理屈 「デリダ追悼」

「新潮」2005年2月号
「小特集 ジャック・デリダ 討議 柄谷行人、鵜飼哲、浅田彰」感想   
                            05/01/10〜01/17



 ジャック・デリダは、去年、パリで74才で亡くなった。デリダは、以前か
らとても気になる現代思想家だった。目に付いた本をどんどん買い(少しずつ
だが)その内の幾冊かも読了していた。もちろん、難しい内容だし、完全にな
んかとても理解は出来ないのだけど、それでも色々な入門書等で勉強しつつ、
読んでいた。

 この鼎談は、去年、京都大学で行われたシンポジウムでの追悼鼎談。冒頭の
浅田彰によるデリダの生涯の振り返りを始めとして、続いて討議されるデリダ
についての、またデリダが生きた状況についての話しも、とても詳細だし、と
ても勉強になるものだった(ある思想家が死んでから、初めて、その思想家の
全貌が見えるというのは、デリダという思想家を考える上で、とても示唆的だ
と思う)。
 この鼎談から、デリダに関わる部分(柄谷行人の思想についての記述もたく
さんあるのだけど、今回は割愛)気になる箇所を抜き出し、自分なりのコメン
ト(というか、感想、雑感)を書いてみる。



・音声中心主義批判

「デカルト ー フッサール的な意識の自己現前の神話を批判」(浅田彰)

   意識が、意識として、意識の中に明確に現れるということはあり得ない
   という意味になるのか。デリダは、これまでの哲学・思想が仮定してい
   た意識の現前(自分が話すのを聞く)を批判し、エクリチュール(書き
   言葉)を対置する。つまり、これまでの哲学・思想が、対象として置い
   ていたモノは、確固とした形あるものではないということなんだと思う。
   あるいは、それはエクリチュールとして残される「痕跡」でしかないと
   いうこと。
   デリダは、哲学、思想が対象とするモノを、エクリチュールであるとし
   て、それは「漂流物」であるとする。漂流するエクリチュールは、拾っ
   たものたちの手により、ズレを生じさせていく。そのズレの運動を「差
   延」と呼ぶ。
   しかし、浅田彰は、続けて、だからといって、哲学・思想の流れが、音
   声中心主義からエクリチュール中心主義に変わったのだ、とデリダは言
   ったのではないとする。デリダは、「「差延」という原理ならざる原理
   をもって、パロール(話し言葉)のモデル、さらには「ロゴス音声中心
   主義」を内側から解体していこうと」したのだという。
   批判とは、対象となるものを否定することではなく、その対象が成立し
   た根拠に遡り、新たな視点の地平を啓くことだというようなことを柄谷
   行人が何かで書いていた気がするが、デリダがやったことは、そういう
   批判なのだと思う。




・脱構築

「それは、パロールとエクリチュールといった古い二項対立の外で新たな概念
 を提示するのではなく、エクリチュールという「古名」を引き受けて別の文
 脈へとずらしながら接木していくといった形で実践されることになるわけで
 す。これまでとりあえず「解体」と言ってきたところ(鼎談での浅田彰の発
 言)は、このような「脱構築」として読み直していただかなければなりませ
 ん」(浅田彰)

「「脱構築」はそういうものではない。「構築」を批判しつつ、しかし「破壊」
 に走るのではなく、「構築」自体を可能にするとともにそれを揺るがせもす
 るさまざまな前提を明るみに出し丁寧に解きほぐしていくことこそが、デリ
 ダの言う「脱構築」だったのだ」(浅田彰)

   脱構築とは、歴史の中で構築されてしまい、何々であるとされている物
   事に対して、その土台から揺さぶりを掛ける方法のことを言うのだと思
   う。上の例で言うと、哲学の対象というパロールに対して、パロールと
   エクリチュールという、ふたつの概念(二項対立)を提示して、哲学そ
   のものの土台を揺さぶることを言うのだろう。また、例えば、フェミニ
   ズムと言ったときに、男と女という二項対立が自動的にもたらす権力の
   せめぎ合いを、フェミニズムという土台ごと、あるいは権力闘争という
   土台ごと揺さぶる方法。




