then-d's theoria

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2007年12月3日 (月)

○Book 夏目漱石『坑夫』

この間やさぐれ気分で高橋龍也氏作品に当たってしまったのにはいろいろと経緯があったわけですが、そこはおいといて、敢えて嫌な気分になり続けるために、夏目漱石『坑夫』を再読。常に今更ネタでおおくりします。

正直申し上げますと、夏目漱石の中長編小説としては、一番最後に読んだものです(大学生当時)。そんなに嫌だったのかと。

まあ意識の流れの手法では日本で最初などといわれますが、時系列の吹っ飛び加減はないので、そこまで持ち上げられるのもどうか、という気はします。全体に過去回想の作者視点から振り返る形式になってもいるし。

あと、終わりの落ち(なし)も無視ね。

と、そのような話は実は蛇足で、『坑夫』でいつも身につまされるのは、"シャカイ"に出た時受けた洗礼のことで、その当時のことを再び呼び起こし、胸に刻みつけるために読むものでもあります。

学校を出ていい気になっていても、"シャカイ"ではひ弱な坊っちゃんでしかなく、その業界の掟で成り立っているところに身を置くことすら許されず、嘲笑の対象でしかない自分。自らよりも下位であると認識する者達の中に飛び込み、彼らの流儀に乗ることで、ようやく末端の位置にしがみつくことができる、それですら現在の自分には僥倖である、そのような痛みを、常に忘れてはならぬ、という感じを呼び起こされるのです。

でも、この覚悟がなかったら、もっと危うい位置に自らを追いやっていたのではないかと思い、思い返す度に戦慄するのです。
しかし、心根まで彼らに委ねてはならぬ、と思いながら踏みとどまり、これまで「恥の多い人生を生きてきました」(太宰ダーザイン)。
だからこそ、ある意味底辺にありながらも「どこまでも、どこまでも高みへ。」という意志の向かい方が、Key作品への共感となってあらわれているのだと思います。

2007年12月5日 (水)

○Animation 女々しい野郎どもの旅路の末路(5センチ)

まだ、本当の物語は始まってもいない。
ここから、長い間立ちつくすことになる。
あの桜の木の下で。

というわけで、『智代アフター』をもじってみたわけですが、こんな変奏を書かせる正体は、私が罹患してしばらく経っているもののなかなか回復しそうにない『秒速5センチメートル』病が原因というわけでございます。

さて、今まで2回ほど前振りのエントリがありましたが、迂回を重ねたうえで本編にようやく辿り着いたというとKey作品みたいでちょっとかっこいいと思いませんか(思いません)。

これから書く本エントリは、論理的に書けるとは思えません。だだ漏れです。

劇場上映から相当な時間が経ってしまっていますが、当時は厚い本づくりにようやく重い腰を上げたところかつ仕事の波が押し寄せてきたため結局劇場では見ずじまいでした。また、夏まではそれこそ本づくりにかまけていたのでプライベートは他に何もする余裕なし、という日々でした。

さて、落ち着いたのを機に、ようやく10月になってDVDを購入して見たわけですが、「あうあうあ」状態に(「それが私の口癖」ではありません)。

某せつないゲームの時にも、某風(問い詰め?)なゲームの時にも言及していますが、私自身も転校を繰り返しており、こういう状況には全く縁がなかったかというとそういうわけでもなかったかもしれなかったり(歯切れ悪)。

私の場合は察しが良かったのが災いして、「さよならだけが人生だ」と達観していた風があります。その点では明里との別れに拗ねる第一話の貴樹よりもたちが悪かったと思います。反省しようとしても今更どうしようもありません。痛みを抱えて今を生きるほかないのです。

転校してからの文通については、第一話の彼らのような劇的なことは全くありませんでしたが、フェードアウトしていく悲哀のようなものは、今でもちりちりと心を焦がし続けています。それは、第二話の貴樹のようなような頑なさへの共通も含め、すべからく「これは自分自身の辿ってきた道だ」と思い起こさせるのに十分です。

第一話のようなある意味障害克服と達成のようなものがあってしまったが故に、それに縛り付けられてしまった、というところもあるかもしれません。まあ、bad endなのは認識していたようですが。

