羊をめぐる冒険

(1) 中心となる論点

 この作品の中では「僕」が羊と鼠の行方を追うというストーリーが中心と思われるが、「僕」が行動を起こすに至るまでにかなり紙数が費やされている。その中で何度も過去に時間が戻り、回想シーンを頻繁に交えながら進められていく。この回想シーンに注目すると、現在の「僕」の成り立ちに関する重要なトピックとなった出来事が込められているようである。たとえば、第一章では「何が起ったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。」(上p.19 l.13)という言葉の中に現れる出来事が仄めかされるが、この出来事は結局最後まで明かされない。しかし第五章の3(上p.136 l.17)に次のような暗示的文章がある。

 最初に何があったのか、今ではもう忘れてしまった。しかしそこにはたしか何かがあったのだ。僕の心を揺らせ、僕の心を通して他人の心を揺らせる何かがあったのだ。結局のところ全ては失われてしまった。失われるべくして失われたのだ。それ以外に、全てを手放す以外に、ぼくにどんなやりようがあっただろう?
この独白によると、他者との関係にまつわる何らかの出来事が一九七八年から数えて約十年前に起こり、(「僕」は「十年」という時間にこだわっているところが随所に見られることによる)それ以来「僕」は無意味で無価値な十年を送ってきたことが想像できる。つまり、この作品のスタートラインはこの「十年前の出来事」であると言える。そう考えると、この作品の様々なファクターの中で中心になるのは、やはり「僕の人生」(第三章の1 上p.64 l.1)に対する態度についての問題となろう。

(2) 「僕」が失ったもの

 「僕」がこの十年間を無意味で無価値なものと定義する中で、多くのものが「僕」のもとから失われている。第一章では一九六九年から一九七一年までの間に関わりのあった「誰とでも寝る女の子」が、一九七八年七月(二一日前後と思われる)に死亡すると作品の冒頭に述べられる。第二章では妻と離婚したことが明かされる。第五章では一九七八年六月に「僕」が故郷に戻る場面があるが、この中で「僕」は、自分の家に泊まらずホテルに泊まること、タクシーの運転手との会話でここへは旅行で来たこと、ここへ来たのは「二度め」(上p.149 l.13)と言うことから、故郷も失っていることが分かる。このような表現と第五章の3のあるように『僕にはもう「街」はない。僕にとって帰るべき場所はどこにもない。』(上p.135 l.17)ということから、「街」つまり故郷を失ったたことも明らかである。さらに第六章の7で羊を探しに北海道へ行くことが決まると、仕事も辞めてしまう。この場面の直後(上p.232 l.17)に、

職を失ってしまうと気持ちはすっきりした。僕は少しずつシンプルになりつつある。僕は街を失くし、十代を失くし、友達を失くし、妻を失くし、あと三カ月ばかりで二十代を失くそうとしていた。
とこれまで失ったものをまとめて述べている。なくしたものに対して「シンプルになる」という考え方は、この十年間が無意味で無価値だったという感覚に由来しているのだろう。しかしどうせ無意味で無価値な人生ならば、自分に付属する属性など何もない方がいいという諦念が込められていると考えるのが自然であろう。これによって、過去の記憶から離脱することで「僕」は安定的な境地(「退屈」という言葉で表現されている)を実現してきたのであることが表される。

 しかしこの時点で「僕」には何も無かったのか、というとそうではない。もちろん素敵な耳を持ったガールフレンドがいる。そのほかにも「僕」が持っているものがあるのだが、それには「僕」は気づいてはいない。そのものが次第に明らかになっていく過程が背中に星の印がついた羊と「鼠」を求めて北海道へ行くストーリーとなっている、というのがこの作品の中核である。