・デリダの戦略

「(デリダは)ある種の二重の戦略の必要性を力説しています。僕がよく挙げ
 る例なのですが、 man(男)と woman(女)という二項対立があったとして、
 そこでは明らかに manが womanを暴力的に抑圧しているのだから、その二項
 対立を転倒し、 manに対して womanを復権しなければならない。
 しかし、 manと womanは実は Man(人間=男)という土俵に乗っているのだ
 から、そこで優劣を転倒しただけでは、ニーチェの言うように勝利した女が
 男になった自らを見出すだけという結果に終わりかねない。したがって、転
 倒と同時に、 Man(人間=男)という土俵自体を脱構築していかなければな
 らない、というわけです」(浅田彰)

「もっと一般的な例では、同一性に対し差異を復権するのはいいけれど、それ
 らはいずれも実は同一性という土俵の上に乗っているので、その同一性とい
 う土俵自体を「差延」へと脱構築していかなければならない、というわけで
 すね。一方では転倒が、しかし同時に他方では脱構築が必要だ ー これがデ
 リダの二重の戦略です」(浅田彰)

   脱構築とは、構築物を形作る構築材料を明るみに出し、その構築材料間
   の差異を見極めるものだと思うのだが、その作業の中には、あらかじめ
   「転倒」が含まれているのではないか。が、時として、脱構築は「転倒」
   させるものということのみが強調されてしまうことになる。だから、デ
   リダの二重戦略は、脱構築という方法自体を強調しようとすることにあ
   るのではないか。「転倒」は、むしろ、副次的なものとして取り扱われ
   ている。

   構造主義でいう構造と、脱構築でいう構築とは同じものなのだろうか。
   構造主義とは、ある現象を、その現象内のモノの関係性から読み解く方
   法ということだと思うのだけど、脱構築とは、そのように読み解かれた
   関係性に潜む問題(二項対立)を取り出して、ある現象自体を土台から
   揺さぶることであると理解するのだけど、だとすると、構造主義で読み
   解かれた関係性と、脱構築が批判する関係性は、同じものということに
   なるのではないか。いずれにしても、ある現象(ある物事)から関係性
   を読み解くという点が重要であることは間違いないように思う。

   二重の戦略という意味をぼくは捉え損ねているのかも知れない。脱構築
   と転倒ということが、どうしてもぼくの中で二重性として捉えられない
   のだ。あるいは「脱構築とは、構築物を形作る構築材料を明るみに出し、
   その構築材料間の差異を見極めるもの」という捉え方自体が間違えてい
   るのかも知れない。ここにある建築物がある。その建築物を脱構築する
   とは、何も建築物がどのような材料で作られているのかを吟味すること
   ではなく、そもそも、その建築物があるということから考えるというこ
   とであるのかも知れない。だとすると、二重の戦略とは、建築物自体を
   吟味しつつ(転倒)、この建築物自体が「ある」ということを考える仕
   方(脱構築)ということなのかも知れない。フェミニズム自体を考える
   のが脱構築であり、フェミニズムの構成要件である男女あるいは権力意
   識を考えていくのが転倒ということか。
   (以下のぼくの書いた文章には脱構築という言葉が頻出するけれど、意
   味はここで書いたように、ぼくの中では確定されたものになっていない)




・ディコンストラクション

「しかし僕自身は70年代後半に、ディコンストラクションは文学というより
 も、もっと一般的な形でやるべきだと考えるようになりました。文学作品な
 んてものはもともと決定不能に決まっているからです。決定不能性というこ
 とが意味をもつのは、それがまず決定可能的であると見えている対象や領域
 でなければならない」(柄谷行人)

「先ほどいったように、アメリカでは、ディコンストラクションは形式化され
 た。しかし、ディコンストラクションは歴史的なものであるがゆえにディコ
 ンストラクティブなのであり、それを越えて形式化されると逆に意味を失う
 のだと思うのです。具体的にいうと、ディコンストラクションは、米ソの二
 項対立、冷戦構造という歴史性の中で見るべきだと思います」(柄谷行人)

「なぜ冷戦時代に、文学が重要だったのか。あるいは、なぜディコンストラク
 ションは文学だったのか。それは別の言葉でいえば、想像力以外に、この二
 項対立を超えることはできないという現実があったからです」(柄谷行人)

