初出:GameDeep Vol.8 ギャルゲー超越論(2003年8月15日 コミックマーケット64にて初売り)
引用作品:The End of Evangelion、ONE〜輝く季節へ〜
世は常に二項対立に満たされている。それはきっと私自身の考え方がそれに染まっているからなのだろうけれど。しかし、一体化−分離、理想−現実、といったありきたりな二者択一状況は、毎日の生活の中でも、このような御託を並べる場面でも、常につきまとい、我々の考えを縛り続けている。
その対立を顕在化し、最も壮大な規模の修辞でやってのけたのは、「新世紀エヴァンゲリオン」であった。母子一体化と分離、完全なる単体の生命への進化と挫折、という形式で語られたその物語は、二項対立のなかで揺れ動きつつ、最終的には「The End of Evangelion」(以下EoE)のラストの浜辺において、シンジは隣に寝転がるアスカに馬乗りになり、最初は確認するように、そして、次第に力を加えるようにアスカの首を絞める。シンジと目を合わせずにいたアスカは傷ついて包帯の巻かれた右手を上げ、シンジの左頬に手を当てる。 それに触発されるようにシンジはアスカの首から手を離し、涙を流す。それでも目を合わせようとせず虚空を見つめるアスカ。シンジの涙が数滴アスカの頬に落ち、しばらくしてアスカはギロリとシンジを見つめ、「……気持ち悪い」の言葉と共に、唐突に終劇を迎える。
シンジの首絞めは単体の生命の中でも「あなたとだけは、絶対、イヤ」と否定を続けたアスカへの他者性の確認行為のように映る。しかし、アスカに対してひどいことをしていることには変わりはない。しかし、アスカは、慈愛のある母のように傷ついた腕でシンジの頬を撫でる。それに対応し、自己嫌悪を自覚したように涙を流すシンジだが、二人の間柄は融和することなく、今度はアスカからの「気持ち悪い」という言葉が投げかけられる。ここでも、それまでのEoEのシーンのような激しい拒絶と表面的には考えられてしまうが、アスカの言葉には、それほどの悪意がこもっているようには感じられない。むしろ強さに欠け、落ち着いた雰囲気さえ有している。シンジの行為(絞首=拒絶、涙=受容)と、アスカの行為(頬撫で=受容、「気持ち悪い」=拒絶)が対になっている図式の中、お互いがなんとかお互いを認めあおうとする萌芽がみられ、悪くとも、単に「再びATフィールドが君や他人を傷つけても」(カヲル)の状況が再スタートしたに過ぎない。それは、「ぬかよろこびと自己嫌悪を繰り返す」(EoEミサト)状況の中、身を切るような感覚で紡がれたなかから発せられる、誠実な表現であったと受け取れるだろう。
以上、二項対立の図式の中でそこからの逸脱を垣間見てきたが、図式に縛られない状況とは、と考えたとき、常に自己の存在を揺るがす体験は、日常のそこかしこに隠れているはずである。それは新たなものに出逢うとき、既に出逢ったものの中から新たな点を見いだすときも同じこと。出逢った瞬間には新しいものであっても、自己との照合をしつつ理解していくという際に、既存の枠組で理解を図る。そもそも、理解とは、既知のコードで対象を埋めることでしかないから。
その既知のコードの成り立ちは、社会が成り立ちからしてそうなっているから、と言うほかはない。人間は、周囲の人間から求められる反応を返すことで、同類・仲間として認められ、社会に参加することを初めて許される。これは赤ん坊の時から連綿と継続されている制度だ。ちぐはぐな反応、相手の想起を超える反応を返せば異端・異常とされ、保護という名のレッテルが貼られる。身体にとっても、学校教育によって行進、気をつけ、休め、体育座りなどでの統制を受けてもいる。実は、通常言われている「現実」こそが、うすっぺらなもので、均質性を要求し続けるものなのかもしれない。
それでは、そのような社会的要求からの逸脱は可能なのか。その方法としての恋愛ゲームというのが、私のこのジャンルへの足を踏み入れる第一歩だったような記憶が残っている。幾ばくかのゲームをプレイしたなかで、それを読んで以降、恋愛ゲームをプレイする際、常に引っかかる言葉が現れてきた。それが、「ONE〜輝く季節へ〜」(以下ONE)の七瀬留美の言葉「…帰ろう。ずっとあたしがいなかった、現実に。」である。この言葉は、乙女になることを夢み、折原浩平と結ばれ、彼のおかげで乙女になれたと思った矢先、舞踏会に誘われながら、浩平は1年も迎えに来ず、待ちぼうけとなったときに発せられる言葉である。1年経ち、彼女は浩平を待ち続ける自分、乙女となれた自分、物語のお姫様になりうる自分を捨て、「ずっとあたしがいなかった、現実」=浩平と出逢う前の自分に帰ろうと決心する。このストーリーでは、その瞬間に、浩平が自転車で迎えに現れ、乱暴な物言いで七瀬の不興を買うが、浩平も彼女の注文に少しずつ応じ、七瀬も、約束から1年待ったにもかかわらず、「ついさっき、ふたりはそうして別れたんだっけね。」と無理にでもこの物語に乗ることを表明する。この中には、理想にはほど遠いのものの、物語を自分たちで紡いでいく、夢みたいだっていいじゃないか、という主張で終わる。
