初出:de te fabula (2004年12月30日 コミックマーケット67にて初売り)
0.本論の目的
本論は、『CLANNAD』の作品論として、本作品のテクストに依拠しつつ、本作品世界の全体像を大掴みに捉えること及びTactics/Keyブランドとしての他作品との関係の中で本作品の位置付けを検討するものである。必要に応じ、『ONE〜輝く季節へ〜』『AIR』など他作品への言及を行いながら、検討を進めていくこととしたい。
1.「幻想世界」の位置付け
まず、本作品の端緒として、一般的な恋愛ゲームに含まれる本作として特徴の一端を成す、「幻想世界」の位置付けを確認しておくこととする。
幻想世界が本作中に立ち現れる最初の場面は「プロローグ」であるが、ここは全てが一回りした後の終焉の場として立ち現れており、それが意識できるような記述となっている。全ては回想的な地点からの開始ということでは、『ONE』を意識させる構図となっている。円環的構図の確認としては、一般的なエンディングの場面として最後に現れる「幻想世界」の記述と「プロローグ」とは、ほぼ同じ叙述が為されており、円環的構造について周到に準備していることが窺える。
そして、この世界の発生の端緒を説明する地点としては「幻想世界T」となるが、その冒頭において、始まりの瞬間から「この世界での、意識を閉じた。」という終わりを彷彿とさせてしまう言葉の直後に、「そのとき、一瞬、光が揺らいだ。」という事象が示されることにより、「僕」はこの世界に生まれ落ちるきっかけを掴んでいくこととなる。
この光の揺らぎという現象は、前作『AIR』でも作品冒頭に立ち現れている。
陽光が揺らいだ。
一羽の鳥がひるがえり、空を目指していた。
その先はもう、まぶしくて見えない。
今、目を閉じたなら、連れていってくれるだろうか。
この翼のない肉体を地上に残して。
現状では、幻想世界にある「僕」はその世界に生まれ落ちてさえおらず、身体もなく、触れ合うことすらできず、それどころか、視界すらも制約されている状況にある。
そして、そのような状況の相違にかかわらず、物語の始まりのきっかけは、光の揺らぎという点で共通している。光とは、地上にある誰でにとっても平等に降り注ぐものである。それが揺らぐことは、不均衡を生じることであり、その不均衡が、物語の端緒となることには相応の理由が存在するであろう。『AIR』であれば、地に在るはずの者を空へ志向させる原動力となる運動の喚起、本作であれば、終わってしまった世界として固着しているはずの世界という認識を改め、人が活動し、世界が運動していることへの喚起を示している。
次の特徴として、「僕」の視界に注目してみよう。先のシーンでは、「もし『目』を動かせたなら、見えたかもしれない。」とあるように、身体の存在しない「僕」は視界・視野すらも制約され、動かすことすら能わない。この世界に生まれることを望み、ガラクタでできた身体に宿ることで、「『首』を縦に動かす。そうして、視界を変える。」ことができるようになる。それでもまだ限定は大きく、次は歩むことを体得してゆき、さらに視界を変えることができるようになる。次は「逆行が差し込んでいた窓」の「外の世界」を志向するようになって自らの視界を広げてゆく。
同様の身体的制約として大きな点が、「僕には口がなかったから、言葉を喋ることができなかった。」という点である。首は動くので、Yes/Noの意思表示である頷くこと・首を振ることはできるが、身体の運動機能として、「肘の関節がそこまで曲がってくれなかった。」ので、少女のするような顎に手を当てて考えるという真似ができず、「不自然に腕を折った格好」をとる。
これらの制約が丁寧に描写されていることは、少女との相互行為の端緒となっている
だから、彼女は、僕を見る以外のことはしなかったし、僕も、彼女を見る以外のことはできなかった。
でも、確かに…
その瞬間を、僕はいつも待ちこがれていたのだ。
の部分から続く、向き合いながらも発信や自発的行動に対する限界や不可能性を示し、受動性による制約から悲哀を醸し出す効果をもたらす。この点は、『AIR』における「AIR」編のそらに近接する感触と言えよう。
さらに、「幻想世界]U」では、少女が自らこの世界の意志となることを望み、
…わたしは、見守っていく…
…ここから、ずっと…
…永遠に…
とあり、見るという行為に対する限界と悲哀は、「僕」のみならず少女にもかかり、最後のシーンで揺り戻しのように再見されてくる。
「幻想世界V」においては、大地に風が吹いている様子が示されている。しかも、『ONE』における
<風は、雲を運んで…ずっと遠くまで運んでゆくんだよ…>
<…世界の果てまでね>
という言葉ときれいに対応するよう、「世界の果てから吹いてくるような気がした」というコメントが付され、風の位置付けも同様に示されている。しかし、大地、自然、「不思議じゃない景色」など、もう一つの世界である、学校生活などのある生活世界に対する感覚が意識されている。その生活世界の場面ではその冒頭のシーンで、住んでいる町を「やたらと自然が多い町」と形容しており、上記における想起が、風景による連絡を暗示するものとなっている。
幻想世界Wでは、自分の身体がガラクタでできていることについて意識する。このとき、材料のガラクタについて、自分の身体を形成するものが何かの死体であるという印象を持ち、「僕」は身震いする。「僕」は、その死体から成り立っており、そのことは逆に誰かの死をもって自らが生きながらえているという感触にまで広げられている。そのような「僕」が仲間を作ろうと努力しても、ガラクタ同士を繋ぎ合わせることができない。組み立てることは少女のみに与えられた特別な能力として、人としての能力として認められている。このことで、彼女には死を再構成する力が付与されているらしいということが分かる。このとき、「幻想世界」に生まれ落ちる以前の視点人物は朋也以外にはいないため、朋也が通過してきた渚や汐の死と、死の再構成という点における連関が「僕」の身体構成やガラクタの組立から示唆されている。つまり、朋也だけでは彼女らの死を理解し、再生への端緒を掴むことができず、この少女による何らかの支援が必要であることが、このシーンからだけで推測可能なのであり、そのような支援が求められるに至る通過点として示されていることが窺える。
