『智代アフター』試論―Life is like a "Pendulum"―

初出:『Life is like a "Pendulum"』(2006年12月29日 コミックマーケット71にて初売り)

0.本論の目的

本論考は、Keyブランド最新作『智代アフター』について、作品のテクストを中心に選択肢・分岐の流れも含め検討を行うものである。必要に応じ、Tactics/Keyブランドとしての他作品との関係の中での本作品の位置づけについても検討を行うこととする。

なお、本作はタイトル中に「アフター」の語があるとおり、『CLANNAD』の後日談としての色彩が強いこと、また、『CLANNAD』智代シナリオでのやりとりを前提とした記述が行われていることがあり、本作単独での検討が行い得ず『CLANNAD』の作中の情報を前提として検討した部分があることをご了承願いたい。

1.ふたつの"強さ"

前作『CLANNAD』から引き続き、プレイヤキャラクタとしての位置づけにある岡崎朋也は、本作ヒロインであり当初から恋人同士の関係にある坂上智代に対して、折に触れて「強い」「すごいやつ」と彼女の強さを認めている。これは、前作からの流れを改めて把握すると、家庭の不和で荒れていた自分自身を克服し、現在通う高校に編入したこと、家族の絆を象徴したものである校門の坂にある桜並木を残すために生徒会長を目指すこと、生徒会長の職にあった際、公平で人望が厚く、常に的確な判断をする「伝説の生徒会長」となったことなどからも明確に示されていることである。このような彼女を、『CLANNAD』作中の生徒会に所属する男子生徒は以下のように評している。

【男子生徒】「あいつには欲というものがまったくないからな」
【男子生徒】「清々しいほど的確に、多くの人間が喜ぶ案を選び取る」
【男子生徒】「結果、自分が割を食っても、気にしない」
【男子生徒】「そんな奴、誰の身の回りにもいなかったんだよ、きっと」
【男子生徒】「それがあいつの魅力だ」
【男子生徒】「みんな、あいつのことが好きなんだ」
【男子生徒】「だから、みんな、あいつを悪く言わない」
(『CLANNAD』5月14日(水))

しかしながら、そのような智代も、生徒会長の職を全うし、朋也と一緒になることを望んだときには、そのこと自体が個人的な欲を表出することとなったため、これまでの生徒会に代表されるような『CLANNAD』智代シナリオ中で使用されていた「高み」に向かう方向性と一線を画した生き方を選択したこととなる。このことは、智代が私的な欲に基づいて生き始めたということであり、その方向は、従来の生き方と正反対と言えるものである。

生徒会当時に発揮していた強さは、朋也と一緒に暮らすときの智代においては発揮し得ない私欲の部分に当たるものであり、この点で、本作開始冒頭からの智代は、前作『CLANNAD』にあった凛とした強さとはまた違った雰囲気を纏って現れることは、実は自明のことなのであった。つまり、本作は、『CLANNAD』終了時点で目指すべき「高み」を得ていないものの「強い」存在である智代が、生徒会や学歴といったような方向と異なった「高み」を目指していく方向性となることが窺えるものである。

それならば、本作開始当初に智代が有している「強さ」についてまず分析する必要があるだろう。しかし、ともに対する智代の対応に朋也が客観的な目を向けるように、我々プレイヤも、智代がそれほど強い存在なのかという点については疑問を持たざるを得ないような描写が序盤に続けられる。

【智代】「血なんて関係ない」
【智代】「あの子に愛を注げて、そしてあの子から愛される存在…」
【智代】「それがあの子の親になる資格のある人間だ」
【智代】「私の父はあの子に愛を注げない」
【智代】「あの子の母は、あの子を置いて去った」
【智代】「ふたりとも、その資格はない」
【朋也】「そんなにあっさり結論を出すな」
【朋也】「何をそんなに焦ってるんだ…」
【智代】「早くしないと、ともが可哀想じゃないか…」
【朋也】「おまえは…」
【朋也】「誰かを好きになると、盲目的になるのな」
【智代】「そうか…?」
【智代】「自分ではよくわからない…」
【朋也】「俺のときも、そうだった」
【智代】「………」
【朋也】「今度は俺がなんとかしてみせるから…」
【朋也】「だから、少し待っててくれ」
(7月8日(木))

上記のやりとりに見られるように、智代の判断は明確であるが一方的なものである。これを一貫性という強さと見ることもできるかもしれないが、朋也の判断は「そんなにあっさり結論を出すな」と手厳しい。このように、一貫性という強さは、時に、周囲を顧みず盲目的になるという弱点となりうることを示している。このことは、鷹文が持ち込んだパソコンで、智代が悩み相談的な意見交換を始めたときにも、

【智代】「そういや、そろそろ返事が書かれてるんじゃないか?」
【鷹文】「いや、さっき書き込んだばかりだから」
…無茶苦茶はまってるようだった。
(中略:ともを退屈させていたのではないか、ということからのともとのやりとり)
智代の性格はよく理解しているつもりだが…。
【朋也】(本当にひとつのことに懸命になりだすと、周りが見えなくなる奴だよな…)
改めてそのことを痛感させられる。
(7月10日(土))

という描写においても、智代の経験から人の役に立てるという長所と、一途さがもたらす弱点としての盲目性という短所が併せて示されている。

この傾向は、ともの母(三島有子)に勝とうとする意識が折に触れて表出されることにも繋がってくる。

【智代】「私はしてやれる。この子の母親と違って…」
【智代】「私のほうが…」
(7月9日(金))

このように、すぐ本当の母親と自分を比較して、勝とうとする態度が頭をもたげてくるのが智代の特徴としてこの後も繰り返されることになる。ただし、この場面においては、

【智代】「ああ…嫌な人間になってしまっている…」
【智代】「私のわがままだ…」
(7月9日(金))

などと直後に反省するように、本人もある程度自覚はしているのだが、どうしても押さえられない面もある。例えば、この後、7月11日(日)にともと母親とを会わせる際に智代を同席させていないと、8月6日(金)にともの母に写真を渡した際、智代はまた下記のような競争的意識を前面に押し出す。

【智代】「私はあの人に勝つ」
【智代】「あの人以上に相応しい母親になってみせる」
【智代】「誓うから…」
【智代】「だから、もうともの母親のことは忘れてほしい」
(8月6日(金))

このように、何事も自身の信念を貫くことで勝ち続けようとする態度は、実の母とともを一緒に過ごさせたい朋也の考えを否定し、同棲に似た3人での生活、破綻の予感(*1)へと連なっていく。

さらに、上記の状況に至らずとも、有子の隠棲する山村に出かけた際には、朋也が行っているともにとっての未来の希望をつくる学校づくりの取組を断念させるために、朋也を性欲で誘惑してでも、ともに辛い思いを味わわせることをスポイルしようとする。このときの姿勢は、強さが誤って発揮された場面として最も特徴的なものである。この手に乗ってしまった場合、以下のように智代の強さはパートナーであったはずの朋也を単に屈服させる対象としてしか見ないようになり、自身の信念を貫き通し続けるだけの、向こう見ずで一方的な強さの表出を続けることとなってしまう。

【智代】「おまえはたくさん溜まっていたから、いらだっていたはずだ」
【智代】「今、たくさん出した…私の体ですごく気持ちよくなって、いっぱい出した」
【智代】「なら、いらだつ理由もなくなって、私の言うことも納得してくれるはずだった!」
【智代】「違うのか?」
【智代】「まだ、こんなことを続けるのか?」
【智代】「ともを傷つけるために…」
【朋也】「俺にも…信念があるんだ」
【智代】「だったら、どうして、えっちなことをしたんだっ」
【智代】「貫き通せもしない信念を振りかざすなっ」
【朋也】「だからそれとこれとは別だっての…」
【智代】「おまえは負けたんだ、それを認めて、信念を捨てろ」
【朋也】「勝ち負けの問題なんかじゃないっ」
その言葉で決意を固めたように、智代はすっと、目を細めた。
【智代】「じゃあ、私は勝ち続ける…私の信念のために」
【朋也】「勝手にしろ…」
(8月14日(土))

