初出:GD# Vol.5(2003年9月7日 KeyMix 5th Mix にて初売り)
『D.C.〜ダ・カーポ〜』(以下、『D.C.』)に対する言及として典型的なものは、所謂ギャルゲーの要素を様々なところから引いているが、核となるものがなく、成功していないと言われることである。それは、『AIR』であれば"SUMMER"によって提示され、"DREAM"によって繰り返される物語のバックボーンがPLに沈殿していることである。その定着が図られた後、"AIR"が改めて開始される。それでは、同様の「核」は本当に『D.C.』において存在しないのだろうか。
『D.C.』において常に意識せざるを得ないのは、他のギャルゲー・アニメに対する言及である。これは昨今「同人」とされ軽く見なされるが、古典文学においては至極当然のことであった。例えば、和歌や連歌における「本歌取り」、能の「本説」などは典型的である。美術においても、ルネサンス以降の沈滞期にはルネサンス様式の模倣・誇張としてのマニエリスムが存する。
しかし、マニエリスムが単なる形態の模倣である沈滞期であったかというと、そうではない。ルネサンス期の自然的なものへの対応に対し、誇張や理想化の手法を利用しつつ、自然を超えた洗練や観念性への発露がもたらされていった。
ギャルゲーにおいても、この流れのように、一通りの形態が消化され尽くされたいま、閉塞における内破を求めた動きがあってもおかしくはなかろう。その端緒が『D.C.』に存するのか、具体的に見ていこう。
主人公の造形だが、純一の特殊能力である和菓子を生み出す力は、本人自身が言うように役に立たないが、その存在様式が『AIR』における国崎往人の人形を操る力と近似している。ただし、往人の力は、1000回の繰り返しのうちにその本来の意味を失ったものであるが、純一の力は、魔法を失った祖母から受け継いだという点での縮小再生産である。
純一においてそれより重要な点は、音夢シナリオにおいて、音夢の想いを受け止める際の
鈍さを演じていた心が現実に裏返る。
音夢の想いなんてすぐに分かった。
いつの頃からか。
そんなことは掛け算よりも割り算よりも先に理解した想いだった。
という言葉により、それまで典型的なギャルゲーの主人公という存在であった純一が、その存在様式自体に自覚的であったことに自己言及していることが明示される。これはギャルゲーの文法そのものの揺さぶりがかけられているといってもよい。これにより、例えばTo Heartにおける藤田浩之などが想起の俎上に上げられることとなる。
朝倉音夢シナリオにおいては、テレビドラマという劇中劇の「あなたの記憶の中で笑顔のままでいさせて欲しいから」という言葉に、音夢自身、そのドラマの言葉を本心では信じておらず、「女の子の気持ちなんて全然考えてない……男の人が書いた、都合のいい話だって。」という。この瞬間、『D.C.』自身がその言葉にそのままあてはまることを思わずにはいられなくなる。そして、音夢自身がその役回りを演じることになり、メタフィクションの構図が浮き彫りとされる。そのドラマの舞台が学校の屋上であり、また音夢と純一もそれをなぞっていくという点も定型的なものであろう。
また、芳乃さくらシナリオ中には、想っただけで実現してしまう世界を提示することにより、それ自身がギャルゲーの構造そのものであることを「ここはやさしい魔法の島」「メルヘン、みんなの力を集めて、1人を助けようっていう幸せな世界」(=PLの力を集めて、ヒロイン1人だけを救うギャルゲーの構図)という言葉とともに揶揄しつつ、美しさの頂点を持続する桜の花と、「誰も傷つかないように笑っている」さくらの行動(これは月宮あゆを想起させる)とを、「覚めようと思えばいつでも自分から覚められるもの」と言い、自分の存在を賭してまで、自分のための世界という安定を壊す行動に出る。
音夢にしろ、さくらにしろ、PCの(=PCにより喚起されたPLの)想いがそのまま通じてしまう世界は、彼女たちに苦痛を与えこそすれ、同一化は叶わない。このモチーフは『AIR』を想起させずにおかないが、傍観者として突き放す『AIR』に対して、『D.C.』においては理想となる出逢いの桜を1本だけ枯らすことにより、調和を図りながらも完全性に瑕疵を与え、それが内部への安住を揺さぶるものとなる。
いずれの例によっても、ゲーム内にはPLの想起によるゲーム外部への道が存在している。これは、音夢シナリオにおいて、音夢が純一との思い出の全てを夢として見、それを手放そうとしないことで病状を重くすることと対応している。「お兄ちゃんの愛情を永遠にとっておこうとする……せっかく夢を見ても、それを持っていかれないように頑張る」音夢が夢を手放すことで快方に向かうように、PLの想起によりゲーム外部へ道を開き、記憶を内部のみで完結させないように仕向けられている。
また、さくらによって、ほぼ1年前の日に戻されてしまうエンドの存在がD.C.マークの付与となることもあり、循環ゲーの要素も網羅されているのだが、各ヒロインとのエンディングという一応のFineを迎えても、PL自身が次のキャラクタの攻略をもくろんで再プレイする限り、D.C.のマークは自動的に付される。この構造を想起させずにおかないことも、ギャルゲーによるギャルゲーへの自己言及が込められている。ここには、ギャルゲーを数多くプレイしてきて、飽き飽きしながらも、それでもプレイを止められずPC同様「かったるい」とひとりごちながらもプレイを止められないPLの構図もまた透けてくる。
上記例のほか、特定のギャルゲー・アニメを想起せずにおかない多くの自己言及と、D.C.という音楽用語とによる循環性の示唆により現れたのは、『D.C.』作者による記述と、PLが読むこととの過程をぎりぎりまで接近させる効果である。これは、破綻と見える空白(核の不在)から、様々な可能性としての物語を紡ぎ出し得ることとなり、それが読者のギャルゲーに関する記憶に委ねられることから、ゲーム自身を、そしてギャルゲー界の再構成を読者に委ねていることになる。
読者の記憶を核とし、ゲーム内にちりばめられた引用の破片は、それを通して外部の特定のギャルゲー・アニメの記憶をPL自身から動的に生み出す契機となり、その結果として、PLの記憶はゲーム外部に留め置かれ、遍在していくこととなる。この結果、内部において外部を語らしめ、外部において内部に対して関係づけられるという、意味の生成が同時に意味の転移へと繋がる構造が確立されていく。よって、遍在する記憶の断片を関係付け、編み上げるのはゲームのプレイだけではないPL自身の作業となり、それゆえ『D.C.』には明確なFineが存在せず、Fineは自分自身の生が終焉を迎えるときとなるだろう。