〜既視感(デジャ・ヴュ)と記憶と光たち〜『CLANNAD』追究への取りかかり

初出:GD# Vol.11(2004年8月13日 コミックマーケット66にて初売り)

本作を概観した際に最も感じたこと、それは既視感であった。言葉の端々に、シーンの端々に、状況の端々に、いつか見た光景が繰り返されている。しかし、それが短絡的な焼き直しと断ずることができるか、といえば、そう一筋縄ではいかない感触が残る。本論では、この点を手がかりに、明解なようでなかなか全体像を現してこない『CLANNAD』への取りかかりを探ることとしたい。

まず立ち現れる思わせぶりな「幻想世界」のプロローグ。『ONE〜輝く季節へ〜』を知っていれば、その冒頭シーンが特定ヒロインのエンディングを経て折り返されてきた位置に属する理解が可能であることから、気が抜けないことは明確である。おそらく本作でも何らかの仕掛けがあることは冒頭から充分に想起できることだろう。シナリオ中で渚の口から「幻想世界」で見た光景が「冬の日の、幻想物語なんです」として折り返して示されるなど、二つの世界の関連性を仄めかし続ける。

「幻想世界」は獣の登場により、『ONE』の永遠の世界よりもさらに『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の色を濃くしていく(角の数や形状は異なる)。「僕」はその獣を心のあるものと認めず、「あいつらは生き物の形をした『何か』だ」というが、道に迷った「僕」を少女のところまで送ってくれ、心や、感情らしきものが存在しているらしいことに気付いていく。次に、雪の降り出したその世界から出ようとする「僕」と少女はたくさんの獣たちの助けや勇気を得て、雪の中を進むシーンがある。獣の行動の変化は、光を集める過程と連動しているように仕組まれている。光を集めることが進み、「after story」に入ったところの「幻想世界XI」において、獣たちによる二人への手助けのシーンがあることと照合すると、光の収集により、獣の意識が少女と「僕」の支援に向かっていくことが読み取れる。これは、『ONE』の永遠の世界での描写において、静止している世界から風を感じるようになり、「こんなえいえんなんて、いらなかったんだ」に至る律動との類似性を指摘することが可能である。

 ただ、明確に異なるのは、少女が「助けてほしい」ということから、「僕」が光を集めるという支援があれば、助かるという明解な解答が待っているということが「幻想世界XII」で示されていることである。さらにダメ押しをするかのように、「…さようなら…」「…パパっ…」という最後の言葉により、父と娘(汐のみならず渚も含まれるか)という擬制がなされてしまっている。

その二者が、片方は「幻想世界」の住人から「幻想世界」そのものへの同化、もう一方は「幻想世界」の光ががらくたに宿ることで生成された不自由な存在(人ではなく、たくさんの光の中の一つという説明がある)から「遠い世界」(朋也を主人公とする学校・家などの生活世界)の住人へと帰っていく。二つの世界に分かたれた二人は、朋也と渚の「出会いの日」に舞い戻るという形で、再びの生を生きることになる(少なくとも、何もヒントを得ずに「after story」を完遂することは難しく、一度ゲーム冒頭まで戻らざるを得ないことを想定している)。

このような構造の中では、『ONE』にあった、「みずか」が「瑞佳」と常にズレ続け、妹の「みさお」との混同を見せる点とは明らかに異なり、登場人物との直接的関連性が回避されている。少なくとも、「幻想世界」少女が渚・汐の二者に跨るとしても、登場人物との相違という矛盾点を明確に指し示すことはできない。

基本的には、「幻想世界」と普段学校・家庭で過ごす生活世界は『ONE』のように折り返されるのではなく、背中合わせで繋がって進む平行世界と解した方がしっくりくる感じである。この方が、「一番遠くて、一番近い世界」という言葉や、同じ場所にいて、見え方が違うだけという説明、「きみは、ふたつの世界に存在している」という点にも合致する。

