てぃんくの家
 
 な行 

ナイト・ジャスミン

 香りのよい花木にジャスミンの名をつけることが多いので、混同しやすいのが現状です。

 ジャスミンJasminum grandiflora、素馨(そけい)Jasminum officinale、茉莉花(まつりか)Jasminum sambacは、モクセイ科ジャスミナム(ソケイ)属。
 カロライナジャスミンGelsemium sempervirensは、マチン(ホウライカズラ)科ゲルセミウム属。
 マダガスカルジャスミン(マダガスカルシタキソウ)Stephanotis floribundaは、ガガイモ科ステノファティス属。
 ナイトジャスミン(夜香木、夜香花)Cestrum nocturnumは、ナス科ケストルム(キチョウジ)属。
 ナイト・ジャスミン(印度夜香木)Nyctanthes arbor-tristisは、モクセイ科。


 インドの伝説。

 今回は、日本でナイト・ジャスミンとして文献で紹介されている木についてのお話です。ナイト・ジャスミンはモクセイ科の植物で、和名は「インドヤコウボク(印度夜香木)Nyctanthes arbor-tristis」又は「ヨルソケイ(夜素馨)」です。ベンガル語でシウリ、サンスクリット語でシェーファーリカーと呼ばれています。英名は、「ナイト・ジャスミンnight-jasmine」「悲しみの木Tree of Sorrow」です。

 ある都のパーリジャータという名前の王様には、パーリジャータカParijathakaという名前の娘がいました。太陽神はパーリジャータカ王女をとても愛していましたが、やがて、太陽神の心は他の娘に移ってしまい、王女は忘れ去られてしまいました。パーリジャータカ王女は悲しみ、自殺しました。すると、王女の墓から(王女が自殺した場所から、となっている文献もあります)1本の木が生えてきました。その木の花は太陽を恐れて昼間は決して開かず、夜になると咲き、夜明けには散ってしまうのでした。それが、インドヤコウボクの花でした。


 ヒンドゥー神話のお話。

 いたずら者の聖者ナーラダはインドヤコウボクの花をドヴァーラカー(ヤーダヴァ族の王国の首都)に持って来て、クリシュナ(ヴィシュヌ神の第八の化身)に与えました。クリシュナはその花を妻の一人であるルクミニー(女神ラクシュミの化身)に与えました。ナーラダはそのことをクリシュナのもう一人の妻であるサティヤバーマーに教え、彼女がルクミニーに嫉妬するように仕向けました。サティヤバーマーはナーラダの助言に従ってクリシュナに、「天国のインドラ神の庭にあるインドヤコウボクの木がほしい」と言いました。
 クリシュナがインドラの庭でインドヤコウボクの木を抜こうとしていると、インドラがやってきました。インドラはナーラダから「木を泥棒に盗まれないように」と注意されたので見回りをしていたのでした。しかし、泥棒がクリシュナであることを知ったインドラは、クリシュナにその木を与えました。クリシュナはその木をサティヤバーマーに与え、彼女は木を自分の家のそばに植えました。けれども、その花はルクミニーの庭に落ちました。
 クリシュナの死後には、ドヴァーラカーは海中に沈み、インドヤコウボクの木は再び天国に戻されました。


 「花物語」には、ジャスミンの項目もあります。


ジャスミン(夜咲種)の花言葉は、愛の通夜

印度夜香木(いんどやこうぼく)

[←先頭へ]


ナウパカ

 ハワイで見られるクサトベラ科のナウパカという花は、花弁が半分しかないような形をしています。海に咲くナウパカ(Beach Naupaka)と山に咲くナウパカ(Mountain Naupaka)は、葉の形は違うけれども同じ半分の形の花を咲かせます。


 ハワイに伝わるナウパカの伝説。

 昔、ハワイには厳格な階級制度があり、王族と平民は結婚することが許されていませんでした。でも、王族の美しい娘のナウパカ平民である村の若者カウイと恋に落ちてしまいました。ナウパカの両親は元気のなくなった娘からそのことを聞くと、二人を長老達の所に行かせました。長老達は「それは神が決めることだ」と言い、二人を遠く離れた聖職者のいるヘイアウまで行かせました。
 二人が聖職者に話をすると、聖職者は「それは神が決めることだ」と言い、占うことになったので、二人は手を合わせて神に祈りました。すると、雨が降り、雷が鳴り出したので、二人は一緒になれない運命を悟りました。ナウパカは髪につけていた白い花を半分カウイに渡して言いました。
「あなたは海岸に、私は山に行きましょう。二度と会えないけれど、花を見るたびに私を思い出して下さい。」
 それ以来、ナウパカの花は半分ずつの引き裂かれた恋人達の姿になりました。
 

 ハワイに伝わるナウパカの民話。

 昔、ハワイの火の女神ペレが若者に恋をしましたが、若者には既に深く愛し合っている恋人がいました。(この恋人がペレの妹だという話もあります。)ペレは若者を誘惑しましたが、若者はペレに見向きもしませんでした。嫉妬に怒り狂ったペレの怒りを避けるために、若者は海へ、恋人は山へ逃げ、二人は遠く引き割かれてしまいました。
 やがて、二人が逃げたそれぞれの場所にナウパカの花が咲き出しました。若者の逃げた場所に咲いた花はビーチ・ナウパカ、恋人の逃げた場所に咲いた花はマウンテン・ナウパカと呼ばれ、今でも半分ずつの花を咲かせています。

 この二つのナウパカの花を合わせると、二人の魂に導かれて恋人達は結ばれることができると言われているそうです。

[←先頭へ]


長芋(ながいも)

 ながいもDioscorea batatasはヤマノイモ科ヤマノイモ属の蔓性の多年草で、雌雄異株です。英名はChinese yamです。

 ナガイモは、ヤマノイモDioscorea japonica Thumb.(「山芋」「自然薯」と呼ばれる自生種)とは染色体数が異なり、植物学上は別種のものですが、野菜としては名前が混同されています。
 ナガイモDioscorea opposita Thunb.は、通常、芋の形から以下のように分類されますが、これらの間には様々な変異があり、品種や個体差が大きくなっています。
   長形種 ながいもDioscorea batatas(一年芋、とっくり芋など)
   球形種 つくねいも(大和芋、伊勢芋、丹波やまのいもなど)
   扁形種 いちょういも(大和芋、仏掌芋など)


 鹿角郡の民話「金の長芋」(「日本の民話」(未来社)より要約)。

 徳川家康が江戸に幕府を開いた頃のお話です。陸奥の津軽と南部の境を定めるために十左衛門(じゅうさえもん)という南部の代官が鹿角(かづの)にやってきました。十左衛門は、錦木から尾去沢の山々を調べ、その辺りを境に定め、しばらくその場所に住むことにしました。
 村人達は、代官様がわざわざ田舎に来てくれたので、お見舞いがてら見物しに代官の家を訪ねました。十左衛門は村人達の相手をし、百姓の難儀や作物の出来具合も調べてくれたので、村人達は「今度の代官様は南部一のいい男だ」と噂しあいました。
 ある日、百姓の女が太郎子と次郎子という二人の息子を連れて十左衛門の屋敷を訪ねてきましたが、十左衛門はその日は忙しかったので、別の日に来るように言って帰しました。その晩、女が土産に置いていった包みを開けると、四尺ほどの長さの見事な長芋が入っており、キラキラと金色に光っていました。十左衛門は驚いて、家来に命じて、百姓の女を連れてこさせて用件を聞きました。女は、「十数年前に夫が亡くなってから、残された土地を欲張りな叔父に取り上げられ、生活に困っています。」と言いました。十左衛門は翌日から事実関係を調べ、女の言うことが正しいことがわかったので、女の叔父に土地を女に返させることにして解決しました。女は喜んで村に帰って、そのことを村人達に話しました。
 それからは、村人達は長芋を持って十左衛門を訪れるようになったので、十左衛門の家の台所は長芋の山で埋まってしまいました。それらの山芋には、百姓の女の長芋ほどではありませんでしたが、砂金がついていました。
 「百姓は砂金のありがたさを知らないのか」と、十左衛門は家来を連れて百姓の女の畑を調べました。すると、辺り一帯が素晴らしい砂金の畑だったので、十左衛門はすぐに境界を決めて、そこに番所を置きました。そして、太郎子や次郎子と力を合せ、たくさんの砂金を採取しました。
 これが、白根金山発見の最初だと言われています。


 群馬県の民話「オニと長イモ」。
 (谷真介編・著「日づけのあるお話365日」(金の星社)より要約)

 昔、群馬県の吾妻(あがつま)の山の中にたくさんの鬼が住んでいた頃のお話です。
 ある年の五月五日の日、お百姓さんは草刈に出かける前に奥さんに言いました。
「今日は節句だから昼食はとろろ汁のご馳走にしよう。長芋をおろしておいてくれ。」
 山から一匹の鬼が下りてきました。節句の日に人間達は柏餅を食べるというので、自分もご馳走に人間を一人さらって食べるつもりでした。鬼はお百姓の家の裏へ行き、壁の穴から中の様子をうかがいました。すると、中では奥さんが長芋をすりおろしていました。鬼は、奥さんが角をすりおろしているのだと勘違いして驚きました。
「角がご馳走になるとは知らなかった。俺も自分の角をおろして食べてみよう」
 鬼は納屋の中へ行き、そこにあったおろし金に自分の頭の角を押し付けてゴリゴリおろしてみました。けれども、角はかたくて少しもおろすことができませんでした。鬼は、どうやったら上手におろせるのか知りたくて、またお百姓さんの家の中をのぞきました。
 お百姓さんが草刈から戻っていて、奥さんと一緒に、湯気のたつ御飯の上にとろろ汁をかけて食べ始めました。鬼は驚きました。
……人間達はあんなにかたい角を粉にして美味しそうに食べている。俺も角を抜き取られて粉にされて食べられてしまうかもしれない。……
 鬼は大急ぎで山奥に逃げ帰りました。


「花物語」には、山芋(やまいも)の項目もあります。

[←先頭へ]


梛(なぎ)

 ナギPodocarpus nagiは、マキ科マキ属の雌雄異種の針葉樹ですが、広葉樹のように幅の広い葉をしています。

 ナギの葉は縦に平行脈が多数あり、主脈がありません。縦には裂くことができますが、横に切ることは枯葉であってもなかなかできません。そのため、ベンケイナカセ(弁慶泣かせ)、コゾウナカセ(小僧泣かせ)、チカラシバ(力柴)などの別名があります。その丈夫さにあやかって男女の縁が切れないように縁結びのお守りにも用いられます。
 源頼朝と北条政子が座って語らいあった「こしかけ石」のある、熱海市の伊豆川神社の境内では、恋愛成就の「ナギの木お守り」を売っているそうです。
 また、「ナギは凪に通じる」とされ、海上安全のために神木として植えられるそうです。

 ナギの実の油は、かつては春日大社の石灯籠の灯りとして用いられとこともあるそうです。


 光福寺蔵王堂のお話(秋里籬島著・竹原春朝斎絵「都名所図会」より)。

 浄蔵貴所(じょうぞうきしょ。光福寺の開祖)は、吉野の山奥の金御岳(こがねのみたけ)の岩屋で、密法を行っていましたが、明日は都へ帰ろうという夜、蔵王権現(ざおうごんげん)が現れて言いました。
「都に我を連れて行きなさい。そうすれば長く衆生を守ってあげよう。」
 貴所が権現を背負って道を急ぐと、権現は突然木像に変わりました。
 貴所が都に着くと、持っていた鉢が桂川に落ち、川を遡って流れて行きました。その方向を見ると、森の上に光明が見えたので行ってみました。そこは弁財天の霊場でした。蔵王の像はそこで大石のように動かなくなったので、浄蔵貴所はそこに蔵王権現を祀ることにしました。
 その夜、西の方に大きな梛の木が現れ、突然現れた老人が梛の木に向って「弁財天医王善逝(いおうぜんせい)」と唱えました。貴所がどういうことなのか尋ねると、老人は答え消えました。
「ここは弁財天降臨の地です。今時がきました。蔵王権現がこの地に来たのです。早く仏閣を建てて安住すれば広大な利益があるでしょう。」
 貴所は、一堂を営み、尊像を安置しました。

 余談ですが、開祖の浄蔵貴所については他にも多くの伝説があるようです。父の葬儀に遅れ、一条堀川の橋の上で父親を一時的に生き返らせて会話をしたという伝説は、「一条戻り橋」の由来になっています。

[←先頭へ]


梨(なし)

 イタリアの民話「梨と一緒に売られた女の子」

 毎年梨の実籠4杯分を王様に献上している男がいました。しかし、その年には籠3杯半の収穫しかありませんでした。困った男は幼い末娘を籠の中に入れて献上しました。末娘はペリーナ(小さな梨の実の意味)と名付けられ、召使いの仕事をしながら育ちました。ペリーナと王子はとても仲良しになりました。
 ある時、王様は「魔女の宝物を取ってくるまでは宮殿に戻るな。」と言ってペリーナを追い出しました。ペリーナは歩き続けて、夜になると梨の木の上で眠りました。ペリーナが目を覚ますと、木の根元にいた小人のおばあさんが魔女の宝物を手に入れる方法を教えてくれました。
 魔女の宝物は小箱で、中には金のひよこを連れためんどりが入っていました。ペリーナは小箱を持って宮殿へ戻りました。王子が来て「褒美には、地下室の炭箱をもらいなさい。」と言いました。ペリーナは王子の言う通りにしました。地下室の炭箱の中には王子が隠れていました。王様は息子とペリーナの結婚を許しました。


 「道士と梨の木」(聊斎志異より)

 一人の百姓が市場で梨を売っていました。梨は甘くて香りがよかったので高値で売れました。そこへみすぼらしい格好の道士が来て梨をひとつ恵んでくださいと頼みました。百姓は道士を追い払おうとしましたが、道士は「車には何百とあるのだからひとつくらい下さい。」と言ってどきませんでした。見ていた客が、傷んだのをあげたらどうかと耳打ちしましたが、百姓は無視しました。見かねた近くの店の売り子が梨をひとつ買って道士に与えました。
 道士は合掌して礼を言い、皆様に美味しい梨を差し上げましょう、と言いました。そして、もらった梨を食べて、その種を地面に埋めました。地面に湯をかけると種は発芽して、ぐんぐん育ち、花を咲かせ、たくさんの美味しそうな実ができました。道士は梨の実をもいで人々に与えました。梨がなくなると道士は幹を切り倒して、その幹を背負ったまま去って行きました。
 人々と一緒に道士の魔法を見ていた百姓が、自分の車の方を振り向くと、そこには梨が1個もありませんでした。しかも車の一方の梶棒(かじぼう)がなくなっていました。道士は梶棒で梨の木の幹をつくり、百姓の梨の実をみんなに配ったのでした。市場中の人々がけちな百姓を笑いました。


 羅貫中著「三国志演義」&干宝著「捜神記」のお話。

 曹操は神殿建設のために洛陽の名工、蘇越を呼び寄せました。蘇越は梁にする木として、洛陽から30里程の所にある躍龍潭(やくりょうたん)の淵の祠にある梨の木を推薦しました。ところが、その梨の木は高さ十余丈の御神木で、刃物を全く受けつけませんでした。その話を聞いた曹操は、「私に逆らう神は許さない」と自らその地へ赴き、剣で斬りつけました。すると、梨の木は葉を落とし、幹から血のような樹液をほとばしらせました。曹操は蘇越や人夫達に、「もし木の精が祟ることがあるなら私を祟るだろう。心配しないで伐りなさい。」と告げて洛陽に戻りました。
 その晩、曹操の夢に梨の木の精が現れて、曹操を斬りつけました。それ以来、曹操はひどい頭痛に悩まされました。曹操は名医の華陀の診察を受けましたが、華陀が「頭を手術する以外に方法がありません。」と言ったので、怒った曹操は華陀を投獄し、拷問した挙句、殺してしまいました。その後、曹操は自分が殺した人々の亡霊に悩まされ続け、220年春、重臣達に後事を託して66歳で亡くなりました。