ここまで酷い状況に陥らずとも、本作冒頭に置かれた智代との数々の性行為においても、智代は常に対称性を意識し勝負事としてとらえている様子が窺える。

例えば、6月29日(火)の行為では、智代は朋也から布の上から擦られて達したため、朋也がモノを出そうとすると、それを「私は直接じゃなかった!」と言って制し、パンツまたは靴下を介した行為を行うこととなる。この後で朋也が「ああ、本当。多分俺の負けだ」とか「そうしたら、すぐいって…俺…負ける…」と言うことや、7月2日(金)で肛門を責め立てられる朋也が「智代、俺の負け…ダメ…でるから…」というところで「負け」という言葉を繰り返していることも、智代が常に勝ちにこだわり続けた結果と言える。

このような行為が極端なものとして表出した結果が、性行為によって朋也の信念を屈服させるという勝ちへのこだわりとして表出したものとして現れてくる。それゆえ、冒頭に置かれた性行為で朋也がこだわる息や唾液のことを記憶しておき、上記の山村での誘惑に活かそうとする智代は、勝利に対する徹底した執着を感じさせる効果をも有している。

上記の性行為においても徹底的に描写されているように、智代の勝負事に対する執着の断ち切れなさは、彼女の持っている「強さ」の発揮する方向性を誤らせるに十分な素地を持っているということが、分岐の先を含めて検討することにより明らかとなった。このことは、昔日の「荒れていた」日々を想起することも可能であるように、智代の持っているひとつの個性が、状況に応じて良い方向にも、悪い方向にも簡単に転がってしまうことをひとつの作品内で丁寧に追い、ひとつ間違えば後味の悪い未来へと繋がることを提示している。この後味の悪さは、智代自身の述懐「大切に生きなければと思うようになるんだ」ともかかわり、本作におけるプレイヤの対峙の仕方にも影響を与えるものであるだろう。

これに対して、上記のような方向に転がって行きかねない智代を見つめる朋也の立ち位置はどのようなものであるか検討する。前作『CLANNAD』においては、朋也と智代との出逢いのなかで

【智代】「おまえたちを見ていると、懐かしい感じもする」
【智代】「そうやって、無茶ができることもいいと思う」

【智代】「おまえはどうしてか…話しやすい」

【智代】「おまえみたいなのが、自分以外にもこんな学校にいるなんて思わなかったんだ」
【智代】「この落ち着く感じは、そのせいか…」
【朋也】「まぁ、昔のおまえほどひどくはないけど、確かに、似た者同士だろうな」
(上記3例とも『CLANNAD』4月17日(木))

という智代の述懐にあるように、智代の、朋也と春原に対する共感から生まれたものに始まっており、そのことは、本作でも朋也が河南子に聞かれた際の受け答え

【朋也】「同じ仲間だって、思ったんだよ」
【朋也】「ぜんぜん気が合わない奴らの中でさ」
(7月13日(火))

にそのまま貫かれている。このことは、首尾一貫していることではあるが、河南子がそのことについて

【河南子】「そういうのって、一時の感情だよ、知ってる?」
【河南子】「その時の雰囲気、それだけ」
(7月13日(火))

と言うように、このようなきっかけと、8か月後に一度分かたれたときからよりを戻したことだけでは、「永遠の愛」という大げさな物言いには違和感が残る雰囲気を有していると言えるだろう。

その絆の弱さとも言えることに最も不安を持っているのは朋也である。彼は前作『CLANNAD』では智代の生徒会活動を素直に応援することができず、智代を高みに送り出す代わりに怠惰な自分を卑下し、彼女と別れることをもって智代の生徒会活動の応援とする情けない男を演じ続けた。智代が活動を全うしてよりを戻したとき、智代シナリオの最後に朋也は以下のような誓いを立てる。

俺はずっと、情けない男だった。
でも、これからは違う。
この子を守ってゆけるよう、ずっと安心していてもらえるよう…
俺が頑張らないといけない。
それを誓うから…
だから、どうか…
いつまでも、一緒にいてくれ。
…智代。

このことと関連して、本作の前半は、朋也がこの誓いを実践することができるかどうかの試しの場(*2)として機能している。それにはやはり「強さ」が必要なことであるが、朋也が智代と異なるのは、智代のパーソナリティを的確に把握し、客観的な目を有する点にある。自身の目標は愚直に貫きながらも、智代に対する配慮とフォローは、プレイヤが正しい選択を行っていけば、前作で誓ったとおりの行為を続けることとなると共に、智代のことをよく理解しフォローしようとする行動として表れてくる。

そして、俺は昔を思い出す。
智代とつきあい始めた頃のことを。
あの時と同じように、人を好きになり、周りが見えなくなっている智代。
あの時はふたりしかいなかった。
当事者しかいなかった。
でも今は、俺がいる。鷹文もいる。
あの時と同じようにはしない。
ならないようにする、俺たちが。
(7月9日(金))

このようにして智代を守り、ふたりだけの世界に落ち込まないよう、客観的な目を保ちつつ、良き日々を紡ごうと努力していく。

この意志は、智代が売られた喧嘩を朋也が買うところにも現れてくる。これは、単に喧嘩を朋也が引き受けるということではなく、智代に昔日の荒れた日々を想起させてしまう喧嘩そのものに触れさせてなるものかという意志をもって、朋也が喧嘩を買って出るものとなっている。朋也自身が好きこのんで関わっているわけではない。これは、先に検討した智代のパーソナリティを朋也がよく理解しているためであると考えられる。作中の言葉では朋也が「智代の正義心を考えるなら、絶対に首を突っ込んでくるはずだ」という独白でしか表されていないが、表面的な勝ち負けにこだわらざるを得ない喧嘩に今の智代を関わらせることで、「強さ」に対する履き違えた感覚を持って欲しくない、と朋也が考えているだろうことは、有子との関わりを考えても、容易に連想できることである。

また、鷹文の心を開くためにタイピング勝負に取り組む姿勢では、

…興味ねぇよ。
俺は心の中で愚痴る。
喧嘩だって、パソコンだって。
こんな遠回りな努力が実るのか。
(7月22日(木))

と言いながらも、「これにかける根性はすべて費やしたつもりだ。」(7月25日(日)) と言えるまで鍛練を重ね、

意識するより速く指が動き、同じように文字が刻まれた。
今までとは違う。
ひたすら無心に。
いつの間にか、勝負のことすら忘れて、キーを叩くことだけに没頭していた。
(7月25日(日))

という境地に達して鷹文に勝つ。上記の引用からは、勝負に対するこだわりという智代のような考え方に基づいて朋也が行動しているのではないものを示すのみならず、仕方なく勝負事に徹しながらも、勝敗から超越した境地に至っていることから、智代と比較しても精神的に朋也の成長度合いが大きいことが窺える。

これは、人生論的に言うならば、他人との比較や勝負は避けられないことであるが、それを越えた先に真実があるということでもある。本作序盤の智代との愛は、まだ「他人と比べて」仲間だと思ったとか、「他人と比べて」気があった、という程度のものである。それらが全て捨て去られ、ただただ、想う、それだけ、という道を経てこそ、「ずっと続いていく愛」があることに真に思い至ることになるだろう。そのことはまだ遠い道の先にあり、現段階では気付かれることもない。

『CLANNAD』において結ばれた朋也と智代の関係は、8か月の長い期間を経ても戻ってきてくれたと感じた智代はそこに「永遠の愛」を見出したと言ってはばからないが、朋也にとっては、「これからは違う」「頑張らないといけない」という始まりの位置の認識でいる。

このような位置から始まった本作において、朋也が常に自らを試しの場に置こうという意識は、「言うのと、実際できるかどうかは別だろ」という自らの言葉にもあるように、智代との関係の不安を試練に置き換え、自らを「高み」に持ち上げようとする姿でもある。このような「型」によって自分を律し続け、得たい境地に近づこうとする点は、ひとの心だとか愛だとかいう実体のないものに直面する際に、不安や認識の不透明さに対して格率(*3)をもって対応していることと言えるだろう。

