初出:Game Deep # Vol.7(2003年12月28日 コミックマーケット65 にて初売り)
これまでのGD#におけるWhite氏の連載(と言っても良いほど恒例となっている)記事、「悪食的映像食記」に触発され、私then-dが日々視聴しているアニメーション作品について記そうと思う次第。
ただし、アニメーションを見るということは私的な領域に属する事柄であるが、まず私自身にとって鑑賞の際のスタンスを大まかに示し、これを読まれる方々ご自身の持つスタンスとつき合わせながらお読みいただければ幸いである。そのうえで、2003年12月現在、継続視聴中の作品に対して言及させていただく。特にまとめたり締めたりする程大上段に構えたものではなく、感想レベルに留まる。
1.基本的なスタンス
(1)設定と謎の解決について
設定上の謎ばかりで引っ張ったあげく、最終回にまとめて解消しようとして消化不良というのは愚の骨頂。設定の謎は、我々が生きる世界の謎であるように有機的な関連が必要。たとえ解決されなくとも、その謎を生きるのが人間という存在そのものである、という落とし込み方が、最も説得力のあることと考えられる。この方法は、まず設定ありきで、その枠の中でうごめく(動かされる)人間、という姿よりも誠実だと考える。設定優先では、「動かし方」という観点がより強く表出されることが多く、不自然さが際だつことになるだろう。
この考え方に立つと、『Theビッグオー』は謎の中心となる記憶に関する言及が曖昧で、謎が謎として解明されるものではなかったが、その謎を抱えつつ生きようとする姿に説得力があり、秀作と評して良いだろう。
(2)分かりにくさについて
大抵の場合、分かりにくさは悪と捉えられることだろう。しかし、実は、我々が毎日の生活を送っている中でも分からないことだらけなのだ。例えば、仕事で上司からの目的のはっきりしない曖昧な指示。それを自分なりに解釈して仕上げたものの、基本的方向性から誤っているという指摘。こんな齟齬はどこにでも転がっている。
そのようなもやもやを毎日の生活の中で経験しているからこそ、せめて作品の中ではきれいに分かりやすいものを存分に味わいたいという方向性が求められることがあるだろう。しかし、それは敢えて強い言葉を用いるならば逃避。せめてアニメーション作品のような「おはなし」の中では安心させ欲しいという意向は、「子ども向け」としてアニメーションを表現物の中で下位に位置づけ、ないがしろにしている証左となってしまう。
手法はともあれ、作品の中で「ああ、これこそが人間だ」と感じ入ることができる作品にこそ多大なる魅力があると考えている。そして、「人間的」「人間らしさ」という言葉で表されるものは、首尾一貫性や意志といった直線的なものよりも、むしろ迷い、嘆き、戸惑うという曲がりくねった姿だ。
私は視聴していないのだが、特撮系、特に最近の仮面ライダーシリーズで、自己の存在を考え、苦しむ姿がよく表現されていると聞く。この点についても、私は肯定的に受け止めたい。この辺りは、以前はライダーマンにより存在の中途半端さに対する言及がなされていた点もあり(幼時につきうろ覚え)、このことを当時から捉えていたものだと言えよう。
(3)戦いと日常について
毎日普段どおりにとり行われる人々の生活が日常というならば、日常の中にこそ人々がせめぎ合い、比較しあい、断絶しあうような場がちりばめられている。そのような観点から、「万人の万人に対する闘争」という言葉は、もちろん現在においても生きている。立ち止まって考え込んでしまえば、学生ならすぐに成績の低下、職業に就いていれば成果を上げられない不良社員となり、結局のところつまはじきに遭う。競走馬ですら、ほぼ毎日、どこかでレースに明け暮れている。風の日も、雨の日も。そして、馬は更に過酷なことに、競走に敗れ続ければ生命すら危機に瀕する(100連敗しながらも皆の温かい目に見守られる高知競馬所属のハルウララ号のような稀有な例もあるけれど)。
