今日の遠吠日記





 5月19日(土)

 全国から集まった同年代の若者たちと、ぼくは基地のなかにある広い演習場
に立っている。モスグリーンの戦闘服、鉄兜、半長靴、小銃。青い空の下、夏
の太陽の下、乾いた演習場の土埃のなか。班長の号令一下、ぼくたちは小銃を
胸の前に抱え走り出し、やがて、班長の合図を受けて地面に横座りになり、上
半身を立て、膝を地面に打ち、蹴り走る。更に合図。地面に腹ばいになり、顔
の前に小銃を捧げ持ち、両肘を地面に打ち込み進む。もう一度、合図。顔を地
面につけ、五体投地さながらに地面に一体化して、ズリズリと進む。呼吸は荒
く、鼻のなかに地面から浮き立つ砂埃が入る。細かな細かな砂の粒。それが連
続して鼻の穴に入るのが見える。ぼくの肺のなかに砂埃が溜まり、ぼくはこう
して大地と一体になり、幸福感に包まれる。そうして、そろそろと前に進んで
いる。泊まり勤務の翌朝、ぼくはバスに乗り街に出る。街には休日にしけこむ
ための部屋が借りてあって、ぼくはその部屋に向かう。共同玄関、共同トイレ
の古い古い木造アパート。部屋のドアに鍵を差し込みガチャリと廻しドアを開
くと軋む音。こたつのスイッチを入れて、ラジカセのスイッチを入れて森田童
子を流す。ぼくはこたつに潜り込み、畳に腹ばいになり目を閉じる。ぼくと部
屋とは一体になり、ぼくはどこにも進まない決意を固める。真夜中の兵舎の見
廻り勤務。階段の踊り場にある鏡にぼくが映る。ぼくは戦闘服を着て真夜中に
兵舎を見廻る。一人きりの真夜中。真夜中の一人きり。何という気持ちの良い
真夜中であることか。ぼくは鏡のなかに入り込みたい。あえなく鏡に拒否され
て、ぼくは階段を下り兵舎を出て、道路を渡り、次の兵舎の見廻りに進む。ほ
ら、道路のあちらから死んだ兵隊たちが隊列を組んで歩いてくる。前の大きな
戦争の時に死んだ兵隊たちだ。ぼくは真夜中に腹ばいになり、ぼくは真夜中と
一体になる。女を部屋に連れ込んで、こたつのなかで抱き合う休日。ぼくは女
の乳房の柔らかさに、この乳房のなかに潜り込みたいと真剣に考える。ぼくは
乳房と一体になる夢想に耽る。古い街の古い格式高い旅館の一室。ぼくたちは
どうして良いか判らなくなっている。産めるには産めるが、埋めるがふさわし
かろうと。暗い日、ひとりになったぼくは仕事にも行けず、ただ、ぼんやりと
生きている。大きな川のほとりに腰を下ろし、あの橋の上を通る車からぼくを
誰か見つけてくれないかな、と浅ましくも考えている。誰もぼくを見つけては
くれなかったが、大きな大きな本屋の奥の棚で、ぼくは澁澤龍彦を見つけた。
ぼくはそうして本に出会い、ぼくは本と一体になりたい。

 先週の金曜の夜、職場の呑み会の後、店を出たところで、ぶっ倒れた。
 何が理由か判然とはしないが(飲み過ぎではない、と思う)、急に視野が狭
くなり、意識が遠のき、2度くらいは自分で立ち上がったそうなのだが、3回
目に倒れたときに頭を歩道に打ち付けて失神してしまった。
 その際に、3年前に折った右手首を痛めたり、脱糞したり、失神中にイビキ
をかいて同僚たちを酷く驚かせたりとかの醜態を晒してしまったわけだ。
 数分は意識を失ったままだと言うし、脱糞までしているわけだから、当然、
同僚たちは脳の血管がらみの急変だと心配してくれたようなのだが、意識の戻
り具合とか、その後の経過を見てみると、飲酒による急激な低血圧に起因する
意識障害から倒れ、その際に、歩道に頭を打ち付け、脳しんとうを起こしたと
いうことだったよう。
 仮に脳の疾患だったら、生命の危機もあったわけで、本当に良かったなと思
うわけだが、しかし、後日、居合わせた同僚や一緒に呑んでいた同僚に迷惑を
かけたことを謝ったり、病院に脳のCTを撮りに行ったり、捻挫した右手首で
日常生活に不自由を蒙ったりとか、まあ、ある意味、自業自得の日々を送るこ
とにもなったわけだ。
 脱糞の精神的ダメージも大きいわけだが、しかし、右手首の捻挫が応えた。
 右肩から右手にかけて、ほとんど力が入らないのだ。右手首を骨折した3年
前に、骨に膿みが溜まる病気であると言われて以来、右手には気を付けていた
のだけど、今回、意識を失い倒れるなかで、その右手で思いっきり体重を支え
ることになってしまったようで、意識が回復してから、これまでずっと痛い、
痛い。骨折までは行かなくても、あるいは、ヒビくらいは入ってしまったかと
危惧していたわけだ。
 実際、日常生活にも影響が大きく出るくらいに痛かったわけで。
 が、日々、痛みも腫れも薄くなってくるし、まあ、不自由には不自由だが、
しばらく我慢すればと思っていた。
 木曜の夜、長男と嫁(予定)が家に来て夕飯を食べた。その際に、理学療法
士をしている長男にマッサージをして貰った。
 プロというのは卵でも凄いもので、腫れていた右手首にみるみる血が通い出
し、不自由だった動きが回復していった。長男によると、右手を支える胸筋の
辺りに酷い鬱血があり、血の流れが滞っていたそうだ。
 まあ、半世紀も生きていれば、いろいろとあるわけだ。
 反省はするけど後悔はしない。脱糞さえも。

