雨っぽくもあり、自室内でできる作業でもあり、2000年くらいまで使用していてその後放置していた古いデスクトップ(PC-9821V200改)から移行すべきデータもあり、だらだらと作業に入る。古いデータ、といっても少々の自分の書き物とゲームのセーブデータ(ONEとかそういうや……皆まで言わすなっ)なのだが、予想どおり難航。
典型的文系人間がてらてらとPCいじくるとこういう風になります、みたいな例として。
まずはディスプレイをV200に繋ぎ変えて(モニタは15inch1台しかない)1年ぶりくらいに起動。……(沈黙が長いな)……「システムディスクをセットしてください。」あぅ。2つあるHDD(3GBと4.3GB)の両方ともこけているのか? それは致命的だ。うぐっ、そんなはずは……。当然FDの起動ディスクなどあるはずもなく。しばらく縦置きにしておいたので、平置きで適当に回しておいて、再度挑戦。を、「起動ユーティリティ」(なんだそれ)が無事現れた。では、古い方から。AドライブのWindows95(領域2GB。つーかAドライブがHDDって久々だな)を起動……できません。沈黙、また沈黙……。このドライブはおさらば臭いな。ま、いいや。どうせWin95時代のTo Heartとかそういうや……(だからやめっ)はシステムの入っていないBドライブ(領域1GB)部分にインストールしてあるから、そちらをサルベージできれば問題なし。
リセットしてCドライブ(4.3GB、Windows98)を起動。こちらは全く問題なく起動。最初にこけたのは、システム起動ユーティリティで連動しているから、Aドラがこけたとき全てを引きずっていたのかもしれず。無事Bドライブはこちらから見られたので、データ量確認のためセーブデータを抽出して固める。CドライブにもAIR、Alive、Lienなどが入っていたし。RPGも含めて、セーブデータだけでほぼ100MB。まぁ、雫から始まって以降アレなものがだいぶあるからな……。しかし、昔のセーブデータは小さいね。数KBなどというものもあるし。
さて、どうやって既存のデバイスとパーツで移動させるか。我が家唯一の大容量ストレージが230MBのMO(ここは笑うところ)なのだが、繋いでも認識しないので、大変面倒臭い事ながら、このV200を家庭内LANに繋いでファイル共有のうえ転送するしか方法がない。最初の問題点は、ナローバンド時のPCなので、ほとんどパッチが当たっていないこととスピードが出ないこと。これは、MTUとRWINを変えればいいと教わっていたので、まずは問題なかろう。次に、PCIに挿すNICが1枚しかないこと。仕方ないので現役のタワーから引き抜いて、2つしかないPCI(しかも片方がグラフィックカードで埋まっている)の唯一の空きに挿すことにする。
さて、NICを挿すが、ハードの認識は良いとして、ドライバのインストール時、付属FDのドライバ以外で、古いWin98のCDではNEC対応のドライバの一部が(Q:\Win98nフォルダ内から:QがCD-ROMドライブ固定というのも懐かしいが、私のPCは全てそうなっている(笑))見つからないとのたまわれる。仕方ないので、暫定でWin98フォルダの方から無理やり入れてやると……再起動時に「不正な割り込みが発生しました。割り込み番号5CH」とか出やがった。やはりNEC対応のものでないとこけるらしい。仕方がないので、1つ1つ確認しながら起動作業。vnetbios.vxdをロードするところで上記のエラーが出る。このドライバだけロードしなければ無事起動する。場当たり的対応で心配だが、他のドライバの動きが全く分からないのでこいつだけ上書きすることにする。こいつをCDの\Win98nフォルダ内にあるものと置き換えてやればいいか。とおもってCDを見るが、cab32.dllが入っていないので、どのcabファイルに何のファイルが入っているか分からない罠。ノートPC(CF-A77)を起動し、cab32.dllをFDから投入。名前からしてネットワーク対応的なcabファイルをいくつか探すと、ありました。こいつをC:\windows\systemフォルダにあるものに上書き。再起動。取り敢えず問題解決(こんなのでいいのか?)。
思わぬところで手間がかかったが、次はV200に家庭内LAN対応ソフトのインストール。これは全く問題なく終わり、ワイヤレスLANベースに対して有線での接続を完了。ファイル共有にもチェック。しかし、このままでは多分スピードが出ないので、EditMTUをインストールして、スピードを調整。これでも転送は可能なのだが、せっかくなので全てのWindows Updateの重要な更新を当てておく。こちらはこけることなく全て成功。これで、V200も一応「ねっととめーる。」みたいな使用には一応使えるPCになってしまった。……モニタとNICのさしかえが面倒だって(ここは蔑むところ←蔑むなっ!(『CLANNAD』風))。
