競走馬と麻枝准作品との微妙な関係

初出:『Life is like a "Pendulum"』(2006年12月29日 コミックマーケット71にて初売り)

敢えて遠く離れた恋愛ゲームとの間を繋ぐものとしてこの度競走馬を持ち出そうとしているが、もちろん、最愛の家族の死とでもすれば、誰しも共感を抱くものとなるだろう。つまりは、そういうことなのだ。思い入れの対象であれば何でもよい。たまたまそこで身近ではない存在に多大なる思い入れを抱くことになることがあるだけだ。それは、自身の生活とは遠く離れたゲーム世界の中にいるヒロインとて同じこと。そのような、捻れたもの同士が強い想念によって結びつけられるときのことについて、雑駁な話をしてみたい。

ここで、自己の生活と乖離した両者への思い入れの原因として共通しているものは、いきなり結論めいた話になってしまうが、「私だけが知っている」という特権性に由来するものである。競走馬であれば、事故死した競走馬において騎手の特権性は疑いないが、その際、騎手は判で押したようにその馬との心の絆を強調する。「馬が、自分を大怪我に至らしめないよう、最後の最後まで我慢してくれた」(ライスシャワー、サイレンススズカ)「馬自身の脚が折れているのに、騎手を気遣って歩み寄ってきた」(キーストン)という落涙の話題が実際に存在する。

我々は一観客としてその凄惨な事実には遠く離れた場所で直面するが(最後の直線走路外側で骨折し、観客の眼前に白骨を晒したシグナルライトのような例もあるが)、実際に「この馬のこの死に様」を目の当たりにする人は、人間同士ではほんの一握りのことであり、そのことを特に思い入れを持たない人に話しても、全く共感を得ることはできない。そんなことより親を思え、とか、子を亡くした人のことを考えたことがあるのか、と叱られそうな後ろめたさすらある。

当然、ゲームのヒロインに対する思い入れも上記と同様の後ろめたさに彩られている。ゲームの作品中にそのヒロインと深い関係になるのはゲーム内の主人公であり、我々プレイヤ自身ではない。どんなにプレイヤが主人公と近接されて描写されていても、プレイヤがいくら主人公を自由自在に操作できるとしても、完全に同一人物としてプレイするような没入感などというものは、現れる幾多の矛盾に目をつぶっても容易に看過できるものではない。所詮、作中の話は作中のこと。プレイヤは、観客として、進みゆく話を傍観する立場にあることは自明のことである。

しかし、実際に「そのゲーム」に寄り添ってプレイした者の数は、競走馬の死に直面する者の数と同様、ほんの一握りであろう。これは、マイナージャンルでかつ背徳性を身に纏う恋愛ゲームであればなおのことマイノリティである意識が首をもたげてくる。そのような状況で、ヒロインの死などの状況は、競走馬の死と同様の「私だけが知っている」という特権性に彩られてゆく。

上記の特権性の心情は、ゲーム内部であっても一部の登場人物に限られて抱かれる感情であり、プレイヤの心情とゲーム内の登場人物・主人公との感情は同様になるような配置上の配慮が行われていることが常である。例えば、『MOON.』における少年の死に際して、少年が郁未を最後の犠牲としたいという思いは郁未にのみ伝わる。『ONE』において妹のみさおを看取ったのは浩平のみであるし、真琴の消失を目の当たりにしたのは祐一のみ。真琴が箸を持てなくなったとき陰ながら練習していたことを知った祐一は「あいつの努力なんて、誰にも届かなかった。/そんなあいつの姿を知っているのは、今ここにいる俺だけだった。」と作中でも言っている。真琴とのような別れを経験した者は祐一と天野だけで、これからは天野と思いを共有しながら生きていく。『AIR』で観鈴の生き様を見届けたのは晴子とそらだけ。『CLANNAD』で幻想世界に関わる印象を持つのは朋也と渚、その渚も死んでいき、最後は朋也のみがその思いに潰されるように、雪の中で白い世界に汐と共に消えてゆく。『planetarian』ではゆめみの機能によって表現される星への思いは、世界でたったひとり、屑屋にのみ引き継がれる。

そして、相手の死に際してはどんなに近くにいても我々は観客であるしかない。ゲームでのヒロインの死と同様、現実であっても競走馬の死などは我々の生活自体には全くと言っていいほど影響を与えないものであるため、現実でありながら現実ですらない、幻想世界での出来事のようにも思えてしまうことだろう。しかし、生活と切り離された我々自身の想念のなかでは大きなダメージとなり、残滓は心に淀んでいく。「見ていることしかできなかった」我々は、立ちあった現場性ということそのものに特権性を付与しなければ自らの価値を認めることができないような心境に陥る。このような思いは、軽い自責の念を孕んだ自己憐憫に見える。見ていたことそのものが、自己への責任感の転化へと繋がるという劇は、目の当たりにした現実であるとゲームであるとに関わらず共通したものと言えよう。

