鑑賞記 『シド・アンド・ナンシー』






・映画『シド・アンド・ナンシー』               05/11/10
 1986年イギリス
 監督アレックス・コックス



 セックス・ピストルズとか、パンク・ロックとか、シド・ヴィシャスとか、
名前は聞いたことがあるが、どういうものかはほとんど知らなかった。この映
画は、ぽすとれんたるで予約を入れて借りたものだけど、どうして予約を入れ
たのかすらも忘れていて、多分、酔ったときに面白そうと思ったのだろう。

 確かに、面白い映画だった。イギリスのパンク・ロックがどういうものだか
判った気がしたし、シド・ヴィシャスがどういう若者だったか判った気がした
し、ナンシーというアメリカ女がどういう人間だったかも判った気がした。
 更に、破滅的な(イカレタ)生活を続けることの意味、あるいは無意味さが
判ったような気さえした。

 若者たちが社会に差別や抑圧を感じ、それに対抗するためにイカレタ若者に
なるということが、何となく、常識的見解のようになっていて、だから、社会
の側が若者に対して理解とか歩み寄りとか救済とか教育とか、あるいは逆に、
厳格とかしつけとか厳罰とかを科せば良いのだというように、いずれにしても、
社会と若者の対抗軸で考えがちになってしまう。この対抗軸がうまく機能すれ
ば、すべてが綺麗に解決するのだというようにすら考えてしまう。
 無論、そういう側面で考えるべき問題であることも確かなんだけど、この映
画の中でのシドとナンシーの姿を見ていると、そういう対抗軸とは全く無縁な、
別種の生き方があるように思えてくる。

 社会と若者という対抗軸で考えた場合、大部分の若者がどんなにイカレタ青
春時代を送ろうとも、それぞれが社会の中に居場所を見つけて次第に順応して
いくということになるわけで、それは社会の側から、若者の側から、互いに配
慮するということをしているから可能になることである。
 つまり、若者の側は社会に順応しようとして社会の側を配慮するし、社会の
側もイカレタ若者が最低限のルールさえ守れば社会の側に受け入れようと配慮
する。大体の人間はそういう過程を通して大人になるし、社会の側も大体がそ
ういう過程を通して新たな若者を社会に向かい入れることで、緩やかな変化を
続けていく(商業的に成功しているロックバンドとかパンクバンドとか、その
存在自体に矛盾があるように思えるわけだけど、この互いの配慮という点から
考えると、とても納得のいく存在になるように思う)。

 けれど、この映画のシドとナンシーにはそういう気持ちは微塵もない。時々、
フッと社会に適応しようと努力を始めたりもするが、それは決して長続きする
こともなく、社会にはおろか周囲のイカレタ若者たちからも見捨てられるよう
なイカレタ生活を続けてしまうことになるわけだ。

 個人が個人として、その個人の嗜好をとことん突き詰めていけば、この映画
のラストのようにならざるを得ないだろうと思う。麻薬中毒のすえた匂いのす
る一室でナンシーは刺殺されるし、シドは、とてもとても若い年齢で麻薬中毒
で急死してしまう。「社会的に見れば」、こんな無意味な死はないし、生の浪
費はないはず。害はあっても利はないということになる。
 ぼくの周囲にこんなイカレタ若者がいたら顰蹙で眉をひそめるし、出来れば
早く死んでしまえと願いもするだろう。

 だけど、このふたりの恋愛が、通常言われる恋愛を煮詰めて煮詰めて底の方
に少しだけ残った純粋な結晶として存在するような完全な恋愛を生きたように
見えてしまうのも確か。社会はおろか他者をも全く必要としない完全に充足し
た世界。

 かつて、人間は球形をしていて、そこには男女の区別がなかったという。あ
るとき、その球体がふたつに割れて男女の別が出来たという。それ以来、人間
の男女は、自分のもう半分を探して、完全な球形の人間に戻ろうとしている。
 澁澤龍彦のエッセイにそういう内容のものがあったと思う。シドとナンシー
の恋愛は、そのもう半分の自分に出会えた、とても幸運なケースだったのでは
ないか。

 その人生の最期がどんなに意味のない詰まらないものであったとしても、そ
んなことは単に「社会」から見られる姿であって、このふたりがどのように恋
愛したか、どのように完全な充足感を持っていたかは、「社会」からは全く判
らないのだ。

 この映画は、そういう意味で、見る側に社会に対する配慮よりも、恋愛相手
との恋愛の充足度をのみ考えさせるような内容になっている。反社会的と言え
ば、この上なく反社会的な映画なんだけど、しかし、社会の側は心配する必要
はない。
 こういう生き方は、選ばれた人間にしか出来ないし、大概のイカレタ若者も、
このシドとナンシーのような生き方を生きることは出来ない。社会の側から全
く配慮されることがなくても、いつのまにか、イカレタ頭をふりしぼって懸命
に社会に対して配慮をするようになってしまうものなのだから。

 この映画のラスト、とても幻想的なシーンがある。誰からも見捨てられた麻
薬中毒のシドがふらふらと街の外れを歩いていたら、イエローキャブに乗った、
死んだはずのナンシーがやってくるのだ。ふたりは、そのままイエローキャブ
でどこかに走り去るのだけど、ここまで社会や他者を拒否出来る恋愛がとても
羨ましいものに見えてしまう。

 こういう恋愛の形を社会はもうひとつ知っているはずだ。ジョン・レノンと
オノ・ヨーコ。社会の側の顰蹙度ということでは、こちらのカップルも負けて
いない気がする。シドとナンシーのカップルとは真反対に位置しはするが。




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