『CLANNAD』の「幻想世界」は、獣の登場により『ONE』の「永遠の世界」よりもさらに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の色を濃くしていく(獣の角の数や形状は異なる)。「僕」はその獣を心のあるものと認めず、「あいつらは生き物の形をした『何か』だ」というが、道に迷った「僕」を少女のところまで送ってくれ、心や、感情らしきものが存在しているらしいことに気付いていく。最初に出逢う獣は生まれたての子供であり、それが3頭の家族を構成している点から、学園生活・家庭生活などが行われている生活世界における家族との出会いとの関連が獣を通して示されている。次に、雪の降り出したその世界から出ようとする「僕」と少女は、たくさんの獣たちの助けや勇気を得て、雪の中を進むシーンがある。感情のない動物という認識から、迷った「僕」をいざなうという先の間接的支援に続き、今度は雪に埋もれかけた「僕」の身体の下に潜り込み、「たくさんの数で、力を合わせて…僕の体を押し進めてくれる…。」ような直接的な支援へと変質している。この獣の行動の変化は、「after story」に入ったところの「幻想世界XI」において、獣たちによる二人への手助けのシーンがあることと照合すると、光を集める過程の進展と連動し、獣の意識が少女と「僕」の支援に向かっていくことが読み取れる。これは、『ONE』の「永遠の世界」での描写において、静止している世界から風を感じるようになり、「こんなえいえんなんて、いらなかったんだ」に至る律動との類似性を指摘することが可能である。
そのふたりが目指す世界は「…いろんなものがあって…」「…楽しくて…」「…温かな場所…」であり、ゲームプレイ上は同時進行だが、この幻想世界に至るまで、生活世界を指すように「僕」の独白は続く。それは、「僕」の中に記憶があることで、少なくとも一度は通り過ぎたと感じさせるような描写に依っている。さらに、その生活世界との比較で、「僕」はこの「幻想世界」は寂しく、悲しく、過酷を強いる世界と常に感じており、単純な二項対立となるように示され続ける。
そして、その生活世界を目指す道行きは、「僕」が初めに思い浮かべた空を行く方法は乗り物の制作が叶わず挫折し、大地を歩み続けることとなる。「僕」は目標を空の向こうを指していたが、その地点は大地と地続きであり、歩いて行けるかもしれないという暗黙の了解に依っている。この考えは、『ONE』の「永遠の世界」が生活世界との接点を空間的把握ではなかなか捉えにくかった点や、そのシーンで示されるイメージが、地上の風景から、次第に視野が高くなっていき、地球を遠くから眺める視点へと移り変わっていった様子とは、大きく認識を異にするものである。また、『AIR』との比較においても、往人と観鈴が認識を一つにした空にある少女は、あくまで空の彼方にあり、作品中の物語の流れにおいては、一瞬の接触が在ったという位置にあり(少なくとも、「そら」が飛び立った後の、「我が子よ…」で始まるシーンに限られるだろう)、獲得するような存在や場ではなかった。これらの比較から、「幻想世界」と生活世界との間は、他の作品と比較して、非常に近接していることが読み取れる。
同様の感触は、「幻想世界]U」において少女の口から語られる本作の世界設定・構造からも分かるようになっている。これまで少女と会話を交わすことのできなかった「僕」は、ここで初めて「心の声」が聞けたということで繋がりを得る。しかし、その関係が壊れるのは一瞬で、少女の決心は「この世界の意志になる」ことであり、「…それは、わたしが望んだことだから…」として、この世界に同化し、「僕」だけを「向こうの世界」に派遣することとなる。この地点における少女と「僕」の会話は、同化の過程にあることによって通じ合った結果であり、他者との対話と言えるようなものではない。
ここでの少女と「僕」の二者の関係は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』における「僕」と「影」に対応するかのように、元は同一のものが二つに分かたれるような感触を受ける。特に、少女がこの世界に残るということと、『世界の終りと〜』の「僕」が「僕には僕の責任があるんだ」と言って残ることを決め、影だけもといた世界に帰ることと同じ構造を有している。
このような世界との同一化を志向するような世界構造のなかで、少女と「僕」との二者の関係は、相互間の人称の違いはあれども、少女が「世界の意志」を志向したときに「僕」との回路が直結してしまうように、相互に近接したものである。これは『世界の終りと〜』における「世界の終り」の章が「ハードボイルド・ワンダーランド」における計算士としての「僕」の頭の中に埋め込まれた回路(老博士の再構成があるという他者からの操作が加わっていることが示唆されているが)として置かれているということと近接している。つまりは、「幻想世界」の物語が外との関係はどうあれ、何某かの一体的感触・自己言及的性格を有した、自意識の世界と言えるようなものであることが浮かび上がっている。
2.生活世界の検討
朋也を視点人物とした学校・家などを中心とする生活世界の成り立ちについては、疏水太郎(ソガ)氏のblog(http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/20041103#p1)における
街にはお話を抱えている人がたくさんいて,僕らはここでその話を一つ一つもらさずに聞いて回ることになる.
