感想『鹽壺の匙』





     「鹽壺の匙(しおつぼのさじ)          96/01/10 22:38
      
車谷長吉  
「鹽壺の匙(しおつぼのさじ)」
新潮文庫 480円



 
   
「なんまんだあ絵」、「白桃」、「愚か者」(死卵・抜髪・桃の木の話・トラ
ンジスターのお婆ァ・母の髪を吸うた松の木の物語)、「萬蔵の場合」、「吃
りの父が歌った軍歌」、「鹽壺の匙(しおつぼのさじ)」
   
 私小説です。短編集です。
   
 例えば、ある程度大きくなると、家の事情を父や母から重大な秘儀を明かす
ようにして聞かされると言う経験がある。それは、祖父の出自の秘密であった
り、血が繋がっているとばかり思っていた祖母が実は後添えであったと言う事
だったり、父の弟は海外にいるのではなくて、実は刑務所で服役しているのだ
と言った事だったりする。(以上の例はフィクションです)
 それらの話しは、自分が幼い頃からの親戚の集まりなどのたびごとに「大人
の会話」として密やかに語られる事を聞くともなしに聞いてしまうと言う事に
よって、何となく判っていた事だったりするのだが、更めて事実として親から
もしくは近親者から聞かされると変な気持ちがする。
 この「変な気持ち」と言うのが問題であって、自分の「血」と言うものを意
識すると言う事であったり、または、「血」を越えた「家」、「一族」と言う
ものに拘束されている自分と言うのを感じたりすると言う風だったりもする。
 その事が嫌で、嫌で、たまらなくなり、「家」を出たりするのだが、自分の
癖やしぐさに、親や親戚のだれそれの影を見つけてしまったり、自分の子供に
やはり、色濃く現われている「一族」の特徴を見つけてしまったりして愕然と
する経験がある。
 逃れようの無い「自分」と言うのが確かにあるのだと思い知らされる経験と
して。
 この小説集には陰惨なほどの「一族」の「在りよう」が書かれます。それは
祖父の事であったり、祖母の事であったり、父や母の事であったり、弟の事で
あったりします。また時には、同じ村に住む「だれそれさん」、「なになに君」
の事であると言う、拡張された「一族」のつながりとしての「在りよう」とし
て現われる事もあります。
 「在りよう」とは、自分の中で消化できない異物のような記憶であるように
思われます。もしくは自分で背負いきれない「一族」の重さと言う事でもある
ような。その記憶や重さが陰惨なものであればあるほど、自身の中でそれらは
居場所を探して彷徨します。その彷徨は自身の心を乱します。その乱れを解消
させるには、その記憶や重さに、どこか場所を与えないといけません。それが、
つまり私小説を書かざるを得ないと言う事の理屈ではないかと考えました。
 私小説と言うのは、その自分の中の「一族」を書く事なんだと思ったわけで
す。それは、そういう境涯が良いとか、悪いとかを書くと言う事だけではない。
良い、悪いではなく、それにとらわれている自分を書くと言う形としてある。
また、たとえ自分の事しか語らないと言う事であっても、つまり、親も兄弟も
親戚もその中に直接的に書かれないにしても、「一族」を出自とする「自分」
にこだわると言う事で私小説が「一族」を書くと言う事になり得ると思いまし
た。
   
 車谷長吉は、このそれほど厚くない私小説集を二十年かけて書いたそうです。
ぼくは、その時間と執念に対して賛嘆します。
   
 あとがきに書いています。
   
 「 詩や小説を書くことは救済の装置であると同時に、一つの悪である。ことに
  も私小説をひさぐことは、いわば女が春をひさぐに似たことであって、私はこ
  の二十年余の間、ここに録した文章を書きながら、心にあるむごさを感じつづ
  けて来た。しかしにも拘わらず書きつづけて来たのは、書くことが私にはただ
  一つの救いであったからである。」
   
 この境涯は、遠い。あまりにも言葉として重い。しかし、「書くことが私に
はただ一つの救いであったからである。」との言葉に、自分なりの共感をよせ
たいと思います。







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