 香川県池田町の民話伝説「雲辺寺の食わず梨」

 弘法大師が雲辺寺の方へ来てみると美味しそうな梨の実がなっていたので、そこの農民に「梨を下さい。」と頼みました。農民は「これは食べられない梨です。」と嘘を言って断わりました。その時から雲辺寺の梨は本当に食べられないようになってしまいました。

 「食わずの梨」の話は四国の屋島にもあります。梨をわけてもらえなかった弘法大師は梨を石のように硬くしてしまいます。北九州市の八幡西区では、大根をわけてもらえなかったために川を干上がらせてしまいます。弘法大師は、あちこちでいたずらをしているような気がします。


 長野県小県郡真田町の天然記念物「石割りのアオナシ」

 昔、真田町の菅平に長者夫婦と娘が住んでいました。ある年、母親が病気で寝込んでしまい、娘は毎日四阿山の神様にお祈りしましたが、母親の病状はよくなりませんでした。通り掛かりの旅の僧が娘に、菅平にある野生の梨を食べさせるように言って四阿山の方へ去っていきました。娘が山から梨を採ってきて母親に食べさせると、母親は元気になりました。長者の家族は四阿山の神様に感謝し、食べた梨の種を庭の大きな石のあたりに蒔きました。梨は大きな石を割り広げながら大きくなり、青くて小さい実をたくさんつけるようになったので「石割りのアオナシ」と呼ばれました。

 このアオナシは、周囲8.77m、高さ1.8mの安山岩石割れ目に生え、成長と共にその石を割り広げてかなりの大木となっています。


 「梨園」

 唐の玄宗皇帝は、蓬莱宮の庭園内で俳優や戯曲家や音楽家を養成していました。玄宗皇帝は自ら熱心に指導していました。そのそばに梨の木が植えてあったので、江戸時代の学者が芝居・演劇の社会のことを梨園といいました。しかし、明治時代以降は歌舞伎の世界のことだけをいうようになりました。


 「枕草子」(木の花は…の段)と長恨歌。

 梨の花、よにすさまじきものにして、近うもてなさず、はかなき文つけなどだにせず。愛敬おくれたる人の顔などを見ては、たとひに言ふも、げに、葉の色よりはじめて、あはひなく見ゆるを、唐土には限りなきものにて、文にも作る、なほさりともやうあらむと、せめて見れば、花びらの端に、をかしきにほひこそ、心もとなうつきためれ。楊貴妃の、帝の御使ひに会ひて、泣きける顔に似せて、「梨花一枝、春、雨を帯びたり。」など言ひたるは、おぼろけならじと思ふに、なほいみじうめでたきことは、たぐひあらじとおぼえたり。

 梨の花は興ざめな花で、身近なものとしては扱わないし、ちょっとした手紙を結びつけることもしません。可愛くない人の顔を見て梨の花にたとえるのも本当に葉の色からして味気なく見えますが、唐の国ではこの上ないものとして漢詩に作るのだから、それなりの理由があるに違いないと思って注意深く見てみると、花びらの端に美しい色艶がほんのりとついています。白楽天の『長恨歌』で、玄宗皇帝の使いに会って涙を流す楊貴妃を「春の雨を帯びた梨の花」にたとえているのは並大抵のことではないと思うので、とても素晴らしい花なのでしょう。

 『長恨歌』は唐の詩人白楽天が、楊貴妃を失って悲しむ玄宗皇帝のために詠んだ叙事詩です。
 玄宗皇帝は楊貴妃と恋に落ちましたが、執政がおろそかになり、楊貴妃の親戚達が権力を振るい始めました。後に「安史の乱」と呼ばれる内乱が起き、玄宗皇帝は楊貴妃を連れて亡命しましたが、家来達から失政の原因である楊貴妃の処刑を求められ、仕方なく楊貴妃を殺しました。数年後、内乱は鎮圧され、玄宗皇帝は再び長安に戻ってきましたが、すでに権力はなく、都も荒れ果てていました。
 玄宗皇帝はあの世と行き来ができる道士に楊貴妃の魂を訪ねてもらいました。道士は蓬莱で楊貴妃に出会い、彼女が雨に濡れた梨の花のように美しかったと言いました。やがて玄宗皇帝は道士の導きで楊貴妃と再会し、「天においては比翼の鳥、地においては連理の枝になりましょう。」と永遠の愛を誓い合いました。


 「ナシの木のシャコPartridge in a Pear Tree」
(バーバラウォーカー著・山下主一郎他訳「神話・伝承事典」(大修館書店)より引用)

 ”中世英語のpertriche(partridge、シャコ、ヤマウズラ)は、アテネの聖王の1人ペルディクスから派生した語であった。ペルディクスは塔から海に投げ込まれたが、女神によって鳥の姿に変えられて天界へ運ばれた。彼はシャコであり、女神はナシの木であった。女神アテナはポイオティア(アテネ北西方の古代ギリシアの地方)ではオンケ(すべてのナシの木の母である「ナシの木」)として、崇拝されていた。ペルディクスの名は本来は「失われた者」を意味した。彼はヒマラヤの聖なる都市バドリナト(バドリbadri「ナシの木」から派生した語」)において「ナシの木の王」と呼ばれたヴィシュヌ-ナーラーヤナの姿の1つであった。
 ナシの木はユーラシア大陸のいたるところで女性的-母性的な意味を持っていた。ナシの木はまたヘラに捧げられた木であり、ミケーネのヘラの神殿にある最も古いヘラの像は、ナシの木から作られた。ヨーロッパの農民は、ナシの木を女児の気に入りの「生命の木」(子供が生まれたとき植える木)と考えていた。ロシアでは雌ウシを保護するお守りであった。
 しかし、ナシの木のシャコは、明らかに聖王ベルディックスではなく、キリストのシンボルとされており、そのイメージはクリスマス・キャロルにも取り入れられている。”
 (シャコ=鷓鴣鳥(しゃこどり))


 二十世紀梨の由来のお話。

 1888年(明治21年)、当時13才の少年だった松戸覚之助(かくのすけ)は千葉県松戸市の民家のゴミ捨て場に自生していた1本の梨の苗木を見つけ、父親の経営する梨園に移植して育てました。10年後、その梨の木は初めて実を結びました。その実は薄緑色で水分が多く、日持ちもよい梨でした。その梨は最初「太白」と名付けられ、その後「新太白」、「天慶」となり、1904年に種苗商の渡瀬寅次郎が、新しい世紀を支配する果物の一つとなるように願いを込めて「二十世紀」と命名しました。
 二十世紀梨は黒斑病に弱く、発見された千葉県ではほとんど栽培されておらず、鳥取県や長野県で栽培されています。


花言葉は、博愛・和やかな愛情・慰め

[←先頭へ]


茄子(なす)

 インドの民話「ナスから生まれた姫」。
 (日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より要約)

 昔、貧しいバラモンが妻と暮らしていました。ある日、バラモンは荒地でナスが生えているのを見つけ、小屋の扉のそばに植えて大切に育てました。ナスは大きくなり、紫と白に輝く実をとって皮をむくと、紫と白の絹のドレスを着た娘が出てきました。二人には子供がいなかったので、その娘を「ナス姫」と呼んで、大切に育てました。
 その国の王の妃は魔法使いで妬み深い性格でした。妃はナス姫の美しさに嫉妬し、ナス姫を殺そうとして、自分の7人の息子達を殺してしまいました。そして、ナス姫も死にましたが、美しいまま荒れ野に横たわったままでした。やがて、王がナス姫を見つけ、ナス姫のもとへ通い始めました。それから約一年後、ナス姫のそばに男の子が現れました。男の子は、自分はナス姫と王様の息子だと言い、ナス姫を救う方法を王に教えました。ナス姫が生き返ると、王はナス姫と結婚し、息子と一緒に王宮で幸福に暮らしました。


 「瓜と茄子」(「全国日本昔話集成30」(岩崎美術社)より引用)

 昔、瓜と茄子と旅行したって。
「旅行しろうじゃ」って言ってね。二人で旅行して行ったら天竜川に着いたって。そしたら瓜が、
「じゃ、俺が先に渡るから」って言って、先に瓜は渡って、
「早く来い、早く来い」って言ったら、茄子が、
「秋茄子は皮が強(こわ)い」って、そう言ったって。


 「しぎ焼き」(「全国日本昔話集成30」(岩崎美術社)より引用)

 ある人がご馳走よばれへ行ってね、今お茄子の時期でね、お茄子に串をさして油でやいて、お味噌をつけたしぎ焼きを出されたって。そしたら、その出された人がね、ずい分頓知の利いた人だもんでね、
   小娘も、早色づきてこの頃は
    油つけたり櫛をさしたり
って言ったって。そしたら、それを出した人もね、なかなか風流な人でね、
   油つけ、櫛をさしたは良けれども
    色の黒いにみそをつけたり
って言ったそうですよ。


花言葉は、真実

[←先頭へ]


ナスタチウム(金蓮花・凌霄葉蓮)

 ナスタチウムTropaeolum majus L.は、ノウゼンハレン科ノウゼンハレン属の非耐寒性多年草です。

 和名は金蓮花(きんれんか)、別名は凌霄葉蓮(のうぜんはれん)です。金蓮花は、黄金色の花の色と蓮(はす)に似た葉の形から名付けられ、凌霄葉蓮は、花が凌霄花(のうぜんかずら)に、葉が蓮(はす)に似ていることから名付けられました。

 英名には、garden nasturtium・tall nasturtium,・Indian cressなどがあります。最初はアブラナ科ナスタチウム属に入れられていましたが、後に新設のノウゼンハレン属Tropaeolumに移されました。
 属名のTropaeolumはギリシャ語で「トロフィー」の意味です。戦争で勝った軍が、木に槍を突き刺して、負けた軍の兜と盾をそこにかけた様子を、ノウゼンハレンの花と葉に見たてて名付けられたそうです。 また、ナスタチウムは、トロイの戦士が流した血から生じた草だといわれているそうです。


 今回は「花物語」作成当初から気になっていた記事について書かせていただきます。

 ある夏の夕方、リンネの娘のエリザベス・クリスティーネはナスターチウムの花の中に火花が飛ぶ(閃光が走る)という現象を発見しました。めしべとおしべから火花が見えたそうです。研究の結果、その現象は、ナスタチウムに含まれる多量のリン酸化合物によるものだといわれています。

 それ以上の情報が得られないまま時が過ぎてしまいましたが、最近、文献でお目にかかることができました。
(桐原春子写真と文「春子さんのハーブ歳時記」(白石書店)より引用)

 ”ある夏の夕刻、リンネの娘は、ナスタチウムの花から閃光がはしったのを目撃しました。その光は他の多くの人々も目撃し、中には、ゲーテも含まれていたそうです。
 『ナスタチウム見物』は一時熱狂的なブームになりましたが、科学的根拠は何もないという事で、この不思議な「幻覚」と言われた閃光は人々の話題にも登らなくなってしまいました。”

 科学的根拠のあるなしにかかわらず、夏の夜、リンネの娘やゲーテが見た光を見て見たいものです。


 ココロ・カンパニー著「ハーブ・バイブル」(丸善メイツ)より引用。

 ”ナスタチュームには風の妖精がもたらしたという言い伝えもあります。風の精の宿命はじっとしていたい時でも、そよそよと高原を渡って歩くこと。秋に生まれた風の精は、毎日見慣れた風景に飽きてしまい何か変わったことが起こらないかとキョロキョロしながら草原を渡っていました。すると初夏のある日、上空から地上を見下ろしていた風の精の目に花のつぼみがパチンと弾けて赤く咲く瞬間が飛び込んできました。
 じっと見ていると次から次と花開き、草原はたちまち真っ赤に染まり、花の海にと変わっていったのです。初めての体験にうれしくなった風の精は、飛ぶのをやめて花のじゅうたんの中に入ってみました。思いきり転がり回って遊んでいるうちに、のびた茎が身体中に絡まって飛び上がることができなくなってしまいました。ややトゲのある花は、その時、風の精がひっかいたからだとか。”


花言葉は、愛国心、勝利(英)、恋の火(仏)
色別の花言葉については「花言葉 in てぃんくの家」を参照してください。

[←先頭へ]


薺(なずな)

 ナズナはアブラナ科ナズナ属の植物で、春の七草の一つにも数えられています。

 若葉は食用になり、種子はマスタードの代用になります。
 止血や止瀉(ししゃ)の効果があるとされています。第一次世界大戦当時、ドイツ製の止血剤が入手できなくなったイギリス軍は、ナズナの抽出液を使って怪我人の手当をしたそうです。

 莢(さや)の形が三味線のバチに似ていることから、三味線草とも言いますが、三味線の音色からつけられたペンペン草という別名の方が知られています。
 ヨーロッパでは「羊飼いの財布」、イギリスでは「母の心臓」という別名もあるそうです。


 京都府・滋賀県の昔話「だいじなペンペン草」。
 (谷真介編・著「日づけのあるお話365日」(金の星社)より要約)

 元文5年(1740年)の3月7日のことです。京都と滋賀の県境にある比叡山のお堂の修理をする大工さん達を監督するために数人の役人が家来達を連れてやってきました。
 一日の仕事を終えて夕食後の八時頃、兵左衛門(ひょうざえもん)という名前の役人の家来が突然姿を消しました。仲間達は雨の中をさがし、修理中のお堂の屋根の上に骨だけになった傘をさして立ったまま動かない兵左衛門を見つけ、梯子をかけて下ろしました。兵左衛門は眠り続け、四日目の朝に目を覚まし、話し始めました。
「名前を呼ばれたので玄関の前に行くと小さい坊主がいて、手招きするのでついて行くと、乱れた髪を地面まで垂らした男に屋根の上に連れて行かれた。すると、赤い衣を着た大男が、丸い盆のようなものに俺と坊主を乗せた。俺達は空を飛んで何処だかわからない秋葉山や妙義山や鹿島などを十日あまり見物して帰ってきた。今度は、白髪を地面に垂らして引きずっている老人が金銀、小判を土産にくれると言ったが、比叡山に九百年も住んでいるという老人が出てきて、『これだけの宝があれば一生楽に暮らせるが、お前の二人のおばの命は短くなる』というので、もらうのをやめた。そのかわり、長生きができるという薬草をもらって帰ってきたと思ったら、こうして目が覚めたんだ。」
 仲間達は、兵左衛門が夢を見ていたのだろうと笑いました。すると、兵左衛門は
「夢ではない。その証拠に老人から土産にもらった薬草がある。」
と言って、肌着の下から大事そうに一本の草を取り出しましたが、それはどこの道端にも生えているペンペン草だったそうです。

 このお話は、平田篤胤著「仙境異聞」にも登場します。仙境異聞では兵左衛門の姓が木内となっていますが、ペンペン草は登場しません。


     よく見れば なずな花咲く 垣根かな    松尾芭蕉

     一とせに 一度摘まるる 薺かな      松尾芭蕉


花言葉は、全てを君に捧げる

[←先頭へ]


夏蜜柑(なつみかん)

 フィリピンのルクバンの地名伝説。

 昔、3人の猟師の男達がラグナ州のマハイハイからやってきました。彼らは近くの密林で動物や鳥を狩りをしながら森の中を歩き、定住するのによさそうな場所を探していました。眺めのよい場所を見つけて大きな木の下で休んでいるとカラスの声が響き渡りました。カラスは凶兆なのでカラスの鳴く場所は避けて、あちこち見て回りました。そしてとうとう定住するのにふさわしい場所を見つけました。そこでは、三色の羽のカワセミがつがいでさえずっていたので、素晴らしい吉兆だとして3人はそこに住むことに決めました。そして小さな村ができました。その村の真ん中にルクバン(夏みかん)の木が育っていたので、地名をルクバンと名付けました。