また、鷹文自身が囚われ、夢を見てうなされていたことも、智代がこだわる勝負事と関係するものである。勝ち続ければ河南子をもらえるというわけではないにもかかわらず、鷹文は、競技に勝つことで河南子を得ようと躍起になり、先生に「これに勝ったら河南子をくれますか」と常々聞いていた。鷹文自身にとっては、実は、勝負毎でしか走っていないということは、まだ物事の本質(*4)に至っていないということである。そうであるうちはまだまだ浅い、ということを先生は見抜いていたため、河南子はやれないと常々言っていたに相違ない。そのような中途半端な位置にあった鷹文が、自らの道を極めることができないでいるうちに、家族を守るためとは言いながら、自らが極めるべき道を放棄する「車道に自ら飛び出す」という行為を先生が許さなかったのは、理にかなっていることではあっただろう。

そのことは、先生の死によって永遠に敗北し続けるほかない心の淀みとして鷹文の心に残されることになったが、ここから始まる夢という軛から解放されたのは、鷹文自身が勝負事を度外視して走ったことで「楽しかったです」と告白することから始まる。楽しかった日々のことを思い、河南子のことを思い、河南子のことがいまでも好きだという思いの吐露へと連なり、それを聞いていた河南子の「勝たなくていいよ」の言葉が夢からの解放のきっかけとなったことは、本当に好きな河南子の支援によって繋がりを得られた、という面もあり、ふたりの中に真実の愛の萌芽が見られたということでもある。しかし、朋也と智代が冬の日によりを戻したことと同様に、鷹文と河南子はちょうど再びの始まりの位置に立っていることは明白である。彼らもまた、これから長い試しの日々を送ることになるだろうことは容易に想像できる。

朋也と智代のみならず、鷹文にとっても勝負事が自らを縛るものとなっていたことは、智代と鷹文が姉弟であることで似ていることもあるが、それ以上に、朋也も含めて、告白と同意による恋愛関係の構築のみ(*5)では、まだまだお互いの関係を担保されているわけではないという自覚を共通して有していることである。だからこそ、関係の始まりを経て、努力と本気とで常に自分を試しの場に置こうとし、それにより自分の存在意義を求めようとする行動が共通して現れている。そして、そのことは、通常、恋愛ゲームが相互の関係構築がほぼゴール地点となるのと異なり、関係の成立のみでは相互の関係を担保するものがどこにもないということを本作中で示し続けることとなっている。

鷹文と河南子との間は、朋也と智代の間柄で言えば、8か月の時を経て再びつきあうことになった冬の日の地点と同じ位置にある。これは始まりに過ぎない。もしかしたら、後の智代によるコンピュータの書き込みに見られるように、「物語はまだ始まってもいない」ことに気付かされるような過酷な経験が待っているのかもしれない。

この、鷹文と河南子との間でも長い長い時を経た試しの時があり得ることについては、ミニゲーム「Dungeons &Takafumis」(*6)において幾ばくかの表現が為されている。河南子(*7)は失われた本物の鷹文を探す旅の最後に、記憶も何もかも全て失った鷹文のコピー(*8)を発見する。そのとき鷹文の中に残された、河南子に伝えるべき言葉は「おかえり」のひとこと。長い時を経てなお再び相まみえるというその一瞬を待ち続けた姿は、メインのシナリオにおいて智代が経験したアフターの日々を彷彿とさせるものでもあり、智代同様の長い探索の日々を河南子が過ごすことにも共通点がある。

「D&T」におけるこのようなシナリオの類似も意図的なもので、ゲームのEndingを一度観なければこの分岐が現れないことでも分かるように、智代を経て、そのことが河南子にもまた及びうることの示唆として、「D&T」のEndが示されているという仕掛けが明らかとなっている。上記のことを踏まえれば、鷹文と河南子との間に待つハードルもまた想起できよう。

 そして、上記のような、長い試しの時を経ても挫けないことを誓う朋也の強さというものは、彼が高校3年生の時期に智代と過ごしたことで、智代の生徒会への立候補、そこでの桜並木の保存活動、多くの生徒の信任を得ていったこと、日々の努力から成績も上位となったことなど、彼女の行動の端々から喚起され、受け取ったものである。智代と結ばれたときにこれからがスタートだという認識は、怠惰に溺れ、強い智代を自ら遠ざけようとした朋也の中に、智代から「強さ」を受け取ったという烙印のように刻み込まれた思いがあるからこそのことだろう。

このような思いがあるからこそ、本作の朋也は、智代に負けないように、智代のそばにいるにふさわしいものとなるべく、強さを身につけていくことになる。鷹文が言う「訳分かんない根性」とは、「強い」智代とあるために朋也が自らに課し続けるものであり、それこそが智代と自分を釣り合わせるものだと思っている。だからこそ、朋也は常々智代をすごいやつだ、と標榜し続ける。それは自らが智代から受け取ったものの大きさを自覚してのことである。

しかしながら、本章冒頭でも述べたように、本作での智代は、これまでの高校生活のように自らを押さえ、律することで達成できるような部類の達成目標とは異なった地点に立っている。それは、自らの内なる欲求に基づいた愛とか恋とかの類の達成である。このようなものに慣れていない智代は、その達成点も見えず、内なる衝動を抑えられず、荒れていた昔日を思い起こさせる、不器用で勝負事に対するような感覚で臨み続けてしまう。このことで、智代がこれまで意識せずに作り上げてきてしまったパーソナリティとして、勝負事に拘泥することによる強さということが明白に示されている。

とはいえ、この勝負事に対する強い執着と実力のみをもって智代を「強い」存在とするにはあまりにもナイーブな考え方であろう。そこで、このことを客観化、対象化する視線として、智代から強さを受け取ったパートナーとしての朋也の位置を置き、彼の視線から、内発的な欲求に基づきながらも自己を律し続ける態度が明らかになる。このことは、性欲に身を任せることとは遠い地点にあり、だからこそ、山村での智代の誘惑に耐えられるか否かが大きな分岐点となっていることもまた当然のことなのである。

 このような強さの対立軸については、村上春樹の『海辺のカフカ』において、主人公(視点人物)の田村カフカ少年の発言も一致している。

僕は言う、「僕が求めているのは、僕が求めている強さというのは、勝ったり負けたりする強さじゃないんです。外からの力をはねつけるための壁がほしいわけでもない。僕がほしいのは外からやってくる力を受けて、それに耐えるための強さです。不公平さや不運や悲しみや誤解や無理解――そういうものごとに静かに耐えていくための強さです」(*9

朋也にとっては静かに耐えているわけではないが、本作後半に襲いかかる悲劇的な状況は、立場の変わった智代が直面する不幸でもある。そして、朋也は、常々そのような状況に智代が置かれたときのことを心配して

【朋也】「今はいい。今は俺が支える」
【朋也】「けど、俺がもし、この先…ともの母親のように、どうしようもない状況になった時…」
【朋也】「おまえは、ちゃんとそばにいてくれるのか…?」
【朋也】「こんなことも乗り越えられないようじゃ、心配だぞ、俺は…」
(8月14日(土))

と言っている。このように、朋也自身は上記の田村カフカ少年とおなじ方向の強さを希求していると言えるだろう。

しかし、このような強さの対立図式は『海辺のカフカ』からのみ影響を受けたわけではないだろう。このような対立軸は実は『MOON.』から既に見られることだからである。例えば、ELPOD内での「もうひとりの私」(*10)からの示唆に対して、恥ずかしい自分を素直に認めつつも(*11)、淫乱な性欲に基づく願望を夢の中であっても求めてはならないこと(*12)が、その荒削りな作風の中から立ち上がる近似した傾向と言えるであろう。また、『Kanon』における天野美汐の「大きな痛みを受け入れて初めて生まれる、強さ」というものは、まさに本作と共通した試練の道を通過する、美汐の悲哀と慈愛に立ち現れているといえよう。特に、『MOON.』のELPOD内の「精神強度」(*13)のパラメタ上昇と同様の道を朋也は歩んでいる。前作『CLANNAD』において情けない自己を直視し、そしてここからは誤った道に流されてはならない、と自覚して生きようとするというここまでの道のりは、「もうひとりの私」やその世界に表れる葉子に抱く欲望をはねつけることで精神の強さを身につけていく過程と同じ道を示すものと言えよう。

