てぃんくの家
 
 さ行 

皀莢(サイカチ)

 サイカチGleditsia japonicaの名前は、古名の西海子(さいかいし)に由来するそうです。
 サイカチのさやを天日で乾燥させたものが生薬の皀莢(そうきょう)で、去痰剤として利用されます。また、サイカチの実は、水の中でこすると泡が出るので、昔は石鹸の代わりに使われていました。


 葛西家再興の願いの込められたサイカチの木。

 葛西氏は平安時代末から戦国時代までの400年にわたり、東北地方で栄えていた戦国大名でした。葛飾郡は武蔵国(東京都)と下総国(千葉県)にまたがる大郡で、その西の葛西庄(葛飾の西の意味)を葛西氏が領していました。ところが、1590年、領内の事情で豊臣秀吉の小田原征伐に参戦できませんでした。秀吉は小田原に参戦しなかった奥州の諸大名を征伐し、葛西氏も滅ぼされてしまいました。
 葛西家の遺臣達は、葛西家の再興を願い、その目印として、「葛西勝ち」の意味でサイカチの木を屋敷の門口に植えました。


 「サイカチの木にひっかかった竜の尾」(岩手県北上市黒沢尻北上河岸の落合周辺)

 宝暦(1751〜7653)の昔、和賀川の落合の近くにサイカチの巨木がありました。宝暦のある年の6月、晴天の空が急に曇って辺りが暗くなり、黒雲の中から水が滝のように落ち、竜が下りるのが見えました。その後、人々はサイカチの巨木の梢に3mほどの竜の尾らしきものがちぎれてひっかかっているのに気付きました。人々はそばで見ようと思ってそれを落とそうとしましたが届きませんでしたし、とげのある巨木だったので登る人もいませんでした。
 何日かたつと、そこから腐臭がしてきました。臭いが強烈だったので人々は近付かなくなりましたが、一人の男が「竜の尾を近くで見るためにサイカチの木を切ろう。」と提案しました。人々はサイカチの木を切り倒しましたが、木は陸に倒れずに北上川の荒瀬の中に倒れたので、木にひっかかって腐っていたものは砕けて流れてしまいました。


 葛洪(かっこう)著「神仙伝」のお話。

 劉綱(りゅうこう)と樊(はん)夫人は仲のよい夫婦でした。二人は道術の心得があり、休日には二人はよく術比べをしました。劉綱が火をつければ、樊夫人が消しました。庭に2本ある桃の木を劉綱と樊夫人が1本ずつ呪をかけて戦わせると、分の悪くなった劉綱の桃の木は垣根の外に逃げ出しました。劉綱が鯉を出すと、樊夫人はカワウソを出して鯉を食べさせてしまいました。また、二人が四明山(しめいざん)に入った時、虎が行く手を邪魔したことがありました。劉綱が呪をかけても虎は動きませんでしたが、樊夫人は虎を縄で縛りつけてしまいました。劉綱は一度も樊夫人に勝つことはできませんでした。
 二人が昇天しようとした時、劉綱は県庁の傍らのサイカチの木の高い所までよじ登ってからやっと飛び上がることができましたが、樊夫人は座ったまま雲の立ち昇るように浮かび上がり、一緒に昇天しました。


 「花物語」には、南蛮皀莢(なんばんさいかち)の項目もあります。

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柴胡(さいこ)

 中国の民話。

 胡(フー)という姓の進士(しんし。科挙と呼ばれる官吏試験に合格した者。)がいました。ある年の秋、胡進士の屋敷にいた二慢(アルマン)という名前の小作人が病気にかかって畑仕事ができなくなったので、胡進士は「元気になったら戻っておいで」といって賃金を渡して二慢を追い出しました。身寄りのない二慢は仕方なく屋敷を出ていきましたが、池のほとりの草むらで倒れて起きあがれなくなりました。二慢は空腹を満たすために手近の草の根を掘って食べました。7日経った頃、二慢は気分がよくなったので胡進士の屋敷に戻りました。胡進士は驚きましたが、二慢が再び畑仕事をするようになったので追い出すことはしませんでした。
 しばらくして胡進士の一人息子が二慢と同じ病気にかかりましたが、どの医者も病気を治すことは出来ませんでした。胡進士は二慢が食べて病気を治した草の根のことを聞き出し、その根を採ってきて煎じて毎日息子に飲ませました。すると、息子の病気は日毎に回復していきました。
 胡進士は草に名前をつけることにしました。柴(たきぎ)として燃やしていた草だったので、自分の姓の「胡」の字をそえて「柴胡(ツァイフー)」としました。


 「鶴舞いの里伝説」と新作能「鶴汀(かくてい)」(神奈川県大和市)

 源義経が鷹狩りの帰途、柴胡の花の咲く里を通りました。そこで頼朝が休憩し、うたた寝をしていると、鶴の精が現れ、ここが源氏所縁の地であることを告げました。目が覚めた義経は、この里を「鶴舞いの里」と名付けました。

 この伝説をもとに土屋侯保大和市長が原作を書いた新作能「鶴汀」がつくられ、上演もされました。「鶴汀」のあらすじは以下の通りです。
 旅の僧が相模の地を境川に沿って歩いていると、柴胡の花が咲いている沢に出ました。僧が旅の疲れからうたた寝をしていると、美しい若者が現れて「私もこの地で夢を見たことがあります」と告げて消えました。若者は源義経の霊でした。僧が柴胡の花を束ねて手向けようとしていると、鶴の精が現れました。鶴の精は、自分が義経の夢に現れた鶴の精だといい、土地のいわれを伝え、舞いながら飛び立っていきました。
 余談ですが、大和市では「鶴舞いの里」ワインもつくられているそうです。

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サキシマボタンヅル

 漢字をあてると先島牡丹蔓だと思うのですが、サキシマの方は確認がとれていません。
 漢名、生薬名は威霊仙(いれいせん)です。


 中国の民話。

 揚子江の南にある大きな山に威霊寺(いれいじ)という古寺がありました。威霊寺の和尚は薬草に詳しく、リュウマチを治したり、喉にひっかかった骨をとったりすることのできる薬草も知っていました。しかし、和尚は本当のことを人々には教えませんでした。病人がやってくると和尚は線香をあげ、お経を読んでから、その線香の灰を水の入った茶碗に落として病人に飲ませました。その灰の入った水を飲むと病気が治るので、人々は仏様のご利益だと信じてお賽銭を入れるのでした。その水は薬草を煎じてつくった水で、煎じているのは威霊寺の小僧でした。
 和尚は小僧をこきつかい、毎日叱ったり叩いたりしていました。小僧は和尚に仕返しをしようと思い、煎じ薬の代わりに害のない薬草を煎じておきました。和尚はいつものように灰の入った水を喉に骨のひっかかった子供に飲ませましたが、骨は柔らかくならず、子供は苦しがったままでした。その様子を見た和尚は、「お前の身体が汚れているから如来様のお叱りを受けているのだ。」と言って帰らせました。小僧は裏門から病人を追いかけて本物の煎じ薬を飲ませました。そんなことが何回か続くと、和尚を訪ねてくる人は減り、小僧を訪ねてくる人が増えました。そのうち、和尚は灰の入った水が効かなくなった原因を知りましたが、罰が当たったのか階段から落ちて死んでしまいました。
 それからは、小僧が威霊寺の住職になり、リュウマチを治し、骨を柔らかくする薬草をたくさん植えて病人に与えました。秋に白い花を咲かせるその薬草は仙人の草のようによく効いたので、寺の名前にちなんで威霊仙と呼ばれるようになりました。


 中国の別の民話(嵩(すう)県の伏牛山周辺)。

 昔、伏牛山付近のある村に仲のよい夫婦が二人きりで住んでいました。
 ある日、夫は太腿に激痛が走り、苦痛の声をあげて倒れました。妻は何人もの医者をかわるがわる呼んでは夫を診てもらいましたが、夫の症状は重くなるばかりでした。妻の懸命の看病にもかかわらず、最初は腰と太腿だけだった麻痺が手足にもひろまり、寝返りをうつことも出来ないまま10年が過ぎました。
 どうしても夫の病気を治したい妻は、夫を街道に運び出して、通行人に訴えながら夫の病気を治せる人が現われるのを待ちました。そして、ついに夫の病気を治すことのできる一人の老医師が現われました。老医師は病人に薬を飲ませると、病人の妻と一緒に薬をつくるのに必要な草を採りに山に入りました。その草は、その地方に多く自生している植物でした。
 老医師の内服薬と罨法(あんぽう)療法によって病気は快方に向かい、数ヶ月後には杖を使って歩けるようになり、まもなく杖も不用になりました。夫婦は老医師に感謝し、「老医師の老後をみたい」と申し出ましたが、老医師は「自分を必要としてくれる人々のために旅立ちます」と言って断りました。
 老医師の旅立ちの日、夫婦が薬草の名前を尋ねると、老医師は笑いながら答えました。
「まだ名前がなかったのだが今決めました。威霊仙です。威は強いということ、霊仙とは効き目が神仙のようだということ、つまり霊験神のごとし、というわけです。」
 それ以来、伏牛山付近ではその植物を威霊仙と呼ぶようになりました。

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鷺草(さぎそう)

 日本の伝説。

 今から3、400年ほど前のこと、世田谷城八代目城主に吉良頼康(きらよりやす)という人がいました。頼康は自分勝手な性格で、欲しいものは必ず手に入れようとしました。気に入った女を見かけるたびに妻にしたので、頼康には12人もの女がいました。
 ある日頼康は、世田谷の奥沢城主、大平出羽守(おおだいらでわのかみ)の娘、常盤姫をみそめました。出羽守は、頼康に仕えていたので断ることができず、常盤姫を泣く泣く頼康の13番目の女として差し出しました。輿入れの日、常盤姫は、ずっと手元で育ててきた白鷺と一緒に世田谷城に入りました。
 常盤姫が来てから、頼康は、常盤姫だけを可愛がって大事にしたので、他の女たちは常盤姫を妬みました。そして、他の女たちは、常盤姫を追い出すために協力して、出羽守が謀反をたくらんでいるという噂を流しました。噂は頼康の耳に届き、常盤姫もそのことを知りました。
 常盤姫は、飼いならした白鷺の脚に手紙を結びつけて父に救いを求めようとしました。しかし、見張りの者達に見つけられ、常盤姫は可哀想にも殺されてしまいました。そして、常盤姫が飛び立たせた白鷺も、矢で射られて死んでしまいました。その白鷺の落ちて死んだところから、白鷺の姿をした1輪の花が咲きました。人々は、この花をサギソウと呼びました。


 岐阜県の民話「サギソウの咲く村」(岐阜市)。
 (日本児童文学者協会編「ふるさとの民話47岐阜県の民話」(偕成社)より要約)

 昔、岐阜の町の南を流れる境川沿いの土手を鶉村へ向う二人連れの瞽女(ごぜ)がいました。瞽女というのは盲御前(めくらごぜ)の略で、盲目の門付(かどづけ)女芸人のことです。鼓・琵琶などを用いて語り物を語っていましたが、江戸時代以降は三味線の弾き語りをして食料やお金をもらっていました。年配の瞽女はフジ、若い瞽女はヨシといいました。ヨシは鶉村で毎年宿を貸してくれる家の一人息子の定次郎に好意を持っていました。定次郎もヨシが好きでした。ヨシは土手でみつけたサギソウを定次郎にあげるつもりで大事に胸にかかえていました。
 しかし、村中を回った後、定次郎の家についても定次郎の姿はありませんでした。定次郎は母親の使いで出かけていたのでした。翌朝、ヨシはサギソウを定次郎の祖母にあずけて鶉村を出ました。村に戻ってきた定次郎は祖母からサギソウの話を聞いて、母親がわざと自分を使いに出してヨシに会わせないようにしたことに気付きました。
 庭に植えたサギソウが白い花を咲かせ始めると、定次郎はヨシへの思いが募り、ヨシのいる瞽女屋敷を探し出しました。しかし、瞽女屋敷には「男と情をかわすと破門」という掟があり、二人は会うことができませんでした。その後の二人のことは誰も知りません。でも、ヨシが残していったサギソウは今も夏になると鶉村のあちこちに白い花を咲かせています。


 美濃の伝説。
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)、他より要約)

 昔、美濃の山深く可児郡の片山里の村に住むある豪士の息子は、谷向いの村に住む娘と恋に落ちました。しかし、二人の住む二つの村は憎みあっていたので、二人はいつも人目をはばかって会っていました。
 ある夏、雨が長い間降り続き、二人は会うことができませんでした。やがて雨があがると、二人はいつもの逢引の場所へ急ぎましたが、橋は流されており、谷は水かさが増して濁流が渦巻いていました。青年は、濁流の中に見えつ隠れつしている岩を足場に激流を渡ろうとしましたが、足をすべらせて落ち、濁流に飲まれたまま流されていきました。娘は、自分のために命を賭けてくれた恋人のことを思い、自分もまた流れに身を投じて青年の後を追いました。
 翌年、この谷あいに夏が来ると、下流に清楚で美しく可憐なサギソウの花が咲きだしました。土地の人々はそれを見て、去年の夏にこの谷川で恋に殉じた恋人達の魂が結ばれて、花になって咲いたのだと話し合いました。

 さぎそう(鷺草)のお話。
 (下田惟直著「花ことば 花の伝説」(三和図書)より引用)

 ”昔、美濃の国可児郡の片山里に、鄙(ひな)に稀れなる美しい乙女が住んでいた。
 彼女はふとしたことから、山の向こうのある豪家の青年と恋する仲となった。
 けれども、この様子を嗅付(かぎつ)けた豪家の親たちは、身分が釣り合わぬと怒って、青年を一室に閉じこめて、この恋をあきらめさせようとした。
 せかれればせかれるほど恋情はいよいよ募り、青年がそっと家を抜け出して乙女の里の方に来てみれば、隣村との間に架け渡された橋は昨日の大雨に押し流されて、渡るすべはなかった。
 岸の岩に立って、もの思いに沈みながら、ふと向こう岸を見ると、そこに動く人影。
 月光にすかしてよく見れば、それは同じ思いに恋い焦れる隣村の乙女であった。
 恋に熱した青年が、川を渡ろうとして水に飛び込むと、昨日の大雨で水嵩(みずかさ)を増した激流は、青年を押し流すばかり。
 これを見ていた乙女はたまらなくなり、青年の方を目がけて激流に飛び込み、二人は抱き合って水の泡と消え失せてしまった。
 その後、この磧に鷺草の花が咲くようになったので、だれともなくその花を連れ鷺と呼ぶようになった。”

 (上記のお話を読むと、鷺草ではなく、同じラン科のツレサギソウ属の多年草の連鷺草(つれさぎそう)Platanthera japonicaのお話かと思って調べたのですが、資料が見つかりませんでした。ちなみに、連鷺草は、サギソウに似た花が連れ立って咲いていることから名付けられたそうです。情報をお持ちの方は是非掲示板でお知らせください。)


 『続江戸砂子』のお話。
 (麓次郎著「季節の花事典」(八坂書房)より引用)

 ”『続江戸砂子』巻三 名所古跡拾遺に、「奥沢村に在り、一峯高く曲輪堀と云ふ可き様なる小溝の堀も形などあり、此外に鷺草という草生ず。相伝ふ、昔鎌倉へ献ずるとて鷺を一艘此川に積み来りしが、此船くつがへりて夥多の鷺生き乍ら水に溺れて悉く死す。其翌年より此の花生い立つ。よつて花形白鷺に似たりと里の老人故実を知れる顔に語る」とのことである。”


 俳諧では、鵞毛玉鳳花(がもうぎょくほうか)ともいい、夏の季語です。


花言葉は、芯の強さ・発展・夢でもあなたを思う

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桜(さくら)

 日本の神代の頃のお話(古事記)。

 山の神の大山祗命(おおやまずみのみこと)と、野の神の草野姫命(くさのひめのみこと)との間に生まれた木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)は、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)に嫁ぐまで、花の宮殿の奥深くに暮らしていました。あるとき、父のいいつけで、雲を踏み、霞に乗って、紫雲にそびえる富士山の山頂に天降り(あまくだり)、種子をまきました。それから桜の花が咲き乱れるようになりました。


 実相寺(じっそうじ)の山高神代桜(じんだいざくら)のお話。

 日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征(本州東部地方遠征)の帰途に、この地に立ち寄り、記念に苗木を手植えしたのが起源となっています。やがて時は過ぎ、鎌倉時代になりました。日蓮上人が布教の旅の途中に、この地に立ち寄ると、桜が衰弱していたので、回復を祈ると、再び繁茂したと伝えられています。そのため妙法桜とも言われます。
 この桜は樹齢推定1800年以上とされ、天然記念物に指定されています。


 乳岩と秀衡桜のお話。

 奥州平泉の藤原秀衡は、40歳を過ぎても子どもに恵まれなかったので、熊野権現で願をかけました。すると秀衡の妻はみごもりました。
 妻が妊娠7か月になった頃、お礼詣りに妻と共に瀧尻に旅立ち、そこの王子社に参詣したところで妻が産気づきました。その時に、五大王子が現れて「すぐに、この山の上にある胎内くぐりという大きな岩屋に行って産みなさい。その子をそこに預けて熊野へ参詣しなさい。」とのお告げがありました。
 秀衡はお告げ通りにして熊野へと急ぎました。途中の野中で、桜の杖を地に刺して「参詣の帰途に、この杖に花が咲いていたら無事なり。」と願をかけてから熊野大権現に参詣しました。その後すぐに野中に戻って桜の杖を見てみると、花が咲いていました。秀衡は安心して瀧尻の岩屋へと急ぎました。赤子(後の藤原忠衡)は一匹の狼に守られて、岩から白くしたたる乳を飲んでいました。
 秀衡は感謝して、七堂伽藍(秀衡堂)をつくりましたが、戦乱のどさくさで壊され、記録は残っていません。この岩屋は乳岩と呼ばれ、腹這いでくぐり抜けることができ、乳の出の少ない婦人が詣るとご利益があると言われています。
 

 桜の語源については、いくつかの説があります。古事記に登場する木花開耶姫のさくやが転化したものだという説、さくらの「さ」は穀物の神を表す古語で、「くら」は神座を意味し、「さ+くら」で、穀物の神の集まる場所を表すという説、咲く花の代表を表すという説などがあります。       


 聖バルバラ(セント・バーバラ)のお話。

 聖バルバラはキリスト教の聖女(実在したか不明なので教会暦からは除外されているそうです)で、未婚の女性、狩猟家、鉱夫、消防士等の守護聖人です。

 3世紀頃、バルバラは、マルマラ海(トルコ北西部の内海)のほとりのニコメディア地方の大商人ディオスクルスの娘として生まれました。バルバラが美しい娘に成長すると、父親はバルバラを高い塔に侍女と一緒に閉じ込めました。バルバラは、キリスト教徒だった侍女の話を聞くうちにキリスト教を信じるようになり、密かに聖職者を医者と偽って塔に入れ、洗礼を受けました。
 ディオスクルスは旅行に行く前に職人に塔の浴室に2つの窓をつくるように命じて出かけましたが、バルバラは窓を3つつくらせました。旅行から帰ってきたディオスクルスが窓が3つある理由を尋ねると、バルバラは「3つの窓は、父と子と聖霊を意味します。」と答えました。娘がキリスト教に帰依したことを知った父親は怒って娘に剣を振り下ろしました。バルバラは祈って遠くの山に逃げましたが羊飼いが密告したので捕まってしまい、ローマ総督に引き渡されました。密告した羊飼いの羊は全てイナゴになって逃げてしまいました。
 バルバラは改宗するように拷問を受けましたが、神の加護を受けたバルバラの傷は翌日には全て癒えていました。総督はバルバラを斬首することに決めました。バルバラは刑の執行者に父親のディオスクルスを指名し、彼によって斬首されました。その直後にディオスクルスは落雷にうたれて死にました。バルバラは16歳だったそうです。
 総督に引き渡される時にバルバラは、道端の桜桃(西洋実桜せいようみざくら)のつぼみのついた枝を折り、獄中の壺にいけました。その桜桃のつぼみが処刑の日にきれいな花を咲かせました。この伝説から12月4日の聖バルバラの日には桜桃の枝を壺にさすようになりました。
 また、この日に、桜桃と杏と林檎の枝をさし、桜桃の枝には「その人が私を愛してくれますように」、杏の枝には「その人が若い人でありますように」、林檎の枝には「その人が裕福でありますように」と願い事を書いた紙を結びます。クリスマスに花が咲いた枝の願いがかなうといわれています。

 聖バルバラの日に皿に入れた水に小麦を浸しておいて、クリスマスの頃の芽の出方で翌年の収穫を占う風習もあり、「バルバラの麦」と呼ばれています。
 また、聖バルバラの日に降る雪は「白い衣装のバルバラ」と呼ばれ、雪の量が多いと翌年は豊作になるといわれています。


 中国のイ族に伝わる桜のお話。

 中国語では桜は「イェン」と発音しますが、雲南省の少数民族のイ族は「ミール」と呼んで桜の花の伝説を伝えています。
 イ族のミールは聡明で美しい娘でした。ある日、山奥の白い花が一面に咲いている花園でミールが歌っていると、一人の若者がミールに恋をしました。しかし、その地域を支配していた首領がミールを見初めて結婚を迫りました。ミールは姉妹達が首領の侮辱を受けないようにするために首領との結婚を承諾しました。そして、結婚式の日、ミールは首領に白い花びらを浮かべた毒酒をすすめ、自分もその酒を飲んで死にました。ミールに恋した若者の悲しみの涙は血になって白い花を赤く染め、「桜」の花が生まれました。イ族の人々は、自分の命を犠牲にして大切な人々を守った心優しいミールをいつまでも忘れずに語り継ぎました。


 アメリカのワシントンの桜の名所として有名なポトマック河畔の桜は、明治時代に日本から贈られた5000本のソメイヨシノの苗が育ったものです。(このことについては「花物語」の花水木(はなみずき)の項目を参照してください。)

 ところで、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの伝記の中の桜の木のエピソードをご存知でしょうか?
 ジョージ・ワシントンは少年時代、庭で斧を振り回していて、誤って父親の大切にしている桜の木を切ってしまったことがありました。彼は黙っていようとも思いましたが、正直に告白しました。すると、「やったことはいけないが、正直なのはいいことだ」と逆にほめられた、というお話です。
 このお話は伝記作家の創作で、事実ではないそうです。


 坂上田村麻呂と桜のお話(山形県)。

 「久保の桜」(国指定天然記念物。長井市伊佐沢)
 桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、蝦夷征伐に向わせました。ある日、田村麻呂は置賜の窪(くぼ)(現在の伊佐沢)で土地の豪族久保氏の家に泊まり、その娘のお玉と恋に落ちました。しかし、田村麻呂はお玉を置いて征伐に向わなければなりませんでした。お玉は田村麻呂の凱旋を待ちわびていましたが、恋慕の情や心労が重なり、病死してしまいました。そのことを知って悲しんだ田村麻呂は、都に戻ってから桜の苗を贈り、お玉の墓に植えさせました。これが「久保の桜」の伝説です。

 「薬師桜」
 征夷大将軍坂上田村麻呂は毎晩笛を吹き、戦いや人の世の哀れ等に思いをはせていました。その笛の音に引き寄せられた美しい娘が、田村麻呂と結ばれ、黄金の太刀を産みました。娘の正体は近くの沼にすむ大蛇でしたが、田村麻呂は誤って黄金の太刀で大蛇を斬り殺してしまいました。田村麻呂はその娘を哀れに思い、桜の木を植えました。これが「薬師桜」です。


 桜の木の伝説。
 (宗方俊ゆき著「古木の桜はなにを見てきたか」(河出書房新社)より引用)

 ”「稚児桜」(神奈川県鎌倉市)
 昔、このあたりに住んで暴虐の限りを尽くした五つ頭の竜が、土地の長者の子どもたちを呑み込み、悲しんだ長者が立てた稚子塚に生えたという伝説の巨桜だが、その来歴を知る人はいない。

 「西光寺のシダレザクラ」(青森県野辺地町)
 江戸の中期、野辺地(のへじ)は南部藩の外港として栄え、港には江戸、大阪をはじめ加賀や越中からも船が入港し大いに賑わったという。シダレザクラは船問屋野坂勘左衛門が延享二年(1745)に京都祇園から取り寄せて植えたものと伝えられている。町の繁栄の中で京都から移された桜は華やぎとともに都への憧れをかき立てたにちがいない。
 それから百年ほどたって花が咲かなくなったので切り倒そうとしたところ、その前夜、桜の精が住職の夢枕に立って「もう一度咲いてみるから一年待ってほしい」と懇願するので伐採を見合わせたら、翌春からふたったび花が咲くようになったという話が寺に語り継がれている。明治時代、岩手県花泉の大塚松州(しょうしゅう)が詠んだ詩の一節「老桜元是在因縁 百年免得樵翁斧」はこのことを謳(うた)ったものであろう。詩碑は老桜の足元にある。

 「光善寺の血脈桜」(北海道松前町)
 「どうか私を仏弟子にして血脈(けちみゃく。法脈を示す系図)をお授けください」。美しい娘の顔にはひたむきな思いが浮かんでいた。明日は本堂の建て替えが始まるという日の夜だった。
 住職は娘の願いを聞き入れたが、今日は晩(おそ)いので明日出直してくるようにといった。
 「私は明日をも知れぬ身の上なのでいまお願いしたいのです」と娘は手を合わせた。よほどさし迫った事情があるのだろうと察した住職は承知して血脈を授けた。
 翌朝、切り倒されることになっていた本堂前の桜の枝に昨夜の血脈が下っているのを発見した住職は、娘が桜の精だったことを悟った。
 伐採は取りやめになり、手厚い供養が行なわれた。光善寺がいまに伝える伝説である。”


「花物語」には、薄墨桜(うすずみざくら)、姥桜(うばざくら)、蝦夷の上溝桜(えぞのうわみずざくら)、十六日桜(じゅうろくにちざくら)の項目もあります。


桜の花言葉は、精神美・すぐれた美人

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桜草(さくらそう)

 ドイツの伝説。

 昔、ドイツの田舎にリスベスという娘がいました。リスベスの母親は長い間病床に伏せっていたので、リスベスは母を慰めようと思い、野原に花を摘みに出かけました。リスベスが花を摘んでいると、花の精が現れて、リスベスに花を摘んでいる理由を尋ねました。花の精は、リスベスの話を聞いて、その優しさに心打たれました。花の精は、リスベスに桜草の花束を渡し、「この花を城の門の鍵穴に差すと門が開くから、私のお城へいらっしゃい」と言いました。
 リスベスは、花の精の城を訪ねました。そのお城は、門だけでなく、部屋の扉も桜草の花を差し込んで開くようになっていました。花の精はリスベスにたくさんの宝物をくれました。リスベスは、花の精にお礼を言って、宝物を持って母親の待つ家に帰りました。リスベスの話を聞いた母親は大変喜びました。次第に母親の病気も回復し、二人は幸せに過ごしたそうです。
 この孝行娘の話から、ドイツでは桜草を「鍵の花」と呼ぶようになりました。


 ギリシャ神話のお話。

 花の女神フローラには、パラリソス(英名プリムローズ)という名のとても美しい息子がいました。ところがパラリソスは、恋人のニンフのメリセルタを失った悲しみのために、やせ衰えて衰弱して死んでしまいました。フローラは我が子のことを哀れに思い、春一番に咲く桜草の花に変え、メリセルタの墓のそばに咲かせてあげました。


 白馬岳の大桜草の伝説。

 昔、白馬岳には純白の大桜草が咲いていました。
 白馬岳の東の山麓の小谷村の長者には手巻(たまき)という名の美しい一人娘がいました。手巻は小姓姿の若者と恋仲になり、長者に内緒で毎晩山の林の中で逢瀬を繰り返しましたが、若者は自分の名前や家については何も話してはくれませんでした。しかし狭い山里だったので長者は村人から話を聞いてそのことを知って怒り、手巻が素性の知れない若者と別れなければ若者を殺すと脅しました。
 手巻は夜になると家を抜け出して、若者に、会うことができなくなったと伝えました。若者は手巻が他の男に心変わりしたと思い込み、恐ろしい正体を現しました。若者は、山に住みついていた魔神の大婆王(だいばおう)だったのです。大婆王は手巻をかかえて黒い雨雲に乗って白馬岳の頂上にいき、手巻の身体を八つ裂きにしてしまいました。手巻の真っ赤な血が飛び散り、純白の大桜草のつぼみに降りかかりました。その時から白馬岳の大桜草は紅紫色の花をつけるようになりました。


 江戸幕府を開いた徳川家康は無類の花好きでした。家康は江戸に居城を構えてから、しばしば浮間ヶ原に鷹狩りに出ました。その時に雑草の中に混じって咲いていた可憐な桜草の花を見つけて持ち帰り、鑑賞するようになったことから日本の桜草栽培が始まりました。


 イギリスのプリムローズ・デーPrimrose Day(桜草の日)のお話。

 1881年4月29日にビクトリア女王時代の保守党の首相のベンジャミン・ディスレイリが亡くなりました。ビクトリア女王は彼の葬式にプリムローズの花環を送りました。その花環に添えられたカードには「彼のお気に入りの花His favorite flower」と書かれていました。それ以後、イギリスではディスレイリの業績をたたえ、4月29日に保守党の議員達が胸にプリムローズのコサージュをつけ、彼の墓を飾りるようになりました。また、ロンドンではその日に桜草の造花が売られるようになりました。1883年には保守主義継承のために桜草連盟Primrose Leagueという政治団体が結成されています。
 けれども、実際には、ディスレイリとプリムローズは無関係だったのです。ビクトリア女王のカードに書かれた「彼のお気に入りの花」の「彼」はディスレイリではなく、亡くなった彼女の最愛の夫アルバート公のことだったのです。


 桜草という和名は、「我国は草もさくらを咲きにけり」と一茶の俳句にあるように、花の形が桜の花に似ているところから付けられました。
 イギリスでは、鍵を管理する聖ペテロにちなみ「ペテロの草」、スウェーデンでは、「五月の鍵」と呼ばれます。
 学名プリムラは、ラテン語のプリマ(最初の)から出た、早く咲くという意味の名前です。


花言葉は、若い時代と悲しみ・顧みられない美・絵画・貪欲・初恋・勝利・富貴・神秘な心・うぬぼれ

プリムローズ

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桜桃(さくらんぼ)

 キリスト教伝説(イギリスの古いキャロルより)。

 身ごもっている聖母マリアが夫のヨセフと桜の園を歩いている時に、マリアはヨセフにサクランボを採ってくれるように頼みましたが、ヨセフは「お前に子を授けた人にとってもらえばよい」と言って断りました。マリアがもう一度同じ願いを繰り返すと、胎内のキリストが桜の木に、「母がサクランボを取りやすいように枝を下げてください」と声をかけました。すると、桜の木は枝をたわませてくれたので、マリアはサクランボを食べることが出来ました。その様子を見たヨセフは自分の行為を悔い改めました。

 キリスト教では桜は聖母マリアの聖木とされています。桜の花は処女の美しさに、実(サクランボ)は天国の果実にたとえられます。


 イギリスには、サクランボを一粒ずつ食べながら結婚できるかどうかを占う恋占いがあるそうです。


 スペインの民話「サクランボウ」。

 ある暑い日、イエスとペトロは乾燥してほこりっぽい道を歩いていました。いくら歩き続けても泉も井戸も見当たりませんでしたが、イエスは微笑を絶やしませんでした。しかし、ペトロは喉が乾いて不機嫌な顔をしていました。
 歩いていると、道端に蹄鉄が落ちていました。イエスはペトロに蹄鉄を拾うように言いましたが、ペトロは「古い蹄鉄など役に立たないでしょう」と言って、拾いませんでした。イエスは黙って蹄鉄を拾いました。
 また歩いていると、鍛冶屋に出会いました。イエスは拾った蹄鉄を売ってお金をもらいました。
 さらに歩いていると、サクランボウの籠を背負った百姓に出会いました。イエスは蹄鉄を売ったお金でサクランボウを買い、食べ始めましたが、ペトロには1個も与えませんでした。死にそうに喉が乾いていたペトロは、イエスが食べるのを恨めしそうに眺めていました。
 すると、イエスはサクランボウを1個、地面に落としました。ペトロはあわてて拾って食べました。イエスは1個ずつサクランボウを合計12個地面に落とし、ペトロはそのたびに拾って食べ、喉の渇きがおさまりました。
 イエスはペトロに言いました。
「ペトロよ。お前は蹄鉄のためには1回でさえ背中を曲げて拾うのを拒否したのに、サクランボウの時には12回も背中を曲げて拾った。どんな小さなことでもさげすんではならない、ということを覚えておきなさい。」
ペトロは恥じ入り、何も言えませんでした。


 スイスの民話「黒いさくらんぼ」。

 昔、一人娘の王女が冬に病気になりました。医者が「黒いさくらんぼを食べなければ王女の病気は治らない」と断言したので、王様は「黒いさくらんぼを持ってきた者に王女を嫁にやる」と国中におふれを出しました。
 冬に黒いさくらんぼの実がなる桜の木を持っている男には3人の息子がいました。男は黒いさくらんぼを長男に渡して城へ向かわせました。長男は泉で出会った老人にかごの中身が何かを尋ねられ、「山羊のふんですよ。」と傲慢に答えました。長男が城に着いた時にはかごの中身は山羊のふんになっており、長男は罰として番兵にムチで打たれました。男は今度は黒いさくらんぼを次男に渡して城へ向かわせました。次男は途中で老人にかごの中身を尋ねられた時に「豚のふんですよ。」と答えたので、城に着いた時にはかごの中身は豚のふんになっており、兄よりもたくさんムチで打たれました。男は末っ子に黒いさくらんぼを渡して城へ向かわせました。

 末っ子は泉で老人にかごの中身を尋ねられると「黒いさくらんぼです。」と答えました。老人は末っ子に忠告をしました。「空腹に苦しんでいる者には食べ物を与え、喉の乾きに苦しんでいる人には飲み物を与え、喧嘩している人達を仲直りさせなさい。そうすれば幸福になれますよ。」
 末っ子は途中の森で食べ物がなくて困っているアリを見つけたので、ポケットのパンをあげました。湖のほとりでは死にそうになっている魚を見つけたので、水の中に戻してあげました。平野では天使と悪魔が喧嘩をしていたので二人を和解させました。

 末っ子は城に着くと番兵に黒いさくらんぼを見せました。すぐに中に通され、黒いさくらんぼを食べた王女は元気になりましたが、王様は王女を手放さず、末っ子に難題を出しました。
 「ライ麦と大麦をマス1杯ずつ混ぜたものを3時間以内により分けろ」と言われましたが、アリが助けてくれました。次に、「王女が1年と1日前に湖で落とした指輪を拾ってこい」と言われましたが、魚が助けれくれました。それから、「天国の一番きれいな花と、地獄の一番熱い火の玉を持って来い」と言われましたが、天使と悪魔が助けれくれました。
 王様はとうとう根負けして王女を嫁にやり、二人は幸福に暮らしました。


 古典落語「あたま山」のお話。

 たいへんけちな男がいました。男はサクランボを食べた時に、もったいないからと種まで食べてしまいました。すると男の頭から桜の木が生えてきて大きく成長しました。桜の木は春になると見事な花を咲かせたので、人々が花見に集まってきました。お酒を飲んで喧嘩する人々のうるささに耐えかねた男は桜の木を頭から抜いてしまいました。すると男の頭には大きな窪みができました。
 男は夕立にあい、頭の窪みに水が溜まりました。けちな男は水を捨てようとはしませんでした。いつのまにか頭の水溜りの池にコイやフナやドジョウが泳ぐようになりました。すると、朝から晩まで頭の池に子供達が釣りにやってきて騒ぐようになりました。あまりのうるささに耐えかねた男は自分の頭の池に身投げして死んでしまいました。

 徒然草の「堀池の僧正」のお話に似ていますね。


 シベリアのツングース系民族には、ねずみと蛙がサクランボの実をめぐって争う、「猿蟹合戦」の前半とよく似た話があります。ねずみと蛙がいっしょにサクランボの実を取りにいき、ねずみだけが木にのぼって一人で実を食べ、蛙が下から、「わたしにも取って」と言うと、ねずみはほんのすこしだけ投げてやります。サクランボの実をたらふく食べておりてきたねずみが、「どっちのからだが重いか、くらべっこしよう」と言い、蛙の腹の上に乗ってしこを踏むと、蛙の腹がはちきれてしまいます。この後に、蛙自身による、いろいろな形での仇討ちが続きます。


 太宰治は昭和23年6月13日に玉川上水に入水し、19日に遺体が発見されました。遺体発見の日は彼の誕生日でもありました。晩年の作品に「桜桃」という短編があり、彼の死が桜桃の季節であることから、この日を桜桃忌といい、毎年東京都三鷹市禅林寺で偲ぶ会が行われ、多くのファンが集まります。太宰治は桜桃を食べながら「子供より親が大事」と呟いていたそうです。


 ドイツのゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの「ほらふき男爵の冒険」では、弾丸を撃ち尽くしたミュンヒハウゼン男爵が、さくらんぼの種を銃に込めて鹿を撃ちます。数年後、10フィート余りの桜桃の木が頭に生えた大鹿をしとめ、男爵は鹿の上肉と桜桃のソースを同時に手に入れることができます。
 ビュルガーは「ほらふき男爵の冒険」を匿名で発表したそうです。ちなみにこの話の本当の題名は「ミュンヒハウゼン男爵の奇想天外な水陸の旅行と遠征と愉快な大冒険」というそうです。


花言葉は、小さな恋人・上品

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柘榴・石榴(ざくろ)

 ギリシャ神話のお話。

 ペルセフォネは、主神ゼウスと大地と農業の女神デメテルの娘です。ある時、冥府の王ハデスは、ペルセフォネを見初め、ゼウスにペルセフォネと結婚したいと申し出ました。ゼウスは承諾しましたが、デメテルには拒絶されました。そこでハデスは、野原で花を摘んでいたペルセフォネをさらって地下の冥府へ連れて行ってしまいました。デメテルが自分の役目を放棄して娘を捜しまわったため、地上は、作物がまったく実らずに荒れはててしまいました。
 困ったゼウスは、神々の使者ヘルメスを冥府へ送り、ペルセフォネを返してくれるようにハデスに頼みました。ハデスは一応は承知しましたが、ペルセフォネが地上へ着く前に、ザクロの実を食べるように仕向けました。冥府の食べ物を口にした者は冥府からでられないという掟があったからです。ペルセフォネは4粒のザクロを食べた為、4ヶ月、つまり1年の3分の1を冥府で過ごすことになりました。デメテルは、ペルセフォネのいない間は作物を実らせませんでした。こうして地上には、冬という季節がくるようになりました。


 ギリシャ神話では、オリオンには以前にシデー(オイノピオーンの兄弟スタピュロスの娘ともいう)という美しい妻がいました。シデーは女神ヘラと美しさを競おうとしたので、怒りに触れて冥界に追いやられたそうです。シデーは古代ギリシャ語でザクロのことです。ペルセフォネが食べた冥界のザクロの実はシデーの変化した姿だったのかもしれませんね。


 ギリシャ神話の別のお話。

 昔、スキチアに美しい妖精がいました。ある日、彼女が占い師に占ってもらうと、「あなたはいつか王冠をいただくようになるでしょう。」と言われました。喜んだ彼女は、「王冠を与える」と嘘をついた酒神バッカスに騙されて、バッカスにもてあそばれて捨てられました。身も心も傷ついた彼女は、悲嘆にくれて死んでしまいました。気がとがめたバッカスは、彼女をザクロの木に変え、その実の先に小さな王冠をつけました。


 ギリシャ神話のまた別のお話。

 テバイ王エテオクレスは戦争に負けそうになったので予言者テイレシアスを呼びました。テイレシアスは「王家の未婚の王子が一人、戦いの神アレスの犠牲になれば勝利を得られるでしょう。」と答えました。城内には未婚の王子は摂政のクレオンの息子達しかいませんでした。人々は以前に疫病が流行った時に自ら犠牲になったクレオンの父メノイケウスのことを思い出しました。そのメノイケウスと同名の孫のメノイケウスは、父クレオンの制止を振りきって竜の洞窟へ行き、自殺しました。彼の墓からは、血の色をした実をつけるザクロが生えてきました。