「想像力は積極的に新しいなにかを立てるものではない。二項対立に対して、
 それらを拒否してまだ存在しない何かを目指すことが想像力です。デリダが
 エクリチュールについていうのはそのような想像力の擁護と同じです。たと
 えば、エクリチュールはパロールと違って、いったん書かれてしまえば、そ
 れ自体が書き手の意志をこえた意味を持ち、まさに「散種」するわけですね。
 書き手あるいは読者といった主体に還元、あるいは回収されないような独立
 性をエクリチュール(テクスト)に見いだすということは、たんに文学批評
 の問題ではないのです」(柄谷行人)

「しかし、1990年代以後にそれ(文学が存在する意義)はなくなったと思
 います。僕が「文学は終わった」というのは、文学を不可欠とするような世
 界構造がなくなったということです。もちろん、それは想像力が必要でない
 ような世界が出現したことを意味しない。その逆です。しかし、これまでの
 スタンスのままで「文学」をいうことはできない。文学を続けたかったら、
 むしろ、それを否定しなければならないのです。
 僕の印象では、デリダは90年代以後も、ディコンストラクションのスタイ
 ルを保持した。しかし、ディコンストラクションを続けたかったら、そのよ
 うなスタイルを放棄しなければならない。スタンスそのものの移動が必要だ。
 だから、僕はディコンストラクションではなく、トランスクリティークを提
 唱している。それはディコンストラクションの否定ではなく、その徹底化で
 あると考えてもらってもいい」(柄谷行人)

   脱構築とは、哲学にしろ、冷戦構造にしろ、現実に存在する歴史的に築
   かれた越えがたい二項対立を乗り越えるための方法論だということにな
   るのだろうか。だとすれば、歴史的に築かれたもの(強力な二項対立)
   がない現実に対して有効なのは、構築を脱する方法論ではなく、構築を
   目指す方法論ということになるのか。あるいは、そのような身も蓋もな
   い、それこそ想像力の欠けた認識自体を脱構築すべきなのかも(例えば、
   〈帝国〉支配下における世界に問題がないなどとは言えない)。柄谷行
   人が言っていることは、安易な脱構築は安易な現実対処の方法論にしか
   ならないということではないだろうか。

   アメリカにおける形式化された脱構築批評が、ただの形式でしかないと
   いうのは、本来、脱構築が持っているはずの土台から揺さぶる機能が失
   われているからではないだろうか。ある作品があって、その作品を成立
   させている構築物を取り出し、そこに二項対立なり、差異なり、差延な
   りを提示してみせたところで、それは単なる作品の腑分けにしか過ぎな
   くなるということか。まだ存在しない何かを想像力として目指すことと
   いう言葉を援用すると、ある作品に対しては、その目指しているものが
   どのように現れているのかということを見つけることが重要なのではな
   いか。

   埴谷雄高「精神のリレー」、大江健三郎「新しい人」が言っていること
   は、ここで柄谷行人が言っているデリダの「散種」と同様であると思え
   る。文学者たちが言っているのは「散種」の積極的な側面であるし、こ
   こで柄谷行人が語っているのは脱構築の積極的な側面であるのかも知れ
   ない。




・喪の作業

「そしてこの考察(「喪の作業」)をひとつの出発点として、デリダは、誰か
 について語ること(中略)と、誰かに向けて語るということは、根本的に異
 なることを強調します。「デリダはこういうひとだった。われわれはこうい
 うふうに会った」というふうに誰かについて語ることは、その「誰か」に対
 してはどうしてもコンスタティヴな、事実確認的なことになってしまう。そ
 れに対して、誰かに向かってパフォーマティブに、行為遂行的に語ることこ
 そ大切である。しかし、まさに友の死の後に、どのようにそうすることがで
 きるのか。デリダにとっては「喪の作業」そのものが、この事実確認と行為
 遂行という言語行為論の、基本的な二項性の脱構築の実践にほかなりません」
 (鵜飼哲)

   人が生まれて、他者と出会い、その他者と一緒に生きた時代があって、
   しかし、自分なり、その他者なりのどちらかが、先に死んでしまうとい
   う絶対的な事実がある。この絶対的な事実こそが、死者となった者のす
   べてのパロールをエクリチュールに変えてしまうということである。