との卓越した指摘及び、各登場人物が、固有の居場所を町の中で確保していることを特徴でとしてあげておく。朋也は、それらの人物の間を何度も繰り返し通過していくこととなる。
渚は古河家の中であれば、学校で立ち止まったり逡巡したりするようなことがなく、「俺たちと居ると、渚は自然体でいられる。」とあるように笑顔が絶えず、皆が常に楽しく在る古河家に存在を依拠している。しかし、この家も過去に、渚が死に至りそうになり、秋生の祈りで蘇生して以来、家族全員が一緒にいるための努力を続け、作り上げられてきた場所でもある。
これと判で押したような過程を辿っているのが坂上家である。壊れかけた家族の再生を賭して、鷹文は車の前に身を投げるという犠牲を払う。この犠牲を核として、再構築された家族が智代の存在及び生徒会長への活力の根源となっている。
有紀寧に関しては、死んだ兄に関わりのある人々を訪ね歩き、関係を構築したことが、第二図書室の「あの場所はやばいですっ、和みすぎますっ」(風子)という場所に結晶している。
美佐枝にとっては、生徒会長時代無遅刻を達成した輝ける場所として、そして、その中で、本人にとっては結果的に連続して失恋してしまったという痛みの場所である、全てが包含されていた学校に関わる仕事として、現在は寮に住み込んでいる。そして、聞き分けのない寮生たちに対して、昔志麻にたいして行っていたような暴力的な技を仕掛けていくことによって、物語の想起が(猫の手を借りて?)行われる。その猫はどうやら志麻の本来の存在であるらしく、彼が場所に居着く動物としての猫であることも、場所性の担保に奉仕している。
ことみにおいては、図書室から始まり、演劇部室、ともみの自宅へと場所は移行してゆくが、図書館においては朋也と二人の間柄として、その後の仲間の拡張により、演劇部室で学校の生徒達と共に在り、その後、家族・両親のところに課題が移ると、場所も自宅へと移行する。そして、にわかながらガーデニングの知識を習得し、荒れた一ノ瀬邸の庭を自らの手で整えるという作業を通して、朋也は記憶を回復していく。この点も、美佐枝の場合同様に場所の力によるもので、ガーデニングは家族を作り上げていく作業と通底している。このような場所と人との対応を示しつつ、ラスト近くでは世界を旅してきたという旅行鞄により、遍在性にまで拡張されている。
風子は通いたかった学校という場所への憑依という感じであり、春原兄妹にとっては、兄が最後にバカをやれる場所としての学校であり、妹は、離れていても兄が兄らしく過ごせる場所であることを確認していた。
これらの例のように、そこに在りたいと願うような居場所が具体的な位置を占め、個々の物語を豊かに紡いでいる町ではあるが、「after story」に入ってから視点人物である朋也の認識による町の存在については、町自体に特別な意味があり、秋生が渚の命を救った特別な場所があり、渚が町と繋がっているのではないかという認識を有することで、町の特権性が滲出している。
このように、自らの意志を持つような存在感を示す総体としての町の様子は、
すべての山を切り開けば、どれだけ楽に登校できるだろうか。
「そもそも、海がないじゃないか、この町」
空気のきれいなこの町
「この町にはファミリーレストランなんてなかったですから」
「でも隣町まで出ないと、検診できる病院がないなんてなぁ…」
いくら窃盗事件が少ない町だといっても
そりゃあ、狭い町だからな
やたらと自然が多い町。
これらの例のように、施設は少ないが自然の多い町という点以外に焦点を絞られることがなく、その背後に有するトポスや物語性と比べて具体性にいまひとつ欠けた点が見られる。また、幻想世界との関連が示唆され、「この町」という特権性を与えられているにもかかわらず、町の名前を示唆する地名・学校名などの土地にまつわる名称には全く言及がない。この特徴は、『ONE』の舞台となる町、『Kanon』の舞台となる雪の降る町、『AIR』の舞台となる海辺の町も、学校名ともども場所にまつわる固有名については、全てにわたって名称未設定である点で共通している。
この理由としては、特定の町という点を披瀝することで、トポスを有する町が「その町は特別だ」という個別性・具体性の中に限定されること、それはその町だからできたことではないかという突き放しを望まず、「誰にだって訪れる世界」(氷上シュン)と「永遠の世界」を称していたことと同様の一般性・普遍性を求めているからではないだろうか。
このことは、具体を描きながら一般を志向する矛盾がいつしか普遍へと昇華する時を望むように、家族を描きながら世界を志向する矛盾がアクロバティックに接続し、いつしか誰にでも訪れる感触となることを期待しているという印象を受ける。このことは、過去の作品に置いても共通している。しかし、その期待すらも全て押し流してしまったのが『AIR』であったのだが。