このどうしようもなく逃れがたい状況を参照しつつ、的確に、かつある程度モデルとして焦点化された形でアニメーションの表現はなされるものだろう。そのときに使用する手法が戦争や格闘といった物理的闘争の状況か、生活の中でのせめぎ合いという手法を取るかは、物事の切り取り方次第である。その切り口として、戦闘と生活、どちらの味わいが好みか、という受け手の嗜好となって最終的に現れてくるものだろう。
ただし、物理的な力を用いた闘争の方がより物事を単純化した表現に流れがちという印象を持っているため、私には、日常生活を用いた状況をより重視する傾向があることを付記しておく。
(4)特権性とプロットについて
中心人物に何らかの特権性が与えられていなければ、見る側がそもそも興味・関心を持つことが難しい。しかし、特権性が揺るがずに安定的なものであれば、それもまた起伏がなく、つまらない。特権性を維持するかのように思わせておいて裏切る、または、ここでくるぞ、と期待させておいて、その期待に応える。このような運動の連続/非連続がそのまま作品のプロットとなっていく。
それら運動の表出の一環として、例えば、万能感と無力感であるとか、自由と制約という切り口が現れる。運動といっても絵の動きだけではない。ただ、アニメーションが他を圧倒する表現は、やはり絵と動きによるところ。それらの表現とプロットが有機的に繋がったときに、説得力となって現れるのだと考える。
しかし、3Dの絵や動きに傾注した『LAST EXILE』のように、見た目は他を圧倒する表現力であるにもかかわらず、人間に対する洞察は素朴で、その落差には少々唖然としてしまった。ただし、下手な成長物語よりも、クラウスにすれば、自己の再発見であったわけだから、これでいいのかもしれないが。
2.各論 2003/12/15現在視聴中の番組
そもそも、視聴している作品によってその人の考え方、感じ取り方の傾向が掴み取れてしまう、ということがあるとは思うが、ここでは単純に、私の1週間の生活に即しながら、視聴番組の印象を述べさせていただこうと思う。なお、かっこ内は私自身が視聴している時間帯である。
(1)君が望む永遠(テレビ神奈川 毎週月曜日 24:05〜24:35)原作ゲーム未読、情報大いに有
いきなり月曜日から泥沼の三角関係……と言いたいところだが、この時間ですら家に帰り着かず、生放送で見ることができないため、勢い週末に録画したものの消費へとなだれ込むことが多い。
さて、本体への言及だが、悩むのが仕事だ、大いに悩むしかないという感じだろう。私自身、何一つ選び取ることができていない、という感じを強く持つ者であり、このような宙吊りの位置については、人は矛盾を抱いたまま生きる、ということを表現するうえで有効な方法と考えられる。選び取れないのはガキだ、という見方もあろうが、それは逆に言えば、むしろ物事を単純化して分かったつもりになっているだけなのではないだろうか。「おとなになるってことは、そういうことなんだよ」という言葉がどこからか聞こえてくるが。
これは例えば、鷲田清一のように、非決定の状況を引き受け、視聴者自身が抱え込み、考える状況というと褒めすぎかもしれないが。要は、安易な自己決定(自分自身が関係を定め、意味を設定する)ではなく、他者の前に身を晒し、関係が関係を決めるという感触で捉えられるものだと受け取った。この辺りはスタンス(2)に通じるものである。
しかし、その感触はゲームのときのそのままであり、では、本編アニメーションは全編にわたって何をしたか、というと、印象に残るところが少ない。
部分的には、例えば、孝之の中途半端な位置を糾弾する社会的圧力を喚起させるものとして、電車の吊り広告や書店の本によって表現していた辺りは、私がそれらを見るときと全く同様の居心地の悪さを喚起してくれるものであり、その点ではスタンス(3)の日常における闘争と相通ずるものがある。
本作品の終わりにあたり、ある一定の解決がなされたとしても、そこから先、また生き続けなければならないのだ、ということには変わりなく、今ひとたびの始まりであることに言及されていれば、それで充分かつ誠実なものであろう。
(2)AVENGER(テレビ東京 毎週水曜日 25:00〜25:30)原作……あるんですか?
