彼方の記憶(『CLANNAD』論)

初出:Romantic Irony(2005年12月30日 コミックマーケット69にて初売り)

0.本論の目的

本論は、『CLANNAD』の作品論として、映画『花とアリス』や麻枝准作品『ヒビキのマホウ』を引き合いに出しつつ、『CLANNAD』の作品について検討するものである。

1.花とアリスの記憶の捏造

以前、C.F氏とともに『花とアリス』を映画館で鑑賞した際、氏から「自動的に打ち込まれたI(アイ)について」という方向性の指摘を受けた。確かに、宮本雅志のことを記憶喪失だと自分に都合の良いよう決定づけ、宮本との恋人の関係を、過去の感情と記憶を捏造していくハナ。ハナにつじつま合わせをお願いされたことをきっかけに、宮本との過去の恋人役を務めながら二人がつきあっていた頃の思い出を捏造していくアリス。全てが嘘だと分かっても、「責任取ってもらうからね」とその嘘に乗り続けることを表明する宮本。 さらに、例えばアリスが創り出す宮本との過去の記憶は、多くを父との貧弱な交流に依拠していること。

これらの状況から見て、過去の記憶の捏造による自己の再構成という指摘は、宮本のみならずハナやアリスたちにも当てはまっているのである。

そうであるがゆえに、海岸で三人がトランプをした場面において、アリスの記憶のようにトランプが風に飛ばされ、その中から父と遊んだときになくしたハートのエースのカードが現れることは、父とこの海岸で遊んだ事実があったとしても、明らかに時間が経ちすぎており、嘘から出た誠という他にない。

本作は、このような嘘から出た誠に対する願望が凝縮して現れることについての作品ということができる。これは、セーラー服姿に紙コップのトゥ・シューズで踊るアリスの姿と、実際に踊るのとは異なる姿(静止画)をつくり、それを写真に収めた手塚祭における矢上風子の作品についても共通して言えることなのである。

このような「嘘から出た誠」のような方法による自己の再構成をきっかけとして、いま、ここにはない、彼方の記憶について考えてみたい。

2.「私に還れ」と呼ぶ声あり

円環が意識されるゲームというものは常にそうだが、リプレイの時には常に生まれ直しの感を抱く。

しかし、通常、小説であっても恋愛ゲームであっても、それなりの自己意識を有し、一個の人間としての主人公からスタートするため、完全な生まれ直しとしての意識を持ちながら読むことはそうはあり得ない。

例えば、『ONE〜輝く季節へ〜』においては冒頭に「永遠のある場所。そこいま、ぼくは立っていた。」とあるので、生まれたのではなく、たどり着いた地点という位置づけであることが分かる。

これに対して『CLANNAD』の「幻想世界T」では「僕」の始まりが身体的に明示されており、この点では何者かの始まりの起源を想起させる。

しかしながら、「僕」の意識はどこからかやってきて、少女のいる世界を眺めているところから始まる。この自己意識は、どこか別の自己を根源としており、生まれ直しであるということは冒頭から十分にほのめかされているのだが、「僕」の誕生のシーンはプレイを続けるたびに何度も通り抜けるため、意識自体は別の部分で完成されてやってきたものだとしても、身体を構成されて誕生するという瞬間を何度も通り抜け続け、根源的な生に立ち会うということを強要されていくことになる。

さらに、この「幻想世界」は誕生という上記の観点を持つことで、「幻想世界」と対比的に現れる「生活世界」(本論では、岡崎朋也を主人公とした学園の生活を描いた世界をこう呼称する)を通り抜けることで「幻想世界」にたどり着く、という感触を有せざるを得なくなる。このことで、『CLANNAD』を読み進める方向性は、「生活世界」における岡崎朋也の未来と「幻想世界」という何らかの誕生の瞬間以降というある意味過去向きの視線との両者に分かれて進むこととなる。

これらの二つの世界が交互に現れ出ることで、例えば「生活世界」における笑い(それは常に誰かが割を食う=制約を受けることによってもたらされる笑い)や活発さが表現されていたとしても、「生活世界」の背後にべったりと貼り付いた「幻想世界」の視点により、それらを額面どおり受け取ることが困難である。常に、「幻想世界」のもたらす寂しさ、罪悪感を意識し、「生活世界」の視点人物との乖離は意識され続ける。

このことは、生活世界での生そのものが、自分の全く知らない、知ることのできない文脈に、何者かによって位置づけられているということを意識させる二重の構成が現出していることのあらわれでもある。

この二重の構成に依ることで、朋也にしろ、「幻想世界」の「僕」にしろ、何らかの「駒」の印象が強まってくる。これらは、例えば『MOON.』において郁未をマップ上で操作していたときよりも、プレイヤが操作する手駒という感覚をより強く意識するものである。