3.ふたつの世界のおもてうら
「…きみもね、元はあの光のひとつだったんだ…」と少女に言われ、再びの生として「向こうの世界で、いろんな物事が始まる前の…大切な日に目覚める」ことが、生活世界における朋也の第一声
この町は嫌いだ。
忘れたい思い出が染みついた場所だから。
に連なるものとして、繰り返しプレイの求められるゲームとしての円環的構造と有機的に結合している。そうすると、ここで言う「嫌い」である理由や「忘れたい思い出」と言うものは、父親との確執や部活の挫折からの「そんな奴らを斜に見て、いつだって傍観者でいて…」ということだけであろうか。これらのような否定的感触は、一度通り抜けてきた悲劇が染みついた町に対する嫌悪をも示してはいないだろうか。
このような認識を持つことができるように、生活世界においては常に視点人物は朋也で在り続けるが、幻想世界の少女の言である光が生活世界へ帰ったとすると、そのまま朋也=幻想世界の「僕」という等式は必ずしも成り立たないのではないかと考えられる。しかし、生活世界における視点は、朋也からは抜け出しておらず、この点の理解については、少々考慮が必要である。
ただし、「幻想世界XII」を読む限りでは、その最後の決定的な「…パパっ…」との呼びかけから、幻想世界の少女は少なくとも汐と対応する存在でなければならないはずであり、渚も、この世界の記憶を有しており、「世界にたったひとり残された女の子のお話です」という記憶を朋也と共に共有しており、その世界を演劇として仕立ててもいる。この少女は、どういう読みをしても、渚及び汐に直結する人格を有するものである。
このように、幻想世界との関連が折り返す心境を孕みつつ、物語は生活世界の中で進み、特定のヒロインのエンディングと光の収集が連動した周回プレイが続く。この作業の過程を見る限り、光を見ることができ、かつ収集できる存在としての朋也の位置付けがある。その集められた光は、物語中では朋也自身が保持しているかのように思えるが、朋也自身は再びプレイを開始することで生活世界の最初に戻っていき、光自体は、ゲームの周回とは外れた、タイトル画面にあるどこかの林に生えた木の根本に集まっているかのように提示されている。
「after story」に入ると、秋生が死にかけた渚を連れて訪れた特別な場所の存在が明かされ、その場所とタイトル画面との関係が疑われるようになり、その結果は、「渚エピローグ」及びエンドロールの後に続く真なる「エピローグ」において、風子が少女を発見する場所としてようやく明確な位置付けが為されてゲームが終了し、タイトル画面の光が在った場所に代わり、少女の横たわる姿が示される。この位置は、『AIR』のタイトル画面の変化と誰かと手を繋ぐ少女の登場と軌を一にするものである。物語の円環の外にあり、物語と関連し、影響を受ける位置として、タイトル画面の絵は存在している。この部分の変化こそが、「幻想世界」の少女の要請を具現している場である。そうすると、物語世界から飛び出しているこの場が、二項対立的世界というふたつの世界の連関を明示的に示す場ということであり、生活世界に生きる朋也自身の役割は、朋也自身の意志により光を収集し保持するのではなく、何らかの存在の媒介として朋也がおり、朋也がもたらしたきっかけに乗じて、光が集められるということが正確な理解となるだろう。つまり、ここでは朋也は何らかの媒介であると言った方が正しい。しかし、朋也に役割が与えられ、朋也自身の行動がきっかけとなって光が集まるのであるから、朋也自身との親和性は高いというべきであろう。
さて、光とは「向こうの世界の住人たちの思い」であると少女は言っていた。そうであれば、少女が光の収集を託した光=思いである「僕」という存在は、視点の位置を占める朋也に類するものであることは間違いないが、人物の総体としての朋也というより、朋也自身の中にある思いであると考えるのが最も自然であり、矛盾がない。
その思いが生活世界の中で再生する時として、「いろんな物事が始まる前の…大切な日」が、渚と出逢う日であった。このときの渚は、校門の下で立ちすくみ、
【女の子】「この学校は、好きですか」
【朋也】「え…?」
いや、俺に訊いているのではなかった。
妄想の中の誰かに問いかけているのだ。
その彼(あるいは彼女)は、どう答えたのだろうか。
【女の子】「わたしはとってもとっても好きです」
【女の子】「でも、なにもかも…変わらずにはいられないです」
【女の子】「楽しいこととか、うれしいこととか、ぜんぶ」