   死者に対して語る言葉はどのような言葉であっても宛先のない言葉であ
   る。つまり、それは宛先には届かない。宛先には届かない言葉ではある
   けれど、その言葉は宛先とは違う場所で「漂流」を始める。かくして死
   者を本来的に宛先にする言葉は、パフォーマティブな言葉、行為遂行的
   な言葉にならざるを得ないということなのだろう。問題は、言語の方向
   性、あるいは二項対立としてある、コンスタティブ(事実確認的)とパ
   フォーマティブ(行為遂行的)ということである。「喪の作業」として
   語られる言葉は、この二項を同時に含むということになるのか。




・言語行為論

「しかし、その一方で、彼(デリダ)はオースティンの言語行為論を、20世
 紀最大の哲学的発見と言うくらい高く評価していましたから、デリダと英米
 哲学との関係も決して軽視できない重要なファクターだったと思います」
 (鵜飼哲)

   言語行為論とは、日常の場で、言語がどのように使われているかという
   点に着目したものであり、上記のように、コンスタティブ(事実確認的)
   とパフォーマティブ(行為遂行的)の両面がある。前者は、事実を述べ
   る行為であるが、後者は、事実を述べると同時にそこに話者の意志が色
   濃く反映される行為。つまり、前者は他者と共有する世界に対して、そ
   の共有を確認する行為であると言えるだろうし、後者は他者に対して世
   界の中で働きかける行為となるのではないか。だから、死者に語りかけ
   る言語は、必然的にパフォーマティブな言葉になるのだと思う。




・喪の作業

「ひとりの友が死ぬたびに、その友にとっての「世界」が死ぬばかりでなく、
 世界の全体が終わる。この本(『毎回唯一無比、世界の終わり』)の序文で
 彼は、「このような言葉を、私はひとつのテーゼを証明するように証明した
 いとは思わないしそんな力もない。しかし、親しいひと、たとえすでに関係
 が非常に悪化していても、そのひとが死ぬたびに、私は世界のすべてが終わ
 るという気持ちをずっと抱いてきた」と言っています」(鵜飼哲)

   この言葉を感傷的に受け取ってしまっては、多分、もっと大事なことを
   見落としてしまうように思う。ここでデリダが語っているのは、デリダ
   にとって世界とは、他者と生きる場所だということだと思う。他者と生
   きる場所として世界があるのではなくて、他者と生きることこそが世界
   ということ。だから、他者が去るたびに、その世界は終わるわけである
   し、また、脱構築から導き出される世界、差延の世界ということが成立
   するのだと思う。関係性。




・単数と複数

「デリダはマルクスやフロイトに対して敬意を持ち続けていた。しかし、単数
 の誕生・死といった、単数の出来事につねに抗い続けたわけです。(中略)
 歴史のラディカルな中断としての革命という理念は捨てられないけれど、
 革命を絶対化すると恐怖政治のような結果をもたらしてしまう。革命を救い
 たいなら(中略)革命の発想そのものを変える必要がある、と言っています。
 あるいはフロイトに関しても、絶対的なトラウマをもたらす単数の事件(中
 略)を前提したとたん、それは形而上学の暴力にとらわれるだろう。むしろ、
 最初の事件がすでにして反復であるような複数的な痕跡の場としてのエクリ
 チュールのモデル(中略)に即して、精神分析を考え直さなければならない、
 というわけです。単数の革命、単数の誕生・死、総じて単数の絶対的出来事
 の形而上学に抗い続けたデリダが、しかし他方で、友がひとり死ぬたびに世
 界そのものが終わると言う」(浅田彰)

   単数と複数が重なる場面があるのではないか。絶対的な単数の出来事を
   想定しまうと間違うけれど、しかし、世界がその度に終わるくらいの衝
   撃を伴う単数の出来事があることは否定しないということのように思う。
   つまり、エクリチュールは絶対的なものではあり得ないのだけど、しか
   し、そこにエクリチュールとなるパロールが存在してしまったことは否
   定出来ない、絶対的な単数性に満ちているということ。だからこそ、デ
   リダの他者に対しての弔辞集である本は単数の死の集積を複数として扱
   うものになったのではないか。
   デリダが恐れたのは、ある絶対的な単数の出来事を認めてしまうと、そ
   れが後の単数の出来事をすべて規定してしまうということではないか。
   そうなってしまうと、絶対的な単数の出来事の後に続くことは、絶対的
   なものが統べる流れとしての複数の出来事になってしまい、絶対的単数
   以後の単数の出来事の単数性は消去されてしまう。
   そういうことではなく、それぞれの単数性に対して、その都度の最高の
   価値を置けば、すべてが相対化されて、それぞれ絶対的な単数の出来事
   が、複数のものとして並ぶことになる。これを歴史と呼ぶべきなのでは
   ないか。