 録画してあった映画『木漏れ日の家で』(2007年ポーランド 監督ドロ
タ・ケンジェジャフスカ )を観た。
 古い家に愛犬と暮らす老嬢の独白を中心としたモノクロの映画。決して退屈
な映画ではない。むしろ、孤独に暮らす老嬢の、その孤独な時間自体に深い豊
かさを感じさせる映画。
 老犬との対話、隣家の人間観察、お茶の時間、ろくでもない息子夫婦たちと
の関係。また、時々、迷い込む音楽クラブの子供たちとの対話など。
 ひとつひとつは退屈なエピソードにしかなり得ないものが、しかし、この映
画では、それらの退屈さにじっくりと寄り添うことで、とんでもなく豊なもの
に変えてしまっている。
 特に、嵐の夜に、この老嬢が真夜中の庭に出て雨に打たれる場面が凄い。単
にそれだけの場面を、この映画はどんなに豊かに表現してみせることか。
 死ぬことと生きることの間には繋ぐことというのが介在する。そういうこと
を考えさせる。映画の終盤の子供たちとの交流がそれを深く示している。つま
りだ、ぼくたちが一人きりで生きていないというのは、いや、一人きりで生き
ることが出来ないというのは(仮にそれを望んでも)、繋ぐためにそうなって
いるわけだ。
 しみじみと凄い映画だ。

 オルハン・パムク『白い城』を読了した。
 トルコのノーベル文学賞作家オルハン・パムクの作品。
 17世紀のオスマン・トルコが舞台になっている。ヴェネツィアの男が、オ
スマン・トルコの海賊に囚われ、宮廷に献上される。やがて、この西洋の男は、
彼と容貌が酷似しているトルコ人の学者の奴隷とされ、西洋の男はトルコ人の
学者を「師」と呼ぶようになる。
 このふたりの、性質の違うふたつの知恵が交流するなかで、彼らは帝国のな
かで成功の道を歩みだし、やがて、という内容。
 東洋世界と西洋世界の離合集散の歴史が、このふたりの交流のなかに圧縮さ
れ再現されていくわけだが、そのことを、この小説は、互いの互いに対する複
雑な憧憬として描いていく。憧憬は知識欲として現れ、時に、感情的反発とし
て現れていく。
 今、同時多発テロを契機とした東洋と西洋の反目のなか、あるいは、その反
動として深まりつつある、相互の複雑な認識の深まりの課程が、この小説のな
かには圧縮された形で描かれている。

 ダニー・ラフェリエール『ハイチ震災日記 私のまわりのすべてが揺れる』
を読了。ハイチの大地震に居合わせた、カナダ在住のハイチからの亡命作家に
よる大地震前後の「日記」。
 彼が観て、彼が聞いて、彼が考えた範囲でのハイチの地震の記録という意味
では、また細かな断章に分かたれた幾つものエピソードを重ねる形式という意
味では、確かに「日記」ではある。しかし、彼の周囲をのみ記した、この「日
記」は大地震の記録であることを越えて、個々の人間、あるいは固有の都市の
大きな記録にもなっている。
 こういう拡がりを指して文学と呼ぶのだと思う。

 パウル・ツェラン『パウル・ツェラン詩文集』を読んでいる。
 ぼくには詩の読み方がよく判らない。詩は短いからアッという間に読めてし
まうのだが、しかし、こんな読み方では詩を読んだとは到底、言えない。
 おそらく、小説以上に繰り返し読むことが詩には必要なのだろう。書かれて
いる言葉ひとつひとつの繋がりから喚起されるイメージを固定し、それについ
て考えるということ。