AFTER STORYに入ると、光の収集という役割と「幻想世界」からの脱出という宿命付けが与えられ、朋也や「僕」はますます駒としての色彩を強めていく。この植え付けられた責任という感触は、直接的な自己の意志ではない。しかし、例えば「幻想世界」においては「向こうの世界」というほとんど忘れられた中でのかすかな記憶に基づいた、他者の欲望を欲望することによる解決を求められている。

見えないものに突き動かされて進むプレイヤ。生活世界でプレイヤの行動を仮託して動き続ける朋也。朋也が思いを受け取り、光を集めることは、人の話を聞いて回ること。それは、自己を確定的なものとせず、自らを相手に合わせること。言うなれば自らを分裂的な主体とすることである。

これを敷衍するならば、誰しもが物語の主人公であり得るのみならず、この自己というものが誰でもあり得る(実際、プレイヤの心情としてもそうであり、例えば、柊勝平のシナリオでは、朋也自身が結ばれるのではなく、朋也の行動により勝平と椋との間を取り持つことになり、この印象をさらに強くしている。逆に明示しすぎてあからさまだという批判もあるかもしれない)。このようにして、誰しもの「わたくし」性を見ていったとき、朋也には母なる存在が一切現れないことに対して、「幻想世界」の「僕」にとって少女の存在はガラクタによって自らの意識が憑依する身体をつくりあげることから、母なる存在と擬制することが可能である。そして、この少女は作中の仄めかしにより、渚または汐との関連が取りざたされる存在である。

これに対して、「生活世界」においては、渚(AFTER STORYにおいて妻となる)、汐(AFTER STORYにおいて子として誕生する)は、朋也よりも先に失われる存在である。父としては直幸が現れているが、父にとっての妻=朋也にとっての母は、朋也にとっての妻(渚)同様、早くに失われることとなる。渚の娘である汐は。渚の病を引き継ぎ、「本当に家族になった」瞬間を境にして失われる存在となっていく。

このような相似形の現出によって、渚的・汐的なるものは、朋也や「僕」といった視点人物にとってある時には母、ある時には妻、ある時には娘という、視点人物の「対」となる者として全てを体現したかのような存在となる。これは深い関係を有し、根源から繋がった存在としてどのような存在にもなりうるものとして意識される。

このような存在の過度の一般性が、渚エピローグにおける「町」の思いという一般性への拡張とシンクロニシティを生み出すことに繋がっている。このシンクロニシティは、作中に現れるものたちへの表面上の肯定的・否定的評価に左右されず、自意識によって打ち立てられた世界の中で承認されている。例えば、「幻想世界」は「悲しい」「終わり続ける」世界という否定的評価を直視し、少女はその許にとどまり「この世界の意志になる」選択をする(この考え方は主題歌「メグメル」の歌詞「痛みも悲しみも味方に変えながら」に通底)。ここにとどまるうちに、否定的なものを存在へと逆転させる試みへと連なる。ここには、「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。」(村上春樹『ノルウェイの森』)という言葉が額面どおりの言葉としてではなく、作品全体の運動の中に有機的に位置づけられている。

そのような意識も自己の投影ではあるのだが、自己を視点人物以外の者の中に発見していく過程もまた、朋也による光の収集の過程として作品の運動の中に位置づけられているのも『CLANNAD』の特徴である。朋也が光を集める行為、人の話を聞いて回るということが自らを分裂させる行為であるというのは先述のとおりだが、さらに深めるならば、それは視点人物以外の行動を自らのうちに抱え込むこと、すなわち矛盾を抱え込むことである。また、その抱え込んだ矛盾をさらに他の存在に対して媒介すること、そういった動きも、4月29日に発生する、公子から会ったこともない妹(風子)の病気の話を聞いて身近に感じ、光が放たれるイベントによって体現されている。このことは、他者の想いを、朋也を通して別の他者へと届けることである。これらの行為がゲームの視点人物を通して行われることが明示されていることで、視点人物をして単純に本作の主人公などということはできなくなってくる。言い換えるなら、自己を巡る苦悩や感情が、個人を離れたより一般的なものであるということの証左であり、そのことで現れる新しい現実とでもいうべきものである。

ここでの「町」というものは、想念の集積とともに成就した朋也と渚との関係の存在を根拠とし、彼らによって擬制された幻想である(「幻想世界」との近似をいとわず、むしろその近似を強調する意味で、「幻想」という言葉を用いる)。愛の成就によって全て溶解し、自己も、伴侶も、家族も、国家も、社会も、全てメルトダウンするような一体の関係として提示されている。これを吉本隆明『共同幻想論』風にいうなら、対幻想がそのまま共同幻想に接合されているかのように見える。いや、共同幻想は自己幻想との間に対幻想という鏡面を介して折り返されてくるものであるから、この「町」の共同幻想というものは、やはり自己幻想の直接的な反映といった方が正しい。ただし、自己幻想より共同幻想の体をなしているのは、個人よりも人間という種の総体としての意識の表出が強いためではなかろうか(『AIR』における「星の記憶」に類する考え方がしばしば現れることを想起)。

