初出:ONEGRAD-SS 1st March (2001年4月29日)
また、大学という日々の中へと舞い戻る時がやってきた。大学に来ると、ちょっとした空き時間のうちに過去を振り返り、考え込んでしまう。考えなくていいだけ、実家でバイトにいそしんでいる方が精神的に楽だったかもしれない。でも、始まってしまったのだ。2年生の春がまた。
今日は始業日。在校生は新入生より1日早く授業が始まる。そのせいで休講が多く、午後にはすっかり手持ちぶさたになってしまった。暇になると、久々に訪れるキャンパスの中を散歩する。農学部、獣医学部も同じ敷地に併設されたこの大学では、散歩の場所には事欠かない。全く武蔵野のど真ん中にあるにしては贅沢な大学だった。
歩いていくうちに、馬術部の前に出た。丁度ほのかが馬を引いて馬房から出てくるところだった。これから輪乗りを始めるところらしい。
「やぁ、久しぶり」
「やぁ、じゃないよ、もう。実家に帰っていたんでしょ。全然連絡ないから心配したよ」
「悪い悪い。競技会が迫っていると聞いたけれど、調子はどう?」
「うん、まぁまぁだよ。1年コンビを組んできて、この子との息も合ってきたし」
「ほんと、去年から乗馬一直線だもんね。なにしろヒップが10センチも大きくなるほど乗り込んでいるみたいだし」
「もう、やめてよね、そういうこと言うの」
「あはは。それじゃ、見ているとうまく跳べなそうだから、練習のあいだは向こうに行ってるよ」
「ありがとう。気を遣ってくれて」
「ううん、そんなんじゃないよ。それじゃ、また後で」
「うん」
グランドの隅の土手沿いに、一列に桜並木がが続いている。今年は春の訪れが早く、4月頭だというのにもう散り始めている。その並木の下に陣取り、桜吹雪を身体に浴びる。まるで桜の木が涙を流しているかのようだ。その桜吹雪の間から、グランドを走る人の姿が見えてきて、私はふと目を逸らす。逸らした視線の先に、いつもつるんでいる同じクラスの悪友たちが現れた。男女合わせて10人ほどが、手に手に大きな荷物を抱えて歩いてくる。
「よう、どうしたんだ、一人で物思いに耽っているなんて、らしくないな」
「季節柄、おセンチな気分なのかい?ははっ」
「そうかもしれないねぇ。桜の散るのが何となく悲しげでさぁ」
言い方がちょっと大げさだったせいか、奴らは顔を見合わせる。
「おいおいおい、どうしちゃったんだよ。お前は『桜は散っても来年またきっときれいな花を咲かせてくれる』とか言うのーてんきなタイプだと思っていたのによぉ」
「のーてんきはひとこと余計なんだよ」
「まぁ、前向きってことにしとこうぜ」
「そ、ものは言いようってこと」
「おお、そうだ。明日の入学式、新歓の手はずは整えておいたから、よろしくお願いしますぜ」
「お前がいないと盛り上がらないからな」
……忘れていた。この大学では、同じ学科の新入生を、上級生たちがこぞって歓迎するという風習があることを。まったくよくやるよ、東京の大学でそんなこと。
「ふぅん。お前らは自分でやろうって気はないの?今日なんか自前で何か始めようってのに」
「騒ぐだけなら簡単だけど、肝心な所できゅっと締めてくれるヤツがいないとねぇ。なにせ、大事な後輩との初対面だぜ」
「俺たちのバカ騒ぎだけじゃ付いてこないしな」
「わかっとるやん」
「まーそういうことだ。頼りにしてますぜ」
「するなって」
「んじゃ、おれたちはこの美しい桜の下で花見といきますが、どう?一緒に前祝いでも」
「ばぁか。明日の予行演習とかいって、二日酔いになっても知らないぞ」
なんだか、今日は奴らの誘いに乗る気分にはなれなかった。
頼りにしている、と言われても、いつもバカをやりながら騒いでいても、埋められない何か。たくさんの仲間がいても、時が経てばみんな自分の中を通り過ぎていく。後に残るのはちょっぴり苦い後悔と、悲しさだけ。どんなに親密になったとしても、いつかは別れる日が来る。さよならだけが人生だ、とは本当によく言ったものだ。