・マルクスの亡霊たち

「しかし、デリダが93年に『マルクスの亡霊たち』という本を出したことは
 やはり注目に値すると思います(中略)マルクスが死んだと言われている時
 点で、いや、マルクスには様々な亡霊たちがいて、その亡霊たちと対話しな
 がら「新しいインターナショナル」を構想することが必要なのだ、と言って
 みせる、それはまずパフォーマティブな効果において注目に値するでしょう。
 (中略)しかし、少なくとも現状分析において現代世界の10の苦境をリス
 ト・アップするところに関して言うと、デリダはけっこう経済的なレヴェル
 にまで目を行き届かせた分析をしているんですね」(浅田彰)

   最後のまとめの部分で詳しく書くつもりだけど、ある思想が歴史の中で
   役割を終えたりすることはないように、ぼくは思う。ソ連が崩壊して、
   冷戦構造に終止符が打たれた後も、世界の中にある苦境は解消されたわ
   けではないし、形を変えて、あるいはより先鋭化された暴力を伴って、
   依然として存在し続けている。マルクスの思想が一定の役割を時代に対
   して果たしたような力を持つ、新しい思想が待たれているにしても、そ
   れは無から生じるわけではない。マルクスなどの先行する思想からそれ
   は現れてくるのだろう。しかし、それはマルクスが消去されてしまうこ
   とではない。常に思想は後の時代で参照されるべきだし、また、安易に
   歴史の中に定着させてしまってはいけないのだ。
   デリダの「漂流」、「痕跡」、「散種」などの概念は、おそらく歴史の
   中に安易に解消されてしまわないエクリチュールの強さを信じることか
   ら生まれているはずだ。

   ちなみにデリダの書いた「10の苦境」は、「新しい失業」、「ホーム
   レスや亡命者・無国籍者・移民の問題」、「先進国間での経済戦争」、
   「自由な市場をめぐる矛盾の激化」、「累積債務問題」、「軍需産業や
   軍備の売買」、「核拡散問題」、「エスニック・グループ間の紛争」、
   「ドラッグ・カルテルに基づく幽霊国家」、「国際法、国際機関の問題」




・経済・贈与・倫理

「一方、デリダも、資本主義的な交換でもなく、国家が行う収奪と再分配でも
 ないものを、贈与をきっかけに探ろうとしていたことは事実だと思います。
 (中略)その場合、彼はやはり哲学者なので、贈与を厳密に考え、与えられ
 るものを与えることは真の贈与ではない、与えられないもの ー 早い話が自
 分の持っていないものを与えるからこそ贈与だという、アポリア的な論理を
 持ち出してくるんですね。別の文脈で言えば、赦せることを赦すのは真の赦
 しではない、赦せないことをあえて赦すからこそ赦しなのだ、と。こういう
 アポリア的な論理を追っていくと、柄谷さんの言う経済の問題より、倫理の
 問題に近づくということは、否定できないでしょう。(中略)それに付け加
 えて一般的に言えば、考えられることを考えられる範囲で考えることと真に
 考えることは違うということを、後期のデリダは繰り返し強調していました。
 (中略)カントのいうアンチノミー、あるいはアポリア一般に直面し、判断
 不能なところで判断することこそ哲学だというのが、デリダの一貫したスタ
 ンスだったわけです(むろん、ここでたとえばカール・シュミット的な決断
 主義との差異が重要な問題になるわけですが)」(浅田彰)

「先ほど浅田さんからデリダの贈与論について、持たざるものを与えるという
 話がありましたが、デリダは、それまでの哲学の一般的な問題の立て方とは
 違い、存在からも所有からも、あるいは行為からも問題を出発させてはいま
 せん。「あえていえば、持たざるものの贈与から」ということです。これは
 新プラトン主義のプロティノスからきている考え方で、デリダだけでなく、
 ラカンもハイデガーも、それぞれの思想のかなり重要な局面でこの発想に依
 拠していますから、そういう意味ではプロティノスは西洋思想史の隠れた鉱
 脈のようなものでしょう」(鵜飼哲)