そのような朋也の試練を超えた先にある「アフター」としての日々について、智代は、キーボードから記されるところで

まだ、本当の物語は始まってもいない。
ここから、長い間立ち尽くすことになる。
あの坂の下で。(*14

と述べるように、「アフター」の日々を智代自身が「立ち尽くす」日々と表している。精一杯朋也の記憶回復のために尽くした努力の日々が、それでも同じところに立ち止まっているという受け取り方には、一見、違和感が残るものかもしれない。しかし、本章で検討してきた強さの観点から言うと、記憶喪失であるはずの朋也から下記のような印象が漏らされることにより、まだこの時点では智代は本当の強さを獲得するに至っていないことが仄見える。

残っているものは…
智代に対する心許なさだ。
それだけがどうして残ったかはわからない…。
今、抱きしめているこの肩から伝わってくるようだった。
智代が、とてもか弱い存在に感じられた。
もしかしたら、本当の智代はもっと弱くて…
智代とふたりで暮らしていたおれは、そのことをずっと心配していたんじゃないだろうか…。
そう思える。

ここを経て、パソコンで記述される手術を受けさせる決心、実行、その後、未来に向けた生活こそが、真の強さということになる。上記のシーンの直後、朋也は、改めて智代におまえは強い、すごいやつだ、私たちの愛は永遠だ、と言い聞かせる。その言葉の導きによって、智代はパソコンに向かってこれまでの経緯を記すことのできる地点まで到達することができている。このシーンが朋也による軛の付与である面もあるだろうが、このことは、強くもあり、弱くもある、そのことが人間としての存在の総体である、ということも示しつつ、不条理や悲哀をすべて幸福に置き換えていくことのできる強さとしての到達点を示すエンディングへと向かっていく。

その際、一点留意しておかねばならないことは、智代がともと別れるときのシーンでの発言である。

【智代】「とも…」
【智代】「これから、どんなことがあっても…」
【智代】「どんなつらいことがあっても…」
【智代】「私はのりこえてみせるから…」
【智代】「だからともも…」
【智代】「がんばるんだぞ…」
【とも】「うん」
力強く、ともは頷いてみせた。
【智代】「どっちがつよくなれるか、競争だな…」
【智代】「まけないぞ…」
【とも】「うん」
(8月23日(月))

これまでは、従来までの競争的な強さというものは智代にとってマイナス面を表すものとして示され続けてきたが、ここで発せられた競争という言葉では、その内容が変質している。どちらかが敗れるための闘いではない、どちらも勝つ(克つ)べきだ、一緒に強くなろう、という意志表示である。智代自身はその地点に到達するまで3年という月日が掛かったが、ともは母の死に直面し、そして乗り越えたかどうかは詳らかにはされない。ただ、エンディングのCGにおいてほのめかされるのみである。農作業に汗を流すその明るい印象は、当然とももまた克服し強くなったといえるものではあるだろう。

ここで、上記のような各登場人物の位置づけを端的に示すものとして、オープニング等に使用されている、主要登場人物全員が集合した絵の意味について補足しておこう。このCGにおいては、画面左から以下の順序に人物が配置されている。

とも 朋也 智代 鷹文 河南子
(←進行方向)

この順序についても意味があるものと捉え得る。

疑似家族的なものを形成した彼らだが、最初にともが母親の死を受け止めつつも共に過ごすことを決心し、このコミュニティから旅立ってゆく。このことは、『CLANNAD』における「小さな手のひら」の歌詞「小さな手にもいつからか僕ら追い越してく強さ」を有することとも共通する。このことにおいて、ともは母親の死にきちんと向き合ったのに、智代は朋也に真に向き合えていない、一緒に強くなれていない、むしろともに先を越されてしまった、という負債の感覚を有することとなったといえるだろう。次に、朋也はそのともの行動を誘導し、強さの極致に至ることで、智代の立場からすると、ついて行けない感覚を有することになる。この点で、朋也は智代よりも先行く立場にある。このふたりの関係は、『CLANNAD』における渚と朋也との関係(*15)に一致する。

朋也&智代と鷹文&河南子の位置関係は先述のように、鷹文と河南子との間においても、今後朋也と智代との関係にあるような試練が待ち受けているであろうことが、「D&T」のエンディングから窺えることを指摘したが、このことから、鷹文&河南子は、朋也&智代の後を追う者たちという位置づけにあることになる。そうすると、この一連の絵におけるキャラクタの位置関係は、『CLANNAD』から『智代アフター』に至る一連の人間関係のあり方の根幹を成すサイクルを示したものと考えられる。

2.贈与の相互行為

前作『CLANNAD』では、幻想世界と現実の生活世界との相互関係、やりとりの結果をタイトル画面に集められる光球として表していた。この光球は、朋也が他の人物に思いを与えたり受け取ったりするやりとりがなされ、その蓄積の結果、当初は辿り着くことができなかった渚の生存、汐の生の継続、生活世界への「少女」の顕現(*16)のような奇跡が起きる。この光球の示すものは、一人ひとりの思いの交感が、「町は家族」という渚の台詞にもあるような、登場人物全員の一体性により成立する世界という印象を受ける。本作では、上記のような前作の象徴的モチーフによる道具立てがあるわけはないが、人物同士の相互行為という観点から検討を行う。

智代については、前章においても検討したとおり、他人を愛そうとする思いや尽くすという点では、一貫した意志の強さを発揮する。これは作中でも、朋也の生活を支えつつ自分も学生生活を全うしようとする。これは、智代自身による「だろう。ここまで尽くす彼女はそうそういないぞ。誇りに思え」(6月28日(月))という自負や、ともに対する絶対的な庇護の態度によって表されている。このような意志からやってくるともに対する態度は、擬似的な家族を構成してでもともを守ろうとする行動に表れてくる。ここには自己に対する見返りを求める点はあまり認められないが、擬似的な家族の形成については、自分自身がこれまで家族の愛情に恵まれなかった分、自分自身で愛情あふれる家族をつくりあげたいという意志によるものであろうことは十分に斟酌できる。この点は、郁未の母の「私が愛情に恵まれなかった分、この子には母親としての愛情を十分に与えてやりたい」という言葉や、それを受けて郁未が「私がそうだったように、親としての愛情を十分に与えて、育ててあげたいの」という考え方に連なるものである。

朋也においても、前章においても挙げた『CLANNAD』智代シナリオの最後に立てた誓いのとおり、智代の強さ、思いを受け取ったことで、智代のために強くあろうと努力を続ける。このことは、智代が河南子に対して「よくしていくこと、それが大事なんじゃないか?」ということばと対応しており、朋也と智代は相互に高めあおうという姿勢が見られ、互いの方向は一致している。このような真摯さは、朋也の行動によって示され続け、鷹文の心を開き、河南子を素直にさせ、ともと直子が一緒に暮らせるようにするなどの力となって周囲に広がっていく。最後まで自らの信念にこだわりを見せて朋也と対立していた智代も、最終的にはともと笑顔で別れることができた。しかし、朋也の意志力によって周囲の否定的な物事をすべて変えることができたと思えるような一瞬の達成の直後、すべては暗転し、その後、朋也は意志の力では如何ともしがたい記憶喪失、同じ日々の繰り返しという状況に陥ってしまう。

これまで、過酷な状況でも努力と本気で未来を切り開いてきたはずの物事が、すべて根本から崩れ去り、もう二度と実を結び得ないという不条理、悲哀の状況が全て覆い尽くす。しかも、朋也本人はその努力の道筋も、達成点も、全て思い起こすこともできなければ、不条理を感じることもない。むしろ不条理を感じるとすれば、智代がいつもそばにいることそのものに対してである。このような手の届かない感覚は、一度は朋也と永遠の愛を手に入れたという感覚を持った智代にとっては、絶望感を与えてあまりあるものであろう。しかし、朋也が智代の眼前で示し続けた、何事も投げ出さないことという力によって、智代は朋也に寄り添い続ける。ここでは、朋也の行為が、智代に受け継がれ、力を与え続けているということを示していると言えるであろう。

これらの相互行為は、もともとは『CLANNAD』において、智代から朋也が強さを受け取るところからスタートしている。このことが朋也の自分に課し続ける努力に繋がり、そのことが結果的に智代へと再び還されている。このような選手交代の劇は、『CLANNAD』における光球にも似たやりとりによって力が受け継がれていることを示し、思いの贈与とその連鎖が幸福をもたらすという、互恵性と言えるような素朴な感覚によるものである。