 ギリシャ神話のさらに別のお話。

 酒神ディオニュソスはゼウスのと人間の間に生まれました。ゼウスの妃のヘラはディオニュソスを憎み、様々な嫌がらせをしましたが、ゼウスはそのたびに様々な動物の姿に変えさせて逃がしていました。ところが、とうとう捕らえられて八つ裂きにされて、大釜で煮られてしまいました。八つ裂きにされた時に彼が流した血が大地にしみこみ、そこからザクロが芽生えました。ザクロの花が赤いのはそのためだといわれています。ディオニュソスは後に、彼の祖母にあたる大地の女神レアによって再生されました。


 ギリシャの民話。

 ギリシャにシデー(古代ギリシャ語で「ザクロ」の意味)という名の娘がいました。母親が死ぬと、シデーの父親は自分の娘を手込めにしようとしました。シデーは悲しんで、母親の墓の前で自殺しました。神はシデーを哀れに思い、彼女の魂をザクロに宿らせ、彼女の父親を鳶(トビ)に変えました。ザクロは今でも枝に鳶を止まらせないと言われています。


 「同じく、大きな石榴を献上した男」
 (アイリアノス著松平千秋・中務哲郎訳「ギリシア奇談集」(岩波文庫)より引用)

 ”ペルシス地方に馬を進めるアルタクセルクセス大王に、オミセスなる者が大きな柘榴を籠に入れて献上した。その大きいことにはさすがの大王もびっくりして、この贈物はいずこの園から採ってきたものかと尋ねた。男が「わが家の畠からです」と答えると、大王は非常に喜んで、男に下賜の品を与えるとともに、「ミトラス(古代ペルシアの光明・心理・誓約・救い・幸福の神)にかけて、この男の世話に委ねるならば、小さい都市も大きくしてくれると思うぞ」との言葉も賜った。この話は、世話と十分な配慮と営々たる努力とをもってすれば、どんなものでも生まれた時の状態より勝れたものになることができるということを裏書しているように思われる。”


 仏教のお話。

 鬼子母神は、夜叉の一族で般闍迦(はんじゃか)の妻でした。彼女は、500人の子供に食事をとらせるために、人間の子供をさらって食べさせる鬼女でした。
 しかし、それを見かねた仏陀が、彼女が一番可愛がっていた末子のピンガラ(氷掲羅天(ひょうぎやらてん))を隠して、彼女に子供を失う母親の苦しみを悟らせました。仏陀は、子供のかわりにザクロを食べさせるように諭しました。鬼子母神は改心し、安産と子供を守る善神になりました。鬼子母神は、一般には、天女の姿で左手で子供を抱き、右手にはザクロを持った姿で描かれます。

 俗にザクロは人肉の味がするというのも、このお話からきています。


 中国の民話「臨潼(りんとう)の石榴」

 昔、福建省の東山山麓に藍超(ランチャオ)という誠実な農民がいました。ある日、藍超は山で白鹿に案内されて山奥の洞穴の中へ入っていきました。中には石榴の花が香る天国のような土地でした。白鹿は一軒の人家に入り、そこから白髭の老人が出てきました。老人は藍超に、ここで暮すように誘いましたが、藍超は妻子が待っている自宅へ帰ることにしました。老人はお土産に石榴の花をくれました。藍超が洞穴を出ると、洞穴は消えてしまいました。
 石榴の花は数日後に実をつけました。とても美味しかったので評判になり、あちこちで栽培されるようになりました。その後、陝西省臨潼に伝わり、より美味しくなったので、臨潼の石榴のほうが有名になりました。


 「紅一点」

 男性達の中に女性が一人いることを紅一点と言いますが、これは石榴の花をあらわしています。出展は、宋代の詩人王安石の「石榴詩」です。

   万緑叢中紅一点(万緑の叢中紅一点)
   動人春色不須多(人を動かすに春色多くを用いず)

 「一面緑色の草原に1つだけ赤い花が咲いている。春の景色はこれだけで人を感動させてしまう。」
 王安石が大臣となって庭を散歩していた時に、石榴の木の繁った葉の中に赤い花が1つだけ咲いているのを見つけて、春の訪れを感じたことを詠んだ詩です。春の到来の喜びに多くの花はいらない、紅一点だからこそ印象深いといっています。


 イタリアのアブルッツォ州の民話「三つの柘榴の実の愛」

 一人の王子が、乳のように白く血のように赤い女性を妃にすることに決め、歩いて捜しに出かけました。途中で出会った老女が、「泉の近くで割りなさい。」と言って3つの柘榴の実をくれました。
 王子が泉の近くで柘榴の実を一つ割ってみると、中から乳のように白く血のように赤い美しい少女が現れました。少女は水を欲しがりましたが、間に合わずに死んでしまいました。王子が二つ目の柘榴の実を割ると、今度も中から美しい少女が現れましたが、やはり水が間に合わずに死んでしまいました。王子は三つ目の柘榴の実を割りました。前の二人よりも美しい少女が現れると、王子はすぐに少女に水をあげました。今度は間に合いました。王子は少女が服を着ていなかったので、少女を木に登らせて人に見られないようにし、服と馬車をとりに王宮に戻りました。
 王子がいない間に醜いサラセン女が少女の耳にピンを突き刺して少女を殺してしまいました。少女から落ちた一滴の血は地面に触れると一羽の小鳩になって飛び去りました。戻ってきた王子は少女の様子の変化に驚きましたが、サラセン女の嘘に騙されて柘榴の少女が醜くなってしまったと思い、サラセン女を王宮へ連れて帰りました。
 それ以来、毎朝、王宮の台所の窓辺に小鳩がやってきてコックに、「王子様は醜いサラセン女とどうしているの?」と尋ねるようになりました。サラセン女は、コックがそのことを王子に告げる前に焼き串で小鳩を突き刺して殺してしまいました。小鳩から血の一滴が庭に落ち、そこに1本の柘榴の木が生えてきて、瞬く間に生長して実をつけました。その柘榴の実は不思議な実で、死にかけた人が食べると元気になることができたので、多くの人が王宮を訪れて実をもらっていきました。
 柘榴の最後の実は、夫が今にも死にそうだという老女がもらって帰りましたが、彼女の夫は既に死んでいました。老女が持って帰った柘榴の実から少女が現れ、自分の身の上を話しました。老女は少女に服を着せてやり、日曜日にはミサに連れていきました。ミサで柘榴の少女を見つけた王子は、少女から今までの出来事を全て聞き、サラセン女を処刑して、柘榴の少女を妃にしました。


 中国の少数民族ツイグル族の民話「石榴の王様」
 (二反長 半著「中国・インドの古典童話」(小峰書店)より要約)

 昔、アームタックという貧乏な男がいました。彼の財産は1本の石榴の木しかなく、石榴の実がなる季節には、実を盗られないように見張っていました。そして、石榴の実を盗った子供を棒で何度も叩きました。それで、子供達はアームタックのことを恐れて『石榴の王様』と呼ぶようになりました。
 ある日、アームタックは石榴の実を盗った狐を捕まえました。すると、狐が、「助けてくれたら、王様のお姫様をお嫁さんに迎えられるようにしましょう」と言ったので、アームタックは許してやりました。すると、狐は知恵を働かせて王様のお姫様をアームタックのお嫁さんにし、魔王を退治して、魔王のお城に二人を住まわせました。
 ある日、狐がアームタックに聞きました。
「私がいなかったら、あなたはまだ『石榴の王様』でした。もし、私が死んだら、あなたは私をどうしてくれますか?」
アームタック王は答えました。
「恩を忘れないために、お前を頭の上に戴くことにしよう。」
 それからしばらくして狐は死んでしまいました。アームタックは約束通り、狐を頭にのせました。人々は、その様子が格好よく思えたので、狐の皮で帽子を作って頭にのせるようになりました。


 ザクロは、種がたくさんあることから、多産、豊穣、子孫繁栄という連想で結婚式のお祝いにするところもあります。トルコには、花嫁が熟したザクロの実を地面に投げて、こぼれた種の数が彼女の産む子供の数だという言い伝えがあるそうです。


 英名Pomegranateは、種の多いりんごの意味です。日本の名前は中国語の石榴(ジャクロ)の音読みに由来しています。


 日本に伝わる植物なぞなぞ「屏風(びょうぶ)の陰にお姫様千人、なーに?」の答えです。


ざくろの花の花言葉は、円熟した優美・子孫の繁栄 
ざくろの実の花言葉は、愚鈍

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笹(ささ)

 ササはタケ科ササ属の植物というのが通説ですが、イネ科とする学者もいます。

 ササとタケ(タケ科ササ属)はよく似ていますが、違いは稈鞘(かんしょう。筍の皮の部分)だとされています。タケは茶色い表皮が早期になくなりますが、ササはいつまでも幹についています。ただし、例外もあるそうなので決定的な分類法とはいえません。


 「笹無し山の伝説」(岡山県倉敷市)

 昔、有城(あるき)の浜辺に若い猟師が母親と二人で暮らしていました。当時は源氏と平家が争っており、追い詰められた平家が児島の藤戸まで逃げました。源氏は加須山や有城に布陣しましたが、船がないので藤戸海峡を渡ることができずに悔しい思いをしていました。
 そんな時、源氏の佐々木三郎盛綱は馬でも渡れる海峡の浅瀬があるという情報を聞いたので、若い猟師をつかまえて案内させました。その時に家来の侍が目印に柳の鞭を突き刺しました。そこは鞭木という地名で残っています。盛綱は手柄を独り占めしたかったので猟師を殺して海に投げ込みました。猟師の母親が帰ってこない息子を捜しに来ると、息子の死体からはらわたが出て浮いていました。そこは腸川(わたがわ)という地名で残っています。盛綱は鞍懸松(くらかけのまつ)の下の乗出岩(のりだしいわ)の辺りから家来を連れて先陣をきって藤戸海峡を渡りました。渡った辺りは先陣庵(せんじんあん)という地名で残っています。
 息子を殺された母親は「佐々木ときけばササまで憎い」と、そばの小山に生えている笹を全部手で引きちぎりました。その山には笹が生えなくなり、笹無し山と呼ばれるようになりました。
 佐々木盛綱は褒美として児島の国を授かりましたが、後に法要を行い、経塚をつくって猟師の霊を慰めたそうです。

 このお話は、平家物語や謡曲「藤戸」でも語られています。
 当時の藤戸海峡は現在は干拓されて田んぼになっています。


花言葉は、ささやかな幸せ

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笹草(ささくさ)

 ササクサLophatherum gracileはイネ科ササクサ属の植物で、葉が笹にそっくりです。漢方ではコササクサLophatherum gracile Brongnの全草を乾燥させたものを淡竹葉(たんちくよう)といいます。


 中国(浙江省)の民話。

 天竺山の麓にある長者の屋敷がありました。ある日、長者に雇われていた石工の杭四老が突然中風の発作を起こしました。すぐに医者を呼んで手当てをしたので命は助かりましたが、声が出なくなりました。同じ頃、長者も中風の発作を起こして杭四老と同じ状態になりましたが、喉の病気を治せると評判の近くの村の薬草採りに金1両を払って治してもらいました。その薬草採りは杭四老にも金1両を払って薬を飲むように言いましたが、杭四老はお金がないので断りました。
 しばらくすると、薬草採りの薬も飲まずに杭四老の病気はよくなり、声も出るようになって再び石工の仕事に出るようになりました。長者からその話を聞いた薬草採りは杭四老の家に行き、杭四老にいろいろと尋ねた結果、杭四老の12歳になる孫娘の杭竺が煎じた野草のお茶が薬になるのではないかと考えました。薬草採りは杭竺にその野草の生えている場所に案内してもらいました。その野草は裏山の湿った岩と岩の間に生えており、葉は竹に似ていました。薬草採りはその薬草を自分だけのものにしようと思い、杭竺を殺しました。
 しかし、悪事は露見するものです。南山に住む黄老人は石工の孫娘が殺された話を聞いて薬草採りがあやしいと思い、役所へ訴えて取り調べさせました。薬草採りは杭竺を殺したことを白状し、死刑になりました。
 人々は杭竺の懐に入っていた野生の竹を頼りに探し当て、中風で声が出なくなった人々を治しました。また、その草には他にもいろいろな効能があることがわかりました。人々は、杭竺が見つけた草を杭竺葉と名付けました。やがて、その草は杭竹葉と呼ばれるようになり、薬典に載せる際に淡竹葉と改名されました。

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大角豆(ささげ)

 ササゲはマメ科ササゲ属の一年生草本で、英名をカウピーcowpeaといいます。
 ササゲの名前の由来には、莢の先が上に反り返り、捧げる手の形に似ているからという説や、莢を牙に見立て「細々牙(ささげ)」と名付けたという説等があります。


 愛媛県周桑郡の民話。

 昔、貧乏な百姓の母子がいました。牛が子牛を生んだので親牛を売り、そのお金で米や味噌を買っていましたが、年末にはそのお金も尽きてしまいました。母親は年を越すために一頭しかいない子牛を売ることに決め、息子に牛を町で売ってくるように言いました。しかし息子は街へ行く途中でササゲの豆を持った人に出会い、その豆がどうしてもほしくなって子牛と交換してしまいました。
 息子が子牛とササゲの豆を交換したことを聞いた母親は嘆きましたが、息子は気にもとめず、ササゲの豆を家の前の畑に蒔きました。ササゲの豆は一晩で芽を出して蔓を伸ばし、天までとどきました。
 息子は蔓を登って天上に行きました。天上では親切な白髪のお爺さんがご馳走をしてくれました。夕方になると、お爺さんは「もうすぐ私の子供の鬼が来るので押入れに隠れなさい」と言いました。息子はその通りにしました。
 やがて鬼がやってきました。鬼が懐から金の鶏を出して「小判を出せ」と言うと、小判がたくさん出てきました。次に「米を出せ」と言うと、米がたくさん出てきました。鬼は米を炊いて食べました。夜明け頃、どこかから鶏の声が聞こえると、鬼は金の鶏を持って出ていきました。お爺さんは息子に押入れから出るようにいい、鬼が置いていった小判をお土産に持たせてあげました。
 息子はササゲの蔓を伝って下りて家に戻ると、鬼が来ないように手斧で蔓を切りました。母子は息子の持ち帰った小判で一生安楽に暮らすことができました。

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笹百合(ささゆり)

 古事記のお話。

 大物主大神の娘、伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)は、三輪の里の狭井川のほとりに住んでいました。狭井川の両岸には美しい佐葦(ササユリの古名)が咲いていたので、狭井川は佐葦川とも呼ばれていました。ある日、神武天皇はお供の少女達とササユリの花を摘んでいた伊須気余理比売命に出会い、その清楚な美しさに惹かれて彼女の家で一夜を過ごし、彼女を皇后に迎えました。
 伊須気余理比売命が宮に参内する時、神武天皇は歌を詠んで迎えました。
「葦原の 穢しき(けしき)小屋に 菅畳 いや清(さや)敷きて 我がふたり寝し」

 この歌は、畳が文献に出た最初だそうです。
 日本書紀では、伊須気余理比売命は五十鈴姫命(いすずひめのみこと)となっています。

 大神(おおみわ)神社の摂社、率川(いさかわ)神社(奈良県)には、玉櫛姫命(御母神)、五十鈴姫命(御子神)、狭井大神(御父神)がまつられています。率川神社で行われる三枝祭(さいくさまつり)は、大神神社の御神体である三輪山に自生するササユリの花を神前に捧げ、4人の巫女がササユリを持って舞を奉納します。この祭は、大宝元年(701年)制定の大宝律令に国家行事として定められています。ササユリが薬草であることから疫病除けのお祭とされています。三枝の名は、ササユリの古名の佐韋(さい)にちなむとされ、三枝祭は「ゆりまつり」とも呼ばれています。供えられたササユリの花は厄病除けとして参拝者に授けられます。


 秦寛博著「花の神話Truth In Fantasy 65」(新紀元社)より引用。

 ”わが国の大和(奈良県)の伝説にも、ユリが赤く染まったという話があります。
 南北朝時代、南朝の後醍醐天皇は、山城(現在の京都府)の笠置山に仮の宮を置き、北朝方と対峙しました。しかし戦局芳しからず、見方の名将・楠正成(くすのきまさしげ)が守る河内(現在の大阪府南東部)の赤坂城に落ちることになりました。
 敵に見つからぬよう、夜中に農夫の姿をして落ち延びていく後醍醐天皇一行。風雨も激しくなり、あたりは暗く、足元すらおぼつきません。いつしかひとり、またひとりとはぐれ、ついには手を引く者だけになってしまいました。
 仮にも天皇ともあろうものが、みすぼらしい姿であてどなく彷徨う姿は、あまりに痛々しいものです。その時、笠置山に生えていた白ユリの花が一斉に紅く染まって道を照らし出し、後醍醐天皇の道行きを助けました。これ以降、笠置山のユリはみな、赤みを帯びたササユリになったといいます。”


 花物語には、百合(ゆり)の項目もあります。


花言葉は、希少・めずらしい・清浄・上品

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山茶花(さざんか)

 サザンカCamellia sasanquaはツバキ科カメリア(ツバキ)属の常緑高木です。


 「古今要覧稿」のお話。

 大隈国(宮崎県)都城(みやこのじょう)地方では、家ごとに山茶花の樹を5、60本、あるいは7、80本植え、その若芽を摘んで製茶して常用していました。その香気は普通のお茶よりも勝っており、若い娘が神様に詣でる時など、まるぐけの帯を結んで、手拭いをかぶり、このお茶を包んだものを香袋の代わりに用いました。そのお茶から生ずる香りは非常に上品で、優れた香気ならではのならわしです。


 サザンカといえば童謡「たき火」を思い出す方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 垣根の、垣根の、曲がり角、たき火だ、たき火だ、落ち葉たき。
 あたろうか、あたろうよ。 北風ぴいぷう吹いている。

 さざんか、さざんか、咲いた道、たき火だ、たき火だ、落ち葉たき。
 あたろうか、あたろうよ。 しもやけお手々がもうかゆい。

 木枯らし、木枯らし、寒い道、たき火だ、たき火だ、落ち葉たき。
 あたろうか、あたろうよ。 相談しながら歩いてく。


   霜を掃き 山茶花を掃くばかりかな    高浜虚子

   山茶花の 花や葉の上に 散り映えり   高浜虚子

   山茶花の ここを書斎と 定めたり    正岡子規


花言葉は、清雅、ひかえめな心・ひたむきな愛・謙譲・愛嬌・理想の恋・謙遜

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沙棘(サジー)

 サジーHippophae rhamnoides L.はグミ科ヒッポファエ属の落葉潅木です。
 漢名は沙棘、英名はシーバックソーンSea-Buckthornです。
 中国やチベットの高山・砂漠地帯などの厳しい環境(降水量が少なく、夏は30℃以上、冬は氷点下30℃以下)下で生育しています。
 実の色からゴールデンベリーとも呼ばれ、漢方薬として利用されてきました。

 サジーの学名にあるHippophaeは「輝いた馬」を意味しています。
 古代ギリシャで、病弱な馬や弱った馬をサジーの林に捨てたところ、以前よりも元気になり、毛並みや艶がよくなって輝きだした、という伝説から名付けられたそうです。

 モンゴル帝国を築いたチンギス・ハンはサジーの漢方薬を愛飲し、騎兵を連れて遠征する時にはサジーの葉と実を馬にも与えたそうです。

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五月・皐月・杜鵑花(さつき)

 旧暦の5月に咲くことから「五月」や「皐月」と書かれます。
 また、唐の詩人の白楽天の文集に「杜鵑(ほととぎす)が血を吐いて鳴く頃にサツキの花は盛んに咲く。花の色が血で染めたように見えるので杜鵑花という。」という記述があることから、杜鵑花(とけんか)とも書かれます。


 「佐津岐姫伝説」(山梨県南巨摩郡富沢町)。

 南北朝時代、戦で死んだ南朝の武将、吉野三郎の娘の佐津岐姫は南朝再興の募兵のために6人の家臣に守られて駿河から富士川づたいに甲州・万沢村に入りました。佐津岐姫は万沢村横沢で休息し、その時に持っていたサツキの枝を池のほとりに挿しました。その夜、再興の望みがないと悟った佐津岐姫は家臣達の将来を心配して池に身を投げました。
 翌年の春以降、佐津岐姫が身を投げた辺りの川岸に美しいサツキの花が咲くようになりました。人々は佐津岐姫の形見の花だと思いました。6人の家臣達は池を下った福士川のそばに定住したそうです。

 富沢町では「佐津岐姫伝説」と町の花サツキをテーマに6月1日にさつき祭りを行っています。


 中国の伝説(飯倉照平著「中国の花物語」(集英社新書)より引用)。

 ”中国の中部にある四川盆地は、西方のチベット高原から流れくだる水が何本もの川となって貫流し、やがて長江へと落ちていきます。この水の管理が、支配者の必須の条件でした。
 四川盆地は、成都中心の蜀(しょく)と長慶中心の巴(は)の二つの地方に分かれています。紀元前七世紀ごろ、この蜀(現在の四川省)の地に杜宇(とう)という王が天からくだり、のちに望帝(ぼうてい)と名乗り、百歳を過ぎるまで生きました。そのころ、東の荊(けい。現在の湖北省)の地方からべつ霊という治水にくわしい人物がやってきます。そして山を切り開いて水路を作り、洪水をおさめる仕事に取りかかります。望帝は、その留守にべつ霊の妻と通じますが、やがて自分のやったことを恥じて、有能なべつ霊に帝位を譲り、山中に隠棲します。
 その後、杜宇(望帝)は苦悩のすえに死んで杜鵑(中国ではホトトギス科の鳥の総称)の鳥に生まれ変わり、昼も夜も悲しい声で鳴きつづけることになりました。のちには、あまり激しく鳴きつづけたので、のどから血が出た、というすじだてが加わります。
 (中略)
 近年に語られている成都地方の杜宇の民話では、杜鵑の吐いた血が地上に落ちて、そこから赤い花が咲き、杜鵑花と呼ばれたとされています。”


 ツツジとサツキの違い。

 どちらもツツジ科ツツジ属に属しますが、開花期が1ヶ月ほど違います。ツツジは4月頃、サツキは5月頃(旧暦)に咲きます。江戸時代の園芸書に「春咲く類をツツジといい、初夏より咲くのをサツキという。」とあるように季節感の違いから区別されてきました。
 他にも、ツツジは花後に新芽が出、サツキは新芽の後に花が咲くという分類もあります。


 花物語には、躑躅(つつじ)の項目もあります。


花言葉は、節制

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甘藷・薩摩芋(さつまいも)

 向雲寺(越智郡上浦町大字瀬戸)の甘藷地蔵(いもじぞう)のお話。

 下見吉十郎(あさみきちじゅうろう)は大三島瀬戸村生れの農民でした。吉十郎は四人の子供を相次いで病気で亡くし、幼い霊を慰めるために六部行者(ろくぶぎょうじゃ)となって諸国行脚の旅に出ました。
 正徳元年(1711年)、吉十郎は薩摩国日置(ひおき)郡伊集院村(現在の鹿児島県伊集院町)の仏の土兵衛さんと呼ばれる情け深い農民の家に泊めてもらいました。そこで吉十郎は初めて甘藷を食べました。土兵衛さんの話によると、甘藷は中国伝来の作物で、水をほとんどやらなくても育つので旱魃(かんばつ)で米や麦の採れない年でも飢餓に苦しむことがないということでした。吉十郎は故郷の大三島の農民達が飢餓に苦しまないように種を分けてほしいと頼みましたが、薩摩国の掟で固く禁じられていたので土兵衛さんは断るしかありませんでした。そこで、吉十郎はいつも背負っている阿弥陀様の像の下に生の甘藷を隠して関所を抜けて大三島に戻りました。
 吉十郎は種いもを土に埋めました。やがて、芽が出て蔓が伸び、葉が茂りました。しかし、花も咲かないし、実もならないので、近所の人々は吉十郎の悪口を言いました。吉十郎も期待した実がならないのでがっかりし、悔し紛れに甘藷の葉をつかんで引き抜こうとしました。すると、土の中から甘藷がたくさん出てきました。
 その後、吉十郎の種いもは瀬戸内一帯に広まり、その辺りでは享保の飢饉の時にも甘藷のおかげで餓死者はほとんど出ませんでした。
 吉十郎が亡くなると、島の人々は吉十郎の墓のある寺に甘藷を抱いた甘藷地蔵としてまつり、毎年、命日の旧暦九月一日に供養祭を行うようになりました。また、甘藷地蔵は付近の島々にもつくられました。


花言葉は、慈愛

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里芋(さといも)

 「芋くらべ祭の伝説」(滋賀県蒲生(がもう)郡日野町)。

 国指定重要無形民俗文化財である日野町の芋くらべ祭の由来伝説です。芋くらべ祭は、近江中山の集落の東西で里芋の長さを競って作占いをします。、西が勝てば豊作、東が勝てば不作だそうです。

 昔、鈴鹿山に「だだぼし」という名の大男がいました。だだぼしは身体は山のように大きかったけれど、とても優しい心を持っていました。だだぼしは山の中で一人きりなのが寂しく、里の人々と遊びたいと思って時々「おーい」と里に向って声をかけました。しかし、里の人々はだだぼしの声を雷だと思い、「雷ばかり鳴るのに雨が降らない」と雨乞いをするばかりでした。
 そこで、だだぼしは里人のために田に水を引くための池をつくってあげることにしました。だだぼしは巨大なずいき(里芋の茎)で天秤棒をつくり、太い藤蔓でもっこ(もちこ(持籠)の転。縄を網のように四角に編み、石や土を入れて四隅をまとめるようにしてかついで運ぶ道具)を編みました。だだぼしは夜しか力が出ないので、夜になると山を下りて土を掘り始めました。そして、その土をもっこに入れて駿河の国(現静岡県)に運んで捨て、何度も近江の国(現滋賀県)と駿河の国と往復しました。しかし、最後の土を運ぼうとした時に天秤棒が折れてしまいました。もう夜が明けそうだったのでだだぼしは「天秤棒にする大きなずいきをください」と叫びましたが、村人達はだだぼしが鬼のように見えて怖かったので誰も家から出ませんでした。だだぼしは仕方なく立ち去りました。
 翌朝、村人達はだだぼしが池をつくってくれたことに気付き、ずいきをあげなかったことを後悔しました。それ以来、村人達は毎年この季節になると太くて長いずいきを持ち寄って比べるようになりました。
 だだぼしが掘った池は現在の琵琶湖です。そして、だだぼしが駿河の国に盛り上げた土は富士山になりました。


 「花咲(はなさく)の伝説」(群馬県利根郡)

 昔、尾瀬大納言藤原頼国(よりくに)は京の都で天皇に仕えていました。しかし、頼国を妬む者の策略で無実の罪で捕われそうになったため、頼国は妻の保多賀(ほたか)御前を残してわずかな家来を連れて北方へ都落ちの旅に出ました。頼国は四方を森や山や沼に囲まれた人の来ない土地を見つけ、底に館を築きました。家来達は猟だけの暮らしがいやになり、里人からは「悪勢(おぜ)の盗賊」と呼ばれ、恐れられるようになりましたが、頼国は都や妻を思うばかりで、家来達の悪行をまったく知りませんでした。
 保多賀御前は夫の頼国の無実が証明されると夫を捜しに旅に出ました。しかし、頼国の住む近くの村で、頼国が悪勢の盗賊の頭領になっていることを知り、償いのために村人に文字を教え始めました。
 頼国は妻が近くに来ていることを知り、館へ連れて行こうとしましたが、盗賊の頭領である夫から逃げ出そうとした保多賀御前は、里芋畑で葉に足をすべらせて転び、胡麻の茎で目をついてしまいました。頼国と村人達は一生懸命に看病しましたが、御前は目の傷がもとで死んでしまいました。それ以来、この地方では里芋と胡麻はつくられなくなりました。
 頼国は村に留まり、家来達が悪事を働かないように戒めました。やがて、それを喜ぶかのように御前の墓石に牡丹の花が咲きました。村人達は御前の墓石を祀り、その辺りを花咲と名付けました。また、頼国の館の辺りを尾瀬と呼ぶようになりました。

 別の伝説では、御前が花咲にある石に咲く花を見に来て、芋がらで足をすべらせて、胡麻の茎で目をついたために、この地方では里芋と胡麻をつくらなくなった、となっています。


 「海の始まり」
 (ダイクストラ好子編訳「ポリネシア・メラネシアのむかし話」(偕成社)より要約)

 まだ世界に海がなかった頃のお話です。
 一人のお婆さんが二人の孫の少年達と一緒に住んでいました。家の裏手には葦でつくった囲いがありましたが、お婆さんは少年達に囲いの中に入らないようにいつも言い聞かせていました。囲いの中には大きな里芋の葉が一枚あり、お婆さんはその里芋の葉で水をつくっていました。
 ある日、お婆さんは畑に出かけました。すると、弓でトカゲをうって遊んでいた少年達は囲いの中を見たくなり、入っていきました。中には里芋の葉しかなかったので二人はがっかりしましたが、里芋の葉にトカゲがとまっているのを見つけ、すかさず矢を放ちました。その矢は外れ、里芋の葉に穴をあけました。すると、葉の中から水がものすごい音をたててどんどん出てきました。
 畑にいたお婆さんが音に気付いて「世界中に注げ」と叫ぶと、水は家も畑も飲み込み、全世界に広がり、世界の海ができあがりました。お婆さんと二人の孫が住んでいた場所は今のレパース島だということです。
 (このお話の里芋はタロだと思われます。)


 「豊後国風土記」のお話(豊国(豊前と豊後の古名)の名の由来)。

 景行天皇の時代、菟名手(うなで)という人物に豊国を治めさせました。菟名手が豊前国仲津郡(現在の大分県中津市)の中臣(なかとみ)村に到った時、日が暮れたので泊まりました。すると、明朝の曙時、北から白い鳥が飛んできて集いました。白い鳥は餅に変り、しばらくすると、さらに里芋数千株に変りました。菟名手はそのことを天皇に報告し、芋を献上しました。天皇は大いに喜び、「天(あめ)の瑞物(しるしもの)、地(つち)の豊草(とよくさ)です。汝が治める国は、豊国と呼びなさい。」とおっしゃいました。そして、菟名手は豊国直(とよくにのあたい)という姓(かばね)を賜りました。これが豊国の名前の由来です。この豊国が後に豊前と豊後に分かれました。


「花物語」には、胡麻(ごま)・牡丹(ぼたん)・タロの項目もあります。

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砂糖黍(さとうきび)

 パプアニューギニアのサトウキビの起源伝説。

 ある村に釣りの好きな少女がいました。ある日、少女が海で釣りをしていると大蛇が針にかかり、少女は大蛇に海に引きずり込まれて捕まってしまいました。大蛇は、少女を迎えに来た両親に「娘と結婚したい」と言いました。両親が仕方なく承諾すると大蛇は「三日後に迎えに来る」と言って去っていきました。話を聞いた村人達は相談して大蛇を殺すことにしました。三日後、結婚式のためにやってきた大蛇の身体には黄色い土と粘土が塗りつけられ、赤と白に塗り分けられていました。村の戦士が大蛇を槍で突き殺し、村人達はそれをバラバラに切り刻んで少女の家のそばに埋めました。

 やがて、大蛇を埋めたところから見たことのない植物が生えてきました。その植物は大人の身長よりも大きく生長し、その茎には赤と白の筋がありました。ある時、その茎を噛んだ村の子供が「甘くて美味しい」と言ったので、その植物が栽培されるようになりました。このようにして、この地域では赤と白の筋の入ったサトウキビが採れるようになりました。


 インドネシアの民話「修験者ウィシュナとトリシャンク王」。

 昔、強大なトリシャンク王国を治めているとても慈悲深い王様がいました。王様は信心深く、朝夕、自分の死後に天上のインドラ・ロカル(天国?)に行けるように祈りました。
 ある日、王様は生きることに飽きて、すぐに天上へ行きたいと望みました。天からの声が聞こえてきました。「あなたは天上で生きることができるでしょう。でも今ではありません」
 失望した王様は王宮を出て森に入り、夜になっても王宮へ戻ろうとしませんでした。森の洞穴に住む修験者のウィシュナ・ミトリが王が森にいる理由を尋ねました。王はバタラ・インドラが自分をすぐに天上に招いてくれないことを嘆きました。ウィシュナ・ミトリは言いました。「神が望みをかなえてくれなくても、あなたは地上を天上のようにすることができます」
 翌朝、ウィシュナ・ミトリは王様を森の中の変わった植物の生えている場所へ案内しました。その中にイララン(カヤ?)に似た植物がありました。王様が「何故イラランが他の植物の中に生えているのか」と尋ねると、ウィシュナ・ミトリは答えました。「イラランの茎は地中の蜜を吸っています。イラランの蜜は天国の蜜と同じ甘さです。蜜蜂が花の蜜を吸うようにして飲んでください。この植物は、あなたが地上で幸福になれるように神が与えられたものです。」
 やがて王様は死期を悟り、蜜のある木がウィシュナ・ミトリの希望で神が自分に与えてくれたものだということに気付きました。王様は王子達を森に招いて言いました。「この木はウィシュナ・ミトリの願いによって神が授けてくれたものです。私が天国へ召されたら、お前達の農園に植えなさい。」
 王様が亡くなると、蜜のある木以外の植物は一斉に姿を消しましたが、蜜のある木だけは残り、日増しに数が増えていきました。王子達は蜜のある木を農園に植えました。蜜の木はさらに増えたので、村人達も植えるようになりました。蜜の木は「トゥブ(さとうきび)」と呼ばれるようになり、今も人々に好まれています。


 キューバの民話。

 サトウキビの収穫時期に人手不足に悩む大農園の監督は、仕事を求めてやってきた自由な身分になったばかりの黒人の男を雇いました。ところが、他の男たちが一生懸命働いているのに、彼は仕事を始めようとしませんでした。監督がみかねて注意すると、男はにっこり笑って立ち上がりました。すると、一瞬のうちに畑はきれいに刈り取られて、サトウキビが整然と並べられていました。男は日当を受け取ると次の仕事を求めて旅立っていきました。

 サトウキビ畑で働く黒人奴隷の中には、アフリカからきた聖霊といつも行動を共にしている者がいたそうです。その男は、小人の姿をした聖霊に「どこを刈ろうか?」と尋ねられた時に、自分の任されていた区域を指して「あそこを頼む。」と答えるだけで、すぐにサトウキビの刈り取りがすんでしまうのでした。


 フィリピンの民話。

 ある日、イカワヤンという娘が田に行く途中で蛇が現れて、「結婚しろ。しないとお前を食べるぞ。」と言いました。父親は斧で叩ききろうとしましたが、蛇が「もし俺を殺したら、仲間がお前を殺すぞ。」と言ったのであきらめました。イカワヤンは蛇を無視しましたが、妹のキワダは蛇をやさしくもてなしてやりました。蛇が皮を脱ぐとハンサムな若者が出てきました。若者はドゥリヤウと名乗り、キワダと結婚しました。
 イカワヤンは悔しく思い、妹の出産を手伝うふりをして妹の男の赤ん坊をを森へ捨て、妹が子猫を生んだことにしました。イカワヤンはそれを3回繰り返したので、ドゥリヤウとキワダの手元には3人の男の子のかわりに3匹の子猫がいました。

 男の子達は皆、イカワヤンが赤ん坊を捨てるのを見ていたマグサリパに拾われて大切に育てられました。男の子達はサトウキビが大好きで、毎晩サトウキビを盗みに大きな畑に行きました。その畑はドゥリヤウのものでした。ドゥリヤウがサトウキビ泥棒達を捕まえてなぐろうとすると、マグサリパが現れて「サトウキビを分けてやりたくないから自分の子を捨てたのね。」と非難しました。驚いたドゥリヤウはマグサリパから話を聞いて、サトウキビ泥棒が自分の子供たちであることを知り、家につれて帰りました。
 キワダは喜んで、3人に子猫を1匹ずつ与えました。
 イカワヤンはまた悔しい思いをすることになりました。


 フィリピンの別の民話。

 あるお金持ちが、自分の大きなサトウキビ畑のサトウキビが毎晩盗まれて減っていくのに気付きました。彼はサトウキビ畑を見張ってサトウキビ泥棒を捕まえようとしましたが、泥棒は3人いて、そのうちの1人しか捕まえられませんでした。その1人は彼の手の中で星になってしまいました。
 彼が星を家に持ちかえると、星が美しい女になったので二人は結婚しました。二人の間には4人の子供達が生まれました。しかし妻は羽を縫いあげて、上の子供2人とともに空に飛び立ってしまいました。母親と上の2人の子供達は空から地上を見下ろし、父親と下の2人の子供達は地上でサトウキビを食べ、それぞれの生活を楽しむようになりました。


 インドネシア・スラウェン島のメルヒェン「フクロウになった王女」
 (小澤俊夫編訳「世界のメルヒェン図書館12」(ぎょうせい)より要約)

 昔、天上と地上に王国がありました。天の王国は平和で豊かな国でした。天の王国の王様には3人の王子がいましたが、王女が生まれることを願っていました。地上の王国の王様は、天の王国に王女が生まて大人になったら、王女を奪って自分の妃にし、天の王国を滅ぼしてやろうとたくらんでいました。
 ある日、賢者が予言しました。「王様は一人の王女様に恵まれますが、成長された王女様のために、この天の王国は地上の王国の王様に滅ぼされるでしょう。」
 やがて、天の王国に王女が生まれました。天の王国の王様は王女をとてもかわりがりました。天の王国の王様は、たとえ天の王国が滅ぼされても王女だけは助かるようにと、王女と乳母を月の宮殿へ送りました。その後、予言どおり、天の国は地の国の王様によって滅ぼされてしまいました。乳母と二人きりで月に残された王女は、天の王国での幸福な日々を思い出して、悲しみに沈む日々をおくっていました。
 ある日、地上を見下ろしていた王女は、美しい花を見つけ、その花を手に入れるために地上におりました。ところが、それは花ではなく、動物を捕るための餌として置かれたサトウキビのかけらでした。王女はがっかりして、すぐに月に飛んで帰ろうとしました。天の王国の住人は羽を持っていましたから。でも、王女の羽は思うように動いてくれませんでした。王女は高い木にのぼり、何度も天に戻ろうと羽ばたいていましたが、そのうちに、王女はフクロウになってしまいました。満月の晩にフクロウが鳴くのは、月にいる乳母のところに帰りたいからです。
 一方、月にいる乳母はワリンギンの大木の下に座って王女を待ち続けました。それで、満月の晩には、ワリンギンの木と、その根元に座っている人間の姿が月の中に見えるのです。

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サフラン

 西欧の伝説。

 秋の夕暮れ時、花の女神フローラは、湖水のほとりの牧場に座って体を休めていました。フローラが一人物想いにふけっていると、突然、足の下のあたりから牧場のニンフが現れました。牧場のニンフは、驚くフローラの前にひざまずいて、「女神様、秋の草花に名残りを惜しみに来る子羊達が、昼寝をする時に安らかに夢をみることができるように敷物を与えてやってくださいませ。」と、お願いするのでした。フローラは、子羊達のために哀願するニンフの願いを聞き入れてやりました。フローラが秋の最後の花として咲かせた花がサフランでした。

 この話から、花言葉「残された楽しみ」ができたようです。


 イラクの民話。

 昔、バグダッドの都に住んでいた裕福な商人は、街角に捨てられていた赤ん坊を養子にして大切に育てました。養子は賢く美しく信心深い娘に育ち、王様の妃に迎えられました。王様は妃に高価な首飾りを渡し、大切にするように言いました。ところが、ある日、乞食が妃に「預言者ムハンマドMuhammadのお情けにかわってお恵みを」と言ったので、妃は王様からもらった首飾りを与えてしまいました。王様は怒って妃の両手を切り落とし、親元へ返しました。
 一方、乞食は首飾りを売ったお金を元手にして商売を始め、大商人になりました。ある日、商人は、「決して人に会わず、よその国の人となら結婚してもよい」という変った娘の噂を聞き、結婚を申し込み、娘を妻に迎えて故郷に旅立ちました。その妻は、王に両手を切り落とされた妃でした。妻は夫の故郷に着く前日、妻は、夫に手を使う用事を命じられたらどうしようかと思い悩み、泣きました。そして、「神様、預言者ムハマンドのために手を差し上げた私をお救い下さい。」と祈りました。すると、緑色のターバンを巻いたムハマンド老人が現われ、女の両手を元通りにしました。そして、ムハンマドが女の頭に手をあてがうと、指の触れたところから一面にサフランの花が咲き出しました。
 商人の故郷に着いて数日後、商人はよく肥ったガチョウ2羽を妻に渡し、客に出すご馳走を作らせました。妻はムハンマドが出してくれたサフランで料理に香りをつけました。ところが、戸口に来た乞食が「預言者ムハンマドのお情けにかわって施しを」と言ったので、妻はご馳走をすべて乞食に与えてしまいました。商人は妻を叱りました。すると妻は、「私は預言者のお情けと言われた時、ガチョウよりはるかに高価な首飾りを与えたこともあります。」と言いました。商人は、その首飾りをもらった乞食が自分であることに気付き、妻に詫びました。その時、戸口の乞食が言いました。
「あなたの手を切ったのは私です。私はかつてあなたの夫でした。」
 戸口の乞食はかつての王様でした。商人夫婦は乞食を迎え入れ、一生世話をしてあげました。