 夏みかんの始まり。

 18世紀初頭に、山口県長門市の青海島(おうみじま)の海岸で西本於長(にしもとちょう)さんという女の子が、漂着した大きなミカンのような実を拾いました。彼女はその実を持ち帰って種をまき、大きな美しい実を実らせました。これが夏みかんのはじまり(原樹)です。大日比(おおひび)の海岸に近い西本家邸内に1本だけ残る夏みかんの原樹は、天然記念物に指定されています。


 夏みかんの出荷の最盛期は3〜5月頃だそうです。春の果物なのに「夏みかん」と呼ばれているわけです。もともと夏みかんが実をつけるのは秋でした。でも、その頃はすっぱすぎて食べることが出来ないので、木につけたまま酸味がやわらぐのを待って、夏に食べていたわけです。最近では品種改良が進み、かなり甘くなり、春先に出荷出来るようになったのですが、名称だけは「夏みかん」のまま残りました。


 夏みかんと聞いて、あまんきみこさんの「白いぼうし」を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。タクシーの運転手の松井さんが主人公の『車のいろは空のいろ』という短編シリーズの中のお話で、小学4年生の教科書にも採用されています。

 タクシー運転手の松井さんは、田舎のお母さんが届けてくれた夏みかんを車にのせて運転していました。松井さんは、子供用の白い帽子に気付き、忘れ物だと思って持ち上げた途端、中から蝶が舞いあがりました。子供がつかまえておいた蝶を逃がしてしまったことに気付いた松井さんは、子供ががっかりしないように、かわりに夏みかんを入れておきました。

 ちなみに、あまんきみこさんは対談の中で、松井さんが乗せた少女がその時の蝶だったのか、夢だったのかは、読んだ人の思う通りでいいと言っていました。主人公は、教科書では「松井さん」としか出ていませんが、「松井五郎」という名前です。

[←先頭へ]


棗(なつめ)

 中国の民話「広洋(こうよう)の棗」

 昔、河南省の二龍山麓に広洋湖があり、湖岸は棗林でした。湖に住む青龍と白龍の2頭の龍は棗林を守る棗仙(ザオシェン)という娘に出会い、仲良くなりました。棗仙は女神の娘でした。女神が棗の木の下でうたた寝をしていた時に、棗の実が落ちて口に入ったために妊娠して棗仙が産まれたのでした。
 ある日、虎がやってきて棗林を壊そうとしましたが失敗したので、今度はムカデや猿達をけしかけました。猿達は棗の実を食べ尽くしてしまいました。泣いている棗仙のために、青龍は鈴の入った角を棗の種に、白龍は体の一部を棗の果肉に提供しました。棗仙は自分の赤い服を破いて棗の皮にして林中の棗に実をならせました。再び虎は猿達をけしかけましたが、猿達は棗がリンリン鳴るのに驚いて木から落ちてお尻をすりむいてしまいました。その時から猿の尻は赤くなりました。それを見た虎達は二度と棗林に近付かなくなりました。


 中国の漢族の民話「なつめ息子」

 子供のいない貧しい老夫婦が八月十五夜の晩にお月見をしていました。お供えの月餅(げっぺい)を食べていると、餡(あん)の中からナツメの種が出てきました。それを見たお婆さんが「こんな小さな息子でもいたらいいのに。」と言うと、ナツメの種が「お父さん、お母さん。」と呼びかけました。ナツメの種には手足がついていました。老夫婦はとても喜び、ナツメ息子を大切に育てました。けれどもナツメ息子は全く大きくなりませんでした。
 ある日、ナツメ息子は家の前を通りかかった役人のとっくりを落として割ってしまい、役所に連行されてしまいました。ナツメ息子は知事の口に飛び込み、囚人達の裁判をやりなおしさせて、無実で投獄されていた人々を救って家に帰りました。その晩、老夫婦がナツメ息子の身体をさすっていると、殻が割れて中から白い肌が現れました。翌朝夫婦が目覚めると、隣には立派な若者が眠っていました。


 「王様と果物売りの娘」(仏教説話『ジャータカ』より)

 昔、ブラフマダッタ王がベナレスの都で国を治めていた頃のことです。ボーディサッタ(菩薩)は大臣に生まれ変わりました。ある日、王様が御殿の庭を眺めていると、果物売りの娘がナツメの実を入れたかごを頭の上にのせて「ナツメはいりませんか」と言いながらナツメを売り歩いていました。王様は、その娘を気に入り、お妃にしました。
 しばらくたった頃、王様が金の皿に盛ったナツメの実を食べていると、お妃のスジャータは「金のお皿に盛ってある赤くてきれいな卵は何でしょう?王様、教えてください。」と言いました。王様はスジャータがナツメのことをすっかり忘れているのに腹を立てて、御殿から追い出そうとしました。でも、ボーディサッタが「女性が位につけば、こういうものです。許しておあげなさい。」と言ったので、王様も納得してスジャータを許しました。それからは仲良く暮らしました。


 松田修著「花の文化史」(埼玉福祉会)より引用。

 ”釈迦伝によると、ナイランジャナ川畔のウルビルバーで断食して、はげしい苦行に入った時「はじめは一日にナツメの実を一粒ずつ、次には米を一粒ずつ、さらに次にはゴマの実を一粒ずつとり、最後に全く食物を断った」というような話を伝えている。”


花言葉は、健康の果実

[←先頭へ]


棗椰子(なつめやし)

 キリスト教の旅の安全を守る聖人、クリストフォロス。

 オフェロという巨人は若い頃、黒馬に乗る騎士の姿をした悪魔に仕えていました。ある日、オフェロは、その悪魔が白い十字架を見て逃げ出したのを目撃してからキリスト教徒になりました。オフェロは川のそばに住み、旅人達のために渡し守の仕事をするようになりました。
 ある嵐の晩、オフェロは子供を背負って川を渡りましたが、子供はだんだん重くなり、大変な思いをしました。向う岸に着くと、子供はイエス・キリストだと身を明かし、「これからはクリストフォロス(ギリシャ語で「キリストを背負う者」の意味)と名乗りなさい。」と言い、再び川を渡るように命じました。そして、持っていた杖を地面に突き刺すように言いました。翌日、杖から花が咲き、ナツメヤシの実がなりました。


 「デロス島に生える木」
 (アイリアノス著、松平千秋・中務哲郎訳「ギリシア奇談集」(岩波文庫)より引用)

 ”デロス島の伝説によると、この島にオリーブと棗椰子の木が生え、それまでどうしても出産できなかったレトも、その木にしがみつくとすぐにお産をした。
 (注)ホメロスの流れをくむ詩人の『アポロン讃歌』によると、ヘラの嫉妬のために分娩の場所もエイレイテュイア(産婆の女神)の手助けも奪われたレトは、ようやくデロス島でアポロンとアルテミスを生んだ。棗椰子を抱きひざまずいた姿勢の立ち産であった。”


 イタリア(シチリア)の民話「とってもすてきなナツメヤシ」

 昔、3人の娘のいる商人がいました。長女はローザ、次女はジョバンニーナ、三女はニネッタといいました。商人が取引のために旅に出ることになり、娘達にお土産に何が欲しいか尋ねました。ローザは空色の布、ジョバンニーナはダイヤモンド色の布、ニネッタは銀の鉢に挿したナツメヤシの枝を望みました。

 ある日、ニネッタはローザの落とした指ぬきを拾うために井戸の中に下りていきました。すると、井戸の壁の小さな穴があり、そこから光が差し込んでくるのに気付きました。ニネッタがレンガを一つはずしてみると、穴の向こうに美しい庭が見えました。ニネッタはその庭へ行き、ジャスミンの花やサクランボを摘んで戻りました。ニネッタは翌日もその庭へ行き、花や木の実を摘みましたが、庭の持ち主の王子に見つかってしまい、あわてて逃げ戻りました。王子は逃げていった美しい娘のことを忘れられず、王宮で舞踏会を3日間開いて国中の娘を呼ぶことにしました。

 ローザとジョバンニーナはお土産の布でつくったドレスを着て舞踏会に行きました。一人家に残ったニネッタは、ナツメヤシの枝に声をかけました。するとナツメヤシの枝からたくさんの妖精達が出てきて、ニネッタを着飾らせました。ニネッタは3晩とも王宮に出かけて王子と踊り、最後の晩に王子との結婚を承諾しました。翌日、二人の結婚式が行われました。


 「花物語」には、椰子(やし)の項目もあります。

椰子(やし)

[←先頭へ]


撫子(なでしこ)

唐ヶ原(もろこしがはら)の撫子(神奈川県平塚市)。

 昔、唐ヶ原に「いちおういやみこ」という高麗人の父娘が住んでいました。故国、高麗国に妻と他の子供達を残して移住して来たのですが、娘は毎日花水川のほとりで高麗国にいた頃を思い出しては泣いていました。そして、ある日、娘は花水川に身を投げて死んでしまいました。いつも娘がいた岸辺には1輪の撫子の花が咲いていました。その後、撫子は川岸一面に咲くようになりました。

 この花水川の河口周辺は、水面に映える桜の美しい場所として知られていました。伝説によると、川の名前をつけたのは源頼朝とされています。
 昔、源頼朝が花見に訪れましたが、前夜の春の嵐のために花を見ることが出来ませんでした。それで、この川を「花見ずの川」と呼びました。それが時が経つうちに「花水川」に変わったとされています。

 平塚市では幾度か天然記念物に指定しようという動きがあったそうですが、実現しないまま、住宅が立ち並ぶようになって、昔の面影もなくなり、伝説だけが残されたそうです。


 三ツ岩(みついわ)と撫子(神奈川県平塚市)。
 (神奈川県教育庁文化財保護課編・著「かながわのむかしばなし五〇選」(神奈川合同出版)より要約&引用)

 昔、花水川の下流の唐(もろこし)の里に美しく心の清らかな娘がいました。娘には愛し合う若者がいました。若者は唐の里の出身ではなく、どこから来たのかも話しませんでしたが、品のよさから、元は都の身分の高い方のようにも思われました。
 ある時、若者は唐の里を去ることになりました。娘は別れを前にして何日も泣き暮らしました。
 別れの日、若者は娘を浜辺に連れて行き、里人達が三ッ岩と呼んでいる岩に腰掛けて、「いつか私は必ずお前のもとに帰ってくる」と言い残し、唐ヶ浜(もろこしがはま)の船着場から船に乗って出て行きました。
 娘は若者の言葉を信じて毎日三ッ岩の上で待ち続けました。しかし、若者からは何の便りもないまま月日は流れ、娘は病気で死んでしまいました。
 三ッ岩はいつしか砂丘の下に埋もれましたが、三ッ岩を覆い隠した砂丘には一面に撫子の花が咲くようになりました。里人達は、撫子の花は娘の生まれ変わりだろう、と思いました。

 ”平安時代中期の『更級日記』に、「もろこしが原にやまとなでしこも咲きけむこそなど人々おかしがる」と記されていますが、この話はそれにかかわる伝説です。「三ツ石と撫子」という題で紹介されている例が多いようですが、地元では「三ツ岩」という呼び名の方が正しいとしています


 「大鏡」のお話。

 花山院(968年〜1008年)は常人とは思えない振る舞いをしたり、全く正常であったりしたので、臣下の源俊賢が「花山院の狂いは術なきものなれ」というほどでしたが、非常に豊かな感性の持ち主でした。花山院は築地(屋敷の周りの土塀)が味気なく思って、その上にナデシコの種を蒔きました。やがて季節になると花が咲き、人々はその思いがけない美しさに感動しました。


 「莫伝抄」のお話。

 昔、大和の国にナデシコの花をとても愛して育てていた子供がいました。ところが、その子供は、ちょっとした病気がもとで呆気なく他界してしまいました。悲しみに暮れる子供の親は、自分の子供の育てていたナデシコの花を見て歌を詠みました。その歌から形見草(かたみぐさ)の名前がつけられました。

     来てみればなき世の人の形見草 いく度(たび)われは袖ぬらすらむ


 撫子は、「枕草子」にも出てきます。
  「草の花は、なでしこ。唐のはさらなり。大和のもいとめでたし。」
 唐撫子(石竹)は中国からの舶来種をさします。それに対して日本産の在来種は大和撫子(河原撫子)と呼ばれます。


 中原淳一著「花詩集」(国書刊行会)P.25。
 (出典が見つからなかったので文章をそのまま引用してあります。)

 ここはフランスの片田舎セニスの山ふところです。旅人は美しい光と青い木立を愛して静かに馬車を進めていました。ふと気がつくと側(そば)の森の木陰に花をつんで祭壇とし、その前にひざまずいて撫子の花を胸に押し当て静かに黙祷(もくとう)をしている綺麗な乙女を見ました。美しいその場の光景に旅人は心うたれて、音のしない様にじっとたたずんでいました。間もなく蹄(ひずめ)の音がして一頭の馬がはせ寄ると、一人の青年がヒラリと馬から下りて乙女に近づきました。そして嬉しさと懐かしさに堪え得ぬものの如く二人はかたみに手を取り合っていましたが、青年は何事か乙女に囁くと乙女は悲しみを一杯にたたえた眼をあげてじっと青年の顔をうち守っています。別れなのでしょう青年は最後の愛の印を交すと、又前の様にヒラリと馬上の人となってもと来た丘の方へと悲しみをふり切る如くはせ登ってしまいました。乙女は走りよると青年の手に撫子の花を一束渡すと、姿の見えなくなるまで手をふっていましたが、やがて悲しさの余りそこに泣き倒れてしまいました。撫子の花言葉が変わらぬ心を誓う印であると後で知った旅人はあの時撫子を渡した乙女の気持ちを初めて理解することが出来たのでした。


 ドイツの民話「マリアとナデシコ」。
 (日本民話の会・外国民話研究会編訳「世界の花と草木の民話」(三弥井書店)より引用)

 ”主が十字架の上で亡くなったとき、雑兵たちが救い主の手や足に打たれていた三本の血のついた釘を木材から抜き、地面に投げ捨てた。イエスの大切な遺体が近くの岩墓に葬られたとき、マリアはもういちどゴルゴタに引き返し、地のついた釘を大切な思い出として持ち帰った。
 マリアが釘を拾い上げたとき、マリアが手をやったその場所から、血のように赤い花が芽生えた。マリアは自分が手にもつ血のついた釘とよく似ているので驚き、「ナデシコ」と名づけた。((注)ここで「ナデシコ」を意味する単語は、同時に「小さい釘」という意味をもつ)”


 グリム童話のお話「ナデシコ」。

 昔、子供のいない王と王妃がいました。王妃は毎日神様に「子供を与えて下さい」とお願いしていました。すると、王妃の前に天使が現れ、「あなたには男の子が授けられるでしょう。その子がこの世のものを願えば、どんな願い事もかないます。」と言いました。天使の言ったように、王妃は男の子を産みましたが、コック長が何でも願い事のかなう王妃の子供をさらい、「王妃様が野獣に王子様を奪われました」と王に告げました。王は怒って王妃を高い塔に閉じ込めてしまいました。
 コック長は王子が話せるくらいに成長すると、城を願わせ、その城に住みました。しばらくすると、コック長は王子に遊び相手の美しい女の子を願わせました。二人は一緒に遊び、心から愛し合うようになり、成長しました。コック長は自分がしたことを王子に知られるのを恐れ、娘に王子を殺すように命じましたが、娘は命令に従いませんでした。コック長の悪事を知った王子は、コック長をプードルの姿に変えてしまいました。それからしばらくして、王子は娘をナデシコの花に変えてポケットにしまい、両親の城へ出かけました。
 王子が王に王妃の無実を伝えたので、王妃は塔から出ることができました。それから、王子は王にナデシコの花を見せ、目の前で自分を助けてくれた美しい娘の姿に戻しました。三日後、王妃は幸せのうちに息をひきとり、王もあとを追うように亡くなりました。一方、王子はナデシコに変えて連れてきた娘と結婚しました。