   経済というのはとても不思議なものだと思う。ぼくはほとんど経済を知
   らないのだけど、ここで浅田彰が語っている流れは(この発言の直前の
   柄谷行人の発言とともに)良く理解出来る気がする。経済的な問題は、
   数学的な問題の意匠をまとうけれど、究極的には人為的な問題、倫理の
   問題に行き着くものだと思う。ここで紹介されているデリダの贈与から
   赦しに至る問題は、経済問題の範疇から形而上学的に遠ざかってしまっ
   ているのではなく、むしろ、とても近づくのではないかという気さえす
   る。スマトラ沖地震での津波被害で寄せられた世界中からの寄付、ある
   いは国家による無償の援助などの大きな動きを見ていると、あるいは全
   く逆に倒産を救うために銀行が借金の棒引きをしたりする経済的活動を
   見ていると、経済には贈与による一方的な流れがあることも容易に感じ
   ることが出来る気がするのだ。

   哲学が判断を求めているかは、ぼくとしては疑問なんだけど(浅田彰は、
   だから、注のようにして決断主義との差異、と書いていると理解するの
   だけど)、しかし、判断に至るために考え続けるというスタンスは重要
   だと思う。そのためには考えること、デリダの言うように、考えられな
   いことまで考えるということが、方法として、とても重要なんだと思う。
   そのように考え続ける果てに、判断や決断があるかは判らないが、(柄
   谷行人の言う想像力として)そのようなものを仮象することも、また重
   要なんだと思う。そのために倫理問題はやはり必須だと思う。

   鵜飼哲が語っている「あえていえば、持たざるものの贈与から」という
   言葉には、単数性、複数性の問題に行き着く道筋があるのではないか。
   一般化して思考する形での哲学とはやはり異なるし、ここではそれを拒
   否しているようにさえ思えるのだ。つまり、所有とは何かとか、贈与と
   は何かという一般的な形で考えるのではなく、今、ここにいる持たざる
   私が贈与するとして誰に何を与えるのかという単数性の問題に行き着か
   ざるを得ない局面が(スマトラ津波のような形で)あり得るし、それを
   考えなければ無意味であるということなんだと思う。




・ならずもの国家

「デリダは、アメリカの政治家たちが「ならずもの国家」という表現を乱用す
 るようになった2003年に『ならずものたち』という本を書き、そのなか
 で、イラクや北朝鮮のような国家を「ならずもの国家」と言うけれど、そも
 そも、主権というのは生殺与奪の権であり、そうした生殺与奪の権を独占的
 に持っている主権国家はすべてならずものなのだ、と明快に断定します。そ
 のような「主権」を脱構築することが、後期のデリダの大きな課題であり、
 われわれに残された課題でもあると言えるでしょう。(中略)二重の戦略に
 支えられている。一方で、主権国家の集まりではあるがとりあえず国連や国
 際法秩序を重視しよう、しかし他方で、主権というものを脱構築し、国連や
 国際法秩序を主権国家の集まりという枠組みから自由にして深めてゆくこと
 が重要なのだ、というわけです」(浅田彰)

   贈与なり倫理なり、人間のあるいは人間社会の倫理的側面に頼らなけれ
   ばならないものが実現するためには、柄谷行人が言うように、その中に
   入れば倫理的に振る舞わざるを得ないシステムが追求されるか、それと
   も倫理的なものに端的に力を与えるかしかないのではないかと思える。
   国連、国際法秩序が、個々の主権国家より力を持てば、当然、主権国家
   個々の振る舞いは規制される。しかし、問題は、そのような国連の形、
   国際法秩序の仕組み自体が主要な主権国家の間で取引きされ、取り決め
   られてしまうということにある。どのようなシステムが構築されるべき
   なのか。今後の仮象対象はこれに尽きるように思う。
   あるいはバチカンのような信仰による国家というのものがひとつの大き
   な前例になるのではないか。問題は、世界を覆い尽くすそのような共通
   の価値観が存在するのかということ。もしくは、そういうものを構想出
   来るのかということ。誰がどこでいつ。