序盤の数回を見逃しているので、以下、正しくない判断かもしれないが敢えて言おう。これまで散々勿体をつけてきた感じだったが、その実内容は大したことがないようにどうしても感じられてしまうのだ。ヴォルク・ウェスタは、いかに善政者を装っても、そのまっすぐさ加減が逆にひどく薄っぺらな存在に見える。社会と声高に叫びつつ、その実、地に足のついていないものだし。彼らのもとを去ったクロスとて同じ。自らの正義を個(孤)として実践しているだけで、その押しつけがましさは「復讐は何も生み出さない」という説教を垂れに来た坊主という程度。既にレイラは、ネイしか見えていない。理念よりも行動によってそれは表れている。しかし、そのレイラとネイの間柄は、視線の交差やふれあい方として非常に味がある描かれ方をしているが、二人の間に閉じてしまっていて、なかなか良さとなって現れているように見えない。
おそらく、この作品は、ストーリーや過去の秘密を追うべきではなく、レイラを喋らせずに、表情、視線、身体の動き(格闘アクションの部分ではない)でいかに雄弁に語らせるか、というところに注目すべきなのだと思っている。そのため、他の部分には目をつぶってでも、見続けているのだろう。その意味では、スタンス(4)の主人公の特権性に寄り添いながら、未知の惑星たる火星をたどる視聴者たる私、という見方でいる。
(3)R.O.D.-The TV-(フジテレビ 毎週水曜日 27:08〜27:38)原作未読、情報無
けだるい雰囲気の、都市(主に東京)での日常生活、この描写が全てを貫流。夕日に映る水辺の街や雑居ビル群というものが、こんなに美しかったのか、と再発見できる点には脱帽。勿論、紙使いの技もダイナミックで、かつ1枚1枚の紙の動きが複雑かつ自然に描かれている点もずば抜けているのだが、それを前提とした日常のゆったり(むしろぐったり)感がやけに映えるのだ。スタンス(3)で日常それ自身が戦いということに言及したが、それを敷衍するならば、日常の闘争を三姉妹の紙技による物理的な戦いとし、それと対比的に日常にある非日常たる静寂との、両極端の2つの方向性を1話の中におくようにしている。それがまた気持ちいい。
逆に、それがない5話と7話は非常に据わりが悪く、見ていて居心地が悪かった。話の始まりも唐突で、三姉妹の事件への取り組み方も、とにかく事件しか見ておらず、直線的に解決へ向かおうとしてしまう。他の回で感じられる日常のだらだら感、紆余曲折、まっすぐ取り組まないユルさのようなものがなく、逆に違和感が募る。私がアクション大作や戦闘の色が強い作品に対して抱く違和感が、生活の中のユルさが現れていないことだと改めて気づかせてくれた。
(4)GUNSLINGERGIRL(フジテレビ 毎週水曜日 27:38〜28:08)原作2巻まで既読
ほぼ原作引き写しだといわれる本作品だが、演出の工夫点について2点ほど指摘することで、本作品への私のスタンスとしたい。 まず、ヘンリエッタについて。彼女がジョゼのことを「好きで好きでどうしようもない」というプロフィールが、言葉ではなくモジモジ感によってでているのは仕草の表現として、よい感じの動きであると思われる。
紅茶の飲み方で皿を持っているところ辺り、きちんと教えられたことを守っている点が1話と2話とで繰り返されていたが、そうすることで、2話におけるヘンリエッタの夢の中での話との関連が(録画して繰り返し見たりしなくても)分かるようになっている辺りが効果的であった。
フラテッロという関係を踏み越えるおそれのある危うさについて発端となるのは、明示的にジョゼがオリオンの神話を語るところに現れている。彼の神話には私が知っているだけでも2つあり、ここで紹介されているアルテミスに黄金の岩と間違えられて射殺される話と、サソリにかかとを刺し殺される話がある。ロマンスの色の濃いアルテミスに射殺される話が選ばれているのは、ジョゼがヘンリエッタに殺されても構わないということの表明に聞こえてしまう。おそらく、序盤でヘンリエッタに関する言及を厚くし、原作第1巻の最終2話と関連づける背景があるのだろう。上記2点の作りの丁寧さが、ヘンリエッタに対する保護者的視点を視聴者側に与えていくことになる。そうすることで、ヘンリエッタをガイドとして、彼女らを見守る視点というものを、視聴者が獲得していくのだと言えよう。