「花物語」には、石竹(せきちく)の項目もあります。


大和撫子(河原撫子)の花言葉は、大胆

[←先頭へ]


七竈(ななかまど)

 北欧神話のお話。

 ある時、雷神トールは巨人の王ゲイルレズ(槍なるもの)に騙されて、丸腰で彼の館へ向かう途中、女巨人グリーズに出会いました。グリーズはトールの危険を察知し、ナナカマドの杖を貸しました。やがてトールはヴィミル川に着き、歩いて渡り始めました。すると、半分ほど渡ったあたりから急に水かさが増してきて溺れそうになりましたが、グリーズに借りたナナカマドの杖がトールの身体を持ち上げてくれたので助かりました。トールはゲイルレズの娘ギャールプが魔法で川の水を増水させているのに気付き、川底の大きな石を拾ってギャールプに投げつけて倒しました。トールはなんとか対岸に着くことができましたが岸は断崖絶壁でした。トールが上陸できずに困っていると、ナナカマドの枝が垂れ下がってきたので、トールはその枝につかまって無事に上陸し、ゲイルレズを倒すことが出来ました。

 そこで、スウェーデンの人々は船を作るときには、航海の安全を願って、必ずナナカマドの木を加えることにしたそうです。


 ナナカマドは、七つのかまどに入れても燃えつきないほど硬いということで名付けられました。冬には赤い実がなり、家が繁盛するといわれます。枝をドアや窓につけると悪霊を防ぐことが出来るとされていました。また、雷電木とも呼ばれ、雷よけに植えることもあります。これらは、北欧に限らず、ヨーロッパにも共通した現象です。


 キリスト教の普及とともに、ナナカマドも聖者伝説に取り入れられました。

 あるとき聖母マリアが、ヘロデ王の迫害を逃れて荒野を旅していました。何も食べるものがなかったので聖母マリアはナナカマドに助けを求めました。するとナナカマドは自分の実を聖母マリアに差し出しました。そこで神はナナカマドを祝福して、どんなに寒いときでも実が決して凍らないようにし、実の中には十字の印をつけました。


 花言葉は、安全・慎重・用心

[←先頭へ]


難波薔薇・難波茨(なにわいばら)

 中国原産で、難波商人によって日本に輸入されたことから名付けられました。
 別名はロサ・レヴィガータRosa laevigata、英名はチェロキー・ローズCherokee roseです。

 生薬の金桜子(きんおうし)はナニワイバラの成熟果実を乾燥したものです。


 中国の民話(安徽省の南部)。

 昔、三人の兄弟がいました。三人とも結婚していましたが、三男に息子が一人産まれただけで、長男と次男は子宝に恵まれませんでした。子孫を残さない者は先祖に対する最大の不幸者とされていた時代でしたので、三人兄弟は三男の息子を宝物のように大切に育てました。
 三男の息子は立派な若者に成長しましたが、夜尿症だったので嫁になってくれる娘がいませんでした。三人兄弟は三男の息子が結婚できないと子孫が途絶え、先祖に申し訳ないと悩み、村に通りかかった薬草採りの老人に相談しました。薬草採りは夜尿症の薬のある地方ではマラリアが流行っていたので行くのをためらいましたが、自分にも息子がいなかったので三人兄弟のために採りに行くことにしました。
 三ヶ月後、マラリアで弱った身体で戻ってきた薬草採りの老人は、三人兄弟に植物の実を渡すと、息を引き取りました。三人兄弟は老人を手厚く葬り、名前のなかった薬に老人の籠の房にちなんだ金纓(ヂンイン)という名前をつけました。金纓を飲んだ三男の息子は夜尿症が治り、嫁をもらい、子供が産まれました。
 後に人々は金纓を金桜子(ヂンインヅ)と呼ぶようになりました。植物なので「糸へん」を「木へん」にかえたのでしょう。また、金桜子の「子」は種(たね)の意味です。


 チェロキーローズのお話。

 1828年、アメリカで最初のゴールドラッシュがジョージア州で起きました。そこにはチェロキーインディアンが住んでいましたが、彼らの土地に金が見つかったため、アメリカはチェロキー族との約束を破り、1838年の冬に、チェロキー族をオクラホマ州に強制退去させました。冬のさなか充分な衣料や食糧も与えられずに退去させられたインディアン達は14000人のうち4000人が途中で亡くなりました。特に弱い老人や子供達が犠牲になりました。その1600kmの山道は「涙のトレイル Trail of tears」と呼ばれています。春になると、オクラホマへの山道沿いに咲き誇るチェロキーローズの白い花は、チェロキー族の女達の涙の象徴だと言われています。
 チェロキーローズは現在ジョージア州の州花になっています。


「花物語」には薔薇(ばら)の項目もあります。

チェロキーローズ

[←先頭へ]


菜の花(なのはな)

 菜の花Brassica campestrisは、アブラナ科アブラナ属のアブラナの花、または、アブラナの通称です。油料作物や野菜などとして栽培されます。
 別名は、油菜(あぶらな)、菜種(なたね)などがあります。野菜としては菜花(なばな)、観賞用としては花菜(はなな)などと呼ばれます。
 英名は、Rape、Field Mustardなどです。


 福岡県遠賀郡の民話「一夜で咲いたナタネの花」
 (「日本の民話」(未来社)より要約)

 昔、遠賀の広渡(ひろわたり)の里に八剣(やつるぎ)神社という社があり、村人達は村里の鎮守様として厚く信仰していました。社が古くなって朽ちかかってくると、村人達は、自分達の生活を切り詰めてでも社の再建をしようと話し合いました。
 ある夜、大雨になり、遠賀川の堤がきれてあふれそうになりました。堤がきれたら田畑が全滅してしまうので、村人達は一睡もしないで八剣神社の境内でお祈りしていました。
 やがて朝になり、川の水かさが減ったので村人達は安心しました。するとその時、村人達は檜の丸太がたくさん流れてくるのに気付きました。村人達はその丸太を集めて社を再建することにしました。
 それから二日ほど後、下二(しもふた)の里から馬に乗ってやって来た一人の男が、「明日、檜の丸太のことで役人が厳しく取り調べに来るぞ」と知らせてくれました。村人達がお咎めを恐れて丸太を返そうと考えた時、一人の娘が言いました。
「檜の丸太は役人の屋敷をつくるためにつかわれるのです。つまり、この檜は役人が私達からかすめとったものなのです。上の田を二枚ほど今夜中に掘り起こして檜の丸太を埋め、役人の目をごまかすために、その上にナタネの種をまいておきましょう。」
 村人達は娘の言った通りにしました。
 翌日、役人達は村中を見回りましたが、丸太はみつかりませんでした。最後に田畑を調べに来た役人は、上の田を指差して言いました。
「見事な菜の花だ。この村の者は働き者なのだろう。」
 村人達が驚いたことに、上の田には、昨夜まいたばかりのはずのナタネが見事に咲いていました。役人は無事に取り調べを済ませて川下へ向いました。
村人達は鎮守様の力に違いないと考え、さっそく社の再建にとりかかりました。


 福田晃編「沖縄地方の民間文芸」(三弥井書店)より引用。

 ”おちぶれた前夫がもの乞いに来た時、嫁がめぐんでやると、昔の妻だったことに気つき驚いて死ぬ。前夫を葬り涙を流すと、そこから菜の花が生えた(読谷村都屋)”


 幕末の貧しい農民だった二宮金次郎(昔からある小学校にはたきぎを背負った銅像が置いてあることが多い)は、両親を亡くした後、伯父のもとで暮らしましたが、仕事が終った夜にも勉強しました。しかし、伯父が夜の勉強のための行灯の油を使わせてくれなかったので、金次郎は菜種を栽培してできた油菜を油と交換して夜の勉強を続けました。


 千利休がとても愛した花で、お茶の世界では2月28日の利休忌が明けるまで飾ってはいけないそうです。

 また、作家の司馬遼太郎(1923-1996)は菜の花が好きだったので、2月12日の命日は菜の花忌と名付けられました。


     菜の花や 月は東に 日は西に     与謝蕪村

     はてもなく 菜の花つづく 宵月夜 
             母が生まれし 国美しき     与謝野晶子


ナノハナの花言葉は、豊かな財力
アブラナの花言葉は、競争・快活

油菜(あぶらな)

[←先頭へ]


続断・山芹菜(なべな)

 ナベナはマツムシソウ科ナベナ属の野生越年草木で、漢方では根を乾燥させたものを続断(ぞくだん)と呼びます。


 中国の民話(安徽省)。

 昔、山々で薬草を採りながら村を渡り歩く医者がいました。
 ある日、医者はある山里で、死んだばかりの若者にすがりついて嘆き悲しんでいる家族の姿を目にしました。若者は高熱を出して呼吸が止まってから2時間ということでしたが、かすかな脈が感じられました。医者は秘伝の還魂丹(かんこんたん)の丸薬を二粒、若者の口に入れ、水で流し込みました。しばらくすると、若者は息を吹きかえしました。
 その山里のボスは還魂丹で金儲けしようと考えて医者を脅しましたが、医者が拒否したので手下に命じて半殺しにしました。医者は山で一ヶ月ほど薬草を食べて元気になり、再び村で薬を売るようになりました。腹の虫のおさまらないボスは今度は医者の足を折り、前回よりひどく痛めつけました。動けない医者は通りがかりの若者に頼んで野草の生えている山腹に連れて行ってもらいました。その辺り一面には羽毛のような形の葉と紫色の花をつけている野草が生えていました。若者はその野草をたくさん採ってから医者を背負って家に戻り、煎じて医者に飲ませました。医者は若者に接骨に効果のある薬草を村人に伝えて役立てるように言いました。医者の怪我は少しずつ治っていきましたが、ボスに見つかって殺されてしまいました。
 若者は医者の残した薬草を、折れた骨をつなぐという意味で「続断」と名付け、村人に伝えました。しかし、蘇生薬である還魂丹の製法は医者の死とともに永遠に失われてしまいました。

[←先頭へ]


楢(なら)

 ナラはフィリピンの木工芸に欠かせない木です。


 フィリピンの民話「ナラ」

 昔、ビコール地方の海辺にとても豊かな村がありました。ある年、村に疫病が流行り、多くの人が死にました。村長は村人を集めて、他の土地へ移ることを提案しましたが、村人は豊かな村を捨てたくなかったので誰も返事をしませんでした。その時、他所の村から来たナラという若者が言いました。
「私はこの病気によく効く薬を知っています。作り方を間違えると恐ろしい毒になりますが、この村を救うために作ってみましょう。」
 ナラのつくった薬で病人は回復しました。村人はナラに感謝し、彼を尊敬しました。しかし村長はナラの人望を妬みました。ナラに薬の作り方を丁寧に教えてもらうと、できあがった黄色い薬を皮袋にしまい、ナラを切り殺しました。その場面を村人が見られたのを知ると、村長は逃げていきました。

 村人達はナラを小高い丘に埋めました。何日かすると、ナラを埋めた所から見慣れない木が生えてきました。木には黄色いふわふわした花が咲きました。その年からは疫病にかかるものがいなくなりました。人々は若者の名にちなんで、この木をナラと名付けました。
 一方、ナラを殺した村長は逃げ隠れしているうちに身体が縮み、醜いカニになってしまいました。ナラの花の咲く頃に、岩の下やどろ土の中に隠れているカニを掘り出してみると、おなかに黄色いふわふわしたものをかかえています。それが、村長が持って逃げた皮袋だそうです。


 フィリピンの民話「双子の木」

 フィリピンの山奥では子供が生まれると、記念に木を植えることになっています。人々は、この木のことを、子供と同じ魂を持つ「双子の木」と呼んでいます。
 可愛い女の子のブガンが生まれると、両親はみんなと同じように双子の木を植えました。両親はブガンが美しく強くなることを望み、ボンドックの森に茂る丈夫で美しいナラの木を選びました。ブガンは自分の双子の木を大切に育てていましたが、病気になってからは木を見に行くことができませんでした。そして、ブガンの小さな命の火が消えると木はすっかり弱ってしまい、地震の時に倒れてしまいました。双子の木もブガンの所へ行ってしまったのでした。


 フィリピンの民話「ナラの樹液が赤いわけ」

 昔、タヌダン峡谷を見下ろすパトカン山の頂上に1本の大きなナラの木があり、その木陰は人々の憩いの場でした。峡谷には、イドンサン(「とても美しい」の意)という名の本当にとても美しい村長の娘が住んでいました。イドンサンは多くの若者に好かれていましたが、誰にもなびかなかったので、若者達はナラの木陰でよく失恋話をしていました。

 ナラの木はイドンサンの噂を聞いているうちに彼女の心が欲しくなり、人間に変身してイドンサンの家へ行きました。ナラの木はウグヤオ(「とてもハンサムな」の意)と名乗り、イドンサンに気に入られて結婚することが出来ました。二人に子供が生まれて2ヶ月たった頃、イドンサンは当時の習慣通りに夫の両親に会いに行きたいと言いました。ウグヤオは自分がナラの木だと打ち明ける勇気がなかったので、イドンサンの言葉を無視して畑仕事を続けていましたが、イドンサンがしつこくせがんだので、とうとうナラの木に戻ってしまいました。

 山に来た人々は、ナラの木が戻ってきたので喜びました。でも、白かったナラの樹液は、人間になって暮らしていたために血と同じ赤い色に変わってしまっていました。


 Michael Vescoli著、豊田治美訳「ケルト木の占い」(NTT出版)より引用。

 ”8世紀のヨーロッパのほぼ半分はナラの森に覆われていました。この時代にゲルマニアを宣教した聖ボニファティウスは、キリスト教を宗教としない異教徒たちに、彼らの神は何の価値も無いことを示そうとして、彼らにとって神聖であったナラの木を切り倒してしまいました。神が宿っているはずの木を守れなかった神には効力がないという理由で、それからナラの木は、悪魔の木になりました。以来、魔女だけがこの木を大切に扱うようになりました。彼女たちは、自分の身の安全をこの木に祈願し、この木を守りました。長い間、5月1日の前夜すなわちヴァルプルギス前夜(民間伝承では、聖ヴァルプルギスの祝日の前夜に魔女達が集まり、酒宴を開くといわれています)に、魔女たちは木の根元に集まったと考えられています。だから、のちに彼女たちは、ナラの薪木で火あぶりにされたのです。”


ナラ(木)の花言葉は、独立・歓待
ナラ(葉)の花言葉は、剛勇

[←先頭へ]


鳴子百合(なるこゆり)

 花が田畑の害獣・害鳥を追い払う鳴子という道具のように並んでいるところから名付けられました。

 鳴子百合の根を漢方では黄精(おうせい)といい、滋養強壮の効果があります。小林一茶は黄精酒を愛飲していたそうです。小林一茶は52歳で初婚、63歳で3度目の結婚をし、5人の子供をもうけています(最後の一人は一茶の死後に生まれています)。


 中国の民話。

 ある時、名医の華陀が山で薬草を採取していると、二人のたくましい男達が18、9くらいの年頃の足の速い娘を追いかけていました。男達が娘を見失ってしまうと、華陀は男達に娘を追いかける理由を尋ねました。娘は2年前に逃げ出した男達の主人の小間使いで、この山で見かけた人がいたので、主人に頼まれて男達が捕まえにきたのでした。男達の話を聞いた華陀は、『か弱い娘が山奥に3年も隠れていたにもかかわらず元気だったのは何か霊薬を飲んでいたのかもしれない』と考え、娘に尋ねようと思いました。
 娘は用心深く、山へ行ってもなかなか会うことは出来ませんでしたが、とうとう娘を捕まえることができました。華陀は娘を自分の養女にし、実の娘のように可愛がりました。そして、娘が落ち着いた頃、娘が逃亡中に山で食べていたものについて尋ねました。娘は「ひよこ(黄鶏)によく似た野草の根を食べていました。」と答えました。華陀はそれを持ち帰り、病人に食べさせると、すぐれた滋養や薬効がありました。後にこの生薬は「黄鶏」から「黄精」という名に改められました。