それではおもむろに、データをCF-A77に転送。現在NICのないタワーには当然送れないし、Second Editionには古いゲームは入らない(Pia2などは間違いなくこける……ってしつこいな)ので、やるなら(やるのか?)初期Wi98だろうということで。ここでは問題が起きるはずもなく。
それでは、わざわざ危ない橋を渡ってみよう、ということで、Win95「のみ」対応ソフトの起動確認作業に入ってみる。取り敢えずここは皆を代表して『ONE〜輝く季節へ〜』。
setup.exeをCDから起動すると、「Windowsのバージョンが違うから動かなくてもしらないよ?」みたいなメッセージが現れるが強行。インストールは問題なし。久々に最初からスタート。懐かしむ。思わず12月中旬まで読み進める罠。しかし、とんでもなく長森に特権性が与えられた書きぶり&長森がいるのが当たり前でベタベタするのを面倒臭い、と行動するように仕向ける(誘導する)書きぶりが奮っているな。後者の書きぶりもまた逆に長森の特権性を逆照射するものとなっている……って今日の趣旨とちがーう。この辺り病気です。はい。
というわけで特におかしな挙動はなかったので、これからはHDD換装後空き領域をもてあましているCF-A77に積極的に古いアレなゲームのインストール作業をしよう(ここも笑うところ)、ということで丸一日の作業を終わる。なんでそんなに時間がかかるのか。疲れた。
翌日気付いたところ、『To Heart』のアルバムデータ抜き忘れ。最悪。
昨日データ移行を行っていたが、元の状態に復帰したタワーPCの調子が一層おかしくなった。これまでは、起動時に1/3程度の確率で画面が表示されずブラックアウト状態のままになってしまうことが数か月続いていたが、今日になって、メモリチェックの段階から画面に七色のブロックノイズが発生するようになり、起動途中で止まってしまったり、Windowsの初期画面が表示されてもスタートメニューやアイコンのクリックすらできず、マウスカーソルも固まってしまったりする状況となってしまった。
まずは何度も抜き差しを繰り返したディスプレイケーブルのコネクタを疑うが、ピンの歪みなどは見られずよくわからない。次には、前日の作業中に雷が鳴っていたのでその影響を疑ったが、特にモデムや無線LANの症状が表示系のみなので、グラフィックカードを疑う。現在はCanopus Spectra WX25を1年弱使っているが、グラフィックチップ附属のファンは回っており、基盤の裏からさわってみたが、触れるか触れないかという程度の温度。とりあえず、先代のグラフィックボードCanopus Spectra 8400が残っていたので差し替えてみる。
あっさり症状が消え、数時間使ってもさっきのブロックノイズはおろか、起動時の表示の不良も解消されてしまった。今までの症状の全てはどうやらWX25のボード自体に起因するもののようだ。ただし、WX25は2画面同時表示が可能なので、出力をB側に切り替えると直ったりするかもしれないが、とりあえず8400が健在ならしばらくこちらで使えば済む話。ただ、それにしてはWX25は貰ってからずいぶん早く壊れてしまったような。
使っているカードを見れば分かるが、最近の状況に全く対応していない、3年前の状況のままだからな……。
町(街)が神に守られている
神が生贄を要求する
生贄により街の平穏が保たれる
いつも高みから見守っている(監視している)飛行船
ひとつ、嫌な連想をしてみよう。
町はゲームそのものだと。
作品中に耽溺しているうちは、その平穏が約束される。
作品を抜け出そうとするならば、それは約束されない。
作品に耽溺するかわりに、代償としての何らかの仕打ちを受けている。
その代償により、作品中に安寧の地を確保していられる。
とここまで考えたからにはゲームをプレイしてみないと。
友人から教えてもらったのだが、こんなことやりますか?すごすぎです。
残念ながら、後半の曲が全然分かりません。
西田敏行^H^H俊之
http://gprime.net/video/blindfoldedmariopianist2.php
マリオづくしらしい。
メグミルクがメグメルに見えて仕方ない罠→それはCLANNAD病ですっ。ぷち最悪ですっ。
初回プレイを9/13の朝3時頃終了。もちろん(?)みなも。というか、みなも以外誰を選べと?