(3) 「僕」の中に残されたもの

 自分の人生を無意味で無価値なものと言ってきた「僕」は、この十年間無意味なものにすがることで自らのアイデンティティを保ってきた。それが示されているのが、「十六歩的世界」である。これは(『風の歌を聴け』にあるものと同様に)数値によって自己のアイデンティティを保とう、という態度に他ならない。これは数値が正確であれば自己の姿は確実に捉えられるものだという前提の上に成り立つものである。そのような安定的な境地が破壊されるきっかけとなるのが羊の写真である。この写真に写っている羊の数を数えた「僕」は、一回目には「三十二」、そこから「トラブルの匂い」をかぎ取ってもう一度数え直すと「三十三」ということから、数値が不正確になっている。このことは、「僕」が依って立つ「数値によって自己のアイデンティティを保つ」ということが崩れていくことが示されている。このきっかけによって「僕」は次第に背中に星印のついた羊と「鼠」を探さなければならない状況になっていく。はじめ「僕」は羊を探しに行く気はなかったのだが、第六章の5で耳の素敵なガールフレンド(以後「耳の女」とする)から 「でもあなたのお友だちは既にその深刻なトラブルにまきこまれているんじゃないかしら?だってそうじゃなければそんな写真をあなたにわざわざおくってはこないでしょ」(上p.213) と説得されて行くことに決める。無意味なものと考えていた「僕」の人生の中で、「鼠」や彼と過ごした頃の記憶の中に「僕」の心を動かす何かを有しているのではないか。そうでなければこれまでのように無意味で無価値な人生とうそぶきつつ、羊に関する出来事など相手にせず生きていくはずだろう。ここでは「僕」にとって「鼠」が心の中で大きな位置を占めていることが無意識のうちに明らかにされているのである。

 これまでに失ったものと同じ過去の記憶でも「鼠」に関することでは、その存在の大きさ故に記憶を捨て去ることができず、「鼠」の巻き込まれたトラブルを救うために「僕」は北海道へと向かう。この過去の記憶は『1973年のピンボール』において「僕」が、ピンボールに対して感じていたものと同様のものである。

(4) 山の上で

 「僕」は山の上の鼠の別荘に入ったとき、「子供の頃かいだことのある匂い」(下p.130 l.1)「古い時間の匂い」(l.2)によって、

 ほんの何秒かのあいだ、僕の頭が混乱した。暗闇の中で時間が前後し、幾つかの場所が重なりあった。重くるしい感情の記憶が乾いた砂のように崩れた。(下p.130 l.7)
という感覚を抱く。このことは、「僕」が捨て去ってきた過去の記憶がよみがえってきていることが表されている。耳の女が「僕」の許を去ってしまい、「僕」が有していた実際に現存しているもので唯一のものがなくなってしまうと、これまでは無意味で無価値なものばかりであった筈の「僕」の記憶の中から「鼠」やジェイを持ち出し、彼らが一緒にいてくれたらと考える。(第八章の7 下p.159 l.6)このことは、この過去の記憶が「僕」の中で大切aにされていることがうかがえる場面である。

 「僕」が羊と「鼠」を探してここまでやってきたのは、この大切な過去の記憶があったからであり、その記憶を体よく利用して「僕」をここまで連れてきた黒服の男や鼠に腹を立てている「僕」の言葉は切実である。

しかし少くとも彼らはそんな風に僕を利用するべきではなかったのだ。彼らが利用し、しぼりあげ、叩きのめしたものは、僕に残された最後の、本当に最後のひとしずくだったのだ。(下p.176 l.17)
この言葉が発せられたことは、「僕」が無意味・無価値と考えていた過去の中に本当に大切にしていたものを発見したことを示している。それとともに、本当に大切にしていたものが失われてしまうかもしれない、と言う危機意識もないまぜになっているととれるだろう。それだからこそ、「もっとずっと先に僕が本当に泣くべき何かが存在しているような気がした。」(下p.177 l.4)という感じを受けるのである。

 ついに「僕」は「鼠」と対面することになるが、その話の中で「鼠」がこの別荘にやってきた理由を考えると、「僕」と共通している点があることに気づく。「街」を出た「鼠」が最後にたどり着いた場所が、自分の少年時代の思い出があるこの別荘であったのと、東京に住み、故郷の「街」の記憶を忘れようと努めていた「僕」が、最後には「鼠」とジェイとの過去にたどり着いたこととを比較すれば、共通点が抽出できるだろう。「僕」にとって「鼠」とジェイの記憶というものは、いつでも故郷の海とリンクされている。「僕」が故郷の「街」の記憶を消し去ろうとしているのと同時進行で、「街」にあった海岸線が埋め立てられている。「鼠」と会う場面でも、「鼠」が感傷的な理由からこの別荘を見ておきたくなったという言葉に対応するように、「僕」は埋め立てられてしまった海のことを思い出している。羊に取り込まれた「鼠」が羊の意志に従わずに死を選んだ理由は、このことと大きく関わっていると考えられる。