 中国の別の民話。

 昔、年老いた貧乏な夫婦が16歳になる一人娘の荷花(かか。蓮の花の意味)を大切に育てながら暮らしていました。荷花はとても美しい娘で、荷花姑娘(かかこじょう。蓮の花から生まれた娘)と呼ばれていました。
 荷花の村の地主は、荷花の両親が借りた米を返せないことを利用して、荷花を強奪しました。大切な娘を奪われた荷花の両親は病気になり、二人とも死んでしまいました。地主には正妻の他にも数人の妾がおり、荷花はひどい扱いを受けました。しかし、荷花と同様に借金のかたに長年地主の家で働いている親切な年配の女性が手引きしてくれたので、荷花は逃げ出すことができました。
 荷花は深い山で草や果実を食べて飢えをしのぎました。荷花が一番好んで食べたのは根が黄色い植物でした。18歳になった荷花は脚力や腕力が強くなり、木の枝を飛び移って虎や地主の追っ手から逃れることができるようになりました。
 晩秋になると、荷花は越冬用の植物の根や果実を貯え始め、作業に疲れると両親に教えてもらった歌を歌って幸せだった日々に思いをはせました。その時、若い青年の歌声が聞こえてきました。荷花は青年の声にひかれて青年の前に立ちました。青年は荷花を家に連れ帰って妻に迎え、二人は幸せな一生を送りました。夫は妻が山で食べていた植物の根を「黄精」と名付けて家伝の妙薬として後世に伝えました。


「花物語」には、百合(ゆり)の項目もあります。

[←先頭へ]


南天・南天燭・南天竹(なんてん)

 ナンテンNandina domesticaはメギ科ナンテン属の植物です。
 英名は、Sacred Bamboo、Heavenly Bamboo。

 祝い事などで赤飯を配る時に、できたての赤飯の上にナンテンの葉をのせる風習がありますが、これは、葉に含まれるナンジニンが熱と水分で変化し、解毒作用のあるチアン水素が微量ながら発生するので、赤飯の腐敗予防に役立っているそうです。


 「遊歴雑記」初編下第廿八『嶺岸島古来七ツの奇事』の二つ目のお話。
 (十方庵敬順著「遊歴雑記初編2」(平凡社東洋文庫)より要約)

 武城霊岸じま(東京都中央区新川)では、庭木に南天を植えても実を結ぶことがありません。花の咲いた南天を何度か植えても花が散って跡形もなくなってしまいます。これは、昔霊岸寺応誉が雷の落ちないように南天と取り替えたためだと伝えられています。赤く実のなった南天を植えても、わずか一日で実は落ち、葉の色も悪くなって、数日で枯れてしまいます。昔、相馬小次郎の妾であった桔梗の前という女が、秀郷(ひでさと)・忠文等と謀って将門を討ったために、下総国相馬郡守谷の近辺には桔梗を植えても花が咲かないと言われていますが、この霊岸島の土地に限っては、南天の実がならないと言われています。


 千葉県市川市北国分の民話「平将門と南天」。
(野村純一・松谷みよ子監修「いまに語りつぐ民話集1」(作品社)より引用)

 ”大野は南天の実がならないっていうでしょ。その平将門が、女中に騙されて、朝顔洗う洗面の水をとってくれたから、そこで洗ってたら、結局、敵が南天の陰で見てて、弓で撃たれてやられたんですよ。
 その時、将門は成田さんのお守り持って来たんだそうですね。だから、成田にも絶対行きませんよ、大野の人は……。(市川民話の会『市川の伝承民話』)”

 大野町一帯では、「将門が俵藤太秀郷という武将に南天の枝で作られた成田山新勝寺の御神矢で射殺されたから、南天の箸を使ってはいけないし、成田にもお参りしてはいけない」という言い伝えがあります。


 松崎直枝著「草木有情」(八坂書房)より引用。

 ”かつて武将は、床に南天を生けて出陣したという。そんなことから「南天の床柱」という言葉が出た。のどから手が出るほど欲しい垂直的存在をいう。焼失した金閣寺茶室の床柱は、太い南天であったことは有名。”


ナンテンの花言葉は、機知に富む・良き家庭・私の愛は増すばかり
ナンテン(赤実)の花言葉は、よき家庭
ナンテン(白実)の花言葉は、つのる愛

[←先頭へ]


南蛮皀莢(なんばんさいかち)

 ナンバンサイカチCassia fistulaはマメ科ナンバンサイカチ属の落葉高木です。果肉は下剤に用いられるそうです。
 英名はゴールデンシャワーGolden showerです。


 『月刊みんぱく』編集部編「世界民族博物誌」(八坂書房)より引用・要約。

 インドネシアのリオ人の社会では、人間と特別な関係にある植物や動物がテブと呼ばれるそうです。テブは母系的に受け継がれるので、母のテブがナンバンサイカチだと、子供のテブもナンバンサイカチになります。
 
 ”とおい昔のこと、ナンバンサイカチの幹から女の子がうまれた。だが、ナンバンサイカチは自分のうんだ子に乳を飲ませることができなかった。そこで、ちかくにいたスイギュウが乳をあたえ、その女の子をそだてた。
 そんなわけで、ナンバンサイカチの幹からうまれた女の子の(母系)子孫はナンバンサイカチとスイギュウをたいせつにあつかわなければならない。かれらはナンバンサイカチを切ったり、傷つけてはならない。また、かれらはスイギュウを殺したり、その肉を食べてはならない。そうすることは、自分自身を食べることだからである。”


 「花物語」には、皀莢(さいかち)の項目もあります。

[←先頭へ]


ニーム

印度栴檀(インドせんだん)

[←先頭へ]


匂紫羅欄花(においあらせいとう)

 スコットランドのお話。

 14世紀頃のお話です。スコットランドのマーチ伯爵には、エリザベスという美しい娘がおりました。エリザベスには心に決めた青年がいたのですが、伯爵は、エリザベスをロバート三世の後継ぎと無理やり婚約させました。伯爵は、自分の決めた縁談をいやがるエリザベスを城に閉じ込めてしまいました。恋人の青年は、吟遊詩人に変装して、エリザベスが閉じ込められている部屋の窓の下で駆け落ちの詩を伝えました。エリザベスは父親を説得することを諦め、城を出て行くことにしました。エリザベスは、恋人への合図に一枝のにおいあらせいとうの花を投げてから、縄梯子を伝い降りはじめましたが、途中で誤って石畳の上に落ちて死んでしまいました。
 恋人を失った青年は、嘆き悲しみ、吟遊詩人になってヨーロッパをさ迷い歩きました。青年は、道すがら、においあらせいとうの花を見つけるとエリザベスを思い出して帽子につけたので、この花は「逆境にも変わらぬ誠」のシンボルになりました。


 英名のウォール・フラワーwall flowerは、「壁の花」(舞踏会で踊る相手がなく、壁の前の席に座っている人)の意味にもなっています。


 同じアブラナ科のあらせいとう・おおあらせいとう(植物学上では諸葛菜の別名)は、普通ストックと呼ばれています。
 「花物語」には、ストックの項目もあります。


花言葉は、逆境にも変わらぬ誠・愛情の絆・永続きする美

[←先頭へ]


匂檜葉(においひば)

 ニオイヒバThuja occidentalisはヒノキ科クロベ属の常緑高木です。葉を揉むとレモンキャンディーのような匂いがすることから名付けられました。
 英名はAmerican arborvitaeです。


  瀧井康勝著「366日誕生花の本」(日本ヴォーグ社)より引用。

 ”16世紀のはじめ、フランスの探検隊が、北米大陸のセントローレンス川を発見したとき。壊血病で瀕死の隊員が、インディアンの作ってくれた「においひば」の煎汁を飲んで、一命をとりとめ、元気を取り戻したといいます。探検隊は「においひば」をフランスへ持ち帰り、ことの仔細を王様に報告、王様はこの木を「アルボル・ビダエ(生命の木)」と名づけたという話。
 北アメリカに広く分布しています。木質に芳香性の精油を含み、木を切るたび、ふわりとよい香りが漂うのです。”


花言葉は、堅い友情・私のために生きて

[←先頭へ]


苦蓬・苦艾(にがよもぎ)

 「新約聖書ヨハネ黙示録」8章にあるお話。

 3番目の御使いがラッパを吹いた時、灯火のように燃えている大きな星が天から落ちてきました。この星は水源である川の3分の1の上に落ちました。この星の名はニガヨモギといいます。地上の水の3分の1はニガヨモギのように苦くなり、そのために多くの人々が死にました。

 ロシア語ではニガヨモギは「チェルノブイリ」といいます。(ニガヨモギはヨモギの変種で、茎が赤みを帯びたものや菫色のものもあり、ロシアのチェルノブイリは大型だそうです。)


 名前の由来。

 ニガヨモギの学名はartemisia absinthium、英名はwormwoodです。
 属名のアルテミシアの語源はギリシャ神話の女神のアルテミスに由来しているとする記述がほとんど(「花物語」のマグワートの項目もそうです)ですが、「世界大百科事典」だけは別の由来説をとっていたので、今回はそれを紹介します。

 紀元前4世紀頃の小アジアのカリア地方の王妃アルテミシアは、夫のマウソロス王の死を悼んで、マウソレウムと呼ばれる、世界の七不思議の一つに数えられる霊廟(れいびょう)を建設し、夫の骨灰をニガヨモギの飲み物に混ぜて飲んだそうです。ニガヨモギが苦いのは、昔エデンの園から追放された蛇の這い跡から生えた草だからだそうです。英名にあるwormは蛇を意味しています。
 「世界大百科事典」では、花言葉は、アブサンがabsenceに通じるから「不在」、アルテミシアの故事により「離別と恋の苦しみ」となっていますが、こちらもマイナーのようです。


 「幻想図書館/猫の夜会http://web.pe.to/~neko/」より引用。
 (上記のサイトは閉鎖されました。長い間お疲れ様でした。)

 マーメイドたちは植物の効能にくわしく、彼らの歌を聞いた者が病気を治すという説話がある。
 ある娘が病気にかかった時、その恋人が川岸で嘆いていると、人魚が現れて歌った。
「美しい乙女を腕の中で、野に咲くよもぎを土の中で死なせるつもり?」
若者は、すぐによもぎの花先をつんで、その汁を恋人に飲ませた。すると、娘はすぐに回復した。
 それ以後、ニガヨモギ(ワームウッド)は結核性の病気に効くことが知られるようになったという。


 アブサン酒のお話。

 伝説のお酒となったアブサンは、ニガヨモギの葉を主成分とする約十種類の香草で香りをつけた緑黄色のリキュールで、アルコール度は70%以上にもなったそうです。特有の香りと苦味のあるお酒で、スプーン1杯の砂糖と水で割って飲んだそうで、水を加えた時に白濁します。芸術家に愛されたお酒で、ゴッホ、ヴェルレーヌ、ランボーなども愛好していました。しかし、常用すると、ニガヨモギのアブシンソールという精油が中毒症状を起こさせます。幻視が起こり、昏睡状態に陥り、痙攣したまま死亡するそうです。そのため、フランスでは1915年に製造・販売禁止になりました。
 現在では、アブサンに似た風味で毒性のないペルノ、パスティス等の製品がつくられています。また、2000年にはスイスで中毒を起こす成分を除去したアブサンが製造され、日本にも輸入されるようになりました。


 「花物語」には、蓬(よもぎ)やマグワート(オウシュウヨモギ)の項目もあります。


ニガヨモギの花言葉は、冗談・からかい・平和・不在・離別と恋の悲しみ
ワームウッドの花言葉は、うわのそら・敵意

[←先頭へ]


ニゲラ

 ニゲラNigella damascenaは、キンポウゲ科ニゲラ(クロタネソウ)属の一年草です。

 種が黒いことから、黒種草という和名があります。ニゲラという名前は、ラテン語の「niger(黒い)」に因みます。
 英名は、ラブ・イン・ア・ミスト(霧の中の恋)、デビル・イン・ア・ブッシュ(茂みの中の悪魔)。


 くろたねそう(黒種草)。
 (下田惟直著「花ことば 花の伝説」(三和図書)より引用)

 ”わが国には、昔から一月二日の夜枕の下に
    ながきよのとおのねむりのみなめざめ
    なみのりふねのおとのよきかな
  と書いた紙を敷いて寝ると、いい夢を見て幸運が訪れるという風習があるが、くろたねそうを枕の下に敷いて寝ると、夢の中で恋人に逢うことができるそうである。
 それは、−−黒種草は逢瀬を断たれて悶え死んだ女の生まれかわりであるから−−だという。”
 (このお話の出展をご存知の方は是非掲示板でお知らせください)


ニゲラの花言葉は、困惑・戸惑い・当惑
ニゲラ(実)の花言葉は、未来

[←先頭へ]


錦木(にしきぎ)

 「錦木」という言葉を国語辞典で調べると次の2つが出てきます。
 (1)山野に自生するニシキギ科の落葉低木。紅葉が美しいので染め木ともいわれます。
 (2)五色に彩った30cm程の長さの木。昔、男性が恋する女性の家の戸口に夜毎に1本ずつ立てました。ラブレターのようなもので、女性は同意するとそれを中にしまい、受けるつもりがない場合はそのまま放っておきました。


 「錦木塚の伝説」(秋田県鹿角郡錦木)

 昔、鹿角の狭布(きょう)の里の司の狭名大海(さなのおおみ)には、政子姫というとても美しい一人娘がいました。政子姫は布を織るのが上手で、その布は狭布の細布(ほそぬの。せばぬの。)の呼ばれて人気がありました。
 ある日、1羽の大鷲が五ノ宮嶽の岩嶺(いわね)に巣をつくり、里の子供達を次々にさらっていきました。政子姫がそのことを嘆いていると、旅の僧が現れて言いました。
「あの大鷲から守るには里の子供達に白鳥の落ち羽を織り込んだ布を着せてあげればよいのです。機織の上手なあなたにしか出来ないことです。」
里人達は白鳥の落ち羽を集め、政子姫は里人達のために布を織り続けました。
 その頃、草城(くさき)の里の里長(さとおさ)の息子の小門という若者が、政子姫を見かけて恋に落ちました。小門は毎日毎日錦木を立てて帰りました。政子姫も小門が好きになりましたが、里の子供達のための機織りを終えるまでは返事をすることができませんでした。
 小門はそのことを知らずに毎日錦木を立てていましたが、身体が弱っていたために、あと一束で千束になるという日に雪の中に倒れて死んでしまいました。政子姫もその2、3日後にあとを追うように死んでしまったので、政子姫の父は二人を哀れに思い、千束の錦木と一緒に一つの墓へ夫婦として葬りました。それが錦木塚です。

 この伝説にも細部の違う話が伝えられています。

 小門が錦木を立て始めてから三年三月、1185本目の錦木を立てる日、布を織り終えた政子姫は門のところに立って小門を待ち、小門から直接錦木をもらうつもりでした。やってきた小門と政子姫は抱き合いましたが、結婚に反対する政子姫の父の大海が二人を引き離して、政子姫を連れ帰ってしまいました。絶望した小門は断食して死に、そのことを聞いた政子姫は淵川に身投げしました。


   錦木は 立ちながらにして 朽ちにけれ 挟布の細布 胸合わじとや
                  (能因法師・後捨違集)


 謡曲「錦木」(世阿弥作)

 諸国一見の僧が狭布の里に着くと、錦木を持つ男と白い細布を持つ女がやってきました。男は、恋する女性の家の門に錦木を立てる習慣について話し、3年間錦木を立て続けた男のことを語りました。その後、二人は僧を錦木塚に案内すると、どこかへ消えてしまいました。
 僧が経を読んで回向していると、男女の亡霊が現れて、実らなかった恋の恨みを語りました。しかし、僧が回向を続けると、二人は会えたことを喜び、舞を舞って消え、風の音だけが残りました。