 イギリスに伝えられたサフランのお話。
 (麓次郎著「季節の花事典」(八坂書房)より引用)

 ”サフランをイギリスに伝えたのは古代ローマ人であるが、それがやがて絶滅した。そして十四世紀の再輸入には次のような逸話がある。「あるイギリスの巡礼が予(あらかじ)めくりぬいた穴のある巡礼杖をもって聖地パレスチナに行き、一個のサフラン球根を杖穴にかくし入れ、命がけで故郷のサフロン・ウォルドン(Saffron Walden)に持ち帰った。彼はこの一球から殖やし、遂にこの町をサフランの有名な栽培地にした。一五四九年にその功績により認められたこの町の紋章には三輪のサフランの花が描かれている」とある。”


 サフランは、江戸時代の末期、オランダ船によってもたらされ、平賀源内によって薬として紹介されました。

 サフランには、酒の酔いをさまし悪酔いを防ぐ効果があると信じられ、酒飲み達のお守りにされていたそうです。しかし、過度に用いると、この花そのものが人を興奮させ、笑い出したり騒ぎ出したりさせてしまうそうです。
 そのために花言葉に「歓喜」「濫用するな」ができたようです。


 クレオパトラの化粧品に使われていたという話もあります。


 サフランの赤い雌しべ(花柱枝)は、地中海料理のパエリアやフイヤベースには、欠かせない材料となっています。


 車の「サフラン」は、ルノーのフラッグシップモデルでフランスではVIPの公用車だそうです。


 春咲きのものを園芸上ではクロッカスといいます。


サフランの花言葉は、楽しみ・過度の警戒・残された楽しみ・陽気・喜び・歓喜・濫用するな・ひかえめな美・青春の喜び・節度の美・節度の愛です。

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仙人掌・覇王樹(サボテン)

 メキシコの国旗に描かれたサボテンの伝説。

 先住の地「アストラン」を離れたアステカ人は、永住の地を求めて旅を続けました。神託によると、永住の地は「サボテンの上でワシが羽を休めているところ」でした。それが「テノチティトラン」であり、現在のメキシコ市の場所とされています。

 この伝説にちなんで、メキシコの国旗は「蛇をくわえたワシがウチワサボテンの上に止まっている」図柄になりました。


 ナワ族の伝説「メキシコ市の建設」
 (松村武雄編「マヤ・インカ神話伝説集」(現代教養文庫)より要約)

 テスクコ湖の西岸近くに島があります。ある時、アステカ族の僧侶が戦争で生け捕りにしたコパルという乙女をその島の岩石の上で殺して神への供物にしました。
 それから数年後、その岩石の割れ目から生えた1本のサボテンの上に、大鷲が鋭い爪に長い蛇を掴んでとまっていました。その様子を見たアステカ人から話を聞いた高貴な僧侶は、トラロク神に水底に呼ばれ、テスクコ湖のそばにアステカ族の都を造るように言われました。僧侶は池からあがると人々を集めてトラロク神の伝言を伝え、テスクコ湖のそばに都を造りました。それがメキシコ市です。


 ブルーレ・スー族の部族起源神話よりペヨーテPeyoteのお話。
 (ヴィジュアル神話百科アメリカ編より要約&追加)

 ペヨーテ・サボテンLophophora williamsiiは幻覚剤を含むサボテンで、ネイティブ・アメリカン教会では神聖なるものとしてとり扱われています。日本では烏羽玉(うばたま)として売られています。

 コマンチ族が命にかかわる病に苦しんでいた時、一人の老女が部族の人々を救う薬草を見つける夢をみました。老女は孫娘を連れて薬草を見つけるために荒野に赴きました。
 二人が疲労と空腹でうずくまっていると、巨大な鷲が飛んでいくのが見えたので、老女は鷲に知恵と力を与えてくれるように祈りました。すると、精霊が空中に現れ、老女にペヨーテを示しました。二人はペヨーテの果汁を飲み、心身ともに元気になったことに気付きました。翌日、老女が部族の人々を救う方法を尋ねると、精霊は二人に聖なる薬草を食べ、薬草に祈るように言いました。次の日、精霊は二人にペヨーテの蕾を集めさせてから村へ戻らせました。二人は村の男達に薬草の使い方と儀式の行い方を教え、病を克服することができました。そして、ペヨーテの効力と儀式の噂は大陸中に広まりました。


 ボリビアの「ウチワサボテンの伝説」。

 インカ帝国11代皇帝、ワイナ・カパックは勇敢な戦士であり、忠実な指揮官でもあるチュンタ・ワチョをクスコの宮殿に呼び出し、東部山脈の洞窟に棲む大蛇を退治するように命じました。その大蛇はアロマと呼ばれており、クスコの中央広場を取り巻くほど大きく、東部山脈付近の住民が次々と犠牲になっていました。
 チュンタ・ワチョは武装した遠征隊を率いてアロマの住む場所の近くへ行き、砦を築きました。そして兵士達を招集し、自分が戻ってくるまで砦で待機するように命じ、30人の精鋭を連れてアロマのいる洞窟へ向いました。しかし、チュンタ・ワチョ達はアロマに催眠術をかけられ、囚われてしまいました。アロマは毎日一人ずつ兵士を食べ、とうとう残っているのはチュンタ・ワチョ一人になってしまいました。その夜、月光が洞窟に差し込んだので、チュンタ・ワチョは抜け道に気付き、険しい崖を滑り降りて高原に出ることができました。
 しかし、身を隠すもののない平原だったので、アロマはすぐにチュンタ・ワチョを見つけて追いつき、食いつこうとしました。チュンタ・ワチョを哀れに思った最高神ウィラコチャは、神パチャニウルニを遣わし、彼の身体を鋭い棘で覆われた巨大な葉を持つ植物に変えさせました。アロマはその植物の上で転がったので、お腹が破れて中から食べられた30人の兵士達の髑髏(どくろ)が出てきました。髑髏が地面に触れた瞬間、彼らは大地の女神パチャママの慈悲で人間の姿に戻ることができました。彼らは砦に戻りましたが、砦で指揮官を待ち続けた兵士達は全員餓死しており、砦は壊滅していました。
 チュンタ・ワチョが姿を変えた巨大な植物は巨大な花を咲かせて種をつけました。風神ワイラ・タタがその種をインカ領内に運び入れると、種は芽を出し、同じ色形でずっと小さい植物が育ちました。それがウチワサボテンで、人々にトゥナTunaと名付けられた美味しい果実を与えてくれるようになりました。


 ペルーの民話「サボテンとキツネ」

 昔、石ころだらけの丘の麓にサボテンが茂っていました。そのころのサボテンには、まだとげがついていなかったので、丘を通る動物達はサボテンの葉をかんで中の汁でのどを潤していました。サボテンは噛まれるたびに痛い思いをしていたので何とかして身を守りたいと思っていました。
 ある日、キツネと大きな石が競争しながら丘の頂上から駆け下りてくるのが見えました。負けそうになったキツネは、「サボテンのおじさん、お願いがあるんだ、その石を捕まえておいてほしいんだ。」と言いました。サボテンが石を捕まえている間にキツネはゴールして競争に勝ちました。
 キツネはお礼に自分の爪をサボテンに分けてあげました。それからサボテンの葉にはキツネの爪のようなとげが生えるようになりました。そして、サボテンとキツネは友情を深めました。


 ルーサー・バーバンクの伝記「トゲなしサボテン」のお話。

 19世紀の終わり頃から20世紀にかけて活躍したアメリカの育種家のルーサー・バーバンクは、ピューマが口を血だらけにしながらサボテンを食べているのを見て、とげのないサボテンをつくろうと考えました。品種改良によって彼につくられたとげのないサボテンは、家畜の餌に使われ、他の植物の育たない砂漠でも家畜が飼えるようになりました。


 サボテンの名の由来にはいくつかの説がありますが、植物学者の牧野富太郎博士の説が有力視されています。昔、サボテンを石鹸(ポルトガル語でシャボンsabon)の代わりに使用したことから名付けられたそうです。


花言葉は、暖かい心・内気な乙女・秘めた熱意・燃える心

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朱欒(ザボン)

文旦(ぼんたん)

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晒菜升麻(さらしなしょうま)

 若葉を摘んで茹でて、水に晒して食用にしたので晒菜の名前がつきました。
 生薬の升麻は晒菜升麻の根茎です。

 名前に升麻とつく植物は複数ありますが、晒菜升麻・犬(いぬ)升麻・大葉(おおば)升麻・蓮華(れんげ)升麻・類葉(るいよう)升麻はキンポウゲ科、赤(あか)升麻・泡盛(あわもり)升麻・鳥足(とりあし)升麻はユキノシタ科、山吹(やまぶき)升麻はバラ科です。


 中国(朝鮮族)の民話。

 山間で一人の若い未亡人が乳児を育てていました。ある時、未亡人は熱毒症で床についてしまいました。そこへ旅の道士(道教の僧)が通りかかりました。道士はすぐに未亡人が熱毒症にかかっているとわかり、未亡人に薬を飲むように言いましたが、未亡人はお金がなくて食事も満足に食べられない状態でした。道士は未亡人親子を可哀想に思い、
「畔に生えている麻の種を煎じて飲みなさい。たくさん飲めばよくなります。」
と言って立ち去りました。
 未亡人は道士の教えてくれた野性の麻の種を煎じて何日か飲み続けましたが、よくなりません。未亡人は量が足りないのだと思い、麻の種を1升ほど煎じて一度に飲みました。すると、翌日には熱が引いて身体のだるさがとれました。
 その後、何人もの熱毒症の病人が同じ方法で治り、野性の麻に似た植物の種が薬であることがわかりました。その薬は「草子(草の種)」とか「麻種(麻の種)」とか呼ばれていましたが、病気を治すために1升も飲む必要があるので、未亡人の提案で升麻と呼ばれるようになりました。

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サラダ・バーネット

 サラダ・バーネットSanguisorba minor Scop.はバラ科ワレモコウ属(サングイソルバ属)の多年草です。

 属名は、ラテン語の「血sanguis」と「吸うsorbeo」に由来します。ワレモコウ属の植物が止血薬として用いられたこと由来するそうです。


 ココロ・カンパニー著「ハーブ・バイブル」(丸善メイツ)より引用。

 ”昔、戦場に向かう途中の戦士たちが、水や食料を補給するために静かで平和な村に立ち寄りました。村の人々は互いに争うことなくみんなが家族のように仲良く暮らしているのを見て、1人の兵士が家に残してきた病弱な妻と年老いた両親を思い出して戦いに行くのが嫌になってしまいます。そこで、こっそりと村はずれの山の麓に隠れ、一隊が出発するのをじっと待ちます。彼がエスケープしたのに気づいた隊長は部下に命じてその場で切り殺させ、一行は戦地へと向かいました。村人たちはすぐさまサラダバーネットを使って彼を蘇生させ、こっそり家に帰らせました。その時から緑の花に赤い小花が混じるようになったという伝説もあります。”


 「花物語」には、吾木香・吾亦紅・割帽額・地楡(われもこう) の項目もあります。


花言葉は、陽気

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沙羅樹(さらのき)

 サラノキShorea robusta(英名はSal-tree)はインド原産のフタバガキ科の落葉高木で、日本では越冬できません。日本で沙羅双樹と呼ばれている木はツバキ科のナツツバキ(英名はJapanese Stewartia, Deciduous Camellia)です。


 沙羅双樹の花の色のお話(麓次郎著「四季の花事典[増補改訂版]」より引用)。

 ”釈迦如来はクシナガラのヒラニヤヴァティ河畔に来た時、入滅を予知し、弟子のアーナンダに東西南北に二本ずつ生えている沙羅樹の間に、頭を北にした寝床を用意するように命じた。アーナンダは500人の力士を率いてその場所にいたり、早速命じられた寝床を造り、釈迦の足を拝してその場にかしこまりながら、とくに済度(さいど。衆生を苦海より救いだして常楽の彼岸へ渡すこと)ありたいと請うた。すると釈迦は満足そうに「おお、よく来た諸比丘(びく)よ」と言った。この一声に500人の力士は自然に髪や髭が抜け落ち、身には法衣を着用して立派な沙門となった。この時はまだこの樹の花の咲く季節ではなかったが、ここの沙羅双樹だけは上から下まで悉く(ことごとく)淡黄色の花でおおわれた。釈迦はこの満開の沙羅双樹の間にある寝床にあたかも獅子の伏すごとく横たわると、上からこの花が雨のごとく散り降り、天上からは臨終の聖者をあがめて天人が音楽を奏する中で、静観から禅定へ、最後に涅槃に入ったのである。この時、沙羅双樹は花が白色に変わり、かつ四方から枝を垂れて釈迦をおおい、やがて枯死したという。”


沙羅双樹の花言葉は、包容力
沙羅の花の花言葉は、はかない美しさ
夏椿の花言葉は、  愛らしさ

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サルオガセ

 サルオガセ科サルオガセ属の地衣類。
 広辞苑によると『猿麻ガセ(「ガセ」=「木へん」+峠のつくり部分)、樹皮に付着して懸垂する糸状の地衣。』


 クラーク博士のお話。

 「少年よ、大志をいだけ!」の言葉で有名なクラーク博士が札幌農学校(現在の北海道大学)の先生をしていた時のお話です。
 クラーク先生は学生達を連れて手稲山(ていねやま)へ珍しいライケン(地衣類)を探しにやってきました。先頭を歩いていたクラーク先生と学生の黒岩四方之進(よものしん)は途中で一人の少年に出会い、ライケンのある場所へ案内してもらいました。大きな立ち木の枝に3メートルほどの見事なライケンが垂れ下がっていましたが、クラーク先生と黒岩青年が背伸びをしてもライケンには届きませんでした。
 クラーク先生は雪の上に四つんばいになり、黒岩青年に上に乗ってライケンを採取するように言いました。しかし、黒岩青年の手はあと少しのところでライケンに届きませんでした。そこで、黒岩青年の提案でクラーク博士は少年を肩車してライケンを採取してもらいました。

 このライケンは日本名をミヤマサルオガセといい、北海道大学農学部に標本として保存されているそうです。(これが後に新種として認められる「セトラリア・クラーキー(日本ではクラークごけ)」かもしれませんが、調べきれませんでした。)

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百日紅(さるすべり)

 朝鮮の伝説。

 昔、朝鮮の海岸にある漁村では、水難を防ぐために村の娘を毎年一人ずつ竜神に生け贄を捧げる風習がありました。
 ある年、この村一番の金持ちの娘が竜神の生け贄に選ばれました。生け贄に選ばれた娘は泣きましたが、いくら金持ちでも村のおきてにそむくことは出来ませんでした。娘は仕方なく諦めて最後の化粧をすると、海岸に立って竜神の来るのをじっと待っていました。
 その時に、この国の王子が黄金の船に乗ってこの海岸のそばを通りかかりました。王子は美しい娘が一人で海岸に立っているのを見て不思議に思い、どうしてそこに立っているのかを尋ねました。娘から理由を聞いた王子は、美しい娘が生け贄にされるのは可哀想だと思いました。そこで、王子は娘のために竜神を退治しました。
 娘は、自分の命を救ってくれた王子に熱い思いを寄せ、二人は恋仲になりました。しかし王子には、王に命じられていた使命があったので、百日目に再会することを固く約束して旅立って行きました。
 娘は、再会の日を楽しみに待っていましたが、その日を前にして死んでしまいました。
 百日目の朝、使命を果し終えて娘の元に戻ってきた王子は、娘が死んだことを知って地に伏して慟哭しました。そして娘の遺体を弔って埋めました。そこに、いつのまにか一本の木が生えてきて、薄紅色の花が咲き続けました。これはきっと百日もの間王子を待ちわびた娘の化身に違いないと思い、人々は、この木を百日紅と呼ぶことにしました。


 奄美の昔話「スィデル(脱皮)する木」。
 (長田須磨著「奄美の生活とむかし話」(小峰書店)より引用)

 ”ギィス(人間)にスィデル水(脱皮水)をかけてこいと、天の神さまが子どものつかいをつかわされました。子どものつかいは、スィデル水をタンゴ(水桶)に入れて天びん棒でかついで下界におりていったのです。おりたところが、ちょうどサルスベリの木のところで、その木の根もとにつまずいてころんでしまいました。その子は、もともと足が悪かったのです。そして大切なスィデル水をその根もとにこぼしてしまったのです。そこで、サルスベリの根もとにいた蝶、蝉、ハブ類、カワズたちにかかってしまったのです。水をかけられた生きものはスィデルすることができましたが、水をかけられなかった人間は、スィデルしていつまでも生きていられたはずなのに、とうとう死ななければならないようになったんですって−−。

 スィデル水をそのときかけられていたら、人間も蝶のようにスィデルすることができたでしょうに。きっともっと美しい生きものになっていたかもしれません。サルスベリもそのときかけられた水のおかげで、木の皮がむけて若がえるようになったのでしょう。奄美の満月には、タンゴをかついだ子どもが見えるのです。あれはスィデル水をかついで下界におりてきた足の悪い子どものすがたです。人間にかけられなかったので、神さまのおしかりをうけて、いつまでもたたされているとのことです。”


 俳諧では、「怕痒樹(はくようじゅ)」「くすぐりの木」とともに夏の季語です。


花言葉は、雄弁

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山査子(さんざし)

 ギリシャ神話のお話。

 ゼウスが頭からアテナを生み出したのを見たヘラは、自分の能力を軽くみられたと思って怒りました。ヘラは、自分も夫の協力なしで子供をつくれることを示すために、サンザシの木に触れて軍神アレスを、レタスに触れて鍛治の神ヘパイストスを身ごもりました。


 中国の民話。

 昔、山の一軒家に夫婦と子供二人の一家が住んでいました。妻は後妻でした。長男は先妻の子、次男は後妻の産んだ子で、後妻は自分の子に家を継がせるために、長男が病気で死ぬことを望んでいました。
 夫が商いでしばらく家に戻らないことになりました。妻は毎日、長男に生煮えの御飯を炊いた弁当を持たせて畑の見張りをさせました。小さい子供が毎日生煮えの御飯を食べたため、胃の具合が悪くなり、長男は日毎にやせていきました。御飯が硬いと後妻に訴えても無視されるので、長男は山で泣きました。

 そのうち長男は野生のサンザシの赤い実を食べるようになりました。すると、胃の調子がよくなり、痛みもなくなって、硬い御飯も消化できるようになりました。後妻は、元気になった長男を見て、長男が神様に守られていると思い、継子いじめをやめました。
 商いから帰ってきた夫は、長男から留守中の出来事を聞きました。サンザシが胃腸によいことを知ると、夫はサンザシで丸薬をつくって売るようになりました。


サンザシ全般の花言葉は、唯一の恋
サンザシ(枝)の花言葉は、厳格・希望・慎重

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三色菫(さんしきすみれ)

パンジー(三色すみれ)

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三七人参(さんしちにんじん)

サンシチニンジンはウコギ科ニンジン属の植物で、漢方では貴重な生薬です。雲南白薬の主原料です。葉が高麗人参に似ており、収穫に3〜7年かかることから三七人参と呼ばれています。また、田七人参(デンシチニンジン)とも呼ばれています。以前は輸出に制限がかけられていて一部の特権階級の人々しか入手できませんでした。


 李時診著「本草綱目」のお話。

 三七は味は微甘で苦く人参の味に似ています。葉が左に4枚、右に3枚あることから名付けられたという人もいますが、おそらく違うでしょう。本名を山漆といい、それは漆が物を粘着するように傷を合わせることができることに由来します。『金不換(お金に換えられない)』と呼ばれるほど貴重な物です。


 昔、苗(ミャオ)族の人達は「山漆」という植物を発見し、その効能を知って愛飲していました。苗語では「山漆」も「三七」も「猜(CHEI)」と発音したため、次第に三七と呼ぶようになったそうです。


 中国の民話。

 昔、年取った一人の農夫が山奥に住んでいました。農夫は毎日野猿と遊んでいましたが、ある日、農作業の時に鎌で猿の足を傷付けてしまいました。猿はそのままどこかへ行ってしまいましたが、二日後に戻ってきました。不思議なことに猿の足の傷は治っていました。農夫はどうして傷が治ったのか知りたくなり、再び猿に傷をつけ、去って行く猿の後をつけました。すると、猿は草の根を掘って食べて傷を治しました。それが田七人参でした。
 (引田春海訳「中国の愛の民話I漢民族編」(叢文社)の『雲南の白薬の話』では、野猿ではなく飼い犬となっています。)


 中国の別の民話(江蘇省・浙江省)。

 昔、二人の仲のよい若者が兄弟の契りを結びました。
 ある時、弟分が病気になり、吐血・鼻血・血便・血尿で出血し、身体から血の気が引いていきました。兄はすぐに裏庭の薬草を掘って煎じて飲ませました。何回か飲むうちに弟の病気は治りました。その薬草は兄の先祖が代々伝えてきた薬草で血止めの効果がありました。弟はその薬草が欲しくなり、「私の病気は3年で再発するので、1本下さい。」と嘘を言って、クリーム色の小さな花を咲かせた薬草をもらって自分の家の裏庭に植えて育てました。
 一年後、弟の家の近くの金持ちの息子が出血性の病気に罹りました。金持ちは色々な薬を試させましたが効果がなかったので、「息子の病気を治してくれれば銀貨50両と米1俵を与える」と宣言しました。弟は裏庭の薬草を煎じて何回も病人に与えましたが、全く効果がなく、病人は死んでしまいました。お金持ちは弟を役所に訴え出ました。
 弟が薬草を兄からもらったことを話したので、役人は兄を役所に呼んで取り調べました。兄は言いました。
「あの薬草は私の家に代々伝わる薬草で血止めによく効きます。しかし、植えてから3年から7年の物でなければ効果がありません。あれは植えてから1年しかたっていないので効果がなかったのです。」
 弟は欲を出したことを悔やみました。
 人々はその薬草の効果のある期間を忘れないために、その薬草を三七と名付けました。

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山茱萸(さんしゅゆ)

 サンシュユCornus officinalisはミズキ科コルヌス(ミズキ)属の落葉小高木で、江戸時代に薬用植物として渡来しました。

 サンシュユという名前は中国名の「山茱萸」を音読みしたものです。 別名には、ハルコガネバナ(春黄金花),アキサンゴ(秋珊瑚)等があります。


 C・M・スキナー著、垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用。

 ”ギリシャの伝説によると、最初の西洋サンシュユ(コーネリアン・チェリーCornus mascula)は、ポリュメストルに殺されたポリュドロスの墓から生えてきた木であり、アエネアスが幹から枝を裂きとろうとすると血をしたたらせたという。”


 アポロドートス編・高津春繁訳「ギリシャ神話」(岩波文庫)より引用。

 ”アルゴス人たちが武具に身をかためて城壁に近づき七つの門に布置せられたが、『一方エテオククレースもまたテーバイ人を武装させ、同数の長をこれに対して布置し、敵に勝つ方法の予言を求めた。さてテーバイ人にはエウエーレースとニムフのカリクローとの子なる、スパルトスの後裔(Spartosは「播かれたる者」の意で、「竜の身より生じた者」を始祖とする一族)、ウーダイオス家に属する盲目の予言者テイレシアースがあった。彼の不具となった事情と予言の力に関しては、種々の説が行われている。ある者は彼が神神によって、彼らが人間に隠そうと欲するところを明かしたために盲いにされたといい、一方ペレキューデースはアテーナーによって盲いにされたという。というのは、カリクローはアテーナーと親しい間柄にあったが、(テイレシアースが女神と出会い)、彼は女神の全裸の姿を見た。女神は彼の眼を両手で蔽って片輪にした。カリクローが視力をまた元通りにするように頼んだが、これをなし得なかったので、彼の耳を清めて鳥のあらゆる鳴声を理解し得るようにし、それを持っていると目あきと同じに歩ける山茱萸(さんしゅゆ)の木の枝を彼に与えた。ヘーシオドスの言によれば、キュレーネー山中で蛇が交尾しているのを見、これを傷つけたところ、男から女になり、再び同じ蛇が交尾しているのを見て男となった、それゆえにヘーラーとゼウスとが女と男のどちらが性交に際しより大いなる快楽を感ずるかについて口論した時に、彼に決定を乞い、彼は性交の喜びを十とすれば、男と女との快楽は一対九であると言ったので、ヘーラーは彼を盲いとなしたが、ゼウスは彼に予言の述を与えたのであるという。”


     土佐みづき 山茱萸も咲きて 黄をきそふ  水原秋桜子

     山茱萸に けぶるや雨も 黄となんぬ    水原秋桜子


花言葉は、持続・耐久・気丈な愛

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山椒(さんしょう)

 「細谷地沼の主」(岩手郡滝沢村細谷地)

 昔は「毒もみ」と呼ばれる、魚には毒である物質を流して根こそぎ採るという漁法も行われていました。

 昔、滝沢の細谷地に、あまり大きくない谷地沼がありました。村の若者達は沼の近くで毒もみの原料をつくっていました。それは、山椒の皮を細かく刻んで天日で乾かして臼で引いて粉にしたものでした。それを袋に入れて水の中でもみだすと、辛い水がひろがって、沼の生き物が根こそぎ浮かび上がるのでした。
 そこへ墨染めの衣を着た僧が沼の方からやってきて、沼の生き物が全滅してしまうので細谷地沼に毒もみをしかけないように言いました。若者達は僧にお弁当のお赤飯をご馳走しましたが、僧が沼の方へ去って行ったあとで、早速沼に毒もみをしかけました。その日は豊漁で、中に1匹丸太のように太ったウナギが混じっていました。若者達はウナギを人数分に輪切りにしましたが、中から先程僧にあげたお赤飯がこぼれだしました。
「あの僧は沼の主が化けて…。」
恐ろしくなった若者達は家に逃げ帰り、それ以来、この土地では毒もみの風習がなくなりました。

 千葉県我孫子市の手賀沼にも同様の伝説があります。こちらの話では、僧が食べたのはお団子です。そして、毒もみをしかけた3人の男達は三日後に死んでしまいます。沼の近くの正泉寺に鰻塚があり、「鰻魚及一切水族乃霊」と刻まれているそうです。

 毒もみという漁法は明治時代になって法律で禁止されました。禁止されている漁法で魚を採って捕まった場合は書類送検となり、前科がつきます。


 民謡「稗搗(ひえつき)節」と平家落人伝説「鶴富姫恋物語」

 宮崎県東臼杵郡椎葉村に逃れて隠れ住んでいた平家の落人達を追って来た那須大八郎と平家の鶴富姫の悲恋伝説は、民謡「稗搗節」と共にTVの影響で全国的に有名になりました。

     庭の山椒の木鳴る鈴かけて
     鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
     鈴の鳴るときゃ何というて出ましょ
     駒に水くりょというて出ましょ

     和様平家の公達流れ
     おどま追討の那須の末よ
     那須の大八鶴富おいて
     椎葉立つときゃ目に涙よ

 壇ノ浦の戦いに敗れた平家の落人達は追っ手から逃れて山奥の椎葉でひっそりと暮らしていましたが、この隠れ里も源頼朝の知るところとなり、那須与一宗高に追討命令が下りました。しかし、この時病気だった与一の代わりに弟の大八郎宗久が椎葉へ向かいました。大八郎は隠れ里の平家の落人達を発見しましたが、静かに暮らす姿を見て追討をやめ、鎌倉幕府には討伐を済ませたと嘘の報告をしました。
 その後、大八郎は鎌倉へ戻らずに椎葉の地に屋敷を構えて留まり、平家の守り神である厳島神社を建てたり、彼らに農耕の方法を教えたりしました。やがて大八郎は平清盛の末裔の鶴富姫と恋に落ちました。民謡「稗搗節」にあるように、鶴富姫の屋敷の山椒の木に鈴をかけて、その音を合図にして二人は逢瀬を重ねました。
 しかし、そのことを知った頼朝は大八郎に鎌倉への帰還命令を出しました。この時鶴富姫は既に身ごもっていましたが、仇敵の平家の姫を連れていくわけにはいきませんでした。大八郎は鶴富姫に名刀「天国丸」を与え、「生まれた子が男なら我が故郷下野(しもつけ)の国へ、女ならこの椎葉の地で育てるように。」と言い残して鎌倉へ向かいました。
 生まれたのは女の子でした。鶴富姫は椎葉の里で娘を育て、やがて婿を迎えて、那須下野守と愛する人の名を名乗らせました。(「椎葉山由来記」より)

 上椎葉には那須家住宅(鶴富屋敷)があり、重要文化財となっています。また、椎葉のシンボルツリーは、日本一の八村杉や大ヒノキなどをさしおいて山椒に決められました。


花言葉は、健康・魅惑

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サンタローザ

 日本スモモをアメリカで改良して、大正時代に再輸入した品種です。
 名前の由来はカリフォルニアのサンタローザでつくられたことによりますが、実在した聖女ローザ(ロサ・デ・サンタ・マリア)にちなむという説もあるそうなので、今回は聖女ローザのお話です。

 1586年に南米のペルーのリマで生まれたイザベラは、とても美しかったので、バラのように美しいという意味で「ローザ」と呼ばれるようになりました。ローザは幼い頃から信心深く、貧しい人々のためにつくしました。12歳になると庭の一隅にレンガ造りの小屋を建てて、その中で祈りを捧げるようになりました。ローザが適齢期を迎えると母親は結婚を勧めましたが、ローザはドミニコ会の第三会員になり、在俗の修道女として過ごしました。ローザは成長するにしたがって霊的生活に入りましたが、健康を損ねて31歳の若さで亡くなりました。
 その後、娘の修道院入りを反対していたローザの母親は、70歳を過ぎてからドミニコ会の修道女となって修道院に入りました。


 サンタローザ(SantaRosa)は「PEANUTS(SNOOPY)」の作者シュルツ氏が暮らしていた町でもあります。

 また、サンタローザのブラックバスは日本にも放流されたそうです。

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椎茸(しいたけ)

 奈良県の民話「小僧が池の美少年」

 昔、奈良県の南の下北山村の池原に七兵衛と八兵衛の兄弟が住んでいました。七兵衛は椎茸栽培をしていました。ある年の秋、七兵衛は椎茸のホタ(原木)を積み重ねるために、飼い犬のロクを連れて山奥の小僧が池のほとりの小屋に十日間位の予定で出かけました。七兵衛はホタを積み重ねて菌を植えつけをしました。何日目かの朝、恐ろしいほど美しい少年が池の真ん中に現れて七兵衛に笑いかけました。七兵衛は熱にうなされ、寝たまま起き上がれなくなりました。ロクの知らせで八兵衛は山に登り、七兵衛をおぶって連れ帰りました。しかし、七兵衛の具合は悪くなる一方で、「二度とあの池のほとりで椎茸をつくってはいけない」と言い残して死んでしまいました。
 七兵衛の葬式の日にその話を聞いた池原の大吉という猟師は小僧が池に行ってみました。水面から美少年が現れると、大吉は鉄砲を撃ちました。弾が少年の腕に当ると、少年は大蛇になって大吉に向かってきました。大吉は走りに走って逃げきりましたが、二度と小僧が池に行きたくないと思い、猟師をやめてしまいました。


 道元禅師と典座(てんぞ。禅寺の料理人)と椎茸のお話。

 道元は幼時に両親を亡くし、あちこちのお寺で修行を積み、17歳の時に建仁寺で明全に師事しました。道元は23歳の時に明全と共に海を渡って中国(宋)の沿岸に着きましたが、上陸許可が出ず、港に停泊している船の中で暮していました。
 一月ほどたった5月のある日、阿育王山の老典座が日本の椎茸を買いにきました。道元は中国の話を聞きたいと思って典座を夕食に誘いましたが、典座は食事の支度があることを理由に断りました。道元が「大きな寺には典座は他にもいるでしょう」と言うと、典座は「修行であって他人には譲れません」と答えました。そして、「あなたは弁道が何たるか、文字が何たるかをわかっていません。阿育王山に来ることがあったら語り合いましょう。」と言い残して帰って行きました。
 その後、道元は上陸して天童山で修行をしていました。すると、7月に阿育王山の老典座が道元を訪ねて来てくれました。二人は語り合い、道元は典座の言葉に深い感銘を受けました。

 また、天童山には用という名の老典座がいました。道元は廊下を通っている時に、用が強い日差しの中で椎茸を干しているのに気付きました。用は笠もつけずに汗を流しており、背骨は弓のように曲がっていました。道元が用に「どうして行者や人足を使わないのですか。」と尋ねると、用は「他人のやったことは自分のつとめにはなりません。」と答え、「どうしてこんなに日差しの強い時に苦労なさるのですか。」と尋ねると、「今干さなくて、いつ干す時があるでしょうか。」と答えました。

 人間国宝である大蔵流狂言師の茂山千作氏は、平成11年に、道元禅師生誕八百年を記念した新作狂言 「椎茸典座」 を発表しました。

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紫苑(しおん)

 「兄弟二人殖萱草紫苑語」(「今昔物語」巻31−27)。

 今は昔、仲のよい二人の兄弟がいました。母親が病気で死ぬと、二人は毎日お墓参りをしていました。数年後、兄は母を忘れようと思い、墓に忘れ草(萱草)を植え、お墓参りもやめました。弟は母を忘れまいと思い、思い草(紫苑)を植え、お墓参りを続けました。
 ある夜、弟の夢の中に墓守の鬼が現れて、「お前の母を思う心に感心したので、明日起こることがわかるようにしてやろう。」と言いました。弟は夢のお告げ通り翌日起こることを予知出来るようになり、幸せに暮らしました。


 安楽庵策伝原著・龍川清訳「醒睡笑」(教育社新書)より引用。

 ”石見(いわみ)の国(島根県)の銀山での話だという。ふだん親しくしていた者のうち、一人が出家し、法名(ほうみょう)を芝恩(しおん)とつけた。友だちに鈍な男がいて、芝恩という名を忘れ、仏門に入った男ということで「お禅門(ぜんもん)、お禅門」と呼んだ。芝恩禅門が腹を立て、「しおん」という草があるが、見たことがないのか」と言うと、男は「いや、まだ見たことがない」と言う。芝恩は、「それならば実物を見せよう」と言って、庭まで連れて行き、咲いている「しゃが」と「しおん」の花を指して、「これがしゃが、これがしおん」と教え、「このしおんの花の名を覚えれば、わしの名と同じことだ。忘れなさるな」と言いふくめて別れた。例の男は、わかることはわかったのだが、二、三日してからまた会った時は、しおんを忘れてしまい、「さてもしゃが、お久しい」と言った。”


花言葉は、追想・ご機嫌よう

萱草(かんぞう)

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ジギタリス

 ジギタリスDigitalisの語源は指を意味する言葉で,花冠が指に似ているところからきたそうです。

 ジギタリスの和名キツネノテブクロ(狐の手袋)は、英名Foxgloveからきています。キツネの尾と同様に、その花を魔除けにした俗習に由来しています。

 ジギタリスは、和名も花も可愛らしいのですが、有毒植物です。全草が有毒ですが、特に葉の部分に強心成分ジギトキシンが多く含まれています。医療用にも用いられますが、用量を間違えると心臓麻痺を起こします。


 ローマ神話のお話。

 ジュピター(ゼウス)の妻ジュノー(ヘラ)は、さいころ遊びに熱中していました。そのことを気に入らなかったジュピターは、さいころを雲の中へ捨ててしまいました。そして、ジュノーがさいころ遊びをしないように、さいころを地上に咲くジギタリスの花に変えてしまいました。

 やきもちやきの奥様がさいころ遊びに夢中になってやきもちをやかないでいるのなら、放っておけばいいと思うのですが、それもいや。神話の世界は、なかなか複雑なようです。


 ジギタリスは、国によっては、妖精の草と言われ、摘み取るのは縁起が悪いとされているそうです。しかし、アイルランドでは十枚の葉から絞った汁は、妖精にとりつかれてしまった子供を正気に返すのに役立つと言われているそうです。


 イングランドの伝承。
 (ジギタリスはフォックスグローブとも呼ばれています。)

 ある悪い妖精がキツネにジギタリスを与えました。キツネはジギタリスの花を手足にはめて、足音を立てずに歩くことを覚えました。その日から、キツネは平気で鳥小屋の周りをうろつくようになりました。


 アイルランドのお話。

 悪戯や意地悪ばかりして周りにいる妖精達を傷つけてばかりいる妖精がいました。妖精はみんなに嫌われて一人ぼっちでした。妖精は寂しくて誰かにかまってほしくて余計にひどい悪戯を繰り返しました。そのことをみかねた神様が妖精を遠くの山に連れていってフォックスグローブに変えてしまいました。意地悪な妖精の生まれ変わりの花は、美しいけれど毒がありました。


 アイルランドの童話「ジギタリスと呼ばれた男」のお話。
 (トマス・C・クローカー編、グリム兄弟解説・注、藤川芳郎訳「グリムが案内するケルトの妖精たちの世界」(草思社)より要約)

 日本の昔話の「こぶとり爺さん」と同じモチーフのお話です。原題は「ノックグラフトンの伝説」ですが、邦題はグリム訳にならっています。

 背中に大きな瘤のある主人公の男は、いつもかぶっている小さな帽子に、「妖精の帽子」とも呼ばれるジギタリスの赤い花の小枝をつけていたことから、ジギタリスと呼ばれていました。
 ある日、ジギタリスは大昔の人の墓だといわれているノックグラフトンの巨人塚で、地面の中から歌声がするのに気付きました。「月曜日、火曜日、」と三回続けて歌い、少し間をおいてまた「月曜日、火曜日」と三回続けて歌うことが、何度も繰り返されました。ジギタリスは「月曜日、火曜日」と三回続いた後の間の時に、「そしてお次は水曜日」と合いの手を入れました。すると、つむじ風が起こり、ジギタリスは巨人塚の中の小人達のところへ運ばれました。小人達はジギタリスの合いの手が気に入ったので、彼をもてなし、背中の瘤をとってあげました。
 瘤をとってもらったジギタリスの噂を聞いて、一人の老婆が遠い田舎からジギタリスを訪ねてきました。彼女の友人の息子の背中にも大きな瘤があったからです。ジギタリスは老婆に一部始終を詳しく話して聞かせました。老婆は田舎に戻り、友人と二人で友人の瘤のある息子のジャック・マドンを巨人塚へ連れて行きました。この男は生まれつき陰険で意地悪なひねくれ者でした。
 小人達は「月曜日、火曜日、月曜日、火曜日、月曜日、火曜日、そしてお次は水曜日」と間をおくことなく歌っていました。ジャックは「そしてお次は水曜日、そしてお次は木曜日、そしてお次は金曜日」と怒鳴りました。ジギタリスが新しい一節を加えてもてなされたのだから、二節加えればもっといい思いができるだろうと考えたからです。つむじ風が起こり、ジャックは巨人塚の中の小人達のところへ運ばれました。しかし、歌を邪魔された小人達は怒っており、彼の背中にジギタリスの瘤も付け加えてから足蹴にして追い出しました。その後、ジャックは二つの瘤の重さと長旅の疲れで死んでしまいました。


 ジギタリスの花言葉は、熱愛・不誠実・健康的・熱い胸の内等

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シクラメン

 シクラメンの原産地はイスラエルです。イスラエルではシクラメンが自生していて、小型の花がカーペットのように咲きます。乾期には球根が地面に転がっているそうです。


 イスラエルのお話。

 昔、ソロモン王が自分の王冠のデザインにお花の形を使おうと思い、花たちにお願いして回りましたが、ことごとく断られてしまいました。王様が困っているところに、シクラメンが優しく声をかけました。シクラメンを気に入った王様は、「シクラメンの花を王冠に使いたい」とお願いしました。シクラメンは静かにうなずきましたが、実はとても嬉しかったのです。それ以来、シクラメンの花は恥らってうつむいて咲くようになりました。
 このお話から、シクラメンの花はイスラエルでは「ソロモンの王冠」と呼ばれているそうです。