【女の子】「ぜんぶ、変わらずにはいられないです」
たどたどしく話し続ける。
【女の子】「それでも、この場所が好きでいられますか」
という変わらないことへの志向を述べる独白をしていた。これに対して、朋也は、
【朋也】「見つければいいだけだろ」
【女の子】「えっ…?」
少女が驚いて、俺の顔を見る。
まるで、今まで誰もいないと信じていたかのようにだ。
【朋也】「次の楽しいこととか、うれしいことを見つければいいだけだろ」
【朋也】「あんたの楽しいことや、うれしいことはひとつだけなのか? 違うだろ」
【女の子】「………」
そう。
何も知らなかった無垢な頃。
誰にでもある。
【朋也】「ほら、いこうぜ」
と簡単に答える。朋也は変わらない町に苛立ち、変わって欲しいと願っていたときであり、その時に、渚の抱くような感触とは遠い位置にあった。そのため、逆に簡単に変化への期待を簡単に述べ立てることができた。
しかし、渚と共に過ごし、大切な存在となっていくことで、何もかもが変わって言うことに対する不安が芽生えてゆく。それは、「after story」で顕著に見られるようになるが、「変わらないでいて欲しい」という思いがアンカーのように朋也の心に打ち込まれたのは、上記引用のシーンである渚の切実な独白ではなかったか。そのため、全てが始まる瞬間は、この時にあったと考えてよい。もちろん、大切な存在である渚との出逢いの日という簡単な理解もあるが、それでは、他のヒロインと等価であり、渚にのみ「after story」の存在する重みが解けないため、上記のような理解が有効であると考える。
同居・結婚・妊娠と経るに従い、渚は朋也の上記の言葉をきっかけとして、機に乗じて「がんばりたい」という強い存在と変化していく。それについて行けないのはむしろ朋也の方であり、
いつからか、変わらないことを望むようになっていた。
変わらないでほしい…何もかも。
と朋也の方が思うようになっていく。
渚の出産のシーンでは高熱に苦しみ、何度も気を失い、自らの命を子に与えるかのようにしてまで、渚は「わたし…がんばれました…」と言い、強さの極限に至る。これまでのがんばりについて行けない気持ちを持っていた朋也は、ここで真に二人が別の世界にいるかのような感覚を持ったに相違ない。そのため、いくら手を握っていても、渚の存在は遠くにあり、彼は渚の命をこの世界に繋ぎ止めることができない。
そのような後悔を引きずりつつ、汐が幼稚園に通う年齢となった朋也は、早苗の計画をきっかけに、汐との親子関係を初めて見出していく。そして、そこで本当の親子になった、という感じや、公子から「よく頑張りましたねっ」との言葉もいただき、渚と同様の自己変革の意識を感じ取るのだが、今度は、汐が高熱とトイレが一人でできなくなるという退行現象が現れてしまう。これは渚のときと同様、イベントを前にした「いつだって、楽しいことを目前にして、それはやってきた。」とあり、それは「幻想世界」で望んだ楽しくて温かな場所の崩壊をも意味している。結局は汐も渚と同様の呪縛により命を落とすらしいことが仄めかされる。この時、町の存在や「幻想世界」の少女との連関が示され、二つの世界が地続きであることが容易に分かるように示されている。
この、二人の死を巡る経過は、朋也が結果的に「がんばれた」としても、それが時既に遅しという感覚、ナルシシズムを含んだ自らの罪意識となって立ち現れ、次のゲームプレイや幻想世界の寂しさや悲しみとの同一の感触をもたらしてゆくのだが、そのような直接的な意識が向かう先として異世界である幻想世界が最も有機的に繋がっている点は、やはり、1.で述べたような、幻想世界の自意識的性格を補強するものである。
では、朋也の遅れの感覚は、何に対しての遅れであったのか。それは、単純に、渚と共にある時に一緒にがんばるべきだった、ということであり、そうなるために障害となっていたのは、「変わらないでいて欲しい」という、幸福を一点で繋ぎ止めておきたいという気持ちであった。これが呪縛となり、全ては遅れの感覚の中で町が消え、生活世界自体が消えてゆく。これは、朋也の感覚であると共に、「幻想世界」の少女が「世界の意志」となり、全てを飲み込んでゆくこととも感覚的に対応するものとなっている。
これらのように、ふたつの世界がありながら、それらが直接的に繋がり、対としてある世界構成が浮かび上がってきた。このことは、1.から触れている自意識の産物としての世界としての構成ときれいに接合されるものである。