花言葉は、あなたの定め・あなたの魅力を心に刻む・危険な遊び

[←先頭へ]


肉桂(にっけい)

 ニッケイCinnamomum okinawaense Hatsusimaは、クスノキ科ニッケイ属の常緑高木です。

 セイロンニッケイはシナモンの原料になります。セイロンニッケイの幹の表皮をはがし、その内側のコルク層を薄く削り取って一週間程乾燥させるとシナモンスティックができあがります。セイロンニッケイにはオイゲノールという成分が多量に含まれているため、他のニッケイでつくるよりマイルドになります。
 また、シナニッケイの根はニッキの原料になります。


 クスノキ科ケイの幹皮と枝皮。
 (繆文渭編・石川鶴矢子訳「中国薬草ものがたり」(東方書店)より引用)

 ”中国の南方に桂山という山がありました。その山には不思議な木が生えていて、草を食べる動物たちがやってきては、この木の皮をかじっていました。鹿、ロバ、羊、馬などがまるで磁石に引きつけられるようにして、この木のまわりに集まってくるのです。草食動物が多くなるにつれて肉食動物もやってきました。虎、獅子、狼、豹がやってきて、羊や鹿や馬を襲うのでした。草食動物と肉食動物の闘いは日増しにはげしくなりましたが、それに目をつけたのは狩人でした。こうして桂山に山合いは、たくさんの獣の通り道になったのでした。「肉を食べたけりゃ、桂山の谷合いへ行け」という民謡が歌われたほどです。
 草食動物は、なぜ桂山に生えている木の皮をかじりたがるのでしょうか。それに気づいた人がいて、動物が好んで食べるのだから、人間にも食べられる、と考えました。その人はさっそく山へ行って、その木の皮を味わってみますと、ほかの植物にはない一種独特の香りと甘味があります。さっそく木の皮を持ち帰り、みんなに味わってもらいました。それを食べた若い人たちは体が温まると言いました。年寄りは気分がよくなると言いました。医者が何度も試した結果、寒症(寒邪が原因で寒が現われる証候)の治療に使うと効果のあることがわかり、生薬の仲間に入れたのでした。
 「肉桂」という名は、「肉を食べたけりゃ、桂山の谷合いへ行け」という民謡から、「肉」と桂山の「桂」を採ったということです。(山東省西南部で王子新(広西の人)より拾集)”


 花物語には、シナモンの項目もあります。

[←先頭へ]


乳香樹(にゅうこうじゅ)

 乳香樹Boswellia carteriは、カンラン(橄欖)科ボスウェリア属の常緑低木です。
 別名には、オリバナム、フランキンセンスなどがあります。
 英名は、bible frankincense、frankincense、olibanum、mastic tree等です。

 ボスウェリア属の樹木に傷をつけて出てきた樹液(芳香性ゴム樹脂)が、空気に触れて固まったものがフランキンセンス(別名オリバナム、和名は乳香)です。フランキンセンスは加熱されると香りを発散させます。


 ギリシャ神話のお話。

 ウェヌス(ヴィーナス)は自分の情事を密告した太陽神ヘリオスに復讐することにしました。ウェヌスの策略により太陽神ヘリオスは、バビュロン王オルカムスとエウリュノメの娘のレウコトエを愛するようになりました。ある夜、ヘリオスはレウコトエの母エウリュノメの姿になって、レウコトエの部屋に忍び込みました。ヘリオスが正体を現すと、レウコトエは驚きましたが、ヘリオスの愛を受け入れました。
 それまでヘリオスに愛されていた恋人のクリュティエは、レウコトエに嫉妬し、彼女の情事をあちこちに言いふらし、彼女の父王にも告げ口しました。厳格な王は地面に深い穴を掘り、娘のレウコトエを埋め、その上に重い砂の山をかぶせました。そのことを知ったヘリオスは、光で砂に穴をあけましたが、レウコトエは既に死んでいました。ヘリオスは嘆き悲しみ、レウコトエの亡骸に神酒を注ぎました。すると、レウコトエの身体は溶けて消え失せ、その土から、香り高い乳香樹が生えてきました。


 「乳香とアレクサンダー大王の遠征」
 (香老舗松榮堂広報室編「香りの本」(講談社)より引用)

 ”アレクサンダーがまだ王位につかないころ、彼の家庭教師をしていたのが、かの大哲学者アリストテレス(レオニダスという説もある)だった。
 ある日、アレクサンダーは、祭壇で乳香をたいているところをアリストテレスに見とがめられて、こういわれた。
「香料が豊富なシバの国を征服したあとなら、じゅうぶんに乳香をたくのもいいが、それまでは節約しなさい」
 貧乏国だったマケドニアでは、王家といえど乳香は貴重な品だったのである。
 このことばが引き金になり、二十歳で即位した王は、紀元前三三四年、東方に兵を進め、まず、当時、大国であったペルシアを制覇し、さらに、シリア、レバノン、フェニキアなど、東方の諸都市をつぎつぎに征服していった。
 大王がエジプトに近いガザという町を占領したとき、大量の乳香をアリストテレスに送っていることを考えても、若き王が香料に執念を燃やしていたことがわかる。
  (中略)
 もしアリストテレスがアレクサンダーを叱らなかったら、彼は東方遠征には行かず、歴史は変わっていたかもしれない。”

[←先頭へ]


韮(にら)

 中国の昔話「百鳥衣(一丈二尺の韮、八尺の葱)」(四老人故事選)。
 (寺内重夫様の許可を得て「ことばとかたちの部屋」の中のお話を掲載しています)
 (「ことばとかたちの部屋 http://homepage1.nifty.com/kotobatokatachi/)

 ある男が美しい女性と結婚しましたが、毎日妻に見惚れているばかりで仕事をしませんでした。妻は夫に自分の姿を紙に写させ、その絵姿を見ながら畑仕事をするように言いました。夫は妻の言う通りにして妻の絵姿を眺めながら畑仕事をするようになり、二人は仲良く幸せに暮らしていました。
 ところがある日、妻の絵姿が風で飛ばされ、皇帝の宮殿へ落ちました。皇帝は絵姿の美しい女性と結婚したいと思い、とうとう捜し出して無理矢理宮殿へ連れてきました。連れ去られる前に妻は夫に言いました。
「私は皇帝と結婚するつもりはありません。あなたは私の言う通りにして下さい。雀百羽の皮をはぎ合わせて百鳥衣を作って下さい。それから家畜の糞をこねて龍の頭をつくって下さい。葱を八尺、韮を一丈二尺に育て、龍の頭を被り百鳥衣を着て、その葱と韮を担いで皇宮に売りに来て下さい。」
 皇帝は絵姿の女と結婚式を挙げようとしましたが、女はいやがり、毎日不機嫌な顔ばかりしていました。
 夫は妻に言われたものの準備が整うと皇宮の門へ行き、「一丈二尺の韮、八尺の葱はいらんかね」と大声を出しました。妻は皇帝に「そんなに長い韮や葱があるなら見てみたい」と言い、野菜売りに変装した夫を皇宮へ入れさせました。妻は皇帝に「一丈二尺の韮、八尺の葱もすごいけれど、あの野菜売りの衣装はあなたの服よりずっとすてきだわ」と言いました。皇帝は女を喜ばせるために、自分と野菜売りの衣装を交換させました。すると妻はすかさず大声で家来達を呼び、皇帝を指さして「この妖怪を退治して下さい」と言いました。家来達は龍の頭と百鳥衣を身につけた皇帝を妖怪と思い込み、殺して埋めてしまいました。
 夫は皇帝になり、夫婦仲良く幸せに暮らしました。


 東北本線「雀の宮駅」の名前の由来。

 昔、下野の国の田舎に饅頭の丸飲みを得意とする男がいました。ある日、悪友達が悪戯心を起こし、中に針を仕込んだ饅頭を彼に飲み込ませました。男はひどい腹痛で寝込むようになりました。
 男が激痛にうめきながらふと庭を見ると、一羽の雀がしきりに韮の葉を食べていました。そして2、3日後、雀は韮の葉に包まれた針の入った糞をしました。男が雀の真似をして大量の韮を食べたところ、翌日、韮の葉に包まれた針が排泄されて、男の腹痛が治りました。
 男は命の恩人の雀に感謝し、小さな社を建てて祀りました。それが「雀の宮」で、宇都宮市に地名として残りました。


花言葉は、多幸

[←先頭へ]


二輪草(にりんそう)

 下田惟直著「花ことば 花の伝説」(三和図書)より引用。

 ”昔、中国のある家で、五歳ばかりの幼児が病気のため、朝露のようにあっけなく消えてしまった。
 愛児を失った両親が、朝夕、小さい墓に参って泣き悲しんでいたところ、ある夜亡くなった幼児が一本の草花を携えながら、
「私は仏の大慈悲を受けていますが、あなた方が泣き悲しんでくださるのを御仏が哀れと思い、この花を両親にささげよといってお授けくださいました」
 と話す夢を見た。
 親たちが不思議に思い、起き上がってみたが、枕もとには何もなかった。
 これは心の迷いであろうかと思いまどいながら、翌日愛児の墓に参ってみると、やわらかい墓土の上に、夢で見たのと同じ花が鮮やかに咲き出ているのであった。
 両親は、夢に見たのはこの花であったと、この花をたいせつに培(つちか)って育てた。それが二輪草である。
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)によると、このお話は一輪草の伝説となっています)

[←先頭へ]


楡(にれ)

 ニレは、ニレ科の樹木の総称(ハルニレ、アキニレ、オヒョウ等)ですが、ハルニレのみをさしていることも多いです。


 ギリシャ神話のお話。

 オルフェウスは愛妻エウリュディケを冥界から連れ戻そうとして失敗しました。悲嘆にくれたオルフェウスは、悲しみを忘れようと竪琴を奏でました。大地は、その調べを聴いて感動し、新しい生き物を創り出して地上に押し上げ、オルフェウスに贈りました。それがニレ(エルム)の森でした。ニレの森はオルフェウスの竪琴を聴いて育ち、オルフェウスはニレの森で休んだり考えたり歌ったりして時を過ごしました。長い年月が経ち、オルフェウスは眠るように死に、冥界でエウリュディケと再会し、二人で幸せに暮らせるようになりました。


 ギリシャ神話の別のお話。

 プロテシラオスの妻ラオダメイアは、夫がトロイ戦争でヘクトルに殺されたことを知ると、「3時間だけ夫と話をさせてください」と神々に願いました。願いは聞き入れられ、伝令神ヘルメスがプロテシラオスを連れ戻してきました。再びプロテシラオスが死んだときには、ラオダメイアもいっしょに死にました。
 ニンフ達がプロテシラオスの墓のそばに1本のニレの木を植えました。そのニレの木は、トロイの町を見渡すくらいの大木になると枯れてしまい、また根元から若木が生え出しました。


 アイヌの創世神話。

 地上には何も存在していませんでした。国造の神は、天の中心に立っていたチキサニ(ハルニレ)で鋤をつくり、地上へ下りました。国造の神は、鋤を使って山や川や森や湖や動物を造りました。国造の神は天に戻る時に、鋤を地上に置き忘れてきました。その鋤は根をおろして、立派なチキサニになりました。そこへ通りかかった疱瘡の神がチキサニを見初め、彼らの間に、アイヌの祖先のアイヌラックルが生まれました。

 アイヌのお話。

 天の一番偉い神様が国造の神を呼んで、美しい大地を造らせました。美しい大地が出来ると神様は、心が優しくて美しい女神の春楡姫(はるにれひめ)を大地へ送り、国をつくるように命じました。春楡姫は大地に根をおろして立派な大木になり、人間が住むのに一番重要な火をつくるハルニレの木になりました。それから、美しい花が咲く木や、他にも役に立つ木をたくさん育てました。
 アイヌの人達はハルニレの木を擦って火を得ていたので、この木は、神様の位で最高位の「火の神」として敬われていました。

 少しだけ違うアイヌのお話。

 創造されたばかりの地上に、ハルニレとイチイとヨモギが最初に降ろされましたが、ハルニレ姫がとても美しかったので、天上の神々はいつも雲の上からハルニレ姫を眺めていました。ある時、身を乗り出してハルニレ姫を眺めていた雷神は、他の神に押されて足を滑らせ、ハルニレ姫の上に落ちてしまいました。そのためハルニレ姫は身ごもり、男の子を出産しました。
 ところが、風当たりが強くて地上では子供を育てられそうもなかったので、ハルニレ姫は子供に自分の皮を剥いでつくった着物を着せ、抜くと火の燃える刀を与えて、天上の神々のもとで育ててもらいました。子供は成人してからアイヌモシリへ戻って人間生活の基礎を築いた。それが文化神アイヌラックルです。
 コタンカムイ(創造神)はドロノキを揉んで火を起こそうとしましたが、火は起こらずに白や黒の木屑となって飛び散るばかりでした。その木屑は魔人かして淫らな神や疱瘡神になりました。そこで今度はハルニレで発火台と発火棒を作って揉みました。すると、アペフチ(火の祖母神)が生まれました。「火の神」を産んだハルニレは、最高に尊い神として敬われるようになりました。


 トマム地区にある「ふしぎな泣く木」のお話。

 道路工事の妨げとなるため、何度かこのニレの木を切り倒そうとしたそうですが、のこぎりの歯をあてると、うめくような泣き声が聞こえてくるため、切ることが出来ませんでした。この木には伝説が伝えられています。
 日高のアイヌと十勝のアイヌは、狩場争いを続けていました。日高のアイヌの若者と十勝のアイヌの酋長の娘は愛し合っていたので、二人でカムイの棲むトマムで暮らすことにしました。しかし若者は捕まってしまいました。何とか逃げ出した若者が待ち合わせの場所に着くと、愛しい娘はニレの木のそばで力尽きて死んでいました。若者を慕う娘の魂がこのニレの木に宿っていると伝えられています。


 朝鮮の民話「にれの木の誓い」

 昔、新羅の国のある村に玉仙(オクソニ)という名の若い娘が年取った父親と二人で貧しい暮らしをしていました。ところが、玉仙の父親は国王の命令で、防人(さきもり)として3年間国境を守ることになりました。玉仙がどうやって暮らしていこうか悩んでいると、太玉(テオギ)という若者が通りかかり、「あなたの父親の代わりに私が国境に行きましょう。」と言いました。父親は一旦は断りましたが、戻ってきたら玉仙と結婚させるという約束で太玉が国境に行くことになりました。玉仙と太玉は村外れのにれの木の下で再会の誓いをかわしました。

 玉仙は仕事の合間には二人が誓ったにれの木の下で太玉のことを考えました。太玉のことを考えれば、仕事も苦になることはありませんでした。
 やがて、3年経ちましたが、太玉は戻って来ませんでした。新羅と百済の戦争が始まり、若者が次々に兵隊にとられていきました。玉仙はにれの木に話しかけながら戦争が終わるのを待ちました。また3年が経ち、新羅は戦争に勝ちました。村の若者達が次々と戻ってきましたが、太玉だけは戻って来ませんでした。父親は玉仙を金持ちの家に嫁にやることにしてお金を受け取ってしまいました。
 玉仙は、にれの木の下に行きました。太玉が死んだのなら自分も死のう、と考えていました。すると、遠くに松明(たいまつ)の灯が見えました。太玉が戻ってきたのでした。二人はにれの木の下で抱き合って再会を喜びました。


 中国の蒙古族の民話「楡の木になったけちん坊」(林蘭編『相思樹』)
 (石川鶴矢子著「石の羊と黄河の神」(筑摩書房)より要約)

