(1) 一九七〇年夏の話における時間のずれ
この小説における設定で最大の問題点は二十一歳・夏の話において、時間の流れに大きな食い違いが存在することである。この問題については、「國文學 解釈と教材の研究 四〇巻四号」における加藤典洋氏の論文「夏の十九日間――『風の歌を聴け』の読解」においてかなり詳しく言及されている。要約すると、「僕」と小指のない女の子の間に起こる出来事をカレンダーに並べていくと、「この話は1970年の8月8日に始まり、18日後、つまり同じ年の8月26日に終わる。」(p.13 l.11 2)という時間設定に収まらないという問題があるというのである。ここで加藤氏は、途中の一週間を端折るという形で解決を試みているが、テキストを歪曲して解決させるという方法に疑問を感じるのでこの考えを是認する事はできない。
ここからは別添の表(省略)を用いながら解析していきたい。まず2にある「この話」の始まりである「8月8日」には、この日が土曜日であることから、ラジオのDJからの電話があった日としてスタートさせる。もちろん可能性としては3に書かれている「鼠」と「僕」の会話や、7の「僕」が女の子の家で目覚める所からが話の始まりであるとも考えられる。しかし、これ以後の日程を考えていくと「8月26日」を大幅にオーバーしてしまうことになるので、始まりが土曜日であることも合わせ、「8月8日」をラジオのDJから電話がかかってきた日とする。
これ以降は本文にある通りに時間を当てはめていくと資料の通りとなる。「鼠」との交流の場面では日付をはっきりとは特定できないため、クエスチョンマークを付しているが、前後二日程度のずれで済むであろう。小指のない女の子との話では、本文通りに当てはめていくと、「8月26日」には既に35の話に達してしまい、38での「東京に帰る日の夕方」(p.146 l.3)とジェイズ・バーの「8月26日、という店のカレンダー」(p.146 l.15)とは矛盾を生じてしまう。ここをどのように解決するか。2にある「この話」というのは小指のない女の子と会う最後の日まででよいのではないか。二十六日以降時間がはみ出してしまうことについては、「この話」が必ずしも一九七〇年の夏における話の全てを含んでいなくても構わないということと、「8月8日」以前にも話がはみ出さざるをえないような状況とを考えると、取り立てて不都合はないと考える。
不都合があるのはカレンダーとの矛盾であるが、これはどうやら日めくりカレンダーであるように考えられる。そのため、めくることをしなかった(忘れた)と考えて「8月26日」に特殊な意味を持たせ、その日と「惜しまずに与えるものは、常に与えられるものである。」(p.146 l.16 38)という言葉に関係を持たせる。このことによって、この日が実際に「8月26日」でなくともカレンダーだけは「8月26日」であるという設定になったのではないかと考える。
このように検討してきたが、結局この時間のずれが持つ意義というものはどのようなものであるのか。この小説は「リスト」であると書き手自身によって示され、四十の章に分けられたうえにストーリーが一本の線のように進んでいかず、切断されている状況などを考えあわせると一つの結論が導ける。つまり、書き手は「時間」という概念においてさえも小説のストーリーのように不明確なものに仕立て上げるためにこのような数字の不一致を仕組んだのだというものである。もう一つの結論は、作品中の「僕」の態度に関わる点から導けるものである。「僕」は数値にこだわり、それによって自己のアイデンティティを確立しようとつとめてきた(p.93 l.13〜p.94 l.3)態度も、やはり数値である日付すらもあわないという設定をとることで、二十一歳・夏における「僕」のアイデンティティが曖昧になっている状況を示していると言えるのではないだろうか。
(2) 「僕」の過去における時間
この小説では僕に関わる、様々な過去の時間(二十九歳の僕が書いている現在という時間もあるが)が書かれている。特に注目すべき時間というのが幾つかある。まず一つ目は言うまでもなく一九七〇年夏の話が書かれている時間である(資料2では省略して細部は資料3に譲っている)。その他には一九六三年(十四歳・中学三年生)の時が度々現れ、重要な時間として設定されているようである。これは出来事の内容を見ても、この年以前に書かれた出来事が精神病院にかかったことのみであることからも分かる。出来事の内容については後に言及するが、この年が「ケネディー」という言葉でひとくくりにされていることは注目に値する。彼はこの他にも6・9・26・31で出てくる。この繰り返しには、僕が「ものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めた」(p.10 l.13)ことや、小さい頃無口だった僕が、「14歳になった春、信じられないことだが、まるで堰を切ったように僕は突然しゃべりはじめた。……」(p.31 l.4)といった出来事などにより、初めて自分の外部と関係を持ち始めたスタートラインとして重要な位置を占める年として注目していることが分かる。
この「14歳」というケネディーに代表される時間を境に、僕には大きな変化が現れている。これまで無口であった僕が突然しゃべり出すという事件(7)をきっかけにして、無口でもおしゃべりでもない平凡な少年になるというのは大きな変化である。さらにこの年の夏休み(「事件」が終わって一〜二カ月しか経っていない)にはハートフィールドの本に出会っている。それがきっかけとなって僕はものさしを片手に恐る恐るまわりを眺め始めた(p.10 l.14)のである。このことは、これまで自分の殻に閉じこもっていた僕が、社会や他者(まわり)に対してものさしで距離を測るという形での「仮の人間関係」を構築しはじめたをということを示しているのではないだろうか。