今木さんの日記より。
ずいぶん古いところからいろいろ持ち出してきたので氏には逆に申し訳ない気もするが。
みなもが真と結んだとき、その約束はまさにそんなかんじで。
相手は意識がないのに、いい女とか、えっちとか、エゴ丸出しで。
子どもの間だってエゴをぶつけられる間柄、というのはあって。ていうか子どもだってそれくらい気付いて立ち回るが、遠慮会釈なし。
親の前でいい女とかえっちとか言い出せるというのは絶対とも言える信頼感がある証拠ではあると思うのだが。
それは恋愛とはかけ離れているけれど。真は意識しておらず、みなもはばりばり意識しすぎるほどしていたと。だからこその強度。だからこその不安。
まぁ、親同士の繋がりも非常に深いので、その安心感のバックボーンあってこそなのだろうが、それを親同士の回想シーンを出さずに気付かせることができるというのはいい感じだったりする。
そういう親のオーラ自体排されているのが恋愛ゲームだったりするのだが。親自体はゲーム時間ではいなくなってしまっているけど。秋人は存在感たっぷりだが。玄関に横たわっているときもな。
Sunday, 6-Oct-2002 あたりも。
ここでも今木さんの仰るとおり、私は断然みなもの思考回路に共鳴する訳ですが。ライタの戦略ですか。どこまで行っても非決定のまこちゃんに対して名雪のふりの体育座りから(名雪の「もう笑えないよ」という弱気発言に対して)正義の鉄槌。噂の小一時間問い詰めモード。すばら。
「来るのが遅いんだよ」と言われた瞬間、背筋からさーっと血の気が引いた自分がいた。
問い詰めは、あれだけまっすぐに気持ちをぶつけて来てくれるってのは逆に嬉しかったりするものなのだ。ずっと聞いているうちに、なんでこんなシーンで笑みがこぼれているんだ、俺。みたいなかんじに。
家の鍵を開けておくところまで、全てまこちゃんを待ち続けていた証左となる空恐ろしさ。
また、 問い詰めの声については
http://www5.big.or.jp/~seraph/zero/sup30.htm
の中の意見に同感。
問い詰めのテキストはテキストとして見れば冗長な繰り言に過ぎませんが、喋ることによって非常な迫力となりました。そういった意味で音声があることを前提にした演出としては問い詰めは出色の出来だったと思います。
「まこちゃんとの約束が私の生きる意味」って大仰に(いやそれはもう切実なんですが)取り扱っているからこそ、みなもは自信なさそうで。これだけは妥協できないと思っているからこそ、臆病になる。自分にもそういう感じはある。
それと「嫌いなら嫌いって、はっきり言ってよ……っ!!」って明言を求めているのがいいです。想いは届かなかったわけですが。ズレ感としてはいいんではないかと。
ここはまさに声ありで聴くべきだってやつで。
声に意味を持たせた嬌楽の館とはまた意味がちがうけれど、いつもは音声OFFの私に、声を聴こうという気にさせてくれただけでも力があるというもの。
他のヒロイン選んでいくルートに乗ってしまっていると、ここでごめん、になるのかしらん。それは痛いな。でもそこまでやってこそモノホンのような気もする。
逆に真に「好きだ」と一言も言わせずにあそこまで進行させてしまうのも意外。
つか、それで「まこちゃんならいいよ」っていうみなももみなもですが。
しかし、真もひどすぎ。髪型変えたときのそっけなさなどは、PLの私はPCを叱りたくなりましたが。
この感覚は、Game Deep 的に言うとこんな感じかもしれない。
PLには伝わっているのにPCには伝わっていない。
PLはヒロインの幸福のみを願う。今木さんの指摘のとおり。
で、PCを仕向けてヒロインとくっつけようとするPL。選択肢も尻を追いかけ回す感がある。
そして、肝心なところでの決定権はPLにないというバランス。
(1人しかやってないのにここまで言えるかどうかは怪しいが)
その逆に「ミッションを完遂してからでなければ行為まかりならん」というバランスは好きです。しかし、それならばなぜ自分たちの未来を、身体を、大事にしない(?)避妊に対してはこうも無頓着なのかしらん。つか、高校生のうちに子どもできちまってもこまるじゃないのさ。どちらも両親いないし卒業もしていないのに。っておやじの繰り言になっていますか。
あと「過去の」まこちゃん幻想を封じ「今の」私を見て、と毎日「努力」して過ごしているみなもが、真の出血に指パクとかしてしまうところがあるが、このあたり、意志と無為のズレを表出していたりして、(実際にはありえないと言われようと)いい感じのところではある。
もう一つ、自分としての課題というと、転校生。
転校生というと、安寧の生活に飛び込んできた台風の目、という視点と、衆人環視のさらしものというのと二つあると思うのだが、私自身が転校生として持っていた感触としては、当然後者。真やみなものように、約束とか別れを惜しむとか再会とか、そんなことには縁のない自分であった。
さよならだけが人生だと昔から思っていたらしく。
その点ではいい加減な真に近いのか?