しかし、智代が3年もの間一心に続けてきた、投げ出さずに寄り添うという行為自体も、手術による治癒の可能性が示されていることで、まだ道の途中、停滞、先へ進めないという滞留であることが明らかにされる。そのことに気付かされるのが、朋也が自身の記憶がないにもかかわらず、この一週間だけで智代のことを好きになったことで発見する「永遠の愛」という観点によるものである。過去との連続性がないにも関わらず、出会いと自己紹介という一から始めた関係の中で発見する、従来智代が用いてきたものと意味の異なる「永遠の愛」によって。ここまでの達成をもって、真に朋也と智代の間での相互行為の完成を見ることになり、相手が記憶を失おうとも、死のうとも、そこにある美しさを見出すことを智代ができたという述懐を行う境地を最終的な達成として、ゲームは終幕を迎える。

本作中で朋也が自らに課し続けた努力は、智代のみならず、鷹文、河南子、有子、山村の人々など、数多くの人に影響を与え、そのことは皆、朋也から贈与を受けた対象とも言えるものである。このような状況は、『CLANNAD』の「渚エピローグ」において、人の思いが町の愛へと拡張されるような地点の達成点とも受け取れるような状況を作り上げる。前作では、そのような全体性への希求が達成されるような思いを抱かせる地点を一応の終幕としていた(*17)が、本作では、朋也の記憶喪失により、達成したかに見えた地点は一瞬で、その後は明らかに瓦解することになる。この点においても、「壊れるときは一瞬」(*18)の言葉は生きていると言うこともできるだろう。

上記の朋也の記憶喪失に見られるように、他者から希望を受け取ったものの、パートナーといえる『MOON.』での郁未に対する少年や『AIR』における観鈴に対する往人のように、贈与を行ったこれらの者は、命を失ったり、姿を消したり、記憶を失ったりしており、常になにかを失うという運命に遭遇することとなる点で共通している。『CLANNAD』においても、朋也に生きる希望を与えてくれた渚は、出産時に汐という希望を残して死に、腑抜けの朋也は汐との旅行を経て汐や直幸の母などから希望を得て再び家族として生きようと努めるが、その直後、汐は退行を始め、雪景色の町の中で死んでゆく。それらを経て、やり直しの日々の中で朋也自らが希望を贈与し続けることで得た光球をきっかけとして、一度滅びを経なければ辿り着けない迂遠な道を辿ってきた『CLANNAD』は、ようやくエピローグへと辿り着くこととなる。本作でも同様に、単純な右上がりの世界ではなく、幾度にもわたる挫折を経て、ようやく真の「永遠の愛」と言えるようなものを発見(*19)するに至る。

上記のような各作品中のプロットから分かるとおり、希望や力の贈与という行為は、贈与する者自身が文字どおり骨身を削り、命を賭して行われるものであるという共通項が見いだせるであろう。このことこそが、真の努力であり、軽々しく使われかねない「努力」「本気」という作中の言葉の内実であることから、贈与という相互行為自身が、魂を賭した産物であるということが浮かび上がってきた。これは、贈与を行う人物自身が「世界を変える」などといった大きな物事に1対1で対峙するのではなく、眼前のひとりに対して行う個別の行為の結果によるものであり、ここでは、全体性の希求という意識は見られない。

全体性への希求に向かおうとしない意識は、智代によって発見されることになった、一からやり直しても再び愛し合うことができるという、「永遠の愛」の奇跡によって、智代自身の個別性として改めて位置づけられる。ただ、そのことは、智代自身の達成に基づいて他の人の達成を支援し続けるという態度となって表れており、個別性の中での各々の人の達成を支援するという、パソコンのディスプレイを前にした人に対する個別性ということで、朋也の行為と継続した態度が貫かれている(*20)。このような行為の継続性が前作『CLANNAD』から本作まで一貫していることで、互恵性により構成される世界においても、『CLANNAD』のように全てが丸くおさまるような幸福な状況もあれば、『智代アフター』のように過酷な日々を経てようやく辿り着く一片の幸福への認識に辿り着くという両極端の状況があり得ることを並置することで相対的に示している。

3.ふたつの「永遠の現在」性

前段において検討したように、思いを伝えていくことは、他者に対する贈与が一方的ではなく相互行為として連綿と受け継がれていくということを見ることができた。しかし、このような美しい行為の連鎖によっても、本作においては、山の頂きに、高みに向かうように、その達成地点にまっすぐ向かっているかというと、そうはなっていない。数多くの尾根と谷を跨ぎ、長い滞留の日々を経て、ようやく幸福に対する認識を得たところでようやく終幕を迎えている。

その地点に到達するまでの間、智代からは何度となく「永遠の愛」という言葉が発せられるが、智代の有する永遠性に対する認識はどのようなものであったのだろうか。本章は、この点を中心に検討を行うこととする。

まず、智代が作り上げようとした世界は、幸福な家族、子も親もいつも笑っている家庭といったものを望んでいたことは、親に捨てられたともを引き取る場面での誓いからも明白である。

【智代】「もう、終わりだっ…」
【智代】「とものつらいこと、ぜんぶ終わったから…」
【智代】「これからは楽しいことだけが待ってるから…」
【智代】「私と過ごす毎日が待ってるから…」
【智代】「絶対それは楽しいから…」
【智代】「な、とも…」
【智代】「だから…もう安心しろ…」
【智代】「不安なことなんてなにもない…」
【智代】「後は全部楽しいから…」
【智代】「な、とも…」
(7月11日(日))

この言葉は、一時の慰めにはなっても正しい言葉ではあり得ない。もっと辛辣な言葉を突きつけるなら、欺瞞である。このようにあってほしい、こうでなければあまりにも理不尽だ、という智代の切実な訴えであるが、その願望のとおりに人生が運ぶわけではないことは、智代の過去の経験を見れば分かるとおりである。しかしながら、それでもそう望まずにはいられない状況であろうことは彼女の状況を見て斟酌できる。それは、このようなことを願う智代にこそ、その先にもっと辛い日々が待ちかまえていることでも逆説的に示される。このようなことは、『MOON.』における「現実とはいつもこんなふうに過酷なものだよ」以下の少年の言葉(*21)と同種の「過酷な現実に対する受容の慣れ」のような認識を抱かざるを得ない。

しかし、智代は自分の発言に責任を持とうとし、上記の誓いに端を発し、朋也(父)、智代(母)、とも(子)という疑似家族の形成に至ることになる。この関係の維持に執心する智代は、自分が恵まれなかったようにともをさせるまいという努力により、これまでに築いた良き日々を永遠に継続することを願う。このような思いは、固定的世界への執着として、本作中における智代の執念として随所に現れることになる。これは、『ONE』になぞらえて言うならば、智代が作り上げたとものための「永遠の世界」と言えよう。これを本作中で言い換えるならば、朋也が住むアパートの一室で繰り広げられる夏休みの日々はさしずめ「永遠の夏休み」とでも言ったものだろう。全ての悲しみから目を背けようとする智代は、みずか的かつグレートマザー的な存在と言うことも可能かもしれない。 しかし、プレイヤキャラクタの朋也は、ともは死にゆく母とともに過ごすべきという考えで一貫しており、ともを母の死という過酷な状況からスポイルすることをよしとしない。このことは、朋也が唯一夏休みの存在しない「永遠の夏休み」から外部にある人間(*22)であることから導き出せることとも言えるだろう。

この疑似家族の継続・執着に依存した方向に突き進むことは、すべからくBad End(*23)となる道筋がつけられている。この方向性は、朋也の態度のみならず、鷹文がグレた際に発する冗談のような言葉の中からも同様の認識が漏らされており、この作品の周到さが垣間見られる。

【鷹文】「ねぇちゃん」
【鷹文】「人はいつまでも無垢のままいられないんだよ」
【鷹文】「いつか人は大いなる悲しみを知る」
【鷹文】「それは人が生まれてきた時に運命づけられていることなんだ」
【鷹文】「でもそれを乗り越えていけるだけの力が人にはある」
【鷹文】「そこから悲しみとの融和が始まるんだ」
【鷹文】「人が人らしく人であるために」
【鷹文】「僕も、もう無垢ではなくなってしまったから…」
【鷹文】「だから無邪気なままのともがこんなにも愛おしい」
【鷹文】「この世の摂理とはこんなにも尊く、悲しいんだね」
(中略)
【鷹文】「みんなにもわかる日がくるさ」
(7月12日(月))

