『光見守る坂道で』第16話とゲーム本編との連関について

初出:Tactics/Keyゲーム評論集『永遠の現在』(2007年8月19日 コミックマーケット72)、2007年6月3日脱稿

『光見守る坂道で』について、以前より『CLANNAD』本編に影響を与えるような記述があることについて友人から示唆を受けていたが、論者自身が入手したのは2007年に再販されたものであったため、少々時期はずれとなるが、改めて言及しておくこととしたい。

渚エンドの後に続くエピローグで風子と出逢うワンピースの少女は、ゲーム終了後にそれまで隠されていたトラック1の曲名と合わせ、汐だと設定されていることまでは、『CLANNAD』作中から理解できることとして、まず整理しておく。その病院の樹の根元で眠る汐の位置付けについて、この本の「第16話 町の思い」では神隠しのように消えた後、渚が意識不明の状態から目覚めた場所と同じ場所で発見されるという説明が秋生の口からなされているのが今回の言及の対象箇所となる。

このことは、設定というべきか、連続性の担保を披瀝したこの本の記述については、『CLANNAD』本編において、ラストを汐の成長を感じさせる明るい自立への歩みという意図で定着させるという事後的な説明であると位置付けられるだろう。

これに対し、ゲーム中の仄めかしにとどめられた表現のみに従えば、この白ワンピースの少女が本当に汐であるならば、その位置付けに存在する断絶感(*1)については以前から拙論(*2)で指摘していたところだが、神隠しという説明となる、汐がワープするような感じで直接的に連結されることは記述にないため、拙論はその可能性において検討することはなかった。ただ、ワープとなれば、既にそこに時間・空間を越えてしまったことの断絶が折り込まれていることになる。ちょうど舞の自刃と佐祐理の頸椎損傷がなかったかのように恢復する奇跡のように。

死線を越えて生きながらえた渚・汐の母娘は同様に「光」の照射する何者かに「見守」られているということで、この本のタイトルも「光見守る」となっている。その背景は奇跡の姿として『CLANNAD』作中で渚・汐の母娘は「幻想世界」の少女の出自と重ね合わせることができる点が多い。また、朋也の光の収集という努力により渚・汐の存命という連関として支えられていたが、この本の第16話では、光が人格を持っているかのように現れ、表現されていることとも併せ、この連関が仄めかしを越えて強い連関を意識されるよう表現されていることが窺える。そこには、汐と「町」との同化とも言うべきものが見られる。そしてそのきっかけは、時間・空間を越えた際の断絶ということになる。この断絶の折に、別空間である「幻想世界」との関連づけが何らかの形で行われたと見るのが妥当な線であろう。そこでは「幻想世界」の少女が帰還し汐の身体に憑依などといった貧困な想像力の産物すら想起できてしまうような印象がある。このような状況で現れた汐の世界一周(町巡り)への意志。ここでは、汐が何らかの背負うものを獲得したという印象を受けるにあまりある。ただ、このようにして家族から離れていくことによる成長という真っ当な結論は、きっと次作にも変奏されて引き継がれることになるだろう。

また、次回作『リトルバスターズ!』の作品紹介においても、

ずっと、そうして彼らと生きていたら、僕はいつの間にか心の痛みも寂しさも忘れていた。
ただただ、楽しくて…
いつまでもこんな時間が続けばいい。
それだけを願うようになった。

という語りにあるように、恭介たちと共に過ごす日々は安住の世界であり、そこからはいずれ卒業していくべきだ(*3)という方向性を内包しているだろうことからうかがい知ることができる。上記の依存的な態度には、この本において「突き放す」という言葉を朋也が用いていることと同様の先の展開が予測されうるだろう。

