初出:Tactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』(2007年8月19日 コミックマーケット72)、2007年5月5日脱稿
私論についてはいつも粗雑な論考しかできていないところだが、今回は粗雑ついでに大上段にかつ総論的に、恋愛ゲームにおける記憶喪失(主に主人公)について検討してみたい。この件については、ネット上等において既にかなりの議論がなされており、食傷気味な題材であるところではあるが、しばしおつきあい願いたい。
ゲーム開始時のプレイヤは、今回のこのゲームの作品世界にほとんど何の既知事項もなく立つことになる。そこでは、作品内にプレイヤが入りやすくするようにという作者側の配慮からなのか何なのか、プレイヤキャラクタが同一人物を擬するような語りであることが大抵である。しかし、プレイヤキャラクタには、現在あるその年齢、その住まう場所、付き合う周囲の人たちとについての前提条件というものが種々存在し、それは明らかにプレイヤの周囲とは異なるものである。ところが、プレイヤ自身はそれらの前提を知らず、その齟齬があるままプレイヤがプレイヤキャラクタと同一であることが前提となって語られれば、当然その齟齬は大きく、違和感が募ってゆくこととなる。このような差を埋める手法として、記憶喪失は一種の切り札として登場し、このカードを真っ先に切ることで、作品内世界における前提となる種々の蓄積を都合良く刈り取り、落差を埋め、プレイヤの無知がプレイヤキャラクタの記憶喪失と重ねられているが故のプレイヤ=プレイヤキャラクタという図式をある程度維持しつつプレイヤを作品内に誘うことに成功している(この方法はギャルゲーのみならず、RPGで続編なのにレベルは1に戻り装備は全て初期状態になっているということも同じ事にあたる)。さらに、必然的に起こる記憶の回復というプロットにより、プレイヤキャラクタ及びプレイヤへの自責の念を誘発する語りを生み出すことさえも可能になる。
恋愛ゲームにおいてはかなりの頻度で出くわすことになるこの手法が、小説等ではそこまでの頻度とはならないのはなぜだろうか(頻度に関しては印象のみで量的把握を行っていないので、この点はご容赦願いたい)。それは、ゲームにおいてプレイこそは参加であり、自らが行うべきことという制度化された考え方によるところに依拠する点が多いためであろう。これが小説ならば、読者=主人公という地点にほぼ間違いなく立って読む、という読書行為がゲームほど制度化されているであろうか。私は否であると考える。
もちろん、上記のように、主人公に依拠して読み進めることでカタルシスを得る場合も多いだろう。しかし、小説における活字と読者としての自己との距離感・温度差というものは、主人公を操作する、という感の強いゲームへの一体感喚起に対する誘導とはだいぶ印象を異にすることが多い。
このことにおいて、ほぼ活字のみによる喚起力は画像・音楽をも駆使したゲームと比べて低いからメディアとしてレベルが低い、などと言うつもりではない。読書行為に対する読者としての対峙の仕方として、自らの位置づけ方に自覚的になりうるかどうか、その事を問いたいと考えているのである。プレイヤと名付けられるときと、読者としてある時の、自己のあり方の相違に自覚的になりたい、と考える次第である。
この差はシームレスなものと考えられる。例えば、監督業を行うゲームの場合、自らが指揮するチームのプレイヤに対しての練習メニューや強化の方向性は指示できても、実戦でのコントロールは全てできる訳ではない。野球で例えるが、選手起用・最低限の投球指示、守備形指示、バント・走塁指示等々はできても、多くは自動進行に委ねられてしまう。このときのプレイヤは、どんなにベストを尽くしても、「見ているだけ」の時を過ごすことが多くなる。このとき、単純に感情移入度が低いからこれは悪いゲームということにはならないだろう。それと同じ事である。
そこで恋愛ゲームに戻ろう。記憶喪失の手法が結構な頻度で出現する旨の印象からスタートし、先のプレイヤ=プレイヤキャラクタの図式に依ることでその手法が顕現してきたということを述べた。しかし、逆に、この図式にそもそも無理がかかっているのではなかろうかと考えられる。この距離感に依存し、これ以外の距離感が切実さを受容し得ないようなプレイヤに対する喚起を理由として求められていると考えて、この図式を具現化しようとするため、そこに有するなにがしかの別ベクトルの力が作品内世界側に噴出したのがこの記憶喪失という現象だと考えることができないだろうか。
このように考えると、制作者側における課題は何だろうか。経済的な側面における「とっつきやすさ」をわかりやすく示す方法として、プレイヤ=プレイヤキャラクタ図式が幅広く採用されてきた面はあると思われる。しかし、そのようなゲームがむしろ氾濫している中で、他の手法をということは多分様々試みられているところもあるのだろう。ただ、私自身が触れるものに偏りがあるだけかもしれない。ただし、その図式を逆に利用し、撒き餌としてその手法でおびき寄せておいて、ひっくり返すという手法についても、何度も目の当たりにしてきたところではある。このような羊の皮をかぶった狼のようなものも積極的に味わっていきたいと個人的には考えている。
もちろん、制作者側のみに責任を押しつけるつもりは毛頭ない。受容者側においても、多くのメディアや実際の人物に触れ、多様な距離感の取り方を会得することで、プレイヤ=プレイヤキャラクタ図式に依らない在り方に触れる機会は少なくないはずである。それを、自らが「プレイ」する段においても同様に意識化できるかどうかということではないか。つまり「プレイ」となれば即刻「プレイヤ=プレイヤキャラクタ」と慣らされているその前提を疑ってかかる必要はないだろうか。このことは、受容者たる私自身に課せられた課題でもあるだろう。