ここでは鷹文がロリコンになったという茶々が入れられ、まともに受け取られることはないものの、この言葉を、ともを悲しみからスポイルし続ける智代に対する言葉と受け取れば、朋也の意見と一致した点が見いだせるであろう。実際には、鷹文も走ることと河南子に対する挫折を有しているからこそ、このような言葉が発せられたのであろうが、この後の朋也の行為により、「悲しみとの融和」という現在の滞留を越え、河南子と過ごす新たな地点へ至ることになる。

このように、幸福な日々が永続することの希求は、『ONE』における所謂「永遠の世界」に類するような、過去の際限のない延長としての永遠性、簡略化するならば、「永遠を現在にする」という方向性を有したものである。「永遠の世界」が後悔に彩られた世界であったように、ここに留まることは、いつしか壊れ、全てを失うこととなる。それは、『ONE』において長森との曖昧な関係を続け「いつしか遊びは終わるってことを」の言葉でBad Endを迎えるように、同棲というままごとのような関係(*24)にもいつしか壊れるときがくることを暗示し続けている。

このことは、過去の作品でも最終的には「永遠の世界」に位置づけられる世界を脱して新たな世界へと向かうように、一貫して否定し乗り越えられるべき存在として位置づけられているように見える。しかしながら、このような世界は一概に否定されるべきではなく、むしろ功の面を有することが、河南子の告白から示されている。

【河南子】「ずるずる居座ることになっちゃったけどさ…」
【河南子】「実はさ、あたしさ…」
【河南子】「こんなこと言うのがらじゃないから、すげぇ恥ずかしいんだけどさ…」
【河南子】「救われてんだよ」
【河南子】「すごく」
【河南子】「だってさ…」
【河南子】「あの頃みたいなんだもん」
【河南子】「一番楽しくて、幸せだった時…」
【河南子】「みんながいて、一緒に馬鹿やって、盛り上がってたさ…」
【河南子】「それで、あいつが…いつもそばにいてくれて…」
【河南子】「まるで、毎日がさ…」
【河南子】「あたしが一番幸せだった時みたいなんだもん」
【河南子】「すごく楽しい…」
【河南子】「ありがとう」

本当に…
ありがとう。
(7月29日(木))

朋也・智代の疑似家族は、過去の幸福な日々を想起させ、いつもひねくれていた河南子をこんなに素直にさせるほどの力を有している。このことは、幸福な日々の永続することはないが、再び旅立つ時にはきっとこころの奥底で力になっている。これは、鷹文も中学の部活の仲間といるような気になっていることを告白することから、彼らふたりの中で、次の日々への力になっていくであろうことが共通していることからも、疑いようのない事実である。このように、安心できる場所づくりがテーマとなっていたものとしては、『CLANNAD』においても、宮沢有紀寧シナリオにおける彼女のいろいろな人と繋がろうとする努力と安心できる資料室をつくりあげてきたことに近似した点が窺える。

このことに対するかのように、先述の「永遠の世界」に類するような同じ時間を繰り返す日々というものは、幸福な時の固定だけにとどまらない特徴を有している。これは、『ONE』においても示されていたように、

なにも失わない世界にいるぼくは
なにをこんなにも恐れているのだろう。

という不安の心境をも同時に有するものである。本作中でこのような状況を示す例としては、山村で暮らす人々が、ちょうどその変わらない世界の固定化による安住とそれにもかかわらず有する、外部からの恐怖と不安という二面性を表していることとも共通している。しかし、このような世界であっても、朋也の努力と本気に加え、河南子の境界を感じさせない物怖じのなさ(*25)によって心を開かれ、全員が未来を志向し前向きとなってともを迎えることとなる。このように、山村の人々が例え固着した「永遠の世界」に類する状況にあろうとも、人が生きている限り、不変の場も可変であることを示す例となっている。

これと同様に、朋也の記憶喪失後、智代による懸命の看病が続いた3年間もの日々もまた、山村の人々と同様の変わらない世界への固執というところに位置づけられる。このように辛く苦しい日々であっても、幸福にあり続けたいと願ってともと暮らした疑似家族と同様の固着性と言えるのか、という疑問もあるだろう。しかし、どんなに苦しい日々にあっても、ただひとつ、朋也を失うかもしれないという事実に直面する必要のない日々であった点を挙げれば、如何に記憶回復への努力を続けていようとも、やはり固定的世界の維持・執着に寄与するものであり「立ちすくむ」状態である。このことは、実践しながら智代自身も自覚していたことである。それが「私ひとり逃げていたんだ」という言葉に端的に表されている。

智代の看病の日々に対する切ない印象を受けるのは、その辛さそのものや長い日々自体に対するものばかりでなく、ここまで過酷な状況にありながら、それでも1本の藁のようになってなお存する固定的世界への執着の断ち切れなさを目の当たりにすることで、プレイヤ自らに存在する過去のよき日々への退行の感覚を揺さぶり、我が身にも存在する人の業そのものを印象づけることで成り立っているものだからである。このことは、『CLANNAD』冒頭における渚の台詞「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです」という変化に対する感傷とも逆説的に連動する。そして、これらのことは、我々の記憶そのものが有する問題でもあるのだ。

そのような看病の状況の中、朋也は、僅かな1週間の日々の中で、智代との関係がほぼまっさらな状態から始まり、智代のことを心底好きだという感覚を得て、3年目にして初めてそのことを口にする。このことは、朋也の記憶が戻って智代のことが好きだったこと思い出したのではなく、1から始まって改めて同じ人を好きになったことが重要なのである。このことは、朋也の独白にも以下のように表れている。

この子を、不安にさせたくない。
悲しませたくない。
幸せでいてほしい。
ずっと、穏やかでいてほしい。
そんな気持ちが、心の底からわいてきた。
それは、おれが記憶を失い、結果彼女を悲しませてるからじゃない。
過去のおれは関係ない。
今のおれが、この一週間、彼女のそばにいて、自然にわいてきた感情だ。
おれは智代と一緒に居たい。
これからも、ずっと一緒に。
この気持ちを、きっと…
恋と呼ぶんだ。
(アフター7日目)

中学生までの記憶しかないため、朋也にとっては常に初恋の自覚であるように、いつも始まりの場所から改めて始めることができると言うこともできる。この点により、智代が学校を始まりの場所と認識していることと同様の共鳴が見られ、智代が「これは、始まりだ」とパソコンの画面に打ち込んだように、全てが失われても、何度でも、新しく始めることができるという新しい永遠性への気付きが、朋也の告白によってもたらされることとなった。このことは、恒久的な変化としてある現在を永遠とすることと言えるだろう。先述の固着的永遠性について、「永遠を現在にする」という記述を用いたことと対照的に述べるなら、「現在を永遠にする」といえよう。この自覚により、智代は朋也に手術を勧め、「もう終わらせよう…この繰り返しの日々を」という投げかけを行う。ここにおいてようやく、智代の止まった時間は今動き出した(*26)。この境地にいたって初めて、河南子に揶揄された時に智代が答えた「ずっと続いていく何か」の正体、変化の中にこそ永遠の愛を見出すことに至ったのであろう。

上記の言葉の背景については、作品を遡って辿っていくと、ゲーム開始冒頭の性行為の場面で鷹文に記憶をなくすよう指示する智代(*27)、恥ずかしさのあまり智代自身が記憶喪失になるのかという状況になること(*28)、河南子が智代の言う「永遠の愛」に反発し、「そんな自信あってもさ、事故かなんかでぜんぶ記憶なくしちゃったらおしまいじゃん」(7月12日(月))と揶揄することや、共感のきっかけに対し「一時の感情」、「そのときの雰囲気、それだけ」(7月13日(火))と批判することなど、記憶喪失に対する言及が繰り返されていることで、作中での記憶と忘却に対する意識喚起が、背後に流れ続けていたことに改めて意識せざるを得ない状況を醸し出している。また、山村の人々が得た積極性や前向きさを管理人は「一時の感情かもしれない」と言う場面もある。これらの言葉の共通性を含めて穿った見方をすれば、事前よりの示唆、作品の一方向性への流れの示唆を示すものと考えられなくもない。しかし、そのこともまた、記憶に依らない愛の形を示す意図が作品冒頭よりあってこその表現とも受け取ることができる。その試みは、上記ふたつの永遠性の示唆によって、どのように示されているのだろうか。