この点、明里のほうは明確に「あなたはきっと大丈夫」と突き放しにかかっています。吹っ切るための最後の対面、という覚悟ではあったのでしょう。その点では、貴樹よりも既に大人だな、と思わざるを得ません(おそらくこのあたりの感覚が、パッケージ表紙の「どれほどの速さで生きれば、きみにまた会えるのか」に通じていると考えられます)。半年音信不通で、明里からの最初の手紙が「覚えていますか?」と来た時点で、相互の心理的距離がずいぶん遠くなってしまっていることに、見ている我々は気付くべきでしょう。

考証的な側面で言うと、ふたりは中学受験をし、「西中」というのは公立ではなくおそらく私立なのでしょう。舞台を考えると、中学の最寄り駅である豪徳寺は、ふたりが小学生の日々を過ごしたと思われる参宮橋〜代々木八幡周辺(踏切背景の一部や坂道・階段から想定)と同一学区の公立とは思えません。また、彼らが中学生の時、小田急線豪徳寺周辺は描かれているような複々線化後の駅舎ではなく、古いままのはずです。これはおそらくここ数年で取材をしたからということでしょう。あとヘンに感じたのは、いくらなんでも中学1年生が僅か数駅先の新宿にひとりで出るのがはじめてというのはあり得ないだろう、という印象も受けます。以上蛇足でした。

第二話は基本的に吹っ切れないところを花苗視点に移していますが、貴樹自身も全く同じであることは送るあてのないメールで示されています。人工衛星発射は、高みを目指すことと共に関係を絶つことを指し、これからのますます孤独な歩みを象徴していると思ったら、第三話で太陽系を出ることを雑誌で知るところで「ただ1つの水素原子にすら滅多に出逢わず」などという言及があらわれ、『AIR』や『智代アフター』を想起せざるを得ませんでした(ロケットの向かう方向性は「高み」。もう優しくしないで、という瞬間に天と地が分かたれるのも示唆的)。また、関係を絶っていく様子は、村上春樹作品に現れる羊男のいう「結び目を解いて」(『ダンス・ダンス・ダンス』いってしまうような歩みと捉えられるかもしれません。

そんな文弱男子たる私が、現在をどのように生きているか。『AIR』における(逆説的な)高みへの志向に揺さぶられる者には、第三話における高みへの志向とその挫折にも(抽象的ながら)いま・ここの位置への共感があることでしょう。そして、頑なさの継続と、過去への拘泥、そして、「いつでも探している」その感覚すら、全て、今の自分自身に重ね合わせられるものです。

そう、最初のボタンの掛け違えから始まって、すべて、自分自身で、自分を台無しにしてきた、でも、あのとき、そしていま、どうすれば良かったのだ、そんな責任感と罪悪感が入り交じったような感触を、第一話から第三話までの過去の自分からの全てに逆襲されているような感覚を、全て引き受けざるを得ない、という身の潰れる想いを味わうこととなりました(そういう意味で、連作短編として、各話毎に分けて考える方法を私は採れません)。

しかし、ここには希望は何一つとしてないのでしょうか。私は否と考えます。

最後の最後、小田急線の列車が過ぎゆく向こう側を、貴樹以上に食い入るように見つめながら、きっと、彼女は取り返しのつかない過去と同様、立ち止まってなどいない、いや、むしろ、もう二度と逢わない方がいいのだ、と思いながら見続けていました。そして、(私としては案の定)踏切の反対側に人影の残っていないことを認め、自嘲気味に下向きに笑みを漏らす貴樹。しかし、その直後、上を向いて、下向きの時と異なった笑みを浮かべて歩み出すその姿には、ほんの僅かな、そして新たな希望が宿っていることを感じずにはいられませんでした。

これは、自分自身の願望なのかもしれません。しかし、そこには、「ひとりになっても歩くんだ」という感触にようやく辿り着いたように思えるのです。

あまりに麻枝とオーバーラップさせすぎではありますが、麻枝読みとしては、それくらい共通した認識を受ける作品となりました。むしろ、麻枝が『智代アフター』で辿り着いたところまでと歩みを一にしているような印象を受けるのです。
村上春樹的とも言えるかもしれないですけれど。

(ここで話を逸らすと、『智代アフター』においてそこまで凄惨な「荒野の感覚」的なところに辿り着いたのに対して、『リトルバスターズ!』は若年層向けに特化したという点が仮にあったとしても、かなり退行、もしくは寸止めの言及でしかないな、という印象なのです……)

で、私自身は、というと、本作からは挫折ばかりの人生の復習をさせられた気になり、身につまされることばかりではあったのですが、そこから進む示唆をも受けたような印象を抱くことができたのは収穫だと思いました。極めて私的な話ですが、正直に、そう思います。