 シクラメンの名前。

 「シクラメン」はギリシャ語で「回る」とか「丸い」という意味です。花後の茎が丸まるところから名付けられました。
 シチリア島の野豚がシクラメンの地下茎を掘って食べるので、英名は「豚のパンSow Bread」でしたが、日本では「パン」という言葉が普及していなかったので、和名は「豚の饅頭」になりました。
 植物学者の牧野富太郎博士は、一緒にいた女性がシクラメンの花を見て「かがり火のようですね」と言ったのを聞いて、その場でシクラメンに「カガリビバナ」という和名をつけましたが、その名前は普及せず、結局、学名のシクラメンに落ち着きました。

 シクラメンは日本には明治の中頃に入ってきました。
 花の名前を知らなかった夏目漱石は、日記(1910年1月14日)の中で、「昨日鉢植の西洋花をもらう。雪の下のような葉に、菫のような紫の花が出ている。雪の下より遥かによし。」と書いています。


 シクラメンには一般に香りがありませんでしたが、1976年に福岡市の栽培家が芳香シクラメンを作りだして注目されました。


花言葉は、はにかみ・内気・嫉妬・遠慮・切ない私の愛を受けてください・疑惑
(色別や品種別の花言葉については、「花言葉」のシクラメンの項目を参照して下さい)

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紫蘇(しそ)

 名医の華佗が弟子と一緒に飲み屋に入ると、金持ちの若者達が蟹の大食い競争をしており、卓上には蟹の殻が山のように積まれていました。華佗は
「食べ過ぎるとお腹をこわしますよ。命を落とすこともあるのですよ」
と注意しましたが、酔っている若者達は気にもとめません。飲み屋の主人も酒や蟹を売ってもうけることばかり考えていたので華佗の言葉を無視しました。華佗はそれ以上は何も言わず、弟子と酒を飲んでいました。
 夜が更けてきました。すると、つい先程まで騒いでいた若者達が急にひどい腹痛を起こして苦しみだしました。夜更けなので医者を呼ぶこともできずに若者達と店の主人が困っていると、華佗は医者だと名乗り出ました。華佗は弟子を連れて町外れの野原へ行き、紫色の草の茎と葉を摘んで戻り、それを煎じて若者達に飲ませました。しばらくすると若者達の腹痛はだんだん治まってきました。華佗は、若者達には「年寄りの言葉をよく聞くように」、店の主人には「金儲けより人命を優先するように」諭して帰りました。
 弟子が華佗に「あの紫色の葉が蟹の毒を消すことはどの書物に載っていたのでしょうか」と尋ねると、華佗は「動物が食べているのを見て知ったのです」と答えました。
 ある年の夏、華佗が江南の川辺で薬草採集をしていると、カワウソが大きな魚を捕らえ、時間をかけて飲み込んでいるのが見えました。お腹の膨れ上がったカワウソは最初は苦しそうにもがいていましたが、紫色の草を食べて横たわってしばらくたつと元気を取り戻しました。そこで、華佗はその草が魚の毒を消すと考えたのでした。
 華佗は名前のなかったその紫色の草を紫舒(ヅスウ)と名付けました。「舒」とは、気分がよくなるという意味です。しかし、後世の人々はその薬草を紫蘇(ヅスウ)と呼ぶようになりました。「舒」と「蘇」の発音が似ていたのでなまってしまったのかもしれません。


花言葉は、善良な家風

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羊歯(しだ)

 アメリカ神話Native American mythology(北アメリカのアルゴンキン族)のお話。

 グルスキャップとマルサムという双子の兄弟神がいました。グルスキャップは創造神で、太陽や月や人間をつくりました。マルサムはグルスキャップを妬んで殺そうと企てました。マルサムがグルスキャップに「どうすればお前の命を奪えるか」と尋ねると、グルスキャップは「梟の羽でなでられると殺せる」と答え、「お前は?」と聞き返しました。マルサムは「シダで打たれると殺せる」と答えました。マルサムは梟の羽根でグルスキャップを殺しましたが、グルスキャップはすぐに魔術で生き返ってしまいました。マルサムはグルスキャップの二度目の答えに従って松の根で殺害を企てましたが、また失敗してしまいました。
 「本当は花の咲いた灯心草(とうしんそう)で叩かれると死んでしまう」というグルスキャップの呟きを聞いた海狸(かいり)は、そのことをマルサムに知らせました。喜んだマルサムは海狸に「願いをかなえてやろう」と言いましたが、海狸が鳩のような翼を望むと、「似合わない」と海狸を嘲りました。海狸は怒ってグルスキャップに言いつけました。グルスキャップはシダでマルサムを叩いたので、マルサムは死んでしまいました。


 フィリピンの民話。

 ブガンは美しい娘でした。彼女の両親は農民で、畑仕事の間はブガンを家で待たせ、お昼になると畑で捕まえた子供達の好物のカラカルという虫を持って帰ってやりました。ある日、魔物がブガンの家にやって来て、ブガンを気に入って連れて行ってしまいました。父親は魔物を追いかけましたが、キアンガンの森の小高い場所にある二つの岩のうちのひとつが開き、魔物はブガンを連れてその中に入っていってしまいました。すると岩は閉じてしまい、隙間に引っかかったブガンの髪だけが残りました。
 その後、魔物はブガンの両親に結納としてたくさんの豚を贈りました。ブガンがどうなったかはわかりませんが、ブガンの髪は、岩の割れ目から生える美しいシダに変わりました。


 イワン・クパーラのお祭り

 ロシアに古くからある夏至祭ですが、キリスト教受容後は聖ヨハネの祝日(6月23日)に行われています。ムソルグスキーの「禿山の一夜」は、イワン・クパーラの前夜の宴の情景を描いています。
 スラブ全域に伝承されている植物伝説のひとつに、シダの花の伝説があります。イワン・クパーラ(聖ヨハネの祝日)の前夜には、普段は花を咲かせることのないシダが紅い花を咲かせると言われています。そして、その花を手に入れた者は財宝や幸運を手に入れることが出来ますが、シダは悪魔に守られているので手に入れるのは難しいとされています。

 ゴーゴリの「ディカーニカ近郊夜話」の中の一編、「イワン・クパーラの前夜」は、その伝承をモチーフにしています。

 貧乏な農夫が金持ちの農場主の娘に恋をしました。農夫は娘と結婚したかったのですが、農場主に断られ、悪魔と契約することにしました。イワン・クパーラの祭の夜、ジプシーに姿をかえた悪魔は農夫に、シダの花の下に埋まっている宝を掘らせました。農夫が宝を手に入れた時、悪魔は横にいた農夫の恋する娘の幼い弟を短刀で刺すように命令しました。その少年を殺すことが宝を手に入れるための条件だったのでした。


 また、シダについてよく知られていなかった頃は、シダには目に見えない種があると言われていました。それは、魔術を使わない限り、聖ヨハネの祝日の前夜にしか見えないと考えられていました。見えない種を身につけた人の姿も見えなくなるとも考えられたそうです。シェークスピアもこの伝承を利用していたようです。シダの種を持っているから見つからない、というのは便利ですね。透明人間になりたかった人は昔からいたわけです。


 ハワイのカウアイ島の「シダの洞窟」という観光地はシダで覆われた神秘的で巨大な洞窟で、昔は王族だけが結婚式や集会を行うことを許されていた神聖な場所でした。「ここで恋人と手をつなげば永遠の合いが約束される」、「洞窟の天井からしたたる雫にあたると幸福になる」などの伝説があるので、ここで行われる結婚式は日本人にも人気があるそうです。


花言葉は、魅惑・愛らしさ・誠実・夢・愛矯

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七星草(しちせいそう)

 中国の古い本草書に登場する七星草はノキシノブというシダ植物とされ、乾燥させたものを瓦韋(がい)と呼んで利尿薬に用いてきました。
 しかし、ここで紹介している七星草は、実在する植物かどうかはわかりません。

 鳴砂山の麓には周囲を砂丘で囲まれた月牙泉(げっかせん。中国語で三日月の意)という泉があります。周囲からの流砂は鳴砂山の裏側に吹き戻り、泉は砂に埋もれることなく、さざなみをたてています。この泉には、難病を治す「鉄背魚」が泳ぎ、強精作用のある「七星草」という水草が生えており、その魚と草を食べると長生きできると言われています。


 敦厚の伝説「七星草」。
 (上海文芸出版社編蔡敦達・高梨博和訳「敦煌の伝説・上」(東京美術)より要約)

 月牙泉のほとり、緑鮮やかな草原に珍しい草が生えています。細い枝が七本あり、その枝ごとに、柳のようにほっそりした葉が七枚ついています。そしてほのかな淡い香りを周囲に漂わせています。この草は七星草と言いますが、分娩を促す作用を持っていることからお産草という別名もつけられています。ではその効き目はいったい誰が見つけたのでしょうか。

 昔、鳴沙山麓が神沙県(しんさけん)と呼ばれていた頃のお話です。町の名医の梁(リャン)先生は皆に親切に平等に治療していました。梁先生の悩みはもうすぐ40歳だというのに子宝に恵まれないことでした。奥さんは妊娠するのですが、ひどい陣痛が三日も続いて容態が悪化してしまうために、毎回堕胎させていたのでした。
 ある日、粗末な身なりの老婆が梁先生の病院に治療にやってきました。老婆のふくらはぎにある茶碗大の腫物からは生臭い膿みが流れてうじ虫がわいており、看護婦達は近寄ろうとしませんでしたが、梁先生は老婆を病院に住まわせ、丁寧に治療してあげました。一ヶ月後、すっかりよくなった老婆は奥さんに1枚の絵を手渡し、「お産の日にこの絵を壁に掛けなさい」と言って帰って行きました。
 翌年の春、奥さんは老婆にもらった絵を壁に掛けました。画面の上には新月が描かれ、さざなみに浮かんでいるようです。隣には北斗七星がきらめいていますが、星の中には緑色をした小さな草が生え、丸々と太った赤ん坊が、星座の間を元気に飛び跳ねています。奥さんは老婆の言葉を思い出しました。『七星の薬草こそ安産の効き目。朝露のうちにこれを採る。これを食せば子が生まれ、医を施す善人に礼をする』
 梁先生は翌朝早く、月牙泉のほとりにある七枝七葉の七星草を採り、煎じて奥さんに飲ませました。すると、陣痛がおさまり、奥さんは無事に元気な男の子を出産することができました。
 梁先生は七星草を使って出産を助けるだけでなく、他の薬草と調合して様々な病気を治し、以前よりも更に人々に感謝され、慕われるようになりました。

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支那油桐(しなあぶらぎり)

 アブラギリはトウダイグサ科の落葉高木です。
 シナアブラギリの種子から採れる油を桐油(とうゆ)といい、油紙・提灯・合羽紙の防水剤として利用されます。アブラギリの材は下駄などに使われるそうです。


 中国の民話(江蘇省)。

 昔、中国に葉天士(ようてんし。1666=1764)という名医がいました。ある時、一人の農婦が8、9歳くらいの一人息子を抱いて葉天士のところに来ました。男の子は喉に菱の実を詰まらせて水も飲めない状態でした。そのままでは飢え死にしてしまいます。葉天士は喉にひっかかった骨を溶かす生薬の威霊仙(いれいせん。サキシマボタンヅル)を使いましたが、菱の実は溶けそうもありませんでした。葉天士は様々な方法を試みましたがいずれも効果がありませんでした。
 それから二日ほど経ちました。葉天士が村外れを歩いていると、池で女の人が桶に乗って菱の実採りをしていました。そこへ一人の老婆がやってきて、女の人に「桐油を塗ったばかりの桶を使ったら菱の実が腐ってしまう。」と言いました。葉天士が老婆に桐油のことを尋ねると、桐油は菱の実だけでなく菱の角も溶かすと教えてくれました。
 葉天士は急いで家に戻り、子供の喉に桐油を少しずつ流しました。まもなく菱の実は胃の中に落ちていき、子供は無事に食事を摂れるようになりました。

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シナモン

 紀元前5世紀のギリシャの史家ヘロドトス著「歴史」より。

 「カシアとシナモンをもたらす唯一の国はアラビアです。そこは人間が住むことができる地の最南端です。カシアは浅い池の中に生え、池の周囲をコウモリに似た羽の生えた奇獣が守っています。そのため、アラビア人達は目以外の全身を牛やその他の動物の皮で覆って命がけでカシスを採りにいきます。シナモンはバッカスの国にあるという人もいますが、実際にはどこだかわかりません。シナモンの枝は大きな肉食鳥が絶壁の上に巣を作るのに用いられます。牛やロバの大きな肉塊を餌に仕掛けておくと、その鳥が肉をくわえて巣に持ち帰り、その重みで巣が壊れて地上に落ちるので、アラビア人達は駈け寄ってシナモンの枝を集めることができます。こうして集められたシナモンが近隣諸国に供給されるのです。」

 商人達がシナモンを高く売りつけるために、シナモンを手に入れるには危険を冒さなければならないと嘘をついたので、こういう記述がなされました。

 巨鳥の巣がシナモンの枝で作られているという話は、1世紀の中頃のローマのプリニウス著「博物誌」にも見られます。その中では巨鳥はフェニックスとなっていますが、彼はこの話を作り事だと思っていたようです。また、この頃には、フェニックスが自ら火に焼かれて甦るという記述はないようです。
 「アラビアにはフェニックスという540年も生きる巨鳥がいます。フェニックスは、死期が近付くとシナモンの枝と乳香で巣を作り、その中で死にます。すると、死骸の骨髄から小さな虫が生まれ、鳥の姿に変わります。このフェニックスの幼鳥は自分が育った巣をヘリオポリス神殿の太陽の祭壇に運びます。」


 ローマで暴君として有名なネロはとても香料好きでした。ネロは最愛の妻ポッパエア(2番目の妻だそうです)が亡くなると、天国へ旅立つ妻への最高の愛情の贈り物として、葬儀の時に大量のシナモンを燃やして別れを惜しみました。その時に燃やされたシナモンは、ローマで消費されるシナモン1年分もの量だったそうです。これは、当時の香料の主要生産国アラビアの10年分の生産量でもあったようです。


 「シバの女王とソロモン」のお話。

 シバの女王とソロモンのお話は「新約聖書」にも出てきます。聖書にはシバの女王の名前は書かれていませんし、伝説ではマケダ、ビルキスなど幾つかの名前があります。
 南アラビアのシバ(サバ)は乳香や没薬などの香料の重要な産地であった上に、近隣諸国で産出した香料まで自国産として輸出し、商業力によってとても栄えていました。シバの女王はヘブライ王国のソロモン王がとても博識だという噂を聞いて、エルサレムを訪問して謁見を申し入れ、ソロモン王に次々と難問を出して王の知識を試しました。ソロモン王が全ての難問をクリアしたので、感心したシバの女王は、金120タラント、たくさんのシナモンなどの香料、宝石、白檀などを贈りました。
 話はシナモンから離れますが、シバの女王とソロモン王の子供がエチオピア建国の祖メネリク王だという伝説が残っています。


 ベトナムのジェチェン族の昔話。
 (日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より引用)

 ”次の話は、香木が平地の産物である塩や甕などとの重要な交換物であったことを示している。
「ある村に孤児がいた。孤児は家もなく、強欲な金持ちの家で働いて生きるしかなかった。しかしそこでは満足に食事もできず、ついに主人の食べ物に手を出して家から追い出されてしまった。途方にくれ山で寝ていて、夢で会った老人からシナモンの木を教えてもらい、それを村に持ち帰った。それから平野部の王との取引が始まった。」”


 花物語には、肉桂(にっけい)の項目もあります


花言葉は、清純・純潔・清浄

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下野(しもつけ)

 シモツケSpiraea japonicaはバラ科シモツケ属の落葉低木です。

 名前の由来には、初めて発見された場所が栃木県の下野であったことに因んで名付けられたという説と、花のつき方が霜の降りたところに似ているから霜つけという名がついたという説があります。


 しもつけ(繍線菊)のお話。
 (下田惟直著「花ことば 花の伝説」(三和図書)より引用)

 ”昔、中国に繍線という少女があった。彼女の父の元g(げんき)という人が、軍に従って勇敢に戦っているうち、敵に捕えられて獄に投ぜられた。
 繍線はこれを知って悲嘆にたえず、ついに心を決して男装し、単身敵地に踏み入り、辛酸の末二年目に獄吏になることができた。
 男装の少女は父を救うため獄舎を捜したが、この時すでに元gは病没していたのであった。
 繍線は悲しみやる方なく、死囚の墓に詣でて涙をしぼっていた。
 これを見ていた人々は、少女をかあいそうに思い、扶(たす)け起こして故郷に帰るよう慰めた。
 少女は父の墓畔を去るとき、記念として墓の傍らに咲いていた一輪の花を持ち帰った。
 その花を父への手向けにと、庭に植えていたところ、四、五年後になると見なれぬ美しい花が咲き出たので、人々はその花に孝心深い少女の名をとって、繍線菊(しもつけ)と名づけた。”

 (このお話に登場する花が「シモツケ」なのか「シモツケソウ」なのかは文献によって異なります。花言葉も混同されている部分がありそうです。)


 安楽庵策伝原著・龍川清訳「醒睡笑」(教育社新書)より引用。

 ”奉公人がある人に、「私の主人を下野(しもつけ)という者もあり、野州(やしゅう)という者もいるが、どっちがよいのだろう」とたずねた。「どちらでもかまわない」と教えられて、合点した奉公人が、ある座敷に出た時、しもつけの花がいけてあるのをみつけ、きちんと手をついて、「さてさて、この野州はよくいけられましたな」と言った。

 野州は下野(しもつけ)の国(とちぎけん)をいう。上野(こうずけ)の国(ぐんまけん)を上州とはいうが、下野の国を下州とはいわない。しもつけの花は、バラ科の落葉潅木で、下野の国で発見されたからこの名がある。『枕草子』に、「草の花は、しもつけの花・葦の花」とある。”


花言葉は、自由・気まま・無駄・無益

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下野草(しもつけそう)

 シモツケソウFilipendula multijuga Maxim.は、バラ科シモツケソウ属の多年草です。


 シモツケソウの漢名は、繍線花(しゅうせんか)です。

 中国に伝わるお話。

 韓の国に繍線(しゅくせん)という名の可愛らしい少女がいました。繍線の父親は出征先の斉で捕らえられ、牢獄に入れられてしまいました。そのことを知った繍線は、父親を助けようと思い、男装して敵地に行き、獄吏となって父親を捜しましたが、父親は既に病死していました。繍線は、父親の墓のかたわらに咲いていた花を1株持ち帰り、庭に植えました。すると、毎年きれいな花が咲いたので、人々は孝行者の少女の名をとってその花を繍線花と名付けました。

 シモツケソウは、同じバラ科のシモツケの木に似ている草であるところから名付けられました。ちなみに、シモツケの漢名は、繍線菊(しゅうせんぎく)だそうです。

 (このお話に登場する花が「シモツケ」なのか「シモツケソウ」なのかは文献によって異なります。花言葉も混同されている部分がありそうです。)


花言葉は、無益・整然とした愛・努力・余裕・遊び・はかなさ

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馬鈴薯(じゃがいも)

 「ジャガイモ」と「馬鈴薯(ばれいしょ)」の名前の由来。

 慶長6年(1601年)、ジャガイモはオランダ船によってジャワ島のジャカトラ(現ジャカルタ)から長崎に入ってきました。呼び名は、ジャカトライモ→ジャガタライモ→ジャガイモと変化しました。当時の品種は日本人の嗜好に合わず、花を鑑賞していました。

 馬鈴薯は、芋の形が馬につける鈴に似ているところから名付けられたと言われています。馬鈴薯という植物名は中国の古書「松渓県志」の中に出てきます。馬鈴薯は中国ではマメ科のホドイモを指していましたが、学者の小野蘭山が自著「耋莚小牘(てつえんしょうとく)」の中で「中国の馬鈴薯はジャガイモである」と解説したために、日本ではジャガイモのことを馬鈴薯(ばれいしょ)と呼ぶようになりました。


 ボリビアに伝わる「ジャガイモの起源伝説」。

 インカ皇帝の娘のニュスタ王女は、太陽神に捧げられた「処女の館」で奉仕活動をしていました。ある時、一人の農夫が禁断の場所である「処女の館」に入り込み、ニュスタと恋に落ちました。インカは心の中では悲しみつつも帝国の法に従って二人の冒涜者達に生き埋めの刑を宣告しました。「処女の館」で奉仕活動をしていた老女達は王女が結婚できるように皇帝に慈悲を請いましたが、インカは自分の言葉を撤回しませんでした。
 司祭達は大きな穴を掘り、インティ(太陽)の怒りを鎮めるためにリャマ(ラクダ科の哺乳類。家畜)を生贄にし、コカの葉で床をつくり、そこに二人を寝かせました。司祭達は抱擁しているニュスタと恋人の農夫を生き埋めにしました。
 それからしばらく後、最高司祭が皇帝へ謁見を願い出ました。
「権力者インカよ、二人を処刑した時から不吉な予感が帝国を漂っています。聖なるティティカカ湖では波が荒れて「処女の館」の壁を濡らしました。今すぐ二人の墓を暴き、二人の灰を帝国中に撒かなくてはなりません。」
インカは最高司祭の言葉を受け入れました。二人の冒涜者達の死体を焼いた灰を帝国中にまいて捧げものとし、インティの怒りを鎮め、大地の女神パチャママの許しを得るつもりでした。
 ところが、土を掘り返してみてもコカの葉の床に二人の遺体はなく、リャマの骨と一緒に三つの見慣れない実がありました。司祭がその実をインカに献上すると、賢明なインカはその実を蒔くように命じました。その実からは青々とした植物が育ちましたが、できた実は苦くて食べられないものでした。インカは今度はその植物の根を調べるように命じました。これが三種類のジャガイモ(チアミーリャ、ルッキ、プレハ)の起源です。その時からジャガイモは貴重な食糧となりました。


 ジャガイモの普及についてのお話いろいろ。

 中南米原産のジャガイモは有史以前にチリからペルーへ導入され、インカ帝国では重要な食料でした。16世紀にインカ帝国はスペインに征服され、ジャガイモはヨーロッパへ伝わりました。
 しかし、ヨーロッパではキリスト教が普及していたために、聖書に登場しないジャガイモは汚れた食物だと考えられました。花が咲いて実ができて増える作物の中で、種芋を切り分けて増えるジャガイモは無節操な悪魔の作物として異端者のように嫌われたのでした。

 イギリスではエリザベス1世がジャガイモの若芽を食べて中毒したそうです。

  18世紀のフランスでは庶民の主食はパンであり、ジャガイモは家畜の餌でした。ルイ16世はアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエに命じてジャガイモを栽培させましたが、パリ市民は見向きもしませんでした。そこでパルマンティエは一計を案じ、ジャガイモ畑に「ジャガイモは王候貴族の食物であり、盗んだ者は厳罰に処す」という立て札を立て、昼間は国王の親衛隊を見張り番におくことにしました。この策略は成功し、見張りのいない夜中にジャガイモを盗む人々が続出し、ジャガイモはフランス中に広まり、救荒食物としても利用されるようになりました。
 この功績によりパルマンティエは男爵位を与えられました。また彼の名はメトロの駅名にもなりました。
 ジャガイモは貧しい家庭の主食となり、「地中の林檎」と呼ばれるまでになりましたが、貴族達は「民衆のパン」と呼び、食べずに、花を飾りに使っていました。ルイ16世はジャガイモの花を上着のボタンの穴に挿し、王妃マリー・アントワネットは帽子に飾っていたそうです。


花言葉は、情け心、恩恵(仏)

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石楠花(しゃくなげ)

 脊振(せふり)山のシャクナゲの伝説(佐賀県東脊振村)。

 昔、脊振山の頂上にある脊振神社の弁財天は、英彦(ひこ)山で開かれた全国の神様の集会に出かけました。英彦山には弁財天が見たことのないきれいな花が咲いていました。1輪摘んで髪につけて水に映してみるととてもきれいだったので、弁財天はその花が欲しくなり枝を折ろうとしました。すると、英彦山の権現が現れて、「私のシャクナゲを取るな。」と言いました。弁財天は仕方なく、頭につけた花も返しました。
 しかし、弁財天はシャクナゲをあきらめたわけではありませんでした。集会が終わると、弁財天は気付かれないようにシャクナゲの枝を3、4本折って、長い髪の毛の中に隠して雲に飛び乗りました。ところが、英彦山の権現の前を通りかかった時に、弁財天の髪の毛からシャクナゲの花がこぼれ落ちました。怒った権現も雲に乗り、逃げる弁財天を追いかけました。
 弁財天は、脊振山の麓の竹の屋敷(?)のあたりで権現に追いつかれました。弁財天は「花を返します」と言って一枝そこに捨てて逃げていきました。でも権現は弁財天がまだ花を持っていることに気付いていて追いかけ、鬼ヶ鼻のあたりで弁財天を追いつめました。弁財天は仕方なくシャクナゲを全部そこに置いて頂上へ戻って行きました。それで、脊振山の頂上には1本もないシャクナゲが、竹の屋敷や鬼ヶ鼻周辺に咲くようになりました。

 脊振村の浄徳寺(じょうとくじ)は、別名シャクナゲ寺とも呼ばれ、弁財天が英彦山から持ち出したというシャクナゲの木があります。樹齢は350年とも500年ともいわれ、見事な花を咲かせる開花時には、たくさんの人々が訪れます。


 中国の朝鮮民族の聖なる山、白頭山に咲く万病草(和名シロバナシャクナゲ)の伝説。
 (崔鎮圭(チェ ジンギュ)著・フィールド出版編集部訳「薬になる野山の草・花・木」(フィールド出版)より引用)

 ”昔、白頭山の深い谷間の人里離れた家に、若い嫁と姑が仲良く住んでいた。ところが、ある日の夕方、嫁が台所でご飯を炊こうとした瞬間、いきなり「ヒィー」という音をたてながら、家の大きさぐらいの虎一匹が台所の中に入り込んできた。虎は大きな目をいからせ、口を開きながら嫁を睨んでいた。嫁は驚いて、虎の前でお辞儀をしながらいった。「虎様、お腹がすいたら私を食べていいから、姑だけは襲わないで下さい。」すると、姑が部屋から出てきて、虎の前に膝まづいていった。「いいえ、虎様、何の役にも立たないこの年寄りを食べて、うちの嫁だけはぜひ生かして下さい」しかし、虎は口を開いたままじっとして座っているだけであった。不思議に思った二人が虎の口の中をのぞいてみると、布のようなものが差し込まれているではないか。「あ〜、これを抜いてくれということなのね。」嫁はすぐ手を入れて、その布の固まりを抜いて投げた。喉穴がすっきりした虎は、頭を下げて感謝の意を伝えて、喉穴から抜いた布の固まりを口で噛んで嫁の前に置いた。嫁は古い布の固まりを、どうして自分の前に置くのか分からなくて再び投げ捨てた。すると、虎は、すぐさまそれを嫁の前に持って行って置いた。嫁が何事かと思ってその布の中をみると、中には細長くて黒い種がいっぱい入っていた。嫁は虎に感謝の挨拶をしてその種を庭に植えた。大切に何年も育て、いよいよ明るくて芳しい花が庭いっぱい咲いた。嫁と姑は、その木の葉を採って、すこしずつ飲んでみたが、飲めば飲むほど体の中から力が湧いて、あらゆる病症がなくなり、年を取らずに長生きできたそうだ。そして、その花の名を、ホトトギスがさえずる時に咲くといって、中国ではホトトギスの花と呼んだ。”

 (注)引用文献では和名はシロバナシャクヤクとなっていましたが、中国でホトトギスの花(杜鵑花)と呼ばれているのはサツキですし、写真の葉もシャクナゲの葉でした。ツツジ科ツツジ属シャクナゲ亜科のシャクナゲの間違いだと思われます。白頭山の万病草をうたった『万病草』という歌もあるそうです。


 T・C・マジュプリア著、西岡直樹訳「ネパール・インドの聖なる植物」(八坂書房)より引用。

 ”シャクナゲは『ラーマーヤナ」の主人公ラーマ王子の罵りをうけた結果、このように密に入り組んで枝分かれするようになったのだという伝説がある。”


花言葉は、危険・警戒・尊厳・威厳・荘重

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芍薬(しゃくやく)

 ギリシャ神話のお話。

 医薬の神パイエオーンは、出産の女神レトに教えられてオリュンポスの丘の上の不思議な植物を採りに行きました。レトはゼウスの子を妊娠しており、陣痛を軽くするためにその植物の根を使いました。
 パイエオーンはその薬草を使ってトロイ戦争で傷ついた神々を治療しました。冥界の王ハデスがヘラクレスと戦って怪我をした時も、この薬草で治療しました。こうしてパイエオーンは師である医神アスクレピオスよりも名声が高くなったので、妬んだアスクレピオスに殺されてしまいました。パイエオーンの死を知ったハデスは、彼を、自分を治してくれた薬草に変えました。そして、その薬草をピオニー(芍薬)と呼ぶようになりました。

 また、アポロンとアルテミスの双子を産んだレトが、パイエオーンの死を悼んで、ゼウスに頼んで芍薬に変えてもらったという話もあるようです。


 中国の民話。

 昔、ある村に花が何よりも好きな張震(ちょうしん)という老人が住んでいました。張震が有り金をはたいて花を手に入れて育て、大切な庭の中には誰も入れないので、村人は彼のことを花気違いと呼んでいました。ある日、近くの町の身分の高い朴柄(ぼくへい)という男が、張震の庭に無理矢理入りました。そして、一番美しかった芍薬を始め、全ての花を折り、踏みつけました。
 泣いている張震の元に花の精が現れ、花を元通りにしてくれました。その話を聞いた朴柄は、張震の庭が欲しくなり、役所に「張震は魔法使いだ」と訴えました。張震は牢獄に入れられましたが、そこへ花の精の女王の使いが現れて、張震に女王の言葉を告げて帰りました。一方、朴柄は張震の庭へ入りましたが、芍薬どころか花は全く咲いていませんでした。朴柄は、そこへ現れた花の精達に殺されてしまいました。
 牢獄から出してもらった張震は、花の精の女王の言葉通り、落ちた花の葉だけを食べ、他の食物はいっさい食べないようにしました。やがて花の番人が現れて、張震に花の保護者の称号が与えられたことを話し、張震を天に連れて行きました。


 中国の別の民話。

 名医の華陀(かだ)の家の薬草園には多くの薬草と芍薬が一株植えられていました。芍薬は頂き物でしたが、薬として役に立ちそうもなかったので華陀は大切にはしていませんでした。
 ある晩、華陀は女性のすすり泣く声を聞いて外へ出ました。すると、薬草園の中で美しい女性が泣いていましたが、突然女性の姿が消え、そこには芍薬の株があるだけでした。そんなことが幾晩も続いたので、華陀は妻にその出来事を話しました。妻は、「芍薬は他の草木のように薬として役に立ちたいのでしょう。葉や茎だけでなく根も試してみたらいかがでしょうか。」と言いました。しかし、華陀は芍薬に効能があるとは思えなかったので、そのまま放っておきました。
 数日後、華陀の妻はひどい月経痛と出血に苦しみだしました。妻は芍薬のことを思い出し、根を煎じて飲んでみました。すると、痛みも出血も治ったので、夫にそのことを知らせました。芍薬の根が婦人病に効果があると知った華陀は妻にとても感謝しました。

 また、安徽省亳州市周辺の言い伝えによると、華陀の妻が夫から芍薬の精霊がすすり泣いている話を聞いて、夫にもっと芍薬の効能を調べるように言いますが、無視されてしまいます。そこで、妻は菜切り包丁で自分の大腿部を切り、夫に止血させようとしますが、うまくいきません。ところが、妻の言う通りに芍薬の根を使うと出血が止まりました。それ以来、亳州は芍葯の産地になりました。


 「世界大百科事典」(株式会社日立システムアンドサービス)より引用。

 ”イギリスの伝説では、過ちを犯した妖精が不面目を恥じてシャクヤクの陰に隠れたため、花が赤く染まったとされ、花言葉の〈恥じらい〉もそれにちなむという。


 C・M・スキナー著・垂水雄二・福屋正修訳「花の神話と伝説」(八坂書房)より引用。

 ”ある古い信仰では、この花は月光から生じたといい、また別の話では、その機嫌は医者ではなく、頬を染めた女羊飼いパエオニアであり、その魅力がアポロンの恋をかきたてたという。”


 秋田県雄勝郡小野の「百夜通いの伝説」。

 平安時代の女流歌人、小野小町は出羽国福富の荘に郡司として派遣された小野良実(おののよしざね)の娘として809年に桐の木田(現雄勝町小野字桐木田)で生まれました。幼時から歌や踊りや琴や書道などが上手だった小町は十三歳の時、役目を終えて都へ戻る良実と一緒に都へ出て宮中に仕えました。小町は天性の美貌と才能で帝の寵愛を受け、多くの求婚者がありましたが、妬まれる事も多く、小町は36歳の時に都の暮しを捨てて故郷へ戻りました。
 小町を愛する深草の少将は小町のあとを追って小野の里へやってきて求婚しました。小町は少将には直接は会わず、「私を心から慕って下さるなら、土手に芍薬を毎日一株ずつ、百株植えてください。百株になりましたら御心にそいましょう。」と伝えました。少将は毎日芍薬を一株ずつ植え続けましたが、百日目の夜に嵐で増水した川に橋ごと流されて死んでしまいました。小町は深く悲しみ、99本の芍薬に99首の和歌を捧げました。その後、小町は別当山の岩谷洞にこもって静かな余生を送り、900年に92歳で亡くなりました。

 ちなみに、小町が少将に会わなかったのは、その頃、疱瘡を患っていたからだそうです。百夜のうちに治るようにと、磯前(いそざき)神社の清水で顔を洗って祈っていたそうです。

 また、「百夜通いの伝説」には、芍薬ではなく、榧(かや)の実の登場する伝説も残っています。そちらについては、「花物語」の榧(かや)の項目を参照して下さい。


 安楽庵策伝原著・龍川清訳「醒睡笑」(教育社新書)より引用。

 ”「どういうわけで、芍薬をば詠んだ和歌がないのだろうか」と不思議に思っている者がいたので、「それを詠んだ歌があるぞ」と言って示した歌、
 難波津に芍薬のはな冬ごもり 今をはるべと芍薬のはな

 この歌は、『古今集』序に、和歌六種(くさ)の第一「そへ歌」の見本としてあげてある、「難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花」という歌のもじりである。”


花言葉は、威厳・荘厳・はにかみ

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蛇床(じゃしょう)

 野原や道端で見られるセリ科の雑草(一応レースフラワーの仲間)です。この植物の群落の下に蛇が休んでいることもあるので蛇床と呼ばれるようになったそうです。
 種が虱のように衣服につきやすのでヤブジラミ(藪虱)とも呼ばれます。
 種子は蛇床子(じゃしょうし)と呼ばれ、薬用に利用されます。現在では茎葉も利用するようです。


 中国の民話(揚州)。

 ある村に伝染性の皮膚病が流行りました。鳥肌がたち、かゆみが強く、かいた傷口は出血したり膿んだりする病気で、数日のうちに村中の人がこの病気に罹りました。村人達の知っている薬を塗っても飲んでもかゆみは治まりませんでした。医者は、村から50kmほど離れた小島にある薬草の種を煎じた薬湯につかれば治ると言いましたが、小島には毒蛇がたくさんいるので薬草を採りに行く人はいませんでした。
 一人の若者が小島へ向いましたが戻っては来ませんでした。その後、別の若者が小島へ向いましたがやはり戻っては来ませんでした。二人とも毒蛇にかまれて死んでしまったのでしょう。やがて三人目の若者が村人達がとめるのもきかずに出ていきました。しかし、若者はすぐには島に向わず、先ず毒蛇退治の方法を知っている尼僧を訪ねました。尼僧は、端午の節句の日の昼頃、魔除け・防毒用の雄黄酒(ゆうおうしゅ)を持って島に行き、毒蛇に振りかけるように、と教えてくれました。小島にはたくさんの種類の毒蛇がいて、羽毛のような葉と傘のような花を持つ薬草がその下敷きになっていました。若者は雄黄酒をまき、毒蛇達がとぐろを巻いて動かなくなっているうちに薬草を掘り起こして村へ持ち帰りました。
 薬湯につかった人々は皮膚病が快方に向いました。村人達は、薬草の上に蛇がいたことからその薬草を蛇床、その種を蛇床子と名付けました。蛇床は畑で栽培され、皮膚病の治療に役立てられるようになりました。

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ジャスミン

 Jasmineという名前は、アラビア語の yas min(絶望は愚か)から来ており、それがフランス語のjasman、英語のjasmineに変わったとされています。しかし一説には学名のJasminumはリンネが、イア(スミレ)とオスメ(香り)から造った言葉だという説もあるそうです。


 和名の「素馨(そけい)」は、中国の美女の名前に由来するそうです。
 「其他如関於素馨花的:昔劉王有侍女名素馨 ― 家上生此花、因以得名。」の出所を探していたのですが、どうやら『二如亭群芳譜』(1621年)のようです。「昔、劉王に侍女あり、素馨と名づく。家上に此花を生ず、因て以て名を得。」


 イタリアに伝わるジャスミンの伝説。

 知っている方も多いと思いますが、「香りきれいジャスミン茶(伊藤園)」のパッケージにも「ジャスミンの花伝説」として載っているお話です。

 昔、トスカーナ地方の大公爵の庭に素晴らしいジャスミンの花が咲いていました。大公爵はジャスミンの小枝1本さえ持ち出すことを許しませんでしたが、若くて貧しい庭師は内緒で恋人の誕生日プレゼントにジャスミンを贈りました。恋人はジャスミンを根付かせて大切に育てました。ジャスミンが高い値段で売れてお金が手に入ったので二人は結婚することが出来ました。
 トスカーナ地方の若い娘達は、このお話にあやかるために結婚式の日にジャスミンの花冠をかぶるようになりました。


 フィリピンに伝わるサンパギータの伝説。
 ジャスミンの一種のサンパギータはフィリピンの国花です。

 昔、ある大国の美しい王女には結婚の約束をした勇敢な恋人がいました。しかし隣国と戦争が始まり、恋人は出征していきました。恋人の帰りを待ちわびる王女のもとへ恋人の戦死の知らせが届くと、王女は自害しました。国民は海の見える丘の上に王女の墓をつくりました。やがて王女の墓から甘い香りのする純白のサンパギータの花が咲くようになりました。

 伝説によっては、王女の恋人は王子であったり、王女の死因が病死になっていたりしますが、だいたいのあらすじは同じです。


 ジャスミンの花の色の伝説。

 ジャスミンの花は以前はピンク色をしていました。
 キリストがはりつけになった夜、多くの花が悲しみに打ちひしがれて枯れてしまいましたが、ジャスミンの花は葉をたたんだだけで悲しみに耐えていました。しかし、翌朝、ジャスミンの花が咲いた時には花びらに色はなく、二度と色づくことはありませんでした。


 トルコの昔話「チャンクシュ チョルクシュ」

 昔、あるところに一人の若い王様がいました。王様は、ある三人姉妹の末娘と結婚しました。王様は、王妃が約束してくれた金髪の女の子と男の子の双子が産まれるのを十月十日待ちました。ところが、王妃に赤ん坊が産まれそうになると、姉達は産婆を買収して、赤ん坊達を殺して、代わりに2匹の子犬を置いておくように頼みました。産婆は赤ん坊達を殺せず、籠に入れて海に流しました。そして王様には、王妃様が子犬を2匹産んだと知らせました。王様は王妃を牢へ入れてしまいました。
 赤ん坊達は僧に拾われて立派な若者に成長しましたが、僧は年老いて死にました。王妃の子供達が生きていることを知った姉達は産婆をおどして今度こそ殺してくるように命じました。産婆は妹をそそのかし、兄が「見ず知らず山」の不思議な楽器を取りに行くように仕向けました。
 兄は途中で出会った僧に教えてもらった通りにしました。兄は立派な宮殿にたどりつくと、ジャスミンの枝で扉を打ち、「チャンクシュ」と言いました。しかし、返ってきた言葉は「チョルクシュ」で、兄は石になってしまいました。
 妹は帰ってこない兄を捜しに「見ず知らず山」へ行きました。妹は途中で出会った僧に教えてもらった通りにしました。妹は立派な宮殿にたどりつくと、ジャスミンの枝で扉を打ち、「チャンクシュ」と言いました。すると、「チョルクシュ」ではなく、「どうぞ」という声が返ってきました。妹は中に入ると、黒い巨人のアラブを白くなるまでジャスミンの枝で打ち続けました。白くなったアラプは妹の願いを聞きました。妹は兄を救い出し、アラプとともに家に戻りました。アラプの国の全てのものが彼といっしょについてきました。不思議な楽器というのは、歌ったり踊ったりするアラプの国の人達のことでした。
 兄妹の家は宮殿に変わりました。アラプは王様に、王妃の二人の子供達を会わせ、王妃の姉達と産婆のしたことを知らせました。王様はすぐに王妃を牢から出し、王妃の姉達と産婆に罰を与えました。アラプは、みんなが幸せになったのを見届けると自分の国へ帰っていきました。
 王様と王妃様と二人の子供達は仲良く幸せに暮らしました。