ふたつの対照的とも言える永遠性は、正反対の方向を向いているように見えて、その実は一連の流れであると考えられる。これは、2つ目の恒久的な変化としてある現在を永遠とする境地が、1つ目の、現在の幸福を永遠に継続することを求めることによって得た絶望、挫折、世界への呪詛といったものを経なければ、気付くことすらできないものであるためである。このように、真の幸福とは、失ってみなければその価値を理解できないものであり、失って初めてかけがえのないものであったことに事後的に気付く。この一連の流れは、『CLANNAD』において一度渚と汐の喪失を経なければエピローグに到達し得ないこと、『AIR』における往人の消滅や、観鈴の記憶喪失を経て家族の再構成を達成することで直後のゴール到達から少年少女が無限の終わりへ到達するに至る道を辿ること、『Kanon』舞シナリオにおいて、祐一が「もう目は開きたくない」といって舞との幸せな日々を送る世界に落ち込んでいった後に表れる「だからよろしく、未来のまいを」という言葉をもって表れる未来という希望、『ONE』の浩平が周囲の人からの忘却やヒロインとの別れを経て、消滅後に「永遠の世界」を旅する位置において気付く日常のかけがえなさ、『MOON.』において少年の死亡後に郁未が少年から受け取っていたことに気付く希望など、全ての作品に共通して現れる出来事なのである。

全作品に共通してみられる上記のような喪失と事後的な幸福の発見は、第1章で朋也が求める強さがなければ得られないものであり、他者の思いを受け取ったり、返したりする相互的な行為の結果から強さを身につけることとなる。このことは、強さを身につけていくことで、第2章で見られた贈与の相互行為により、ひとりでは得ることのできなかった境地へ到達するという考え方でもある。このことにより、恒久的な変化としてある現在を永遠とする境地は、自己完結によっては得ることのできないものであり、外部からの否定的圧力(*29)と、肯定的な力(*30)との両者によってもたらされるものという位置づけがなされている。

上記の流れのように、智代が朋也との間で贈与の相互行為を経てきたことによって智代がコンピュータの前で書き込むに至る境地に達したため、何度でも新たに始めることができるから、「私はもう二度と絶望はしない」という書き込みを行う心境に智代は至る。さらに、この相互行為を経ることによってパソコンの前で書き込みを行うような境地に至ったのであるから、自らが受け取ったものをさらに他の人々に贈る立場に立っているため、この連鎖を広げ、皆が幸せにいたることができるよう、他の人への支援を求めてもいる。

このことは、『MOON.』のラストにおいて、成長した娘の未悠との会話の中で、

「この子はね…」
「はい」
「私がそうだったように、親としての愛情を十分に与えて、育ててあげたいの」
「ええ」
「でもいつまでも甘えていちゃだめ」
「大きくなったら、ひとりで生きてゆけるような強さを持ってほしい」
「そして…」
「それを最後まで、私は見届けてあげる」
「ふぅん…」
「この子の母親としてね」

という場面で、郁未が娘の未悠の成長を見届ける、と言うのと同様に、

あなたはひとりきりじゃない
私がここにいる
いつまでも共にゆくから
だから安心してほしい

それが私が
彼と共に歩んで
一緒に見つけたものだから
(エピローグ)

と智代が書き込みをすることで、突き放さず、投げ出さず、共に歩む意志を示している。先述の、何度でも新たに始めることができる、ということを挙げると、このことは、人と人との間が例えどんなに遠く分かたれたとしても、また一から新たに関わりをつくり、その関わりを続けていくことができるということでもある。このようなコミットメントへの意志の表れとして、上記の「共にゆく」という発言がなされているものである。

このように、どんな状況にあっても「最後まで目を閉じず」(*31)、人生の不条理を引き受け、それでも自らを幸せと言える、その強さ、その関係、その「いま」の形成を自らの実践によって作り上げ続けることこそが、本作中で迂遠な道を経て辿り着いた境地なのであろう。このことは、最終的に、記憶を失ってもなお共にあろうとする意志とそれを他の人々に伝えていこうとする本作と、郁未が母に他者として会いに行き、自らもその思いを娘に同様の形をもって伝えていく『MOON.』とに非常に近似した感触を有するものである。それを宗教施設という閉鎖空間と修行という手法の中で獲得し、最終的な境地に至ることが表された『MOON.』と異なり、日々の生活描写をもとに表現されたものとして、本作を受け取ることができるであろう。そのため、恋愛ゲームとはいいながらも、恋愛の成就によってゲームが終了することはない。これは、恋愛の成就を一つの通過点としてのみ扱った『AIR』以降、その先の人生の全貌を掴み取ろうという意志が見られる『CLANNAD』を経て、本作もその流れに追随する経過を辿っていることといえるだろう。

4.まとめ ―Life is like a "Pendulum"―

本章では、これまでの検討と同じ題材を扱いながらも、少し切り口を変えて検討を行ってみることとする。まず、贈与の相互行為における負の側面の存在について指摘したい。これは、贈与を行った者がその与えたことを記憶していることで起こる問題である。例えば、朋也のような記憶を失い続ける者に対峙する際、「私はこれだけのことを朋也にしてやった。だから、もう記憶を取り戻してもいいはずだ」という願望を募らせることになることがある。このような満たされない思いは、叶わないことそれ自身が記憶として個人の心の中に淀みとして蓄積されていく。

上記のことを1章で取り上げた勝負事の観点に置き直してみると、智代がともの母に成り代わろうとして、

【智代】「みんなで過ごしたきた時間は、楽しくなかったか?」
【朋也】「楽しかったよ、幸せだった」
【智代】「よかった。私もだ」
【朋也】「でも、ともはつらかったはずだ」
ここでも俺は智代を突き放した。
【朋也】「笑っていても、楽しそうでも、いつも、母親のことを考えていたはずだ」
【智代】「じゃあ、私のがんばりが足らなかったんだな…」
【智代】「うん…」
【智代】「もっとがんばろう…」
(8月14日(土))

上記引用のように考えていたことと同様の誤った強さを発揮する状況がまた頭をもたげてくる。これを朋也と智代との関係に置き換えるならば、智代にとっては、朋也の記憶を取り戻すことができれば勝ち、できなければ永遠に負け続けるしかないという状況へと自らを追い込んでいることになる。このことを智代も分かっているからこそ、朋也の記憶を取り戻すべく懸命の看護を行う日々を「ここから、長い間立ち尽くすことになる」との認識をパソコンの書き込みで示したり、「繰り返しの日々」という停滞・滞留として捉えたりすることとなる。

これを打ち破ったのは、朋也の「好きだ」の言葉だが、これは記憶のないままに発せられたことで、失われても何度でもやり直すことができるという新たな永遠性を発見したということを前章で指摘した。このことを朋也の立場から見直してみると、拙稿「彼方の記憶」(*32)で示唆していたように、忘却そのものが鍵となって立ち現れてくる。忘却により新たに紡ぎ出され続ける思いこそが、恒久的な変化としての永遠性に至る道であることを図らずとも示している。このことは、先の贈与の相互行為において、記憶があることが思いの叶わないことが心の中の淀みとして沈殿・蓄積してしまうことと逆説的な関係を有している。