「変わらないでいて欲しいという思い」は、朋也と渚との関係の深まりの中で生まれたものだが、その思いが何故「幻想世界」にたった一人でいる少女と共にあることを願ったのだろうか。それは、生活世界の中で、ふたりでいることの温かさを体得していたため、本来ならその温かさの在る場所を願ったものであるのに、少女ひとりの寂しさを限定された視野の中に現れ続け、少女は「僕」に気付き、身体まで用意してくれた。ひとりの寂しさを埋め合わせる相手として在れば、そのようなふたりきりの世界でも変わらずに在ることができると思い、「幻想世界」に生まれ落ちた。そのような点から鑑みても、この思いが「幻想世界」に存在したことはその思い故の結果であり、矛盾なく接合されており、その点においても、一体感を有するものとなっている。
4.『ONE〜輝く季節へ〜』及び『AIR』との比較
それでは、このような自意識的な構造は、過去の作品とどのような相違点・を持つかという点について検討していきたい。まずは、リニアに見た際に、ふたつの世界が交互に描写されるという記述になっている『ONE』と作中の「永遠の世界」との比較により、その特徴を見ていこう。
『ONE』における「永遠の世界」は、契りをかわした少女との存在には特に束縛されず、道徳性も何もなく、ただそこに浩平は引き寄せられ、生活世界からは存在と記憶が失われていくということになる。その世界は、視点の移動の大きさに拘泥が強い点や、背景のグラフィックから仄めかされる、ここにある世界との遊離の感覚が強い。その世界の全ては、生活世界との関係やみさおとの記憶によって整合性をもって意味づけられることがなく、そのような理由付けから遊離した、ただそこに存在しているという点での存在感の大きさや、視点移動などの運動の総体という感触の強いものである。
これに対して「幻想世界」は、地続きで「向こうの世界」に行こうとすることができ、そこに住む少女が向こうの世界での行動を要請し、探し、見つけ、集めることができれば、思いは常に伝わるという世界である。ここでは、「向こうの世界」としての生活世界との回路は常に確保されており、両者の関係は安定的であることはこれまでの検討のとおりである。このような世界構成は、『ONE』との比較により、異物としての、また、理解しがたい存在としての他者の不在・他者性の欠如として捉えることも可能であると考える。
次に『AIR』との比較であるが、「DREAM」において繰り返される循環は、「the 1000th Summer」に至るまでの歴史的連関として受け取られることが一般的と言えるが、その認識は、「DREAM」の物語中においては、物語の外部に立つプレイヤにのみ、しかも、「AIR」を経てることによって回想的に、遅れて認識されるものであり、物語中の人物や登場する世界においては、その循環や空との往還が認識されることはない。
因縁の発生を後日談的に語られる「SUMMER」においては、作品中には独立した物語として放置されるのみであり、それを因縁として認識するのもまたプレイヤの次元においてのことである。
「AIR」において初めてプレイヤと同位置地点に立つ「そら」の存在が明示され、その存在はプレイヤ同様見ているだけの存在に限定され、眼前の物語に関与できない。「そら」が関与できるのは、物語への関与を問う選択肢のみとなっている。
その「そら」は観鈴が死に、晴子と道端で出会った後、初めて空へ飛び立ち、空にある少女と呼ばれる者との一瞬の邂逅を果たすように描かれる。それもまた一瞬の出来事であり、「そら」の見てきたことや行為は、「この星の最初の記憶」であり、それを空に返す役目を彼女は果たすという。「そら」が物語の傍観者であり、観鈴の物語を彼女に伝える媒介だったとすれば、彼女はそれを空に帰してゆく役目を果たす更なる媒介であり、星の記憶の総体であるとか、大いなる意志のようなものには、未だ誰も届きそうにない。また、「そら」がもたらしたものはあくまで最初のものであり、先には遠大なる道が待っているようでもある。そして、「そら」は
あなたには、あなたの幸せを
どうかその翼に宿しますように
という声により突き放されてしまい、「帰ろう、この星の大地へ」という道筋によって地上への帰還を果たす。
次の視点は少年の位置にあり、これまでの観鈴・往人らの物語とは「さようなら」の言葉と共に別れを告げられ、やはり世界の全体性の包括とは常に遠く離れた感触をもたらし続けることとなる。
『AIR』におけるこれらの限定された感触と比較すると、『CLANNAD』は『AIR』において全てをプレイすることによって立ち現れてきた世界の構成に対する認識とは大きく異なり、「after story」を1周することにより、ゲームとしては中途の場面でその世界の関係が明示される。