このことは、死への直面ということについて「そうであったことが必然」「そうなる他はなかった」という物語化が自己の中で自動的に行われ、自己を守り、自己の継続性を保とうとする作業として駆動しているのではないかと考えられる。この点から、自己の物語化、自己物語の形成という手法に対する限界が明らかとなる。つまり、困難に直面している自分に自己の物語化を適用した場合、困難に陥った自分を最も的確に矛盾なく説明できるような分析的物語ほど、今の自分自身がこうなることは当然かつ必然的なことで、そうなる運命だった、という無力感に陥る物語を紡ぎ出すこととなってしまう。

例えば、『AIR』において、"the 1000th summer"という言葉に代表される物語の発見を求める動きがある。空の少女を求めながら、ある時は美凪と傷心の逃避行、ある時は美凪を家族と再会に至らしめ自分はさらなる探索行へ、ある時は佳乃との平穏な生活に腰を落ち着け、ある時は核心の観鈴と触れ合いながらも別れていく、といった繰り返しを見出すことがその物語である。その長大な物語への回収を受容するか否かという点に当てはめてみると、上記の無力感は、観鈴が「私ひとり、死んでいればよかったんだ」という言葉を吐く瞬間には上記の物語化による宿命を甘受してしまおうという部分に該当する。このとき、プレイヤが考慮しうる行く末は以下のふたつあるだろう。

第1には、いつか「神奈」としての空の少女が地上に降臨する時がくる。そうでなければ救いがない。そのキーが観鈴である。だからこそ、観鈴は夢を見る行為を完遂して、地上に奇跡を起こしてくれるだろう、という考え方がある。これもまた物語化のひとつとして希望と肯定性を未来に固着させようとする理想論、べき論である。第2には、これまでの物語と同様、キーとなる少女は夢を見ることを完遂できずに死んでいき、空の少女の帰還は叶わないとする考え方である。これは過去の情報をもとにした無力感、諦念を甘受する運命論的物語化の結果であり、"AIR"における「今回の観鈴」の特権性を認めない立場である。

しかし、実際のシナリオは、その過去の結果や諦念に逆らい、何度も新しく生き直そうとする動きが見られる。実際、往人が消えてしまっても、記憶を失っても、その都度次の生を紡ぎ出す。当初与えられた死すべき地点という所与の物語からの脱却がなされている点に特徴を有する。その結果、観鈴自身は夢見ることを完結させたらしいものの、そこで力尽き、空の少女との関わりは完遂されないまま自らの設定した「ゴール」に倒れ、死んでゆく。そしてそれを受け継いだのは無力な視点人物としての「そら」であった。晴子の叱咤もあって漸く空に飛び立った彼は、空の少女との一瞬の邂逅を果たす。ただし、これはその存在自体も「私は空に届けます」との言葉のとおり、大いなる意志のような者に対する伝達者に過ぎないと考えられることは拙論(*1)において言及したしたとおりである。この結果、少女の地上への帰還は完遂されなかったが、砂浜の少年少女による再びの始まりへと繋がっていく。実際は、このように過去にも未来にも依存しない第3の道を歩むことになった。

また、『智代アフター』において、朋也が記憶を失っても、朋也の記憶にない智代と新たな生を歩み出すことも新たな生き直しという点で『AIR』における第3の道の選択と共通した内容がある。このことは、エンディングにおいて朋也が海と対面しているところで「走り終えたランナーのようにすがすがしかった」顔が、観鈴の「ゴール」と重なって見えることと同様、定められた生から僅かながらでも脱出を図り、新たな道筋を切り開いた結果と言えるのではないだろうか。 過去のTactics/Key作品に共通する、記憶を失ったり周囲から忘れ去られたりする事柄は、過去の記憶に基づいて自己物語を編み出そうとする動きを無効化する手段でもある。このことは、過去によって現在や未来が定められてしまう決定論に対するアンチテーゼとして、記憶喪失というモチーフが繰り返し使用されていると理解することが可能であろう。しかしながら、記憶による物語化とは、人間の行為の必然として我々のなかにべったりと貼り付いている。村上春樹の『海辺のカフカ』においても、この記憶による生について図書館と絡めた話として以下のように「大島さん」の認識を披瀝している。

「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」ベルが鳴りやんだあとで彼はいう。「大事な機会や可能性や、取り返しのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなければならない。掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館で生きていくことになる」

上記のような記憶に依拠しながらも、それが壊れる一瞬を目の当たりにし、記憶喪失そのものもそれ以前も含み込んで、全て所与の条件として生を受け取るという迂遠な道を繰り返すところにTactics/Key作品の特徴がある。その中で、ひとりの生に耽溺して、し尽くして、そこから還ってきたところに初めて立ち上がってくる真の生の姿を見届けるという、生に対する真摯な思いが溢れていることが、「心に届く」所以であると言えるだろう。

(注)

(*1) 「自己のコミュニケーションの彼方へ―『CLANNAD』論― 」を参照。


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