現実感の形成について

初出:Game Deep # Vol.13(2004年10月17日 杜の奇跡6にて初売り)

自己が感じる現実感というものには、どうしても一定の幅や傾向(ある意味偏向)がある。自己が様々な作品から受け取るときに感じることは、どうして私はこの作品にこんなにも惹かれるのだろう、また、どうしてこんなにも嫌悪感を抱くのだろう、と思うことがある。

そこに本人の感じ方は自由という言葉を当てはめるのは、自由との言葉とは反対に、非常に狭量な感を受ける。狭量という客観的な言辞があまりに自己意識にそぐわなければ、自分が感じ取ることができる現実感の枠とはこの程度なのか、という限界に突き当たる感触を抱く。

これは、大抵の場合、作品の評価ということで作品側の善し悪しに帰されるのだが、その際、評価軸となる自己の基準について、基準の形成結果や過程に対する検証が行われているのだろうか、と自らの胸に手を当てたくなる。

毎日の生活の中からは常々感じ取ることがあり、その影響により枠は常に揺れ動いていくものであろう。受容は常に学習という蓄積となり、現実感に作用していくというフィードバックがあると考えられる。

その枠が変わらずに安定しているということは、感じ取ったことを自らの現実感の枠組みにうまく当てはめており、枠組みの強化に資するようになっているか、または、受容せずに切り離すことになっているか、のいずれかであろう。もちろん、切り離すのには忘却という方法もあろうが、忘却はあまり意識的にできるものではない。むしろ、これまでも感じ取ってきたことと同じだからということで記憶に残らず忘却することが多いだろう。

このように考えると、見えていても意味のないこと、自らの役に立ちそうもないことと感じることが、自ら受容体験の中でかなりの部分を占めてくることが分かる。それは、より多くのことを受容してくればくるほど、このような方法での排除の流れを受けるものが多くなってくる。

そのため、情報の集積体としての自己という考え方に対しても単純に首肯できるものではない。例えば、自己の枠組みを決めてしまうような絶対的・圧倒的な体験があったとき、自己の体験の中の容量としては多数を占めるものではなくても、その体験に引きずられてしまう。

ただし、その体験は一回性のものではなく、補強する体験が続くことが、その体験に基づいた現実感の保持・継続に繋がるものであるはずだ。もしくは、その枠組みを意識化し、ある意味信じ続けること。そのような過程がどうしても必要になってくる。

このような過程は、意識化されているか否かによらず行われており、そのなかに自己強化というべき過程が存在する。自らが見たいものを見、体験したいことを選別し、連続性を形成していく作業、それはおそらく脳内で行われているのだろう。

そのようにして形成された現実感というものは、時々刻々の影響により常に更新されていくものというよりは、選別と補強によりかなりの程度の固定性を有することになる。また逆に、自己の現実感に固定性がなくあまりにも揺れ動くものであれば、それは自らの生の実感すら失わせるものになりかねない。これがつまり精神的な病状といわれるものに当てはめられてしまうのであろう。

だから、目の当たりにした「現実」というものは、自らの強化過程によって生成された現実感の枠組みにあてはまるものであり、常々記憶や思い出、といわれるものに基づいて生成されるため、現実と妄想はそう簡単に峻別できないものなのだ。これを逆手に取ると、想像力と認知や知覚と呼ばれるものとの峻別の困難とも言えないだろうか。


Home