たとえ第一話で小学生のとき歩んだ道の桜が第三話で切られていたとしても、この痛みを忘れずに抱えて生きるというと感傷的ですが、これこそが自分を自分たりえさせている一部分だ、と引き受けて生きる、という気にさせてくれる作品であったと思うのです。

(追記)
考証に追加。
第一話の貴樹が、新宿駅で小田急西口地上改札から階段を下りて(途中下北沢あたりで急行などに乗り換えたのだろう)JR西口地下に向かう絵があったが、そこからJRに入ると、埼京線で最後方車両に乗車(車内風景及び武蔵浦和での待ち合わせ位置から)するのは、新宿で埼京線ホームを端から端まで歩くことになり、極めて不自然。武蔵浦和駅での夕空と電車の入線を描きたかったからだと思われるが。

このとき、新宿駅でトイレの洗面台で鏡と向き合う貴樹の絵があるが、これと同じ構図が第二話の花苗にもある。自らと向き合う姿が、迷いの中に覚悟を決めた様子として、共通した印象を受ける描写となっている模様。

2007年12月21日 (金)

○GalGame (ネタバレ)痴態を見たいと御大に期待するアタイ、もう、十分大人なんだよ…エッチですっ(リトバス)

『リトルバスターズ!』18禁化との噂が飛び交っておりますが、この件について一応鍵っ子としての立場から私の初動的反応をお示しいたしたいと思います。タイトルは風子ネタですが『CLANNAD』言及はありません。まあ、これも「しちゃってます」爆弾発言とかありますが。

さて、Tactics/Keyにおける過去の18禁作品から見るに、性行為に関する描写にはそれなりの確固たる意味があるというのは、見る目ある方でしたらお分かりかと思います。

性欲に流される醜く弱い自分を見据え、強くあろうとする方向性を有していた『MOON.』。
この世に繋ぎ止める役割としての性描写だった『ONE』。
特に、長森との間は限界の状態だからこそ意義があるという倒錯。
性に流されぞんざいな行為を行うと「絆」が切れてしまうことを示しさえする七瀬との行為。
よく分かっていない繭とでも行為を行うことで、再び帰ってこられる浩平。見守る存在の位置を踏み越えなかったときには、繭の成長を確認したところで消え、浩平は帰還しない。
天野の想定を越えて人の姿で生きながらえたのは身体の繋がりがあったからだと言わんばかりの『Kanon』真琴。
これとは逆に、依存のかたちで身体の交感(交歓)求めることが誤りであると突きつけられる舞シナリオ。フラグ立て的にはbad end直行でもおかしくなかった過ちへの認識を伴う言及。
そして、始まりのべたべた愛欲シーンから、性欲で誘ってまで自分の思い通りに事を運ばせようとして、性行為を手段と位置づけた腹黒さをあからさまに描き出した『智代アフター』。

これらのような意義付けがある、という前提で性描写を入れる、というのであれば、是認され得べきでしょう。ただ、過去作の枠から逃れられていないとも言えてしまうかもしれませんが。
例えば、あのセカイの中では、もちろん、依存的な形での性行為の姿、ということも現れて当然かと思いますが、それはおそらく誤りである、というようなことになるのかと思います(特に鈴あたり)。

いずれにしても、身体的制約と、身体だからこそ感じ取れるもの、その両者の感触が説得性をもって描かれるというのであれば、納得はできるのではないでしょうか。ただ、その際、単に幸福の印であるとか、単に不幸の状態の描写、ということで性描写を用いないところはKeyの(というか麻枝氏の)特徴かと思うので、そういったこだわりが消えて単なるごほうび状態とか単に通過点とはなって欲しくないと切に思います。

性をマイナスに捉えるのであれば、情動に流されてしまい、意志が挫ける様を描くとか(葉留佳あたりで想定されますか)、プラスに捉えるのであれば、母との絆も大切ですがリキとの絆があるからまた帰ってきます、みたいなクドにするとか、そんな風に置かれるのかと邪推してみたりします。

もちろん、男×男(西園さんの妄想以外で)とか女×女ネタの入る余地もありそうなので、その点で笑いを取ってもらっても結構ですが。まあ、ある一部シナリオでは女×女がしゃれにならない状態をもたらしそうな気もするのですが、そんなのもありでしょうか。