 ひどく貧乏だった男が金持ちになりました。男は貧困による辛苦をなめてきたので、貧しい人を助けたいと思ってはいましたが、けちん坊なので実行することができず、銅貨1枚すら寄付したことがありませんでした。
 天界の仙人は男を懲らしめるために、乞食の姿で男の家に行きました。男は銅貨1枚めぐみませんでしたが、乞食が「山の中に宝物がたくさん埋まっている」と話すと、乞食を家に入れて食事をさせました。食事が終ると男は乞食に宝物のある山寺の古井戸に案内してもらいました。男は乞食に縄の一方を持たせて井戸の底へ下りました。そこには見たこともない大きな金貨がありました。とても重かったので、男は金貨の穴に首を入れて肩に担ごうとしましたが、仙人が縄を切ったので男は金貨につぶされて死んでしまいました。
 男は黄泉の国の役所に赴き、乞食に騙されたと訴えましたが、閻魔大王は男のことを知っていたので、男の死体を楡の木に変えました。それでも男の執念は尽きず、楡の木の葉は金貨のように丸くなりました。


 かつて、城主の名で裁判が行われる時は、城門の前に植えられているニレの木の下で執行される習慣がありました。アメリカのフィラデルフィア郊外には、白人とインディアンの間で唯一の公平な条約がこの木の下で結ばれたことから、条約の木と呼ばれた木が1810年まであったそうです。。


 北米先住民はアカニレの外皮の浸出液を分娩の軽減に利用していました。また、入植者との交流により、樹皮を分娩途中で止まってしまった胎児を直接刺激するために使用するようになりました。しかし、これが人工中絶に利用されるようになったため、現在では多くの国で使用禁止となりました。


 ニレを英語でエルムElmと呼ぶのは、古代ケルト語のエンブラEmblaが転訛したものだといわれています。

 ニレの木の皮を剥ぐとネバネバとした樹液がでるので「ヌレの木」といわれました。その「ヌレ」が後に転訛して「ニレ」になったといわれています。


 「花物語」のトネリコの項目にもニレの登場するお話があります。
 「花物語」には、オヒョウの項目もあります。


花言葉は、高貴・威厳・愛国心

エルム

[←先頭へ]


接骨木・庭常(にわとこ)

 食物のキクラゲ(木耳)は、英語でJew's Ear(ユダの耳)と呼ばれています。キクラゲはニワトコによく生えるそうです。英名は、キリストを裏切ったユダがニワトコの木で首を吊ったという伝説にちなむそうで、ヨーロッパではキクラゲを食べる人は少ないようですが、日本ではニワトコに生えるキクラゲを上質品としているそうです。(ユダが首を吊った木はハナズオウだという説もあります。)

 (花物語には全く関係ない話ですが)キクラゲといえば、食物の「がんもどき」の名前の由来の一説に、具に入っている細かく刻んだキクラゲが満月に向かって飛んでいく雁の姿に似ているから、というのがあるそうです。


 北米インディアン(ツィムシアン族)のお話。

 石とアメリカニワトコの実が、どちらが先に子供を産むかということで口論していました。そこへ死をもたらすとされているワタリガラスが現れてアメリカニワトコの実に触れて凱歌をあげました。そのため、人が死に、アメリカニワトコの実が墓地に生えるようになりました。もし、ワタリガラスが石に触っていたら、人間は石のように永遠に生き続けていたことでしょう。


 「ニワトコとハシドイ」(日高静内町サムタイ・栄 栄吉老伝承)
 (更科源蔵著「アイヌ民話集」(みやま書房)より引用)

 ’大地を司る神が天上から地上におりるとき、神様が駄目だというのにニワトコは、どうしても地上におろしてくれというので「どうしても行きたいなら、人間に何か災難が起ったときに、どんな役目でも引き受けるか、それなら連れて行う」という条件でおろされた。
 そこでニワトコは人間が悪い病気をしたり、死んだりしたときの使はれるのだ。
 またハシドイの木は、沢山の木の中で一番薪として割れ易く、よく燃える素直で気のやさしい上に、容易にくさらない健康な木だから、何のときでも人間の役にたてといっておろされたので、人が死んだときの墓標(クワ。杖の意)にされたり、家の柱にも使われるのである。’


 「ニワトコとウド」(十勝芽室太 久木田ヨシノ姥伝承)
 (更科源蔵著「アイヌ民話集」(みやま書房)より引用)

 ’色々な植物が天上からおろされたとき、それぞれ神様から役目を言いつかって来たが、ニワトコの木とウドとは何の役もなしにおろされたので、そこら中にひろがったので、
 「何をしたらよいでせうか」と神様に伺いをたてたところ、神様はニワトコに、
 「何の仕事もないから、おまえは人間の死んだときに使はれろ」
 といったので、人間の死んだときに、死体を包む筵をとぢ合わせる串や、墓標(死人のついて行く杖)に使はれ、ウドは他に用がないから人間に食はれろといわれたので、食糧にされるのであると。’


 アンデルセン童話「ニワトコかあさん」

 風邪をひいた小さな男の子が屋根裏に住んでいるおじいさんにお話をしてもらっていました。

 ニワトコのお茶の茶瓶のふたを押し上げて出てきたニワトコは白い花を咲かせていい香りを漂わせながら大木に成長しました。大木になったニワトコの木にはお婆さんが腰掛けていました。お婆さんの服はニワトコの葉のような緑色で、白い大きなニワトコの花のふち飾りがありました。そのお婆さんはニワトコかあさんと呼ばれていました。
 ニワトコかあさんは、金婚式の話のあとで少女の姿になって少年と素晴らしい四季の日々を過ごし、成長して若者になった少年と別れました。別れの日、少女は胸からニワトコの花を摘みとって若者に渡し、若者はその花を賛美歌の本にはさんで南の国へ出かけました。
 若者はやがて結婚し、年をとりました。老夫婦は金婚式の日にニワトコの花の咲いている木の下に座り、ニワトコかあさんの話をしていました。すると、木の中から小さな女の子が出てきて言いました。
「私のことをニワトコかあさんと呼ぶ人もドリアード(木の精)と呼ぶ人もいます。でも、私の本当の名前は『思い出』です。」

 おじいさんは部屋を出ていきました。男の子が「僕は南の国へ行ってたんだ。」と言うと、お母さんは「ニワトコのお茶を飲むと南の国へ行けることがあるのよ。」と答えました。男の子が「ニワトコかあさんはどこにいるの?」と尋ねると、お母さんは「茶瓶の中よ。」と答えました。

 「ニワトコかあさん」は作者であるアンデルセン自身の思い出を理想化した作品とされています。


 北欧ではニワトコの木の妖精はエレウーマンと呼ばれています。エレウーマンは正面から見ると美しい娘ですが、後姿は腐った木のように空洞になっているので、踊っても決して回転することはないとされています。


花言葉は、熱心・熱中・熱狂

[←先頭へ]


人参(にんじん)

 ニンジンDaucus Carotaはセリ科ニンジン属の一年草又は二年草の植物です。
 英名はCarrotです。
 (ちなみに、チョウセンニンジンはウコギ科チョウセンニンジン属の多年草です。)


 宮城県の昔話「人参の起こり」。

 昔、独り者の馬方がいました。ある日、いつも通る途中の気味の悪い森で、背が高くて爪の長い女が後ろから現れて、馬の積荷の米俵を小指で持ち上げ、肩に担いでどこかへ行ってしまいました。馬方は恐くて逃げ帰りました。しかし、稼がないわけにはいかないので、また仕事に出ることにしました。ところが、例の森に来ると、また女が小指で米俵を持ち上げて、肩に担いでどこかへ行ってしまいました。
 そんなことが3、4回続いた後、馬方は女に見つからないように、あとをつけることにしました。女は森の奥の一軒家に住んでいました。女は大きな釜にご飯をたくさん炊いて全部たいらげ、お風呂に入りました。馬方はお風呂に蓋をして女を閉じ込め、その上に臼を乗せ、二日間火を炊き続けました。三日目に馬方が蓋をあけてみると、真っ赤などろどろしたものがあったので、馬方は気持ち悪くなって、畑に投げ捨てました。
 数日後、馬方が畑に行ってみると、根の赤い植物がたくさん生えていました。馬は手綱を振り切って畑に入って夢中になってその根を食べました。すると、馬は力がたくさん出るようになりました。これが今の人参の始まりです。


「花物語」には、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)の項目もあります。


花言葉は、幼い夢

[←先頭へ]


大蒜(にんにく)

ガーリック

[←先頭へ]


塩麩子・白膠木(ぬるで)

 四天王寺建立の伝説(「日本書紀」より)。

 仏教伝来をめぐり、俳仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の対立は武力抗争に発展しました。崇仏派についた14歳の厩戸皇子(うまやどのおうじ。後の聖徳太子)は、不利な形勢を打開するために、自ら白膠木(ぬりでのき)を切って四天王(持国天、増上天、広目天、多聞天)の像を彫り、「今、もし敵に勝たしていただけるのならば、必ず護世四王のために寺塔を建てましょう。」と、誓いました。また、蘇我馬子も「もし御利益を得させて下さるなら、諸天王と大神王のために寺塔を建立して三宝を伝えましょう。」と誓いました。
 聖徳太子は乱を平定した後、誓いを果たすために593年に難波の地に日本最初の官寺である四天王寺を建立しました。また、蘇我馬子も飛鳥の地に法興寺を建立しました。

 「日本書紀」の故事から、ヌルデは勝軍木(しょうぐんぼく)、勝木(かちのき)と呼ばれ、出陣の際に尊重されてきました。


花言葉は、壮麗・知的な美点・信仰

[←先頭へ]


葱(ねぎ)

 朝鮮の民話「ネギをうえた人」

 昔、人間がネギを食べなかった頃には、お互いが牛に見えたので、よく人間が人間を食べていました。自分の親や兄弟を牛と間違えて食べてしまい、後悔することもよくありました。 その人は、そんな生活に嫌気がさし、人間が人間に見える国を探す旅に出ました。あちこち探すうちに若かったその人は老人になりましたが、ついに人間が人間を食べない国を見つけることができました。その国でも昔は人間と牛の区別がつかなかったのですが、ネギを食べるようになってからは人間が人間に、牛が牛に見えるようになったとのことでした。その人はネギの種を分けてもらうと、さっそく故郷へ戻って畑に蒔きました。それから、その人は久し振りに知人の家を訪ねましたが、みんなに牛と間違われて食べられてしまいました。
 それからしばらくして、ネギが生えてきました。人々はそれがネギだとは知りませんでしたが、おいしそうな草だったので食べました。すると、人間と牛を間違えることがなくなりました。ネギをうえた人はいなくなりましたが、その人は大勢の人を幸福にしたのでした。


 ベトナムの民話「ネギのスープ」

 昔、偽りの申し立ての為に無実の罪で長い間牢獄に入れられている信心深い男の囚人がいました。この囚人は面会を許可されていなかったので、母親は米を入れたネギのスープをつくって獄吏に頼んで息子に渡してもらいました。スープを見た囚人は涙を流すばかりでスープに手をつけなかったので、看守は囚人に理由を尋ねました。囚人は「私の年老いた母はネギのスープを煮る時にはいつも、この珍しい野菜をとても苦労して探していました。母が私のことをこんなに思っているのに母に会うことが出来ないのが悲しくてスープを頂くことができません。」と答えました。看守が上役にその話をすると、上役は親を大切に思う息子が罪を犯すはずはないと考え、裁判のやりなおしを勧めました。新しい裁判は男の無実を証明し、男は釈放され、それ以来、母と息子は一緒に幸せに暮らしました。


 「花物語」には玉葱(たまねぎ)の項目もあります。

玉葱(たまねぎ)

[←先頭へ]


杜松(ねず)

 フィンランドのキリスト教のお話。

 乙女マリアは、幼子イエスを抱いて追っ手から逃げていました。追っ手達はマリアのあとを追って森に入りました。追っ手は「母親と赤ん坊が来なかったか?」とマツに尋ねました。マツは無言でした。次に追っ手達はシラカバに同じことを尋ねました。シラカバも無言でした。次に追っ手達はヤマナラシに同じことを尋ねました。ヤマナラシは「ここを通っていったよ。」と教えました。幼子イエスはヤマナラシに言いました。「お前は、命ある限り震えているがよい。」
 追っ手達はネズの木にも同じことを尋ねました。ネズの木は答えました。「私はここに百年立っているけれども、人間は一人も私の前を通ったことはない。」追っ手達はネズの答えを聞いて引き返していきました。ネズは、幼子イエスが人でないことを知っていました。幼子イエスは、ネズの木を香りのよい木としました。


 ネズの別名はネズミサシ(鼠刺し)といいます。葉が針状にとがっているので,鼠も刺せるということから名付けられました。


花言葉は、保護・援助

[←先頭へ]


合歓木・夜合樹(ねむのき)

 中国の白族に伝わる「蝴蝶泉」の伝説。

 昔、泉のそばに白族の美しい娘が父親と一緒に住んでいました。ある日、娘は聡明な猟師の青年と出会い、二人は恋に落ちました。二人は結婚の約束をしましたが、領主が美しい娘を自分の妾にしようとやってきました。父親は断ったために殺されてしまい、娘は捕らえられてしまいました。青年は娘を救い出して一緒に逃げましたが、泉の所で追っ手に追いつめられてしまい、二人は泉に身を投げました。すると、突然雷がとどろき、暴風雨が起こりました。そして、雨がやんだとき、泉から虹のように輝く一対の蝶が現れ、次々に無数の蝶が現れて、泉のそばのネムノキの頂上から地面まで連なって垂れ下がりました。その時から、人々はこの泉を蝴蝶泉と呼ぶようになりました。
 毎年、二人が蝶に生まれ変わった旧暦4月15日頃になると、無数の蝶が飛来してネムノキの近くを舞い飛ぶそうです。この日には若い男女の出会いの場として「蝴蝶会」が催されるようになりました。


 中村公一著「中国の愛の花ことば」(草思社)より引用。

 ’伝説によれば、堯(ぎょう)についで天下を治めた太古の聖天子・帝舜(ていしゅん)は、反乱を起した苗(びょう)の民を追って南征の徒次、蒼梧の野(そうごのや。現在の湖南省寧遠県にある九疑山(きゅうぎさん)のことという)で崩じた。そして、跡を慕ってやって来た舜の皇妃、娥皇(がこう)と女英(じょえい)の姉妹はそれを聞いて嘆き悲しみ、湘水(しょうすい)の河岸でともに死んでしまったという。
 このときふたりの注いだ涙が竹に落ちて、斑紋のある湘妃竹(しょうひちく)となったという話は有名だが、別の言い伝えでは娥皇・女英の霊魂はひとつに合体し、夫の舜の魂とともに夜合花の一対の葉となって、昼開夜合しながら永遠に相思相愛を続けているのだともいわれる。’


 「本吉清水寺(もとよしきよみずでら)縁起」

 大同元年(806年)、伝教大師(最澄)は唐から帰国する途中、有明海の東方の山が黄金色に光るのを見ました。大師はその美しい光を追って山に入り、道に迷ってしまいました。そこへ1羽のキジが現れて、大師を金色に輝く合歓の木に案内しました。大師はその木に千手観音を刻み、お堂を建ててまつりました。これが本堂です。木の本(もと)を刻まれた観音様なので寺の山号を本吉山と称しました。

 ちなみに、縁起にちなんで、清水寺の25代目住職隆安法師が、井上嘉平次に製作させたのが、木製玩具「きじ車」の起源とされています。開運・縁結び・安産のお守りとして伝えられ、北原白秋の短歌に詠まれたことから全国に知られるようになりました。


 象潟や雨に西施がねぶの花   松尾芭蕉

 『奥の細道』にある有名な句です。
 西施は中国春秋時代の美女です。会稽山の戦いに敗れた越王勾銭は、西施を呉王夫差に贈りました。西施は憂いでいつも顰(ひそみ。しかめ面、半眼。)をしていましたが、その顔でさえ美しいと評判になったので、女たちは西施の顰を真似たとそうです。この故事からは「ひそみにならう」という言葉が生まれています。
 芭蕉は、「ねぶ」を「眠り」と「合歓の花」にかけて、雨に煙る象潟(きさがた)が目蓋を閉じた西施のように美しいとたたえました。

 現在の象潟は陸地です。1804年の大地震で海底が隆起して、丘になってしまいました。本庄藩の藩主の六郷氏が水田として開拓したため、夏に水が入ると芭蕉が訪れた1689年のような風景が見られるそうです。

 
 「木になる樹」について。

    日立の樹 (伊藤アキラ作詞/小林亜星作・編曲)

   1この木なんの木 気になる木
    名前も知らない 木ですから 名前も知らない木になるでしょう

   2この木なんの木 気になる木
    見たこともない 木ですから 見たこともない花が咲くでしょう

   3この木なんの木 気になる木
    なんともふしぎな 木ですから なんともふしぎな木になるでしょう

   4この木なんの木 気になる木
    みんながあつまる 木ですから みんながあつまる実がなるでしょう
    (All Right Reserved. Copyright(c) 1997-2000, Hitachi,Ltd.)