その中で、何度もプレイをすることで、朋也が繰り返し出会いの日から駆け抜ける日々を過ごすうちに、プレイヤの記憶として残された、光を集め、「助けてほしい」という想いを叶えようとする行動に連なっていく。それは、繰り返されるゲームとしての構造と、記憶を生かしたものである。ただし、表現としても、繰り返しをもたらす手法としても、『AIR』の技法を見てしまった後では、切迫性が薄れた感じは否めない。特に、プレイヤの選択によるゲームのプレイを救済のための支援と設定することは、わかりやすさと共に、陳腐さをも抱かせる作りである。この点を鑑みると、本作は『ONE〜輝く季節へ〜』の構造をほぼなぞりながらも、より解釈を容易にするための言葉を用意し、単純な理解に資するよう仕向けているような感触を受ける。

「幻想世界」のシーンでは、『ONE』同様に「終わってしまった世界」「永遠に終わり続ける世界」と世界設定が非常にく限定されていたことから「世界の意志になる」「世界の心」という台詞がそれほど鼻につくものではなかったものの、生活世界で渚がエピローグで話す人・家族・町・世界については、全てを同列に見据えている中に世界という言葉を置いている。無垢といえばそのとおりで、渚という存在だから許される特権のようにも思える。

しかし、このような素朴さに類似するような場面はあちこちに見え隠れし、素朴さに従う方向へと我々を誘導し続ける。ことみシナリオでは、「世界なんて、どうだってよかった」と父母の帰らぬ世界を恨むが、その世界を最も美しい言葉で説明しようとしていたのがことみの両親であるということがわかり、そのとき、ことみのなかで世界との折り合いがつけられる。

最も典型的なものは芳野祐介の告白である。祐介は始めは自らが思うままに歌っていたが、求められることをきっかけとして全体性への奉仕を意識し、それ故にかえっておかしくなってゆく主体の姿があった。ここには、他者の要望・希望・願いが、むしろ自らを崩壊に導くという逆説が現され、全体性への希求が断念される一連の顛末が訥々と語られる。その後の立ち直り方は、ただ一人のために歌うという、限定されているがしっかりした立脚点を有し、「ラブ・アンド・スパナ」というCDのタイトルに示される陳腐さが、限定された世界のもつ強度として示されている。ここには天への志向が断念された後、地を這いながらもそれ自体を強さに生きる姿が最も説得力をもって描かれている。それは、自分にとって世界の全てだといわんばかりの強度である。

朋也自身も、生活世界の中での第一声「この町は嫌いだ」から始まって、渚エピローグで渚の言う「私たちは町を愛して町にはぐくまれてるんです」と同じ境地に至る。

このように見てくると、全てが家族の称揚、ひいてはそれを叶える町の称揚、そして世界の称揚を本作が目的としているかのような姿が浮かび上がってくるのは否めない。確かに、このようなテーゼをこれだけ幸福に描ききってしまえば、そのように読まれるのもいたく自然なことであり、とくにそのテーゼ自身を否定する理由は何もない。

そうであれば、全てが世界に向かった動きを見せているのか、検証する必要があるだろう。ゲーム内では、家族・家庭であれ、トポスを有した町であれ、いずれも地に足のついた立脚点を持つ者として表現されているのだが、世界という言葉と直結すると突然抽象度が高まり、前二者との親和性に疑問が残る。

例えば風子の好みであるヒトデは、その形状から星と見誤られる。なぜ夜空に輝く美しい星ではなく、水面下を這い、動植物を貪るヒトデなのか。それは、高みに位置する手の届かない星よりも、実際に手にし、抱きしめることのできる近しい存在に抱く親近感という比較の仕方もできよう。

次の例としては、有紀寧が関係を築いてきた人々はことごとくはみ出し者であり、彼ら一人ひとりとしっかりと結節点を得ることが自らの役割と認識し、それを「こんな私でいたいと…そう思います」とストイックに役割を努める。最後には朋也の劇的な行為でそれが破られ、シナリオは終わるのだが、その破られ方もまたささやかな幸福に満ちている。