次に、リコについて、10/29放映分を中心に。
今回のキモになる「朝、目が覚めるたび〜」の件。この軽々しい声は、無理に作ったもので、わざとらしいほどの明るさや軽薄さを有し、それが逆に空虚感をもたらしている。
リコはジャンの仕事の道具。男と女という関係に陥らないため、ジャンはリコに、リコという男の名前を付けている。人格どころか、眼前の肉体的性別すら否定されても、リコは指示に従う。「言われたとおりにしていれば皆優しいから」という思考停止。その実践にあたっては、「うん、大丈夫、大丈夫だよ」と自分に言い聞かせて臨む。
ジャンがリコの頭に手を当てながら「もし仕事中に誰かに姿を見られたら、必ず殺せ」というのも、その行為が思考停止を、洗脳を彷彿とさせる。撫でる、いとおしむということに繋がって良い、肯定的に受け取られるべき「頭を撫でる」という行為が、否定的にしか理解を許さない寂しさがここにある。また、原作にはないシーンだが、ダニエレがエミリオの頭をくしゃくしゃと撫でるところが追加されているのは、ジャンとリコのこの行為ときれいに対応されている。やめておけ、諦めろ、という断念を誘う「頭を撫でる」という行為の強調。エミリオのカットを追加することによって、たった一つの行為が、これだけの強度を持って立ち現れてくる。この演出の力は侮ることができない。
ラストシーンの「動く」ことを感じ取る身体も、改造・洗脳を経た身体であるし、なんともやるせない気持ちになる。だからこそ、「私なんかを好きになってくれる人がいてくれたら幸せだな」の言葉の後、リコとヘンリエッタのバイオリン"共"奏に意味があるのだろう。ここは、一緒に弾くという行為自体から伝わる、お互いの想いの交換というものが感じ取られるシーンとなっている。また、始めの方にある「真実の愛を教えてやれ」のやりとりは、ちょうどこれと対になっている構造。追加されたこのバイオリンの演奏シーンは、演奏の質に対するリアリティはどうあれ、劇的な効果を上げており、見事に成功していると言えるだろう。
これらの点から、1話毎のプロットは、原作をほぼ忠実になぞりながらも、追加されたシーンが意味を持ち、有機的に結合されている点から鑑みても、本作品がアニメーションとして存在している意義が明確に読みとれる。
また、スタンス(3)の点から鑑みても、単なる銃撃、殺戮が目的・手段として一直線に流れていくのでなく、生活の機微を主体として、その中で、殺伐とした状況に身を投じるしかないという制約が課せられている。
また、少女への偏愛という構成上から倫理的に断罪する向きがあることは、逆に、人がいかに表面上の物事の取り繕いによって生きているかということを逆照射している。それが本作品によって現れ出たのならば、それもよかろう。
(5)プラネテス(NHK衛星第二 毎週土曜日 8:05〜8:30頃)原作未読、情報無
第1話からしばらく、タナベもハチマキも、周囲の面子もがなりたてるように押しつけがましい言動のオンパレードで、いたたまれない気分でいた。いくら宇宙が地上と全く変わらない日常生活の場だということを強調しようとする意図があったとしても、こんなガキの避難船のような職場があってたまるか、という印象しか抱くことができず、出だしでは大きくマイナスイメージを抱いた。このような導入の方法を用いることにより、より多くの視聴者を得られるという算段で制作されたのなら、大人気ないという他はない。このような押しつけがましい「きめつけ」感が、最近はようやく落ち着きというか、主に死を介して、語り得ぬものの中に現れること、という味が出始めたようで、魅力を感じられるようになってきた。
機器や装置、また、宇宙空間内での動きについては、こんなものかという感じ。数々の宇宙における活動から引き写してきた想起の範囲内にあり、違和感はないものの特筆すべきこともない。
宇宙が日常そのものとして捉え、そのため前述のような人々のガヤを用いるのだが、それが多様性を引き出すように見えて、むしろ平板な生活を強調してしまっている。それが、『R.O.D. -The TV-』のような味になっていればいいのだが、そうはなっていない。近い将来、実際に我々が宇宙で生活し始めればそうなるだろう、という説得力にはなっているが、表現上の道筋が直線的過ぎるため、深みがないというべきか。