 イラクの昔話「ジャスミン娘」。

 昔、バグダードの都に大金持ちの商人が住んでいました。商人は3人の娘達に、自分がどうして金持ちになったのか訊ねました。お世辞の上手な長女と次女は「頭がよくて、よく働いたから」と答えましたが、正直者の末娘は「貧しい人達から搾取したから」と答え、父親の怒りをかい、家を追い出されてしまいました。末娘はあちこちさまよい歩き、やがて、優しい若者と結婚しました。
 末娘は小麦色の肌をした、黒髪、黒い目の女の子を産みました。毎朝、女の子のベッドの中はジャスミンの花と黄金でいっぱいになっていました。夫は、「アラーの思し召しに違いない」と言いました。女の子はとても美しい娘に成長し、ジャスミン娘と呼ばれるようになりました。
 ジャスミン娘は、外国からバグダードに来ていた若者と結婚することになり、若者は婚礼の準備のために先に自分の国へ戻り、ジャスミン娘は数日後にバグダードを出発する隊商(キャラバン。ラクダに商品をのせて運ぶ一団)と一緒に若者の国へ行くことになりました。若者は出発前に自分の指輪をジャスミン娘に贈りました。
 ジャスミン娘のおばにあたる商人の長女が、習わしに従って花嫁につきそうことになりました。しかし、このおばはジャスミン娘を砂漠に置き去りにし、自分の娘をジャスミン娘だと偽って嫁入りさせました。娘は指輪をなくしたと主張し、「ジャスミンの花は決まった季節の数日間しか咲きません。」と嘘を言いましたが、若者は娘がジャスミン娘でないことに気付きました。しかし、ジャスミン娘の行方がわからなかったので、若者は仕方なくにせの花嫁と結婚しました。
 優しい人々に助けられたジャスミン娘は、自分の顔がわからないように頭から着物をかぶり、若者の屋敷で働くことにしました。そして、若者の食べるパンケーキの中に若者からもらった指輪をしのばせました。指輪を見た若者はジャスミン娘を呼びだし、にせの花嫁とおばを追い出し、本当の花嫁と結婚しました。
 二人にはたくさんの子供が産まれましたが、どの子も小麦色の肌をして、黒髪、黒い目をしていたということです。


 ベトナムの昔話「牛の糞にジャスミンの花」
 (加茂徳治・深見久美子編訳「ベトナムの昔話」(文芸社)より要約)

 昔、機織りで暮らしをたてている女の人がいました。彼女は非常に賢い人でしたが、彼女の夫は愚鈍で定職もありませんでした。ある日、妻は織り上がった何反かの布を夫に渡し、市場で売ってくるように言いました。夫は市場で大声をあげて売り歩きましたがなかなか買い手が現れませんでした。夫がくたびれきった頃、やっと二反買ってくれるという老人が現れましたが、
「今は手持ちがないので、お金はあとで私の家に取りに来なさい。私の家は、商人のいない賑やかな広場、笛の音が風に舞う所、茎が丸まって根っこになっている所ですよ。」」
と言って、布を持ち帰りました。
 夕暮れ近くになって、夫は掛売りした老人の家を村中歩いて探しましたが、見つけることはできませんでした。夫は仕方なく家に帰り、大声で泣きながら妻にその出来事を話しました。妻は言いました。
「『商人のいない賑やかな広場』は学校、『笛の音が風に舞う所』は風が吹けば笛のような音を出す深い藪のある所、『茎が丸まって根っこになっている所』は葱かにんにくのあるところでしょう。藪の近くの葱かにんにくの菜園のある学校を探しなさい。」
 翌日、夫は妻から教えられた所を探し、老人に会うことができました。老人は学校の先生でした。先生に聞かれて、夫は自分が妻に教えられて先生の家に来たことを話しました。その日、先生の家では法事があったので、夫もご馳走にあずかり、妻への土産の分までいただきました。先生は反物の代金を払う時に、もう一つの包みを奥さんにといって渡しました。その包みの中には、一塊の牛の糞の真ん中に一輪のジャスミンの花がさしてありました。夫は意味もわからずにその包みを持ち帰り、妻に渡しました。
 妻は夫から受け取った包みを開くとすぐに先生の皮肉を悟りました。「愚かな夫を持つ賢い妻、牛の糞にさした一輪のジャスミンの花のごとし」。妻は何も気付かずにそれを持ち帰った夫の愚かさをうらめしく思い、妻は自分の不運を嘆き、川に身を投げようとしました。
 一方、先生は自分の悪戯が悪い結果を招くかもしれないことに気付き、底の抜けた魚籠(びく)と釣竿を持って急いで川岸へ向いました。先生は川岸で泣いている婦人を探し出して言いました。
「ここで魚を釣るから、他所へ行ってくださいませんか。」
 妻が顔をあげると、そこには底の抜けた魚籠を持った老人が立っていました。妻は、自分の夫はこれほど愚かではないと思い、涙を拭って夫のもとへ帰って行きました。


 ディズニーアニメ映画「アラジン」(植物のジャスミンは出てきません)

 アラビアのジャスミン姫は宮殿を抜け出し、下町で貧しいアラジンという青年に出会い、彼の純粋さにひかれました。アラジンが魔法のランプを手に入れてこすると、中から魔人のジーニーが現れて、3つの願いをかなえてくれると言いました。ジーニーは人の心を動かす魔法を使えなかったので、アラジンはジャスミンと結婚するために王子になりたいと望みました。
 ところが、アラビアの大臣のジャファーは、国を支配するためにジャスミンと結婚したいと思い、アラジンからランプを盗み出し、魔人ジーニーに世界最強の魔法使いにしてもらいました。そして邪魔なアラジンと国王を排斥しました。
 アラジンがジャスミンの愛を手に入れた時、最後の願いとしてジーニーの自由を願うところがいいです。
 「アラジン完結編・アラジンと盗賊王」で二人は結婚します。


花言葉は、愛らしさ・官能的・優美・清純・喜び・素直・気立ての良さ

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秋海堂(しゅうかいどう)

 秋海棠の別名には、八月春、断腸花、相思草、瓔珞草などがあります。その由来を紹介します。
 (注)’ ’内の文章は原典を確認できていないので、孫引きで転記している麓次郎著「四季の花事典」をさらに、ひ孫引きで引用しています。


 陳扶揺著「秘伝花鏡」(1688年。中国最初の花の事典。)より。

 ’秋海棠 一名八月春 秋色中の第一となす 本は矮(ひく)くして葉は大きく 背に紅多くして 咽脂の界紋を作りし如し 花は四出し漸く開いて末朶に到り 鈴子を結び枝椏を生ず 花は矯冶柔媚(きょうやにゅうび)にして真に美人の粧に捲むに同じ 性陰湿を喜ぶ …(中略)… 其の異種に黄白二色あり 俗に云う 昔女子あり 人を懐(おも)いて至らず 涕涙地に洒ぎ 遂に此の花を生ず 故に色嬌として女の面の如し 名づけて断腸花となす’

 中国の「採蘭雑誌」より。(原典は「ろう(女へん+郎)かん(女へん+環のつくりの部分)記」だそうです。)

 ’昔、さるところに、美しい婦人がいた。この女性には誰にもまた何物にも換え難い思慕する男性があった。そして毎日の逢瀬を楽しみに待っていたのであったが、故あってその彼氏はどうしても訪れることができなくなった。それを知らずに、婦人は今日は見えるか、明日は姿が、と北面の墻に待ちあぐんでいた。そして日ごとにそそぐ断腸の涙がいつか凝って名も知らぬ草が生え、その草の花の紅色が、その緑の葉に映ってまことに美しく、やさしく、ちょうどこの美しい女性にも似ているので、誰いうとなく断腸花と呼ぶようになった。’

 断腸花の由来は「群芳譜」にも記載されているいるそうですが、これも原典を確認できていません。

 話がはずれますが、永井荷風の日記「断腸亭日乗」は断腸の悲しみを綴ったわけではありません。荷風が37歳の時に牛込区余丁町の邸内に一室を新築し、秋海棠を植えて断腸亭と名付けていたからです。

 また、創元推理文庫にある北村薫の「秋の花」では秋海棠(断腸花)の花が使われています。「人を思って泣く涙が落ち、そこから生えたという花(あとがきより)」。


 「?(さんずい+章)州府志」より、相思草の由来

 「秋海棠は歳毎に苗が生え、その茎は甚だ脆く、葉は背が紅乱紋を作(な)している。これは相思血というもので、昔、ある人が深い恋に悩んで血を階下に噴いたのが、この物になって生えたのだと語り伝えてある。故に相思草とも名づける。この花は一朶が落ちると旁に二朶を生じ、二が四を生じ、四が八を生ずる。大極の象を具えたもので、特別に雅艶なものである。」

 また、相思草(あいおもいぐさ)は煙草の別名でもあります。(こちらの方が有名なのでは?)


花言葉は、自然を愛す・片思い・不格好・奇形

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十六日桜(じゅうろくにちざくら)

 「十六日桜」(愛媛県松山市)の伝説。

 昔、吉平(きちへい)という孝行息子が老いた父親と一緒に住んでいました。父親は病気になり、死期も近いように見えました。病床の父親は吉平に「桜の花を見てから死にたい。」と言い、吉平は父親に桜の花を見せたいと思いましたが、冬の最中なので桜は咲いていませんでした。それでも孝行者の吉平は父親のために水垢離(みずごり)を取って桜の花が咲くように祈願しました。すると、16日に桜の花が咲き、父親に見せることが出来ました。また、父親の病気も快方に向かい、長生きしたそうです。この桜は毎年1月16日になると咲いたので十六日桜、また、孝行息子の伝説から孝子桜と呼ばれました。

 十六日桜は昔は山越の龍穏寺にありましたが、戦災で焼けてしまい、現在では天徳寺境内と桜谷の吉平の屋敷跡に実生の桜があり、市指定天然記念物になっています。小林一茶がこの桜を見に来遊したこともあるそうです。ヤマザクラの早咲きの品種です。

     孝行は筍よりも桜かな       正岡子規

     めずらしや梅の蕾に初桜      正岡子規

     うそのような十六日桜咲きにけり  正岡子規


 「十六桜」(ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著「怪談」より)

 伊予の和気郡に毎年旧暦の1月16日にだけ花が咲く、十六桜と呼ばれる桜の木があります。普通、桜の花は3月の終りか4月の初め頃に咲きますが、この桜の木にはある侍の魂が宿っているために早く咲くのです。
 彼は年老いて妻や子供達に先立たれ、庭の桜の木だけを愛してきました。ところが、ある夏にその桜の木が枯れてしまいました。近所の人が桜の若木をくれましたが、彼は枯れた桜の木のことしか考えられませんでした。彼は自分の命と引き換えにもう一度花を咲かせてくれるように願い、1月16日に切腹しました。桜の木は毎年1月16日に花を咲かせるようになりました。


 「花物語」には桜(さくら)の項目もあります。

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棕櫚(しゅろ)

 ギリシャ神話のお話。

 レトはゼウスと結ばれて二人の子供を身ごもりましたが、嫉妬したヘラは陸地で出産することを許しませんでした。レトは、陸地とみなされていなかった海面に浮かぶデロス島で産むことにしました。デロス島には丘の上にシュロの木が1本だけ生えていました。レトはシュロの木に取りすがって出産しようとしましたが、ヘラが出産の女神エイレイテュイアを行かせなかったために難産でした。見かねた他の神々がヘラの目を盗んでエイレイテュイアを呼んできてアルテミスが産まれました。アルテミスは弟のアポロンのために助産婦の役目を果たし、出産の守護神としてもあがめられるようになりました。


 シュロの日曜日palm Sunday。

 3月21日以後の満月の次の第一日曜日がイースター(復活祭Easter day)で、イースター前の日曜日がシュロの日曜日です。 ヨハネ伝(10章12〜13節)の「翌日、祭に来ていた大勢の人々は、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、シュロの木の枝をとって、出迎えのために出ていった。」という記述に由来しています。
 昔、聖地に詣でて帰る人々がシュロをお土産にしたことから、シュロを持つ人は巡礼者を意味したそうです。


 中国の瑤(ヤオ)族の民話「忠樹物語」。

 昔、広西省の桂北地方に仲のよい母親と息子がいました。二人はとても貧しかったので、息子は遠くへ働きに出かけることになりました。母親は近所から穀物を借りて粉にひき、6枚のポーポ(焼いた餅のようなもの)を作って息子に渡しました。息子は3枚を布に包んで懐に入れ、残りの3枚を母親に渡して、「これだけあれば三日はもつでしょう。どんなに遅くとも三日したら帰ります。」と言って出かけました。
 途中の大きな山で、山賊達は金品を奪うために息子を斬り殺しましたが、食べ物しか持っていなかったのでがっかりして立ち去りました。すると、死んだ息子の身体は鳥に変身し、「ポーポを返してくれ」と鳴きながら山賊達の頭上を飛び交いました。山賊達は気味悪がって鳥に石を投げつけて谷底へ落としました。しかし、鳥の姿が見えなくなっても山賊達には「ポーポを返してくれ」という声が聞こえ続け、声におびえて逃げ回っているうちに山賊達は足を踏み外して谷底へ落ちてしまいました。
 三日経っても息子が戻ってこないので、翌日、母親は息子を捜しに出かけました。大きな山で母親は息子の服の色と同じ羽の色をした鳥が死んでいるのを見つけました。傍らには緑の葉をつけた愛らしい草が1本生えていました。息子を見つけられなかった母親は死んだ鳥と草を持ち帰り、鳥を庭に埋め、その上に草を植えました。草は生長して木になり、息子の服によく似た皮をまとい、死んだ鳥の尾の形の葉をつけてました。そして、母親の夢に息子が現れて言いました。
「私はもうお母さんの役には立てません。庭の木の幹に生えた皮をはいで、縄や蓑を作って、それを売って暮らしてください。」
 やがて庭の木は、皮と幹の間につぼみをつけましたが、それはポーポにそっくりでした。母親は息子が木に変身して自分を助けてくれているのだと気付きました。人々は孝行息子に感心し、この木を忠(ツォン)樹(棕(ツォン)樹。しゅろのこと)と名付けました。今でも棕櫚の花のつぼみは幹と皮の間につき、葉は鳥が翼を広げたような形をしています。桂北地方の人々は悲しい話を繰り返さないために、若者を棕櫚の木に近付けず、樹皮を採るのは老人の仕事としました。


 シュロは用途の広い樹木で、日本では和歌山県や熊本県で栽培されているそうです。庭木としてもよく見かけます。てぃんくの家の庭にも以前はシュロの木がありました。シュロの繊維を採ってきて小鳥の巣の中に敷いていました。植木屋さんはシュロの葉をカットしてうちわをつくってくれました。
 シュロは、ほうき、はけ、帽子、敷物、ぞうりの裏、うちわ、水道のろ過材などに使われています。以前は水泳の高飛び込みの台の表面のすべり止めにも使われていたそうですが、現在はゴム製になっています。また、中国では花をタケノコのように食用にするそうです。


 お菓子にパルミエというのがありますが、「パルミエ」は「シュロの葉」の意味です。焼き上げたときにパイの形がシュロの葉の形になるように工夫してたたむそうです。シュロの葉というよりは、くるくると巻いたハート型の可愛らしいパイだと思うのですが…。


花言葉は、勝利

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棕櫚草(しゅろそう)

 中国の民話。

 昔、ある農家の三男が癲癇(てんかん)にかかりました。三男は発作を起こすと、倒れて気を失って口から泡を吹いたり、意識が朦朧としてうわ言を言ったり、暴力を振るったりしました。左隣の子供に怪我をさせたり、右隣の豚を殺したこともありましたので、家族の者は三男を嫌っていました。ある日、長男と次男は三男を殺そうと思い、毒があるので牛や羊も食べない棕櫚草という毒草を煎じて飲ませることにしました。ところが、いざ実行してみると、三男が死なないばかりか、病気が治ってしまいました。こうして棕櫚草は癲癇を治す生薬として知られるようになりました。(日本では毒草としてしか見られていないようです。)


 シュロソウは、ユリ科シュロソウ属の植物です。古い葉の繊維が茎の下の方に残って、ヤシ科のシュロの樹皮毛のようになるところから、名付けられました。

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蓴菜(じゅんさい)

 ジュンサイはスイレン科の植物です。


 「白鳥姫伝説」(福島県高郷(たかさと)村)

 昔、潟(かた)が三つあるので三方(みかた)村と呼ばれていましたが、やがて、その潟は沼と呼ばれるようになりました。三つの沼は仲の良い兄弟で、大きい順に上沼(長男)、中沼(次男)、下沼(三男)と呼ばれていました。
 ある時、日光の二荒山の神様と赤城山の神様が領地争いをし、双方の神様が兄弟沼に加勢を求めてきました。兄弟沼は日光の中禅寺湖の申し子であり、長男の上沼の妻は赤城山のまな姫でした。困った兄弟達は相談して、長男は赤城山の神様に、次男と三男は二荒山の神様に加勢して、敵同士として戦うことになりました。戦いは日光の戦場ヶ原で行われ、日光の二荒山の神様の勝利に終わりました。凱旋した次男と三男はたくさんの褒賞をもらいましたが、長男は戦死してしまいました。長男の妻は白鳥に化身して氷雪の舞う上沼の上空を飛んでいましたが、突然、沼にはった氷めがけて自ら落ち、くちばしを氷に突き刺したまま死んでしまいました。弟沼達は仲のよかった兄夫婦を思い、涙を流しました。
 やがて、三方の山に春がくると、上沼に蓮が芽を出し、白鳥の首のようなつぼみをつけ、純白の花を咲かせました。また、沼にはジュンサイも生えるようになりました。村人達は、白鳥と化した長男の妻の身体が蓮の花に、羽毛がジュンサイになったと思い、姫の霊を慰めるために沼神を祀り、兄弟達のために日光神を奉祀しました。


 群馬県の榛名湖の近くの伝説。

 昔、一人の老人が毎日榛名湖で釣を楽しんでいました。ある日、魚が1匹もかからないので、あきらめて家に帰ろうとすると、湖底から老人を呼びとめる声がしました。やがて水中からやせ衰えた男が現れて、1本の糸を差し出して言いました。
「私はジュンサイの精です。この湖には古くから大きな緋鯉が住んでいて、小魚をたくさん食べ、水中に生えたジュンサイも食べ荒らしています。この糸はヌナワの糸といって、私の族に伝わるとても強い糸です。きっと緋鯉を釣り上げることもできるはずです。どうか助けてください。」
 翌朝、老人がヌナワの糸を垂れて待っていると、なんと長さ一丈もある緋鯉が針にかかりました。しかし、巨大な緋鯉は尾で老人の舟を壊してしまい、。老人は湖底に沈んでしまいました。それ以来、榛名湖にはジュンサイが生えなくなったといわれています。


 羽後の伝説「赤花ジュンサイ由来」
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”羽後国(秋田県)の盗難、栗駒山系の西北に、ダムで有名な皆瀬村がある。その昔は、落人部落のようなひっそりした山村だったにちがいない。そこの小部落、皿小路に往時徳兵衛という地主がいた。むかし、東北地方の農村では時々冷害にみまわれ、年貢米はもとより、自分たちの食糧にさえ困ることが多かった。そういう場合、小作人たちは土地のあるものは土地を、家のあるものは家を、娘のいるところは娘を担保として、地主から金または食べものを借りて、かろうじてその年の一家の命をつないできた。
 ある年のこと徳兵衛のところへ、十五歳になったばかりの小娘佐太子が連れて来られた。佐太子もまた父の借金の抵当として奉公に来たのである。ところが、佐太子は年ごろになると、ぼろを着ていても天成の美しさは隠しようもなく、並はずれて美しい娘となった。それを見て徳兵衛は、邪悪な欲望に駆り立てられて隙を見ては言いよったが、佐太子は頑強にそれを拒みつづけていた。
 そのため徳兵衛は娘に対してことごとにつらく当たるようになっていたが、とうとう山神社の花見の時に、神社脇にある小沼を泳いでむこう岸まで往復したら、借金を棒引きにしてやろうと乱暴極まることをいいだした。周りに花は咲き、木々は芽ぐんではいても、東北の春はまだ浅く、ましてや沼の水は、氷のように冷たかった。それで沼に飛びこんだ娘は手足がしびれて言うことが効かなくなり、ついに溺死した。
 その事件以後、小沼のジュンサイは、赤い花が咲きだしたという。ジュンサイの花はもともと紫紅色だが、ここの花はもえるような赤だという。それはともかく村人は死んだ娘の霊がこの花に宿っているものと見て、この沼を以後娘の名をとって「佐太沼」と呼ぶようになったそうである。(『日本伝説の旅』)”


 「蓴羹鱸膾(じゅんこうろかい)」のお話。

 晋の張翰は秋になると無性に故郷の蓴羹(ジュンサイの吸い物)と鱸膾(スズキのなます)が食べたくてたまらなくなりました。そして「人生貴得適意」(人生は自分の望みをとげてこそ価値がある)と言って、高官の地位を辞して帰郷してしまいました。
 このお話の出典は唐の太宗の命で編纂された晋の正史「晋書(しんじょ)」張翰伝です。

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生姜(しょうが)

 中国の民話(湖北省)。

 昔、巴州のあたりに長寿村と呼ばれている村がありました。長寿村には長寿の一家が住んでいました。長寿村の近くに住む富豪は長生きがしたかったので、長寿の一家に秘法を教えてもらおうと思い、下男に宝物を持たせて長寿の一家の家を訪ねました。しかし、長寿の一家の最年長の老人は、「私達の家には秘法などありません」と言って、田畑に出てしまいました。
 富豪は長寿の一家が秘法を教えてくれないことに腹を立て、役人をしている息子にそのことを手紙で知らせました。息子は、その地方の役人に指図して、長寿の一家の最年長の老人を捕えさせました。老人は言いました。
「本当に秘法などありません。毎日、大根と生姜の煮汁を飲んで、規則正しい生活をしているだけです。」
 役人は怒って老人を投獄しました。老人は1ヶ月ほどで牢屋の中で死んでしまいました。その知らせを受けた長寿の一家は、役所の壁に次のような内容の歌を書いた紙を貼って、どこかへ去って行きました。
「長生きしたいと願うなら、夜寝る前に大根の煮汁を、朝起きてから生姜の煮汁を飲みなさい。肉や魚をひかえ、野菜を多く摂り、早寝早起きをし、よく歩きなさい。」
 役人は長寿村を訪れ、歌の内容が正しいことを確信し、長寿の一家を無罪にしました。そして長寿一家の健康法を県内の人々に教えたので、百歳を越える長寿の人がたくさん出るようになりました。
 後に、名医の李時珍が長寿村を訪れ、「本草綱目」を書き改めた時に、大根と生姜を生薬に加えました。


 波自加弥神社(石川県金沢市二日市町)の生姜祭りの由来。

 波自加弥神社は全国で唯一、ショウガやワサビなど香辛料の神をまつる神社です。「はじかみ大祭(別名しょうが祭り)」にはショウガが供えられ、が開かれ、玉ぐしをささげた後、清められた生姜湯が参拝客に振る舞われます。
 奈良時代、この地方が大干ばつに見舞われた時、国造(現在の県知事)が雨乞いのために高松山に籠りました。すると、二十一日目の満行の日に霊水が湧き出して稲は無事に育つことができました。人々は神に感謝し、供え物をしようと思いましたが、長く続いた旱魃のため供える物がなかなか見つからず、その時に供えたのが一籠の生姜でした。それがこのお祭りの由来です。


花言葉は、孤独

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白樺(しらかば)

 フィンランドのキリスト教伝説。

 乙女マリアは幼子イエスを抱いて、追っ手達から逃げていました。道端にシラカバとポプラが立っていました。シラカバは、マリアとイエスを見ると、枝を地面まで下げて深くお辞儀をしましたが、ポプラは挨拶をしませんでした。それからシラカバには、しなやかな枝ができ、風が吹くと枝をしならせてイエスにお辞儀をするようになりました。けれどポプラは、嵐の時でも突っ立っているだけです。


 バイカル湖周辺の民話。

 白樺の木が女の子を産みました。女の子は白樺の樹液を飲んで美しい娘に育ちました。ある時、熊が娘をみつけて森へ連れて行きました。熊は苺を、リスは木の実を運び、森中の動物達が娘を大切にしました。ところが娘は空に連れ去られてしまいました。森の動物達は娘を助けられなかった責任をなすりつけあい、お互い仲が悪くなりました。しかし娘が空から見守っているので森の動物達を狩るのはむずかしいのです。


 中国の蒙古族の民話「白樺は狩人ウーノンの化身」。
 (石川鶴矢子著「石の羊と黄河の神」(筑摩書房)より要約)

 ある日、狩人のウーノンは、赤い兎が灰色の狼に追われているのを見つけ、兎を助けようとして狼に向けて矢を放ちましたが、矢は誤って兎に当ってしまいました。ウーノンは次の矢で狼を倒しましたが、兎は身体に矢が刺さったまま走り去りました。ウーノンが兎を追っていくと、湯が湧き出ている池がありました。ウーノンは考えました。『老人達が言っていた湯の池に違いない。池に入った者は、池の主に食べられてしまう。兎は池に落ちて死んでしまったのかもしれない。』
 ウーノンは楡の木の根元に腰をおろすと、そのまま眠ってしまいました。すると、夢の中に、赤い服を着た美しい天女が、ウーノンの矢を持って現れ、ウーノンが狼でなく自分を射たことを非難しました。
 翌日から、ウーノンは重い病に罹り、身体中にできものができ、痛くて身体を動かせなくなりました。ウーノンの妻は、夫の病が治るように昼も夜も月の神に祈りを捧げました。月の神は天女に、ウーノンが兎を狙ったのではないということを伝え、病を治すように命じました。天女はウーノンの前に姿を現し、誤解したことを謝り、山の中の湯の池につかれば病を治せる、と言いました。そして、そのことを他人に話せばウーノンの命はなくなる、と言いました。
 ウーノンが湯の池につかって身体を洗うと病はすっかりよくなりました。でも、ウーノンは、できものや病で苦しんでいる他の仲間達も救いたかったので、、彼らに湯の池のことを話しました。彼らも湯の池につかって病を治すことができました。
 ある日、ウーノンが崖のそばの楡の木に寄りかかって眠っていると、夢の中に天女が現れました。ウーノンは、仲間達のために天の掟を破った罰を受ける覚悟ができていました。天女はウーノンを白樺の木に変えました。天女は、寒い冬の日も、暑い夏の日も山腹に立たせて懲らしめるつもりでしたが、白樺は何も恐れず、天に向って真っ直ぐに伸びていきました。


 オロッコ民話「男は白樺、女は柳から」。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”北地のツンドラ地帯には、オロッコ、ギリヤーク、ヤクートなどのいわゆる北方自然民族が住んでいる。その中のオロッコ民族に、男は白樺から、女は柳から生まれたという発想の伝説がある。

 ずっとむかしに、あるオロッコ人が自分たち人間はどこから生まれたのかと疑いを抱いていた。そこで偉いシャマといわれている巫術者に、人間は天から降ってきたのか、それとも地から湧いてきたのかと尋ねた。
 するとシャマは、太鼓を叩いて巫術を行なった。その間オロッコ人は首をうなだれ、目をつぶって待っていた。やがてシャマが、「オロッコの根は白樺と柳だ。白樺は男で、柳は女であった。それが夫婦となって、頭の毛の白い子が八人と、目色の青い子供が八人と、併せて十六人の人間が生まれた」といったという。(『北方自然民族民話集成』)”


 オロッコ民話「女は白樺、男は柳から」。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、オロッコのある男が、ある日山の中で偉いシャマに出逢った。この男はただ独りで住んでいて、他に誰ひとり仲間がいなかったので、男はシャマに俺はどこから生まれたのか、またどこから来たのかと尋ねた。
 するとシャマは、さっそく巫術を行って答えた。むかしあるところに白樺があった。その樹脂(やに)が溶けて地上に流れ落ち、凝り固まって人間の形になった。それが女であった。またあるところに柳があった。その樹脂が溶けて地に落ち、凝り固まって人間になった。それが男であった。この男と女が夫婦になり、そのうち女の腹が大きくなって、いちどに十四人の子供を生んだ。そのうち男女併せて七人は、みな頭が禿げていた。あと七人は男も女もみな目が青かった。そこで夫婦は十四人の子供を禿頭七人と青目七人に別けて育てた。
 ところが、頭の禿げた子供たちは大きくなると、化物とか悪者とか、犬、虫、蝮などの恐ろしいものとなった。そこで女は男と別れて、青い目の子供たちを連れて出ていって、海の神となった。その時子供たちはみな川辺のミツタという刺のある木になったが、ただひとりの男の子だけは、人間のままで残った。しかし、この子も後に困ったので、お月さまのところへ行ってしまったという。

 以上二つの話では面白いことに男と女になった木がまるであべこべになっている。これは恐らく、民話が次から次へと語り伝えられている中に、どこかでこんな事になったのだろう。(『北方自然民族民話集成』)”


 フィンランドの童話「白樺と星」のお話。
 (ザカリウス・トペリウス著、桑木務訳「白樺と星」より要約)

 昔、フィンランドに戦争がありました。幼い兄と妹は、家族と生き別れになり、遠い見知らぬ国の親切な家庭で育てられました。戦争が終り、フィンランドに平和が戻ると、兄妹は祖国へ帰りたいと思いましたが、養親達は反対しました。しかし、二人は養親の家を抜け出して祖国へ向いました。
 二人の記憶では、二人の住んでいた家には大きな白樺の木があり、綺麗な鳥が明け方に来て鳴いていました。二人は、神様が守ってくれることを信じて、自分達の記憶を頼りに家へ向いました。途中の分れ道で二人が困っていると、二羽の小鳥がさえずって左の道だと教えてくれました。しかし、フィンランドは広く、二人はたくさんの白樺と星を見ましたが、どれも二人の探しているものではありませんでした。二人は旅を続けました。二羽の小鳥は、いつも二人を正しい道に導いてくれました。二人は天使が導いてくれているのだと信じていました。
 二年目の五月の終りの精霊降臨祭の夜、二人は大きく繁った白樺と、その葉の間から輝く星を見ました。それは二人の記憶の中の白樺と星でした。白樺の下には二つの十字架がたっていました。家には年老いた両親がいて、白樺の下で眠っている二人の子供と、敵国に連れ去られた二人の子供のことを思い出して悲しんでいました。兄妹は両親に名乗り出て再会を喜び、自分達を導いてくれた小鳥達が、白樺の下のお墓で眠っている姉達だと知りました。兄妹と両親は白樺の下のお墓のところに行き、姉達にお礼を言い、神様に感謝の祈りを捧げました。


 ロシアの童話「白樺と三羽の鷹」(アファナーシェフ童話集)のお話。

 任期を終えた兵士が故郷へ帰る途中、悪魔に仕事を頼まれました。
「俺は海の向うの娘と結婚式をあげなければならないので、留守の間、俺の三羽の鷹の世話をしてくれたら、給料をはずむよ。」
 兵士はお金がほしかったので承知して、悪魔の家に行きました。悪魔の家の庭には一本の白樺の木が立っていました。白樺は人間の声を出して頼みました。
「兵隊さん、これから話す村へ行って、そこのお坊さんに『今、夢で見たものを渡してください』と言ってください。」
 兵士が白樺の言う通りにすると、お坊さんは一冊の本を渡してくれました。白樺の木は、今度はその本を読んでくれるように頼みました。兵士が本を読むと、白樺の木の中から美しいお姫様の姿が頭から胸まで現れました。兵士は、翌晩も翌々晩も本を読みました。すると、お姫様が全身を現して言いました。
「私は王女です。悪魔に白樺に変えられいました。私を助けようとした三人の兄達も呪われて三羽の鷹になっていたのです。」
 三羽の鷹も呪いが解けて人間の姿に戻りました。王女と三人の王子は兵士を連れて城に帰りました。王様とお妃様はとても喜んで、兵士とお姫様を結婚させて、みんな仲よく楽しく暮らしました。


 ロシアの童話「馬鹿と白樺」(アファナーシェフ童話集)のお話。

 お爺さんと三人の息子がいました。二人の兄は利口でしたが、弟は馬鹿でした。お爺さんが亡くなると、二人の兄はたくさんの財産をもらいましたが、弟は痩せた牛一頭しかもらえませんでした。
 町で市の立つ時がくると、馬鹿は市場で牛を売ろうと思い、町へ向いました。途中に古い枯れた白樺の木がありました。白樺の木は風が吹くたびに、ひゅうひゅう音をたてていました。馬鹿は言いました。
「白樺君、そんなにひゅうひゅう音をたてているけど、僕の牛がほしいのかい?20ルーブリでなら売ってあげるよ。金を払ってよ。」
 白樺の木は相変わらずひゅうひゅうと音をたてていました。馬鹿は「掛売りにしてほしいんだね。お金は明日まで待ってやるよ」と言って帰りました。
しかし、翌日も翌々日も白樺の木はひゅうひゅうと音をたてるだけでした。
 その翌日、馬鹿はお金を払ってくれない白樺の木を斧で倒しました。白樺は幹が空洞になっており、泥棒が盗んだ金を隠しておいた壺が出てきました。馬鹿は持てるだけのお金を持って帰り、兄達にも話し、残りの金を三人で取りに行きました。その帰り道、三人は寺男に出会いました。二人の兄はキノコをとってきたと嘘をついて隠そうとしましたが、馬鹿は金を見せびらかしました。すると、寺男が突然金を奪ったので、馬鹿は斧で寺男を殺してしまいました。三人は相談し、寺男を穴倉に隠しました。しかし、兄達は、きっと馬鹿な弟が寺男のことを話してしまうに違いないと考え、羊を殺して寺男のかわりに穴倉に入れ、寺男を別の場所に埋めました。
 二、三日後、寺男の行方を捜すために、村人達は一人ひとり尋問されました。馬鹿は自分の番になると言いました。
「あいつは僕が斧で殺しました。死体は兄達が穴倉に入れました。」
 馬鹿は捕まり、穴倉に案内させられました。馬鹿は一人で穴倉に入り、「寺男は色黒で、あごひげと角があったかい?」と言いながら、羊をつかんで出てきました。その場にいた人々は腹をたて、馬鹿をさんざん殴って帰って行きました。


 北海道の愛冠岬(あいかっぷみさき)は、アイヌ語で「矢が達しない所」の意味があります。昔、アイヌ同士の戦いで、一方が愛冠岬に逃げ、矢が届かなかったために戦いが終わったという伝説があるほど白樺の原始林に囲まれた断崖絶壁です。
 厚岸観光協会発行の冊子によると、愛冠岬は「困難を乗り越え、愛の栄冠を得る」との思いで名付けられたそうです。ここを訪れると必ずや愛がかなうといわれ、現在では若いカップルに人気のスポットとなっています。愛のベルアーチはそれを象徴するモニュメントです。


 「華燭の典」

 盛大な結婚式のことです。「華」は「樺」のこと、華燭は樺の木の皮を松明にして明るくすることを指していました。樺の樹皮が油成分を含んでいるため、よく燃えて、世界的に松明用に用いられていました。

 また、樹皮で屋根を葺くのも世界各地で行われています。これも油成分を含むために水を通さず、長持ちするからです。

 ロシアの名物の一つ、白樺糖のシロップは白樺の樹液を煮詰めて作ります。北海道の美深(びふか)という町では、町おこしの一環として白樺糖のシロップの生産を始めました。1995年の4月には国際樹液シンポジウムまで開いたそうです。


花言葉は、光と豊富・柔和

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白髭草(しらひげそう)

 白山のオオシラヒゲソウの由来伝説(石川県)。

 昔、加賀白山の麓に、ウルシカルベ(美可留部)という美しい青年が一人で住んでいました。ウルシカルベは木や草の実を食べて育ち、他の人間を知らず、彼の友達は鹿だけでした。
 ある日、ウルシカルベが白山の尾根を歩いていると、草笛の音が聞こえてきました。ウルシカルベは初めて聞く音色に興味を持ち、音のする峰の方角へ向かって登っていきました。そして、一人の少女が草笛を吹いているのを見つけて立ち止まりました。少女はウルシカルベに気付くと、頬を染めて手招きし、ウルシカルベの手を取って自分の家に誘いました。
 少女の家の畳は琥珀でできていて、周りには宝石がびっしりと埋め込まれていました。少女は「ここの主が戻るまではゆっくりして下さい」と言って、ご馳走を並べ、見事な舞いを舞いました。ウルシカルベは少女に夢中になりました。
 三日ほど経った日の夜、風雨が激しくなり、地鳴りが起こりました。すると、少女は泣いてウルシカルベに言いました。
「主が戻ってくるので逃げて下さい。それから、この鏡をお持ち下さい。この鏡を差し向ければ、どんな魔物も近付くことができません。ただし、あなたはこの鏡を決して見ないようにして下さい。」
 ウルシカルベは外へ出ましたが、辺りは暗闇で、どの方向へ向かえばいいのかもわかりませんでした。しかし、暗闇の中に無気味に光るものが現れ、唸り声をあげてウルシカルベに襲いかかってきました。ウルシカルベは必死に逃げましたが、追いつめられてしまいました。その時、ウルシカルベは少女にもらった鏡のことを思い出し、唸り声のする方向に鏡を差し向けました。すると、「俺の妻を盗んだお前は憎いが、その鏡にはかなわない。しかし、お前もその鏡のせいで死ぬだろう。」という声がして、辺りは静かになりました。いつの間にか嵐が収まり、夜も明け始めていました。
 助かった嬉しさで少女の言葉を忘れていたウルシカルベは、つい鏡を見てしまいました。鏡に映ったウルシカルベは、白髪白髭のしわだらけの老人の姿をしていました。驚いたウルシカルベは、そのままそこで岩になってしまいました。やがて、その岩の周りにウルシカルベの白い髭のような花が咲くようになり、その花は白髭草と呼ばれるようになりました。

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紫蘭(しらん)

 紫蘭Bletilla striataはラン科の多年草です。ラン科にしては珍しく栽培が容易で繁殖力もあるため、よく見かける花です。和名は花の色に由来して名付けられましたが、白色のシロバナシラン(白花紫蘭)や唇弁に紅色の斑の入るクチベニシラン(口紅紫蘭)等の栽培種もあります。花は蘭茶にして飲用することもあるようです。
 紫蘭の地下にある塊茎は白キュウ(ビャッキュウ。「キュウ」は漢字では、「草かんむり+及」です。)と呼ばれ、漢方では止血、排膿剤等に用いられます。白キュウは毎年1球ずつ増えていくので、数えると草齢がわかります。また、白キュウは多量の粘液を含んでいるので、七宝の糊や陶磁器の絵付け等にも利用されているそうです。