ことみシナリオでは、

「いいかね? 観測できる時空だけが宇宙ではない」
「世界がこの形を得る過程で剥がれ落ち、微細に封じ込められた次元、言わば『隠された世界』が存在する」
「その行方を、夫妻は最初に突き止めた」
という解説がなされる夫婦の研究方法にあるように、いずれの側においても、世界全体を把握する透徹した方法という置き方よりも、そこからこぼれ落ちるものに対してまなざしが向けられている。このような視点で把握されていく世界というものは、全体性へと直結した世界とは異なるように感じられる。

この点では、一部が本作のモチーフと考えられる前述の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』において、主人公は「限定された世界には限定された幸せが与えられるんだ」という自嘲気味の台詞を吐いている。ここではその言葉どおりの意味でないのはもちろんであるが、本作においては世界という言葉を非常に身近に引きつけ、限定された世界に対する祝福がなされている状況に満ちていると受け取れるだろう。

渚のいう世界も、みんなが自分の住む町を愛せば、という趣旨で町から世界への拡張が行われるように、例えば、町同士がそれぞれ自らの幸福を考えて衝突するといったことが想定されず、また、渚という存在だからこそ、そういった杞憂をここで持ち出す必要性を感じない、光あふれる美しい町の姿を目に焼き付けながら、ある意味強引な終局を迎えることとなる。

『ONE』で浩平が人々から忘れられていくように、自らのシナリオでは人々の記憶から消えていく存在であった風子は、その点では、「幻想世界」の少女が、がらくたを依り代にした「僕」と別離し、誰からも忘れられ、孤独となり、世界そのものとなるため、孤独感を抱かせる点での共通性が見出される。そして、風子は人々と再び相見えるところから、改めてスタートを切る。この点をもってすると、前述の「幻想世界」にある少女は「幻想世界XII」における世界の縮小により、逆説的に自分と世界との一体化を果たしてしまうのだが、それに似た状況を風子は既に辿ってきていると言えよう。

そして、渚シナリオを立脚点とする「after story」(朋也と汐が消えゆくルート)において、風子は汐を連れ去ろうと企む。意図は不明確なまま未遂に終わり、朋也と汐は悲劇の終局を迎えることとなる。ここでほのめかされるのは、風子が既に知り得たことをもとに、風子なりのやり方で、汐を狭く落ち込んでゆく世界から連れ出そうとしているといったようにも読めるということである。そうであるならば、エピローグのシーンが風子でなければならなかった理由も了解できそうである。

これらの状況により、結局登場する人と家族・町・世界との幸福な一体化は勝ちとられたのであろうか。おそらく、それはなしえたとしても一瞬のことだ。町は変化を続けるし、関係も移り変わる。その中で、一瞬でも成就に至れば喜びとして肯定的に捉えようとしているところであろう。

一体化が永続的なものであれば、自分の記憶とズレつづけていく町の変化について行けなくなり、取り残される想いを有した朋也の心情との齟齬をきたす。完結した美しさというものは、現在を生きる者への糧とはならず、記憶として固定され、過去形の言語で説明できるものになってしまう。そうなった瞬間、その記憶は朋也が陥るような「昔はこうだったのに」という思考をなぞるものになり、今を生きる力とはならなくなる。また、それが固定化し永続性を有してしまうならば、祐介の告白の中にある「違う。強すぎれば、それこそ偽善だ」の言葉と同じ道をたどってしまう。

それらの境地に至らず、宙づりの状態を現しているのは、過去に縛られ、現在を変えずに生きている美佐枝なのだが、過去を過去として整理できずにいるが故に、美佐枝自身の口からは語られず、猫の抱く夢としてしか語り得ないものなのである。

最終的に、家族や町に依拠し存在を確認することは、進んで拘束を引き受け、それにより安定をするという存在の方法であり、家族と町という相違は、その発現の次元が異なっているということである。そこに至るまでに、幻想世界と生活世界という二つの断片により、特異な時間性の蓄積が行われ、結果として非常に素朴な、家族礼賛、町のトポスといったテーゼとして現れる点には、どこかしら捻れが感じられる。