 日立製作所のCMで使われた木は幾つかあります。
 初代はアニメーション、3代目はハワイのハワイ島のマンゴー、4代目はシンガポールのバニヤンツリー、5代目はロサンゼルスのカリフォルニアオークですが、2代目、6代目、7代目はハワイのオアフ島のモアナルア・ガーデンパークのモンキーポッドが使われています。
   (日立の樹 ONLINE)
   (http://www.hitachi.co.jp/park/tree_info/index.html)

 このモンキーポッド(学名Samanea saman)の俗称をアメリカネムノキといいます。
 モンキーポッドmonkeypodはハワイではあちこちにある木です。猿がこの木の実を好んで食べるところから名付けられたそうです。やはり夜になると葉を閉じます。
 1866年、小説家のマーク・トウェインはアメリカ最南端の小さな街ワイオヒヌに来訪記念にモンキーポッドを植えました。現在は、その根から成長した新しい木があります。


花言葉は、歓喜・創造力

[←先頭へ]


ネモフィラ

 ネモフィラnemophilaはハゼリソウ科ネモフィラ属の一年草です。
 学名はギリシャ語の「森nemos」と「愛するphileo」に由来します。
 和名は瑠璃唐草(るりからくさ)、英名はBaby Blue-Eyesです。

 ネモフィラの花には様々な種類があります。
 マクラータ(5弁の白い花の先端に青いアクセント。英名Five spot)、インシグニス(メンジーシーともいう。青に近い水色、中央は白)、ペニーブラック(黒花弁に白い複輪)、スノーストーム(白)、ブルーベリーアイズ(バイカラー)、クレオパトラ、チェルシーブルー等があります。
 和名も英名も、青いネモフィラ・インシグニスnemophila insignise(nemophila menziesii)の花からつけられたようです。


 西欧の伝説「冥府の入り口でネモフィラになった花嫁」
 (近藤米吉編著「植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”黄泉(よみ)の国、冥府の扉は固く閉ざされていて、生命(いのち)あるものは誰でも、その扉をくぐることは許されなかった。その昔ギリシアで、冥府の入口の冷酷な扉の前で、若い女が青白く燃える地獄の焔に、蒼ざめた顔をいっそう蒼くして、泣き伏したままネモフィラの花となった。
 その若い女は長年の恋が稔って、恋しい男と結ばれたのも束の間で、夫を新婚の床から冥府に連れ去られて、一夜にして未亡人となった。そのわけは二人が知り合い、愛し合うようになった時、男はその恋に自分の生命を賭けていた。だから男はこの恋さえ叶えば、死んでもよいと神に祈りつづけていた。神はその純情にほだされて、その願いどおりいちどは二人を結んだのだが、同時に男の前の誓いも忘れていなかったからである。
 このようにして新妻は、新婚の床から夫を奪われて、幽明はるかな冥府まで恋しい夫を訪ねてきたのであった。だが夫に逢うことはむろんのこと、その姿を見、その声を聞くことさえ許されなかった。女はついに神に祈り、冥府の扉の前で一輪の花となったのであった。(『植物と伝説』)

 この物語で奇異に思うことは、話の筋からいうと舞台はギリシアで、時代は明らかにギリシア神話時代である。にも拘らず突然そこへ、当時全く未知だった筈の北米原産の花ネモフィラが現われたことである。もともと神話ことにギリシア神話やローマ神話は、後世作られたものが多いので、神話作家の勘違いによるものであろう。”


花言葉は、どこでも成功・愛国心・可憐・常なる成功・荘厳・他人思い

[←先頭へ]


凌霄花(のうぜんかずら)

 ギリシャ神話のお話。

 ノウゼンカズラは地を這う美しい花でした。松は、ノウゼンカズラの美しい姿を見て一目惚れをしました。松は自分の思いをノウゼンカズラに打ち明け、プロポーズしました。ノウゼンカズラは松の気持ちに感謝して、すぐに松を受け入れました。そして、松に「私は弱いものです。どうかあなたの肩を貸してください。」と頼みました。松は喜んでノウゼンカズラに高くそびえたつたくましい肩を貸しました。その時からノウゼンカズラは、松に身を寄せて花を咲かせるようになりました。
 でも、ノウゼンカズラは時々、杉や檜にももたれかかることがありました。そんな時にはノウゼンカズラ一筋の松は悲しみに沈みました。


 鳥飼洞斎翁編述「改正月令博物せん(草かんむり+全)」六月部『凌霄花之詞』の詩のお話。

 昔のある日、素娥(そが)という名の仙女が仙女仲間と一緒に酒宴をしました。お酒によって姿勢がくずれ、身体も髪も傾いてしまい、髪に挿していた玉の簪(かんざし)が下界に落ちてしまいました。ところが、その簪はいくら探しも見つかりませんでした。今、その簪が凌霄花となって咲き出しました。”


 ノウゼンカズラ(凌霄花)は、かずらとついているようにつる性の植物で、茎から付着根を出して他の植物に絡みつきます。そして真夏にオレンジ色の花をつけます。霄は空を意味し、つるが空を凌ぐように高く登っていく様子から凌霄花と名付けられました。

 ノウゼンカズラは、中国原産で日本には9〜10世紀に渡来しました。「本草和名」(918年)にも記載されている古くからの栽培植物です。

 英名は、花の形からトランペット・フラワーとなっています。


     夏来れば 築地の朝 の好ましき 
        海の風吹く 凌霄花(のうぜんかずら)     木下利玄


花言葉は、女性・名誉

[←先頭へ]


鋸草(のこぎりそう)

アキレア

[←先頭へ]


野沢菜(のざわな)

 野沢菜Brassica rapa var. hakaburaは、アブラナ科アブラナ属の野菜で、カブの一品種です。


 野沢菜の始まりのお話。

 江戸時代、建命寺(長野県下高井郡野沢温泉村豊郷9320)の住職が京都に遊学した時、天王寺カブの漬物が美味しかったので、天王寺カブの種子を持ち帰って寺の畑で育てました。ところが、厳しい寒さのため、カブの実は大きくならず、葉や茎が大きく育ちました。それが野沢菜です。野沢菜の葉と茎を漬物にしたところ、美味であり、野沢菜漬けが誕生し、有名になりました。
 建命寺では、現在でも野沢菜を栽培し、採取した種を一般の人に分けているそうです。

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には以下のように書かれています。

 ”信州大学農学部教授・大井美知男らの調査では、遺伝的に野沢菜は天王寺蕪の子孫と考えるのは無理があるとしている。天王寺蕪のような中国由来種ではなく、東日本に土着しているヨーロッパ起源種の特徴が強く、福島県に近縁種が確認されている。”

[←先頭へ]


野路菫(のじすみれ)

 漢名、生薬名を紫花地丁(しかじちょう)といい、化膿性皮膚疾患の解毒に効果があるそうです。


 中国の民話。

 ある山里の二人の乞食が仲良くなり、義兄弟の契りを結びました。
 ある日、弟の指にひょうそ(「やまいだれ+票」+「疽」。化膿性爪囲炎。)ができ、激しく痛みました。心配した兄は、東陽鎮という町の済生堂という薬屋へ連れていきましたが、薬屋の主人はお金のない二人を追い返しました。薬屋の主人の怒鳴り声を聞いて集まってきた近所の人達は、乞食のひょうそがひどいのを見て、「せめて痛み止めをやったらどうか」と提案しましたが、主人は「文無しの乞食の面倒は見たくない」と断りました。腹をたてた乞食が「他へ行って治してもらいます」と言うと、主人は「この辺りにひょうそを治せる者がいたら、みんなの前で済生堂の看板を壊していいぞ。」と言って嘲笑しました。
 二人は町を出て草むらに腰を下ろして思案に暮れていましたが、その間にも弟の痛みは激しくなるばかりでした。兄は何気なく辺り一面に咲いている紫色の花を摘んで噛んでみましたが、苦かったので手のひらに吐き出してしまいました。弟の指を水で冷やしてあげようにも近くに水がなかったので、兄は手のひらの花びらを弟の指に貼りつけました。すると、弟の指の痛みがうすらいできました。兄は紫色の花を咲かせた草を根から抜き取り、たくさん集めて寝泊りしていた古寺へ戻りました。兄は半分をすり潰して弟の指に貼り、残りを煎じて飲ませました。すると、弟のひょうそは日毎によくなりました。
 三日目の朝、二人は鉄の棒を持って町に行き、済生堂の看板を壊しました。それから、二人は乞食をやめて例の野草を集めて、ひょうそにかかった人達を助けました。その紫色の花を咲かせた野草の茎がまっすぐ伸びて硬く釘のような形をしていたので、二人はその野草に紫花地丁と名付けました。


「花物語」には、菫(すみれ)の項目もあります。

[←先頭へ]


野薔薇(のばら)

 中国の哈尼(ハニ)族の民話「野ばら」

 昔、紅河のほとりにバチャアルという若い狩人がいました。バチャアルは蘆笙(ろしょう・葦の葉笛)の名人でした。ある時バチャアルは狩りの途中で野ばらを見つけ、自分の庭に植えて大切に育てました。いつしか夜になると、バチャアルの蘆笙に合せて娘が歌う声が聞こえるようになりました。その娘は野ばらの花でした。バチャアルは娘を好きになりプロポーズしました。すると娘は言いました。
「朝になって、あなたがバラの群れから私を探し出せれば、私は人間の姿になれます。でも失敗すれば私はバラの姿のまま死んでしまいます。」
 翌朝、バチャアルはたくさん咲いている野ばらの中に一つだけ夜露に濡れていない花を見つけました。娘は露が降りる頃にはバチャアルと一緒に部屋の中にいたので間違いありませんでした。バチャアルがその花にキスをすると花から娘が現れました。


 ベネズエラのペモン族の民話「ほたるとのばら」。
 (フレイ・セサレオ・デ・アルメリャーダ採話・柳谷圭子訳(ほるぷ出版)より要約)

 蛍は広い草原の反対側に住むおじさんの家に行く途中でした。蛍は一日中飛び続け、夕方に1本の野バラが生えている丘に着きました。
 野バラは葉っぱが枯れて腰の曲がったお婆さんでした。野バラは一目で蛍が好きになったので、蛍に食事をさせ、蛍のハンモックを揺らしながら楽しい話をたくさん聞かせました。野バラは蛍に「私をお嫁さんにしてください」と頼みましたが、蛍は「君はみっともないから嫌いだよ」と答え、翌朝また飛び立ちました。
 蛍はおじさんの家で数ヶ月間楽しい日々を過ごし、来た時と同じ道を飛んで自分の家に向いました。蛍は丘の野バラを見て驚きました。野バラは若く、葉っぱもとげもきれいで、たくさんの花を咲かせていました。蛍は野バラの美しさにうっとりし、「お嫁さんになってほしい」と頼みましたが、野バラはもう蛍のことが好きではなかったので断りました。
 蛍は野バラと別れる前に、野バラが若返った理由を尋ねました。野バラは「狩りに来た人間が私に火をつけたらこうなったの」と答えました。蛍は自分も若くきれいになって野バラに好かれるように、焚き火をさがして飛び込みました。蛍は自分の身体が燃え出したのであわてて火を消しましたが、身体中真っ黒こげになってしまいました。その上、お尻の先の火の粉はどうしても消すことができませんでした。だから蛍は真っ黒でお尻の先だけ光っているのです。
 それでも蛍は野バラが忘れられず、花の季節には野バラの周りに群がり、焚き火を見つけると飛び込むのです。


 近藤朔風の訳詞「わらべは見たり、野なかのばら…」で始まる歌曲「野ばら」は、ゲーテの詩にシューベルトが作曲したものです。皆川達雄先生(「バロック音楽の楽しみ」知ってますか?)が講義の時にドイツ語で歌ってくれたのを思い出します。最後の繰り返しの部分がとっても素敵でした(うーん、ロマンスグレイ)。

Sah ein Knab ein Roeslein stehn,
Roeslein auf der Heiden,
War so jung und morgen schoen,
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Roeslein, Roeslein, Roeslein rot,
Roeslein auf der Heiden.

Knabe sprach: ich breche dich,
Roeslein auf der Heiden!
Roeslein sprach: ich steche dich,
Dass du ewig denkst an mich,
Und ich will's nicht leiden.
Roeslein, Roeslein, Roeslein rot,
Roeslein auf der Heiden.

Und der wilde Knabe brach
's Roeslein auf der Heiden;
Roeslein wehrte sich und stach,
Half ihm doch kein Weh und Ach,
Musst es eben leiden.
Roeslein, Roeslein, Roeslein rot,
Roeslein auf der Heiden.


「花物語」には薔薇(ばら)の項目もあります。


花言葉は、詩・恋を隠しています・ねたみ

[←先頭へ]


糊空木(のりうつぎ)

 ノリウツギHydrangea paniculataはユキノシタ科アジサイ属の落葉低木です。
 木の内皮に含まれる粘液は、ネリ液または木ネリとして和紙製造の糊料に用いられました。

 英名はPanicled hydrangea。
 別名には、サビタ(東北地方から北)・ニベシ(伊勢地方)等があります。


 伊勢の伝説「ニベシの花ついに散らず」
 (近藤米吉編著「続植物と神話」(雪華社)より引用)

 ”昔、伊勢の国のひっそりした山村に、あるひとりの青年がいた。同じ村の美しい娘に心ひかれて、折を見てはせつない胸のうちを訴えていたが、娘の心はなかなか動かなかった。今日もたまたま山道で娘に出逢ったので、言葉を極めて娘に真心を訴えた。すると娘は「あのニベシの花が散る時がきたら」と、道端に白い花をいっぱいつけたニベシの花を指差した。とはいうもののその青年は村では評判の律儀者ではあるが、朗らかさがなく、娘はなんとなく好きにはなれなかった。だから心の中で拒みながらも、ほんのその場のがれに約束したのであった。なぜならこの娘はつねづね草木に興味を抱き、花のことをよく知っていて、ニベシの花は一片づつ散り落ちることなく、花序全体がいっしょに枯れ果てることもむろん知ってのことであった。
 だが、そんなことを知らない正直者の青年は、胸に燃ゆる思いを抱いて毎日山へいって、ニベシの花を見ていたのだが、白い花は薄茶色に変色して縮むばかりでついに散ることなく、とうとうその恋も稔らずに終ったという。(『樹木と方言』)”


 「ノリノキ」
 (牧野富太郎著「植物一家言」(北隆館)より引用)

 ”ノリノキはノリウツギ、またはニベノキとも言われていると、東京の博物局の小野職殻(もとよし)が教えてくれたことがある。この人の家は下谷区末広町(現在東京都千代田区外神田に属する)十三番にあり黒き塀で囲まれていた。私は二、三度その家を訪問したことがあった。主人には一人の娘があった。この娘を貰ってくれれば家の蔵書は皆くれると言ったが、私は既に妻があったので、これを謝絶したことがあった。”


花言葉は、臨機応変

[←先頭へ]


Wordsworth - Version2.6.0 (C)1999-2002 濱地 弘樹(HAMACHI Hiroki)