『AIR』においては唯一性の強かった「AIR」の物語と比較しても、「after story」は一度で完結することはなく、その筋だけでも最低3周、エラーが在ればまた生活世界の最初に戻ってトライを繰り返すという、トライ&エラーの構造となっており、その人生やり直しの感触は、伝達、探索の可能な道が明示されている点とも合わせ、『AIR』の一回性を印象づける峻厳さを見てしまうと『CLANNAD』の明示された道筋はあまりにもその相違が大きく、まるで対極にあるかのように見える。
5.自己コミュニケーションの物語とその外部へ
ここまで検討を加えてきた『CLANNAD』の世界構成に対する検討からは、自意識の枠組みからの語りであることが明確となったが、この物語は果たしてその視点だけで終わるものだろうか。
確かに、渚や汐といった登場人物の死により、視点人物・朋也と他の人物との関係が抽象化され、幻想世界の方に引き寄せられていく。このことは、逆に思いの純化していく過程にあり、朋也の思いとしての光が、朋也という総体を離れ、それ単体として生きることとなっていく。この抽象化は、眼前の者の死による未来の拒絶とも受け取ることができ、それは彼女達の存在を逆に聖化するものでもあった。
渚とは支え合う関係であり、お互いがお互いにしっかり向き合っている様子でありながらも、朋也は頑張っている渚と乖離し「変わらないでいて欲しい」と願う道へ進んでしまう。そのような道の先には、「幻想世界」で少女と「僕」がふたりきりという状況と対応した対称性の世界を示しているのみであり、「幻想世界」の少女の示唆である光の収集を達成することは、汐を含めつつ、渚との関係を続けるということに結果的には落ち着いていく。 渚の出産シーンにおいて、朋也は校門の坂下で渚に声をかけるかどうか逡巡し、選択肢が現れるところでは、最初は軽い気持ちで渚に掛け、それによって渚の劇的な変革をもたらしたが、そのような変化の道を認め、渚に言葉を掛け、共に生きたいと願うことで、朋也自身も渚のように、その言葉に付き従っていくことができるか、という試しの場となっている。ここで声を掛けると、町を飛び交う光のムービー画面が現れ、朋也と共に手を伸ばす光たちの存在、思いの集合体の協力によって渚が帰還を果たし、汐と三人で迎える所謂「渚エピローグ」に至る。
この地点への分岐は、「幻想世界」の少女が渚または汐(渚であり、かつ汐でもある可能性も高く、この点では渚と汐は未分化である)として帰還を果たすための正当な道筋であり、自意識や対称性の世界は崩れることがない。また、この生き方すらも、朋也と渚のふたりに「幻想世界」の記憶が残されていることから「幻想世界」という地点から生まれた拘束に身を委ね、光の収集による思いの集合からこの円満な解決が成就するが、「変わらないでいて欲しい」という思いは「ずっと、ずっと歌っていよう」の言葉にあるとおり、全てが家族という拡大解釈による幸福感にすり替えられるものの、根本としては残っており、「幻想世界」の自意識の世界の延長という拘束によって不安を解消しようとする心理の中にあるのではないか、という疑いは晴れない。
この解決では、朋也が歩み寄って渚の有する思いを受け取る、という側面はあっても、朋也に根付いてしまった、閉域の核を切り出して交通する路をつけようとする試みではなかった。その閉域の核とは、幻想世界を含めた、自意識の世界に依拠した枠組みで語っているものであり、その外部へと向かう視点は、朋也と渚との愛の物語のなかでは、獲得されないままに終わり、彼らの物語は、愛に自己充足・自己完結したと言うべきものである。
しかし、『CLANNAD』の作品の全てにわたって自意識の底に沈殿するものかというと、そうではなく、外への交通の路は風子によって示されている、と考える。
風子は、生活世界のなかにおいても学校を中心として神出鬼没であり、了解困難な者の代表である。また、風子自身のエピソードでは、ヒトデの木型を渡した人から全て忘れ去られてしまうという出来事も経由しており、それは、逆の地点から言えば、町という共同性の外部に逃れ出ることのできる存在でもあることを示している。さらに、風子恋人エンドを経ることにより、渚シナリオの途中では、古河パンの店先で公子と話すことになる4月29日のシーンにおいて、妹のことが話題になり、朋也の手から光が放たれる。
なんていうんだろう…。
…不思議な感覚。
会ったこともない、伊吹先生の妹…。
そいつが、すごく、身近に感じられた。
そいつと一緒に学校生活が送れなかったことが悔しい…そう思えた。
(中略)
【朋也】「よくなること…心から祈ってますから」
柄にもない…。
何が俺にそんな言葉を吐かせるのか…。
ふと手のひらに…熱さを覚えた。
持ち上げてみる。
そこから、何かが放たれた気がした。
【朋也】(光…?)