で、貢ぐかどうかですが、予約するかとか発売日当日に特攻するかといわれると正直微妙です。曲芸商法云々という観点しかり、慌てて確認しなくても、そうそう本作に関する基本的立ち位置が変わるとも思えないことしかり。ただ、いずれ入手してしまうんでしょうね。そんな弱い自分に対して『MOON.』を改めて思い返してみたりして、しばし時を過ごすことにします。

(追記)
某所で秋風碧さんと18禁化について話をしていたのですが、18禁化した際、最大のネックは「恭介様がみてる」状態であることだということになりました。

恭介「理樹……おまえはすごいやつだ。リトルバスターズの女子全員と交わるなんてな……」
恭介「あの純情で弱かった理樹が全員と……誇りに思えるぜ」

あと、野球の練習で恭介が「エロティックなジュース」を連呼していたのは18禁化で理樹がこうなることを予告していたのか、と思うと、真人の「おまえ誓っただろ!忘れたけどさ」に匹敵する予言ですね……。

恭介に見守られているのを想像するだけで悪寒が走る、ということで、ふたりで合意に達しましたorz

あと、タイトルの『リトルバスターズ!エクスタシー』については、ベタベタなタイトル振りを笑いました。まあ、麻枝氏的なセンスが炸裂していると思います。「うんこ」ネタ連呼みたいな感じ。

佳奈多がメインヒロイン昇格?18禁シーンありとすると、葉留佳に見せつけるようなドン引きのシーン(しかも身体は叔父達に付けられた痣だらけ)となるかと思うとかなり凄惨かもしれません。

また、佐々美は謙吾と結ばれないとなると、理樹くんの略奪愛ですか。鈴と奪い合いで対決でもするんですかね。

あとは美鳥(って誰?という方はごめんなさい)とのところに蛇足ながらシーンがつくとか、鈴だと五右衛門風呂のところでは早すぎて辛いから教室の嬉し恥ずかしあれのときか、とか。いろいろ妄想の種は尽きません。

2007年12月29日 (土)

○GalGame 過去形での記述に今更ながら痺れる(リトバス)

冬コミ新刊については、ここの日記を加筆・削除・修正した形で「リトルバスターズ!ファーストインプレッション」(決してエクスタシーではありません)をつくり、本日から売っておるところでございます。本日記ご愛読の方にはほとん読む価値のない本となっておりますことを深くお詫び申し上げます(苦笑)。そのため、公開日を遅らせていただいておりますことをご了解下さい。

さて、本日のタイトルは、やはり『リトルバスターズ!』に関することですが、本には書いていないことを本日記愛読者の方にプレミアムということでお届けするものです(そんなにたいそうな価値はありません&前置きが長すぎます)。

当該場面は理樹が生まれる前まで遡ったところになります。

  すばらしいであいがたくさんまってたよ
  とてもしあわせだったよ

というところで、「まってた」「しあわせだった」と過去形であるところに痺れました。これは、次世代への伝達の意志といえば、『CLANNAD』になりますし、思いを届ける、といえば「そら」が飛び立った先で伝えたものやみすずちんが目指していたものに近いのですが、生きた(生きる)証を希望として次に伝える姿、それが自分自身に還ってきたと捉えることもできるでしょう。そうすると、理樹は小人の悩み相談的な「おまえが選ばなかった未来」を通過することで、これらの集積により、自らの力となし、その希望が自らの未来をつくる、(即物的に言えばそれがナルコレプシーの克服として現れる)というかんじで繋がるのかと思ったところです。

別の見方をすると、『CLANNAD』では、メインヒロイン以外を傍流としてその道筋はあくまで光球集めの手段として明確に道具として仕立てていましたが、『リトルバスターズ!』では、そこは単に「おまえが選ばなかった未来」として投げだし、道具として明示しない代わりに、この生まれ直しのシーンで本心を仄めかしていた、とも言えるかと思います。

いずれにしても、『AIR』『CLANNAD』にも現れた輪廻の観点が『リトルバスターズ!』ではここに現れていて、基本的な考え方は不変ということですね。

ただ、このように整理してしまうと、何かを掴み損ねた感じがします。ベースはこれでいいと思うのですが。

一つ考えられるのは、理樹だけが強くなるのではなく、理樹の意志に合わせ鈴に伝達され一緒に強くなるというところかな、と。葉留佳・佳奈多のところで書いたような、ともに克つ姿もここには反映されているという感じです。

そして、それが強さもて自分ひとり孤高に立つというのではなく、一生を終えた後の幸福な満足感・達成感を、喜びとして伝達するということへの希望、といったものを示しているのではなかろうか、と。

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