 背中に星印のついた羊が目指したのは「完全にアナーキーな観念の王国」(下p.204 l.3)で、「そこではあらゆる対立が一体化」し、「意識も価値観も感情も苦痛も、みんな消える」世界である。これを読み解くと、一言で言えば人間の個性を否定し全てが同一の、判で押したような人間しか存在しない世界をつくろうとしていたのであろう。全てが均質化されれば犯罪も戦争も対立もみんな消えてしまう。そのような社会はたしかに非常に美しいものかもしれない。しかしそれでは個人がそれぞれ異なった内面を形成することはあり得ず、過去の経験によって成り立つ記憶といったものも全て同じになってしまう。「鼠」は自分の過去の記憶を自分自身のものとして保つために自ら死を選んだのだろう。その意識が「俺はきちんとした俺自身として君に会いたかったんだ。俺自身の記憶と俺自身の弱さを持った俺自身としてね。」(下199 l.17)という「俺自身」を強調した言葉の中に現れている。

(5) 冒険の終り

 『1973年のピンボール』においてはその記憶を死と結びつける自己言及によって抹殺した「僕」であるが、この作品では逆に「僕」以外の人により「僕」の記憶が利用され、「叩きのめされ」る。その過去の記憶は「僕」にとっては「最後のひとしずく」というかけがえのないものである。「鼠」は背中に星のついた羊の思念を飲み込んで死んでゆき、「僕」は自分の意に反して過去の記憶に結びつく「鼠」の死を経験する。エピローグで、山の上の異世界から「生ある世界」「僕の世界」に戻ってきてもその世界と「僕」との間にしっかりと結びつくものの存在が全くないことを知り、その喪失の悲しみに泣く。これまでとってきた「僕」の生き方の限界とその過ちに気づいたのである。しかしよりどころのない「僕」は、これまでの生き方がもたらした「引き延ばされた長い袋小路」の行き止まりに達し、先が見えない状況にあるまま物語は終わる。

 羊をめぐる冒険のストーリー展開としてはこのようなものであるが、ストーリーの中で解決されない問題が多々存在する。それが耳の女・羊・羊男といったものである。耳の女と羊男は「羊をめぐる冒険」の続編とも言える「ダンス・ダンス・ダンス」に引き継がれ、そこにおいても重要な役割を果たすことになるが、ここで一応検討しておく。

(6) 耳の女について

 「とてもとても親しい友達になった」(上p.58 l.4)「僕」と耳の女であるが、最終的には山の上の別荘であっけなく別れてしまう。二人が離ればなれになることに際して、羊男や「鼠」から説明があるが、それだけでは納得しがたい点も多い。

 まず、「僕」が耳の女に「ねえ、君はスリップを着ないのかい?」と訊ねる場面(上p.72 l.3)を挙げる。「僕」は突然スリップのことを持ち出した理由や、その話を持ち出したことで彼女が誤解したことを訂正しようとすることなどを何も話さずに、「何もいらないんだ」「君と君の耳だけで本当に十分なんだ。それ以上は何もいらない」(いずれも上p.72 l.12)という言葉だけで済ませてしまう。このため耳の女は「つまらなそうに首を振って」(l.13)しまうという行動をする。彼女は「僕」が何故そのようなことを言いだしたかを知ることでお互いの理解をより深めたかったのだろう。しかしそれは充足されなかった。