また、演出上、地上では今こんなことが起きている、という状況を示すためのシーンが入れられることがあるが、それを最後に持ってきた第1話、第11話では、その部分だけが説明臭く、浮いてしまっている。地上の民族紛争や国際情勢は、視聴者である我々の生きる現代の状況の引き写しで、敢えて1シーンを使って具体的に(しかし、1シーンのみであるため、枠組みの提示で終わってしまう)描くが故に、かえって余韻をうち消し、見る側が受け取った際の想起の範囲を狭めるマイナスの効果となってしまっている。この部分は、前述の「きめつけ」感と共通した押しつけがましさとして受け取られてしまうのではないか。
(6)ふたつのスピカ(NHK衛星第二 毎週土曜日 9:00〜9:25頃)原作未読、情報無
あまりにもベタな話であるにもかかわらず、その出だしのファンタジー色から引きつけられる自分がいる。入学以降、リアルな面が強まってくると思われるので、序盤に感じたファンタジー的側面による味が薄まらないかというのが個人的な心配。この絵柄では、マジな話にシフトしてしまうとプラネテスに敵わなくなってしまう。同じ土俵で戦うとは思えないが。
始めの、ファンタジー色の強い1話、2話だが、親子関係を中心に見ると、これらは結構「いい話」であり、それだけでも機微を捉えた丁寧な作りであったと言える。しかし、定型的人間観に則ったものと捉えることも可能かもしれない。どちらによって立つかは、解釈する者の有する背景や戦略に左右されるだろう。この部分だけ切り出しても仕方ないということもあるが、少なくとも、表面上のタッチは、「ライオンさん」の存在によって単なる家族ものから一段深みを増したものになっていることは確かだろう。今後もそこを生かした作りになっていくかどうかが、スタンス(2)から見た、私的評価の分かれ目かもしれない。絵は単純で平板、動きで見せるというものでもないけれど、何はともあれ現状では結構楽しく見ているという感じではある。
(7)D.C.〜ダ・カーポ〜(TVKテレビ 毎週土曜日 24:45〜25:15)原作ゲーム既読
予告で杉並が「これ以降萌えなし」と明言して以降、クオリティが上昇。ゲームの名を冠するかぎり、そのゲームの内容に依拠していけば、後半はぞんざいな作りにはならないはずだ、という想いに応えてくれるものになっている。この導入の方法は、萌えで客を呼び寄せておき、実のところ話はそう浅はかなものでは終わらない、といういゲームの姿をそのままかたどったものと考えて良いだろう。ゲーム自身「こそばゆい学園恋愛AVG」という自称のジャンルそのままと見せかけて、実はなかなかに味のある、懐の深さを見せてくれた。
私のような見方でいるような人は、序盤は早々に捨ててしまいそうな感じの臭いがプンプンしていたが、そこはゲームをプレイしていたアドバンテージもあり、我慢し続けて見ていた甲斐があったというもの。しかし、そのゲームと比較してしまうと、問題なところも出てきてしまう。
頼子との別れのシーンは非常に丁寧な作りだったし、消え去って、服だけ抱きしめて、というところはタイミングとしても、演出としても目を引くものがあった。しかし、個々のシチュエーションとして、目を引く点は頼子の例のように後半を中心に多々あるのだが、全体を見渡すと、透徹した一つの流れとはなっていないところが残念。この辺りは結局のところ、原作ゲームのつまみ食い的なところを脱し切れていないからではないだろうか。特に、ゲームにおける音夢シナリオでの病状や倒れてからの生活については、快方という方向へ一直線状に向かうのではなく、寄せては返す波のようにプレイヤを不安定にしてくれるものであった。しかもそれが揺りかごのように心地よい焦燥なのだ。このような表現の手厚さがなく、音夢は大人しくベッドにおり、時折申し訳程度なやりとり、という程度では、ゲームに全く太刀打ちできていない。残りの数回でどれだけ一方向的な突っ走り感ではない表現の深みが現れるか、期待したい。