風音市(かずねし)について。
彩(ひかり)の守ろうとするもの
やっぱ先日の電波解釈で良いような気がしてきたが、そう言い出すと、D.C.のように何でもありっぽくなるが。D.C.は円環というのは書いたが、その味がある分、古い伝承を守る云々のWindよりは単線的でなく私的に好みではあるが。
と思ったら影王さんがD.C.とWind比較しているとのこと。
それと便座カバー(じゃなくて)
ゲーム業界用語辞典
http://gamedic.jpn.org/
みなも問い詰め全文掲載中。
以下蛇足。
ああ、「夏への扉」はまさにそうだった。
つかね、何でも今木さんに既に言われてしまっているのよ。
全然関係ないが、ONEで雨の時「古傷が痛む」ってのは冗談で言っているのではないと思います。
雨の時に限って早起きになることもあり、みさおの葬式のときに降っていた雨が体に染みついているとしか考えられないわけで。
まさに古傷。
名雪も古傷のせいで眠り姫。祐一と結ばれると時に早起きになりますが。
「眠りと文学」(中公文庫)じゃないけれど。
自らを眠りに誘い込む萌先輩(D.C.)なんてのもいたな。「夢で逢いましょう」まんまだが。
茜を入れていないのは故意ですか。♪逢いたい逢えない(以下略)。まあいいや。
だいぶご無沙汰。ビデオには撮ってあるはず……だが、だいたい乃梨子を見ていないぞ(笑)。
というわけで(どういうわけだ)レイニーブルー。本当に朝からブルー。文庫を参照しながら、IRCで生中継モード。
薔薇の館での修羅場ではバックにドヴォルザーク交響曲第8番第3楽章。オケではなく室内楽程度だとちょうど場面に合うかな。
コンビニで傘を盗られるところはともかく、祥子様を盗られる(笑)ところは少々溜めが足りないかな。もうすこしねっとりといやらしく見せてもらった方がボディーブローになるような。
転校生に少々言及したが、その続きのようなもの。
転校生という不安。
根無し草であり、親以外の「目」が存在しないことが多いかも。
制約は少なくなるが、みんなが「彼(彼女)ならばこうあるべき」という地域の目というか、そういう網の目にかかりにくい(それはそれで楽だし、そもそも束縛が厳しいが)。
で、みなもも待ち続けるという決定はその実非決定であったりするのだが、延期し続ける事を容認されてきている、とか。
戻ってきた街も、まこちゃんがいなければ初めての街みたいな雰囲気だし。
子どもの行動範囲はやはり小さいです。
田舎にいると、街並みが切れて、隣の集落に行くのも、子ども達だけならば結構な冒険でした。
ゲーム内世界が夢と形容されるのならば、プレイによって彩を「救う」(あまり好きな言葉ではないが)ことにより、夢の街は「力」がなくても大丈夫という現実(留保付)と地続きの街に置き換えられる。
彩は伝承、みなもは約束、勤と紫光院はイヤリング、みんな視線が過去向き。それだけではないというところを丁寧に追っているけれど。
その時、みなもに通底しているのは、愛想笑い。もどかしいPCのせいではあるが、やはり自分の事のように愛想笑いが痛かった。自分に似ている。
ゲームでは思いが届かなくて暗い表情をしている場面が表に出てこないからなおさら。
アニメでは望みと買い物に行った真を見かけて顔を曇らせるところなどがあり余したが。
ああ、やっぱり、という感じのSF的展開。
ま、Windは千年の軛だし、その点では過去向きか未来向きかだけで大して変わらないのか。
ゲームやってないし。
内罰的なほなみんが強調されていたな。私のせいで……を繰り返して。
まぁ、その考えは不遜といえば不遜なのだが、そんな彼女を幸せにしてやりたまえよ、みたいな展開。
美琴の方は諦めているという図式にしているのはこれもまたずるいと言えばずるいのだが。きれいに鞘を収めたいと。ここで修羅場っても仕方ないし。
修羅場は違うゲームでしたね。。
ゲームをやったので気付いたのだが、10話までかかってゲームで言う「第1部」が
やっと終わったのでは後が辛かろうと思っていたが、予想以上に後半ばたばたな展開になってきた感じ。彩(ひかり)の解決は秋人おじさんの遺言を反芻しながら、真が単独で乗り込むことになっているし……。
まぁ、死の場面も真の夢か現実か曖昧な認識と電話だけということで、みなもシナリオではなく彩シナリオベースなのか?と思いつつ見る。問い詰めはなし。
全てに曖昧のままでここまで進められると、なんか張り合いがないな。
彩のため命を賭するのが誰か、という等価交換の話になってしまうと、ちょっとつまらない。
ゲームと比べると甘々かな。
過去(回想)←文法的言辞。
過去の整理になってしまうと「今の自分の理解」として少々道筋を整理しすぎのような気はするが。特に由希が透を「お母さん」という存在として落ち着けようとする点は特に。。それは確定的と言うことではなく、逡巡は続くのであろうが。実際にそういう道筋は記されているし。
仮想敵がいないと困るというのは、誰にでもあることなのだろうが、なるべく決めつけて拒絶せずに、一度受け止めたうえで考えたいと思っている。この言葉は特に自分に対して。難しいことだが。
劇の翻案だが、こういう感じのものは小学生の時にやったことがあり、高校生にしては幼いなぁ……と思うことしきり。しかし、『マリア様がみてる』といい、『フルバ』といい、何故にシンデレラ? さりげなく「自立する女性」みたいな材料まで混ざっているし。幽閉の件を絡めるところが目的だったか。
ま、途中で何言っても仕方ないので。
しばらく前から、nDiaryで更新ができなくなっていたので、今まで、C.Fさんにon diaryの環境を作っていただくというご迷惑をおかけしていたわけですが、その状況を改善すべく、もう一度最初からやり直してみることに。