 更に、第六章の5(上p.212 l.9)では以下のようなやりとりがある。

「……(前略)……それに君までごたごたに巻き込まれることになる」
「かまわないわ。あなたのごたごたは私のごたごたでもあるのよ」そして少し微笑む。「あなたのことはとても好きよ」
「ありがとう」と僕は言った。
「それだけ?」
ここでも「僕」と耳の女のあいだでは気持ちのすれ違いがある。「僕」は、別れた妻に対するのと同様に、「僕の問題」と「君の問題」とを綺麗に分けて考えている。そこには二人で一つのものごとを共有し、男女一組としてものごとに対処しようとするという意味での共同性は存在していない。そこが耳の女が不満だった点ではないだろうか。

 このような「僕」の態度は過去につきあった女性に対するものとして共通して現れているのではないだろうか。とくに「誰とでも寝る女の子」と比較してみるとよく分かるだろう。たとえば彼女が「あなたと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」(上p.19 l.8)とあるところで彼女は地面に三本平行線を書くが、これは気持ちの交わることがないということを表してはいないか。また、彼女が「ねえ、私を殺したいと思ったことある?」(上p.21 l.6)と聞くところで僕は「ないよ」というが、彼女は「ただ誰かに殺されちゃうのも悪くないなってふと思っただけ。」(上p.21 l.15)という。この言葉の裏には、彼女が殺し、殺されるほどの濃密な人間関係を求めているのではないかということが見て取れる。しかし「僕」はそれに応えることができない。

 別れた妻が「僕」に対して「でも、あなたと一緒にいてももうどこにも行けないのよ。」(上p.39 l.6)というのも離婚したいという彼女に対して「結局のところ、それは君自身の問題なんだよ」(上p.39 l.15)と答えてしまうような「僕」の態度が問題だったのではないだろうか。

 耳の女と誰とでも寝る女の子のあいだにある共通性についてはもう一箇所存在する。それはタイトルにも現れている「ピクニック」という言葉である。この言葉自体には何の説明もないのでこれ以上意味を詮索することは不可能だが、耳の女の方では、その言葉が現れた直後に以下のような記述がある。

 彼女はソファーの手すりに載せた首をほんの少しだけ曲げて微笑んだ。どこかで見たことのある笑い方だったが、それがどこでそして誰だったのかは思い出せなかった。服を脱いでしまった女の子たちには恐ろしいくらい共通した部分があって、それが僕をいつも混乱させてしまうのだ。(p.223)
僕はここで耳の女もこれまでつきあってきた女の子と共通した部分があることを言っている。逆に言えば耳の女は「僕」にとってこれまでの女の子と同様、さして特別な存在ではないと言ってしまっているようにもとれる。結局「僕」は霊感を感じたほどの相手に対してでも、これまでの女性と同様に濃密な人間関係が構築できないで終わってしまう。それが「僕」のもとから耳の女が去っていく原因の一つといえるかもしれない。

(7) 羊男について

 羊男は「僕」の下に三回現れる。一回目は「第八章 7 羊男来る」の冒頭(下p.146)において、非常に唐突に現れる。二回目は「第八章 8 風の特殊な通り道」の途中(下p.167)で、「僕」の方が羊男を捜そうとしているところで現れる。三回目は「第八章 9 鏡に写るもの・鏡に写らないもの」で、鏡を磨いた二日後に羊男がやってくる(下p.182)。ここでの問題は後に

「ここに来たときの羊男は君だったんだろう」 鼠は首を回してぽきぽきという音を立てた。「そうだよ。彼の体を借りたんだ。君にはちゃんとわかっていたんだね」(下p.206 l.6)
とあるように、一回目と三回目は「鼠」が羊男の体内にいたため、羊男の言動のどこまでが鼠でどこまでが羊男自身なのかがはっきりしないという点にある。しかし、前掲引用文を厳密に読めば「ここ(山小屋)に来たとき」の羊男だけに「鼠」が乗り移っていたと考えられるので、二回目は(あまり「鼠」に支配されていないという意味での)純粋な羊男と考えて良いだろう。ここを中心に分析を試みる。