一瞬のことだった。
後には、陽の温度を感じる手のひらだけが残った。
見上げても、春の目映い青空が広がるだけだ。
このシーンでは、収集していた光を一つ消費して、朋也を経て風子のために思いを届けようとしたらしい。そのことは、朋也自身もよく分かっていない。 渚シナリオにおいて風子が現れることもあるが、4月下旬に分岐してしまうため、シナリオ間においても通常は交わらない地点の話同士が、ここで仄めかしとして示される。そしてそのことは、光が関わるほどの重要な点となっている。
さらに、風子から光を受け取ることは、風子固有のシナリオ中ではなく、「after story」中であり、そのエピソードの始まりとなる地点では、
その頭に手を置いて、訊く。
ばっ。
思いきり、手ではね除けられる。
もう一度、ひょいと手を載せる。
ばっ。
またはね除けられる。
ひょい、ばっ、ひょい、ばっ、ひょい、ばっ…
【女の子】「わーっ」
どんっ。体当たりを俺にかまし、そのまま女の子は公園の隅まで走っていった。
【朋也】「なんだよっ…」
【女の子】「ふーっ…!」
遠くから威嚇されている…。
なぜか不思議と、懐かしい感覚…。
と、風子固有シナリオ上の冒頭と同じシーンが繰り返され、その記憶が朋也の中にあることが仄めかされる。この時の、頭に手を置く行為は、渚との4月15日における
ぽむ、と彼女の小さな頭に手を置く。
【女の子】「あ…いらっしゃったんですか」
【朋也】「ああ、悪いな。見てた」
【女の子】「頭の手は…なんですか?」
【朋也】「いや、別に」
【女の子】「そうですか…」
【朋也】「ああ」
しばらく彼女は呆然と、俺はその後ろで彼女の頭に手を置いて、ふたり立ち尽くしていた。
端から見れば、おかしなふたりだっただろう。
とも対応しており、風子と渚との微妙な関連が分かる。
風子は風子で、「after story」において
【風子】「岡崎さんは、奥さんをなくされてるそうです」
【朋也】「ああ、そうだよ」
【風子】「風子にその面影を重ねてしまうのも無理はないです」
というようなことを言って朋也から顰蹙を買っていたが、幼さで共通ということもふまえ、関連が薄いとは言え、上記のような共通点から、「面影を重ねる」ということは誇張に過ぎるが、何らかの関連を指摘することが可能である。光のやりとりと記憶の繋がりによる上記のような回路は、風子にのみ特徴的に現れており、風子が特殊な存在であることが垣間見える。
さらに、風子は朋也・汐宅へ訪問した際、盛んに汐を連れて帰ろうとする。可愛いから連れて帰るとか、単に妹になりませんか、という発言ならまだしも、「風子は、汐ちゃんを連れ戻しにきただけです」という不穏な発言までも飛び出し、このシーンが単なるじゃれ合いではない、何やら深刻なものを隠しているらしいことが窺える。しかし、文中からはそれ以上の意図は不明確なままで、誘拐も汐が朋也の元にいることを望んで未遂に終わり、その後、朋也と汐は悲劇の終局を迎えることとなる。ここでほのめかされるのは、風子が既に知り得たことをもとに、風子なりのやり方で、汐を狭く落ち込んでゆく世界から連れ出そうとしているといったようにも読めるということである。そうであるならば、エピローグのシーンに風子が登場した理由も了解できそうである。
風子は、自分の固有シナリオで忘れ去られることを経験し、世界の全てが他者と化す経験を得てきたことは先述の通りだが、「after story」でも、何年間も眠り続け、朋也と会った時には目覚めたばかりの時であるという。そのような地点を通過してきた風子には、常に町の外部との回路・他者性の回路を身にまとっていると言えよう。
そのため、「渚エピローグ」の後に続き、エンドロールのさらに後ろに存在する、真の「エピローグ」において、風子からその存在を指摘され、タイトル画面では光のあった部分に白いワンピース姿で木の根本に横たわる少女は、外部との回路を有している風子でなければ発見できなかったものであるだろう。
このようなエピローグにおける完結した物語への亀裂とタイトル画面の変遷については、既に『AIR』においても渚を歩んでゆく少年と少女によって示されるなどの手法で行われておいる。このような点おいても『CLANNAD』は『AIR』との間において既視感が得られ、共通した感触を与えるものとなっている。この部分を抽出する限り、『AIR』との近似が示されるということは、4.における結論と矛盾するかのように見えるが、むしろ『CLANNAD』が二重の結論を有していると考えた方がよい。家族とか町といった作品構成上のモチーフの上での結論は、確かに表向き何らかの集団への依拠を志向する保守的な結論を誘導するが、その結論に自ら半畳を入れるように風子が関与している「エピローグ」は、自らが出した結論を超えていくものである。
自意識によって構成された世界に端を発した物語は、その過程の中で自己とのコミュニケーションを行い、それらは完結した構成への志向の中から、家族=町=世界という全てが渾然一体となった短絡的世界観を一見称揚するかのような結論に向かう。しかし、自己に対するコミュニケーションはそれのみで完結することはなく、外部への道筋が残されている限り、他者への回路が開かれていることが示されて、『CLANNAD』の物語は全ての終焉を迎える。
これらの検討により、我々プレイヤは、この過程を漏らさず見つめ続け、人生の過程の一部として共に生き続けた存在であるということである。本作においては、その中で、誰しもに訪れる疑問を持った視点人物にとって世界とは何か、という大仰な問いに対し、それが実は視点人物は自分自身にとって何者か、という地点に裏返るという過程を示し、その地点にプレイヤとして参加することによって、プレイヤ自身が自己関係を再吟味する場として存在していたと言えるだろう。