これらに対するプレイヤの受容としては、どうなるだろうか。美しさという点では、理想にほど遠く、しかし、二人の間柄の親密さ、楽しさ加減には、外野の文句を寄せ付けない強さがある。その説得力のために、恋愛ゲームの意義はあるのかもしれない、と思うこともあるだろう。
ただし、プレイヤとしては、ヒロインは常に単独ではなく、並列に数人置かれている。ゲームによる特徴といえるが、これは、選択というより、コンタクトに近いものだと考える。読むか、読まないかは、電話をかけるか、かけないかの違いに近似しており、このヒロインを選ぶか、選ばないかは、コンタクトの質、つまり、メッセージの内容ではなく、ゲーム内の語り手の言葉によって、相手とどのようにコミュニケーションを行おうとするかが選択肢の言葉(とその前後の文脈)として示されているからである。要するに、プレイヤが選ぶ、だけでなく、選ばれるよう、また、選ばれないよう仕向けるテクストもあり得る。このような相互性は、回路が繋がるか、否かという表現が適している。むしろ、この状況下にあって回路を繋ぐことがプレイヤの倫理にもとると思われることもあるだろう(ONEの長森シナリオを想起せよ)。しかし、たいていの場合、自分の生における選択の重みと比べれば気軽なものであり、全ての肢を試すことも多い。この際、2回目以降のプレイでは、既に所有した情報を持つことが多く、その情報をもとに、それまでのプレイとスタンスを変えることが可能となることが、再度プレイするときの強みであり、間断なきズレが生まれているにもかかわらず、同じとして処理され、分岐後しか気にされないという弱みにもなる。しかし、プレイヤが気づくかどうかの差はあれ、複数の筋の存在は、言葉の普遍性・一回的妥当性を巧妙にかわし、多義性を生み出す契機となることが想定されうる。
受容するプレイヤとしては、読む、という行為自体において、本人と、行為を仮託されたプレイヤとしての自分の間において既にズレが生み出されている、ということは少なくとも自覚されるはずだ。また、恋愛ゲームの終了において、恋愛の成就・破綻が大抵はエンディングの条件となるが、それが即解決や秩序になるかというと、そうではない。物語が、ゲームが、登場人物の生が終わろうとも、少なくとも我々の生は続く。そして、ゲーム内部での完成や解決というものは、安心感さえ与えこそすれ、逆に一度プレイヤと繋がれた回路を閉じる過程にもなってくる。例えば、Happy、True、Badの3レベルのエンディングがあったとしよう。この場合、Happyのみが完成点として見られる傾向が強くなり、Happyがあることによって、その他のエンディングに瑕疵がある印象を誘発してしまうという限界を持つことになる。
そのような恋愛ゲームの状況もあるなか、プレイヤとしての位置はどうあるべきか。反省的な自己解釈としてではなく、そこに回収されないよう、自身の立脚点を常に更新していく試みとして、全ての体験を捉えようとするのが現状としての私の立場ではある。しかし、そうすると、自己を乗り越えていく経験の契機となるのであれば、特に恋愛ゲームの形を取ったものでなくてもよいはずだ。逆に、身体すらも型の中で表現として一般化されうる性的な行為を伴った所謂18禁恋愛ゲームでは、その性描写の場面において、型の存在により、逆に個の喪失に有利に働いてしまうとさえ思われるほどだ。そもそも、型を持っていない限り社会の構成員として見なされないのは前述のとおりだが、それは自己意識にとっては惰性である。
この部分を性描写で最も的確に表したのが、ONEにおける浩平と瑞佳の性交渉の場面である。高熱にうなされながら、「オレは自分を試そうと思っていた。苦しい。確かに苦しい。しかしそれで、どこまで長森を愛することができるか。それに挑戦してみたかった。」と考え、体力の限界のなか、長森も抵抗をしつつも受け容れ、最後まで至る。このことで、二人の間柄の特異性・異質性を引き立たせることとなっている。
そして、前述の浩平と七瀬との間にあるもの。それは依存ではなく、二人が、共同でつくりだし、互いが、それまでの自己を更新する契機となった出会いから再開までの刻、それは、他人の目から見れば「とんでもなく恥ずかしい二人だったけど、別に関係ない。楽しいことが先に待つときには、そういうもんなんだ。」と力強いメッセージを与えてくれる。
恋愛ゲームが、自己自身の立脚点を常に更新するものとして存する可能性があることは常々理解していることだが、更新といっても、自分自身に自分が裏切られるということの裏返しでもある。ユリイカは常に自分の想定外のところからやってくる。このような試みであれば、恋愛ゲームといった枠組みは不要であり、同様のユリイカは小説でも、アニメーションでも、映画でも、美術、音楽においても、感じ取られるものである。しかし、ここからは私事であるが、何らかの契機として深入りしたものに対して追究を深め、地球の反対側に出る穴を掘ってしまうように、関連性が直接見いだし得ないものとの幸福な邂逅を求めて、今日もまた恋愛ゲームというジャンルを深く静かに専攻(誤字にあらず)しているのかもしれない。たとえそれが「ぬかよろこびと自己嫌悪を繰り返す」ものであったとしても。