起きていた症状は以下のとおり。
プログラムで例外が発生しました。
詳細は以下の通りです。
タイプ
Errno::EBADF
メッセージ
Bad file descriptor
バックトレース
./ndiary-lib.rb:966:in `write'
./ndiary-lib.rb:966:in `puts'
./ndiary-lib.rb:966:in `main'
ndiary-gui.rb:72:in `execute'
ndiary-gui.rb:77:in `btnMake_clicked'
vr/vruby.rb:351:in `send'
vr/vruby.rb:351:in `controlmsg_dispatching'
vr/vrcontrol.rb:182:in `self_wmcommand'
vr/vrcontrol.rb:179:in `each'
vr/vrcontrol.rb:179:in `self_wmcommand'
vr/vruby.rb:316:in `send'
vr/vruby.rb:316:in `msghandler'
vr/vruby.rb:313:in `each'
vr/vruby.rb:313:in `msghandler'
vr/vruby.rb:965:in `messageloop'
vr/vruby.rb:965:in `messageloop'
ndiary-gui.rb:84
動作環境
nDiary version 0.9.4.2
nDiary_win32 version 0.0.4
私には全く分からず、WhiteさんとC.Fさんよりアドバイスいただきながら。お手間かけます。基本的にはndiary-gui.exeでやっていたが、ndiary.exeダブクリでも同じ症状。
スペース付のパスに入れているのでは、という指摘もあり、フォルダを移して再実行するが同じ症状のまま。
Whiteさんから「コンソール起動してからその中で実行は?」と言われてその方法で実行していなかったことに気付く。この辺典型的文系人間の罠。早速実行してみると、そこに現れたメッセージから初めて症状の原因が分かった。confファイルの中、LOG_DIRECTORYフォルダ指定行に余計な「'」が存在したため、フォルダ位置が異なる場所として読まれていた。……改行をミスしていることもあって、同じ行として読まれていたらしく。
Whiteさんからは「GUIなんかに頼るからだー(ぉぉぉ」と厳しいお言葉(笑)。
基本的ミスですみません……。ただ、私のようなプログラミングの知識が皆無の人間のために、エラーメッセージを充実させていただけると、原因が分かりやすいと思います。今回のような誤りなら、「指定フォルダにファイルがないよ」と返してくれれば、原因の特定がしやすかったかと。
ついでに、懸案のまま放置していた種類毎のTopicを追加。
文庫では私のお気に入りだった「右左、右左」(文庫『パラソルをさして』p.41)あたりがない代わりに、少々唐突な「元気にならなきゃ」で繋ぐところに違和感。
ただ、最後まで見ると、整理の仕方次第というのが分かる。
傘が帰って(誤字にあらず)きて、祐巳に少しは風が向いてくるという道筋と、祥子と祐巳とのふたりぼっち(私的に特異な使い回しですまん)の関係から外を見よという道筋の二つに全体の流れが整理されて示されている。
そのため、途中の「右左、右左」のシーンはその流れに沿わない、早いうちからのポジティブ感として切られてしまったということになる。
外部とのつながりとしては、今回加東・池上両氏との交流もあったのだが、尺の関係上少々出てきただけに留まり、むしろスールの外部として機能しているのは抱きつき芳乃由乃になっている模様。文庫『パラソルをさして』p.49にも書かれているような微妙な変化までは言及されていないものの、Bパートラストで、原作では薔薇の館に息せき切ってお手伝いに行くところ、芳乃との関係を描くことで、その方向性が強調されている。
分かりやすく整理するということでは、この方法でよかったのかもしれない。
13:00にWhiteさん宅に到着。ちょうどカタンの勝負が付いたところ。面子はWhiteさん、同居人真奈美ちゃん、つついさん、C.Fさん。EURO TRAINとTransAmericaのマップを見比べて、アメリカは単調だから、という事でEUROをプレイすることに。その前に皆で昼食、腹ごしらえ。Whiteさんが買い出しに出ている間に『Healing Planet』(桜野みねね)を読み出す。いきなり「意味より強度」と感じ、口に出したところ、ドイツ系C.Fさんより「そんなフランス現代思想の言葉を使うのはやめた方がいいと思うよ」と突っ込まれる。White氏帰宅して曰く(初心者がいるのなら)「おまえらチュートリアルくらいやっとけ」まぁたしかに。私は正月のカタンもそうだが非電源系の経験がほとんどない。まずはなんとか手取り足取り始めさせていただく。
マップにクレヨンで路線を引くから所謂「クレヨンゲーム」。序盤のクリティカルさにヤられて少々消極的になってしまい、仕事を選り好みして自ら遅れを取る始末。ということもやってしまってから気付くもの。認識は常に遅れを伴う……などと言っても仕方がない。その後は安い仕事でなんとか回し、3B政策風の路線構成から、フランス側からアルプス越えをして条件の7都市間の路線を整備。こなす仕事に合わせて周回ルートを造るが、基本的に大江戸線風味の路線なので、どこに行くにも近いようで遠い状況。序盤の差は圧倒的で、そのままWhite>つつい氏の争い。時間が遅かったので、途中で切り上げるが、White氏の勝利。