それでは、上記の素朴な結論を称揚するために、何故このような迂遠な作業が必要となるのか。本来ならば、この特異な時間性は、物語を統一的な唯一の時間軸に落ち着かせることが目的ではなく、その運動と絡み合いこそを主眼として描くべきではないのだろうか。そうであればこそ、渚や汐の死と生の両面を体験し、存在をあらゆる側面からあぶり出す方法を用いて見出す何かを得ようとしてきたのではないか。そのような特異性を、唯一の価値称揚で理解して事足れりというのでは、登場人物の個別の生という事象が、あまりに一般的普遍的に解消されすぎている。そのため、現在最も必要なことは、この特異な状況を、時間性を、最も根本にまで遡って繰り返し、展開し、自壊させ、再構築するという試みを繰り返すことなのではないか。

そうであれば、出会いの日の、

「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ。
あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」

という言葉は、渚の死後の仕事だけに逃避する朋也にも、常に固定された境地に対して突きつけられ続ける。幸福のエピローグであっても、それは例外ではないのだ。

そのことを示すため、エンディングテーマが流れた後、最後の最後に至って、風子による半畳めいたエピソードがわざわざ挿入されている。ここでは、「楽しいことは……これから始まりますよ」という台詞によって、「次の楽しいこと」が訪れるきっかけになる出来事が既に始まっている、という回帰・輪廻の構造を付与して、ゲームは終了することになる。

この後、タイトル画面には光のあった部分に、白いワンピース姿で木の根本に横たわる少女の姿が現れる。このようなゲームの進行とタイトル画面の変遷については、既に『AIR』においても行われており、ここにおいても既視感が得られる。また、『AIR』のラストシーンにもあるが、回帰性を強く志向する砂浜のシーンや「無限の終わり」という言葉があり、明暗や肯定的・否定的という点の差はあれ、全体的な構造は『CLANNAD』においても共通性を保持している。さらに言えば、『AIR』のタイトル画面に現れる少女が登場人物の誰でもないことと同様、『CLANNAD』のタイトル画面に現れる少女も、その容姿から察する限り、汐でも、当然渚でもない。

「幻想世界XII」を読む限りは、その最後の決定的な「…パパっ…」との呼びかけから、幻想世界の少女は少なくとも汐と対応する存在でなければならないはずである。しかし、この「after story」では、幻想世界の少女の帰還は、渚の出産の場面後のムービーと主に現れる、おそらく「幻想世界XII」の代わりとしての

お連れしましょう
この街の願いが叶う場所に
ああ…
今、終わる
街の思いにつれられて…
その長い、長い旅が。
手を伸ばす
無数の…光と共に。

の場面によって帰還が果たされ、渚の命として宿るなどと考えるのが自然なところである。そうすると、風子が呼びかけている少女(=タイトル画面の少女)の存在は、登場人物の誰でもないことになってしまう。

この点の理解には論拠が少ないのであるが、ゲーム内部からタイトル画面に浸食しているこの少女の存在は、作中の家族や町に属していないプレイヤの位置に近いところまで進出している。プレイヤは見て、読み、選択しつつも、ある程度作品との距離を有し、傍観者的立場にあるしかない存在だが、人であるからにはこの普遍性を有した話の当事者となるはずである。それゆえ、この作品世界の中に位置を占めることができ、この作品世界の内部に生まれ落ちるこの少女の存在に仮託して、プレイヤを作品世界内と繋ぐ役割を果たす存在であると考えておきたい。

このように、前作『AIR』と非常に近似した感触で『CLANNAD』の終了を感じ取りつつも、また、『AIR』同様に、ゲームから我々プレイヤ自身に対して折り返されてくる想いがある。あくまで現在の状況を否定せずに、プレイヤ自身も次の楽しいことを見つければよい、との求めによって。そのような律動があることこそが、我々が生きる自らの物語へ刻印がなされるのであり、自らと切り離され合理性と明晰性に還元される記憶ではない、生きた記憶となっていくのであろう。


Home