ただ、これだけ真っ当なものを表現することに、どうして汐の飛躍・断絶を経なければならないのか、という疑問は残る。後に病院となるその地に「治療塔」(*4)のような場所としての特権性を与え、生み出した世界に対する責任が云々、などと言い出すと、それこそ村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』的になってしまう。ただ、この汐の成長は、これまでの言及の繰り返しになるが、エンディングテーマ曲「小さな手のひら」の歌詞「小さな手にもいつからか僕ら追い越してく強さ」を表現した結果だということについては充分理解できる。しかし、この汐への連続性への担保の仕方が、これまでの作品と比較するに多分に説明調であり、何者にも揺るがない世界と意志の存在をプレイヤに印象づけるという意味での「強度」の不足を受けとってしまう。このことは、以前拙論で「幻想世界」と「生活世界」との近接性を指摘(*5)していたが、それが設定における卑近さとなって現れてしまったと言い換えることができてしまうかもしれない。そのような印象を植え付けることになったこの本については、単なる後日談にしては設定の披瀝により『CLANNAD』本編への影響が大きいが、これからのたくさんの出会いについては「楽しいことは、これから始まりますよ」の言葉で十分であり、汐の成長については先の「小さな手のひら」の歌詞において示されており、その点では同じ事の繰り返しであるとも言える。

しかし、所謂「渚エピローグ」で締めくくられたかに見える「ずっと、歌っていよう」に象徴される家族の円満こそが到達点と読める部分と比較すると、この本で言及されている成長の旅へひとり歩き出す、という後日談は、その終わり方の調整を図ったものだと考えられるだろう。この方向性は極端に打ち出せば『智代アフター』における「ひとりになっても歩くんだ(*6)にも通じるものとなる。ただ、その発現の仕方が成長を感じさせる明るい自立への歩みであるか、全てを失ったとしてもなおその先の未来へ歩みを止めない、というものであるかの相違である。この両者の相似点は、『CLANNAD』作中において仄めかしでとどめられた「エピローグ」の補完であると共に、次の一歩への足がかりであるという点で共通していると考えることができるだろう。

ただし、『CLANNAD』をゲームとしてプレイする観点からすると、汐の神隠しというずいぶんなおおごとを、Another Storyとして事後的に秋生の会話で示すというその軽度な扱いは、プレイ時に課された迂遠な道のりと比較して、なぜ、プレイヤはその現場に立ちあうことが許されなかったのかと考えると、非常にバランスを失したものとなっていると受けとらざるを得ない。ゲーム中においては、タイトル画面の変化によってプレイヤも風子と共に汐の「発見」の現場に立ちあっていたのだから、「ずっと、笑っていよう」という世界から飛び出した汐という位置を『CLANNAD』作中で一応示した、ということでは一応の提示がなされているのだと考えられる。しかし、その発現は「永遠の世界」や「空にある少女」にあるような、先述の「強度」を有した象徴性とは異なっている点を指摘せざるを得ないだろう。

むしろ強度を示すならば、渚エンドで「3人揃った円満な家族生活までようやく辿り着いたのに、また汐は消えてしまうのか、汐を失うことは既に定められたことで、自分たちの力ではどうしようもないことなのか」という朋也・渚の苦悩と徒労感が析出された表現と、汐の発見(*7)というもう一つのハードルが必要だったのではなかろうか。例えば、タイトル画面に汐が現れた後に新たに生まれる後日談ルートなどの存在により、本編終了後に接続することで初めて、真に説得力ある『小さな手のひら』の歌詞にある子の成長への接続・伝達が行い得たのではないだろうか。このような意図は『CLANNAD』作品中にちりばめられたものからもかなりの部分読み取りうるものであり、これまで論者が言及してきた『CLANNAD』のラストにおける断絶に関する指摘も、この点を念頭に間を埋める作業として行ってきたものである。これらの検討により、少なくとも『CLANNAD』は、円満な終幕を印象づけられるように描かれていながらも、上記のような汐に関する不安をも抱えていた、ということをこの本で改めて示した、ということができるであろう。

(注)

(*1) ワンピースの少女が直接「岡崎汐」であることに伴う、情報不足、前後脈絡等の不全感。

(*2) 「自己のコミュニケーションの彼方へ―『CLANNAD』論―」を参照。

(*3) もしくは、自らが救われた世界から飛び出した後、自らが改めて一からそのような世界を作り上げていかなければならない、という考え。

(*4) 大江健三郎『治療塔』(岩波書店,1990年)

(*5) 「自己のコミュニケーションの彼方へ―『CLANNAD』論―」を参照。

(*6) エンディングテーマ「Life is like a Melody」

(*7) 例えば「そして……俺たち家族はどんなに離れても、何度でも出逢う」などという表現により、再び邂逅するシーンを『CLANNAD』本編中につくるなど。


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