駅前で遅い夕食を取り、新宿まではつついさんと共に帰る。
仕事関係の話まで持ち出してすみませんでした。
でも、いろいろな人からお話を聞くのは参考になります。
またの機会がありましたらよろしくお願いします。
課題図書:Healing Plamnet(桜野みねね)
アツイヒビ(緑川ゆき)花とゆめCOMICS
蛍火の杜へ(緑川ゆき)花とゆめCOMICS
先日触れたように、「意味よりも強度」と感じたのはエビ寿司のキーホルダーにまつわる以下の部分。引用長くてすまん。
さとり「あのね―― そのエビ寿司の キーホルダー すごく好きなの たからもの!!」」
ぷにぷに「なにか深い 思い入れがある とかですか」(つん)
さとり「ない」
さとり「最初に 見たときにね すごくかわい――〜〜っって 思ったの」
さとり「で かわいいから ずっと持ってると 一緒にいる間に思い出が できるでしょ?」
さとり「だから今は もっと好き」
あと引っかかったのは、「……まぁ そのぐらいでないと やっていけないだ ろうからな」の台詞。まるで人の話を聞かないのが異次元カウンセラーの条件のような支部長の言いぶり。
人の話を聞かない、と書いたところで今木さんを思い出す罠。……やはり言及されている。まぁ、なんというか、ずれた真剣さ(動いているエビ寿司が可愛いから夢中で追いかけること、アンジェリカが食べられないと言うのにごはんを強く勧めること、母と対峙している伊吹邪甲への脳天気な挨拶や念儒母への「あなたうるさい」の言)によってその熱さが焼き付く。「関係ない」気安さとずれた熱さのため、それに対する者の中に入り込みやすいという(意図せざる)逆説。また、親子というのも意味より強度だったりするわけで、伊吹邪甲は「感情」の発現があっても母と共に帰る。むしろ「発現」できるようになったという収穫。
最後に手紙として「伝える」のだが、さとり自身が書かずに周りの3人が書いたもの(本人が考えたものとはずれがあるはずのもの)が伊吹邪甲に送られる。とか。そんな思いつき。こういった言葉や考え・意識化されること自体を無効化するのが「人の話を聞かない」事だったりするのだが、これはもう性分でね。
CS系でやっていたので、何気なく見る。断片的には以前にも見ていたが。
母の死を受け入れられない少女の話と言ってしまうと端折りすぎだが。
抑制された演出と何気ない音楽。取り立てて何が起きるという程のことではない筋立てである意味断片的ではあるが、一つひとつの部分が際だって見える。他愛ない子供同士の諍いや母に会うための試みや祈りなのだが、受け手が忘れてしまったような事をいちいち思い出させる。子供を主人公にした映画というものは多かれ少なかれそういう側面を持つものかもしれないが。
雪駄さんもご推薦だった模様。正直、こういう作品は好きです。繊細でどこか危ういところがあって。
池田が川の中で捜し物という間抜けな状況から物語は始まる。むしろそういう突っ込み所がない限り、物語が始まらない優等生・池田(遅刻や居眠りしただけで噂になる)。抜け漏れがあって「逆に興味が湧いてきた」というのもそういうこと。
その点、室園の身構えのなさはそのような状況を体現しており、目を引く。彼女が「1年男子にもけっこう人気で」と言われるように広く受け入れられるのもそういった点にあるのではないか。作中冒頭の池田へのきつい対応に見られる直情径行な点もあるが、ちょっと「にへら」という感じの笑い方もあり、あっけらかんと「私じゃダメ?」と言ったり、外に開かれているというか、何気なくまっすぐ向かってくる感に国吉も池田も巻き込まれている。
池田の内偵で、室園「よし!! こんなこと さっさと終わ らせよう!!」
国吉「おし!! ここは一発 やんのか やんねぇのか 直接きくか!!」が見開きで対応しているあたり、うまいと思ってみたり。お互いがお互いに巻き込まれ合っている。
「寒い日も」では「眼鏡も似合うけど〜」と軽口を叩ける相手の遠山と沈黙から「おはよう」としか返せない室園との対比。それ以上は野暮ね。
で、「好きだよ クニヨシは ちゃんと〜」で自分の想いを代弁、という背後が読めるようになっている(だからそういうのに言及するのが野暮)。でもやっぱりいらないと。こういったところの押し、引き、間合いというのは、これくらいの歳になると行動の癖というのが付いており、例えば義父を含めた「家族」維持のための間合いの取り方というのが失ってもまだ残っている、というところがあるのかもしれない。
「花の跡」は別れ際にさよならなんて、悲しいこと言うなよ、ってなかんじ。
さよなら、ではなく、またね。
狭くて暗いところに潜り込みたい感覚
描かないと、生きていけないだろう?
いちいち身に響く。
菊池が「あれは花よ 花だった とってもきれいな「花の絵」だった」と敢えて言うことによって、机に書いた言葉が「あつい」、焼き付く言葉となり得たのだと思う。
なかなかまとまらないな。
最終回?(なんか続きがあるみたいだが)
やはりワンカット毎になにやら詰め込み過ぎの感。ゲームやっていない人置いてきぼりのみなも問いつめシーン&学校の屋上での戦闘シーン。幼時の別れで、「想いは 遠く離れてても〜」の台詞を真が言っている。これだとみなもの問い詰めはかなり力を失うのではないか。
また、琴葉の「私、幸せに貪欲なの」はむしろみなもの問い詰めでその実体的な力が示されるのであって、回想シーンでの言及だけでは説得力が薄い。
これらのシーンの繋ぎ方にしても、ただ併置されているだけで見ている者に伝わる力が感じ取れるようにはなっておらず、むしろ猫だけ?