このようなメルトダウンの渦中から最後に立ち返ってくるのは、やはり風子によるエピローグであろう。 風子により発見され、樹下に眠る存在は、タイトル画面に流される曲が「汐」であることがゲーム終了後明らかにされる(それまでタイトルは「?」と表示)ことから、先述の汐的なるものということではあるが、これを直接に朋也と渚の子として渚エピローグにあった汐と直結することには疑問を挟みたい。

まず、渚エピローグとの時間的関連も不明で、朋也・渚から放置されてひとり病院の近くにある樹下で眠っているという状態が想定しにくい。 これは風子が「誰かが風子に会いにきたって言ってるんです」「誰かに起こされるのを待ってるんです」という発見の状況を見るに付けても、偶然の状況と想定できず、風子でなければならない必然性があり、さらに、起こされることの期待という点が、状況やタイトル画面の絵を見る限り、生誕・誕生というものを強く印象づける(純白のワンピース等が無垢の印象をさらに強化)。

次に、渚エピローグにおけるメルトダウンとの関連で、一度忘れ去られ、再び思い出され、学校へ現れるという、いわば「生まれ直し」ともいえる固有シナリオを経てきた存在である風子の特殊性は、その「町」という存在の一義的な定義を超えて存在しうる自己自身との関係の契機を有していると考えられる。

この風子固有シナリオにおける忘却と想起という生まれ直しの過程と、幻想世界を何度も通り抜けながら感じ取る誕生の繰り返しというものを合わせて考えると、この反復・円環の過程によって、記憶というよりもむしろ忘却こそが前面に現れ出てくるような感触を有する。忘却によって一度遠ざけられた記憶という観点により、忘却が本作の過程を統べるモチーフとなって立ち現れてくる。

常に核心は忘れ去られている。それは「幻想世界」であっても風子であっても。むしろ、忘却こそが主題であるかのようだ。(こう考えると、与太話となるが、例えば、『ONE』茜シナリオ中の「私のこと、忘れてください」は、その言葉自体は久弥直樹によるものではなく、麻枝准の言葉のような気がしてならない)

3.忘却のモチーフ

忘却を前面に押し出した麻枝准作品としては『ヒビキのマホウ』が挙げられる。 シロツキ先生は外伝により記憶を失っていく者であることが示され、思い出したくない記憶がアヒトに存在し、冬を越えられなかった真琴によく似たホムンクルスのシイちゃんは、ホムンクルスの種としての記憶を一切有しないため歴史から学ぼうとしており、また、一緒に過ごした「幸せな時間」(それが「幸せのマホウ」とされる)があるからこそ3日間の限定を超えて生きながらえることができた。ここでは記憶ではなく、蓄積としての時間として提示されている。覚えていようがいまいが、この場合関係はない。そういう点から言っても忘却されながらも蓄積される時間として関連づけられる。

これらは、直接には語られない、所作としてのもの。記憶として引き出されずとも折に触れ現れる身体の記憶とも言うべきもの。これもまた、忘却の一つの形と言えるかもしれない。

4.まとめ

記憶を語りつつ、忘却へと脚を突っ込んでしまったが、冒頭に問いとして提示した彼方の記憶とは、むしろ忘却していることそのものではないだろうか。

『花とアリス』では記憶喪失になったわけでもない宮本は、忘却していないことを忘却しており、その間にハナとアリスによって紡がれた嘘を「忘却を忘却していた間の真実」として引き受ける。『CLANNAD』では、各々異なった立場・登場人物から収集した光の集積体が人をかたどり、汐的なる者の存在の現出ということになる。それは「現実」を複数の幻想の集積体として認識することになり、作中人物にとっては本編の外にあるものを真とする考えである。そうであるからこそ、全ては誰かの夢ではないかという疑問もまた当然といえるだろう(「生活世界」の物語の全ても、「幻想世界」も、全ては風子の見る夢とする考えもある)。

記憶はいつの日か忘却される。忘却はいつか想起をもたらすかもしれない。それらは反復であり、往還であり、円環運動である。このような動きは、自己が何であるかを間断なく問い続ける過程のなかで、意図せざる取捨選択とも大きく関連している。そうであるから、渚エピローグも、風子によるエピローグも、幼時の幸福な時期という存在に仮託して(汐的なる存在のみならず、風子も十分幼い)「けれど、最後は… 星の記憶を担う最後の子には… どうか、幸せな記憶を。」(『AIR』)と願わずにはいられない状況をもたらしているのだと言えよう。


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