 中国の苗(ミャオ)族の洪水伝説。

 昔、アペ・コペン(アペは祖父、コペンは始で、始祖の意)という怪力無双の男は娘のダロンと息子のバロンと3人で暮らしていました。アペ・コペンは天に住む雷と兄弟分でしたが、ある時、アペ・コペンが雷を騙して、雷の大嫌いな鶏の肉を食べさせたため、雷は怒ってアペ・コペンを切り裂こうとしました。しかし、アペ・コペンは策略を用いて雷を捕え、鉄の檻に閉じ込めてしまいました。アペ・コペンは子供達に、「雷には決して火種をあげてはいけないよ」と言い聞かせてから、雷を塩漬けにするための塩を買いに出かけました。雷は子供達に火種をくれるように頼みましたが、子供達は断りました。そこで雷は今度は子供達に火種を水につけて消した消炭をくれるように頼み、もらうことができました。雷は消炭の芯に残っていた火を吹きおこして鉄の檻を焼き切って天に逃げ戻りました。
 雷は大洪水をおこしてアペ・コペンを殺すことにしましたが、自分を助けてくれたダロンとバロンは助けてあげたいと思いました。そこで雷はアペ・コペンの留守中に二人を訪れ、カボチャの種を1粒あげて蒔かせました。カボチャはみるみる生長し、花を咲かせ、たらいほど大きな実をつけました。雷は実に穴をあけて種と中身を取り出すと子供達に言いました。
「このカボチャを干しておきなさい。大洪水がきたらその中に入っていれば助かるからね。」
 アペ・コペンは子供達から雷の話を聞くと、自分のために小さな丸木舟をつくりました。すぐに大雨が降り始め、昼夜降り続け、天に迫る大洪水がおこって、3人を除く地上の人間はみんな溺死してしまいました。天国の入口の南天門の下に流れついたアペ・コペンは雷をやっつけるために、天にとどく日月樹(太陽と月を宿らせる大木)を登って天に入りました。すると、雷が日月樹を枯らしたので、アペ・コペンは二度と地上に戻れなくなりました。アペ・コペンは雷を追いながら鉄棒をやたらに振り回したので、跳ね飛ばされた水は地上に落ちて川になり、跳ね飛ばされた土は地上に落ちて山になりました。
 洪水がひくと、ダロンとバロンは自分達しか人間がいないので悲しみました。二人は兄妹なので結婚することができなかったのです。すると、アペ・コペンが南天門から首を伸ばしてバロンに言いました。
「兄さんと結婚しなさい。そうすれば人間は滅びないよ。もし、石臼のような子が生まれたら、刀で刻んで四方にまきなさい。」
 ダロンとバロンは結婚し、1年後に、目も耳も口も鼻もない石臼そっくりの子供が生まれました。ダロンがその子を切り刻んでまくと、翌日には人間がたくさん生活していました。屋根の上にまかれた一族の姓は呉(ウー)、尾根にまかれた一族の姓は竜(ロン)、蓼草にまかれた一族の姓は蓼(リャオ)、麻がらにまかれた一族の姓は麻(マー)、石の上にまかれた一族の姓は石(シー)となりました。
 また、まく所がなくて山に埋められた部分は紫蘭という薬草になりました。苗族の人々はあかぎれができると紫蘭の塊茎を掘り出して貼り薬をつくるようになりました。


 高瀬豊吉著「薬草の由来伝説と薬効」(加島書店)より引用。

 ”昔、台州のある獄吏は一人の重罪犯人にあわれみをかけていたので、その囚人も深くその情に感じておった。ある時その謝意の意味で「自分は死刑の罪を七回も犯しているが、その都度拷問を受け肺が悉く損傷して血を吐くようになったが、ある人から白及末を米飯で日毎食べるとよいと伝授され、それで神効を挙げている。御礼に伝え申す」といった。その囚人は刑に処せられたあとで解剖して見たところ、肺全面に数十のウツロがあって、それが悉く填補され、色さえ変わっていなかった。この話を聞いた洪貫之が洋州へ赴任した際一人の従卒が突然喀血甚だしく、危篤に陥ったので、この方をもちいて救ってやった。その病はただ一日で癒えたという。”


     紫蘭咲いて いささか紅き 石のくま
         目に見えてすずし 夏さりにけり     北原白秋

     紫蘭咲いて いささかは岩も あはれなり     北原白秋

     君知るや 薬草園に 紫蘭あり          高浜虚子


 有名な植物学者がある婦人にこの植物の名前を尋ねられて「シラン」と答えたら、「植物学者にも名前のわからない植物があるのですね。」と言われたというお話があります。「知らん」…(笑)


花言葉は、互いに忘れないように・美しい姿

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沈丁花(じんちょうげ)

 ジンチョウゲの漢名は「瑞香」といいます。

 昔、盧山に比丘という名の僧が住んでいました。比丘が山中で昼寝をしていた時に、甘く情熱的な香りを放つ木の夢をみました。比丘は目がさめてからもその香りが忘れられず、あちこちと探し求め、とうとうその芳香を放つ木を見つけて持ち帰りました。その名もない木には花が咲いていました。盧山はその木を、夢で出会った香りという意味で「睡香」と名付けました。
 後にこの話を聞いた好事家が、これは祥瑞(めでたい前兆)であるということで、睡を瑞にかえて「瑞香」としました。(明の謝肇せつ著「五雑俎」より)


 和名の沈丁花の名の由来としては、牧野冨太郎博士の「花の香りが沈香(じんこう)と丁字の香りに似ている。」という説や大言海にある「香、沈香のごとく、花、丁子に似たりとてこの名をなす。」という説等があります。


 雌雄異株で、雌株には赤い実がなりますが、日本には雄木が普及し、雌木がほとんどありません。


     沈丁の 香の石階(せっかい)に 佇みぬ    高浜虚子

     沈丁の 葉ごもるる花も 濡れし雨      水原秋桜子


 ところで、沈丁花のことを「チンチョウゲ」という人もいるのをご存知でしょうか?
 その理由と思われるお話が見つかりました。久米正雄の新聞連載小説「沈丁花」に「チンチョウゲ」と振り仮名が振ってあったそうです。沈丁花は「ジンチョウゲ」と読むべきだという投書がたくさん寄せられたそうですが、本人は「植物名はともかく、清音の方が作品にふさわしい。」と譲らなかったそうです。


花言葉は、栄光・不滅・無駄なこと

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スイート・ウッドラフ

 スイート・ウッドラフAsperula odorataはアカネ科クルマバソウ属の多年草です。

 和名は、クルマバソウ(車葉草)。
 英名は、Sweet Woodruff。

 葉の形がエリザベス朝に流行したレースのひだえり、ラフruffに似ているところから名付けられたという説や、wood-rowellと綴られることもあり、
「滑車の歯車rowell」に似ているところから名付けられたという説があります。


 北欧に伝わる伝説。
 (ココロ・カンパニー著「ハーブ・バイブル」(丸善メイツ)より引用)

 ”昔、一人の美しい乙女がウェディングの直前に原因不明の急病で倒れ、とりあえず挙式は延期されることになりました。それから数ヶ月もの長い間、乙女は高熱に浮かされたまま眠り続けますが、最初は心配して毎日お見舞いに通ってきた婚約者の青年の足も次第に遠のいていきました。乙女は眠ってはいましたが、元気だった頃のように二人仲良く野原を駆け回る夢を見て、彼女自身はいつも彼と会っていたのです。
 青年の夢の中に時々乙女が訪れるようになったのは、乙女の容態がいつまで経ってもよくならないため、諦めて青年がほかの女性に心を移しはじめた頃。夢の中に甘い香りが広がり、不思議なことに目覚めた後も青年の周辺にはその残り香が漂っているのです。一体何の香りだろうと考えてみると、青年がいつも乙女と待ち合わせをしていた場所に咲いていた小さな花の香りによく似ています。それに気づいた青年が、その花を摘んで乙女の元に駆けつけたところ、乙女は香りに誘われるように目を覚ましたということです。”


花言葉は、復活・穏当な価値・永遠の命と歓喜

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スイートバジル

バジル

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西瓜(すいか)

 敦厚の伝説「瓜州(かしゅう)の西瓜」。
 (上海文芸出版社編蔡敦達・高梨博和訳「敦煌の伝説・上」(東京美術)より要約)

 昔、敦煌は瓜州や沙州と呼ばれていました。その由来の伝説です。

 西王母が天上瑶池(てんじょうようち)ではなく、まだ三危山に住んでいた頃のお話です。西王母は桃の木が大好きでしたので、三危山にたくさんの桃の木を植え、3年毎に天上の神々を、5年毎に地上の国王達を桃の宴に招きました。ただし、国王達は西王母への手土産が必要でした。
 ある年、初めて宴に招かれた桃槐(とうかい)の王様は特産の瓜を西王母に捧げました。今まで献上された瓜と違い、実が赤く、種は黒く、果汁は甘く、喉の乾きをうるおしてくれました。西王母はその瓜が気に入り、桃槐が辺境の最西端にあることから西瓜と名付けました。
 ある日、月に住む嫦娥が三危山に遊びにきました。西王母は自慢の西瓜でもてなしました。嫦娥も西瓜が気に入り、月で西瓜を育てるために種をもらいました。月に戻る途中、嫦娥は寄道をしました。真夏の暑い盛りに滝のような汗を流して畑仕事をしている年寄りと息子を見て、貧しい人達こそ西瓜を食べるべきだと思い、種をあげてしまいました。二人は西瓜をつくって売ってお金持ちになりました。そして西瓜をつくる農家が次第に増え、この地方は瓜州と呼ばれるようになりました。
 嫦娥のくれた西瓜の種の話が伝わっていくと、人々は嫦娥に感謝するために八月十五夜に月餅や西瓜を供えるようになり、この習慣は今も続いています。
 西王母は、嫦娥が自分の与えた西瓜の種で人々の尊敬を得たことが面白くなく、風で西瓜を安西地方に吹き飛ばしてしまいました。そのため、安西は瓜州と呼ばれるようになり、砂の吹き込んできた敦煌は沙州と呼ばれるようになりました。


 ベトナムの昔話「スイカをひろめた男」。
 (富田健次著「ベトナムのむかし話」(偕成社)より要約)

 昔、枚安暹(マイ・アン・ティエム、暹はタイのこと)という名の若者が、南方からベトナム王の雄王(フン・ブオン)のもとへ奴隷として売られてきました。王様は賢いマイを気に入っていつもそばにおいていました。マイは王様の養女を妻にし、35歳になると、王様の側近の役人になり、宮殿の近くに屋敷を持つことができました。マイは妻と5歳になる男の子と家来に恵まれ、何一つ不自由なく暮らしていました。マイは自分の生まれた国の人々と同じように、自分が幸福なのは自分の前世のおかげだと信じていました。
 以前からマイをねたんでいた役人は王様に、「マイが幸福なのは王様のおかげなのにその恩を忘れている」と告げ口しました。怒った王様はマイに一季節分の食料を与えて、ベトナム南部の峨山(ガーソン)入り江の沖にある島に島流しにしました。マイは、こうなったのは自分が前世で悪いことをしたからだと思いました。マイの妻は子供を連れて夫について行きました。
 与えられた米が少なくなってきた頃、西の方から大きな鳥の群れが降り立ち、何かの種を5、6粒落として飛び去っていきました。やがて、種は芽を出し、葉を茂らせ、砂浜全体に蔓を伸ばし、人の頭ほどもある青いつややかなウリの実をたくさんつけました。その実の中身は赤く、甘く爽やかな味がしました。鳥が西の方から運んできた種からできたウリなので、マイはそのウリを西瓜と名付けました。
 マイ夫婦は米の代わりに食べるために、西瓜の種を植えてたくさんの西瓜をつくりました。そこへ難破船が漂着しました。マイは船の修理を手伝い、出航の時には、「西瓜が売れるようなら米と交換してください」と言って西瓜を渡しました。それ以来、西瓜と交換を望む船がたくさん往来し、米や着物や鶏や豚や様々な種と交換することができ、マイ夫婦の生活は豊かになりました。
 一方、王様は建物の建造がはかどらないので、賢かったマイのことを突然思い出し、家来にマイの消息を調べさせました。約一ヵ月後、マイ夫婦から西瓜が届けられ、二人が裕福な生活をおくっていることを知りました。王様は、マイの幸福がマイの前世のおかげであることに気付き、マイ夫婦を呼び戻して、マイを以前の職務に戻しました。
 マイ夫婦が流された島のあった所は今でもアン・ティエム浜と呼ばれています。マイ夫婦の仕事を引き継いだ人々の子孫は島に残ってマイ・アン村をつくりました。また、マイ夫婦の家のあった所には二人をまつった神社が建てられ、人々は二人を『西瓜の祖』とよんであがめているということです。


花言葉は、どっしりしている・膨大・拡大・かさばったもの

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忍冬(すいかずら)

 スイカズラの別名に金銀花があります。今回はこの金銀花のお話です。

 昔、ある村の気立てのよい夫婦に双子の娘が生まれました。夫婦はとても喜んで、姉を金花(ヂンホワ)、妹を銀花(インホワ)と名付けました。金花と銀花の姉妹は瓜二つでとても仲がよく、一時も離れようとはしませんでした。二人は美しい上に手先も器用だったので、18歳頃になると求婚者が後を絶ちませんでした。しかし二人は別れ別れになりたくなかったので全ての縁談を断り続けました。
 そのうちに姉の金花が熱病にかかりました。医者を呼びましたが、この病気を治療する薬がないのでどうすることもできませんでした。やがて悲しんで姉のそばに付き添っていた銀花にも病気がうつりました。二人は両親に、「熱病を治す薬草に生まれ変わりたい。」と言い残して、一緒に息を引き取りました。

 翌年の春、姉妹の墓から蔓性の植物が芽を出しました。その植物は3年ほどすると花を咲かせるようになりました。咲き始めは白く、だんだん黄色に変わっていく花でした。村人は、金花と銀花の遺言を思い出し、その花を煎じて熱病にかかった人に飲ませてみました。すると病気はみるみる回復に向かいました。
 それ以来、この花は金銀花と呼ばれるようになりました。


花言葉は、愛の絆・献身的な愛・友愛・寛大と誠の愛

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水仙(すいせん)

 ギリシャ神話のお話。

 ナルキッソスというとても美しい青年がいました。彼は自分の美しさに自信を持っていて高慢な人間でした。
 彼のことを好きだったニンフのエコーは、いつも彼のことを見ていました。でもエコーは、神ジュノーに余計なお喋りを禁じられていたので彼に想いを伝えることは出来ず、相手の話した言葉の語尾の部分をくり返すだけでした。そのため、ナルキッソスはエコーのことを「変な娘」としか思っていませんでした。でもエコーは彼のことが好きで好きでたまりませんでした。エコーは、彼に気にかけてもらえない悲しみで、やせて、やせて、やせ細って、ついには身体も無くなり、自分の気持ちを伝えることが出来ずにオウム返しに言葉を返すだけのエコー、つまり山彦(こだま)になってしまいました。
 復讐の女神ネメシスはエコーのことを憐れに思い、ナルキッソスに報われることのない恋の呪いをかけました。ナルキッソスは水面に映った自分の姿に恋し、自分の恋する相手が自分自身であり報われないことに気付いて絶望し、いつも自分の姿を映して見とれていた池に身を投じて死んでしまいました。そして彼の身体は水辺に咲く一輪の水仙に変わりました。


 ギリシャ神話のもう一つのナルキッソスのお話。

 ナルキッソスには双子の妹がいました。二人はとても美しく、瓜二つで、とても仲良しでした。ところが妹は病気になって死んでしまい、ナルキッソスはいつまでも嘆き悲しみました。ある日、ナルキッソスは二人で遊んだ池の中に妹の姿をみつけました。ナルキッソスは、それが池に映った自分の姿だとは気付かず、妹の顔に触れたい一心で何度も水に手を入れました。でも、その度に妹の姿は消えてしまいます。毎日池に来て、妹を求めて嘆き悲しむ様子を見ていた神々は、ナルキッソスを哀れに思い、いつまでも妹を眺めていられるようにと、池のほとりに咲く水仙の花に変えてやりました。


 ギリシャ神話の別のお話。

 ゼウスと豊穣の女神デメテルとの娘ペルセホネは、シシリア島のニンフにあずけられていました。ある日ペルセホネはニンフ達と一緒にニュッサの野で、花を摘んで遊んでいました。バラ、スミレ、サフラン、ヒヤシンス等、きれいな花がたくさん咲いていましたが、とりわけナルキッソス(水仙)は見事な花を咲かせていました。ペルセホネがナルキッソスに手を伸ばして摘んだ時、突然大地が割れて、冥界の神ハデスが現れ、ペルセホネを黒い神馬の馬車で連れ去りました。その時、ペルセホネが落した白いナルキッソスが黄色に変わりました。それが黄水仙です。


 中国(福建省)の水仙の起源伝説。

 冬の寒い日、乞食が、しょう(さんずい+章)州南郷の園山の麓の家を訪ね、食べ物をもらおうとしました。応対に出た老母は、残っていたご飯を惜しまずに乞食にあげました。ご飯を食べた乞食は、老母の田がどこにあるのか尋ね、老母と一緒にその田へ行きました。乞食は田の中に食べたご飯を吐き出すと、老母に「これからは、花を売って暮らしなさい」と言い残して、近くの湖に身を投げて姿を消してしまいました。やがて、乞食が田に吐き出したご飯粒から芽が出て、正月には一面に花を咲かせました。
 水に身を投げた神仙が授けてくれた花なので、その花は水仙花と呼ばれました。


 中国(福建省)の伝説「夫婦花(めおとばな)・水仙の物語」。

 昔、福建省のある村に金盞(きんさん)と百葉(ひゃくよう)という仲のよい若夫婦がいました。村の背後の大きな湖のおかげで村の田は肥沃で収穫量が多く、村人達は豊かに暮らしていました。ところがある時、激しい暴風雨が村を襲い、巨大な山が湖に落ちて水源が断たれてしまいました。田は枯れ果て、村人達は気力を失いました。そんなある日、金盞は「湖がほしければ西南の方角へ行きなさい」という不思議な声を聞き、一人で西南の方角へ向かいました。99の山を越え、100番目の山の頂上で金盞は眼下に湖を見つけました。金盞は湖水を村へ流すために斧で周りの岩を砕き始めました。百葉は戻ってこない金盞を捜しに西南の方角へ向かいました。100番目の山の頂上に登ると、豊かな湖水と斧を振るう夫の姿が見えました。百葉は金盞に駆け寄りましたが、金盞は百葉に微笑んでから力尽きてしまいました。百葉は夫の遺志を継いで斧を振るい始めました。そしてとうとう湖水は村へ流れるようになりました。
 村人達は喜びましたが、戻ってこない金盞と百葉を心配して捜しに出かけました。すると、霧のかかった湖の岸辺に二人の姿が見えましたが、村人達が呼びかけると二人は湖面から立ち上った五色の雲に包まれていなくなってしまいまいした。雲は村の上空まで漂い、水辺に2本の花を落としました。1本は中心が黄色く、金の盞(さかずき)のような単弁の花で、もう1本は重弁の花でした。村人達はこの2本の花が村に水を引くために死んだ金盞と百葉の生まれ変わりだと思い、花が水中から現れたことにちなんで、この花を水仙と名付けました。また、単弁の花は「金盞」、重弁の花は「百葉」と呼ばれるようになりました。

 中国の水仙は房咲き種で、単弁六裂の金盞銀台と重弁一二裂の玉玲瓏(ぎょくれいろう。百葉・千葉水仙)の2系統に分類され、両者は夫婦の花とされているそうです。


 中国の伝説「女史花(水仙の異名)の由来」。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかし、中国の長離橋というところに、優れて文才に富んだ女性がいた。その女性は、地上のすべてが凍りつくような大寒のある夜、世にもふしぎな夢を見た。雲一つない冬空には、銀片を蒔き散らしたようにいちめんの星が煌めいていた。すると、とつぜんその中の星が一つ、長い光の尾を引いて地上に落ちてきて、パッと光って消えたと思うと、その跡に一本の水仙が香り高く咲いてきた。女史がその花を摘んで口へ入れると、ふと眼が醒めた。
 間もなく女史は身籠って女児を生んだ。その娘も母に劣らず、文才に長けていたが、娘は母が見た星の話に因んで、自らを観星女史と名乗っていたので、中国ではいつか水仙のことを「女史花」と呼ぶようになったといわれている。(『植物と伝説』)”


 中国の伝説「凌波仙(水仙の異名)の由来」
 (松田修著「花の文化史」(埼玉福祉会)より引用)

 ”昔、中国三国の世に、甄氏(いし)という美人がいた。この美人に、魏の宰相曹植(そうしょく)が思いをかけていたが、曹植の兄の文帝(ぶんてい)もまたひそかに彼女を恋し、ついに宮中に召し入れて妻とした。曹植は、自分の心を通ずることができなくなったので、毎日もんもんとして日を送っていたが、そのうちに甄氏はふとした病がもとでこの世を去った。文帝は、かねて恋していた曹植の心を思いやって、甄氏の寝ていた枕を形見に与えた。曹植は、この枕をなつかしい思いで抱いて寝ていると、ある日、夢で甄氏の霊にあった。詩人でもあった曹植は、さっそくこれをスイセンに見立て、夢のさめないうちにと「凌波そぞろに歩く」という彼の有名な「洛神賦(らくしんふ)」という詩をつくった。これから人びとは、このスイセンを凌波仙という名でも呼ぶようになったという。”


 吾妻水仙のお話。
 (下田惟直著「花ことば 花の伝説」(三和図書)より引用)

 ”遠い昔から、すみれと吾妻水仙は仲よく立ち並んで咲いていたのに、吾妻水仙はその堅い葉をもって、たびたびすみれを傷つけるのであった。
 これに憤慨していたすみれは、ある風の強く吹く日に吾妻水仙が地に倒れた時、日頃の復讐をなすはこのチャンスだとばかりに、すみれは尖(とが)ったその葉をもって、吾妻水仙の花の一片を切り落としてしまった。
 この時から、吾妻水仙の花は三辨に咲き出るようになった。”


 マホメットの教えのひとつ。

「2切れのパンを持つ者は、その1切れを水仙と交換しなさい。パンは肉体に必要ですが、水仙は心に必要です。」


 英語ではnarcissus(ナーシサス)、フランス語ではnarcisse(ナルシス)といいます。語源はnarce(ナルケ)で、「昏睡・無感覚・麻痺」を意味します。水仙の球根にそのような性質があるから出来た名前だと言われています。


 「花物語」には、越前水仙(えちぜんすいせん)の項目もあります。


 水仙の花言葉は、自己愛・うぬぼれ等

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睡蓮(すいれん)

 ギリシャ神話のお話。

 昔、三人の水の精の姉妹がいました。三人とも花に負けないほどの美しい娘達でした。三人が年頃になったある日、母の女神が三人に将来の希望を尋ねました。冒険好きな長姉は「水の守りになりたい」と答え、社交的な次姉は「「水を離れず神の掟のままに」と答え、内気な末娘は「神と親の命ずるままに」と答えました。そこで、母は、長姉を外海の守り神に、次姉を内海の主に、末娘を波の立たない泉の女神にしました。内気な末娘も夏の間だけはスイレンの花となって姿を見せるようになりました。

 スイレンの学名をニンフェアNymphaeaといいますが、この花は、ギリシャ神話の英雄ヘラクレスに捨てられてナイル川に身を投げて死んだニンフnymphが生まれ変わった花だというお話もあるようです。


 アメリカインディアン(オジブウェイ族)の民話。

 昔、あるインディアンが星空を眺めていると、ひとつの星が南の山の上に降りてきて輝きました。星は山の頂上の松の木の上で輝いていました。それから一月ほど経ったある夜、そのインディアンの夢の中に銀色に輝く美しい娘が現れて言いました。
「私は山の上にいる星です。美しい地上と可愛らしい子供達が気に入ったのでここに住みたくてやってきました。」
 星は湖に住むことに決め、水面に映る兄弟星達も降りてくるように誘いました。ここなら子供達も舟に乗って遊びに来てくれることでしょう。こうして白く輝くたくさんの睡蓮の花が湖に咲き誇るようになりました。睡蓮は星の花なのです。


 アマゾンの民話「月と睡蓮 River Moon Lily」。
 (キャロリン・マックヴィッカー著、椎名葉訳「月の光のなかで」(ぺんぎん書房)より要約)

 母なるアマゾン河へと注ぐマデリア河のほとりの森林のずっとずっと奥に、細い浮島に囲まれた礁湖(ラグーン)があります。礁湖の黒々とした水の上には大きな蓮の葉が浮かんでいます。蓮の精霊は昔、ナイアという名の美しい乙女でした。ナイアは他の何よりも月を愛していました。
 ナイアは、豊かで小さな村の首長の娘でした。ナイアは、村を豊かにしてくれる、力強く凛々しい戦士と結婚しなければなりませんでした。戦士達はナイアに求婚の歌を歌い、ナイアはそれを聞きました。でも、戦士達の歌を聞くよりも、木に登って月を眺める方がずっと好きでした。ナイアは強く凛々しい月を他の何よりも愛していたからです。首長は、ナイアが人間でない月と結婚したがっていることを知ると、ナイアに木に登ることを禁じました。それでもナイアには月の歌が聞こえましたし、ナイアも月のために歌いました。首長は祈祷師に頼んでナイアの心を変えようとしましたが効果はありませんでした。
 ある夜、ナイアは闇に隠れて木に登り、月への思いを歌いました。ナイアの伸ばした手は月に届きませんでしたが、ナイアは礁湖の中で自分を待っている月に気付きました。ナイアは礁湖の月の腕の中に飛び込みました。
 村人達は、ナイアは礁湖で溺れたのだと言いました。けれども、その後、礁湖では大きな睡蓮が咲きました。睡蓮は、少女の背丈ほども幅のある平らな葉を浮かべ、白い腕のような花びらを空に向って開いていました。


 西欧の伝説。
 (熊井明子著「香りの花手帳」(千早書房)より引用)

 ”西欧の伝説によれば、大昔、遠い国の大きな河のほとりに、かぐわしい花の森があった。この森にはいつも多くの若い男女が集い、男たちは娘に川辺に咲く薔薇の花を摘んでは与えていた。だが、岩の上に咲き、激流の上に身をのり出して咲く白い薔薇だけは、誰からも摘まれることがなかった。
 ある日、一組の男女がその近くを通りかかった。娘は今までにもらった色とりどりの薔薇にも増して美しい白薔薇に一日で魅せられた。男は彼女に頼まれて岩にのぼり花をとろうとしたとたん、足をすべらせて流れに落ちてしまった。
 それ以来、二度と摘もうとするものがないままに、白薔薇は毎年咲いては散っていたが、ある日突然、それらの花弁が下流で睡蓮の花となって咲き始めたという。”


 ジプシーのメルヘン「スイレン」。
 (小澤俊夫編訳「世界のメルヒェン図書館6」(ぎょうせい)より要約)

 昔、ペトルという名のジプシーの青年がいました。ペトルは村のはずれに住むお婆さんの娘を愛しており、結婚したいと思っていたので、誰よりもよく働き、節約していました。秋が訪れるとジプシーの一族は、遠い冬のための住処へ旅立ちましたが、ペトルは村に残りました。娘と結婚してから一族の後を追うつもりでした。しかし、お婆さんは「白人の娘はジプシーの男には似合わない」と言ってペトルを怒鳴りつけました。ペトルと娘は相談し、ペトルの一族のところで結婚することにして村を抜け出しました。
 お婆さんは実は悪い魔女でした。戸棚から取り出した糸玉に命じて、娘を川へ落としてしまいました。橋から落ちた娘の姿が見えなくなったので、ペトルは泣きながらお婆さんに報告しました。すると、お婆さんは、娘がスイレンの花になったことを告げました。ペトルが橋に行ってみると、美しいスイレンの花がひとつ咲いていました。花は人が近付くと水の中に隠れてしまい、静かになるまで水面には現れませんでした。ペトルは一日中橋に座ってスイレンの咲く水面を眺めていました。
 ある晩、ペトルが橋の上で泣いていると突然、歌声が聞こえてきました。川の水の上で三人のニバシ(水の中に住む精霊)の娘達が踊っていました。ニバシの娘達が踊り終ると話し声が聞こえてきました。
「あの若者が林檎と卵を水の中に投げ入れてくれたら、スイレンをもとの恋人の姿に戻してあげるわ」
 翌晩、ニバシの娘達が現れると、ペトルは林檎と卵をたくさん川へ投げ入れました。ニバシの娘達は林檎と卵を食べ終るとスイレンにキスをしました。すると、スイレンの花はペトルの恋人の娘の姿に戻りました。ニバシの娘達はペトルにたくさんの金銀もくれたので、二人はお金持ちになり、幸せに暮らしました。
 ニバシの娘達は、お婆さんを川へおびき出して溺れさせてしまったそうです。


 フランス印象派の画家クロード・モネは、「睡蓮」の絵の連作で有名です。一連の作品は、モネが後半生を過ごしたパリの北西、セーヌ川下流域の田舎ジヴェルニーにある家で描かれました。モネは庭に日本風の庭園を造り、池に浮かべた睡蓮を描き続けたのです。


 エジプト神話には、睡蓮の花冠をかぶったネフェルティムという睡蓮の花の神がいます。地方毎に伝説は異なり、メンフィスではプタハとセクメトの息子とされ、頭部をライオンの頭の姿で描かれており、バステトの息子とかワジェトの息子とされるものもあります。
 古代エジプトでは、太陽がナイル三角州の睡蓮の花から昇り、太陽神ラーが睡蓮の花から生まれたとされるので、睡蓮は太陽のシンボルの神聖な花とされ、「ナイルの花嫁」とも呼ばれていました。また、睡蓮の花が夕刻にしぼんで水底に沈み、翌朝再び水面に浮かび出て咲くので、睡蓮やネフェルティムは復活の象徴ともされていました。そのため睡蓮はミイラにも載せられていたそうです。


 睡蓮の和名は未草(ひつじぐさ)です。未の刻(午後2時)頃開花することから名付けられたそうですが、実際には正午頃に開いています。漢名の睡蓮は、眠るハスの意味で、夕刻に花を閉じることから名付けられました。英名はWater lilyです。


花言葉は、清純な心・信仰

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蘇芳(すおう)

花蘇芳(はなずおう)

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杉(すぎ)

 奈良県奈良市の伝説「良辨杉(ろうべんすぎ)」

 滋賀県の琵琶湖のほとりに、養蚕をしている百姓の夫婦が住んでいました。夫婦には子供がいなかったので、子供が授かるように毎日観音様にお願いしていました。やがて夫婦に男の子が生まれました。母親は毎日、男の子を籠に入れて自分のそばに置いて、蚕のえさの桑の葉を摘んでいました。ところが、ある日、大きい鷲が飛んできて男の子をつかんでどこか遠くへ飛んでいってしまいました。
 鷲は南の奈良県の東大寺の二月堂まで飛んでいき、近くの杉の枝に男の子をかけて遊んでいましたが、やがて、またどこかへ飛んでいってしまいました。その様子を見ていた義淵(ぎえん)という名の住職は杉の木から男の子を降ろさせ、男の子を大切に育てました。男の子は成長し、良辨という立派なお坊さんになりました。
 一方、鷲に子供をさらわれた母親は我が子を30年も捜しまわりました。母親は大阪の難波で船頭から、「鷲が二月堂の杉の木に運んできた赤ん坊が良辨という立派なお坊さんになっている」という話を聞いて、二月堂へ行きました。そこで母親と息子は再会することができ、良辨僧正は母親が亡くなるまで親孝行をしました。

 今でも東大寺の二月堂の下には、その良辨杉があります。また、大仏殿のそばにある子安(こやす)明神は良辨僧正の母親を祀ったところだと言われています。

 この話は、「沙石集(しゃせきしゅう)」に東大寺を開いた良辨僧正の出生にまつわる話として出ています。また、同様の話が、静岡県の三島神社や神奈川県の大山阿夫利(あふり)神社の縁起としても伝えられています。


 宮城県本吉郡平磯(ひらいそ)の民話「太郎坊、次郎坊(たろうぼう、じろうぼう)」

 昔々、鹿島(茨城県)の神様と香取(千葉県)の神様が船に乗って漁に出かけました。二人の神様は嵐にあって岸に打ち上げられ、船は壊れてしまいました。神様達は、帆柱にするために2本並んで生えていた杉の木を切ることにしました。ところが大きな杉の木の方を切り倒すと、切り口から血があふれだして辺り一面を赤く染めました。慌てた神様達は大きな石を運んできて杉の木の切り口へのせて血止めをしました。神様達は仕方なく歩いて帰りました。
 2本の杉の木は、その後も生長し、太郎坊、次郎坊と呼ばれ、沖を通る船の目印になりました。太郎坊のこずえ近くの二又になっているところには神様達がのせた血止めの石がのっていました。


 「関の大杉」の伝説(宮城県苅田郡七ケ宿村関村(現在の七ケ宿町))。

 昔、一人の力士が関西を旅していました。力士は旅の商人と道連れになり、楽しい旅を続けましたが、帰りの旅費が乏しくなってきました。そこで力士は商人に「必ず返しますのでお金を貸して下さい。」と頼みました。その時、力士は自分の名を関の大杉と名乗りました。
 数年後、商人は関村に立ち寄り、村人に関の大杉の家はどこかと尋ねましたが、村人は関の大杉という力士を知りませんでした。村人が「関の大杉と呼ばれている杉の古木ならあります。」と言ったので、商人はその古木の所へ行ってみました。すると、杉の古木の低い枝に袋がかかっているのが見えたので、その袋を下ろして調べてみると、商人が力士に貸したのと同額のお金が入っていました。


 和歌山県伊都(いと)郡の民話「高野(こうや)の杉」。

 昔、高野のお大師さん(弘法大師)と吉野の権現さんが一緒にお伊勢まいりに出かけました。その帰りに二人はお土産を買うことにしました。お大師さんは「毎年、高野の山に桜を咲かせて弟子達を喜ばせよう」と言って桜の苗木を買いました。権現さんは「桜は春には花が見事だけど、秋になって葉が落ちるとさびしい。吉野の山を一年中緑にしたい。」と言って杉の苗木を買いました。
 二人は苗木の包みをぶら下げて旅を続けました。そして、明日別れるという日の夜、お大師さんは自分の買った桜の苗木を見ながら考えました。
『権現さんの言う通り、桜は花が終るとさびしいし、杉は常緑で、大木になったら売ることも出来る。杉の苗木を買えばよかった。』
 杉の苗木がほしくなったお大師さんは、権現さんが寝ている間に、自分の枕元の桜の苗木と権現さんの枕元の杉の苗木を交換してしまいました。
 翌朝、二人は分かれ、お大師さんは高野の山へ、権現さんは吉野の山へ帰りました。
 権現さんは苗木を大切に育てましたが、ある年の春、杉だとばかり思っていた木に桜の花が咲いて驚きました。そして、桜の花をほしがっていたお大師さんが嘆いているだろうと心配して熱を出して寝込んでしまいました。
 その頃、高野の山では、お大師さんの植えた苗木は見事な杉の木に成長していました。
 それから長い年月が経ち、高野の山は名高い杉どころとなり、吉野の山は桜の名所になりました。


 能曲「三輪」のお話。

 大和の国の三輪の山陰の庵(いおり)に住んでいる玄賓僧都(げんぴんそうず)のもとへ、毎日、どこからともなく一人の女がやってくるようになりました。女が、秋の夕方の寒さをしのぐ衣を上人に乞うと、上人は快く衣を与えて女の名を尋ねました。女は、「わが庵は三輪の山もと恋しくは 訪ひ来ませ杉立てる門」と古歌を詠み、「不審に思うのでしたら、杉木立の門を目印に来て下さい。」と言って姿を消しました。
 三輪明神に日参している男が、御神木の杉の枝に玄賓僧都のものと思われる衣がかかっているのを見つけて玄賓僧都に知らせました。玄賓僧都が三輪明神の社に来てみると、2本の杉に女に与えた衣がかかっており、その褄(つま)には「三つの輪は清く清きぞ唐衣 来るなと思ふな取ると思はじ」の一首が記されていました。ふと気付くと、御神木の中から三輪明神が巫女姿で現れました。三輪明神は和歌の徳を讃え、三輪山の神話を語り、天の岩戸の神楽を僧都に見せました。いつしか夜が明け、僧都は夢から覚めました。


 シュメールの「ギルガメシュ叙事詩」より。

 ギルガメシュは杉の森に住んでいる怪物フワワ(フンババ)を倒すための計画を親友エンキドゥに話し、太陽神ウトゥの許しを得て、50人の部下達と一緒に杉の森に赴きました。ギルガメシュは7つの山を越え、杉の大木を倒し、フワワに近付いて倒しました。ギルガメシュとエンキドゥは杉の木を木材として使うためにユーフラテスの河岸へ運びました。


 中国の伝説「連理の杉」
 (瀧井康勝著「366日誕生花の本」(日本ヴォーグ社)より引用)

 ”ある王様に、優秀で忠実な家臣がいました。その家臣は美しい妻をめとっていましたが、王様はあるとき、この家臣の妻に横恋慕してしまいました。王様は、この妻をなんとか自分のものにしたいと考え、家臣を無実の罪で牢に入れ、責め立てました。家臣を牢に入れてからというもの、王様はその妻を公然と口説くようになりました。そして、ある日、とうとう責めに耐えきれず、家臣は牢の中で死んでしまいました。
 夫が牢の中で死んだことを知らされた妻は、あとを追うように自殺しました。これを知った王様は怒り狂って「二人の墓は別々にしろ! 決して一緒にするな」と命令を出しました。
 しかし、二人の墓から別々にスギの木が芽ぶき、すくすくと育ち、2本のスギの枝と根がからみ合いながら、一体となって大きくなったということです。”


 杉落ち葉して境内の広さかな   (高浜虚子)


杉の花言葉は、堅固・雄大

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杉菜(すぎな)

 スギナEquisetum arvenseはトクサ科トクサ属のシダ植物で、早春に土筆(つくし)と呼ばれる胞子茎を出します。
 取り除くのが困難な雑草の一つで、英名はField Horsetail (Common Horsetail)です。


 群馬県の昔話「すぎなの根」。
 (「全國昔話資料集成」(岩崎美術社)より引用)

 ”昔昔おじいさんとおばあさんが、若いお嫁さんに、
「山へ行って、草でもむしって来なさい」
と言ったので、そのお嫁さんは、山へ行きました。ところが、そのお嫁さんが、草取りに行った所は、すぎなばかりです。
 お嫁さんは、一所懸命、根を切らないで取ろうと思って、いくら上手にこいでも(抜いても)、すぐに切れてしまいます。あまり切れるので、そのお嫁さんは、短気なものですから、怒ってしまって、とうとうむしらないで帰ってしまいました。
 すると次の日に、おじいさんが、山へ畠はきれいなったと思って行ってみると、まだ草が取ってない。おじいさんは、また家へ帰って、
「もう一度取って来なさい」
と言ったので、またお嫁さんは出かけて行きました。
 今度は鍬を持って行って、どうしても、すぎなの根を切らないで取ろうと出かけました。ところがいくら掘っても、根の先が見えないのですから、また日が暮れたので帰って来ました。そして、その話をすると、おじいさんとおばあさんは大笑いして、
「いくらお前が掘ったって、根の先は、竜宮の乙姫様まで届いているんだ」
と言いました。お嫁さんはがっかりしました。”


 スギナを食べる魚がいるそうです。

 ホリオ剣著「釣りと魚の雑学事典」によると、奈良東大寺の鏡池にスギナを投げ込むと、たちまち馬魚(ばぎょ)が水面に群がり競って食べる、と書かれています。
 馬魚は琵琶湖原産の魚で、地元以外では「ワタカ」と呼ばれているそうです。雑食性で草も食べるということですが、この魚には伝説があります。(スギナの伝説ではありません)
 南北朝時代、後醍醐天皇が永久寺の御座所で身を潜めている時に、愛馬がいなないたため、天皇は愛馬の首を切り落としました。血に染まった愛馬の首は池に落ちて魚となり、馬であった時の名残りで草を食べると言われています。その魚が東大寺に移されたそうです。奈良県では天然記念物に指定されていますが、他県にもいるそうです。


花言葉は、意外・向上心

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鈴掛・鈴懸(すずかけ)

プラタナス

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雀の尾苔(すずめのおごけ)

 スズメノオゴケCynanchum japonicum Morren et Decaisneはガガイモ科カモメヅル属の多年草です。別名はイヨカズラ(伊予葛)です。

 倭名抄にある「白前」は「のかがみ」という植物を指しています。「のかがみ」は根を鎮咳去痰に用いる薬草で、スズメノオゴケのことです。
 また、出雲国風土記大原郡条の「白前」という地名も「のかがみ」と読みます。


 中国の民話(河南省と湖北省の省境一帯)。

 名医の華陀が河南にいた頃のお話です。
 ある日、華陀が白家荘という村にさしかかった時、突然大雨が降ってきたので、白(バイ)という人の宿屋に泊まることにしました。その夜、華陀は子供の泣き声で目をさましました。子供はひどく咳こんで苦しそうでした。華陀は宿屋の主人を呼んでどこの家の子供か尋ねました。主人は華陀が医者だと知ると裏の家に案内しました。
 華陀は子供を診察すると、その子供の命を助けるためにはある薬草が必要なので探しに行く、と言いました。土砂降りの雨の中、子供の父親が提灯を持って先に立ち、華陀は村のあちこちを探しましたが見つかりませんでした。長い間探し回った後、宿屋の前の小川の土手でやっと見つけることができました。華陀は薬草を根こそぎ引き抜き、根を煎じて子供に飲ませました。そして、「これは咳を止め、痰を除く薬草です。夜があけたら残りの葉と同じ葉の薬草を採ってきて根を煎じて飲ませ続けなさい」と言いました。
 父親が華陀の言った通りにすると、子供の病気はまもなくよくなりました。白家荘の人々はその薬草を白前(バイチェン)と名付けました。白という人の宿屋の前で採集したからだそうです。