この伝承に縛られる彩という話だけでは、トポスは街自体にはなく、せいぜい神社だか森だかにしかないようにしかみえず、それは街を風が吹き渡るというところだけでは到底示し得ない。
DVDでマルチシナリオや補足があるようだが、それがあったとしても、この作品が私の口に合う物とは到底考えにくい。
少なくとも、ゲームでは、(トポスはうやむやになったとしても)敢えて人間関係に絞り込むことによって、爽やかさと泥臭さとは常に背中合わせ、いつどう転ぶか分からないという危うさを認識させてくれるものではあった。その感情の動きと風、Windの吹きかたとの連関ぐらいの認識で置いておくと、それなりにいい感じなのだが、アニメではそこまでも至っていない。残念。
取り敢えず、表題作のみ。
表紙を見た瞬間、狐の面でお約束の反応。
「……TEXHNOLYZE?」
お約束とはいえ、それほど外したものではない。お面を被った者は触れられると消えてしまうという。蛍が入り込むまでは、人に対しては「見る」ことのみ。
「君は、この世界の、テオーリア。見ることが、あなたのできる全てなのだから……」
の台詞に合致。常に離れたところから眺めており、最初に登場する場面でも、木に隠れながら。
これに相対するように、彼(ギン)に対して真っ先に飛びつく蛍。対照的な二者。
代わりに、殴る、というコミュニケーション(?)(更に祖父からもぶたれるが)。
嬉しさのあまり飛びつこうとする蛍の身体性。ここでも現れる身構えのなさ。「恐がらない」というまっすぐさ。先ほどの対照性に合致するように、自らを妖怪と定義し、ヒトから遠く離れた位置にあると定義する。
中学で「すべる 危ない」と声をかける少年とは、手を繋ぐことができる。触れることができるこの少年と、大切に思うからこそ「絶対 私に触らないでね」と自ら禁忌とした、触れることのできないギン。このシーンがあるからこそ、蛍のギンへの想いがより強く伝わってくる。更に言うならば、現実に目の前にいる少年よりも、いつ失うか分からない、人ならざるギンを選び、毎年通い詰めるという遊離。
蛍が高校生になったとき「おれのことを話す」というギン。自ら人へ歩み寄るようになる。飛びつかれることも「本望だ」と思えるようになる。
ここで強調されてくる季節の移ろいの言葉。そして別れの予感。
この辺りから、どうしても、あの特権的な夏の日である『AIR』を思い浮かべずにはいられない。
きっとこれが、最後の夏。
もう、ゴールしても、いいよね。
とか。(これは劇場版のスポットだけれど)
最後の最後の瞬間、蛍はギンの感触を僅かにでも感じ取ることができたのだろうか。
それとも、サギーの消える瞬間のように抱きしめても服だけ残して消え去ってしまったのだろうか(アニメD.C.)。
そのどちらかが非常に曖昧な表現も、余韻の残り方として素晴らしい。
(後のモノローグで「手に残るぬくもりも」とあるから、実際僅かに触れ合った感触が残ったのだろうと分かるのだが)
そして、最後の瞬間まで精一杯共に在り、これからも共に生きていく。
至福。
第3EMPのある「世界」が、「下位」にあり、吸血鬼が現存してしなうような虚構の世界、というのは言うまでもなくこの本自体の位置を示している。
そうすると、ここで宮野の言う最上位に君臨しているのは、実体上の作者や読者のいる私たちの「現実」(留保付)世界自身であると言えよう。便宜的ながら上下を使って説明しているのはやはり書として記された虚構の世界は実体上の世界の下位にあるというヒエラルキーを意識してのものだろう。そのため、虚構内の宮野が「我々」に干渉しようとする、その意志を有するだけで、既に飼い主にかみつくような存在だということになり、作中でも盛んに抹消の申請が出されたりすると。そういう点に自覚的な作者の存在もまた窺える。
さて、基本的に読者たる我々がこのような虚構に対応するとき、フィクションたる「別世界」から何らの影響も得ていないと言えるだろうか。否。その本=世界を手に取ること、読むこと、読んだ後の行動の変化・記憶の更新・その他。これらを自覚することで、読者もまた自らの安定した立ち位置が揺り動かされることが本作の特徴であろう。
無自覚に「現実」を最上位として捉えている者に対して、あなた方もまた絶対ではないというひっくり返しが図られているから。自らの足許が崩れる感覚。
ところで、本の登場人物が自分自身が虚構の中に存在するということを自覚するという話で言えば『ソフィーの世界』とか『ヤミ帽』か。
断片的なコメント型進行でよろ。
今日はアヴァンタイトルなしでいきなりOP。
瞳子との対決(?)では、祐巳が瞳子の手を取るところで
「薔薇の館まで、エスコート」
という原作にない祐巳の台詞となっていた。全体的に対決シーンを短くするための工夫だとは思うが、これは結構悪くない翻案だと思う。
弓子が友人に会いに行くというとき、聖は出て来なかった。これも正解だと思う。
むしろ原作が聖に頼りすぎ?の感を持っていたため。