 「死のフーガ」はパウル・ツェランの強制収容所を描いた詩。

 「あけがたの黒いミルク僕らはそれを夕方に飲む
  僕らはそれを昼に朝に飲む僕らはそれを夜中に飲む
  僕らは飲むそしてまた飲む
  僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのに狭くない
  一人の男が家に住むその男は蛇どもをもてあそぶその男は書く
  その男は暗くなるとドイツに書く君の金色の髪マルガレーテ
        (以下、略)                」

 冒頭、「黒いミルク」というイメージが提示される。ミルクは通常、人間が
栄養を取るために飲むもので「生」のイメージが喚起されるが、しかし、この
ミルクは「黒いミルク」であり、つまり「死」を喚起させる。その「死」を招
く飲み物は夕方に来る。そして「死」が訪れる。「黒いミルク」の「死」はい
つでも来る。そして、その「黒いミルク」をもたらした者は、故郷にいる、金
髪のマルガレーテに手紙を書くのだ。ぼくは仕事を終えたら故郷に戻ります。
仕事は辛いけれど、でも、何とかうまくこなしています。ぼくのマルガレーテ、
待っていておくれ。もうすぐ、ぼくは故郷に帰れるから。そして、「黒いミル
ク」を飲まされる者たちは、すでにいないかも知れない、すでに宙に掘った穴
に煙となって憩っている、灰色の髪のズラテーテに届かない手紙を書くのだ。

 言葉と言葉の繋がりから喚起されるイメージを読むこと。物語の場合は、言
葉の繋がりが、あるひとつの始まりと終わりを作り出していく。この始まりと
終わりが、ひとつの時間の流れを作り出す。物語の冒頭と結末には、何らかの
時間の流れが表現されている。しかし、詩の場合、喚起されるイメージに、そ
の始めの言葉と終わりの言葉の間に、時間的な差異は認められない。
 詩には時間はない。
 詩のなかに流れているのは、始まりと終わりの時間ではなく、それら時間が
イメージさせるところの、一挙に提示される無時間の姿なのだ。

 「友人は言った ー 今日と明日を分かっている壁は取り壊されなければな
  らない、明日はふたたび昨日となるだろう。では、そのような時間のない
  もの、永遠のもの、明日でも昨日でもあるものを得るためには、今のぼく
  らの時代に何がなされるべきか?理性が支配しなければならない、言葉を、
  ということは事物や生き物や出来事を、悟性の王水で洗いきよめることに
  よって、それらにふたたび本来の(原始的な)意味を与えなければならな
  い」
     (パウル・ツェラン『パウル・ツェラン詩文集』白水社より引用)

 こうして詩は書かれ、こうして詩は読まれるべきなのだろう。





 5月 9日(水)