ただし、さくらについては、「ダメだよ、音夢ちゃんだけは」ときつく言い放っておいて、ころっと普段の感じに戻す変わり身の早さや、けなげさを装った直後の図々しさといった「らしさ」が、シリーズ前半から、さくらの行動の端々に現れており、この点については感心しながら見ていた。この点は、ゲームのさくらにも(ゲームのシーン引き写しではなく)通じるものがあり、スタンス(2)の「人間らしい」表現の手厚さなのだと感じ取った。
このような厚みがある時点で、本作はシリーズ全編を通して見るものがあったというべきだし、単純に後半だけを切り離すべきものでないことが言えそうだ。
(8)ヤミと帽子と本の旅人(東京MXテレビ 毎週土曜日 25:30〜26:00)原作ゲーム未読、情報有
ゲームともまた違うし、なかなか掴み所がない感じではある。コンセプトはオープニングの歌のとおり、また、エンディングの本がそれ自体平行世界を現しており、その設定は魅力的なのだが、大枠の設定が葉月を中心とした物語、と割り切ってしまって良いものか、設定面で半信半疑のまま、その状況から引き出される可能性を想起しながら楽しんでいるという側面がある。例えば、ゲームで主人公が意外な存在であったように、視聴者を物語の内部に巻き込む形もありうるのではないかと思う。その可能性は、ナレータが「では、こんな物語はいかがでしょう」として提示してくるのは、明らかに視聴者がテレビの前にいることを前提とした語りかけ方である点から引き出せないか、などと考えてみたりする私がいる。
要するに、メタに溺れる自分を再発見しながら見ているという状況で、作品自体からは多少はずれ、邪推モードを発動させつつ楽しんでいるという感じか。自らがどの物語に乗るか、という点で考えていくならば、全てが明示的に解決されずとも、スタンス(1)の設定の関する問題を自らの者として引きつけて見ることができるだろう。
また、葉月の剣がほぼ無敵である点などは、葉月視点で見ているであろう多くの視聴者側に対して、作品からの揺さぶりが感じられなくなってしまう点から、疑問を感じてしまう。この点については、スタンス(4)の点からみて、食い足りないと感じられる原因になっている。おそらくどこかで、葉月も物語の1つでしかない、という突き放しがあるのだと思うが。
(9)明日のナージャ(テレビ朝日 毎週日曜日 8:30〜9:00)原作未読、情報無
いい意味でも、悪い意味でも、まっすぐなアニメーションだと思われる。 私が小学生以下、幼児も対象にしたものを見るのは大変珍しいことなのだが(おジャ魔女どれみもセーラームーンも全く見ていない)、ナージャが「考えてから行動する」のではなく、「動きながら考える」ところに人間らしさが現れてくる。所謂「いい子」だけではないところ。特にローズマリーにされた仕打ちの後、「許せないよ」と呟く姿は、今まで正しさや建前で生きてきたところから、一歩深まったと感じ入った。
こういった人間の暗部の提示について「子どもにそんなものを見せていいのか」というお叱りが多々あると聞くが、このような浅薄な主張こそ退けたいものだ。そのようなことを主張する「オトナ」はそういうことに一切触れずにこれまで生きてくることができなかったはずであるのに。
ナージャの対応も、作品中の大人の対応も、ほとんどが生活の中で型として身に付いてしまっている紋切り型の「良い」「正しい」こと、というのが前半〜中盤にかけての流れであるが故に、それをひっくり返すように人間の複雑さ、錯綜性を導き出しうる表現が描かれたことにスタンス(2)から見て意義を感じる。
「小さい頃は神様がいて」という歌もあるように、幼時の万能感から始まり、社会の矛盾や他人との軋轢を次第に経験していくというのは、子どもの成長そのもので、それをなぞるかのような本作品の作りは、実態に裏打ちされた誠実なものと言えるだろう。
要は、成長や変化も紋切り型では面白くないということ。ナージャはまだまだ紋切り型の正義で突っ走って転ぶパーソナリティを繰り返し発揮してしまっているが、その動き方が彼女の運動における個性として残りつつ、しかし、矛盾を感じ取りながら、深みを有するようになっていけばいい。その萌芽が前述のシーンで見られたが、まだできあがったレディとはならず、まさにバラのつぼみ。そのつぼみの危なっかしさを楽しむことで、私は過ぎ去ってしまった過去を思い起こしつつ、現前する状況を必死になって動く者たちを慈愛の目で見つめていくのであった。