蓉子が祐巳に嫉妬しているという件もなし。ここは少しでも言及してくれると嬉しいかも。
車の動きがギャグ漫画状態。どうせならカボチャに……(やめなさい)。
清子がからっとしている、というところは表現されず。
普通に目に涙を浮かべて祐巳を迎えている。アニメの尺ではこの辺りの表現は省略せざるをえなかったと。
最後の食べる話も略。
原作上では、これまで想うの想わないのという一辺倒だったので、最後に食べる話で何気なくバランスが取られているので、意味のある件である。
しかし、さすがにシリーズ最終回でコンビニ飯を食す、では締まらないということか。
この部分は一般的なイメージに奉仕することにして安定を求めたということと解する。
その、最後の最後だが、まぁ、予想どおりの締め方。
祥子の言葉「あなたが好きなの」
EDを挟む……流れている間、最後に祐巳があの台詞を返すのだろうな、と考えていた。
(おっと、タイトル忘れていた。ここに挟まれる)
祐巳の言葉「私も、お姉様のこと大好きです」(やはり)
何年ぶりかわからんが、本格的に吹いてみるが全然だめ。持続力なさ過ぎ。すぐに疲れて音が出なくなる。特に口の周り。タンギングも下手。トリルができない。
といっても、決して『茄子 アンダルシアの夏』ではなく、本物の方。
どうやら、私が本命視していたロベルト・エラスが2年連続3度目の優勝を達成した模様。30秒差の接戦。
小学生の4割「太陽が地球を回ってる」 国立天文台調査(9/20朝日朝刊)の記事関連で、薬剤師による心理学的アニメ学氏への反応込みで。いつもの友人S氏だが。
天文分野はかなり抽象度が高いと考えている。私は天文・気象は大好きで、理科の中でも最も得意とする分野だった。子どもの時、親から買ってもらった本「星座を見つけよう」(福音館)などが大きな位置を占めている模様。
私が小学校当時学んだときにも、太陽が昇り沈むときは地上は平面、半球に太陽の通る位置が示されているという天動説に即した絵が描いてあったので、子ども心にこれでは地動説の説明じゃないと思っていた次第(その程度のマセガキではあったらしい)。
もちろん、太陽中心として、他の惑星が回っている図もあって、太陽の動きは見かけという話にはなっていたのだと思うのだが、「見かけ」であっても図でしっかり定着した形で示されると、素朴にそれが真実と信じるのは当然あり得ることだと考える。それゆえ、理解度に関しては、実のところ昔から高くないのではないかとも思っていたりする。
公転の根拠が、星の動きで1日4分のずれと言われても、ちょっと空を見上げたくらいでは分からない。ましてや外惑星の動きで合・衝・逆行とか言われてもほとんど見えないし、見えたとしても千年単位で解明されなかったわけだから、素朴に理解しろ、といわれても無理な代物であるのは確か。
そこで、ここでなぜこのような学習をするのか、と問われたとき、自分の課題と突き合わせて納得するためには、またぞろ視点の話だが、自らの立脚点の絶対性を疑え、ということ辺りに落ち着くのではないか。
素朴には分からないものだから外せという短絡ではなく、学ぶことにより改めて見えてくるもの、という観点からありたいと思う。
「役にたつ」成果ばかり、表面的な所ばかり追いかけて、深層を突き詰める作業を怠っていることの反映なのではないか、とか。オトナ世界も含めて。
強要教養主義といわれますか。
アニメ版シスプリ(初代)について今木さんが9/26〜27でコメントされていた件について。実は、初代シスプリについては見ていないので直接には何とも言えない(リピュアは見ていた)。しかし、今木さん、しのぶさんの仰る見方と重なりそうで、サナトリウム的感覚を抱いた作品としては、Whiteさんのところで見せてもらった『灰羽連盟』が直近。
繭の中から裸で生まれなおし(繭の外からの呼びかけがあることも特徴)、周囲の人の助けが必要。
世界が広がってゆく、というところが丁寧に書かれていたのが灰羽の特徴でもある。
生まれ落ちたところの数人の仲間<年少の子供たち<町へ<他所に住まう灰羽たちのとの交流。壁とかいろいろあるんですが、その辺は前にもあからさますぎる言及をしていたり。上の友人Sには不評を買ったのですが。これはちょっと品がないような。
先に還ってゆく(?)クウのような存在も提示され、明らかに回復までのリハビリ機関のような閉じた町。
あと、還っていった後での役割の交換が示唆される。レキが去った後「たいへん、たいへん」を繰り返すラッカは、自らが姉的役割を自覚しつつあることを示す。
前はラストに向かうための場の条件が揃っていないと書いていたのですが、これは話をたたみにいくときの性急さのようなもの。序盤では、街とそこに暮らす人の活動は丁寧に書いているのでしたね。そっちの緩い流れをもたらすものは、悪くないかと。「現実への適応のための学習の場」というのが、特に感じられたのが本作だったということで、引き合いに出させていただいた次第。