ところが、二十一歳を境に、僕は以後八年間「沈黙」「ジレンマ」を抱き語ることをしなかった。そして二十九歳になって「語ろうと思う」というように、沈黙しているか否かという二つの状況の間を行き来しているのが僕の状況である。このように考えると十四歳と二十一歳という時間はその変化のきっかけとなった重要な転換点ということになる。
(3) 「僕」と「小指のない女の子」
「小指のない女の子」は、どのような態度で人に接しようとしているだろう。まずこのようなやりとりがある。
「あなたがどう感じてるかって問題じゃないのよ。少くともあんな風に言うべきじゃなかったと思うの。」彼女は早口でそう言った。ここでは女の子が自分の気持ちに素直であることよりも「こうあるべきだ」という姿を強く追い求めていることがわかる。
「自分に厳しいんだね。」
「ええ、そうありたいとはいつも思ってるわ。」(p.70〜71)
「君は立派な人間?」
15秒間、彼女は考えた。
「そうなりたいとは思ってるわ。かなり真剣にね。誰だってそうでしょ?」(p.77)
しかしそんな態度をとる女の子も、自分の気持ちが表れるところがないわけではない。22において「僕」にビーフ・シチューを食べに来ないかという電話をかけるあたりでそれがかいま見える。『「待つのが嫌いなのよ。それだけ。」』という言葉の直後に「口を開くのも待たずに電話を切った。」というのは一種の照れ隠しであろう。さらに、36においては、『「今夜は一人でいたくないのよ。」』という言葉を「舗道の敷石にむかって」言うのも同様である。このような態度からも、自分の気持ちに素直であることに対して違和感を持つ女の子の様子が受け取れるだろう。
このような彼女は自分の矛盾に悩み、苦しんでいるようである。「誰にも迷惑をかけないで生きていけたらどんなに素敵だろうって思うわ。」(p.90 l.16)ということばや、「何度もそう(引用者注 「僕」が「風向きも変わるさ。」と言ったこと)思おうとしたわ。でもね、いつも駄目だった。人も好きになろうとしたし、辛抱強くなろうともしてみたの。でもね……。」という過去の実践を通して、彼女は絶望に近い状況に追い込まれていることがわかる。このような彼女の状況に対して「僕」は結局何もしてあげることが出来なかった。この体験は、「僕」に諦念をもたらした。このことも「僕」のとる生き方の態度に影響を与えているだろう。そのことについて考えてみる。
(4) 「僕」と「鼠」
「僕」が二十一歳・夏の時点で「鼠」は、「僕」が本を「時間潰し」に読んでいたことに触発されて、内容を覚えてしまうほどの真剣さを持って本を読む。そして、「セックス・シーンのないことと、一人も人が死なない」小説を書くようになる。「鼠」が求める小説は、自分にとって「良い」もので、「書く度に自分自身が啓発されていくようなものでなくちゃ意味がない」という真摯な態度である。しかし、古墳に行った場面で感じる「鼠」の心境を見ると問題がある。
「まるですっぽりと包み込まれちまうような感覚さ。つまりね、蝉や蛙や雲や風、みんなが一体となって宇宙を流れて行くんだ。」(p.115)この言葉には、「包み込まれる」「みんなが一体」という自分以外のものと何かを共有する感覚というものが込められている。これは自分にとって「良い」であることや「書く度に自分自身が啓発されていくようなものでなくちゃ意味がない」という自分のために書く、という考え方とこの共有感覚と二つの側面を持っていることが分かる。
何かを共有したいという考え方を表現するにあたって、引用文のように動物や自然を持ち出し、さらに「そしてその次に自分に対して腹を立てない奴らに対して無性に腹が立ち始めるんだ。」という言葉にもあるように、直接「人間」や「他者」という表現を持ち出すことは避けているが、「鼠」には他者に自分のことを知ってほしい、もっと深く関わってほしいという欲求があることは否めない。そうすると、先の二つの考えは自分と他者との関係をもっと深いものにしたい、完全なものにしたいという意思の表れであると言えよう。ここには全ての物事、人間に共有できるものを求めてしまうという全体主義的傾向も見られることに注意しておかなければならないだろう。
このような試みがほとんど不可能であることも「鼠」は薄々感じていて、他者に頼って生きていくことを願う自分を「自分は本当に弱い存在だ」という形で感じ取っている。だからこそ「僕」が「みんな同じさ。」「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ。」と一般論でとらえ、個人の存在しない見解をとるに対して「嘘だと言ってくれないか?」と答えるのである。
これに対して「僕」はハートフィールドにならい、十四歳の時から物差しを片手に「自分と自分を取り巻く事物の距離を確認」しながら生きてきた。距離を確認するということは、自分と他の人・ものとの相違点に注目し、他者を自分とは遊離したもの一般として一括りにしてしまい、一般論に解消しようとしているたいどをとるものである。これは「鼠」が個人による連帯を考えていることとは対立した考え方である。
この二者の対立を別の表現で表しているのがDJの場面であると考えられる。前田愛氏の「僕と鼠の記号論 ――二進法的世界としての『風の歌を聴け』――」によると、11のこのDJを例に取りあげ、「他者に向かって伝達可能な<私>は<仮面の私><私でない私>であり、真の私は伝達不能の<私>、<語りえぬ私>としてしか現れない」と述べている。そして前者をONとし、後者をOFFと定義している。この定義を利用すれば、「僕」と「鼠」の対比がはっきり現れる。
11において、ONの時には「最高に元気だよ。」「暑さなんて忘れちまう。」「素晴らしいね。」と言うDJもOFFの時にはそれぞれ「地獄だよ、ここは……」「……ふう……なんて暑さだい、まったく……」「……畜生……」というように正反対の感慨を持っている。これは、俗っぽく言ってしまえば表と裏とを使い分けているということになる。裏の部分であるOFFの状態をさらけ出して小説を書き、他者との連帯を求めたいと言っているのが「鼠」なら、ONの部分のみで人と関わり、自己の内部を他者の影響下から守ろうとするのが「僕」の立場である。