 デリダという思想家をどのような量の文章であってもコンパクトにまとめる
ことは不可能だと思う。いや、デリダが偉大な思想家だから無理だというので
はない。ある人間の一生の流れ、思想の流れを記述することは無理だろうとい
うこと。日本を代表する現代思想家である柄谷、浅田、鵜飼の3氏が鼎談とし
て語り合ったのも、語り合えたのも、デリダの生涯の、デリダの思想のほんの
断片にしか過ぎないと思う。しかし、この知性たちが語り合ったからこそ、デ
リダの思想の大まかな影のようなもの、ボヤッとした輪郭のようなものが浮き
出てきたのも確かだと思う。その影の中、輪郭の中に入ってしまえば、底なし
のブラックホールのような場所でしかないのだろうが、そこに入っていこうか
なという勇気がわいてきたのも確かだった。

 現象学、唯物論、弁証法、構造主義、ポスト構造主義、脱構築。様々な哲学
用語、思想用語があって、その言葉のどれもが、(デリダのように)やはりブ
ラックホールのような巨大な口を開けている。これらの言葉を哲学、思想の歴
史の中に並べて、これはこう発展的に進化して、この用語になった、だから、
この言葉はすでに歴史の中でその役割を終了しているというような捉え方も、
もちろん出来るのだろうが、でも、ぼくはそういう哲学、思想の精神史のよう
な並べ方は好きではない(本来、好き嫌いの問題では語り得ないことを、好き
嫌いの問題として語ることが出来るのが素人の特権だ)。
 歴史の中で役割を与えられるような用語は、歴史の流れの中で突然に役割を
与えられたり、また突然に役割の終了を告げられるのが実際かも知れない。し
かし、ある状況にのみ即した哲学、思想の言葉というのはあるのだろうか。哲
学、思想の言葉は、他の言葉にも増して、言葉の背後に蔵する概念の体系は、
膨大であり、無量ですらあるかも知れないのだ。現実を舐めているわけではな
いし、形而上学的迷宮を信じているわけではない。そういうことではなく、あ
る言葉が歴史の中で解消していくということが、そういう言葉の捉え方が嫌な
のだ。だから、ぼくはどの言葉も(ぼくの人生の中でという意味でしかないこ
とは承知しているが)現在の言葉、現在の問題に直結しているものとして捉え
ているし、捉えていたいと思っている。
 これら、輪郭すら、影すらつかめないものもたくさんある言葉の中で、しか
し、脱構築は、ぼくに取って、とても特別な言葉になっているということが確
かにある。

 ぼくにとって脱構築とは、判断を保留し続けること、どこまでも判断を確立
しないこと、常に揺れた状態を保つこという態度に直結する言葉としてある。
 政治的態度が判断すること、判断を確立してしまうこと、とにかく決定して
進むこと、という態度だとしたら、ぼくにとって脱構築は、それに抗うたった
ひとつの方法ということになるのだ。
 無論、デリダはそうではなかった。政治状況に無関心であったわけではない
し、常に世界を飛び回り、様々な状況に積極的に関与していたが、この鼎談の
中で語られているように、それは単純な政治的決定というところからは極めて
遠い立場での政治的活動だった。
 ぼくは自分をデリダに擬するわけではない。が、ぼくも政治的に決してイノ
セントでありたいと願っているわけではないのだ。そういうことではなく、政
治的な決定が嫌なのだ。決定するための根拠を考え続けていくことこそが政治
的活動であると信じている。浅田彰が鼎談の中で繰り返し語っていたデリダの
二重の戦略ということを、ぼくはとても心強く読む。

 脱構築という概念は他の哲学的、思想的概念に比して、とても捉えにくい概
念だと思う。直観的には掴める気がするのだけど、しかし、それを言葉で語ろ
うとすると大事な側面がポロポロと抜け落ちる気もする。鼎談の中で柄谷行人
が語っているように形式としての方法としての脱構築には何の意味もなくなっ
てしまうのだろうと思う。脱構築を考え続けること自体が、あるいは政治的活
動という側面を持つのかも知れない。

 杜撰な知識と杜撰な文章と杜撰な引用と杜撰な思考でとりあえず書いてきた
が、とても勉強になったように思う。自画自賛。

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