 日本ではこの薬の名前はビャクゼン又はハクゼンと呼ばれるようですが、あまり普及していないようです。ちなみに、この薬草のもとになるスズメノオゴケという植物は日本では絶滅危惧種だそうです。

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鈴蘭(すずらん)

 スズランの伝説。

 セントレオナードの森の守護神セントレオナードが武者修業に出かけましたが、森の中で道に迷い途方にくれていたところ、闇の中から大きな毒蛇が襲いかかってきました。剣を抜いて、火をはく毒蛇と三日三晩の格闘の末、やっと大毒蛇を倒しましたが、セントレオナード自身も全身に多くの傷を受けました。鮮血が滴り落ちて緑の草を紅に染めたあとに、いつのまにか白くて香りを漂わせたすずらんが咲いていました。森のニンフが、若く清らかでたくましいセントレオナードの痛ましい姿に心を痛めて、この花をさかせたのだと言い伝えられています。


 ノルウェーの伝説。
(熊井明子著「香りの花手帳」(千早書房)より引用)

 ”ノルウェーの伝説によると、春の女神が地上に現れたとき、寒風が吹いていたので、緑の衣を裂き、雪で鈴蘭を作ったとのことである。


 アイヌの伝説。

 昔、北海道の漁村の室蘭に1艘の難破船が漂着しました。難破船の中には一人の美しい娘が倒れていました。村人達が娘を村に連れ帰って世話をすると、娘は間もなく元気になりました。娘は遠くの村の酋長の娘で、不義を働いたために海に流されたということでしたが、娘の気品のある美しさに村中の若者達が夢中になりました。そのため若者達に振り向いてもらえなくなった村中の娘達は相談して夜に娘を襲って殺し、死体を川に投げ捨てました。その時に娘の流した涙が落ちた所から気品のある純白の美しいスズランの花が咲き広がりました。


 アイヌの赤いスズランの伝説(函館市銭亀沢)。

 昔、銭亀沢の近くに住んでいたアイヌの酋長の娘のカパラペは、村の勇敢な若者キロロアンと恋仲になりました。冬も間近のある日、一人で山に熊狩りに出かけ、巨大な熊に出会いました。キロロアンの射た毒矢は熊の足を傷つけ、手負い熊は怒ってキロロアンに襲いかかりました。キロロアンは腰のマキリ(小刀)で応戦し、熊を倒しましたが、自分も脇腹に深手を負い、そのまま死んでしまいました。
 翌日、知らせを聞いて村人達と一緒に現場にやってきたカパラペはキロロアンの遺体にすがって泣き崩れました。それから、カパラペはキロロアンのマキリで自分の喉を刺し、恋人の遺体の上に重なるように倒れて死んでしまいました。
 その時、カパラペの血潮が四方に飛び去り、その辺りに咲いていたスズランの花を赤く染めました。それ以来、銭亀沢周辺には薄赤く染まったスズランの花が咲くようになりました。

 古い連続TVドラマに「赤い鈴蘭」(木下恵介監督)があり、その主題歌「赤い鈴蘭」(木下忠司作曲・西田佐知子歌)には以下のような歌詞があったそうです。

     赤い鈴蘭は咲く 北国の春の野に
     遠い昔 アイヌの乙女が恋人に捧げた命
     恋する乙女は、今もなお胸の中に 赤い赤い鈴蘭を咲かせる
     遠く離れたあの人に 命をかけた恋が 
     今も今もこの胸にあると 伝えてよ赤い鈴蘭

 実際には、赤いスズランはマンガン廃坑付近に多く見られるため、土壌成分が関係するものと考えられています。


 フランスでは「5月のミューゲ」、「森のミューゲ」と呼ばれ、香りの高いことを示します。
 イギリスでは「谷間のユリ」Lily of the Valleyと呼ばれます。旧約聖書の「雅歌」の「わたしはシャロンのバラ、谷のユリです」という詩句の「谷のユリ」が、ヨーロッパの北国ですずらんだと考えられて出来た名前だそうですが、「雅歌」の「谷のユリ」は実際には赤いユリだと考えられています。
 ドイツでは「5月の花」「5月の小さい鐘」と呼ばれ、鈴のような花が階段のように咲くので「天国への階段」という名前もあります。
 イギリスやフランスでは5月1日は「すずらんの日」です。すずらんは春が戻ってきた事をあらわす花で、フランスでは、すずらんの日にすずらんの花束を贈ると、受け取った人に幸福が訪れると言われています。結婚式に花嫁に贈られるのは、この花が幸福のシンボルになっているからです。


 すずらんの学名には「谷間のユリ」と「臆病な人」という意味があり、あまり広い地域に広がらないからだと言われています。

 和名は鈴蘭で、君影草ともいいますが、ドイツすずらんのような強い芳香はありません。

 そういえば、ミューゲというオーデコロン(カネボウ?)は、結構気に入ってました。香水はディオリシモが好きです。ネットでは香りを流せないので残念です。


 アイヌでは、鈴蘭の朱色の実は「狐の苺」と呼ばれていました。鈴蘭の実は粒が意外に大きくて美味しそうなのに食糧にならなかったからです。


花言葉は、幸福が戻ってくる・意識しない優しさ・純粋・デリカシー等

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スタート・デザート・ピー

 スタート・デザート・ピーSturt Desert Pea(スターツ・デザート・ピーSturt's Desert Pea)は、オーストラリア原産のマメ科クリアンツース属の植物で、南オーストラリア州の州花(1961年制定)です。
 学名は、Clianthus formosusです。
 鮮やかな朱色の花が房状に付き、花びらの中央が丸く黒くなっています。


 アボリジニに伝わる「血の花伝説」

 若く美しい娘パーリミルはボローラという名の若者と恋に落ち、二人は結婚したいと望んでいました。しかし、結婚の決定権は長老達にあり、長老達はパーリミルとティルタを結婚させようとしていました。ティルタは若くはなかったし、パーリミルは彼の性格が好きではありませんでしたが、長老達は決定を覆してはくれませんでした。
 ボローラとパーリミルは相談してキャンプを逃げ出し、長旅の末、ボローラの親類の住む美しい湖のほとりの地で結婚し、幸せな何年かを過ごしました。しかし、ティルタは逃げた二人のことを恨み続けていて、とうとう二人の居場所を探しあてました。ティルタは夜になると残忍で卑劣な仲間達を連れて二人のいるキャンプに忍び込み、キャンプの人々全員を殺し、辺り一面を血だらけにしました。天上の祖先の精霊達(魔法の力を持つアボリジニの守護神)は嘆き悲しみ、何日も涙を流し続けたので湖の水はとても塩辛くなりました。
 季節がかわると、ティルタは自分が殺した人々の死体を眺めて勝利の喜びに浸ろうと思って湖のほとりにやってきました。しかし、死体は一つもなく、祖先の精霊達が血から咲かせた深紅の花々が辺り一面に咲き誇っていました。ティルタは怖くなって逃げ出そうとしましたが、精霊の放った槍に倒れ、ただの小石に変えられてしまいました。
 祖先の精霊達が殺された人達の血を使って咲かせた花は、今もオーストラリアの砂漠に咲いています。それが、スタート・デザート・ピーの花で、アボリジニの人々は「血の花」と呼んで、伝説を語り継いできました。

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ストック

 ストックの和名は紫羅欄花(あらせいとう)といいます。これはストックの茎や葉にはえている白い毛がポルトガルから輸入されたラセイタという織物に似ているので、「葉ラセイタ」が訛ったものだといわれています。


 ローマ神話のお話。

 競技の勝利者に捧げる花冠や祭壇の花飾りをつくっている二人の美しい姉妹がいました。姉妹達は、ブリヤップ神の優しい兄弟達と出会い、それぞれ恋仲になりました。しかし、この姉妹に横恋慕していたギリシャ人の青年達は彼らに嫉妬して、投げ槍で彼らを殺してしまいました。姉妹は悲しみ、彼らのあとを追って自殺してしまいました。
 姉妹を哀れんだプリヤップの神は、姉妹の魂を黄色いストックの花に宿らせました。


 瀬川弥太郎編「いけばな草花辞典」(三省堂)より引用。

 ”画家アンリ・ルソーが、かつて友人のアポリネールの肖像を描いた時、アポリネールを讃える意味で、「詩人のせきちく(ルウイエ・ド・ポエート)」の花を、前景に入れることを思いついた。ところが、できあがった画布には、あらせいとうの花が描かれていた。というのは、どちらも、フランスでは「ジロフレ」と呼ばれていることが原因だったのである。ジロフレとは、ちょうじせきちく(丁子石竹)、あらせいとう、においあらせいとう(匂阿羅世伊止宇)の三つの名前を指している。まちがいに気づいたルソーは、その後、正確には翌年の五月ごろに「詩人のせきちく(和名=ひげなでしこ)」を買って、詩人の肖像を描き直したという。”


 「花物語」には、匂紫羅欄花(においあらせいとう)の項目もあります。


花言葉は、愛の絆・永遠の美・逆境の忠節・単純・質朴・豊かな愛、豪華・幸福(仏)

紫羅欄花(あらせいとう)

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スノードロップ

 花の形が小さなイヤリングを思わせるので「雪の耳飾り」という意味で名付けられました。
 ヨーロッパでは、「スノードロップ(雪のしずく)」、ドイツでは「雪の鐘」と呼ばれています。イギリスでは 「聖母の小蝋燭」と呼ばれ、聖燭日の花ともされています。
 日本では、「雪の花」「待雪草(まつゆきそう)」等と呼ばれていましたが、今はスノードロップの方が一般的でしょう。


 ドイツの伝説です。

 天地創造の頃、雪には何の色もついていませんでした。雪は、そのことを不満に思っていたので、神様のところへ行き、不平を言いました。すると、神様は、花達に色を分けてもらうようにすすめました。雪は神様の言うとおりにして色を分けてもらおうと花達に頼みました。でも花達は、冷たい雪に自分達の色を分けてくれようとはしませんでした。でも、たったひとつだけ色を分けてくれた花がありました。スノードロップだけが自分の白い色を分けてくれたのでした。
 だから雪は、スノードロップをいつも大切にしているそうです。

 植田重雄著「ヨーロッパの祭りと伝承」(講談社学術文庫)に掲載されている伝説は少し違います。

 ”神はさまざまな花や草や野菜にとりどりの色彩を与えて作った。だが、雪だけには色を与えず、白いままにしておいた。白は色ではなく、色を殺すものである。そのために雪は薔薇、矢車草、すみれ、石竹など、華やかに咲く花をすべて枯らし、飲みつくしてしまい、一切の草花の冷酷な敵ということになった。そこで神は雪をあわれんで、スノードロップだけは小さなマントを与えて雪の中でも咲かせるようにしたという。”


 西欧の伝説。

 アダムとイヴがエデンの園を追放された時には雪が降っていました。今まで暖かい楽園で不自由なく暮らしていたイヴは、寒さと大雪がつらくて絶望していました。すると、一人の天使が現れて、「冬はいつまでも続くわけではありません。冬が過ぎれば、やがてあたたかい春がやってきます。」と語りかけ、イヴを慰めました。そして、天使が降りしきる雪に手を触れると、雪はスノードロップに変わり、毎年この花が咲くようになったと言われています。


 「スノードロップは王子の屍から」(西欧伝説)。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”むかしある国に、アルビオンという若い王子がいた。オベロン女王国の美しい姫、ケンナと恋に落ちたが、女王は二人の仲を許さないばかりか、王子をついに国外に追放した。若い王子にとってこの仕打ちは、堪えがたい屈辱でもあって、恋を失った悲しみもさることながら、追い出されたことには我慢ができなかった。そこでこの屈辱をすすごうと、大軍をひきいて女王国へ攻めいった。しかし、奮戦の甲斐もなく、ついに捕われて殺されてしまった。
 このことを知った姫は、恋人を再びこの世へ戻そうと、ある仙術を知った老婆に相談して、その教えに従がい、当時霊童として有名なモーレーの体液をとって王子の屍に塗りつけた。しかし、その甲斐もなく、アルビオンは再び甦ってこなかったが、モーレーの体液が王子の屍に触れるや否や、その屍は見るみる中にだんだん小さく縮んで、ついには清らな純白の小さな花となってしまった。それがスノードロップの花だといわれている。(『植物と伝説』)”

 (麓次郎著「季節の花事典」(八坂書房)によると、「霊童モーレーの体液」ではなく「霊草モーリーの汁」となっています)


 ロシアの詩人マルシャークの童話「森は生きている」のお話。

 心優しい孤児の少女が、継母とその連れ子の娘と一緒に暮らしていましたが、少女は継母達に召使のように扱われていました。
 ある年の大晦日、14歳になる孤児の女王様が「スノードロップの花で新年を祝いたい。」と言い出しました。この寒い国ではスノードロップは4月にならなければ咲かないはずの花でした。女王様は褒美にたくさんの金を与えることにしました。継母は褒美ほしさに、少女に「スノードロップの花が見つかるまで家に入ってはいけない」と言って、少女を森へ行かせました。
 少女は、スノードロップの花が見つからずに自分は凍え死ぬのだろう、と考えながら、吹雪の中を森へ入っていきました。少女は森の中で、焚き火を囲んで楽しそうに談笑している12人の男達に出会いました。少女は焚き火にあたらせてもらいました。彼らは1月から12月までの12の月の精達でした。彼らが少女のために魔法の杖で少しの間だけ春にしてあげたので、少女はスノードロップの花を摘むことができました。彼らは別れ際に「このことは誰にも話してはいけない」言いました。そして、困った時に投げて呪文を唱えるように、と指輪をくれました。
 女王様は継母にたくさんの金を与えましたが、今度は、自分でスノードロップの花を摘みたい、と言い出しました。継母は少女に命じて森に案内させました。困った少女が指輪を投げて呪文を唱えると、季節は一瞬のうちに、冬から春へ、春から夏へ、夏から秋へと変わり、冬に戻りました。女王様は自分がしてはいけないことをしたのだと気づきました。12の月の精達は、少女が約束を守った御褒美に少女にソリを贈り、継母と娘は三年の間、ソリを引く犬にされてしまいました。改心した女王様は少女と友達になり、二人は仲よくそりに乗って帰りました。

 この「森は生きている」は、チェコスロバキアの民話「12の月」のお話をもとにして書かれています。マルシャークは、民話には登場しない女王様や女王様を取り巻く人々や森の動物達を登場させました。
 「12の月」のお話は、「花物語」の苺(いちご)の項目に載せてあります。


 アンデルセン童話「夏もどき(マツユキソウ)」のお話。
 (大畑末吉訳「完訳アンデルセン童話集6」(岩波文庫)より要約)

 緑のすじの入った白い花が雪の上で開くと、太陽の光はその年の最初の花、ただ一つの花を褒め称えました。でも、風や嵐は「折れよ、枯れよ、凍えよ、陽の光に騙された夏もどきよ。」と嘲りました。
 夏もどきは子供に摘まれ、暖かい部屋の中へ連れて行かれました。夏もどきは、夏の中に連れて来られたのだと思いました。その家の娘は、愛の詩を書いた紙に夏もどきをはさんで若者へ贈りました。若者は花と詩を大切に引き出しにしまいました。花は、自分が最初の花、ただ一つの花であることを感じ、嬉しくなりました。
 やがて夏が過ぎ、冬が過ぎ、再び夏がめぐってきました。娘にふられた若者は詩の書かれた紙を火の中に投げ込みましたが、花は床に落ちて助かりました。掃除をしにきた女中が夏もどきを見つけて、机の上の本の間にはさみました。
 こうして何年かがたちました。その本はデンマークの詩人アムプロシウス・スドゥプの詩集でした。詩集を開いた人が言いました。
「おや、夏もどきだ。この詩人も夏もどき、詩人もどきだった。世に出るのが早すぎたのだ。この詩人も、最初の、ただ一人のデンマーク詩人だったのだ。夏もどきよ、お前は記念にここにはさまっていなさい。」
 こうして夏もどきはまた美しい詩集の中にはさまれました。夏もどきは、詩人もやはり夏もどきであり、冬の間ずっとばかにされていたことを知り、嬉しく、名誉なことだと思いました。花はこのことを花なりに理解しました。私達が何事も自分なりに理解するように。
 これが夏もどきのお話です。
 
 訳者註より引用。

 ”デンマーク語の題は「夏だまし」あるいは「夏ばか」というほどの意味。この花を見ると、夏がきたかとだまされるから、もしくは、この花がまだ寒いうちに咲くのは夏にだまされたから、このような名がついたのであろう。(中略)アンデルセンは世間の一部で「冬ばか」とよんでいるのを知り、古い正しい呼び名に返そうと思ってこの話を書いたという。”


     窓により 編み物をする わが少女(おとめ) 
            ものやおもえる スノウドロップ     竹久夢二


 花言葉は、慰め・希望・まさかの時の友等です。

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すべりひゆ

 漢字で書くと「滑」+「くさかんむり+見」となります。「くさかんむり+見」でヒユを意味します。ゆでるとぬめりがでることや、葉がすべすべしていることから名付けられたそうです。
 中国では「馬」の「歯」のような形をしているヒユという意味で「馬歯けん」と呼ばれています。「馬歯けん」の「けん」は「くさかんむり+見」です。生薬名もそのまま「馬歯けん」ですが、茎が赤く、葉が緑、花が黄色、根が白、実が黒いことから「五行草」とも呼ばれ、五行草茶にもなります。
 よくある雑草ですが、花は昼頃にはしぼんでしまいます。葉は見たことがあるけれど花は見たことがないという方は朝早く起きてみて下さい。
 ちなみにハナスベリヒユはポーチュラカのことです。


 中国の民話。

 昔、三人の息子を持つお婆さんがいました。長男と次男は既に結婚していましたが、三男がまだ年端もいかなかったので、お婆さんは将来嫁にするための娘を買いました。娘は14歳になったばかりでしたが、お婆さんと長男の嫁にこきつかわれ、服も食事もろくなものを与えられず、暴力も振るわれたりしました。娘を優しくかばったりしてくれたのは次男の嫁だけでした。
 ある年の夏、村で赤痢がはやり、多くの村人が死にました。娘が赤痢にかかると、お婆さんは娘を畑の中にある小屋へ追いやりました。最初のうちは次男の嫁が差し入れてくれたお粥を食べていましたが、そのうち次男の嫁も姿を現さなくなり、お腹を空かせた娘は野草を食べて飢えをしのぎました。
 そのうち娘は具合が良くなったので家へ戻ってみました。すると喪服を着た許嫁の三男が出てきました。お婆さんと長男と長男の嫁と次男は赤痢で亡くなり、次男の嫁は赤痢で寝ていました。娘は自分の具合がよくなったのは野草のおかげだと気付いたので、次男の嫁にも食べさせたところ、次男の嫁も回復しました。その野草は「馬」の「歯」のような形をしていたので馬歯けんと呼ばれていました。


 中国の伝説。
 (崔鎮圭(チェ ジンギュ)著・フィールド出版編集部訳「薬になる野山の草・花・木」(フィールド出版)より引用)

 ”昔、中国で天に太陽が10個も現れ、全ての江川が乾いて、強い照りで土が亀の背中みたいに割れ、穀物と木と草がすべて茶色にしおれて死んだ。人々はみな天を恨みながら、山の中にある洞窟に隠れて暮らした。
 この時、フエィという、すごく力があり勇気の優れた大将が現れた。彼は庶民たちを強い陽射しから救うため、弓を射る方法を身につけた。いよいよ彼は弓を射る方法を完全に身につけて、太陽に向かって弓を射し、一個ずつ落とした。
 フエィが九個の太陽を落としたところ、最後の一個残った太陽は恐れて、急いでスベリヒユの茎と葉の後ろに降りて隠れた。こうして、太陽はフエィの弓をさけることができた。
 その後、太陽はスベリヒユに恩を返すため、暑い陽射しの下でも乾いて死なない性質を与えた。そのおかげで真夏の強い照りに、他の植物がすべてべったりとへたばっていても、スベリヒユは自分一人で、みずみずしく生きていけるのである。”

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菫(すみれ)

 ギリシャ神話のお話。

 川の神の娘のイオは、アポロンも目をつける程のとても美しい娘でした。ある日、イオがゼウスと二人で草原で戯れているところに、嫉妬深いゼウスの妻のヘラが通りかかりました。あわててゼウスはイオを子牛の姿に変えて、ヘラに気づかれないようにしました。ゼウスは、可愛いイオに雑草ばかり食べさせるのが可哀想になったので、子牛の食料としてすみれの葉をつくりました。
 でも結局ヘラに知られてしまい、イオは星にされてしまいました。悲しんだゼウスは、イオの美しい瞳を思い、すみれの葉にイオの瞳と同じ色の花をつけました。


 ギリシャ神話のちょっと違うお話。

 フィリジアの美しい姫イオは羊飼いの美青年アッティスの許嫁でしたが、アポロンもイオを望んだので、林の女神がイオをすみれの花に変えて隠してしまいました。


 ギリシャ神話の別のお話。

 昔、すみれの花がまだ白かった頃のお話です。ある時ヴィーナスが、息子のキューピッドに、すみれと自分のどちらの方が美しいか尋ねました。キューピッドは平然として、すみれの方だと答えました。ヴィーナスはとても怒ってやたらとすみれを叩いたのですみれの花は紫色になってしまいました。
 (このお話は、17世紀の詩人ロバート・ヘリックの詩の中で語られているそうです。)


 ギリシャ神話のまた別のお話。

 オルフェウスは疲れていたので、休むために苔の生えた川岸に腰をおろしました。そして、アポロンからもらった黄金の竪琴をそばに置きました。すると竪琴を置いた辺りから、すみれが生えてきました。


 「姫の涙から咲いたスミレ」(スコットランド神話)
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”スコットランドの全ての神々、女神たちの母は、冬の神ベーラです。この神は冬の象徴だから、荒々しい性格ですべての人から恐れられ、嫌われていた。それに反して、すべての人々から愛され、慕われ、待たれていたのはベーラの息子で夏の神アウグス(Augus)とその妃の美しい姫ブライド(Bride)であった。
 その女神は冬期の長い間中、若くて美しいブライド姫を閉じ籠めておいて、その上姫の美しさを奪うために、その期間中わざわざボロを着せて、賤妾たちといっしょに賎(いや)しい仕事をさせていた。そんな冬のある夜、夫のアウグスは恋しい妻ブライドの悲しげな姿の夢を見た。そこでアウグスはさっそく、永遠の青春と、永久(とこしえ)の生命の泉があるという緑の島の王を訪ねて、その協力を得ることにした。
 やがてブライド姫解放の日がやってきて、夫のアウグスは白馬に跨ってスコットランドへやってきた。その時、夜はほのぼのと明け初めて、彼の黄金の衣は朝日に、さんぜんと輝き出した。たちまち島のあちこちからいっせいに歓声があがって、島の人々がいかに、彼を待ち焦がれていたかがわかった。姫もまたその時、アウグスが救出にきてくれる夢を見て、思わず嬉し涙にむせんだ。妃の涙の一滴は地に落ちてスミレの花となったが、その花はブライドの瞳のように澄んだ美しい碧色の花だったという。
 間もなく二人はブライドの城近い森で、ゆくりなくも出逢った。その時はスミレもサクラソウもユキワリソウも二人の姿を見て思わず顔を綻ばせ、そのまわりにはヒナギク始め、すべての草が晴れやかに咲き出して、その上を蝶が楽しく乱舞し、森にはすべての鳥が美しい声を奏で、島の人たちもまた楽しげに歌を合唱して、二人を祝福しあったといわれている。(『イギリス・スコットランド神話伝説』)”


 スミレと「農民の敵」(オーストリア伝説)。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”オーストリアの首都ウィーンはダニューブ河畔にある美しい古都で、音楽のふるさととしても有名である。そのすぐ近傍には、武士ニタルト・フックスと農民の争いという中世物語がある。
 ニタルトは春浅きある日、洋々と流れるダニューブ河に沿った牧場で、たった一株のスミレが春を待ち兼ねて美しく咲いているのを見つけた。そこで彼は人に摘まれないようにと、それに帽子をかぶせておいて、急いで侯爵邸へ、春の祭を開く時がきたと知らせに駆けつけた。だがその留守に一人の農夫が現われて、帽子をとってスミレの花を摘みとり、元のように帽子を被せておいて、その場を立ち去った。そんな事とは夢にも知らないニタルトは、盛装した侯爵を案内してやってきた。いざ帽子をとってみると、スミレの花はいつか消えていた。
 そこでウィーンの人々は、多分彼が、スミレが咲いたといって、人をからかったものと思いこんで、彼を心よく思わなくなった。ところが、彼が見つけたスミレの花は、竿の先につけられて、その周りに農民たちが集まり、浮かれて踊り狂っていた。それを見たニタルトは、人を馬鹿にするにも程があると腰の剣を抜き、踊っている人々の中へ飛び込んだ。そのため彼は農民の敵と見なされ「農民の敵」と呼ばれるようになったという。このように、春最初に見つけたスミレを竿の先につけて、村人がその周りで踊る風習はドイツでいっぱん的な風俗でもあった。(『花の文化史』)”


 ドイツのザクセン地方の民話「ツォルネボー(チェルネボー、チェルネボーグ)のスミレ」。
 (日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)、他より要約)

 昔、ヴェンデンラントにキリスト教がやってくる以前には、ソルブ人たちはツォルネボーという邪神を信仰していました。野蛮なヴァンダル(ヴェンド)族の神ツォルネボーは山の上の豪華な城に美しい娘と一緒に住んでいました。しかし、キリスト教がこの地域に押し寄せ、ツォルネボー山に最初の十字架が輝いた時、邪神は城もろとも岩に変えられました。そして、彼の美しい娘はつつましいスミレに変わりました。それ以来、そのスミレは百年に一度、ワルプルギスの夜に花を咲かせます。その瞬間にそのスミレを摘むことができた者は、美しい娘とツォルネボーの残した宝をすべて手に入れることができるといわれています。


 イスラム教の予言者モハメッドは、「すみれは花の王であり、またすみれの香りは、どの花の香りにもまして優れている」と書き残しています。


 其諺著「滑稽雑談」(ゆまに書房)のお話。

 ”順徳院の野邊のむかし物語云、昔ある人、道に行迷ひ、広野に日を暮らして、草の中にて鳥の子を拾ひぬ。是を袖に入れ、草の枕を引き結び、その野に臥しぬ。夢に拾いつる卵は、前世の子なり。この野に埋むべきよし見て、夢さめぬ。夢のごとく、やがて埋む、そのあしたに見るに、葉ひとつある草に紫の花咲きぬ。いまのすみれこれなり。”


 モーツァルトの歌曲「すみれ」(ゲーテの詩にもとづいて1785年に作曲)

 すみれの花が牧場に咲いていました。そこへ美しい乙女が楽しそうな足取りで近付いてきました。すみれは、その乙女に摘まれて、その胸に抱かれたいと望み、乙女が来るのをじっと待っていました。しかし乙女は、すみれの花に気付かずに、すみれの花を踏んで去って行きました。


 宝塚少女歌劇月組のレビュー『パリゼット』の主題歌「すみれの咲く頃」

 フランツ・デーレ作曲、白井鉄造訳詞のシャンソンです。
 「春はすみれ咲き、春を告げる、春、何故人は汝(なれ)を待つ」というこの歌詞の原曲名は、ドイツ語でWenn der weisse Flieder bluht(白いニワトコの花がまた咲く頃)で、これがフランスに入って、Quand refleuriront les lilas blancs(白いリラの花がまた咲く頃)となったもので、ヨーロッパで流行していたものを白井鉄造が持ち帰って訳詞をつけて舞台発表しました。


 ナポレオンが戦略を立てた机の上にあったのは武器ではなく、すみれの花束だったそうです。すみれはボナパルト家の紋章にもなっています。
 そういえば、エルバ島に流される時にナポレオンはチュイルリー宮殿で、「すみれの花が咲く頃にまた戻ってくる」と言い残し、その通りに戻ってきたそうです。この人の辞書に不可能は…


 すみれの名は、横から見ると花の形が大工の使用する墨壺に似ていることから「墨入」の転訛したものという説がありますが、万葉集には既に須美礼として詠まれているそうです。


 スミレには、春に咲く花(開放花)の他に、閉鎖花とよばれる開かない花(つぼみ)ができます。開放花が昆虫によって運ばれた他の花の花粉で受粉するのに対し、閉鎖花は自家受粉して結実します。スミレは閉鎖花だけでも十分子孫を残せますが、環境の変化に対応して生き残るために、他のスミレの遺伝子を取り入れて遺伝的な多様性を保つ必要性から開放花からの結実もします。
 スミレの種には、エライオソームという蟻が好む物質が付属しています。蟻は種を巣まで運び、エライオソームを食べた後、種を巣の外へ捨てます。これを蟻散布というそうです。


 中国では、乾燥させた全草が「紫花地丁」(しかじちょう)という生薬になります。解毒、抗炎症、鎮痛薬として、各種の化膿性疾患に煎じて服用します。


     山路来て 何やらゆかし すみれ草     松尾芭蕉

     すみれほど ちいさき人に 生まれたし     夏目漱石


 花言葉はすみれ全般では、誠実・小さな幸せ・控えめです。色別には、青色・紫色は誠実、白色は無邪気、黄色はいなかの幸福、桃色は愛・希望です。


 「花物語」には、パンジー(三色すみれ)、坪菫・壺菫(つぼすみれ)、野路菫(のじすみれ)の項目もあります。

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李(すもも)

 中国のお話(列女伝)。

 戦国時代、威が斉の王に即位しましたが、国は安定しませんでした。国政は破胡が担当していましたが、破胡は有能な者を嫉み、賢明な者を誹謗し、逆に無能な者を誉めました。威王の後宮の虞姫は、破胡の行動を見かねて王に訴えました。「破胡は腹黒い人です。登用なさってはいけません。斉には賢明で徳行高い北郭先生がいらっしゃいますので、先生を登用なさった方がよいと思います。」そのことを知った破胡は、虞姫が北郭先生と内通していると言いふらしました。王は虞姫を閉じ込めて役人に追求させましたが、役人は破胡に買収されていたので、虞姫の罪をでっちあげました。

 しかし、王は納得できなかったので自ら虞姫に質しました。虞姫は言いました。「私はずっと王に尽くして参りましたが、陰謀に陥れられてしまいました。私の潔白は事実です。私の非は、『瓜田に履(くつ)を納(い)れず、李下に冠を整さず』という、疑われることを避けなかったことと、私の申し開きをしてくださる人がいなかったという私の至らなさにあります。私は申し開きするつもりはありません。ただ国政を破胡に任せておいては国の将来はないと思います。」
 王は虞姫の言葉を信じました。そして破胡を排除して内政を整えたので斉の国は安定するようになりました。
 
 この話に出てくる「瓜田に履を納れず、李下に冠を整さず」という言葉は、瓜のなっている畑で靴を履き替えたり、スモモの実っている木の下で冠をかぶり直したりすれば、瓜やスモモを盗んでいるように思われるから、そういう人に疑われるような行為は避けるべきだ、という意味です。


 中国の別のお話。

 越王勾践(こうせん)は呉王夫差に敗れた後、復讐のために様々な作戦を立てました。その中の「美女をあてがって呉王夫差を骨抜きにする」という作戦を実行するために、参謀の范蠡(はんれい)は庶民の中から才色兼備の女性を捜しました。范蠡は愛国心の強い西施(せいし)という女性を連れて呉に向かいました。志を同じくする二人はお互いを尊敬し、愛するようになりました。西施は故郷や愛する人と別れる不安から病気になりました。范蠡も愛する人を敵国の王のもとに送らなければならないのがつらく、二人とも涙を流すばかりでした。

 ある晩、范蠡は月明かりの中を気を紛らわすために散歩していました。スモモがたくさんの実を結んでいました。スモモの木の下にいた老人が「国家の大事の前には、個人の事情は問題ではありません。もう後に引くことは出来ません。」と言いました。そしてスモモを入れた籠を西施への贈り物として渡しました。西施にその話をしてスモモを渡すと、西施はスモモを幾つか食べました。そして二人は旅を続ける決心がつきました。こうして西施はスモモを食べながら旅を続け、呉王夫差のもとに着きました。

 呉王夫差は西施に夢中になり政治がおろそかになりました。呉の勢力は弱まり、10年後に越は呉を破りました。二人は越に帰ることになりました。でも越王勾践の妃は才色兼備の西施に夫の心が傾くのを恐れて、西施に刺客を送りました。二人は手を取り合って逃げ、その後、名前を隠して幸せな日々を送りました。


 松田修著「花の文化史」(埼玉福祉会)より引用。

 ”『神仙録』
「老子の母は、老子を懐妊して八十一年間スモモの下に居たということである。そして生まれたのが老子であるので、老子は李を以て姓としたという。」  (中略)

 『文昌雑録』
「東方朔がある日、弟子と共に道を歩いていたが、のどが非常にかわいたので、水を求めると、弟子の一人が路傍の家に行き、戸を叩いて水を請おうとしたがその家の名がわからず、戸をただ叩くばかりで返事がない。ところが東方朔がその家に近づいてみると、伯労(モズのこと)が多数飛んで李の下にとまっている。東方朔はこれをみると直ちに弟子にむかっていった。この家の主人は、姓は李といい、名を伯というにちがいない、汝行ってこれを告げ、水を求めて来れと。弟子が行ってみると、なるほど主人の姓名はまさにそのとおりであった。そして李伯は、ていねいに東方朔を迎えてこれをもてなしたという。」”


花言葉は、忠実・困難

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セージ

 ギリシャ神話のお話。

 美しいニンフのセージは、森の奥の池のほとりの樫の古木のほこらに一人でひっそりと住んでいました。ある日、その国の王様が森に狩に出かけて、池のほとりに佇む清楚なセージの姿を見かけて一目惚れしました。そしてセージもまた、王様のたくましい姿を見て一目惚れしました。王様はすぐにセージに求婚しました。けれどもセージは首を縦に振りませんでした。ニンフにとって人間に恋することは死を意味したからです。

 でも、セージには、なおも力強く求婚してくる愛しい王様を拒むことは出来ませんでした。セージは王の腕に抱かれ、自分の命と引き換えに愛を得ました。王様は自分がセージを愛したためにセージが死んでしまったことに気付いて後悔し悲しみましたが、手遅れでした。でもセージは王様の愛を得て、とても幸福に死んでいったのでした。そしてセージのいた場所からは、見たことのない花が咲き出しました。人々はその花をセージと名付けました。


 セージとは、薬用サルビアのことで、ローマでは最も神聖視されていたハーブです。扱う人は身体を清めてからセージを手にして儀式をとり行いました。

 また、セージには記憶力を上げる効果があるとされ、家庭で重宝されていたようです。花言葉は、そのような背景から生まれたようです。


花言葉は、家庭の幸福・家庭の徳・家庭的

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背高泡立草(せいたかあわだちそう)

 セイタカアワダチソウSolidago canadensis var. scabraは、キク科アキノキリンソウ属の多年草です。


 種子で増えるだけでなく地下茎でも増えます。根から周囲の植物の成長を抑制する化学物質を出しますが、この物質はセイタカアワダチソウ自身の成長も抑制するそうです。

 セイタカアワダチソウは虫媒花です。日本への移入は、養蜂家が蜜源植物として利用するためであったとされており、風媒花ではありません。一時期、気管支喘息の原因とされていましたが、現在では無関係とされています。


  瀧井康勝著「366日相生花の本」(三五館)より引用。

 ”生物にお詳しい昭和天皇が、訪米の折に「お国のセイタカアワダチソウが、日本の土地を荒らして大変困っております」とアメリカ大統領におっしゃったところ、「それはそれは!貴国の自動車がアメリカ市場を荒らして困ってます」と切り返されたという話を、当時の侍従長の入江さんに聞かされたことがあります。ともに悪役イメージです。”


花言葉は、生命力

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西洋夏雪草(せいようなつゆきそう)

メドウスイート

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西洋鋸草(せいようのこぎりそう)

アキレア

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西洋柊(せいようひいらぎ)

西洋ヒイラギは、モチノキ科モチノキ属の植物です。ホーリーとも呼ばれます。
(ヒイラギは、モクセイ科モクセイ属の植物です。)


 「北欧神話」のお話。

 光の神バルドルは不死ではなかったので、彼の仲間がトールの神にバルドルを不死にしてくれるように願い出ました。トールは全ての動植物がバルドルを害しないと誓うなら彼を不死にしようと答えました。人気のあるバルドルに嫉妬した意地の悪い神ロキは、この頃はまだ白かったカラスに化けて樫の木に寄生しているヤドリギに身を隠し、ヤドリギがバルドルを害しないと誓いを立てるのを邪魔するのに成功しました。
 そして、弓遊びが始まりましたが、誰もバルドルを傷つけることすらできませんでした。そこでロキはバルドルを害しないと誓いを立てていないヤドリギのついた矢を他の神に渡してバルドルを射させました。矢は心臓に命中し、赤い血が西洋ひいらぎにふりかかりました。それ以来、西洋ひいらぎには赤い実がなり、ヤドリギには悲しみに泣いた涙粒が白い実となり、それまで白かったカラスは罰を受けて黒くなりました。

 「花物語」の宿木・寄生木・冬青(やどりぎ)の項目にある、このお話と同じ題材を扱った細部の違うお話の方が知られています。北欧神話でもカラスはギリシャ神話と同様に最初は白かったのですね。

「花物語」には、柊(ひいらぎ)の項目もあります。



西洋ヒイラギの花言葉は、先見の明
ホーリーの花言葉は、魔術・悩殺・魅力・永遠の輝き・先見・用心・不滅の輝き

ホーリー

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西洋風蝶木(せいようふうちょうぼく)

ケーパー(西洋風蝶木)

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石竹(せきちく)

 「藻塩草」の源俊頼の歌と伝説。

    唐国にありけることはいざ知らず あづまのはてに生ふるいしたけ

 昔、東国に悪霊が宿っているといわれる大きな岩がありました。この岩は、人がそばを通ると笑い声を立てたり、すすり泣いてみたりして、人々を気味悪がらせました。その話を聞いた島田時主(ときつかさ)という人が弓矢でその岩を射ました。すると、それ以後は岩は悪戯をしなくなりました。そして、岩に刺さった矢は抜けずに花に変わりました。花が石から咲いたということで、その花は石竹と名付けられました。


「花物語」には、撫子(なでしこ)の項目もあります。


石竹の花言葉は、女性の愛

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銭苔・地銭(ぜにごけ)

 学名は、Marchantia polymorpha L. です。属名は、フランスの植物学者N・マルシャンにちなみます。
 和名の由来には、体表面の気孔区割を銭形の紋に見たてたという説や、属名Marchantiaから商人を連想して銭に結びつけたという説などがあります。


 中国の民話。

 名医の華陀(かだ)が広陵(現在の江蘇省揚州市周辺)で治療にあたっていた頃のお話です。
 往診に出かけた華陀は、道端で苦しそうに泣いている女性を見かけて声をかけました。その女性はスズメバチに刺されて顔の半分が真っ赤に腫れあがっていました。華陀は女性に、「苔を探して刺された部分に貼りなさい。裏庭の湿ったところにはえている緑の苔ですよ。それで多分良くなります。」と言いました。女性は半信半疑でしたが、他に方法もないので、苔を探しに家へ帰りました。
 二日ほど経ってから、華陀が弟子を連れて女性の様子を見に行くと、女性の顔の腫れはすっかりひいていました。弟子が華陀に、書物にも出ていない苔の効能を知っているのか尋ねると、華陀は答えました。
「以前、スズメバチがクモの巣にかかったとき、スズメバチがクモを刺し、クモの腹が腫れました。クモは苦しそうに地上に落ちましたが、苔の上で転げまわっているうちに腫れがひいてきて、再びスズメバチに挑みました。何度も格闘した末に、クモがスズメバチを食い殺しました。スズメバチの毒は火に属していますが、涼性の苔を使えば、毒を消して腫れをとることができると思い、試してみました。私の判断が正しかったということです。」


花言葉は、健康

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ゼラニウム

 イスラム教のお話。

 予言者マホメットは、アラーの啓示を受けて布教の旅を続けていました。太陽がさんさんと輝く夏の暑い日のことでした。マホメットは、旅で汚れた自分のシャツを小川の水で洗い、水辺に生えていた薄紫色の葵(ラベンダーマロウという説もあります)の上に広げて乾かしました。暑い日だったので、マホメットが休憩している間にシャツは乾きました。マホメットがシャツを手に取ると、シャツの下に生えていた薄紫色の葵の花は、鮮やかな赤い色をして香りを放っているゼラニウムの花にかわっていました。