 特に何も書くことがないと言うのは、駄目なことだ。しかし、無理にでも何
かを書くようにしなければならない。これは書く習慣を維持するために。

 ぼくは夢のなかで頻繁に訪れる、昔に住んでいた、古びた家にいる。
 妹と一緒の子供部屋だったのだが、二段ベッドとそれぞれに置かれた勉強机
でいっぱいになっている赤茶けた畳の部屋は、とても狭く雑然としている。
 二段ベッドと反対の土壁にもたれるように置かれている木製の古い本箱には
幾冊かの単行本と文庫本、それに、古びた婦人雑誌とその付録冊子が雑然と並
んでいて、本箱の隙間には家族で旅行に行ったときに買った土産物の手彫りの
熊なんかが置かれている。
 空いた壁には近所の商店から年末に貰ったカレンダーが裾を小さく丸めてぶ
ら下がり、二段ベッドの上段側の壁には、たくさんのペナントが隙間恐怖症の
ように張られている。
 ぼくは木枠の窓をギシギシと開ける。窓の外はすぐに隣家で、ぼくの部屋に
面した隣家の台所の明け放れた窓からは、そのまま向こう側の道に繋がる玄関
までが見通せてしまう。ぼくの家と同じような造りの小さな古い家。関東大震
災にも耐えた、古い町の古い家たち。家の主人は居間でステテコ姿、畳の上で
昼寝をしている。
 ぼくは、家と家の隙間から空を見上げる。ひさしとひさしの間から青い空が
太い線のようにまぶしく見える。
 ぼくはその空の先にある宇宙を見る。
 あの女の人は今スペースシャトルのなかで大気圏外に出る訓練をしていると
ころだろう。ぼくは、彼女の視線に同調し、古びた和室の窓から宇宙を幻視す
るのだ。
 大気圏を突き抜けたスペースシャトルの小さな頑丈な窓からは月が見える。
 月は地上から見るように黄色くて、ぼくはその月に無限の憧れを抱く。あの
女の人の心はときめいて、ぼくの心もときめいて、月は黄色く宇宙に浮かんで
いる。
 ぼくは軍港近くにある古びた、その家の窓から昼間の黄色い月を見上げる。
 玄関を出るとすぐに小さな路地で、ぼくは家の前のあばら屋に住む老女の様
子を探る。すだれを下ろしただけの汚い玄関のなかから人が動く気配がして、
ぼくは安心して、そのまま路地を抜け、少し広い通りに出る。
 少し広い通りは、車の対向にも不便なくらいの狭さだが、しかし、この町内
のメインストリート。。
 歩きながら、ぼくは昨日の朝だったか、100年前の朝だったかに、家の台
所で死んだ老猫のことを思い出している。あの猫は老いていて、死に場所を探
して、いざりながら町内を彷徨っていたようだ。あの老いた猫は、ぼくの家を
死に場所に決めて、早朝に台所のどこかの隙間から入り込んで、それで、起き
出して台所に顔を出した母親を酷く脅かしたのだ。
 ぼくが起きていくと、死んだ老いた猫は、まだ死と生の間で戦っていて、い
ざりながら、頻りに周囲を威嚇していた。まだ若い母親は、この壮絶な生死の
戦いに箒一本で立ち向かっていたのだった。
 ぼくは猫の表情に脅えながら、同時に、家の前にひとりで住む老女がこんな
壮絶な生死の威嚇をぼくらにしたら堪らないと更に脅えを増幅させていた。そ
れ以来、この老女の生死を確認する癖がついた。
 家の路地から抜けた通りは、この町内のメインストリートで、魚屋とか酒屋
とか鰻屋とかお好み焼き屋とか金物屋とか少し前までクリーニング屋だったプ
ラモデル屋があるのだが、ぼくが行こうとしているのはそれら商店の真ん中に
ある貸本屋だった。
 貸本屋の板の間に壁一面を覆う本棚の漫画の背表紙のひとつひとつをとても
大事に見ていく。古びた木のカウンターの向こうで貸本屋のおばさんは何やら
熱心に縫い物をしていて、それはよく見ると手袋で、ぼくより年長のこの家の
お兄さんの手袋だなと思う。けれど、このお兄さんは警察官になった未来に、
駐車違反の取締中に対向してきたヤクザの運転する車に轢かれて死んでしまう
ことになる。
 ぼくは、その未来を知っていて、とても悲しい気持ちで本棚をあさる。
 目当ての本はすぐに見つかった。
 たった今、宇宙で訓練を重ねているあの女の人が、何年か先の未来に、月に
行き、地球に帰還した後に書いた本で、これは大ベストセラーになった本。
 当時は山のように、あらゆる場所で、この本を目にしたが、今、この夢の世
界にあるこの本は、この貸本屋のなかにしかない。
 ぼくは宇宙服を着るあの女の人の写真が表紙になっている本を手に取り、お
ばさんに小銭を払い、店頭に、これはぼく専用に置いてある椅子に座り、本を
パラパラと読み始める。
 田中さんちの昌仁君がまた貸本屋で漫画を読んでいるよ、と近所のおばさん
たちの陰口が聞こえてくるが、ぼくは本に夢中になっているので、そんなこと
は父にでも母にでも告げ口すれば良いさ、それにこの本は漫画ではなく、字が
書いてある本だぞと威張って、宇宙の本を読んでいる。
 大気圏と宇宙の狭間でぼくも訓練を始める。スペースシャトルの操縦席から
頑丈な小さな窓の向こうの宇宙を見る。機体の向きによって、見える場所は大
気圏越しの地球になり、向きを変えれば誰もいない宇宙になる。
 ぼくは、今、どっちにもいないんだ。
 地球にも、宇宙にも、そのどちらにもいない。
 急激に孤独感が襲ってくる。ふたつにひとつを選ぶ必要もないはずなんだけ
ど、そのふたつの世界の間にいる、たった今のこの現実が、孤独の正体だと思
う。ふたつの世界のその狭間で何とも繋がれず存在しているということ。
 そうか、ぼくは今、真正の孤独のなかにいる。
 現実と意識のふたつの間に存在を導く本と夢。空間を、宇宙と地球に仕切る
大気圏のすぐ外側。
 ぼくはいっそ気持ち良くなり、古い汚い家のことも、古い汚い町のことも、
猫の生死の断末魔も、老婆の生死の断末魔も、貸本屋のお兄さんの未来の死の
ことも、それらすべてから繋がりを解かれ、ぼくは孤独に本のなかに入り込み、
宇宙の境界に漂う。

 まっ、こんな感じで。





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