 まず問題となるのは、羊男が何故この場所に住んでいるのかということである。この疑問に羊男は

「おいらにとってはここしか住む場所はないからね。ここを追い出されるとおいらにはもう行き場所がないんだ」(下p.169)
と答える。このあとには、以下のようなやりとりがある。理由を述べているのだが、かえってわかりにくくなる内容である。
「どうしてここに隠れて住むようになったの?」
(中略)
「戦争に生きたくなかったからさ」
 我々はそのまましばらく黙って歩いた。並んで歩いていると、羊男の頭が僕の肩先で揺れた。
「どこの国との戦争?」と僕は訊ねてみた。
「知らないよ」羊男はこんこんと咳をした。「でも戦争に行きたくないんだ。だから羊のままでいるんだよ。羊のままでここから動けないんだ。」
「十二滝町の生まれかい?」
「うん。でも誰にも言わないでくれよ」
「言わないよ」と僕は言った。「町は嫌い?」
「下の町かい?」
「うん」
「好きじゃないよ。兵隊でいっぱいだからね」羊男はもう一度咳をした。「あんたはどこから来た?」
「東京からだよ」
「戦争の話は聞いたかい?」
「いや」(下p.171)
ここで問題になるのは「戦争」「兵隊」であろう。これらが意味するものは何か。最初に注意しておかねばならないのは、「戦争」とは歴史上の戦争を表しているのではないということである。これは「どこの国との戦争?」という「僕」の問いに「知らないよ」と羊男が答えることから、反戦思想といった考えの下に戦争に行きたくないといっているのではないことが一つある。二つ目は十二滝町のように山奥で寂れたところに軍を終結させるような作戦行動はとらないだろう、ということによる。もちろん、北海道に敵軍が上陸したならばそのようなこともあろうが、少なくとも史実ではそのようなことはない。よって、「戦争」「兵隊」は羊男独自の意味があることが分かるだろう。これを考えてみる。

 第一には、羊男の持つ「羊」という点から考えてみる。羊の習性に関する話の中にあった順位を決めるための喧嘩(下p.115~116)がある。喧嘩が羊にとっての戦争だとすると「兵隊」は羊ということになる。ところが、羊は夏になると山の上に登って来て放牧されるわけであるから、このような場所に羊男が住むのは不適当ということになる。よってこの考えは成り立たない。

 第二には、羊男を「男」つまり人間の側面から考えることである。そうすると、兵隊というのは下の町で暮らす人々ということになる。この人たちが行う「戦争」というのは何か。羊男は、人間関係を戦争のようにお互いを傷つけあうものだったり命令や強制によって成り立つものと捉えて、そこから逃げ出したのではないか。このような行動をとる者は社会的弱者だとして、弱者のたとえである「羊」(『広辞苑 第二版』による)を冠することになったのではないか。このような考えに立つと、命令・強制されたくないという「僕」の考え方(上p.211 l.12)は、「僕」と羊男との共通部分と言えそうである。

 羊男については他者との関係を「戦争」状態ととらえ、山の中に隠れてひとり住むという行動から、自閉した「僕」の生き方に相通ずるものがある。

(8)「羊」・「鼠」・「僕」の思念

 背中に星印のついた羊の思念は、先にも述べたように、あらゆる対立を解消する全体主義的な観念である。これは、『風の歌を聴け』で「鼠」が漏らした自分と他者との関係をもっと深いものにしたい、完全なものにしたいという意思を極端なものにしたものと言える。この「鼠」の考えは、『風の歌を聴け』におけるOFFの自分を表現したい・他者とつながっていたいという「鼠」の「弱さ」から発したものであるから、羊が「鼠」にとりついたのも十分頷ける。

 ところが、これによく似た考えが「僕」の中に存在していることを、「鼠」は知らない。「僕」が「鼠」との話の中で盛んに口にする「一般論」というものは、個々人を「包括」(『一九七三年のピンボール』の言葉による)して述べてしまうもので、個人の独自性を認める余地がない。このことは、「僕」もまた羊の思念と同様のものを内部に有していたことを物語るものである。ただし、「僕」の中ではこの考え方は他者に強制すべきものではなく、「僕」自身の中でのみ通用させようとしているものであるところが羊と「僕」との相違点である。この「僕」の「一般論の世界」を改めてとらえなおし、深く追求していくのが「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」以降の作品の課題となるであろう。


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