上記のことをふまえると、贈与したことそのものを忘れ去ることによって真の純粋な贈与は最終的に完遂するものであり、そこから生まれた無私の愛こそが最も純粋な愛であるという逆説的な愛の表現とも受け取ることができる。このような愛の形は、『CLANNAD』において、どこに関係づけられるか知れない無私の贈与の継続が、光の球の蓄積となり、結果的に岡崎家の家庭円満と樹下の少女の顕現に繋がったこととも関係が見られるだろう。このように、恋愛を描きながらも当事者同士の思いの強さを真っ向から描くのではなく、すれ違いとズレを基調にして描かれる背景には、思いの強さこそが真実であるならば、その強さがインフレーションを起こしていくことしか物語を駆動していく力とはなり得ないという醒めた認識を持っているからではなかろうか。このような表現は、どんどんエスカレート・インフレーションしてゆく一本道としか表現され得ず、これをもって人間の真実の姿とするにはあまりにも単純であるだろう。そのため、『AIR』にも見られたような、ぎりぎりのバトンパスで繋いでゆくような物語が紡がれ、最終的には固着性を有した灰色の世界から、「夕凪が頬を染める」(*33)海岸の鮮やかな夕焼け空という"Light colors"の世界に辿り着く。エンディングに敢えて組み入れられた、砂浜(陸)と海をふたつに分かつCG、海に向かって立つ智代らの人物像に見られるように、『AIR』のラストとの整合性が見られることもまた特徴のひとつである。

このように、本論では、過去の作品との検証の中で論を進めてきた点もあるが、ここまでの感触から、Tactics/Keyの一連の作品を大まかに分けることのできるモチーフについて1点提示したい。この指標は、必ずしも作品全体を詳細に検討したものとは言えないが、ラストの印象をもとに大まかに分けることができるであろう。この分類の指標は、作品の終盤において、主人公とヒロインとの関係がどうなったかに注目することによって大きくふたつに分類することができるものである。そのひとつは、主人公とヒロインとがその仲を分かたれ二度と会うことのない「さよならの系譜」、もうひとつには、主人公とヒロインが分かたれたとしても、再び相見えることになるという「ただいまの系譜」と名付けることとする。この観点から、過去の作品を時系列に並べると以下のようになる。

「さよならの系譜」 「ただいまの系譜」
『MOON.』(主人公(郁未)とヒロイン(少年)の立場は逆) 『ONE〜輝く季節へ〜』
『Kanon』沢渡真琴シナリオ 『Kanon』川澄舞シナリオ
『AIR』 『CLANNAD』
『智代アフター』 『Dungeons & Takafumis』

このように並べてみると、麻枝准氏による処女作『MOON.』から始まり、時系列順にきれいに振り子運動を続けていることが窺えるだろう。しかしながら、あくまでもこの分類は主人公とヒロインの最終的な関係づけにのみ注目したものである。このような表面上の展開によらず、固定的世界への執着の願望に基づいて生まれる、過去の際限のない延長としての永遠の世界という固着性を否定はせずとも「大切に仕舞っ」て(*34)、新たな地点となる恒久的な変化としての永遠性へ向かおうとする姿勢が、全ての作品に通底していることの方が重要であろう。これらふたつの「永遠の世界」は表裏一体の関係にあり、固定的世界の意義も否定されるべきものではないことは第3章において言及したとおりである。時に強く、ある時には弱くもなる人間という存在は、上記の作品の印象をもとにした振り子運動に類するように、これらふたつの永遠性のもとを行ったり来たり、振り子のように揺れ動くものであるという認識が、Tactics/Key作品における最も大きな特徴ということができるであろう。

(注)

(*1) Bad Endへの分岐の位置によっては、直接破綻したことへの言及もある。

(*2) テレビアニメーション『うた∽かた』における「試しの季節」にならい、この用語を使用。

(*3) 格律とも書く。maxim。行為規範。

(*4) 『AIR』でいうならば「高み」にあたるような位置づけ。

(*5) 思いが通じ合ったというだけでは、恋愛関係においてはまだ開始時点にすぎない。しかし、ほとんどの恋愛ゲームではそこが終着点となってしまっている。それを過ぎた先の新たな家族の形成や人生の岐路を描こうとした『CLANNAD』から、恋愛のその先という視点を既に有している。

(*6) 以下「D&T」と略記。

(*7) 自己中心的で子どもっぽい河南子は、自分を姫と設定する。そして、その子供っぽさが三島有子と山村の人々に積極性と未来を与えることになる。

(*8) みんなでともに嘘を教えたときつくられた法螺話がもとになっており、この世界に100人いた鷹文のうちのひとりで既にオリジナルは亡くなっている。

(*9) 村上春樹『海辺のカフカ』下巻(新潮社,2002年)33章 p.155。

(*10) 所謂「ドッペル郁未」。自己規定としての記憶と物語化(自己の物語化及び物語の交錯論−1)も参照。

(*11) ELPOD前半では、過去の恥ずかしい(または、穢れた)自分の有り様を認めること。

(*12) ELPOD後半では、性欲に流されないよう、自分を律する強さを持つ必要があること。

(*13) クリア後のおまけRPGのなかの、T棟(T=Tactics)におけるだ〜まえ(麻枝准)によるスタッフコメントにおいて、ELPODでの選択によって上下するパラメタを「精神強度」と呼んでいる。

(*14) 8月23日(月)とアフター1日目の間に表れるパソコンによる書き込み。

(*15) 朋也と渚の間においても、強い立場と弱い立場は逆転するが、ここでは、朋也が渚に置いて行かれる感覚を持つこととなる、after story1周目の時期を指す。

(*16) 『光見守る坂道で』第16話とゲーム本編との連関についてにおいては、後日談の中でこの少女が神隠しにあった汐が渚の病気が回復した場所で発見されたと記されているが、『CLANNAD』本編中ではゲームミュージックのタイトルとして仄めかされる点で汐と想定されていることは理解できるものの、汐の神隠しのような事件を仄めかす情報は一切存在しない。

(*17) 私見では、風子が現れ、ワンピースの少女が木の根もとで発見される「エピローグ」により、家族の完全性に対するある程度の留保、相対化が行われると考えている。

(*18) 『ONE』における浩平の述懐。

(*19) 到達という明らかな達成よりは、発見というささやかな達成という印象が強い。

(*20) この意志は賞賛されるべきだが、論者が『智代アフター』において最も不満な点として考えているのが、ネットを通した私的な相談というレベルで智代が落ち着いていることである。悩める人への真の支援を目的とするなら、専門的な資格やスキルを身につけ、しかるべき立場で実践しようとするはずではないか。智代なら多少の遠回りを経ても、これまで幾多のハードルを越えてきたようにそういう立場に立てるはずだ、という疑問が残る。

(*21) 自己規定としての記憶と物語化(自己の物語化及び物語の交錯論−1)における冒頭に同一箇所を引用しているので要参照。

(*22) 夏休みのような長期の休暇がなくなり、常に仕事や外部と対峙し続けなければならない大人の姿は、いつでも「過酷な現実」に耐え続けなければならないという逃げ道のない立場を象徴したものとして表されていると考えることができるだろう。

(*23) Bad Endへの道筋は常に、智代の同棲→性的堕落→坂上家騒動の予感もしくは現実化、という形を取る。

(*24) 本作『智代アフター』こそ、麻枝准氏が『MOON.』のスタッフコメントで盛んに言っていた『同棲』(Tactics,1997年)の続編(という位置づけのカウンター)である、というのは論者の単なる邪推だろうか。そこには、智代の誘惑に敗れるとBad Endという本作の位置づけが、『ONE』において「大好きで大切な長森は、そんなに簡単に抱いてしまってはいけない。」と思う意識や、七瀬を大切にしない、校舎内での性交に走るとBad Endという意識と通底しているものがあるのではないか。そしてそれは、『同棲』の軽さとは対極にあるものである。

(*25) それは誰のことも信頼するという点で子供っぽさとも捉え得る。

(*26) 『MOON.』における「葉子さんの止まった時間は今動き出した。」と対応。

(*27) 

「鷹文、記憶をなくすんだ…」
「おまえは今から記憶喪失になる。よし、いい子だな…」
「はい、スタート」
(7月2日(金))

(*28) 

【智代】「どこだ、ここは? おまえは誰だ?」
【朋也】「おまえが記憶喪失になるのかよ…」)
(7月2日(金))

(*29) 外からやってくる不条理、悲哀など。

(*30) 贈与された強い思いや、努力や本気など、内心の変化によるもの。

(*31) 「Light colors」歌詞より。

(*32) 彼方の記憶(『CLANNAD』論)を参照。

(*33) 「Light colors」歌詞より。

(*34) 「Life is like a music」歌詞より。


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