニ(普通の木の意)」といいますが、「クルンニ(魔の住む木の意)」とも呼ばれていました。燃やしても燃えずにくすぶるだけで、かえって煙を慕って病気の神が集まってくる悪い木だと考えられていたようです。


 アイヌのさらに別のお話「ドロノキの主(しゅ)」。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より要約)

 私はオタスツの人として住んでいました。
 ある時私は、「ずっと川上にある村では、毎晩一軒の家から一人ずつ人がいなくなり、今ではもう村の中ほどまでは無人の家ばかり」という噂を聞いて、その村を訪ねました。私は村の中ほどの家に招かれました。その家には、老夫婦と娘の三人が住んでいましたが、今晩はその三人のうち誰かが取られる晩でした。三人は私に他の家に泊まるように言いましたが、私は村を救うために、その家に泊まりました。
 私は村へ来る途中、ドロノキを切って棒にして背負ってきました。私はユーカラを歌いながら、その丸太棒の皮を剥いてから寝ました。すると、私の枕元にドロノキの主が現れて言いました。
「オタスツの方よ、私はドロノキの主です。私の仲間は悪い奴ばかりなのに、人間は皆よい心を持っていて楽しそうなので羨ましくてたまりませんでした。そこでこの村の人間の魂をとり、村を作って楽しく暮らそうと考えました。しかし、今日オタスツの人が私の皮を剥いで丸裸にしました。私は自分の非を認め、二度とこんなことをしないと誓いますので、どうか神の国へ帰らせてください。そうすれば、私は神の国からあなたの守り神となってあなたを守ります。」
 翌日、私は村人達から感謝され、たくさんの土産をもらって自分の村に帰りました。
 これは、オタスツの住人が自分について語った物語です。(『アイヌの昔話』)


 北海道における最初のマッチの会社「函館燐寸」。                        
 明治7年(1874年)、詐欺の罪で函館懲役場に服役していた玉林治右衛門という人物が獄中でマッチの研究を始め、ドロノキが適材であることを発見しました。明治12年(1879年)に官営の函館マッチ製作所が設立されて商品となり、治右衛門はその功績により無罪放免されて製作所の主任になったそうです。
 治右衛門は明治13年に「函館燐寸」を設立しています。
 (函館マッチ製作所と函館燐寸の関係については資料不足でわかりませんでした。)


 ドロノキは、かつてはマッチの軸木として利用され、また、船材、箱材、パルプ材などにも利用されましたが、現在はマッチの利用度は減少し、パルプ原料が主な用途となっています。

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トンカットアリ

 トンカットアリEurycoma longifoliaはニガキ科の潅木です。

 トンカット・アリTongkat Aliはマレーシア名で、「アリの杖」の意味です。
 英名はAli's Umbrellaで「アリの傘」の意味です。
 ベトナムではCay Ba Binhと呼ばれます。「百の病気を治す植物」という意味です。
 和名は、ナガエカサです。


 マレーシアのトンカットアリの伝説。

 マレーシアではトンカットアリは古来より、男性の強壮剤として使われていました。
 200年ほど前、マレーシアのある村にアリという名の年老いた医者がいました。アリは治療をしに出かけるときにはいつも生薬のトンカットの木の根を杖代わりに使っていました。
 アリには4人の妻と28人の子供と70人以上の孫がいました。最後の子供はアリが90歳の時に生まれたそうです。また、アリは100歳を過ぎても精力絶倫だったそうです。そこで、人々はアリをたたえる意味で、トンカットをトンカットアリと呼ぶようになったそうです。

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Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)