 ゼラニウムは、アラーの神がイスラム教の創始者マホメットの徳をたたえて、この世に生み出した植物だと言われています。

 後に、マホメットが天国へ旅した時には、マホメットの額から滴った汗は白いバラに、マホメットが乗っていた怪獣アルボラークの汗は黄色いバラになったそうです。


花言葉は、愛情・友情・決心

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芹(せり)

 「三国伝記」(巻10−3)のお話。

 聖徳太子が27歳の春に膳村のほとりに行啓(ぎょうけい)した時、太子は芹摘みをしている身分の低い3人の女性を見ました。二人は太子に走りよって奉迎しましたが、一人は芹を摘み続けていました。不思議に思った太子が従者に理由を尋ねさせると、その娘は答えました。「私は赤子の時に橘山に捨てられ、膳村の老女に拾われて育てられました。今日初めて芹摘みに来ましたが、養母の恩に報いるためにたくさんの芹を摘みたいので、太子を奉迎する余裕がありません。」
 太子は娘を気に入り、その夜、后にするために娘を訪ねることを約束しました。夜になっても太子がなかなか現れないので村人は嘲笑しましたが、太子は夜半過ぎに現れ、老女の接待を受け、娘を宮中に迎え入れました。そして、彼女を第一の后、膳手の后と称しました。

 奈良県の「膳夫(かしわて)姫伝説」も同様のお話です。598年3月、芹摘みをしていた少女は、「私の養母は病気で、看病のために芹を摘んでいます。太子の御幸はこれからもあるでしょうが、私の養母の命はひとつだけです。奉迎しないことをお許し下さい。」と答えました。太子は少女の孝心に感心して歌を一首贈りましたが、少女の返歌の素晴らしさにも感心し、とうとう妃として宮中に迎えることにしました。少女は宮中で配膳などを任され、膳夫姫または芹摘姫と呼ばれました。


花言葉は、貧乏だが高潔・清廉潔白

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セロリ

 セロリApium graveolens L.は、オランダミツバ属(セロリ属、アビウム属)の一または二年草です。


 牧野富太郎著「植物一家言」(北隆館)より引用。

 ”我が国でも、近来セロリー(Celery)が普通になったのだが、しかし、セロリーは中国では、菫菜(今日洋食の食卓に出るのは、この改良種である)、和名では、オランダミツバ(オランダゼリは、パーセリーである)と言う。セロリーで面白いのは、肥後熊本の城内に、セロリーが野生していて、それを清正人参と言った。これは昔朝鮮との戦の折、加藤清正が、持ち帰ったために、この名があると言われる。憶(おも)うに、清正が、朝鮮の人から、朝鮮人参と称して、このセロリーの種子を掴まされ、神ならぬ清正が、それを知らずに持ち帰り、熊本城内に栽培したものが、後に野生状態になったものであったものらしい。(中略)
 清正ともあろう者が、人に騙されて、セロリーの種子を、本当の人参の種子と思い違いして、大いに喜んで日本へ持ち帰り、作ったものが、いわゆる清正人参であるが、この清正の持ってきたという種子は、今日日本においては既に絶滅している。”


花言葉は、真実の愛

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栴檀・楝(せんだん)

 日本では古くは「楝(おうち)」と呼ばれていました。
 「栴檀は双葉より芳し」という言葉がありますが、その栴檀はビャクダンを指しています。栴檀には芳香はありません。


 湯浅浩史著「植物と行事」(朝日選書)より引用。

 ”中国のセンダンの葉と綵糸のちまきの起源について、『続斉諧記(せいかいき)』(六世紀前半)に「屈原(くつげん。前343年ころ〜278年ころ)が五月五日、汨羅(べきら)に投身自殺した。楚の人々はあわれんで、毎年その日に竹筒に米を入れ、汨羅の水に投じて祭り、霊をなぐさめていた。漢の建武中(25〜55年)に長沙の区曲(おうきょく。一説には区回(おうかい))という人物が、三閭(さんりょ)太夫(屈原の別称)と名乗る士人に逢ったところ、私を常々祭ってくれるのは、大変ありがたいが、せっかくの米も毎年いつも蛟竜に盗まれてしまうので、今後も恵んでくれるなら楝の葉でまわりを包み、五綵糸で結んで欲しい。この二つは蛟竜が忌み嫌う、と言った」との記述がある。”


「花物語」にはニーム(インドセンダン)の項目もあります。


花言葉は、意見の相違

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セントジョンズワート

 聖書やオスカー・ワイルド著「サロメ」のお話。

 王女サロメは、ヘロデ王の後妻ヘロデアの娘でした。
 ヘロデ王は、自分の兄弟の妻が気に入り、手に入れようとしました。ヨハネ(イエス・キリストに洗礼を施した人)はヘロデ王をたしなめましたが、ヘロデ王の怒りをかって牢に入れられてしまいました。
 ヘロデ王は自分の誕生日のパーティーの時に、サロメに舞いを舞わせました。サロメの舞いは大変素晴らしく、満足したヘロデ王はサロメへの褒美に、望むものを何でも与えると約束しました。サロメは、ヨハネの首を欲しいと言いました。ヘロデ王はとまどいましたが、約束してしまったために、結局ヨハネの首をはねさせました。サロメは、お盆にのったヨハネの首を受け取りました。
 ヨハネが首をはねられた時に飛び散った血を浴びた草には、血痕のようなあとが残りました。でも、その草は治癒の効果を持つようになりました。人々は、聖ヨハネの奇跡だと噂し、その草をセントジョンズワート(聖ヨハネの草)と呼ぶようになりました。


 聖ヨハネの別のお話。

 聖ヨハネが追われていた時に、追っ手達は彼の家の前に、この花を目印として置いておきました。ところが追っ手達が再び戻ってきた時には、どの家の前にもこの花が咲いていたので、追っ手達は聖ヨハネの家がどこだかわからなくなってしまいました。


 イギリスのワイト島の伝説。

 ワイト島では、誤ってセントジョンズワートを踏んでしまうと、足元から1頭の妖精の馬が現れて、踏んだ人を乗せて一晩中走り続けると信じられていました。朝になると馬は消えてしまい、乗っていた人はその場に置き去りにされて、遠く離れた自宅まで歩いて帰らなければならないので、島の人々はセントジョンズワートを踏まないように気をつけていました。


 セントジョンズワートSt John's wortは、和名を西洋弟切草(おとぎりそう)といい、弟切草の仲間です。弟切草にまつわるお話については花物語の「弟切草」の項目をご覧下さい。東洋でも西洋でも葉に血痕ができたとしているところに共通点があります。


 セントジョンズワートは、最近では健康食品としてカプセルなどになって販売されています。


花言葉は、奇跡

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千年木(せんねんぼく)

 センネンボクCordyline fruticosa(Cordyline terminalis)は、リュウゼツラン科センネンボク属の常緑低木です。
 英名は、Ti、Hawaiian Good-luck Plantです。


 ハワイではキーKi(またはティTi)と呼ばれています。
 ポリネシア人がハワイに持ち込んだ有用植物の一つで、葉は屋根葺きや食物の包装、フラ用のスカート、靴の代用などに、根は焼いて食用にしたり、アルコール分のある飲料として用いられました。


 「キーとカメハメハ」
 (近藤純夫著「ハワイアン・ガーデン」(平凡社)より引用)

 ”キーの葉は屋根葺きや食物の包装、フラ用スカート、あるいは靴代わりに用いられた。根は焼いて食用としたり、アルコール分のある飲料とした。
 キーに関する次のような伝説がある。ハワイ島のフアラライ山が噴火してカイルア方面に流れはじめたとき、カフナ(神官)は祈りを唱えて溶岩流の勢いを止めようとした。しかし変化は起こらず、いよいよ集落を襲おうとした。そのとき、カメハメハ大王は自分の髪を切り取ってキーの葉にくるみ、祈りを唱えたカフナとともに溶岩流の中に投げ込んだ。すると、溶岩は勢いをなくして冷え固まったという。”

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相思樹(そうしじゅ)

 ソウシジュはフィリピン・台湾の原産のマメ科の植物でタイワンアカシアとも呼ばれます。沖縄には明治の末頃に台湾から導入されました。
 和名のソウシジュは、漢名の相思樹を音読みにしたものです。


 干宝著「捜神記」(11巻32)のお話。

 宋の康王の侍従に韓憑(かんひょう)という者がいました。康王はとても美しい韓憑の妻を気に入り、韓憑から彼女を取り上げて自分の側室にしました。韓憑は王を恨みましたが、怒った王は韓憑を無実の罪に陥れて城旦の刑に処しました。それは寝る間も与えずに昼夜働かせる重い刑でした。やがて韓憑は自殺しました。
 城壁の露台が完成すると、韓憑の妻は気付かれないように腐食させておいた華麗な衣装を着て康王とともに露台に登りました。そして康王の目前で投身自殺を図りました。側近達は彼女の着物の袖を掴みましたが、着物が腐っていたために、すぐに切れてしまい、彼女は落ちて死にました。
 彼女の遺書には、「王は生きている私を望みましたが、私は死を望みます。私の遺骸を夫と一緒に埋めて頂きたいと思います。」と書かれていました。怒り狂った王は彼女の願いに逆らい、韓憑の墓が見える位置に彼女の墓をつくって埋めさせました。

 すると、いつの間にか韓憑と妻の墓から大きな梓の木が1本ずつ生えてきて、十日ほどで両手で抱えるほどの大木になりました。2本の木はお互いに幹を寄せ合い、地下では根を絡ませ合い、地上では枝を絡ませ合いました。そして樹上には鴛鴦(おしどり)のつがいが巣を作り、日夜飛び去ることなく、頸を交えては悲しげに鳴いていました。
 宋の国の人々は二人のことを哀れに思い、その木を相思樹と名付けました。「相思」という言葉はここから起こったのです。黄河の南に住む人々は、鴛鴦を韓憑夫婦の生まれ変わりだと信じるようになりました。


    ひめゆり学徒隊卒業の歌「別れの曲」(愛称、相思樹の歌)
      作詞:太田博陸軍少尉・作曲:東風平(こちんだ)恵位

  1.目に親し 相思樹並木 行き帰り 去り難けれど
    夢のごと 疾き年月の 行きにけん 後ぞくやしき

  2.学舎の 赤きいらかも 別れなば なつかしからむ
    わが寮に 睦みし友よ 忘るるな 離り住むとも

  3.業なりて 巣立つ喜び いや深き 嘆きぞこもる
    いざさらば いとしの友よ いつの日か 再び会わん

  4.微笑みて われらおくらん すぎし日の 想い出秘めし
    澄みまさる 明るきまみよ すこやかに 幸多かれと 幸多かれと


ソウシジュ(黄)の花言葉は、秘密の愛

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蘇合香(そごうこう)

 蘇合香Liquidambar orientalisは、マンサク科フウ属の落葉高木で、英名はOriental Sweet Gumといいます。日本では漢名の蘇合香をそのまま用いています。
 蘇合香の樹からとれる芳香性の樹脂も蘇合香と呼ばれ、香料や薬用に用いられます。


 舞楽「蘇合香(そごうこう)」のお話。

 紀元前三世紀頃、天竺(インド)の阿育(アショカ)王(在位、前272-232)が重病で倒れたことがありました。王の病気を治したのは、マンサク科フウ属の落葉高木の樹脂からつくられる蘇合香でした。王は病気全快を祝って自ら楽曲をつくり、大臣の育竭(いくげ)に舞をつくらせました。喜んだ家来は、蘇合香の採れる樹木でつくったかぶとをかぶって舞い踊りました。

 舞楽「蘇合香」は、現在でも、蘇合香の形を模した菖蒲甲(しょうぶかぶと。蘇合香と菖蒲の葉が似ているそうです)をかぶって舞います。
 インドの曲が唐に伝わり、それを、遣唐舞生の和邇部島継(わにべのしまつぐ)が八世紀末の延暦年間(782-805)に日本に伝えたといわれています。


 「花物語」には、楓(ふう)の項目もあります。

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蘇鉄(そてつ)

 沖縄の民話「鬼慶良間(うにぎらま)」

 昔、渡嘉敷(とかしき)島の渡嘉敷村に、鬼慶良間という名の力持ちで心の優しい人がいました。鬼慶良間は島にソテツを植え、飢饉の時にソテツの実や根を食べるように村人に教えました。島には平地が少なく、人々は飢饉の時にはソテツの実や根を加工して食べて飢えをいやしました。
 また、鬼慶良間は村人のお墓をつくるために海から大石を運んできましたが、最後の石を運ぶ時に倒れました。鬼慶良間は死ぬ直前に「この石が持ち上がらない時には『鬼慶良間ヒヤーヌエイ』と掛け声をかけなさい。」と村人に言いました。村人達は、鬼慶良間の言ったとおりにして石を持ち上げてお墓をつくりました。
 鬼慶良間は渡嘉敷の村の守り神としてまつられるようになり、英雄として語り伝えられるようになりました。名前の「鬼」は力持ちの意味だそうです。

 大正末期から昭和6、7年頃まで。飢饉の時には蘇鉄の澱粉をとって食糧にしていましたが、よく晒さないと中毒するので、沖縄では「蘇鉄地獄」と呼ばれていたそうです。


 「赦免花の伝説」(東京都八丈町)

 昔、八丈島は、島流しにされた罪人達の住む流人の島でした。
 ある時、慈運(じうん)という名の僧が、人に陥れられて無実の罪で八丈島に流されてきました。慈運は自分の無実を訴え続けましたが、退けられるばかりでした。そこで、慈運は断食をして訴えることにしました。慈運は馬路(うまじ)にある宗福寺の裏山に登って二株の蘇鉄を植えて、言いました。
「私は、この地で死ぬかもしれません。しかし、この蘇鉄に花が咲く時には、私と同じ目にあっている者たちに赦免の知らせが届くことでしょう。」
 その日から慈運は断食と読経を続け、八丈島で亡くなりました。
 慈運の死後、人々が忘れた頃になって、蘇鉄は花を咲かせました。そして、江戸からの御用船が到着し、何人かの流人の赦免の知らせが届きました。その後も、慈運が植えた馬路の蘇鉄に花が咲くたびに赦免の知らせが届きました。流人達は慈運の蘇鉄の花を赦免花と呼び、花の咲くのを待つようになりました。


 日本三大蘇鉄。

(1)能満寺(静岡県榛原郡吉田町)の蘇鉄

 徳川家康が能満寺で休憩した時に、庭の大蘇鉄を見て気に入り、和尚に頼んでもらいました。家康は蘇鉄を駿府城内に植えましたが、蘇鉄は毎夜、「帰りたい」と泣くようになりました。家康は蘇鉄を哀れに思い、能満寺に帰してやることにしました。能満寺に戻った蘇鉄は泣くこともなく生長しました。

(2)妙国寺(大阪府堺市材木町)の蘇鉄

 天下の名木を集めていた織田信長が妙国寺境内の大蘇鉄を気に入り、安土城へ植え替えるように命令しました。ところが蘇鉄が毎夜「帰りたい」と泣くようになったので、蘇鉄は妙国寺に返されました。
 この伝説は新堺音頭にも取り入れられているそうです。
 また、この蘇鉄の樹精の蛇神が貫主の夢枕に立って、「織田信長に傷つけられたので肥料として鉄くずを与えてください。」と懇願したので、その通りにしたら回復したという話も伝わっています。
 
 朝寒や 蘇鉄見に行く 妙国寺 (正岡子規・妙国寺境内の蘇鉄の脇)

(3)龍華寺(りゅうげじ)(静岡県清水市村松)の蘇鉄

 北原白秋作詞の「ちゃっきり節」の一節(25番)にうたわれています

  おまへ、龍華寺、蘇鉄の花よ、
  いつか忘れた、ほろと忘れた頃に咲く。
  ちゃっきりちゃっきりちゃっきりよ、
  きやァるが啼くから雨づらよ。


花言葉は、雄々しい

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蕎麦(そば)

 ロシアの「そばの由来」についての伝説。
(渡辺道子編「ロシアの口承文芸」より引用)

 ”王が美しい娘を持っていた、名はクルペニチカ(クルパー=ひきわり)。
 聖なるルーシ(ロシアの古称)の地に凶悪なタタールが攻め込んできた、クルペニチカを捕らえ、生れ故郷から遠く引き離し、辛い仕事をさせた。
 クルペニチカを捕われから救ったのは一人の占い婆だった。老婆は乙女をそばの粒にかえ、ルーシに運ぶと故郷の地に投げた。粒は王女の姿となり、その莢からそばがはえた。

 次のようなバリエーションもあります。

 そばの種をルーシへ運んだ老婆は粒を大地に埋めた。種は、芽を出し、七十七の粒のついた茎を伸ばした。
 激しい嵐が吹き、この粒を七十七の荒野へ吹き散らした。以来、聖なるルーシにそばが稔るようになった(これが六月十三日だったことから、今もこの日はそばをまきはじめる日となっている)。”


 埼玉県の一地方の伝説。

 昔、武蔵で北条軍に敗れた武田軍の軍勢が甲斐の国境付近まで逃げてきました。彼らが、もう大丈夫だろうと思って辺りを見回すと、月明かりに照らされて大海原が広がっているのに気付きました。彼らは、自分達が間違って北条氏の城下の小田原に来てしまったと思いこんで自害しました。でも、彼らが小田原の海だと思ったのは、実は白いソバ畑でした。この地方の人達は、ソバ畑を海と勘違いして自害した兵士達を哀れに思い、それからはソバを植えることをやめました。


 キリシタン伝説。

 キリスト教が禁じられていた頃のある晴れた秋の日、天草島の畑で老夫婦がソバの種を蒔いていました。すると数人のキリシタンがやってきて「役人に追われているので、ここを通ったことを教えないでください。」と頼みました。キリシタン達は老夫の畑を通って崖の下にある洞窟に隠れるつもりでした。
 老夫婦がソバの種を蒔き続けていると、まもなく役人達がやってきました。役人達は老夫婦にキリシタンが通ったかどうか尋ねました。老夫婦は何も悪い事をしていないキリシタン達を助けてあげたいと思いましたが、畑の中にたくさん残っている足跡のことを考えて本当のことを言いました。「私達がソバの種を蒔いている時に通りました。」
 役人達は、「もうソバの花が咲いているではないか。今頃はもう遠くに逃げてしまったに違いない。」と言って、引き上げていきました。不思議に思った老夫婦が畑を振り返ると、そこにはキリシタン達の足跡はなく、畑一面にソバの花が咲いていました。


 「瓜子姫」のお話は、九州から東北までの各地にあって少しずつ違っています。

 昔、山奥におじいさんとおばあさんが住んでいました。おじいさんは山へ木を切りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました。おばあさんは川を流れてきた瓜を拾ったので、おじいさんと一緒に食べようと思って家に持って帰りました。二人が瓜を食べようとすると、瓜が二つに割れて中から可愛らしい女の子がでてきました。二人は女の子を瓜子姫と名付けて大切に育てました。瓜子姫は機織の上手な美しい娘に成長しました。
 ある日、おじいさんとおばあさんの留守中に天邪鬼(あまのじゃく)がやってきて瓜子姫を殺して食べてしまいました。それから天邪鬼は瓜子姫に化けて機を織りました。天邪鬼の化けた瓜子姫は殿様に望まれてお城に行くことになりましたが、籠に乗っている途中で木の上の鳥達が正体をばらしたので、天邪鬼は殺されてしまいました。
 天邪鬼の死体をソバの根元に埋めたので、その時からソバの根は天邪鬼の血に染まって赤くなりました。


 ソバの根が赤いわけを語っているお話は他にもあります。

 愛媛県の民話「天道さん、金の鎖」。

 母親と3人の子供達が住んでいました。ある日、母親が出かけた後で、山姥(やまんば)が母親に化けて家には入ろうとしました。子供達は「声が違う」、「手が違う」、「足が違う」と言って家に入れようとしませんでしたが、山姥はその度に工夫を凝らして子供達を騙し、とうとう家に入ることが出来ました。その夜、母親に化けた山姥と一緒に寝た一番小さい弟は山姥に食べられてしまいました。そのことを知った兄弟は家を出て木の上に逃げ、「天道さん、金の鎖」と言いました。すると天から金の綱がおりてきたので、兄弟はそれにつかまって昇って逃げました。山姥は兄弟の言葉を真似て「天道さん、金の鎖、くされ綱」と言い、おりてきた綱につかまって昇りました。ところが、綱が途中で切れて、山姥は地上に落ちてしまいました。山姥の血がソバの根にかかったので、ソバの根は赤くなりました。天に昇った兄弟は兄弟星になりました。


 埼玉県の民話「麦とソバ」

 冷たい風の吹く日のことでした。麦とソバは川を渡ることにしました。ソバは冷たい川を渡りましたが、麦はソバを嘲笑い、自分は渡りませんでした。ソバは冷たい川を渡ったために足が赤くなりました。この時からソバの根は赤くなりました。一方、麦は神様の罰を受けて、冬の寒い時に芽を出すことになりました。


 中国の伝説「蕎麦娘」。

 昔、蕎麦(チャオマイ)という名の美しくて賢い娘は隣村の鉄柱(ティエチウ)と結婚し、二人は幸せに暮らしていました。
 ある日、鉄柱は市場へ羊毛を売りに行きましたが、羊毛を買ったずるい商人は手持ちがない振りをして家に取りに来るように言いました。鉄柱が商人に住所と名前を尋ねると商人はこう答えて帰って行きました。
「着物のない者は冷たいのは嫌いです。我が家には竹はあっても塀はありません。私の苗字と名前は、寒露が過ぎればすぐにわかります。」
 鉄柱が困っていると蕎麦が答えを教えてくれました。
「寒寨子(寒い山の中のとりで)村の霜降(そうこう。二十四節気で甘露の次の10月23、4日頃)さんの所へ行ってください。」
 鉄柱は霜降の家に行って代金をもらうことができましたが、霜降は賢い蕎麦に仕返しすることを考えました。霜降は蕎麦をひどく侮辱し、そのため蕎麦は病気になって死んでしまいました。
 蕎麦が死んだ一年後、蕎麦の墓に赤い茎、緑の葉、白い花の見たことのない植物が生えてきました。その植物は夜中に歌いました。
    白い花の蕎麦は霜の降るのが怖いのです
    白い花、青い葉、紅の茎の私を連れて行ってください
 村人達はその植物が蕎麦の生まれ変わりであることに気付き、霜降に侮辱されないように、霜の降る頃に急いで刈りとって家の中にしまうようになりました。


 中国(山東省)の漢族の民話「蕎麦娘」。

 昔、忙生(マンション)という若者がいました。忙生が13歳の時に両親は亡くなりましたが、忙生は17歳になると両親が残してくれた荒地を開墾して畑にし、蕎麦の種を蒔きました。蕎麦は真っ赤な茎に緑の葉を茂らせて育ち、白い花を咲かせました。ある月夜の晩、忙生が蕎麦畑を眺めていると、蕎麦畑に一人の娘が現れました。その娘の顔は雪のように白く、真っ赤な上着と緑色のズボンを身につけていました。その娘は蕎麦娘と名乗り、忙生と楽しく語り合いました。
 忙生が真夜中に家に帰って寝ようとした時、つむじ風が起こって蕎麦畑は砂の山に埋もれてしまいました。忙生は下敷きになったと思われる蕎麦娘を掘り出そうとして、毎日砂山を掘りました。砂山が平らになった時、1羽の金色の小鳥が飛び出してきました。金色の小鳥は忙生に、蕎麦娘が鉤手(かぎて)の化け物にさらわれて摩天山の黒石洞に捕えられていることを教えてくれました。忙生は金色の小鳥に力持ちにしてもらい、鉤手の化け物を退治して蕎麦娘を奪い返しました。化け物の正体は蜘蛛でした。
 忙生は蕎麦娘の言うように、また蕎麦の種を蒔きました。すると、蕎麦が伸びてきて花を咲かせました。そして、月夜の晩にはいつも蕎麦娘が現れるようになりました。

 ちなみに、日本では「蕎麦娘」という言葉は、伊予地方では独身で私生児を産む浮気娘のこと(次々と花が咲いて実るから)、栃木県那須郡西那須野町三島では、晩婚の娘のことをさすそうです。


 中国のナシ族の民話「麦と蕎麦」(『納西族民間故事選』)
 (石川鶴矢子著「石の羊と黄河の神」(筑摩書房)より要約)

 昔、穀物と雑草は入り混じって生えていました。穀物の神は五穀と草を分けようと考え、品評会を開くことにして、作物達に通知しました。
 品評会の日、麦は隣に住んでいる蕎麦を誘って会場へ出かけました。麦のお腹には人間が好んで食べる粉がたくさんあるし、麦わらも家畜の餌になり、全身が宝のようでした。蕎麦は、麦が穀物に選ばれて、自分が落とされることを心配し、麦を追い返そうとしました。そして、麦がいうことをきかないと、頭で麦のお腹を突きました。麦のお腹の深い筋はその時にできた傷跡です。
 麦は泣きながら神様に蕎麦のしたことを話しました。神様が麦をひいきしていると思い込んだ蕎麦は言いました。
「今日からは三日以上は寝ません。芽を出しても三ヶ月以上は地上にいません。その間に土の中の血を吸い尽くしてしまいます。穀物の仲間に入れてくれなくてかまいません。」
 それで、蕎麦は種をまくと三日で発芽し、三ヶ月で実を結ぶようになりました。土の中の血を吸ったために茎と花は真っ赤になりました。蕎麦を植えたあとの土壌がやせるのはそのためです。
 神様は麦をなぐさめました。
「お前の体には傷跡があるけれど、そら豆のあとについて、力の限り人のためにつくすのなら、穀物の仲間に入れてあげよう。」
 それで、麦は、そら豆よりも遅くまき、熟れるのも遅いのです。


 中国の昔話「蕎麦の由来」(中国民間文学集成遼寧巻撫順市巻上)。
 (寺内重夫様の許可を得て「ことばとかたちの部屋」の中のお話を掲載しています)
 (「ことばとかたちの部屋」http://homepage1.nifty.com/kotobatokatachi/)

 ”優しい長者と意地悪な長者がいた。優しい長者は春、よそに食糧を貸す時はおおまかに一斗を量ってやり、秋、返しに来ると、一斗をきちんと量ってやった、これは長者が人に優しいからで、人々はこの長者を“量らず長者”と呼んでいた。
 意地悪な長者はこうではなく、升を豚の皮でつくり、春、よそに食糧を貸す時は、日に乾かして小さくし、秋、返しに来ると、豚の皮の升を水につけ皮を軟らかくして升を大きくした、それで人々はこの長者を“豚の升”というあだ名をつけていた。

 やがて、天帝がこのことを知って怒り、風のない穏やかな六月に九江八河五湖四海の竜王を呼んで「手下の兵を“量らず長者”の畑にやり二日間、恵みの雨を降らし、それから“豚の升”の畑に大風を吹かし雹を降らせ不作にしてやれ」と言った。
 竜王は天帝の命を息子の小白竜にやらせた。小白竜は軍勢を率いて海から出ると“量らず長者”の畑に行き恵みの雨を降らした。それから小白竜は雹を持って“豚の升”の畑に行き、雲を垂れ、雷と雹を降らせ狂風を吹かそうとした。

 ちょうどこの時、河べりで天女が古い衣を切って洗おうと鋏を持ってやって来た、見ると雲が垂れ、大風がうなり雹が降りそうだ、これは困ったと天女は鋏で空を切った、気をつけていなかった小白竜は、この鋏で三枚鱗を切られ「アッ」と叫び、一回転し、雹をみんな“量らず長者”の畑に撒いてしまった。この雹のために“量らず長者”の五穀の根は全部だめになってしまった。

 小白竜は海に帰ると、父親に「わたしは怪我をして、雹を“量らず長者”の畑にみんな撒いてしまい、今日の仕事は失敗しました」と言った、竜王はこれを聞くと身震いし、これは隠しておくことはできないと、急いで天宮へ行き、天帝に上奏した。天帝はわざとやったわけではないと、内侍の家来に「お前たち、方法を考えよ」と言った、家来は「半季でできる苗で埋め合わせてやりましょう」と答えた。

 一陣の黄土と同じような狂風が“量らず長者”の畑に吹き、種が撒かれた。ちょうど “量らず長者”が雹に降られどうしようと思っている時に、畑に沢山の種が撒かれ“量ら”ず長者”もどうしていいか分からなかった。すると雀の群れが飛んで来て餌だと思って種を啄み、はじき飛ばすと種は土に埋まり、すぐ芽をだした。

 雀が蒔いたからこの作物を人々は“雀埋(qiao mai)”と呼んだが後に“蕎麦(qiao mai)”というようになった。蕎麦は夏至の後で蒔いても、はじめ実は少ないが二伏(夏至の後の第四の庚の日)には多くなり、三伏(立秋の後の第一の庚の日)にはもっと多くなる、その後も日がたてばたつほど実は多くつき、立秋の後に蒔いた蕎麦でも実がついた。
 それから今でも農作物が雹に打たれると、人々はすぐ蕎麦を蒔く、それでも秋にはよい収穫をあげることができるからである。”


 飯倉照平著「中国の花物語」(集英社新書)より引用。

 ”吉林(きつりん)省で記録された話では、強欲な金持ちと慈悲深い金持ちが登場します。
 お天道さまは強欲な金持ちの悪行をこらしめるために、雷公と閃婆(せんば。稲妻)をつかわし、その畑に雹(ひょう)を降らせることを命じます。ところが彼らは、まちがって慈悲深い金持ちの畑に雹を降らせて、その作物を全滅させてしまいます。
 これを聞いたお天道さまは、その失敗をつぐなう方法を彼らに実行させました。
 三日後には、その畑にこまかな緑の苗が生えてきました。その苗は数日後に一尺ばかりになり、やがて小さな白い花をつけました。
 実ったものを粉にひいてみると、ムギに似ておいしかったので、「巧麦(チアオマイ)」と呼びました。これがおなじ発音の「蕎麦」の起こりだというのです。

 (民話に関係ないので中略)

 四川省の土家族の民話。
 ソバとムギは、もともと仲良しでした。
 ある日のこと、ソバがムギに、「おまえは一年に一度実るだけなのに、冬になってもまだ畑にいるのかい。おれは一年に二度も実るのに、正月は家の中でゆっくりできるぞ」と自慢しました。するとムギは「おれは寒さなんか平気だから畑にいられるのさ。おまえはちょっと畑にいるだけで、足が真っ赤になるなんて、恥ずかしくはないのか」と言い返しました。
 自分の弱点を言われて怒ったソバが、ムギにとびかかっていき、ケンカが始まりました。この取っくみあいのケンカで、ソバの実が三角になり、ムギの実に大きな割れ目ができたのだそうです。

 (民話に関係ないので中略)

 雲南省の国境に近い山地で暮らすワ族の民話では、イノシシに殺されたトラの血がついたから、ソバの茎が赤いのだと語っています。”


 アンデルセン童話「ソバ」のお話。

 私はこの話を雀から聞きましたが、雀はカワヤナギの老木から聞いたそうです。
 カワヤナギの老木の近くには、ライ麦や大麦やカラス麦の畑とソバの畑がありました。ソバは高慢で、自分達の美しさや花の素晴らしさを自慢していました。
 ある日、夕立が近付くと、野の花達は花びらを閉じたり、頭を垂れたりしましたが、ソバはつんと立ったままでした。麦達もソバのことを心配して説得しようとしましたが無駄でした。カワヤナギの老木も言いました。
「稲光を見てはいけませんよ。稲光の中には神様の天国が見えるということですが、それを見たら人間でさえも目がつぶれてしまうかもしれないというのに、人間よりずっと卑しい地に生えたものがそんなことをしたら何が起こるかわかりません。」
 それを聞いたソバは、自惚れと傲慢から天国を見ようとしました。その時、ものすごい稲光が走り、夕立が過ぎ去りました。野の花や麦達はまた頭をもたげました。しかし、ソバは稲光にやられて真っ黒になっていました。カワヤナギの老木は枝を揺さぶり、青い葉から大きな水玉の涙をこぼしました。


 「引越しそば」のお話。

 引越しの後、引越し先の家主や向う三軒両隣に挨拶のために蕎麦を配る習慣は江戸末期から始まりました。それ以前には小豆粥を「家移りの粥」と呼んで重箱にいれて配っていました。当時は蕎麦はすぐに切れてしまったので顔つなぎには嫌われていました。しかし、二八蕎麦(うどん粉2そば粉8の割合でつくった蕎麦)ができて、蕎麦が長く切れなくなったので、「おそばにおいて細く長くおつきあいを」という縁起をかついで引越しの挨拶に使われるようになりました。
 もっとも江戸庶民の本音は小豆粥よりも安上がりというところだそうです。


 落語の「時そば」は、明治中期に三代柳屋小さんが上方(かみがた)の「時うどん」を改作したもので、原話は「坐笑話(ざしょうばなし)」(1773年)にあります。


   三ヶ月に 地はおぼろ也 蕎麦の花    (松尾芭蕉)

   信濃には 月と仏と おらが蕎麦     (小林一茶)


花言葉は、あなたを救う

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冬青(そよご)

 中国の民話。

 昔、貞子という名の優しいけれど身体の弱い娘がいました。貞子は農民の若者と結婚しましたが、夫は兵隊にとられてしまいました。夫の戦死の知らせを聞いた貞子はすっかり弱ってしまいました。貞子は優しくしてくれた隣のおかみさんに、自分が死んだら墓に冬青の木を1本植えてくれるように頼み、数日後に息を引き取りました。隣のおかみさんは貞子の墓に冬青の木を1本植えました。
 数年後、突然貞子の夫が村へ帰ってきました。夫は貞子の死を悲しみ、冬青のもとで三日三晩泣きました。すると冬青は初めて花を咲かせ、実がなるようになりました。夫は実を食べたら貞子に会えるかと思って食べてみましたが会うことは出来ませんでした。しかし、身体の具合がよくなりました。それで実には女貞子(じょていし)と名前がつけられ、生薬として使われるようになりました。貞子の冬青は、唐鼠黐(とうねずみもち)に変わっていたのでした。


 「冬青」は、漢字で表されているように冬でも葉が枯れない常緑樹です。葉は互生してつき、風にそよいで音をたてるので「そよご」と名付けられました。
 また、別名に「フクラシバ」がありますが、こちらは、葉に火を近付けた時に、葉の中の水蒸気が外部に出られなくなって葉がふくらむところから名付けられました。


花言葉は、先見の明

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蚕豆・空豆(そらまめ)

 ピタゴラス(前582-前497)とソラマメ。

 ピタゴラスは「万物の根源は数である」と主張し、ピタゴラスの定理を発見したことで有名です。彼はピタゴラス教団の創始者でもあり、崇拝を受けましたが、為政者は彼の思想を危険だとして迫害しました。そのため、教団の教義に反抗したクロトナの市民達が教団を襲って焼き討ちをかけました。ピタゴラスは妻と40人ほどの弟子達と一緒に逃げ出しました。道の両側にソラマメ畑があったので、妻は「畑の中に隠れましょう。」と提案しましたが、ピタゴラスは拒否し、市民に捕まって虐殺されました。

 ピタゴラスは「豆を食べてはいけない」と弟子達に言っていたそうです。彼が豆を嫌った理由は、彼がソラマメ病の家系だったからではないかと言われています。
 ソラマメ病というのは、地中海沿岸の欧米人に見られる遺伝病で、日本では稀な疾患です。ソラマメ病の体質を持った人がソラマメを食べたり花粉を吸ったりすると、急性溶血を伴った貧血発作を起こして死ぬ危険もあるそうです。この疾患はグルコース6リン酸脱水素酵素(G6PD)の欠損によるそうですが、この遺伝子異常を持つ人にはマラリアが寄生しにくいという特徴があるので、マラリア流行地域周辺ではこの遺伝子異常を持っていた方が都合がよかったそうです。


 フランスのピカルディー地方の伝説「神の蚕豆」。

 アンドレという名のとても慈悲深い男がいました。ある日、神様はアンドレの住む村の住民を試してみようと思い立ち、天国の門番の聖ペテロと一緒に乞食のような身なりをして、家々の門を叩いて一晩泊めてくれるように頼んで回りました。しかし、二人は断られ続け、最後に残ったアンドレの家に行きました。アンドレは二人を親切に迎えました。感心した神様は本来の姿を現し、アンドレに一粒の蚕豆を与え、「それを暖炉のわきに植えなさい。いつか役に立つだろう。」と言って姿を消しました。翌日、アンドレ以外の村の住人は全て死んでしまいました。アンドレが植えた蚕豆は芽を出し、日に日に生長し、てっぺんは雲に隠れてしまいました。
 一年後、村には他の人々が住み、アンドレは以前のように慈悲深く親切でした。しかし、アンドレはふとした口論から隣人を殴ってしまい、殴られた隣人は死んでしまいました。すると、聖ペテロが蚕豆の幹を伝わって下りてきて、「隣人を殺した罪により、お前は天国には入れない。蚕豆の幹をのぼってきても扉は閉められるだろう。」という神様の伝言を伝えました。
 アンドレは聖ペテロが自分の顔を忘れている頃を見計らい、十ヶ月たってから蚕豆の幹を登って天国の門の前へ行きました。しかし、聖ペテロはアンドレを覚えていて、天国の門には入れてくれませんでした。アンドレは聖ペテロに、自分が天国に入りたがっていることを神様に伝えてくれるように頼み、聖ペテロがキリストを連れて戻ってくる前に、自分の帽子を半開きの扉の中に投げ込んでおきました。神様がアンドレに地獄へ行くように言うと、アンドレは、「はい、そうします。でも、その前に風で天国の中に飛ばされた私の帽子をとらせてください。」と頼みました。神様がアンドレを天国の中に入れると、アンドレは神様に言いました。
「人は天国に入ると二度と出ることができないと、貴方は仰いました。」
 神様は大笑いしてその場を去りました。聖ペテロもアンドレを許し、アンドレは天国に入ることができました。


 中国の浙江省のソラマメの起源を語る民話(飯倉照平著「中国の花物語」(集英社新書)より引用)。

 ”むかしは、子どものときから育てて嫁にする「トンヤンシー」という慣習がありました。自分がトンヤンシーのときにしゅうとめからひどい目にあい、ばかにされて「かいこ(蚕)」と呼ばれていた女性が、こんどは立場をかえてトンヤンシーとして迎えた養女を虐待したために、村人から非難をあびます。
 それを逆恨みした女性は、激しい下痢作用のあるハズ(巴豆)の実を砕いて、その汁を共同井戸に投げこみます。思いがけない被害にあった村人たちは、怒って彼女を井戸のそばに縛りつけておきました。
 その夜、ひどい吹雪がつづき、なぜか一夜のうちに彼女の姿は消えてしまいますが、その膝をついていた跡に、生まれかわりのように枝葉をのばしてきたのがソラマメでした。ソラマメの花びらに黒い斑紋があるのも、枝葉やサヤが枯れるとすぐ黒くなるのも、彼女が腹黒かったせいだと語られています。”


 「金剛輪寺の豆の木太鼓の伝説」(滋賀県愛知郡秦荘町)。

 昔、秦荘町(はたしょうちょう)の金剛輪寺(こんごうりんじ)に賢い和尚さんがいました。和尚さんは、雨の降らない年や雨ばかり降る年のせいで不作続きで農民達が困っているのを見て、天候に左右されずに収穫できるソラマメの種をもらってきて押入れにしまっておきました。
 ところが、ある日、和尚さんの留守中にお腹のすいた小僧さんがソラマメを見つけて全部食べてしまいました。秋になり、和尚さんはソラマメをまこうとしましたが、ソラマメの入った袋は空でした。小僧さんが食べたと知った和尚さんはとても怒りました。小僧さんは、和尚さんや村人に悪いことをしたと反省し、豆が一粒でも残っていないかと押入れの中を探しました。すると、たった一粒だけ残っていました。
 小僧はその一粒の豆をまいて育てることにしました。今年ソラマメをたくさん実らせ、来年そのソラマメをまくことができるように、と考えたのでした。小僧さんのソラマメは大きく生長し、幹は大人二人でも抱えられないくらい太くなり、実は1斗(18リットル)も収穫できました。和尚さんは、仏様が小僧さんの罪を許して努力を認めてくれたのだと考えました。そして、そのソラマメを農民達に分けてあげました。農民達のまいたソラマメもよく実り、その年は食物に困ることはありませんでした。
 農民達は和尚さんに感謝し、お寺の大きなソラマメの木で太鼓をつくってお祭をしました。金剛輪寺ではその直径30cmほどの豆の木太鼓を寺宝にしました。


花言葉は、憧れ

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Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)