でも、ここには、似たような痛みを持った人がいる。もちろん、彼女の痛みと同じなんてことは言えない。でも、なんだか通じ合えるような気がする。それは、あの葬式の日に彼女を垣間見た瞬間から、そう感じたこと。それはもちろん身勝手なことだけど、そう思い込まない限り、自分がなくなってしまいそうで、それで……
気が付くと、また馬術部の前にいた。丁度、ほのかが最初の試技を終えて戻ってきたところだった。馬上に跨る彼女を見上げると、なんだかいつもと違って覇気が感じられ、こっちもつられて背筋を伸ばした。
「いつものカメラの彼は来ていないみたいだね」
「うん。」
「あいつがいないと寂しいんじゃない?」
「そんなことないよ。私に会いに来ているのか、馬に会いに来ているのか分からないし」
「そうだよな。『ジャンプした瞬間の、力強い馬の躍動感と、それを御する騎手の冷静で、かつ情熱的なまなざしの瞬間をカメラに納めること』が目的だって力説していたもんな。このあいだは」
「でも、最近は素人集団のうちの馬術部だけじゃ物足りないみたい。競馬場に足しげく通って、狙った馬が狙ったシチュエーションで勝つ、その瞬間を撮るのが夢なんだって言っていたよ」
「へぇ、どんな馬なんだろうね」
「それがね、去年の春に大きなレースを勝ったきり、一度も勝てないんだって」
「はっはー、あいつめ、すっかり疫病神だな」
「ひっどーい」
「でも、なんでそんなに特定の馬こだわるんだろう。どの馬だって同じくらいきれいなのに」
「私が乗る馬にひいき目になるのと同じで、きっと、なにかの理由で魅了されたんだろうね。そして、そのうちにそれがすがりたい気持ちに変わっていくの。一緒だよ。私がピュア・アイにすがっていたことも、あの人にすがっていたことも」
「すがりたいって、まるで、人ごとのようにさらりと言うね」
「だって本当のことだもの。それは一緒でしょ。夏穂も。あの人と、走ることにすがって……」
「私は……、私は、捨てたから」
……あれ?
言ってしまってから、その声が虚ろに響くのを感じていた。……違う。自分の中の何かが、自分の言葉を拒んでいた。その声は、空っぽのはずの自分の中で反響して、そして、自分の中を埋めていった。そして、それが何か自分を突き動かすものになろうとしている……。
ぼうっとしていたせいか、ふと気が付くと、ほのかが心配そうな顔で私をのぞき込んでいる。
「ごめんね、悪いことを思い出させちゃったみたいで」
「ううん、自分でもちょっと言いすぎたかなぁって思って」
「え?何に?」
「ははっ、何でもない。それよりさ、一緒に行ってみない?その負け犬……じゃなかった、負け馬を見にさ」
「いいけど、どうしたの?突然」
「いやぁ、何となく。勝ち続けている馬より親近感持てそうじゃない」
「ひどい言いぐさ。馬に対して失礼な態度はこの私が許さないから」
「ごめんごめん。お詫びに乗馬の練習、最後までつきあうよ。終わったら一緒にごはんでも食べにいこう」
「ふーん。珍しいね。初めてじゃない、まともに練習を見てくれるのって」
「ま、いいからいいから。この夏穂さまに見られて、蛇ににらまれた蛙のように立ちすくまなきゃいいけどね」
確かに、乗馬をまともに見るのは初めてだった。陸上をやめて以来、「走る」と名の付くこと全てを避けてきた私が、初めて直視する「走る」こと。
ほのかが馬とともに開始位置に立つ。
「はっ!」
と気合いを付け、最初の障害へ向かう。その姿に圧倒されるかのように、走りたい、ほのかと、あいつと、まだ見たことのない、負けてばかりの馬と一緒に、そんな気持ちが湧きあがってきた。それと時を同じくして「夏穂走れ!」というあの乱雑な文字が頭の中を駆けめぐる。こんなに時を隔てても、あなたは私にバトンを渡してくれるんだね。……その想い、確かに受け取ったよ。
いつもより晴れやかな顔で、ほのかの試技を見つめる私が、そこにいた――。